幕府の蝦夷地直轄・背景・経過と松前藩の代地・移封及び復領
(わかりやすく一覧にした)

Ⅰ.【前期幕府直轄】

1.東蝦夷地ウラカワ以東の仮上知・・寛政11年1月16日
<背景と経過>
・寛政元年クナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起、同4年ロシア使節ラックスマンの来航
・寛政8・9年ブロートン指揮する英国船プロビデンス号内浦湾へ来航・・幕府は、蝦夷地対策の具体的行動を迫られた。
・寛政10年3月、目付渡辺久蔵らに蝦夷地巡見を命じる。11月帰府、幕府に詳細を報告。
・幕府、蝦夷地直轄の方針を固め、同年12月、書院番頭・松平忠明に「蝦夷地御用」を命じる。
・寛政11.1.16・・幕府、東蝦夷地を当分の間試みに上知する旨松前藩に通達。
・寛政11.2.11・・上知の期間を7ケ年、範囲をウラカワよりより知床及びクナシリまで)試みに仮上知する旨、松前藩に通達。

2.シリウチ川以東の追上知・・寛政11年8月12日
・同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
<背景>
・幕吏の松前藩支配下の東蝦夷地通行の負担が増大し、東蝦夷地の領有がかえって負担になるという状態にみまわれた。
・いずれ箱館を含む和人地も上知の対象となることを予測し、少しでも有利な条件を手に入れるため、先手を打ったという見方もある(松前町史)
・寛政11年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
・同年.9.28・・幕府、代地5000石の地として武蔵国埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2年7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中閏戸(なかうるいど)村、根金(ねがね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実ケ谷(さねがや)村(現埼玉県南埼玉郡白岡町のうち)
・久喜村(くき)、所久喜(ところくき)村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下早見(しもはやみ)村、樋口(ひくち)村(現埼玉県久喜市のうち)
○享和2.2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。

3.東蝦夷地の永上知・・享和2年7月24日
<背景と経過>
・箱館奉行、幕府に対し、松前藩が蝦夷地警備に何ら力を注がないとして、
①「蝦夷東西一円永上知」
②「東蝦夷地のみ永上知、西蝦夷地は松前家に任せ、成績があがらなければ、残らず上知」の二案を建議。
・享和2年.7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。永上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。
・松前藩の財政は、大きく圧迫された。

4.蝦夷地一円の上知・・文化4年3月22日
<経過>
・文化4年.3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げ、新規9000石下付され。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の梁川移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十沢(いさざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余
総領知高 18,626石余
○文化4年.10.24・・幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

Ⅱ.【松前家の復領】・・文政4.12.7
○文政4.12.7・・幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。
<背景>
・表面の理由は、幕府の蝦夷地直轄の結果、取締、アイヌ人撫育、産物の取捌きなどが行き届くようになり旧家格別の儀をもって、むかしのとおり松前蝦夷地を領有させる。
・その裏面は、水野忠成(ただあきら)が、松前氏の運動をききいれたことがある。水野忠成のそうさせたのは、当時の北辺防備意識の衰退があった。

Ⅲ.【後期幕府直轄】・・安政2.2.22
○嘉永7.6.26・・幕府、箱館および同所より6里四方を上知。
○同年.6.30・・幕府、箱館奉行を置く。
○安政2.2.22・・幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上  知させ、箱館奉行の管轄とする。
<背景>
・嘉永6年7月、ロシア使節プチャーチン来朝、境界の決定と和親通商を請求。
・同年8月、ロシア兵、クシュンコタン占拠。
・嘉永7年3月、日米和親条約締結。箱館開港が決まる。

○松前藩・・福山城下および東部木古内村以西、西部乙部村以南は、松前藩として残った。
・松前藩、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。

Ⅳ.【松前地の一部返還】・・元治元年11月19日、乙部~熊石の8ケ村が返還される。
○元治元年(1865)7月7日・・松前崇広(たかひろ)(松前藩12代藩主)、老中格陸海軍総奉行に就任、同年11月10日、老中となった。
○同年11月19日、乙部~熊石の8ケ村が返還された。

◎幕末の蝦夷地は、
①東部・木古内村以西、西部・関内村以南が松前家所領
②それ以外は、幕府直轄領

附1【明治維新と松前】
<版籍奉還まで>
・慶応4.9.1・・松前藩、館(たて)村(現桧山郡厚沢部町城丘)に築城開始
・明治元年10.25・・完成
・同年11.3・・松前藩13代徳広、館城に入城
・同年11.11・・徳広、榎本軍の襲撃で、館城を出る
・同年11,19・・関内から津軽へ逃れる
・同年11,29・・徳広、弘前で死去
・明治2.1.9・・修広(ながひろ)14代襲封(しゅうほう)
・同年4.9・・新政府軍と松前藩兵(修広)、乙部上陸
・同年4.17・・福山奪還
・同年6.24・・修広、版籍奉還。松前藩は、館藩と称し、修広、館藩知事に任命される。
 所領は、渡島国福島、津軽、爾志、檜山の4郡。(明治14.7.8福島郡と津軽郡は、合併し松前郡と改称)
<開拓使移管まで>
・明治4.7.14・・廃藩置県で、館藩は、「館県」となる。
・同年9.9・・館県、「弘前県」に併合(9.23・・弘前県は、「青森県」と改称)
・明治5.9.20・・「青森」県の渡島国4郡(旧松前藩領)を開拓使に移管。

附2【明治維新と箱館・蝦夷地】
・慶応4.4.12・・新政府、箱館奉行所を接収、箱館裁判所を設置。
・同年閏4.24・・「箱館府」と改称。清水谷公考(きんなる)、府知事となる。
・明治元年10.25・・清水谷、箱館を退去、青森へ移る。
・同年12.15・・榎本軍、全島平定
・明治2.5.11・・政府軍、箱館進撃
・同年5.18・・榎本軍降伏
・同年7.8・・開拓使設置(7.24・・箱館府廃止)8
・同年8.15・・蝦夷地を北海道と改称し、11国86郡を置く。
・同年9.25・・東久世長官、箱館着。
・同年9.30・・箱館に開拓使出張所を開庁。


【主な参考文献】
・『新北海道史』
・『新北海道史年表』
・『松前町史』