森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2010年12月

煤払ひ神官畳めった打ち 林徹(はやし-てつ)

煤払ひ神官畳めった打ち 林徹(はやし-てつ)

 

神仏に仕える者は、生き物を慈しみ、殺生などはしない。生き物ばかりでなく、万物を大切に扱う。もちろん、暴力などしない。ところが、煤払いは、別だ。神官や氏子も集まって、本殿の大広間に敷かれた畳を篠竹で、1年のほこりをたたき出す。「めった打ち」だから、なまはんかな打ち方ではない。孫に揚句を聞かせたら、「ストレスの解消になるかもね」との感想。

煤払いは、煤掃き、煤取り、煤納めともいい、古くは師走の13日に行われた年末恒例の行事。煤は、物が燃える際に、煙とともに出る黒い炭素の微粒子。昔は、燃料といえば、炭や薪だったから、煤払いは欠かせなかったが、殊にお正月を迎える準備のこの時期の煤払いは、単に衛生上のためではなく、すべてを清める宗教的な行事でもあった。

 畳を叩いてほこりを出すことは、私は、2枚の畳を三角状に持たせかけて、竹で叩いた記憶がある。畳を揚げると、隙間から、硬貨が出てきて、人に見られないように、こっそりポケットにしまったことも思い出す。ことわざに、「煤掃きに出る」というのがあるが、転じて、「ほおって置いてもなんとかなる」の意となる。
作者の林徹は、1929(大正15)年生まれで、2008(平成20)年、大腸ガンで死去した。享年82.金沢、浜松、広島の鉄道病院に勤務した耳鼻咽喉科の医師。

八里半(はちりはん)

八里半(はちりはん)

ある新聞で、サツマイモのことを「味が栗(九里)に近いというしゃれで、八里という名前の芋もあったとか」という記事を読んだ。で、調べてみました。
『国語大辞典』に、
「サツマイモの異名。また、焼芋をいう。栗(くり)を九里(くり)に掛け、それに近くおいしいという意でしゃれた語。多く、焼芋屋の看板などに書かれた。十三里。」
とあり、用例として、
「*浮世草子・心中大鑑〔1704〕二・一八里半といふ芋、栗に似たる風味とて四国にありとかや」
「*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕三・下お芋お芋。ムム八里半(ハチリハン)か」
「*風俗画報‐四一号〔1892〕飲食門「焼芋屋の店頭(みせ)に出せる方行燈(かくあんとう)に八里半としたたむるは」
をあげている。
また、方言も記載されており、
《はちりはん》大阪、香川県三豊郡
《はちり〔八里〕》肥前、長崎県南高来郡《はちる》長崎県南高来郡
《はちん》長崎県一部
《ばちり・さつまばちり〔薩摩八里〕・あかはちり〔赤八里〕・あかぱちり・あかばちり》肥前
《はっちゃん》長崎県一部、鹿児島県

なお、説明に別に、「十三里」ともいうことが記載されていたので、それも前掲辞典で調べた。
それによると、「(「栗(九里)より(四里)うまい」のしゃれから)さつまいも。また、焼芋(やきいも)をいう。十三里芋。」とあり、用例として、
*随筆・宝暦現来集〔1831〕五「寛政五年の冬本郷四丁目番家にて、初て八里半と云ふ行燈を出し、焼芋売始けり。〈略〉其後小石川白山前町家にて、十三里と云行燈を出候、是も亦右焼芋なり」
*随筆・守貞漫稿〔1837~53〕四「京坂にて是に十三里と書るあり。栗より味うまきの謎也。従栗九里四里和訓近し」
*風俗画報‐四九号〔1893〕飲食門「小石川白山前の町家にて十三里といふ行灯を出し」
をあげている。

道立文書館古文書自習プログラム 上級6の5 『樺太概覧』その2

上級6~⑤注                                 

 

(1-1)「雑居規則」・・慶応3年に、日本とロシアの間で仮調印された仮条約。樺太における日露国境画定のためにロシアに派遣された箱館奉行小出秀実と目付石川利政ロシア外務省アジア局長ストレモウホフとの間で交渉を行った。旧歴2月25日(西暦3月30日・露暦3月18日)にサンクスペテルブルクにおいて仮調印されたが、日本は条約の一部条項の承認を拒絶し、その旨ロシア領事に通告した。結局、樺太における国境を画定することはできず、樺太はこれまで通り両国の所領とされた。

日本側が拒否した内容は、樺太全島をロシア領としたこと(第1条)、ウルップ島、チルポイ島、ブラツチルポイ島、ブロトン島 を日本領としたこと(第3条)であった。

結局、樺太の国境画定は、明治8年における、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結まで、両国間に懸案として残された。

(1-4)「ある」<文法の話>・・ラ変動詞「あり」の連体形。住んでいる、暮しているの意。もともとは、「昔、男ありけり」(『伊勢物語』)などのように、人・動物も含めてその存在を表したが、現代語では、動きを意識しないものの存在に用い、動きを意識しての「いる」と使い分けているから、本文書の「島中にある両国人民・・」の「ある」は、違和感がないでもない。が、人でも、存在だけをいう時には「多くの賛成者がある」とか、「我思う。故に我あり」などのように「あり」「ある」ともいう。

(1-5)「慮(おもんばか)り」・・「オモヒハカリ」の撥音便(はつおんびん。「に」「ひ」「び」「み」「り」が鼻音になること。ひらがなでは「ん」で表す)。よくよく考えて、思いめぐらしての意。

(1-5)「永世(えいせい)」<漢字の話>・・「世」を「セ」と読むのは、漢音。「世界」「世帯」など。「セイ」は呉音。「世紀」「世嗣」など。「永世」の「世」は、呉音で「セイ」と読む。

(1-7)「議定(ぎてい・ぎじょう)」・・評議して決めること。「テイ」は漢音。「ジョウ」は呉音。

(1-7)「大君(たいくん)」・・江戸時代、外国に対して用いられた徳川将軍の称号。中国の『易経』に、みえるもので、いずれも天子を指す。この称号がわが国で外交文書に使用されたのは、徳川3代将軍家光の時、寛永13年のことで、寛永元年の朝鮮国王への書翰中の将軍署名「日本国源家光」に対馬藩が独断で「王」を加えて(「日本国王」)送ったことが原因であった。そこで「日本国大君」の称号に変更し、寛永13年の朝鮮からの国書にはじめてこの文字を使用させた。これが6代将軍家宣の時、新井白石の意見により一時中止され、「日本国王」と改められた。中国では大君は天子の称であり、朝鮮では王子の嫡子の称であるというのがその理由であった。しかし8代将軍吉宗は日朝外交の体例を五代綱吉の時のものに戻したから、以後、再び「日本国大君」の称号が用いられ、幕府滅亡に至るまでは欧米諸国との外交文書にもこの称号が使用された。本文書当時の「大君」、つまり、徳川将軍は、15代慶喜。

(1-78)「日本大君之使節」・・いわゆる小出使節団。慶応2年、幕府は、樺太国境画定交渉の遺露使節団の代表正使として小出秀実外国奉行兼箱館奉行をロシアへ派遣した。副使はのちに最後の北町奉行となる石川利政である。同年1112日、横浜を出発、1212日、ペテルブルク着、1230日から翌年27日までに、ロシア外国事務参政アジア局長スツレーモフと9回にわたり交渉した。225日、日露間樺太島仮規則が仮調印された。途中、プロイセンのオットー・フォン・ビスマルク宰相やナポレオン3世と謁見し、第2回パリ万国博覧会に参加している。このとき使節団に随行したのが、榎本武揚、山川浩志などである。箱館奉行同心・志賀浦太郎もロシア語通訳として随行している。

(1-8)「サンクト ヘチュルブルク」・・サンクト・ペテルブルク(Sankt Pjetjerburg )。ロシア連邦北西部、フィンランド湾奥のネバ川河口にある都市。1703年、ピョートル大帝によって建設された旧ロシア帝国の首都。1914年ペトログラード、24年にレニングラードと改称されたが、91年現名称に戻った。モスクワに次ぐロシア第2の都市で、造船・兵器・繊維などの工業が盛ん。冬宮・エルミタージュ美術館などがある。ペテルブルク。ペテルスブルク。

(1-11)「シレタトル」・・長官。Secretory

(1-11)「タニーソウエッニク」・・ロシアでは、名前は、名前全体を言う正式名としては、「名・父称・姓」の三つをこの順に並べて言うから、(例 アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ=カラマーゾフ家のフョードルの息子アレクセイ、の意。)ここでいう、「官名」は、ロシアの「父姓」のことか。

(1-12)「スツレモーホフ」・・Stremauhovストレモウホフとも。彼は、明治8年の樺太・千島交換条約締結の際にも、ロシア側代表であった。

(1-12)「報答(ほうとう)」・こたえること。返事。

(1-12)「巨細(こさい・きょさい)」<漢字の話>・・くわしいこと。「巨」を「こ」と読むのは、慣用音(日本で昔からつうようしている字音)。「巨燵(こたつ)」、「巨摩(こま。山梨県の郡名)」など。「巨」は、万葉仮名(乙類)の「こ」でもある。

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東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注 P9~10

(9-2)「未ノ上刻(ひつじのじょうこく)」・・「未」は、およそ午後1時から3時の間。一時(いっとき=二時間)を三分したその初めの時間だから、「未ノ上刻(ひつじのじょうこく)」は、およそ、午後1時から2時の間。

(9-2)「麁絵図(そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。「麁」

 は、「麤」(33画)の俗字で、あらい(粗)、大体の意。

(9-6)「遥(はるか)に」<漢字の話>・・影印の右側を、「宀」+「缶」と書く字は、「遥」の異体字。

資料5.(柏書房刊『音訓引 古文書大字叢』)   資料6.東京手紙の会編思文閣出版刊『くずし字辞典』)

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なお、「遥」は、昭和56年に人名漢字に追加された。その際、「シンニョウ」は、「1点シンニョウ」に字体整理された。旧字体の「遙」は平成16年に人名漢字に追加されたが、「シンニョウ」は、「2点シンニョウ」のままとなっている。

(9-9)「うす(薄)ろぎ」・・減ってゆき。「薄(うす)ろぐ」の連用形。

(10-9)「新井田嘉藤太」(にいだかとうた)」・・松前藩士。当時の列席は准寄合。役職は御用人で、寺社町奉行を兼ねていた。嘉永4年には福山築城掛に任じられた人物。

(10-10)「三輪持(みわたもつ)」・・松前藩士。当時の列席は中書院。役職は、御用人で、江差奉行・寺社町奉行を兼帯。

(11-1)「近藤兔毛(こんどうともう)」・・松前藩士。当時の列席は中書院。役職は、御用人で、寺社町奉行。美国場所の知行主。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注  P6~P8

(6-1)「刻付(こくづけ)」・・刻付状のこと。刻限付けの書状。記した時刻を明示したり、到着の時刻を指定した書状。

(6-5)「善光寺(ぜんこうじ)」・・有珠(うす)町の北西、有珠湾に臨む丘陵上に位置する浄土宗寺院。大臼山道場(どうじよう)院と号し、本尊は阿弥陀如来(臼座三尊弥陀金仏)。境内地は善光寺跡として国指定史跡。浄土宗江戸芝増上寺を本寺とした。蝦夷三官寺の一つとしてシャマニ等(とうじゆ)院(現様似町)・アッケシ国泰(こくたい)寺(現厚岸町)とともに文化元年に創建。善光寺は等院・国泰寺と異なり、前身となる創建以前の堂舎をもつ。その開創は不明であるが、「新羅之記録」には松前藩主の松前慶広が慶長12年に夢のお告げを受け、翌年5月に「善光寺如来之御堂之旧跡」を再建したとの記述があり、1640年代後半にすでに当寺は存在しており、蝦夷地で最も古い由緒をもつ寺院ということになる。善光寺という名称は、平安期に慈覚大師円仁が霊夢に従いウスに安置したという如来像が、一光三尊の信州善光寺如来であったことによるとの伝承が流布しているが(善光寺縁起)、信憑性は薄い。当地は有珠山に至近なため噴火の影響を受け、しばしば境内地の移動を余儀なくされ、文政5年から天保7年にヤマクシナイ場所、嘉永6年から安政4年にかけて、ヲシャマンベ場所の堂庵に仮寓した。

(6-7)「当場所領(とうばしょりょう)」・・ここでは、松前藩領をいうか。

(6-7)「峠之下(とうげのした)」・・峠下。峠ノ下、嶺下とも書いた。渡島地方南部、現七飯町内の地名。

(6-7)「一行院(いちぎょういん)」・・一行庵とも。文政5年、有珠山噴火の際、善光寺3代住職弁瑞が、避難所として峠下に建立した堂宇で、善光寺末。その後、安政46月に江戸増上寺末の魚籃寺住職(江戸・三田)が布教に来たが、翌、安政51028日に死亡し、一時廃寺になり、明治19年、現在の明林寺(曹洞宗)に統合ざれた。

(6-7)「庵堂(あんどう)」・・神仏を祭る建物。僧尼の住居。

(68)「レフンケ」・・礼文華。胆振地方西部、噴火湾沿岸の礼文華川流域の地名。東蝦夷地アブタ場所のうち。

 静狩との間に、礼文華峠という難所がある。

(7-5)「巳ノ下刻(みのげこく)」・・巳は、およそ午前9時から11時の間。「下刻」は、一刻(いっとき=二時間)を三分した最後の時だから、「巳の下刻」は、およそ午前10時半~11時頃。

(7-7)「尚ゝ(なおなお)」・・追伸。手紙などで、本文に書き落とした事柄を後から書き加えること。また、その文章。「尚尚書(なおなおがき)」という。宛名の後ろに、一字半ぶんだけ下げて書き、また、行間や本文の前に書くこともある。候文の手紙で、「尚々(なおなお)」と最初に書いたところからいう。追書(おってがき)。追伸。二伸。

(7-7)「町奉行所中(まちぶぎょうしょじゅう)」・・「町奉行所」は、寺社町奉行所のこと(注5-9参照)。「中」は「ジュウ」と音読し、全部の意。ここでは、集団の成員のすべての意。「年中(ねんじゅう)」「世界中(せかいじゅう)」「1日中(いちにちじゅう)」など。嘉永6年当時の寺社町奉行は、新井田嘉藤太、三輪持(たもつ)、近藤兔毛(ともう)の3人。

(8-4)「弥増に(いやまし)」・・よりいっそう。ますます。「いや」は、程度がはなはだしいさまを表す副詞「や」に接頭語「い」の付いたもので、程度が増す意。「いや(弥)栄え」、「いや(弥)が上に=なおその上に、ますます=

(8-5)「ベンヘ」・・べんべ(弁辺、弁部)。東蝦夷地アブタ場所のうち。弁辺村は昭和7年までの村名。現豊浦町のうち。昭和年豊浦村と改称した。

(8-6)「牧士(ぼくし、ぼくじ、もくし)」・・牧場で牛馬の飼育にたずさわる人。文化2年、箱館奉行戸川安論(やすのぶ)は、ウス・アブタに牧場を開いた。松前藩は、幕府から牧場を引き継いだが、経営には消極的であった。(『豊浦町史』)

(8-7)「相撰(あいえらみ・あいえらび)」・・終止形が「えらぶ」なら、連体形は、「えらび」、「えらむ」なら、終止形は、「えらみ」。

 <漢字の話>・・「撰」の右側の冠は、「己」でなく、「巳」。シンニョウの「選」の旧字も、「巳」だったが、常用漢字では、「己」に字体整理された。

(8-10)「ヲシヤリヘツ」・・長流(おさる)。胆振西部、長流川流域。現伊達市のうち。小砂流別とも書いた。有珠山からは、南東に当たる。

(8-10)「ツマイヘツ」・・漢字表記地名「千舞鼈」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現在の室蘭市崎守町、石川町、香川町一帯。大正7年まで「千舞鼈村」であった。現在、「室蘭市千舞鼈浄水場」として、その名が残っている。本来は、現在の室蘭市と伊達市の境界の川の名であったが、コタン名としても記録されている。当地一帯は近代に入り千舞鼈(ちまいべつ)村に包含された。表記は「チマイベツ」(「東行漫筆」など)、「チマイヘツ」(場所境調書・廻浦日記)のほか古くは「ちはいへつ」(津軽一統志)、「ちまひ別」(享保十二年所附)、「つまゑひす」(寛政蝦夷乱取調日記)があり、以後には「チマヱベツ」(「地名考并里程記」、秦「地名考」)、「チマヱヘツ」(玉虫「入北記」)がみえ、「ツハイベツ」とも記録されている(「蝦夷日誌」一編)。「西蝦夷地日記」の記述に、「両所(エトモ・ムロラン)合せて一七五人、両所の外ツマイベツに一二軒あり」と、「ツマイベツ」が記されている。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注P2-3行~P5

(2-3)「退去(たいきょ・のきざり)」・・その場を立ち去ること。

(2-4)「夷人(いじん)」・・(「夷」は野蛮人の意)文明の開けていない国の人。野蛮人。えびす。また、外国人、異民族を軽視していう語。ここでは、アイヌ人の蔑称。

(2-5)「ヤムクシナイ」・・江戸期の地名。東蝦夷地の内うち。「ヤムクシナイ」は、漢字表記地名「山越内」のもとになったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、コタン名のほか場所・会所名としても記録されている。寛政頃にはアイヌと和人が入交じって居住しており、蝦夷地との出入口であったことが知られている。勤番所(関所)が設けられていた。

(2-6)「勤番(きんばん)」・・松前藩は、蝦夷地の防備として、東蝦夷地では、ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフの9ケ所、西蝦夷地では、イシカリ、ソウヤの2ヶ所、北蝦夷地の計12ヶ所に勤番所を置いて武器、藩兵を配置した。

 天保15年のヤムクシナイ勤番所の勤番者は、頭徒士1、徒士1、医師1、足軽2、在勤足軽15.(『松前町史通説編第1巻下』)

(2-6)「上田鉄之進(うえだてつのしん)」・・『嘉永六年癸丑御役人諸向勤姓名帳』(『松前町史史料編第1巻』所収)に、「御右筆」として、「上田鉄之進」の名が見える。藩での役職は祐筆あり、その身分で、ヤムクシナイに在勤した藩士か。

(2-7)「為差登(さしのぼらせ)」・・参上させて。「さし」は、接頭語で、動詞について語勢を強めたり語調を整えたりする。「さし仰(あお)ぐ」「さし受く」「さしくもる」など。

(2-7)「披見(ひけん)」・・文章などをひらいて見ること。

(2-8)「可得御意(ぎょいをうべく)」・・お考えをうけたまわりたく。

(2-8)「如斯御座候(かくのごとくござそうろう)」・・このようであります。文章の結びに使われる慣用句。

(2-8)「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」・・(恐れかしこみ、つつしんで申し上げる意)候文の手紙の終りに記す挨拶語。「恐惶謹言」のくずし字の例は、資料4. 

(2-9)「申ノ中刻(さるのちゅうこく)」・・「申」は、およそ午後3時から5時の間の時刻。「中刻」は、一刻(いっとき=二時間)を三分した中間の時だから、「申の中刻」は、およそ午後4時頃。

(2-9)「氏家六郎左衛門(うじいえろくろうざえもん)」・・『嘉永六年癸丑御扶持家列席帳』(『松前町史史料編第1巻』所収)によると、列席は中書院。沖之口奉行、箱館奉行を勤めた藩士。

(2-10)「工藤茂五郎(くどうもごろう)」・・前掲書によると、氏家と同格の藩士。松前藩最後の箱館奉行。

(3-3)「砂原(さわら)」・・江戸期は東在箱館付村々のうち。

(3-3)「モロラン」・・室蘭。古くはモロランといい、諸蘭、茂呂蘭とも書いた。江戸期から見える地名。はじめエトモ場所のうち、のちモロラン場所のうち。

(3-7)「振合(ふりあい)」・・①その場のぐあい。都合。また、状況。②他との照らしあい。他との比較。釣り合い。バランス。

(3-7) 「鷲ノ木(わしのき)」・・渡島半島東海岸中央部の地名。江戸期の村名。東蝦夷地六ヶ場所のひとつ茅部場所のうち。榎本武揚率いる旧幕府軍の上陸地として知られる。

(4-1)「内意(ないい)」・・内々の意向。

(4-5)「老年(ろうねん)」・・年をとって心身の衰えが目立ってくる年ごろ。また、その年ごろの人。

(4-8)「和賀屋宇兵衛(わがやうへえ)」・・箱館の商人で、幕領時代からのウス場所の請負人。

(4-9)「進達(しんたつ)」・・官庁への上申などを取り次いで届けること。

(5-3)「七ツ時(ななつどき)」・・午後4時頃。

(5-4)「相聞(①あいきき・②あいきこえ)」<文法の話>・・①他動詞「聞く」とすると、連用形は、「きき」②自動詞「聞(きこ)ゆ」とすると、連用形は「きこえ」。

(5-5)「先年山焼(せんねんやまやけ)」・・文政5年閏129(1822322)の有珠山噴火のこと。熱泥流が流失し、場所請負人茂兵衛・牧士村田定五郎らの和人およびアイヌ人82名が死亡した。この噴火で、アブタ会所が大きな被害を受け、後、アブタ場所は、フレナイに移った。

(5-9)「町御役所(まちおやくしょ)」・・松前藩の役所のひとつ。正式には、寺社町奉行といい、職務は、藩内の民政全般・裁判・警察などの治安、諸税収納・産業・駅馬往来・人別など広範囲なものであった。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注 P2ー1~2

(2-1)「乗切足軽(のりきりあしがる)」・・「乗切」は、戦術の一つで、敗退する敵勢の中に馬を乗り入れて分散させ追い討つ方法。「足軽」は、元来は、中世においてゲリラ・攪乱戦法に特別の役割をになった兵。足軽の活動は、直接戦場で合戦に参加するのではなく、市中の放火、敵地の水源をとめるなど敵陣の攪乱にその特色を発揮している。これを「行動が敏捷である」という足軽の文字通りの意味とを考えあわせると、単なる一般的な歩卒・雑兵の称呼ではなく、より限定された役割(忍者・乱波などの役にやや近い)をになわされた兵であった。ここでは、松前藩の足軽の役職名か。

(2-2)「然ば(しかれば)」・・接続詞。先行の事柄を一応おさめて、話題を転じるのに用いる。そうして。さて。ところで。「しからば」は、順態の確定条件を表わす。そうであるからには。だから。しかれば。

(2-2)「去ル六日頃」・・嘉永636日(西暦1853413日)。『伊達市史』など、多くの資料は、有珠山の震動は35日としている。

(2-2)「ウスアフタ両場所」・・江戸期の場所名。東蝦夷地のうち。

①ウス場所・・現在の有珠湾を中心に開かれた近世の場所名。慶長18年に松前藩主松前慶広がウス善光寺を再建したといわれ(新羅之記録)、その頃には開設されていたという(伊達町史)。往古の境界は、西側はウコソンコウシ(現在の北有珠町付近)をもってアブタ場所に、東側はヘケレヲタ川(現室蘭市陣屋町付近)をもってヱトモ場所に接していたが、18001810年代にモロラン会所(現室蘭市崎守町)が新設されてから、チマイヘツ川(現在の伊達市・室蘭市境のチマイベツ川)をもってモロラン場所に接していた(場所境調書)。元文4年頃には「臼」は松前町奉行新井田五郎左衛門の預地で、鯡数子・昆布・干鱈・膃肭臍・煎海鼠・イタラ貝などを産し、運上金は1ヵ年40両くらい、蝦夷地で一番の湊を持っていた。1780年代後半の状況を記した「蝦夷草紙別録」によると「ウス場所」は新井田浅次郎の給地で、運上金70両、場所請負人は箱館の浜屋兵右衛門であった。当時の運上屋は1戸(蝦夷拾遺)。寛政三年の「東蝦夷地道中記」によれば、ウス場所は細見磯右衛門の給地で、請負人は箱館の覚左衛門、ウスに運上屋があり、ヲサルベツ、ツバイベツの家数は2軒ほどであった。

1799年幕府は東蝦夷地を直轄地とし、場所請負制を廃止して直捌としたため、運上屋は会所と改められた。

1812年に場所請負制が復活し、ウス場所は入札により箱館の和賀屋卯兵衛(宇兵衛)が21632朱で落札し、13年から請負を実施し、以後ウス場所は和賀屋が独占した(新北海道史)。21年幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制はそのまま引継がれた。27年から50年前後も引続き和賀屋が請負ったが、53年(嘉永6年)315日にウス岳が再度大噴火し、大きな被害を受けた。「蝦夷大鑑」によれば、当時の請負人は箱館内澗(うちま)町の和賀屋宇兵衛、運上金105両は噴火のため半減され、ウス会所はヱコレマレフ(現在の稀府地区)へ移転した。善光寺は当時ヲシャマンベにあり、平野牧などの馬580匹もヱコレマレフなどに移されていた。

安政元年、幕府の蝦夷地再直轄地化により場所も引継がれ、近世末には箱館の和賀屋権一郎が運上金105両で請負人となっていた和賀屋は文久二年に7年季で改めて請負うことになり、ウス場所は運上金105両、冥加米33俵余とされた。慶応二年の請負人は箱館内間(うちま)町(内澗町)の和賀屋権一郎で、運上金105両・別段上納金143歩永年50文であったが、明治2年の場所請負制の廃止により和賀屋は罷免となり、漁場持の名目で暫定的に漁が行われた。

②アフタ場所・・近世の場所名。場所請負制の成立とともにシツカリ(現長万部町)、レブンゲ・ヲフケシ・ベンベ(現豊浦町)、アブタ(オコタラヘ)に至る広範な地をアブタ場所とよぶようになった。何度か境界の変更があったが、安政六年には、西側はシツカリ川中央(現長万部町字静狩)をもってヤムクシナイ場所に、東側は「ヲクシユンコウシ」(本名ウコソンコウシ、現虻田町字入江付近)でウス場所に接し、レブンゲ場所が存在した時には東境はヲタニクル(現豊浦町字大岸)であった。アブタ場所と称し、代々松前藩士酒井氏の世襲場所であった。

元文四年頃には「アブタ」は酒井逸学の預地であった。1780年代後半の状況を記した寛政11年、幕府は東蝦夷地を直轄地とするとともに、請負制を廃止して直捌とし、運上屋はアブタ会所と改められ、蝦夷地初の牧場経営(ウス場所とともに)が行われた。

1812年から場所請負制が復活し、アブタ場所は入札により福山(松前)の和田屋茂兵衛が30987文で落札し、翌年から請負制を実施した。その後の場所請負更新期にも和田屋が請負い、文政四年、幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制はそのまま引継がれた。文政5年閏1月にウス岳(有珠山)が大噴火し、アブタ、ウス両場所の牧士村田卯五郎父子・アブタ場所請負人和田屋茂兵衛・同支配人松之助など40余人、牧馬数百頭が死に、一千頭ほどが行方不明となった。アブタも全滅し、会所をフレナイに移し、一時はフレナイ会所ともよばれたが、やがてこの地をアブタと称し、廃村となった旧アブタをトコタンとよんだ。1827年の場所請負更新期には和田屋の息子茂吉が請負人となり、のちに茂兵衛を襲名した。1854年再度幕府直轄地となるが、49年頃には再び和田屋荘吉が請負人となっており、53年にまたもウス岳が噴火し、フレナイの地も被害を受け、アブタ会所はレブンゲを仮会所にして一時避難し、運上金も減額された。54年からは請負人が松前唐津内(からつない)町の岩田屋金蔵となり、しかし1855年にアブタ・レブンゲ場所の請負人として再び和田屋茂兵衛(荘吉)が登場し、運上金は両場所で75両。和田屋茂兵衛のアブタ場所請負は元治2年頃まで続いたが、慶応2年の盛岡藩支配警備時には箱館大(おお)町の米屋佐野孫右衛門(クスリ場所・レブンゲ場所の請負人)が請負人となっていた。明治2年の請負人は米屋の親戚筋にあたる函館の泉州屋藤兵衛に代わっており、場所請負制の廃止による開拓使への場所返上も泉州屋が行った。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注 P1

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注                         

 

(有珠山噴火の歴史)・・資料1『伊達市史』

(嘉永6年の噴火)・・資料2『伊達町史』

(1-1)「嘉永六癸丑年(みずのと・うし どし)三月」・・文政4127日、幕府は、蝦夷地全島を松前藩の還与し、松前氏は、復領する。その後、幕府は、安政2222日、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。したがって、嘉永6年の蝦夷地は、松前復領の時代である。

(1-1)「東蝦夷地(ひがしえぞち)」・・松前藩は、藩域を独特の地域区分をした。福山城下を中心に東西各25里、東は亀田付近、西は熊石にいたるあいだを松前地(和人地ともいう)、その奥を蝦夷地とし、亀田から東を東蝦夷地、熊石から西を西蝦夷地とした。和人は松前地のみ居住を許され、それぞれ亀田・熊石に番所をおいてとりしまりをした。

 和人地は、幕府直轄時(寛政11年)に東は山越内まで拡大され、東西蝦夷地の奥を知床半島まで境とした。また、はじめは海岸線だけのことであった区分を内陸部までにもおよぼし、知床半島から蝦夷地を横断してイザリ(現恵庭市)を通り、熊石にいたる線で分けられることになった。(この項、榎本守恵著『北海道の歴史』参照。資料3図とも) 資料3東西蝦夷地の境界
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 (1-2)「臼(うす)」・・ここでは有珠山のこと。洞爺湖の南に位置する活火山。最高点の標高は733メートルで、壮瞥町に属する。有珠は、古くは、宇寿、宇須、臼などとも書いた。地名の由来には、アイヌ語のウシヨロ(入江などの意)がウスになったという説、当時東方にあった山が臼に似ているため、あるいは入海が臼形に似ているためなどによる説がある。

 <漢字の話>「臼」と「𦥑」・・「臼」は6画で、7画の「𦥑(キョク。左右の手で指を合わせる)」は別字。

 解字は、U字型にえぐってくぼませたさまを描いたもの。舂(シュウ。つく)、陥の右側(穴にはまる)、插(ソウ。挿の旧字。穴にさしこむ)など、穴や、うすをあわらす。

(1-2)「山焼(やまやけ)」・・火山の噴火活動のこと。

(1-2)「一件(いっけん)」・・ある事件に関する意見書、聴取書、報告書などの書類をひとまとめにして綴ったもの。一件記とも。

(1-2)「御用状(ごようじょう)」・・御用の書状。主君あるいは官府の公的書状。

(1-2)「写(うつし)」・・書類などの控えとして、そのとおりに書きとった、または、器械で複製した文書。謄本。副本。

(1-印について)

 ①「函館図書館蔵品 大正14.3.1.受入」(丸印)・・この「函館図書館」は、明治4231日、函館公園内に開館された「私立函館図書館」(初代館長は泉孝三)のこと。昭和21130日、市立函館図書館に移管された。

 ②「蛯子健太郎寄贈」・・蛯子健太郎は、蛯子与太郎の長男。与太郎は、明治1311月に結成された書籍購入・回覧のための組織「思齊会」(函館図書館の前身)の幹事(代表)だった人物。

 ③「函館図書館旧蔵書 昭和三年十一月九日引継」(長方形の印)・・「函館図書館旧蔵書」とは、旧私立函館図書館所蔵書のこと。市立函館図書館は、昭和3717日に函館公園内に開館した。この角印は、「私立函館図書館」蔵書が、市立函館図書館に引き継がれたことを示している。

糟糠(そうこう)の妻

「糟」は、酒粕、「糠」はぬかで、「酒かすとぬか」。転じて粗末な食物、比喩的に取るに足らないくだらないもの」。『広辞苑』は、「平家物語」の「清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥(ちんがい)なり」を例示している。
「糟糠の妻」は、「貧しい時からつれそって苦労をともにしてきた妻」こと。
出典は『後漢書(宋弘伝)』の「糟糠之妻不下堂(糟糠の妻は堂より下がらず)」で、『広辞苑』は、「糟糠の妻は夫の立身出世の後も家から追い出してはならない」と現代訳を付けている。
私の糟糠の妻は、もう、この世にはいない。

温石(おんじゅく)

北海道新聞の「うた暦」に、
「夜(よ)の駅や温石(おんじゅく)のごと罐コーヒー 金久美智子」とあった。
『日本国語大辞典』(小学館)で、「温石」を引くと、「からだを暖める用具の一つ。蛇紋石、軽石などを火で焼いたり、またその石の代わりに菎蒻(こんにゃく)を煮て暖めたりして、布に包んで懐中するもの。焼き石」とあった。
私は、石とか、こんにゃくを懐中に入れて暖をとった記憶はない。この言葉自体、初めて知った。
「懐炉(かいろ」なら、知ってる。「懐炉」を引くと、「中世以降の温石(おんじゃく)に代わって行われた」とあるから、厳密には、違うのだろう。
「石」を「シャク」と読むのは、日本の慣用語。呉音では、「盤石(ばんじゃく)」などの「じゃく」と濁る。

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