森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2011年01月

寒卵かゝらじとする輪島箸 前田普羅(まえだ-ふら)

寒卵かゝらじとする輪島箸 前田普羅(まえだ-ふら)・・

 

「寒卵」は、鶏が寒中に生んだ卵。他の季節のものに比べて栄養素を多く含み、普通の卵より重さがある。寒卵を擬人化して、堅牢な輪島塗の箸にも、おいそれと掴まれまいとしている寒卵を詠む。すると、この寒卵は、ゆで卵か。あるいは、寒卵は、割ると黄身が盛り上がるので、輪島箸でも、なかなか、黄身を掴み取れないことを詠うか。石川桂郎は、「塗椀に割つて重しよ寒卵」と詠む。作者の前田普羅は、虚子に見出された大正期の「ホトトギス」の大看板の一人。

ところで、大寒の末候は「鶏始乳(にわとり はじめて にゅうす)」。ニワトリが卵を産み始める頃をいう。これが明けると、立春を迎え、暦もいよいよ春となる。寒卵を食べればじきに春がやってくる。

古垣の縄ほろと落つ蕗の薹 室生犀星

古垣の縄ほろと落つ蕗の薹 室生犀星

 

早春に、葉の伸出より先に花茎が伸び出す。これを蕗の薹(フキノトウ)と呼んでいる。雌雄異花であり、雌花は受粉後、花茎を伸ばし、タンポポのような綿毛をつけた種子を飛ばす。漢字で「款冬」を充てる場合もある。周りの雪を溶かして芽生えるエネルギーは素晴らしい。古い土塀に芽生えたフキノトウは、その上に乗っていた縄を持ち上げ動かす。やがて、垣根から、縄を落とす。犀星は、その瞬間を「ほろと」と形容する。虚子の句に「乾きたる垣根の土や蕗の薹」がある。

春の季語だが、大寒の初候に「款冬華(かんとうはなさく)」がある。こちらは、真冬に、すでに、芽生えることをいう。

寒声や古うた諷(うた)う誰が子ぞ 蕪村

寒声や古うた諷(うた)う誰が子ぞ 蕪村

 

寒稽古は、主に、寒中水泳などや、剣道・武術を寒中に練習し、技と心身を鍛えることを指すが、寒稽古は、芸事も行われてきた。三味線など場合は、「寒弾(かんびき)」という。「寒声(かんごえ)」は、歌を習う者や僧などがのどをきたえるため、寒中、早朝や夜中に発声練習をすること。また、その声をいう。

「古うた」とは、どんな曲だろうか。蕪村の関心は、そこにあるのではなく、あのような難しい曲を、暗記して、寒空に向かって、声をふるわせて朗読している子どもも、すばらしいが、それを教えた親はもっとすごい、といっているのだ。「諷う」は、「記憶した詩文を、書いたものを見ないで声に出していう」こと。(『新潮日本語漢字辞典』)また、僧侶が、声をそろえて経文を読みあげることを「諷経(ふぎん)」というから、僧の寒稽古も「寒声」。其角に「寒声や南大門の水の月」がある。

東蝦夷地臼山焼一件御用状注P18~P25

臼山焼 注                                    2011.2.14 森勇二

18-2)「驚怖(きょうふ)」・・驚き恐れること。

18-10)「旁以(かたがたもって)」・・いろいろな点からみて。どちらにしても。どのみち。「旁」の語源については、あなたこなたの意のカタガタ(方方)の転、またはカテラガテラの約、という説がある、

19-1)「御徒士(おかち)」・・江戸時代、将軍または大名の行列の先頭に立ち、通路の警戒をし、ふだんは城内の番所に詰めて警備に当たった侍。また、その役。

19-1)「白鳥右作(しらとり-うさく)」・・『嘉永六癸丑年御扶持家列席帳』の「新組御徒士」のひとりに名前が見える。

19-2)「乙名(おとな)、小使(こづかい」・・場所内のアイヌは役アイヌと一般の平アイヌに分けられる。役アイヌは総乙名・総小使・脇乙名・乙名・小使・土産取から構成されている。

19-7)「ヱトロフ差立御人数」・・文政4年(1821)、蝦夷地が松前家に還与された後の蝦夷地警備体制は、各地に勤番所を置いた。東蝦夷地では、ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフの9ヶ所に勤番所が置かれた。そのうち、エトロフに配置された人数は、天保15年(1844)の例では、物頭以下44名、在住足軽50名である。(『松前町史』)

19-20)「疱瘡(ほうそう)」・・天然痘。

20-4)「直渡(ただわたり)」・・まっすぐに渡ること。

20-7)「弁利(べんり)」・・便利。利便。

21-6)「旧臘(きゅうろう)」・・去年の12月。客臘(かくろう)。「臘」は陰暦12月。「臘月」。「臘」の解字は、右側の字は、動物のむらがりはえた頭上の毛の総称で、多く集まる意を含む。「臘」はそれを音符とし、肉をそえた字で、百物を集めてまつる感謝祭のこと。「臘祭(ろうさい)」は、年末の祭礼で、その年に生じた百物を並べ集め、ひとまとめにまつって年を送る祭。中国の祭で、日本には伝わらなかったが、暦のみに用語が残った。

21-8)「出役(しゅつやく・でやく)」・・役目として出張すること。

22-4)「今暁(こんぎょう)」・・「ぎょう」は「暁(きょう)」の慣用音。「こんきょう」とも。今日の夜明けがた。今朝。

23-6)「ユヲイ村」・・江戸期から見える地名。はじめ東蝦夷地箱館6ヶ場所、寛政12年(1800)から東在箱館付6ヶ場所のひとつの野田追(のち落部)場所のうち。ユウオイ、ユイともいい、湯生、湯追、由井、由追とも書いた。和人地と蝦夷地の境となった。現二海郡八雲町野田追のうち。

24-56)「石黒太右衛門(いしぐろたえもん)」・・『嘉永六癸丑年御役人諸向姓名帳』(『松前町史史料編第1

 巻』所収)の「御記録」に石黒太右衛門の名前が見える。当時、松前藩の書記だったか。

24-6)「旁(かたがた)」・・あれこれ。さまざま。なにやかや。

24-10)「巨細(こさい)」・・細かくくわしいこと。また、そのさま。一部始終。委細。きょさい。字義どおりの「巨と細」の意味に加えて、漢籍で「無巨細」と使われることが多く、そこから「細大もらさず」という意味になっていったと思われる。また、中世以降、記録とその影響を受けた軍記物を中心として、「巨細」だけで「詳しく」という意味を持つようになる。キョサイの読みも「伊呂波字類抄」に見えるが、呉音系のコサイの読みの方が一般的。

蘊奥(うんおう・うんのう)

思文閣出版のPR紙の『鴨東通信』(2011年1月発行)に「西洋眼科術の蘊奥(うんおう)を学ぶ」という文言があった。私は、「蘊蓄(うんちく)」は、知っていたが、この「蘊奥」は知らなかったので、調べてみた。
まず、読みだが、『日本国語大辞典』(小学館)には、「ふつう連声(れんじょう)で<うんのう>と発音する」とあり、『日葡辞書』の「表記はウンワウであるが発音はウンナウ」を載せている。
で、意味について、「教義、学問、技芸などの最も奥深いところ。奥義(おうぎ)。極意(ごくい)。うんおう。」とあり、この言葉が使われた文のひとつに、『西洋道中膝栗毛』〔(仮名垣魯文)から「迂遠の漢学に終身、温奥(ウンオウ)を極めんより」を載せている。『新潮日本語漢字辞典』(新潮社)には、太宰治の『花吹雪』の一節から「嘗つて誰か、ただ一日の修行にて武術の蘊奥を極め得たる」を挙げている。



雪かきは、灯油タンクのある小路から

雪かきのとき、妻は、まず、雪かきは、灯油タンクのある小路からやっていた。
灯油業者がいつ来ても困らないように、まず、最初に、その小路(我が家では、北側の狭い小路)に積もった雪をかきだしていた。
どんなに、雪があっても、そこの雪を掻き終わらないうちは、止めなかった。
常に、他人のことを思う妻だった。

中級13「ある箱館奉行所同心の箱館戦争」

(1-1)「使掌(ししょう)」・・開拓使の最下級の職。受付・守衛・設営その他の任に当たった。

(1-2)「歳給米(さいきゅうまい)」・・「歳給」は、毎年の給金。一年間の収入。*杜詩続翠抄〔1439頃〕一三「給は歳給、月給、日給としてもあれ」。

(1-45)「昨辰年壬四月(さく-たつどし-うるう-しがつ)」・・慶応4年閏4月。明治改元はこの辰年98日。

(1-4)「壬(うるう)」<漢字の話>・・影印は、「閏」の異体字「壬」。しかし、中国の字書「字彙」に、「閏」は、「壬誤(壬の誤り)」とある。なお、「閏」の解字について、『漢字源』は、「門」+「王」で、暦からはみ出した日には、王が門の中にとじこもって政務をとらないことをあらわす。定数からはみ出る、不正規なものの意。としている。語源については、「潤」を文字読みしたウルヒから生じたものか、とする説がある。

 <閏年について>太陰太陽暦(旧暦)で、月の運行による暦年が太陽の運行によって定まる季節から大きくずれないようにするために、12ヵ月の年の間に時々13ヵ月の年をおく。その余分の月を閏月と呼び、たとえばそれが5月の次にあれば閏5月と呼ぶ。1朔望月(約29.53日)の12倍は1太陽年(約365.24日)より10日余り足りないので、平均32.3ヵ月に1閏月をおく必要が起る。置閏法は197閏が古代諸国に広く行われ、その置く場所は、年の半ばと年末とがあったが、のち中国では中気(24節気のうち冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪を中気という。中気と中気との間隔は約30.43日)を含まない月を閏月と定めた。日本に行われた暦では、元嘉暦だけ197閏であったが、儀鳳暦以後も長くそれに合わせる努力がなされた。この置閏法により、閏月は推算により自動的に決した。

(1-5)「清水谷殿(じみずだに-どの)」・・清水谷公考(しみずだに-きんなる)。幕末-明治時代の公家、華族。弘化296日生まれ。慶応4年箱館裁判所総督、ついで箱館府知事となる。同年秋、榎本武揚(えのもと-たけあき)ひきいる旧幕軍の来襲で青森へ避難。のち反撃する政府軍を指揮して箱館を奪回し、戦後処理にあたる。一時、開拓使次官をつとめた。明治151231日死去。38歳。

(1-5)「下向(げこう)」・・都から地方へ行くこと。くだること。清水谷は、慶応4年閏45日、箱館裁判所総督に任命された。彼が京都を出発し、蝦夷地に向け出発したのは、慶応4年閏414日のこと。敦賀から長州船・華陽丸に乗船し、同月26日箱館に着いた。なお、箱館への航行中の閏424日に、箱館裁判所は、箱館府と改称され、清水谷は、箱館府の知事に任命されている。

(1-56)「幕府より御引継」・・『函館市史』より、その引継の経過を述べる。

 ・慶応4年閏410日・・新政府の官吏・吉田復太郎、村上常右衛門、堀清之丞(のち基と改名)の3名が先触れ事前調整役として箱館へ派遣され、10日、旧幕府箱館奉行杉浦兵庫頭に面会(箱館の本陣宿で)、箱館裁判所が設置され総督、副総督が近日中に下向する旨を伝え、同時に旧幕府の金穀、倉廩、器財等の引渡封印、下僚の箱館裁判所への任用等引継手続についても伝達した。ここに初めて新政府の意志が直接旧幕府箱館奉行所に伝えられた。

 ・同11日・・杉浦兵庫頭は、近日中に箱館裁判所総督下向する予定と、箱館を総督へ引継ぐことになった旨を市在に触れ出し、自身は五稜郭の役宅を出て組頭宮田文吉の屋敷(文吉は山村惣三郎宅へ移り同居)に引き移り、吉田、村上、堀の3人が立ち会いの上、金穀武器蔵に封印をした。

 ・同26日午後、杉浦奉行と新政府内国事務局判事小野淳輔との間で五稜郭管理引継ぎを終え、五稜郭の門番も松前、南部、津軽3藩の手に移り、番士も交代、船で箱館港に入っていた清水谷総督一行は、称名寺で休息後夕方遅く五稜郭に入った。

 ・同27日、空き役宅に仮役所を移していた杉浦兵庫頭は五稜郭へ出頭して清水谷総督と対面。杉浦が作成した目録引渡しは51日に行うことに決定、役々の去就等はその後の話し合いでということになり、引渡し後も当分の間は、江戸に帰ることを願い出ている者までも手助けをすることに決定。

 ・51日、杉浦兵庫頭は熨斗目麻上下姿で五稜郭に出頭、引渡目録13冊を清水谷総督へ手渡し、一ノ間に着座していた総督は一覧の上これを受取り、引継式は終了した。清水谷は、五稜郭において箱館裁判所の開庁を宣言した。

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初級14「柳田藤吉から開拓使根室支庁あて願書

(1-3)「仕込米(しこみまい)」・・準備米。

(1-4)「澗(ま)」・・河口を利用した河港と区別して、入江や島かげを利用した港をいう。日本海岸から北海道地方にかけて使われることが多い。掛り澗。間湊。

(1-4)「図合船(ずあいぶね)」・・江戸時代から明治期にかけて、北海道と奥羽地方北部でつくられた百石積以下の海船の地方的呼称。小廻しの廻船や漁船として使われた。船型は水押付の弁才船系統であるが、百石積以上の廻船を弁才船として区別するため特に呼ばれるもの。『初航蝦夷日誌』(松浦武四郎著)の凡例に「図合船七十五石より九十五石迄之船を云也。此船近場所通ひに多く用ゆ」とある。

(1-5)「越年(おつねん・えつねん)」・・年を越すこと。「エツ」は漢音、「オツ」は呉音。

(1-5)「為積入(つみいれさせ)」・・積みこませ。

(1-7)「囲船(かこいぶね)」・・長期にわたり使用しないため、陸に引き上げて筵(むしろ)、苫(とま)などで囲い、腐朽しないようにしてある和船。

(1-11)<欠字について>・・「当 御支庁」の「当」と「御」の間が1字あけてあるが、これは、「欠字」といって、古文書の趣きの特徴のひとつ。尊敬の体裁として、尊人などを書く時、敬意を表するため、そのすぐ上を1字か2字分あけて書くこと。

(1-11)「支庁(しちょう)」・・ここでは、開拓使根室支庁のこと。支庁は都・道・府・県庁に属する出先機関の一つで、北海道では市以外の全域に、その他の都県では交通不便の地などに設けられ、本庁まで行かなくても用が足りるようにした役所。

北海道では、明治政府によって置かれた開拓使の出先機関として、明治5914日に5つの支庁(函館、根室、浦河、宗谷、樺太)が設けられたのが始まり。その後、明治30年、それまでの郡役所所在地をもとにした19支庁が設置され、さらに明治43年、鉄道開通に伴い交通事情が改善されたことから、支庁の一部統合により14支庁とされ、このときに14支庁体制がほぼ形づくられた。平成2241日に、支庁は総合振興局となり、支庁はなくなった。

 <根室の役所名の変遷>

 ・明治2.10.9・・判官松本十郎、「根室開拓使出張所」を開設。

 ・明治3.6.17・・花咲、根室、野付の3郡を東京府に割譲。

 ・明治4.5.-・・「根室開拓使出張所」を「根室出張開拓使庁」と改称。

 ・明治5.9.14・・「開拓使根室支庁」設置。本文書は、この間の時期。

 ・明治15.2.8・・開拓使廃止、根室県設置。

 ・明治19.1.26・・北海道庁設置。根室支庁を置く。

(1-12)「野附郡(のつけぐん)」・・明治28月から現在までの根室国および根室支庁管内の郡名。明治2815日設置。旧ネモロ場所の一部が郡域となる。北海道東部、根室国の中央部南寄りに位置し、東は根室湾および根室海峡に面し、南は根室郡、北は標津(しべつ)郡、西は釧路国川上(かわかみ)郡に接する。現在は別海(べつかい)町一町。郡名は松浦武四郎の提案により「野付(のつけ)郡」とされた(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)。明治28月開拓使の所管となり、同3617日から同年閏109日まで東京府の管轄となり(新北海道史・法令全書)、その後開拓使根室出張所(根室出張開拓使庁を経て開拓使根室支庁となる)の管轄となった。同53月根室支庁管内の村名が定められた(「事業報告」第一編)。ベツカイ、ヒライト、ノツケ(現別海町)、チャシコツ(現標津町)の4ヵ村で、同85月の根室支庁布達(開拓使根室支庁布達全書)により仮名書きの村名が漢字に改められ、別海村・平糸(ひらいと)村・野付村・茶志骨(ちやしこつ)村となった。ただし「根室国地誌提要」では帆仁恋(ほにこい)村(現標津町)を含み5ヵ村となっている。この間、明治67月に別海村に開拓使根室支庁野付出張所が置かれ、野付・標津・目梨(めなし)の3郡を管轄した。同86月同出張所は廃止され、当郡は支庁直轄となった(「事業報告」第一編)。

 野付郡は、かつては、茶志骨村、別海村、平糸村、野付村があったが、現在は、11町で、別海町のみ。

 <漢字の話>「附」と「付」・・「附」は、「付」の旧字体ではなく、別字。両方とも常用漢字になっている。「付」と「附」の元来の意味では、「付」は「あたえる(付与・交付)」、「附」は「つく(附着・附録・附近・寄附)」であったが、現在ではいづれの場合も「付」で書かれることが多い。ただし、官庁・法律の用語で「附属」「附則」などには、「附」を用いる。たとえば、「北大附属図書館」など。しかし、新聞では、「附」を用いず、「付」は22年、市制・町村制の施行により廃止された。

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東蝦夷地臼山焼一件御用状1件P11~20

臼山焼 注                                    (11-2)「方丈(ほうじょう)」・・禅院における住持の居室をさし、もと維摩居士(ゆいまこじ。天竺の在家菩薩)

の居室が方一丈であったことから出た語。堂頭・正堂・函丈・房丈ともいう。転じて、禅院の住持をさす。わが国では、禅院のみならず教宗の諸大寺にも営建され、客殿としての要素が加わる。転じて住職をさす。ここでは、善光寺の住職をさす。したがって「方丈詰番僧」は、住職に従う役僧のこと。

(11-23)「番僧(ばんそう)」・・堂を守る当番の僧。堂番。

(11-3)「宝物(ほうもつ)」・・たからとして珍重するもの。たからもの。ほうぶつ。「物」の字音は「ブツ」が漢音、「モツ」は呉音。

(11-4)「送越(おくりこし)」・・・送ってよこし。

(11-4)「用人(ようにん)」・・雑用・事務にあたった雇い人。

(11-5)「治定(じじょう)」・・(副詞)必ず。きまって。きっと。「必ず」の意を表わす漢語の副詞には、他に「一定(いちじょう)」「決定(けつじょう)」「必定(ひつじょう)」などがあるが、これらが中世の前半期から用いられていたのに対し、「治定」は、中世の後半期に副詞としての用法が生まれたと見られる。「定」を「ジョウ」と読むのは、呉音で、「禅定(ぜんじょう)」など、仏教用語に用いられることが多い。

「治定」を「じてい」と読めば「国などをおさめさだめること。また、国などがおさまり安定すること」の意。

(11-6)「砌(みぎり)」・・①(「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという)軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。②転じて、庭。また、境界。③あることの行なわれ、または、あるものの存在する場所。その所。④あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

本文書では、④。その語源については、「そのころ」の意を「其の左右(ゆんでめて)」というところから「ミギリ(右)の義か」とする。(『日本国語大辞典』)

(11-7)「申談置(もうしだんじおき)」・・申しあげて相談して置いた。

(11-8)「御牧場(おまきば)」・・文化2年、箱館奉行戸川安論(やすのぶ)が、アブタ・ウス開設した牧場で、富川牧、岡山牧、平野牧、富沢牧の4牧を開いた。戸川は種馬3頭の下付を受けて、南部藩からの献上された牝馬4頭、購入牝馬5頭とともに放牧、順次繁殖などで増やした。文政5年の記録では、2553頭に達した。

 この年の有珠山噴火で多くの馬が斃死(へいし)した。

(11-8)「平野御牧(ひらのおまき)」・・現在の伊達市北東部、若生(わつかおい)町付近から伊達市街までの地に存在した牧。文化2年頃に富川(とみかわ)牧・岡山(おかやま)牧・豊沢(とよさわ)牧とともに成立。平野牧はウス領ワッカヲイ(現在の若生町付近)からモンベツまでのおよそ6キロとされる(新北海道史)。「西蝦夷地日記」文化41019日条には「宇寿之牧」のうちとあり、「ヲサルベツ平野牧」と記されている。「東行漫筆」文化645日条に「平野 六十三疋南部五疋地馬交」と記され、牧士「寺田佐野(之)助」の給金は金五両二人扶持、「外に一日銀七分」が定式手当で、銀一匁五分は「出役之節計り」、野牧内は一日弁当料六四文とある。その後、文政5年のウス岳大噴火、松前藩への復領、幕府の再直轄領化となるが、寺田家の墓地が現在も善光寺裏山の墓地に残り、牧士が世襲制であったことから、平野牧は明治維新まで続いていたと考えられる(物語虻田町史)。なお慶応3年のウス・アブタ両牧場書上(盛岡市中央公民館蔵)では当牧の馬数二七〇ほど(うち駒三〇ほど)。

(11-9)「戸沢新蔵(とざわしんぞう)」・・平野牧の牧士。牧場設置当時、牧士見習いとなった戸沢儀七の子孫。

(11-9)「谷藤鉄蔵(たにふじてつぞう)」・・平野牧の牧士。

(12-1)「寺田鉄太郎(てらだてつたろう)」・・平野牧の牧士。前項のように、「東行漫筆」文化645日条に牧士「寺田佐野(之)助」が見えるが、その子孫。

(12-12)「岡山御牧場(おかやまおまきば)」・・現在の虻田町東部から伊達市有珠町(うすちよう)付近にかけて存在した牧。岡山牧はアブタ領アブタ辺りからワッカヲイ(現伊達市若生町付近)までのおよそ6キロとされる(新北海道史)。「西蝦夷地日記」文化41019日条には「宇寿之牧」のうちとあり、ウスよりアブタまでを「岡山牧と云」と記される。「東行漫筆」同645日条には牧士頭取村田卯五郎の名とともに「奥(岡)山 四十三疋大牧南部種二十一疋、好き馬二才十疋あると云」と記され、村田卯五郎はアブタ居住、牧士の戸沢儀七の給金は五両二人扶持で、「外に一日銀七分ヅツ、定式御手当、銀一匁五分出役之節計り」、野牧内は一日弁当料六四文とある。その後、柵で仕切られた当牧と富川牧・平野牧・豊沢牧には異なった品種の馬が放たれ、自然交配により年々増加した。1810年代後半―20年代前半には4牧で二千頭を超えていた(虻田町史)。文政5年のウス岳の大爆発では卯五郎とその息子紋太郎が熱雲により犠牲となった。牧士は世襲制であることから、明治維新の閉鎖まで岡山牧は続いていたと考えられる(以上「物語虻田町史」)。なお慶応三年のウス・アブタ両牧場書上(盛岡市中央公民館蔵)では当牧の馬数200ほど。

(12-2)「田畑与四郎(たばたよしろう)」・・岡山牧の牧士。文化年間に牧士見習いとなった田畑小太郎の子孫。

(12-3)「由太郎(よしたろう)」・・岡山牧の牧士。

(12-3)「村田松蔵(むらたまつぞう)」・・岡山牧の牧士。文化年間に任命された牧士に、村田卯五郎がいるが、松蔵は、その子孫。

(12-3)「柏木吉三郎(かしわぎ-きちさぶろう)」・・岡山牧の牧士。文化年間に牧士見習いとなった柏木元助の子孫。

(12-4)「前以(まえもって・ぜんもって)」・・あらかじめ。かねてより。かねがね。

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