森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2012年04月

平出と欠字

養老令に規定された「平闕(へいけつ・平出と闕字)」

 ◎養老律令・・藤原不比等らが「大宝律令」を改修した律(刑法)と令(諸規定)。養老二年(七一八)に制定とするが、異説もある。「平闕」は、令の巻第八公式令(くしきりょう・くうじきりょう)の第二十一~第三十八条に規定されている。なお、養老律令自体は、律令国家の崩壊とあわせて効力を失ったが、公家(くげ)社会では引き続いて形式的に重んじられ、官制などは明治初年まで存続した。欠字、平出も、律令の規定にこだわらず、朝廷ばかりでなく、一般に尊敬を表するいろいろな場面に使われるようになった。職名ばかりでなく、城や屋敷などにも使われ、更には、「仰」など言動にも使われるようになった。

 【欠字・闕字(けつじ)】敬意を表するために、一字を空欠にする体裁。 ・大社(たいしゃ・伊勢神宮か)・陵号(りょうごう・先皇の山陵)・乗輿(じょうよ・天子の乗り物。天子の代名詞。キミと訓む)・車駕(きょが・天子の乗り物。天子の代名詞。キョガと発音する)・詔書(しょうしょ・勅命下達の際に用いられる公文書)・勅旨(ちょくし・詔書に次ぐ勅命下達の方法)・明詔(みょうしょう・詔旨の美称)・聖化(せいか・天皇の徳化)・天恩(てんおん・天皇の恩恵)・慈旨(じし・天皇の言葉)・中宮(ちゅうぐう)・・三后=皇后、皇太后、太皇太后)・御(ご・天皇)・闕庭(けつじょう・天皇の居所)・朝庭(じょうじょう・ちょうてい・大極殿の庭)・東宮(とうぐう・皇太子。またその居所)・皇太子(こうたいし・次代の天皇たるべき皇位継承者)・殿下(でんげ・庶人が、三后、皇太子に上啓するときの称え)   
右の語を列挙したあと、「右、如此之類(かくのごときたぐい)、並闕字(なみに欠字せよ)」とある。


 【平出(へいしゅつ・びょうしゅつ)】名前や称号を書く直前に改行して、前行と同じ高さで名や称号を書いて敬意を表すこと。「平頭抄出(へいとうしょうしつ)」という。平出を「一行闕字」とよぶこともある。 ・皇祖(こうそ・天皇の先祖)・皇祖妣(こうそひ・天皇の亡祖母)・皇考(こうこう・天皇の亡父。考は死んだ父の意)・皇妣(こうひ・崩御した皇太后)・先帝(せんだい・先代の天子)・天子(てんし・天下を治める者)・天皇(てんのう・日本の国王の尊称)・皇帝(こうだい・秦の始皇帝に始まる天子の別称)・陛下(へいげ・きざはしの下。臣下が事を奏するには、陛下にある警衛の臣に告げて奏上し、直奏はしないのが原則。故に陛下を天子の代名詞とする)・至尊(しそん・天子)・太上天皇(だいじょうてんのう・天皇譲位後の称号)・天皇諡(てんのうのし・天皇の死後の称号)・太皇太后(たいこうたいごう・だいこうだいごう・先々代の天皇の皇后)・皇太后(こうだいごう)」、皇后(こうごう・天皇の嫡妻)
 右の語を列挙したあと、「右、皆平出(みな平出せよ)」とある。

 【台頭・擡頭(たいとう)】貴人に関する語を、敬意を表して改行し、普通より上に書くこと。ふつうは一字あげ、天子に関する事柄は二字あげるのが通例。

 *参考文献・『日本思想大系』(岩波書店)の第三巻「律令」(井上光貞ほか校注)

明治維新は関ヶ原の敗者復活の機会

磯田道史氏の歴史エッセイは、面白い。『江戸の備忘録』(朝日新聞出版、2008)に、なるほどと思った一節があるので、引用する。

日本人の家庭にとって、関ヶ原はひとつの節目であった。徳川家康の東軍に属して勝った側は、武士となり城下町に住んだ。一方、石田三成や宇喜多(秀家)の西軍に属して負けた側は帰農し、庄屋や地主として農村で力をたくわえていった。明治以降、この庄屋や地主が「地方名望家」となって、政治家や官僚、医者や教育者として、再び近代史に登場する。明治維新は関ヶ原の敗者復活の機会となった。

「者」を仮名(かな)の「は」と読むのは、漢文の借訓

以下の文は、山口謡司著『日本語の奇跡 <アイウエオ>と<いろは>の発明』(新潮新書)を主に引用したものである。

『万葉集』など上代の文献には、漢字を宛字として使った。世にいう「万葉仮名」である。
たとえば、柿本人麻呂の歌に「小竹之葉者・・」があるが、当時は、「つぁつぁのふぁふぁ・・」と発音されていた。「小竹」は、現在の「ひらがな」で置き換えると「ささ」となるが、当時は「つぁつぁ」と読まれていた。
当時の中国語では、「小竹」は「シアゥ・チゥック」という発音で読まれていた。しかし、日本語にもすでに、「小さい竹」を指して「つぁつぁ」という言い方があった。すなわち、当時の日本人は「小竹」という漢文の熟語を借用し、これに「つぁつぁ(現代の<ささ>」という発音を宛てた。この方法を「借訓(しゃっくん)」と呼ぶ。
「者」は、当時の中国語の発音では「チェイ」となるが、日本語の読みでは「は」と読まれる。「は」は、日本語になくてはならない主語を示す助詞である。
中国語にこのような助詞はないが、朱熹の『論語集注(ろんごしっちゅう)』で、「学」を説明するとき、「学者将以行之也」(学は、将に以て之を行うなり)という、使い方で「者」という漢字を前の語「学」を主語として示す言葉として使っている。つまりこれは、日本語の助詞と同様の使い方である。当時の日本人は、こうした文法的な用法も借りて宛字にした。この使い方も借訓にあたる。
李白の詩にある「夫、天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」(それ、天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり)の「天地者」「光陰者」の「者」も「は」と訓じる好例といえる。


上級11 「ふなをさ日記」注

                       

(512)「先にもヲロシアの人、松前へとらは(捕)れて、三年計も居る事なれば」・・「ヲロシアの人」は、ゴローニン。

*<ゴローニン事件>・・文化8(1811)526日、ゴローニン率いるロシア船ディアナ号は、薪水、食料補給のため、クナシリ島トマリ沖に到来、64日、ゴローニンら8人がトマリに上陸した。ゴローニンは、クナシリ会所で松前藩役人と会見したが、会見中逃走をはかったため捕縛された。ゴローニンらは、護送され箱館を経て825日に福山に到着し収監された。2年後の文化10(1813)、ディアナ号の副官だったリコルドが、今度はディアナ号の船長になり、高田屋嘉兵衛をのせてクナシリに到着、先年のフヴォストフの乱暴(文化34年=180607=にカラフト・クシュンコタン、エトロフ島を襲撃した事件)は、ロシア政府の関与せぬことである旨を述べ、ゴローニンの放還を求めた。927日、幕府は、ロシア政府の陳謝の趣意を了解し、箱館沖の口番所でゴローニンらをリコルドに引き渡した。

「三年計も」とあるが、ゴローニンの日本幽閉は、実際は2年と3ヶ月余りである。なお、重吉らをエトロフで救助した幕吏・村上貞助は、松前奉行の命を受け、ゴローニンからロシア語を学んでいる。

(523)「さはいへ」・・「さ(然)は言へ」。そうはいうものの。しかしながら。ここでは、1行目の「ヲロシアとは互に心とけたる」を受けて、「そうは言っても」となっている。

(534)「とらはれまじきものにもあらず」・・「捕らわれないわけでもない」と二重否定で、結局は肯定だから、「ある」になり、「捕らわれる」になる。

(55)「とかくに」・・あれやこれやと。

(55)「さわり」・・障り。障害。さしつかえ。

(55)「ほのかに」・・かすかに。ぼんやり。

(57)「言かはせおきて」・・言い交せ置きて。相談しあって。

(57)「しゐて」・・強(し)いて。むりやりに。

(58)「いふになん有ける」・・言うのである。「なん」は係助詞。体言またはこれに準ずる語句、および連用語を受け、説明的に事物をとりたてて示す。「なむ~ける」の呼応によって、いわゆる「物語る文体」を織りなし、「伊勢物語」「源氏物語」等の物語文学作品において、特徴的な文体を形成することとなった。

(510)「名残(なごり)」・・人と別れるのを惜しむこと。また、その気持。惜別の情。また、その気持を表わすためにするさまざまなこと。語誌は「波残(なみのこり)」の変化したものといわれる。打ち寄せる波が引いたあとに残るもののことで、事が終わったあとに残るものごとに用いる。

 *「残(ごり)」の表記について・・『常用漢字表』の「残」音訓欄の字訓は「のこる・のこす」で、「こり」がない。つまり、表内訓(『常用漢字表』に掲げられている読み)に「こり」がないから、表外訓(『常用漢字表』に掲げられていない読み)になる。本来は、「なみ(波)・のこり(残)」で、「みの」が撥音(はつおん)化して「なんこり」になり、「んこ」が「ご」になった。ただし、付表には「なごり・名残」がある。

(510)「かたみに」・・同一の行動、心情を、二人以上の人間が、交互に、あるいは同時に相手に対してとる状態を表わす語。たがいに。かわるがわる。相互に。主として平安時代に散文にも韻文にも頻用された和文系の語。漢文訓読文では、同じ意味で「たがひに」が用いられた。中世以降、「たがひに」が一般的となり、「かたみに」は雅語的表現と意識されるようになる。語源説には、「カタミ(形身)とカタミ(形身)とを交互に取りかわす行為から」などがある。「互」の和訓に「かたみ・かたみに」がある。

 *<変体仮名>「身」は「み」、「耳」は、「に」。「耳」の呉音が「ニ」であることから。

(510)「袖をしぼり」・・涙を流して。「袖を絞る」は、涙に濡れた袖を絞る意から、泣く。

 「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは〈清原元輔〉」(『後拾遺和歌集』)

(約束しましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を決して波が越さないように、行末までも心変わりすることは絶対あるまいと。それなのに、貴女の心は変わってしまった。)・・変わりはしないと誓った約束を持ち出し、心変わりした女の不実を詰っている。(倒置法)

(511)「今はとて」・・これが最後といって。「今は」は、「今は限り」などの下の部分を省略した表現。今は限りということ。もうこれが最後ということ。

 今はとて天の羽衣着る折ぞ君をあはれと思ひ出でける」(『竹取物語』)

 (今はもうこれでお別れと、天の羽衣を着る時になって、あなた様をしみじみとなつかしく思い出したことです)・・かぐや姫が昇天しようとする時、帝に贈った歌。

(511)「ぞ」・・係助詞。ひとつの事物を強く指示する意をあらわわす。本文のように、「橋船へ乗移りける」のように、「ぞ」が文中に用いられると結びとなる活用語は、「けり」のように連体形となる。これを「係り結びの法則」という。

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蝦夷日記注                        

(67-1)「下供(したども)」・・供の中の、下回り(下働き)の者。

(67-1)「大船三船」・・長者丸(柏屋預かり)、広福丸(栖原屋預かり)、吉祥丸(伊達屋預かり)。

(67-2~3)「松前様の御船(おふね)御定紋(ごじょうもん)」・・松前家の定紋は、丸に武田割菱。

 松前家は、武田信広を元祖として強調する。信広は、永享3年(1431)生

まれる。若狭守護武田家の初代武田信栄(のぶひで)の遺孤(いこ。忘

れがたみ)といい、21歳のとき叔父の若狭守護信賢(のぶかた)のもと

を離れ、家子(けご)佐々木繁綱・郎等(ろうとう)工藤祐長らを引具し

関東を経て陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡宇曾利郷(うそりごう)田名部(た

なぶ)に至り、さらに享徳3年(1454)下国安東政季(まさすえ)を奉じ

て蝦夷松前に渡島、同族出身という蝦夷上ノ国花沢館主蠣崎季繁(すえし

げ)の女婿(むすめむこ)に迎えられたという。そして、長禄元年(1457

)アイヌ一斉蜂起の際、酋長コシャマイン父子を射殺するなど、乱鎮圧に

武功を発揮し、その声望を高めたとされている。この系譜には異議をはさ

む見解もあるが、アイヌ蜂起の発端となった志濃里館跡や信広の拠点となった上ノ国勝山館跡の発掘調査も近年行われ、信広が軍事的才能をもって蝦夷地館主たちの指導者的地位に就き、武装商人の頭目として若狭・蝦夷地間の交易船を差配した等々は、事実とみられるようになっている。

 なお、武田家は、清和源氏の流れを汲むという。

 *<源(源氏)平(平氏)藤(藤原)橘(たちばな)野(小野)清(清原)伴(ばん)>・・げんぺい・とうきつ・やせいばん

 *源平藤橘(げんぺいとうきつ)を揶揄(やゆ)した言い回し・・<昔、某(なにがし)、今、にがにがし><昔、某(なにがし)、今は金貸し>

(67-4)「出来(しゅったい)」・・物事ができあがること。完成すること。成就。完成。

(67-4)「押切船(おしきりぶね)」・・櫓を使って漕ぐ船。押渡(おしわたり船。

(68-3)「大頭(おおがしら)」・・多人数の集団の長。ここは、「船頭のうちの責任者」という意か。

(68-4)「張立(はりだて)」・・新造船。和船は、帆を張ることから。

(68-6)「惣名(そうみょう)」・・総称。

(68-6~7)「樺太島十八里御渡海」・・宗谷海峡(ラベルーズ海峡)の最狭部は、宗谷岬とカラフトの西能登呂岬で約45キロメートル。十八里は72キロメートル。

(68-7)「シラヌシ」・・樺太南端の地名。ソウヤから最短の港町。能登呂半島(クリリオンスキー半島)の先端の西側にある。江戸期は、運上屋がおかれた。寛政2年(1790)松前藩が始めて勤番所を設けた。以来、樺太の玄関として栄えた。現ロシア名はクリリオン。

(68-9)「汐験(しおじるし)」・・海流の様子。「験(しるし)」は、自然が移りゆくけはい。様子。

(69-1)「御坐候(ござそうろう)」<漢字の話>影印の「坐」・・人名漢字。「座」の異体字ではなく、別の漢字。もと、「坐」は主にすわる動作、すなわち、動詞的に用い、「座」はすわる場所に、すなわち、名詞的に用いた。新表記(常用漢字)では動詞・名詞ともに「座」に統一した。

(69-2)「相分り兼(あいわかりかぬ)」・・わからない。「兼(かぬ)」下2段活用型の接尾語で、動詞の連用形に付く。「~のがむずかしい」「~ことができない」。

(69-3)「タツタン」・・韃靼(だったん)。蒙古系部族、またその居住地方。韃靼は、八世紀に東蒙古にあらわれ、モンゴル帝国に併合された。宋では蒙古を黒韃靼、オングートを白韃靼と称し、明では元滅亡後北にのがれた蒙古民族を、韃靼と呼ぶ。タタール。

(69-4)「ノトロ」・・西能登呂岬(クリリオン岬とも。現ダーリニャヤ岬)。樺太南部西側の能登呂半島の突端にある。

(69-4)「辰巳(たつみ)」・・東南。

(69-7)「此海、北より南への汐、誠に早きなり」・・日本海を北上した対馬暖流は、その大半が津軽海峡から太平洋に流出する。残りは、北海道西海岸沿いに北上し、その大部分が、宗谷海峡を通って宗谷海峡を通ってオホーツク海に流入し、宗谷断流と名を変える。流速は春季~秋季には約1.5 ノットで、夏季には3ノット(時速約5キロ)に及ぶ所もある。

(69-10)「クシユンコタン」・・カラフトの南端アニワ湾の中央にある町。日本名大泊。現コルサコフ。寛政2年(1790)松前藩がカラフトの経営に着手し、クシュンコタンに運上屋を設け、ついで勤番所を置いて以来、この地はカラフトにおいて日本人が商業および漁業を営むもっとも重要な根拠地となった。

(69-10)「支配人清水清三郎」・・栖原家のクシュンコタン場所の支配人は、多くの文献は「清水平三郎」としている。『蝦夷紀行』は、「清水平三郎」。彼は、栖原家の支配人と蝦夷通詞も兼ねており、また、松前藩の士席先手組にも取たてられていた。ロシアのクシュンコタン占拠の際、清水は、松前藩の通訳をつとめ、また、単独でもしばしばムラビヨフ哨所を訪れ、ロシア将校と対談している。資料1

(70-2)「事ども」・・「ども」は、名詞・代名詞に付いて、そのものを含めて、同類の物事が数多くあることを示すが、必ずしも多数とは限らないで、同類のものの一、二をさしてもいう。人を表わす場合は「たち」に比べて敬意が低く、目下、または軽蔑すべき者たちの意を含めて用いる。現代では、複数の人を表わすのに用いられることが多い。

(70-5)「松前役人詰所の役所」・・松前藩の勤番所。松前藩では、夏の4~7月まで、役人2名、足軽2名を常駐させていた。


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