森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2012年05月

仮名文字のすばらしさ

中国文学者の一海知義氏のエッセイー「一海知義の漢詩閑談」(『しんぶん赤旗』2012420日付文化欄所収)で、清国外交官が仮名文字のすばらしさについて言及している漢詩を紹介しているので要点を引用する。

明治初期、清国外交官として来日した詩人黄遵憲(こうじゅんけん)氏の『日本雑事誌』の一首で、仮名文字について作詩している。一海氏は、その漢詩の書き下しを記している。

「伊呂波(いろは)四十七文字、已(すで)に衆音(あらゆる発音)を綜(す)ぶ。点画(てんかく)もまた簡(かん)、習い識(おぼ)ゆるには易(やす)し。故に彼の国の小児は、語を学びて以後、能(よ)く仮名(かな)に通すれば、便(すなわ)ち能(よ)く小説を看、家書(てがみ)を作る」

一海氏は、この詩は、黄氏の「自国の識字情況への反省をふくむ」と述べている。

私は、日本語を学ぶひとりとして、かねがね、日本人は、漢字渡来以来、日本の風土にあった文字を作り出し、縦横に読み書きするようになった歴史的経過を学ぶにつけ、そのすばらしさに感嘆している。一海氏のエッセーを読んで、私のひとりよがりでなく、中国の詩人の目からの観察でも証明されたと思った次第である。

蝦夷日記 6月注                 


(78-1)「左(ひだ)り南」・・南東。「左」は、正面を南に向けたときの東側にあたる側。また、東西に二分した時の東方。

(78-3)「岸々(がんがん?)」・・きわだつさま?

(78-5)「大丈夫(だいじょうぶ)」・・①きわめて丈夫であるさま。ひじょうにしっかりしているさま。ひじょうに気強いさま。②まちがいなく。たしかに。心配はいらない。③立派な男子。ますらお。ここでは、①

*<語誌>「丈夫」の美称で本来は③の意味の漢語であったが、日本ではの形容動詞的な用法が中世末頃から発達した。明治時代の「言海」「日本大辞書」では、「だいじょうふ」と「だいじょうぶ」とが別見出しになっており、前者は本来の意味を示し、後者は形容動詞や副詞的な用法を示す。
「大丈夫」と「丈夫」とは、形容の語としてほぼ同じ意味用法であったが、近世に分化が起こった。明治以降「丈夫」が達者な状態や堅固なさまを表わすのに対し、「大丈夫」は危なげのないさまやまちがいのないさまを表わすという区別が明確になった。

(78-9)「廉々(かどかど)」・・部分部分、ふしぶし。

(79-1)「中々」・・ずいぶん、非常に。

(79-10)「キヤマン」・・ギヤマン。ガラスのこと。①オダンダ語のdiamantから。江戸時代、ダイヤモンドを呼んだことば。②彫刻をほどこしたガラス製品を「ギヤマン彫り」と呼んだところから)ガラス製品一般をさす。ビードロ。玻璃(はり)。

*<語誌>江戸前期にはすでに使われていたようで、初めは、原義通りダイヤモンドの意で用いられていたが、ダイヤモンドでガラス器に彫刻をほどこしたところから、細工したガラス器のことを「ギヤマン」と言うようになり、さらに19世紀になると、ガラスそのものを意味するようになった。また、それ以前に入っていたポルトガル語由来のビードロと混同された。明治時代になると「ガラス」にとって代わられ、次第に使われなくなった。

(81-7)「水切(みずぎれ)」・・水がかれてなくなること。水の絶えること。

(81-10)「涼台(すずみだい)」・・暑さを避けて涼むときに用いる腰掛け台。夏の夜などに、縁先や川辺などで用いる。縁台。納涼台。涼み床。

 

『船長(ふなをさ)日記』6月注(3)

(5-9)「つたなく」・・拙く。下手な。未熟な。

(5-9)「いやしげ」・・賤げ。形容詞「いやし」の語幹に接尾語「げ」の付いたもの。品格の低いさま。下品なさま。

(5-9)「なん」・・なむ。係助詞。「なむ」を受ける活用語を省略して余情を表わす。

(5-10)「文政五年霜月」・・西暦換算では18221213日~1823111日。「霜月」は陰暦11月。語源には諸説あるが、折口信夫は、『〔霜及び霜月』の中で、「シモ(下)ミナ月、あるいはシモナ月の略。祭り月であるカミナ月に連続するものとしてシモナツキを考えたものらしい」としている。

(5-11)「藍水(らんすい)」・・池田寛親の号。寛親は、そのほか、淡郷(たんきょう)。主鈴(しゅれい)とも号した。国学に造詣が深かった。

(5-11)「池田寛親(いけだひろちか)」・・尾張半田の船頭小栗重吉から太平洋漂流談をきき,文政5(1822)「船長(ふなおさ)日記」をあらわす。安永8(1779)?生まれ。はじめ陸奥中村藩9代藩主相馬祥胤(よしたね)の家臣。享和3(1803)、藩主祥胤の四男亀丸(のち定邦)が、三河新城(しんしろ)藩の家臣菅沼家に入ったので、寛親もその補導役として菅沼家の用人となり、新城藩の江戸家老となった。「船長日記」は、この間の記録である。寛親は文政12(1829)に幕臣新見正路(しんみまさみち)の所望により転身してその家老になり、榎本左司馬寛親と名乗った。天保4(1833)病没。行年は60に近い。

(6-2)「考へただしたる」・・自分の思いで訂正する。「考え」については、11行に「かうがへ」とある。これは、「かんが(考)へ」の「ん」を「う」と表記したもの。「コウガエ(コーガエ)」と発音する。

(6-5)「はた」・・将。(はた)。はたまた。それともまた。あるいは。

(6-6)「インユツパン」・・異本は、「イシユツパン」に作る。

(6-7)「耳なれたる」・・耳慣れたる。たびたび聞いて珍しくなくなる。異本は、「聞きなれたる」に作る。

(6-6)「〽(庵点=いおりてん=」・・「インユツパン」の前にある記号「〽」は、「庵点(いおりてん)」という。箇条書の文書、連書の和歌、連歌、謡物、連署の姓名などの右肩に加える「」「」などの記号。庵形をしているのでいう。散文中に歌謡を引用する時にも使い、長唄などの歌謡の本では、段落のはじめを表わす。確認済み、注意をうながすなどの印としても用いる。

 *<括弧(かっこ)>・・①括弧記号の使用は、一九世紀の蘭訳書にすでに見られるが、具体的な名称はなかった。②中国で宣教師A=ワイリが数学書の翻訳に記号と共に「括弧」という語を用いた。これが他書を介して日本に入り、「工学字彙」や「改正増補和英語林集成」に収録され、一般化した。

 *主な括弧とその名称

( ) 丸括弧、小括弧、パーレン

{ } 波括弧、中括弧、ブレース

[ ] 角括弧、大括弧、ブラケット

〔 〕 亀甲(きっこう)括弧

【 】 隅(すみ)付き括弧

「 」 鉤(かぎ)括弧、鉤(かぎ)、ひっかけ

『 』 二重鉤括弧、二重鉤、二重ひっかけ

〈 〉 山括弧、山パーレン、ギュメ

《 》 二重山括弧、二重山パーレン、ダブルギュメ

‘ ’ クオーテーションマーク

“ ” ダブルクオーテーションマーク

″ ″ ダブルミニュート

(6-7)「誰(たれ)」・・近世「だれ」と変化した。近世後期からの現象と思われる。現代では、「だれ」が一般的であるが、主に文語脈の中では、「たれ」ともいう。

(6-9)「皇国(こうこく・すめらみくに)」・・天皇が統治する国。昭和二〇年頃まで、日本の異称として用いられた。すめらみくに。

(6-9)「ことばと  皇国の詞(ことば)とは」・・「ことばと」と「皇国」の間の空白は、尊敬の体裁の欠字。

(6-10)「音便(おんびん)」・・①発音上の便宜に従って音が変化すること。②国語学では音韻の脱落、同化、交替などをいい、イ音便、ウ音便、撥(はつ)音便、促(そく)音便の四種の区別がある。それぞれ「イ」「ウ」「ン」「ッ」となるもの。これを国語学上の用語として規定したのは本居宣長であるが、宣長は連濁をも音便に含めた。

(6-10)「さるかた」・・それ相応な人。身分ある、ある人。ここでは、自分をさして言う。

(6-11)「さかしら」・・賢ら。(「ら」は接尾語)形容動詞。賢人らしくふるまうこと。利口そうにふるまうさま。気丈がるさま。もの知りぶるさま。

(6-11)「かうがへ」・・考え。「かんが(考)へ」の「ん」を「う」と表記したもの。「コウガエ(コーガエ)」と発音する。

『船長(ふなをさ)日記』6月注(2)

(2-11~3-1)「三河国にもの(物)して*」・・三河の国に行って。著者池田寛親(ひろちか)は、三河国設楽(しだら)郡新城(しんしろ)の陣屋主・菅沼家の用人であり、江戸詰であったが、当時、新城に帰っていた。

*「もの(物)す」・・名詞「もの(物)」にサ変動詞「する」の付いてできたもの。種々の動詞の代わりとして、ある動作をそれと明示しないで婉曲(えんきょく)に表現するのに用いる。人間の肉体による基本的な動作をさす場合が多く、中古の仮名文学に多く用いられた。ある、居る、生まれる、また、行く、来るなどの意を表わす。

 *<漢字の話>「河」・・中国で黄河のこと。「河」は、「水」+「可」。音符の「可」は直角に曲がったかわのこと。黄河は西北中国の高原を発し、たびたび直角に屈曲して、曲がり角で激流となる。ちなみに、「歌」の原義も屈曲したふしをつけてうたうこと。なお、「川」は、低い所をうがつように通るかわ。「江」は、まっすぐ大陸をつらぬく長江をいう。

(3-1)「尾張国(おわりのくに)」・・東は美濃・三河、西は美濃・伊勢、南は伊勢湾、北は美濃国に接し、東は境川、西は木曾川が境界となる。国の東半分は北の犬山付近から南の知多半島の南端に至るまで丘陵が起伏し、西半分は肥沃な濃尾平野が広がる。「尾張志」は山田郡小針(おばり)村に「延喜式」記載の尾張神社があり、ここを尾張氏の本拠と考え、この郷名が国名になったという。江戸期、家康が尾張にその子・義直を配し、親藩筆頭の六一万九千石余の大藩・尾張藩を創設した。御三家筆頭の尾張徳川家がそれである。この地は、肥沃な平野であると同時に、政治的・軍事的にも重要な地域であった。尾張の地は江戸と京・大坂のちょうど中間に位置し、東海道・中山道に接し、さらに木曾・長良・揖斐(いび)の大河を扼して上方および西国大名に対する押えとして最も要衝の地であった。

(3-1)「舩人重吉(じゅうきち)」・・重吉は、天明5年(1785)三河国幡豆(はず)郡佐久島村(昭和29年=1954=一色町に編入、さらに一色町は平成23年=2011=に西尾市に合併)の百姓善三郎の次男として生まれた。佐久島は、三河湾最大の島で、江戸時代には三河海運の拠点で、江戸通いの千石船を所有する海運業者もあった。

 重吉は15歳のとき船乗りとなり、のち半田村荒古(あらこ=現半田市荒古町=)の百姓庄兵衛の養子になっている。重吉が乗った督乗丸は名古屋納屋(なや)町の商人・小島庄右衛門の持ち船で、重吉の叔父の長右衛門が沖船頭であったが、漂流したときは重吉が代って船頭として船出した。時に重吉29歳。

(3-2)「さるは」・・実は。動詞「さり(然有)」の連体形に係助詞「は」のついてできたもの。一つの事態を受けて、それが本来もつ意味、そのような事態となった理由、などを解説するのに用いる。それというのも本来。そういうことは実は。

(3-2)「過(すぎ)し年」・・文化10年(1813)のこと。

(3-2)「伊豆国(いずのくに)」・・県東端の伊豆半島と、現在東京都に編入されている伊豆諸島を含む地を領域とした国。北西は駿河国、北東は相模国と接する。国名の由来は、『日本歴史地名大系』(平凡社)によると、「国内に温泉が数多く湧出しているところから、『湯出づ』の意とする説があるが、伊豆諸島における多数の式内社の存在や卜部の活動から、『斎(いつ)く』という語に由来する可能性もあろう。」と記している。

(3-2)「子浦(こうら)」・・伊豆半島の突端に近い西岸の集落。現静岡県賀茂郡南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。乗組員一四名のうちに子浦出身の音吉がおり、体験を記した水主音吉救助帰国聞書(戸崎家文書)が残り、浄土宗西林(さいりん)寺には音吉の墓がある。

(3-4)「あらぬ」・・(「あらず(不有)」の連体修飾用法が特殊化したもの)。(そうではないの意から)そのものとは違った。別の。思いもかけない。意外な。

(3-4)「ひとゝせあまり五月(いつつき)がほど」・・1年と5ヶ月ほど。「ひととせ」は、いちねん。「五月(いつつき)」は、五か月。なお、特に懐妊してから五か月目のことをいう。この月に岩田帯を締める。「が」は格助詞で「~の」。督乗丸は、文化10年11月4日(西暦1813年11月26日)に漂流を始め、イギリス船に救助されたのが文化12年2月14日(西暦1815年3月24日)で、漂流実日数484日という世界の漂流史上、最長といわれている。現在の西暦換算では、1年4ヶ月と20日だが、和歴では、文化10年は、11月の次に閏11月があったから、1年5ヶ月といえる。

(3-4~5)「何国(いずく)」・・異本は、かなで「いつく」「いづく」に作る。

(3-5)「からふして」・・「からくして」の変化した語。発音は、「カロウジテ」。どうやらこうやら。やっとのことで。ようやく。からくも。

(3-56)「人の国の船」・・イギリス船フォレスタ号。「人の国」は、日本以外の国。他国。外国。 異国。ひとくに。例として、「ひとごと」は、他人ごと。

 *「人のくににも最愛の妻持たるにぞそしり取りたるめる」(『宇津保物語』)

 *「黄金は人国(ひとくに)より献(たてまつ)ことは有れども」(『続日本紀』)

(3-6~7)「五年(いつとせ)をへて古郷(ふるさと)に帰り来りける」・・重吉が名古屋に帰ったのは、文化14年5月2日ころ。実際にはこの期間は3年5ヶ月ほど。

(3-7)「つとつとと」・・異本は、「つぶつぶと」に作る。「つぶつぶと」は、こまごまとくわしいさまを表わす語。つまびらか。

(3-8)「めづらかなる」・・形容動詞「めづらかなり」の連体形。ふつうと違っているさま。良い意にも悪い意にも用いる。風変わりなようす。目新しいさま。奇態なさま。めずら。

(3-9)「大(おお)かた」・・次に述べる事柄に関して、細かいことはともかく、大づかみにいえば、の気持を表わす。だいたい。およそ。

(3-9)「こゝら」・・ここら。此処。「ら」は接尾語。話し手側の場所、事物などをさし示す(近称)。「ここ」よりも広く漠然とした範囲にいう。

(3-10)「大洋(たいよう・おおうみ)」・・大きな海。

(3-11)「心肝(こころぎも)」・・内臓としての、心と肝。転じて、心。胸中。魂。思慮。考え。

(4-1)「つくる」・・尽きる。上2段動詞「尽(つ)く」の連体形。

(4-7)「慰(なぐさめ)ぐさ」・・慰め種(ぐさ)。なぐさめとなる材料。心をいやす手段。

(4-8)「すぢ」・・筋。おもむき。ようす。さま。

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『船長(ふなをさ)日記』6月注(1)

【北海道立文書館所蔵の船長(ふなをさ)日記の書誌】

今月から学習する「船長(ふなをさ)日記」は、北海道立文書館所蔵図書である(旧記1316)。その書誌(書物の外観・材質・内容成立上特徴を記述したもの。書史)に触れる。表紙の「ふなをさ日記」の下に丸に星印があり、中央に「文」とある。これは、北海道道庁の「北海文庫」所蔵図書の印である。(本注記の表紙)

「北海文庫」は、金田吉郎(かねたきちろう)氏の寄贈図書の名前である。金田氏は、明治23年(1890)北海道庁属となり、財務部経理課長、檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡長、小樽高島忍路余市古平美国積丹郡長を歴任、明治30年(1897)東京府属に転じた。明治37年(1904)東京府南多摩郡長に就任してから、同郡八王子町に「北海文庫」を設立した。氏は、北海道庁に勤務後、北海道に関する図書を蒐集した。氏の「図書献納ヲ御庁ニ願スル理由」(以下「理由書」。『北海文庫図書ノ始末』所収)の中で、「北海道ニ関係アルモノハ新古細大ヲ問ハズ、断管零墨(断簡零墨=だんかんれいぼく。古人の筆跡などで、断片的に残っている不完全な文書。切れ切れになった書きもの=)ヲ撰マズ、極力之ヲ蒐集セリ」と記している。金田氏は、明治4219095月5日に北海道庁長官河島醇(かわしまじゅん)に「図書献納之儀ニ付願」(資料1)を提出している。氏は、前掲「理由書」のなかで、「本年一月、御本庁舎火災ニ罹リ、御保管ノ図書モ多ク灰燼ニ帰シタルト聞ク・・不肖吉郎所蔵ノ図書ヲ御庁ニ献納シ拓殖ノ参考ニ供セントス」と献納の理由を述べている。「本庁舎火災」というのは、明治42年1月11日午後6条過ぎ、北海道庁内印刷所石版部から火災が発生したことをいう。この火災で庁舎屋根裏の文庫にあったすべての文書が焼失した。金田氏が献納した図書は、合計1326点である。明治政府賞勲局は、金田氏の寄附行為に対して銀杯を送っている。

 「船長(ふなをさ)日記」は、金田氏の寄贈によるものである。金田氏が、この本をどうようにして蒐集したのかについては、不詳である。しかし、流布されている活字本(活字本が底本とした影印)と比べても、異なる部分が多々あり、北海道立文書館所蔵の「船長日記」の解読は、意義ある作業といえる。 

【ふなをさ(船長)日記について】

江戸時代後期の漂流記。池田寛親(ひろちか)著。三巻。文政5年(1822)成立。名古屋の廻船督乗丸(乗組

員十四名)が文化10年(1813)11月江戸からの帰途御前崎沖で遭難、太平洋上を漂流十六ヵ月の間に乗組員の多くは死亡した。生存者三名は長期間の漂流に耐え、北米大陸の南西洋上で英国船に救助された。アラスカのシトカに上陸、露国の国策会社の総支配人バラノフに在留を勧められるも帰国の熱望堅く、英国船でカムチャツカに送られる。ここで越年し薩摩の漂民三名と合流し、ロシア船に送られて南下。途中一名死亡。エトロフ・クナシリの沖合まで帰るが濃霧のため上陸を果たさず、ウルップ島に上陸、以後エトロフ・クナシリを経て13年(1816)12月江戸に着き、船頭重吉ら二名は14年(1817)5月故郷の土を踏んだ。その間の苦難の体験と見聞を記録したもので、鎖国下の海外見聞録であるとともに記録文学としても貴重な資料である。



(表紙)「図書票簽(としょひょうせん)」・・表紙の中央に「図書票簽」が貼付されている。「簽(せん)」は、ふだ。もと札は、竹で作ったので竹を冠*にしている。

 <漢字の話1>古く竹で作った文具・書を表す漢字・・①「符(ふ)」・・両片を合わせて証拠とする竹製のわりふの意味を表す。②筆、③箋(せん)・・戔は薄いの意。うすくひらたい竹・ふだの意。④篇、⑤簡(かん)・・竹をけずり編んで文字を書くふだ。⑥「簿(ぼ)」・・竹を薄くけずったちょうめんの意味を表す。

 <漢字の話2>竹部の漢字・・①「第(だい)」・・順序よく連ねた竹簡の意味から、一般に、順序の意味を表す。②答(トウ。こたえ)・・竹ふだが合うさまから、こたえるの意味を表す。③「等(トウ。ひとしい)」・・「竹+寺」。竹は竹簡(書類)、脚の「寺」は役所の意味。役人が書籍を整理するの意味からひとしい。④「算(さん)」・・「竹+具」。数をかぞえる竹の棒をかじえるの意味を表す。

(表紙)「舊記(きゅうき)」・・図書票簽の「類名」欄に「舊記」とある。「舊」は、常用漢字「旧」の旧字体。北海道立文書館の「旧記」は、近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録などが2341点所蔵されている。原本に類するものは少ないが、すぐれた写本が多く、その内容の豊富さにおいても、誇りうる集書といえる。本文書はそのひとつである。

(表紙)「ふなをさ」・・船頭。現在は「船長(せんちょう)」が一般的に用いられる。(軍艦の長は「艦長」)。船頭は和船の長。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

<漢字の話>「遠」・・「エン」は漢音、「オン」は呉音。変体仮名「遠(を)」の「を」は、呉音から発生した。呉音の例として「遠流(おんる)」「久遠(くおん)」などがある。

<変体仮名>「遠(を)」・・「を」は、仮名文字発明当時、「ウォ」のような発音だった。だから、現在の発音の語頭の「オ」を、歴史的仮名遣いで「を」と書かれたものがある。

*語頭が「を」の例・・尾(を)張、鼻(はな)、ひ)、)へる、雄々(をを)しい、か)、岡(をか)、笑(か)しい、か)す、が)む、桶(をけ)、長(をさ)い(さ)ない、さ)める、父(じ)、父(ぢ)、惜(を)しい、教(をし)へる、牡(をす)、夫(をっと)、男(をとこ)、一昨日(ととひ)、少女(とめ)、囮(をとり)、踊(をど)る、斧(をの)、檻(をり)、を)る、居(を)る、終(を)はる、女(をんな)など。

*語頭以外で「を」の例・・(あ)、(いさ)、(うを)、(かり)、(かつ)、竿(さ)、(しり)、(し)れる、(と)、益荒男(ますら)、(み)、(みさ)、夫婦(めをと)など。

 *<重たい「を」>・・ワ行の「を」を、関東など、「重たい『を』」と呼ぶ地方がある。


 


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蝦夷日記 5月注 

(73-34)「さんだん国」・・サンタン国。江戸時代、樺太へ交易を目的に渡来する黒竜江下流域の住民をサンタン(山丹・山旦・山靼)人とよんでいた。

(73-9)「明家(あきや)」・・空家、空屋。人のいない家。

(74-34)「酒、酢、醤油、油など不残氷なり」・・酒は、-114.5度、酢は0.83度、醤油はー40度で氷る。油は凍らない。

(74-8)「手甲(てこう・てっこう)」・・手の甲をおおい保護するもの。

(74-8)「鞜(くつ)」・・くつ。

(75-1)「玉目(たまめ)」・・玉の目方。銃弾の重さ。

(75-12)「アイノ男に」・・『蝦夷紀行』、『蝦夷地名記』とも、「アイノ男女」としている。

(75-2)「被下物(くだされもの)」・・拝領品。たまわりもの

(75-4)「緋縮緬(ひぢりめん)」・・緋色のちりめん。多く婦人の長襦袢(ながじゅばん)、腰巻などに用いる。

(75-4)「嶋反物(しまたんもの)」・・「嶋」は、二種以上の色糸を用いて、たて、またはよこ、またはたてよこに筋を織りだした織物。「縞」を当てる場合が多いが、「嶋」「島」も使う。語源説に、南洋諸島から渡って来た物であるところから、シマモノ(島物)の略がある。

(75-8)「又候(またぞろ)」・・副詞「また」に「そうろう」がついた「またぞうろう」の変化したもの。類似する状態が既にあるのに、他の同様の状態が新たに存在することを、一種のあきれた気持・滑稽感を含めて表わす語。なんともう一度。こりもせずにもう一度。

(75-10)「柏屋六右衛門」・・「柏屋」は、「栖原屋」の誤りか。「柏屋」は、「喜兵衛」であり「六右衛門」でなない。また、柏屋は、樺太の請負ったことはない。

(76-1)「樺太島より続(つづき)なり」・・すでに、文化5(1806)、松田伝十郎とともに樺太(からふと)を探検した間宮林蔵は、樺太が島であることを確認している。この嘉永7年(1854)の幕府調査隊が、それを知らなかったとは思われない。したがって、「続(つづき)」は、「陸続き」というより、「(樺太)の次に位置する」というくらいの意味か。

(76-2)「出来(しゅったい)」・・「しゅつらい(出来)」の変化した語。出て来ること。あらわれ出てくること。

(76-5)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。

(76-6)「ホロアントマリ」・・現コルサコフ。旧日本地名の大泊。正確には、大泊はこのホロアントマリ(栄町)に久春古丹(クシュンコタン、楠渓町)・母子泊(パッコトマリ、山下町)を合わせた地。松浦武四郎は、鈴木重尚の『甲寅唐太日記』に注して、「区春許譚(クシュンコタン)は当島第一の好港、西人爰を指してアニワ港と云。運上屋元にして建物蔵々、また弁天社等美々敷立たり。其北八丁にバッコドマリ、南三十余丁にしてポロアンドマリ等、何れも番屋蔵々あり。」と記している。

(77-1)「被為召(めさせられ)」・・お乗りになり。「召す」は、「乗る」の尊敬語。お乗りになる。語誌は、4段動詞「召す」の未然形「召(め)さ」+尊敬の助動詞「さす」の未然形「させ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

(77-1)「二本道具(にほんどうぐ)」・・江戸時代、大名行列の供先などに立てた二本一対の槍。ふたつどうぐ。

(77-1)「台弓(だいゆみ)」・・飾り弓とも。二張並べて飾り台にすえることからいう。ここでは、大名行列の弓で、弓矢台に空穂(うつぼ。矢を入れる道具)をつけて、台の上端に蝶番(ちょうつがい)の着いた鉤があるのを肩に当てて片手で下方を持って担ぐ。

(77-1)「跡箱(あとばこ)」・・江戸時代、大名行列で、乗馬または駕籠の後について持って行く挟み箱。

(77-1)「茶瓶(ちゃびん)」・・江戸時代、貴人が、外出する時に、茶道具一式や弁当などを入れて持ち運んだ具。

(77-12)「本格道中(ほんかくどうちゅう)」・・本格的な大名行列のような隊列のこと。『蝦夷紀行』は、「本格」と「道中」の間に「にて」があり、「本格にて道中の通」とある。

(77-2)「松前様御役人中不残の御出也」・・『蝦夷日記』のこの部分は、「松前様附添諸役人中不残御附にて、右に准之出るなり」とある。

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ふなをさ日記 5月注(3)

(114)「箱館御奉行所」・・松前奉行所のこと。幕府は、文化4(1807)10月、奉行所を箱館から福山に移し、松前奉行と改称した。本文書時期の文化13年(1816)は、松前奉行になっている。

(115)「仏は侍渡(はべりわた)らざる」・・ここは、「十字架は渡されなかったか」ほどの意か。「仏」は、「十字架」。「侍(はべり)は、ラ変動詞。「あり」「居り」を丁寧にいう語。鎌倉時代以降は、単に雅文的表現として用いられた。

(115)「さる事は侍らず」・・「そのようなことはありません」ほどの意。

(116)「聞(きこ)え上(あ)ければ」・・申し上げると。下2段動詞「聞え上ぐ」は、「申し上げる」。

(116)「揚(あが)りや」・・未決囚を入れた所。現在の留置所。

(117)「口書(くちがき)」・・江戸時代、法廷で当事者の申し立てを筆記した供述書。口書は、百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(118)「のぼされ」・・送られ。「上(のぼ)す」は、人や物を地方から都へ送りやること。

(118)「下知(げじ・げち)」・・「げち」とも。上から下へ指図すること。命令。いいつけ。

(119)「五郎十」・・中川五郎次。ロシアから持ち帰った牛痘書を訳し、本邦種痘術の鼻祖となった。

・明和5年(1868)陸奥国北郡田名部川内村に生まれる。

・寛政11(1799)、蝦夷地に渡り番人となる。

・享和元年(1801)エトロフ詰となる。

・文化4(1807)4月、エトロフ島にロシア人フヴォストフらが上陸、五郎次ら捕えられる。五郎次はオホーツクに連行された。その後、逃亡をはかり、シベリアを放浪する。再逮捕されたあと、イルクーツクの日本人学校の教師を勤めている。

・文化9(1812)8月、ゴローニン返還交渉のため来日するリコルドに伴われ、ディアナ号でクナシリに到着。

・同年10月、五郎次、松前着。その後、江戸で取り調べを受ける。

・文化11年(181410月、松前奉行に仕える。

*本文書の重吉らが松前で、取り調べを受けていた時期の文化13年、五郎次は、松前に滞在していた。

(1110)「神参(かみまいり)」・・神社に参詣すること。

(1111)「ありきて」・・歩いて。「ありき」は、「ありく」の連用形。

<語誌>「ありく」と「あるく」・・上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる。

(112)「神無月(かんなづき)」・・陰暦10月。

(113)「三厩(みんまや)」・・青森県津軽半島北西端に位置する村。竜飛(たっぴ)崎が突出している。江戸時代には寒村であったが、松前蝦夷地渡海の要津であった。

(115)「千住(せんじゅ)」・・江戸を出て、奥州街道の最初の宿場町。

(116)「エゾ会所」・・松前奉行所の江戸会所。

(117)「霊岸島(れいがんじま)」・・霊巖寺が建てられてあったところから呼ばれた。東京都中央区、隅田川河口の島。現在新川一・二丁目となる。江戸初期までは中島と呼ばれていた。万治元年(1658)霊巖寺が深川に移ると、水運に恵まれた地の利から倉庫が並び、江戸時代は材木問屋街、のち清酒問屋街として発展した。

(1111)「尾州御屋敷(びしゅうおやしき)」・・江戸の尾張藩の屋敷。上屋敷は、市ヶ谷にあった。

(1113)「清水御門」・・名古屋城三の丸北側にあった門。門内に尾張藩の勘定奉行所があった。

(1114)「かたみ(互)に」・・たがいに。

 *「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは〈清原元輔〉」(後拾遺和歌集 恋四・七七〇)

ふなをさ日記 5月注(2)

(91)「弟嘉十郎」・・嘉兵衛は、6人兄弟の長男で、弟に、上から、金兵衛、善兵衛、嘉蔵、嘉四郎、嘉十郎などがいた。嘉十郎は、一番下の弟。

(912)「嘉十郎来る」・・ここは、「嘉十郎(の船が)来る」の意か。異本は、「嘉十郎来り」とある。文書館解読文は、「嘉十郎、来る十四日に・・」とあるが、どうか。

(93)「申(さる)の時」・・午後4時前後の2時間。

(93)「ヲトイヤハシ」・・ヲトイマウシ。漢字表記地名「乙今牛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。シベトロ南西の海岸に位置する。明治初年にヲトイマウシ、トウロ、ショッチキヤなどを包含してヲトイマウシ村が成立した。資料1参照

(945)「かかり居たり」・・懸り居たり。碇泊していた。「かか(懸)り」は、船が、いかりをおろしてまたは岸につながれてとまる。停泊する。

(96)「ヘツトウブ」・・別飛(べっとぶ)。オトイマウシの西、シャナの東位置し、北はオホーツク海に面する。資料1参照

(96)「サナ」・・シャナ。紗那。択捉島の中心村落。同島中部北西岸にあり、オホーツク海に面する紗那湾岸の海岸段丘上に位置する。紗那川の河口にあたり、良港をなす。第二次世界大戦前には村役場、無電局、測候所、全千島水産会、缶詰工場があり、紗那川上流に大規模なサケ・マス孵化(ふか)場が置かれていた。近海からはサケ、マス、タラ、クジラ、海藻類がとれ、夏には漁場が開かれ、多くの繰り込み漁夫でにぎわった。

 寛政12年(1800)幕府は近藤重蔵に命じて高田屋嘉兵衛に択捉島を開発させ、紗那に会所を置き、幕吏や津軽・南部藩兵が守備したが、文化4年(1807)ロシア人が会所を襲い焼いた。明治18年(1885)紗那郡役所が置かれた。その後、根室支庁(現根室振興局)管内の紗那郡紗那村を構成して終戦に至った。

(97)「フルヱベツ」・・フウレベツ。漢字表記地名「振別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ルベツの西方海岸に位置する。文化4(1807)のロシア船のシャナ襲来後、当地にエトロフ場所の会所が移され、仙台藩が勤番となった。資料1参照

(98)「此島中にての都(みやこ)」・・当時、フウレベツには、エトロフ会所が置かれていた。

(910)「一(ひと)とふり」・・一通り。最初から最後までざっと行なうこと。一回順を追うこと。また、その内容。ひとわたり。いちおう。

(94)「ヲトイ」・・オイト(老門)か。フウレベツ(振別)の西にある集落。資料1参照

(95)「ヲタシツ」・・ウタスツ。漢字表記地名「宇多須都」のもとになったアイヌ語に由来する地名。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。資料1参照

(96)「ナイホウ」・・ナイホ。漢字表記地名「内保」のもとになったアイヌ語に由来する地名。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。資料1参照

(97)「タ子(ね)モイ」・・タンネモイ。ナイホ。漢字表記地名「丹根萌」のもとになったアイヌ語に由来する地名。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。資料1参照

(98)「つぎつぎに」・・次々に。

(99)「丑寅(うしとら)」・・北東の方角。

(99)「アトイロ」・・アトイヤ。漢字表記地名「安渡移矢」のもとになったアイヌ語に由来する地名。クナシリ島北東端の地。資料4参照

(910)「二百十日」・・雑節の一。立春から数えて210日目、91日ごろにあたる。台風襲来の時期で、稲の開花期にあたるため、昔から二百二十日とともに農家の厄日とされる。

(912)「セセキ」・・クナシリ島中部の太平洋岸の集落。資料4参照

(101)「トマリ」・・クナシリ西端のノツエト岬とケラムイ岬に囲まれた泊湾の奥にある集落。クナシリ場所の会所があり、南部家勤番所も置かれた。ネムロとの渡海地であった。

(105)「子(ね)モノ」・・子モロ。根室。

(105)「ノツケ」・・野付。

(103)「便り」・・便宜。手段。

(104)「アツケシ」・・厚岸。

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ふなをさ日記 5月注(1)

(82)「気色(きしょく)」・・顔面にあらわれた表情。顔色。

 <語誌>「気色」は、呉音「けしき」と、漢音「きしょく」及びその直音化の「きそく」の三とおりの読みがなされる。「きそく」は平安末期以降用いられ、さらにやや遅れて「きしょく」が中世以降盛んに使用されたが、「きしょく」の多用に伴い、「きそく」は徐々に用いられなくなっていった。

中世以降、の用法で「けしき」と「きしょく」(「きそく」は「きしょく」よりさらに意味が限定される)が併用されるが、「けしき」は中古の仮名文学に多用されたため、和語のように意識され、外面から観察される心の様子について用いられる傾向があるのに対し、「きしょく」は漢語的な性質をもち、人の内面の状態そのものを表わすことが多いというおおよその違いがある。

(83)「にや」・・(格助詞「に」に疑問の係助詞「や」の付いたもの)場所・時などに関して、疑問または反語の意を表わす。~のだろうか。

(84)「か程(ほど)」・・斯程。これほど。これぐらい。この程度。

(85)「シビトロ」・・蘂取(しべとろ)。エトロフ島東部、エトロフ海峡に面している。資料1.参照

(85)「とぞ」・・(格助詞「と」に係助詞「ぞ」の付いたもの。文末にあって「言へる」などの結びは失われて)一般的な解説または伝聞の意を表わす。…というわけである。…ということである。

(856)「調役下役(しらべやくしたやく)」・・松前奉行(文化4=18071024日、奉行所を箱館から福山に移し、箱館奉行は、松前奉行と改称した)の役職名。本文書時期の文化13年当時の松前奉行の役職名と役人名は資料3参照。

(86)「村上貞助(むらかみていすけ)」・・松前奉行の役人。当時、エトロフ詰合。貞助は、文化8(1811)、松前奉行の命を受け、福山に幽閉中のゴローニンからロシア語を学んでいる。その後、貞助は、ロシア語の通訳として、日ロ交渉で活躍している。また、村上島之丞の養子にもなっており、秦貞廉の筆名で、友人の間宮林蔵が口述した「東韃紀行」を編纂している。

(88)「折々(おりおり)」・・次第次第。段々。

(88)「給(たべ)」・・下二活用「給(た)ぶ」の未然形。「飲む」「食う」の謙譲語、また、丁寧語。

(88)「ことごとく」・・「こと」は、「こ」と「と」のひらがな合字*。「杢(木工)」「麿(麻呂)」は、漢字合字。下のような記号合字もある。

 *記号合字・・「之を弗と書するは、U〈ユウナイのユウ〉S〈ステートのス〉の合字$を標としたるなり」(久米邦武著『米欧回覧実記』)

 *ひらがな合字の例・・「候て」「候べく候」など。資料2参照。

 (88)「封印(ふういん)」・・物が勝手に開かれたり、取り扱われたりするのを禁ずるために、封じ目におした印章。

(89)「つばら」・・くわしいさま。十分なさま。つばらつばら。つまびらか。つばらか。

(89)「一(ひと)わたり」・・ひと通り。いちおう。

(810)「湯あみ」・・湯浴。お湯に入って温め、また洗うこと。入浴。

(810)「月代(さかやき)」・・近世、露頭が日常の風となった成人男子が、額から頭上にかけて髪を剃(そ)ること。また、その部分の称。語源には、「昔、冠を着けるときに、前額部の髪を月形に剃ったところから」など諸説がある。

(811)「ものゝけ」・・物怪、物気。人にとりついて悩まし、病気にしたり死にいたらせたりするとされる死霊・生霊・妖怪の類。また、それらがとりついて祟ること。邪気。

(811)「ねぶく」・・寝むく。形容詞「寝(ね)ぶし」の連用形。

(811)「弁(わきま)へ」・・分別。

(82)「腹もち」・・腹持ち。腹のぐあい。腹の調子。

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