森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2012年06月

蝦夷日記7月 注 

蝦夷日記 注                                   

(84-1)「ほ□」・・「ほど」で「ど」欠か。「ほど」は、「火床」を当てる。火をたく所。特に、いろりの中心の火をたくくぼんだ所。

(84-1)「本(ほん)ノママ」・・「本」は、書写されるもとの書物など、ある状況から転じて現在の姿に変わったものに対して、そのもとのものをいう。手本。

(84-5)「じやがたら●芋」・・異本は、「ジヤガタラ芋」に作り、「●」はない。

(84-5)「菜(さい)」・・食用とする草。野菜。青物。異本は、「菜かぶ」に作る。

(84-89)「其其」・・「其」がひとつ重複しているか。

(85-1)「近習(きんじゅう)」・・きんじゅ、きんずとも。主君の側近く仕えること。伺候すること。また、その人。近侍。近臣。近習者。近辺衆。きんしゅう。きんじゅう。きんず。

(85-1)「上下(うえしも)」・・しょうか、じょうか、うえしたとも。身分の上の者と下の者。一般に、足軽より上を「上(うえ)」、足軽以下を「下(しも)」とする。

(85-5)「押切(おしきり)」・・①櫓(ろ)や櫂(かい)の力を借りずに港の間を行く船。②櫓(ろ)五丁立ての和船。

(85-5)「夜ふとん(ママ)」・・「夜」のあと、「着」欠か。異本は、「夜着(よぎ)ふとん」に作る。

(85-4)「新井田玄番(ママ)」・・当時の松前藩の町奉行に、新井田嘉藤太がいる。

(85-6)「田嵜楽兵衛(ママ)」・・当時の松前藩の江戸詰留守居に田崎与兵衛がいる。異本は「田崎与兵衛」に作る。

(85-9)「前印(ママ)」・・異本は、「前之記」に作る。

(87-1)「チヱミヤ」・・アニワ湾東岸・中知床半島西岸のチベサニ(地辺讃)か。旧日本名の長浜。

(87-2)「トヲブツ」・・アニワ湾東岸・中知床半島西岸のトウブチ。遠淵湖畔の地名。

(87-3)「ナヱヲンナヱ」・・アニワ湾東岸・中知床半島西岸のナヱホロか。

(87-4)「ヤワンベツ」・・アニワ湾東岸・中知床半島西岸のヤマンベツか。日本名で弥満を当てる。

(87-8)「ヲロコ」・・オロッコか。オロッコは、カラフト(樺太)原住民の一種。ツングースの一支族。南カラフトでは、タライカ湖畔とその東方、およびポロナイ川下流域に、北カラフトでは、東海岸、特にトゥイミ川下流域に居住。オロッコはアイヌの称呼で、彼ら自身はウィッタ・ウルチャ・ウルチェンなどと称する。

(88-1)「●□は(ママ)」・・異本は、「烏(からす)は」に作る。

(88-7)「膝ぎり」・・衣服の丈が膝のところまでであること。

(88-89)「魚類おも計なり(ママ)」・・異本は、「魚類計り也」、「魚類おもなり」に作る。

(89-1)「目見(めみ)へ」・・「みえ」は動詞「見ゆ」の連用形の名詞化で、(相手から見られることの意。会う相手を敬っていう語)目上の人に会うこと。お目にかかること。御目見え。

(89-12)「少しもしも違いなく(ママ)」・・「しも」が重複している。

(89-5)「とむる」・・殺す。語誌は、下2段「とむ」の連体形。

(89-9)「ハツコトマリ」・・バッコトマリ。日本名で婆古泊を当てる。アニワ湾の一番奥まった港。アニワ湾の奥に、日本名で東伏見湾という小湾がある。クシュンコタンから西のタランナイまでは、その東伏見湾内の集落。

(89-10)「ウンウ」・・バッコトマリの西にある入江。

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 「船長日記」7月注(2)

(9-11)「十二人のもの」・・督乗丸には、14人が乗っていたが(資料1)、帰国を果たしたのは、重吉と音吉の2人で、12が漂流中に死亡した。

(9-11)「いたづらにせぬ」・・果たさないことはしない。つまり、果たす。「いたづら」は、本来の目的、意図などを果たさないで終わること。むなしく事を終えること。

(9-11)「まめごころ」・・「忠実心」の国訓に「まめごころ」がある。誠実な心。

(10-1~2)「妻(つま)のいやしき身をもて・・操とをふかくかんずるあまりになん」・・「船長日記」には、重吉の漂流中、貞淑な妻が孤閨(こけい)を守ったとある。ここは、「身分が低い妻でさえ、高貴な上流の女性に比べても恥じることのない妻の貞淑をたいへん身にしみる」というくらいの意か。

(10-1)「いやしき」・・身分の低い。貧しい。みずぼらしい。

(10-1)「やんごとなき」・・高貴な。「やんごとなし」は、「止む事無し」が一語の形容詞に転じた語。

(10-1)「上(じょう)ろふ」・・上臈。身分の高貴な人。上流の人。ここでは、「上臈女房」、つまり、身分の高い女官。

(10-2)「はづべからぬ計の操」・・異本は、「はづべからぬ」を「はずべき」に作る。全く逆の意になるが、どうか。

(10-3)「記(するし)ざま」・・書き方。

(10-3)「風流(みやび)」・・上品。洗練された風雅。優美。異本は「風流」に「みやび」とふりがなを付している。また、単にかなで「みやび」に作る。

(10-3~4)「かゝわらずかし」・・関係なく。後文に述べられる事柄が、前文の条件のいかんに関係なく、常に成立することを表わす。「かし」は、間投助詞で、文末用法では、終止した文に付き、聞き手あるいは自らに対して念を押し、強調する。中古に現われた助詞で、会話に多く用いられる。

(10-5)「聞(きか)せまほしく」・・聞いてほしい。「まほしく」は、「まほし」の連体形。「まほし」は、話し手、またはそれ以外の人物の願望を表わす。…したい。接続は、動詞および助動詞「す」「さす」「ぬ」の未然形の「せ」「させ」「な」に下接する。

(10-6)「取見らるゝ」・・手に取って見られる。取り上げて見られる。「取り見る」の連体形。

(10-6)「去(さる)に依(より)て」・・先行の事柄の当然の結果として、後続の事柄が起こることを示す。理由を示す。そういうわけで。それゆえ。

(10-8)「俚言(さとびごと)」・・庶民が用いる、俗っぽいことば。いなかのことば。方言。影印のふりがなも「さとびごと」。異本のふりがなは、「さとびことば」に作る。

(10-8)「雅言(みやびごと)」・・上品で優雅なことば。都会風のことばづかい。影印のふりがなは、「みや」のみだが、「びごと」が欠か。

(10-9)「意義(こころばえ)」・・詩歌などを通じて表現される作者の情意。気分。異本のふりがなは「こころばえ」に作る。

(10-10)「つはめたるなり」・・「つはめ」は、「つとめ」か。異本は、「つとめたるなり」に作る。

(11-1)「納屋町(なやまち)」・・現名古屋市中村区名駅(めいえき)五丁目・名駅南(めいえきみなみ)一丁目。

堀(ほり)川西岸に沿って、小船(こぶな)町(現西区)から南下、納屋町に至る南北道筋・納屋町筋、あるいは堀川西岸(ほりかわせいがん)通の南端に位置する。北は丸屋河戸(まるやごうど)で船入(ふないり)町に、南は納屋橋やや南の戸田(とだ)道で下納屋(しもなや)町、さらに水主(かこ)町へと続く二丁をさす。魚を入れておく小屋を納屋がけといい、苫葺の魚納屋で商売したところから、町号が生じたという。

(11-3)「千二百石積」・・『日本庶民生活史料集成第5巻』(三一書房刊)の『船長日記』の注には、「文化年間の尾張地方の廻船でこのクラスならば、二十七反くらいの弁才船であろう」とある。

(11-5)「長左衛門」・・異本は、「長右衛門」に作る。なお、「長右衛門」については、『江戸漂流記総集第3巻』(日本評論社刊)所収の『船長日記』の解題は、「長右衛門なる名前は、督乗丸沖船頭に付随する通り名だったのか。それとも、重吉が仮船頭(臨時の船頭)として乗組んだゆえ、尾張藩発行の往来手形の記載が、重吉と書きかえられずに、本来乗組むはずの長右衛門の名前のままで残ってしまったのか。いずれかの理由で、重吉は長右衛門を称さねばならなかったものと思われる」とある。また、『「船長日記」を読む』(成山堂刊)の解説は、『一色町誌』を引用して「督乗丸は、名古屋納屋町小島庄右衛門の持船で、叔父の長右衛門が沖船頭であったが、漂流したときには重吉が代って仮船頭として船出していたのであった」としている。

(11-5)「通り名」・・世間に通じて知られている名。世間一般に通用する名。通称。また、一家の主人などが先祖代々受け継いで用いている名。

(11-6)「さはり」・・さわり。さしさわること。都合が悪くなること。さしつかえ。支障。障害

(11~6)「箱館にての書上」・・「箱館」は、正確には、「松前」。重吉は、帰国後の文化13年11月4日、松前奉行所で取り調べを受けた時、重吉の申立を書いた書付。

(11-7)出し・・見せ消ち。
(11-7~8)「知多郡(ちたぐん)」・・愛知県尾張地方の郡。名古屋市の南、知多半島に位置する。廃藩置県後、尾張国側の名古屋県ではなく、三河国側の額田県に所属した。
(11-8)
「半田村(はんだむら)」・・愛知県知多郡にかつて存在した村。現在の半田市中心部に該当する。古くから醤油味噌などの醸造業が栄えていた。また、三河湾に面する半田港があり、米などの材料の運搬、酒、醤油などの江戸への運搬により海運業でも栄えていた。酒粕を用いたの醸造が始まると、酢は尾州廻船によって江戸に運ばれた。運搬には阿久比川の排水路として築かれた半田運河が利用されていた。このこともあり、江戸時代後期には知多郡最大の村となった。明治22年(1889)に半田町となり、昭和12年(1937)周辺町と合わせて半田市となった

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 「船長日記」7月注(1)

(7-1)「せんは」・・することは。「せん」の語誌はサ変動詞「す」の未然形「せ」+推量・意思などの助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

(7-1)「中々に」・・むしろ。かえって。

(7-1)「物そこなひ」・・(真実を)損(そこな)う。「物(もの)」は接頭語。「ものかなし」「ものめずらし」「ものさびし」など。

(7-3)「画図(えず)」・・「画」は、国訓で「え」と読むことがある。「挿絵(さしえ)」、「画師(えし)」など。また、律令の役所に「画部(えがきべ)」がある。「画部」は、令制で、中務省(なかつかさしょう)の画工司(えだくみのつかさ)に属し、絵事、彩色のことに従事した伴部。また、その人。

 *「かの画図(えず)にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅有」(芭蕉『奥の細道』)

 *「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画(え)ができる」(夏目漱石『草枕』)

(7-3)「かゝまほしき」・・書きたい。書かまほしき。「まほしき」は、助動詞「まほし」の連体形。「まほし」は「~したい」。動詞および助動詞「す」「さす」「ぬ」の未然形に下接する。

(7-4)「有もの」・・見せ消ちで、「有もん」を丸で囲んで消している。

(7-4)「かたのごとく」・・ひととおりに。

(7-4)「だに」・・せめて…だけでも。ここは、「ただ、大体のことだけでも」。

(7-5)「もとだて」・・元立。本立。基(もと)。種(たね)。

(7-5)「うつしもの」・・写物。書物などを写し書くこと。

(7-6)「むげに」・・(下に打消を伴って)すこしも。全然。いっこうに。

(7-6)「おしはかり」・・推量。人の気持やものの状態などを推量すること。

(7-6)「しいて」・・強いて。むりやりに。おして。あえて。

(7-7)「ものせん」・・書こうと思っても。語誌は、サ変動詞「ものす」の未然形「ものせ」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。「ものす」は、ここでは「書く」。

(7-8)「還海異聞(かんかいいぶん)」・・「環海異聞」。「還」は、「環」の誤りか。漂流者のロシア見聞を聞き書きした記録。大槻玄沢(おおつきげんたく)撰(せん)。文化4年(1807)成稿。寛政5年(179311月末、奥州宮城郡寒風沢浜(さぶさわはま)の水主津太夫・儀平・左平・太十郎ら16名が米沢屋平之丞の持船八百石積若宮丸に乗り組み、石巻から江戸へ向かう途中、1129日塩屋崎付近で難風にあって漂流し始め、八ヵ月も海上を漂ったのち、アリューシャン列島のオンテレイッケ島に漂着した。それからオホーツク・ヤクーツク・イルクーツクを経て露都ペテルブルグに達し、生き抜いた漂民ら10名はアレクサンドル一世に謁し、津太夫ら4名は帰国を願い出、ほかの6名はロシアに残留したいと申し出た。漂民津太夫らを護送してきたナジェージダ号(艦長クルーゼンシュテルン)は文化元年(18049月長崎港に達し、ロシア使節レザーノフが通商を求めた。結局津太夫らは世界を周航した。海外の政情、風俗、言語などを組織だてて記述。図解も入り、当時の北方問題資料として注目された。

(7-8)「博士(はかせ)」・・その道に精通した人。深い知識や高い識見などをもっている人。人を教えるだけの力をもっている人。『日本国語大辞典』は、「博士」の語誌について、<応神以降、「博士」は百済との交渉に関して記録されているので、百済の制度に関係があると思われ、「はかせ」も百済の音かもしれない。>としている。

(7-9)「書(ふみ)」・・異本はひらがなで、「ふみ」に作る。

(7-9)「こゝら」・・幾許。数量の多いさま。非常に。多量に。語源説には、「①カクバカリの転ココバがココダ(幾許)に転じ、さらにココラに転音したもの〔語源を探る=田井信之〕。②巨巨等・多多等の義〔河海抄〕。ココ(巨多)に接尾語ラが付いたもの〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。」などがある。

(7-9)「つたへて」・・集めて。異本は、「つどへて」、「集(つど)へて」に作る。「つどふ」は、集める、寄せ集めるの意。

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鰥寡孤独(かんかこどく)

大塩平八郎の檄文の中に「鰥寡孤独」という熟語があったので、調べてみた。この檄文は、天保8年(1837)2月、大塩平八郎が蜂起に先立って大阪市中と摂津・河内などの村村にひそかに配布したもの。

「鰥寡孤独(かんかこどく)」とは、「妻のない夫と、夫のない妻と、みなしごと、老いて子のない者。よるべのない独り者。」(小学館『日本国語大辞典』)とある。

また、『漢語林』(大修館書店)の「鰥」の項の熟語に「鰥寡孤独」がある。そこに、『孟子』梁恵王下編の用例を挙げているので、引用する。

老而無妻曰鰥  おいてつまなきをカンといい、

老而無夫曰寡  おいておっとなきをカといい、

幼而無父曰孤  ヨウにしてちちなきをコといい、

老而無子曰孤  おいてこなきをドクという。

また、『国史大辞典』(吉川弘文館)には、日本での例を挙げている。

<『養老令』の公定解釈書の『令義解』では、鰥は六十一歳以上で妻のないもの、寡は五十歳以上で夫のないもの、孤は十六歳以下で父のないもの、独は六十一歳以上で子のないものとなしているが、八世紀の実際では、鰥は六十歳以上、独は五十歳以上で、孤は『大宝令』施行下では(けい)と記されていた(天平十一年(七三九)『出雲国賑給歴名帳』では、鰥に五十八歳、寡に四十七歳の例外をみる)。鰥寡孤独は貧窮老疾で自存不能なものとともに、近親がいなければ坊里が養うべきものとされ、またしばしば律令国家によって賑給が加えられた。>

「鰥寡孤独」の「鰥」は、見慣れない。そこで、漢和辞典を引いてみた。『漢語林』の解字は、「魚+1198f3.gif(鰥の右側)。音符の1198f3.gif(鰥の右側)は、目から涙が落ちる形にかたどる。魚の目のように目のうるんでいる、やもおの意味をあらわす」とある。『字通』(平凡社)は、「魚は女の象徴とされ、1198f3.gifをそえて老妻を失った意をあらわす」とある。

(鰥の右側)

いずれにしても、現在の私は、「鰥」である。

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