森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2012年10月

「船長日記」11月注(2) 

(35-8)「大三十日(おおみそか)」・・一年の最終日。おおつごもり。一年の最終の日。毎月ある晦日(「みそか」とは三十日の意)に大の字をつけたのである。大つごもり(「つごもり」は月籠りの義)ともいう。商家では決算に忙しく、家庭では正月祝いの準備を整える。この夜は除夜とも大年の夜とも呼ばれ、その夜半をもって新年の訪れとするので、特につつしみこもるべきものとされた。所によって、年ごもりといって、神社や堂に村人あるいは若衆・小児がこもり、終夜眠ることなく元日を迎えるところがあり、この夜は眠るものではないとする禁忌の観念も行きわたっている。仮眠をするにしても、わざわざ「稲を積む」などと忌み言葉を用いることにしているのもそのためである。この夜半に火を打ち替える行事は各地に残っており、京都の祇園(八坂神社)の白朮(おけら)祭や平野神社の斎火(いみび)祭もその例である。神社によっては終夜大篝火(おおかがりび)を焚くところもある。またこの日は、盆と同じように、亡き魂を迎えて祀る夜でもあった。中部から関東にかけてミタマメシの習俗が伝わっている村があるのはその名残で、文献上では、『枕草子』に、師走の晦日にゆずりはを、亡き人に供える食物に敷くことを記し、またこの夜に亡き魂が訪れ来ることを詠んだ和泉式部の和歌もあり、『徒然草』には、都ではすでにすたれたが関東ではこの夜魂まつるわざをすると記している。またこの夜寺々では除夜の鐘をつく。この百八の鐘の音は、宋から始まったといわれ、十二ヵ月・二十四気・七十二候を合算した数であるというが、後世は「百八煩悩」をさますためのものと説かれるようになった。

 *みそか(晦日・三十日)・・暦の月の初めから三〇番めの日。また、月の末日をいい、一二月の末日は大みそか、二九日で終わるのを九日みそかという

(35-8)「冬はけふ(今日)一日」・・陰暦では、10,11,12月は冬。1,2,3月が春。したがって、大晦日は、冬の最終日。

(35-9)「南(みなみ)」・・みなみ風。

(35-9)「東風(こち)」・・ひがし風。

(35-10)「愛度(めでたく)」・・よろこばしく。

(35-11)「有(あり)あふ」・・有り合う。たまたまそこにある。ありあわせる。

(36-1)「取(とり)なし」・・みせかけて。「取なす」は、そのようなふりをする。実際とは違ったように見せかける。

(36-1)「かゞみもち」・・鏡餅。円形で平らな、鏡の形のように作った餠。正月または祝いのときに大小二個を重ねて神仏に供える。

 *「鏡開き」・・「開き」は「割り」の忌み詞。正月行事の一つ。正月に供えた鏡餠をおろし、二〇日の小豆粥(あずきがゆ)に入れて食べる。のち一一日の仕事始め(倉開き)に行なうようになった。武家時代には、男子は具足に、婦女は鏡台に供えた鏡餠を、二〇日に取り下げ、割って食べた。婦女は初鏡祝いともいう。鏡割り。具足の餠を開くというところから「具足開き」といったり、鏡台で顔を初めて見るというところから「初顔祝い」「初鏡の祝い」といったりもした。二〇日に祝うのは、男性は「刃柄(はつか)」、女性は「初顔(はつかお)」にかけたもの。仕事始め(倉開き)の十一日に行なうようになったのは徳川家光が慶安4年(1681)4月20日に死去したことによるという。

(36-2)「団子(だんご)」語誌・・①中国の北宋末の京の風俗を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある。②「伊京集」にはダンゴ・ダンスの両形が見られ、そのダンスは唐音の形と思われる。「日葡辞書」にはダンゴの形しかなく、近世ではもっぱらダンゴが優勢のようであるが、ダンス・ダンシの形も後々まで存在する。③中世まではもっぱら貴族や僧侶の点心として食されたが、近世になると、都会を中心に庶民の軽食としてもてはやされるようになった。団子を売る店や行商人も多く、各地で名物団子が生まれている。

 *<漢字の話>重箱読み(合羽読み)・・「だんご」と読むのは、重箱読み。「重箱読み」とは、「重(ジュウ)・箱(ばこ)」のように、上が音読み、下が訓読みする場合をいう。合羽読みともいう。「ダン」は音読み。「子」は訓読み。その他、「縁組(えんぐみ)」「献立(こんだて)」「出立(しゅったつ)」「王手(おうて)」など。

 なお、上が訓読み、下が音読みの場合を「湯(ゆ)桶(とう)」読みという。

(36-3)「御酒(おみき)」・・神前に供える酒。神や天皇に供える酒の尊称。「みき」を供えたことは、『日本書紀』巻5をはじめ『万葉集』その他の古典に散見する。神酒、御酒(みき)、大神酒(おほみき)などとも記され、「「み」は美称を表す接頭語。現在は一般に清酒をこれにあてるが、もとは濁酒で、宮中の新嘗祭(にいなめさい)や伊勢神宮の祭祀(さいし)には、古来、白酒(しろき)と黒酒(くろき)が供えられている。黒酒は常山(くさぎ)の灰を入れてつくる。清酒と濁酒を白酒と黒酒にあてることもあり、醴酒(こさけ)(一夜酒(ひとよざけ))も神酒として供えられる。『延喜式(えんぎしき)』では、神酒を醸造するために造酒司(みきづかさ)が置かれていた。

 *「酒(みき)」の語源説・・①ミは御の意。キは酒の古語〔円珠庵雑記・瓦礫雑考・大言海〕。キは酒の意の語クシの約〔古事記伝〕。②ミは御の意。キはイキ(気)の略。酒はイキ(気)の強いものであるところから〔和訓栞・言葉の根しらべ=鈴江潔子〕。ミは発語。キは気の義〔俚言集覧〕。ミイキ(御息)の義〔名言通・俚言集覧〕。③ミイキ(実気)の義〔紫門和語類集〕。④ミケ(御饌)の義〔言元梯〕。⑤ミは美称。キはカミの約。酒は噛んで造るものであるところから〔和訓集説〕。

 *<漢字の話>「酒」・・「酒」の部首は、「水」部(偏になればサンズイ)ではなく、「酉」(ひよみのとり)部。「ひよみ」は「暦(こよみ)」。十二支の「酉」の意味で、鳥と区別していう。「酉」は、元来は酒つぼ(「くすりつぼ」とも)を表す象形文字。この部首には、酒、薬、醸造に関する語が多い。「酌(くむ・シャク)」・「酔(よう・スイ)」・「酢(す)」・「酪(ちちしる・ラク)」・「酸(すい・サン)」・しょうゆの「醤」・「醸(かもす・ジョウ)」・医者の「医」の旧字「醫」(医者は薬で患者を治療する)。

(36-1~2)「なまながら」・・なまのままで、「ながら」は、「まま」「ままで」の意を表わす。動詞の連用形・体言・形容詞の語幹・副詞、まれに活用語連体形を受ける。

(36-3)「割(わり)をして」・・分担して。

(36-3~4)「申(さる)の時(とき)」・・午後4時頃。

(36-7)「十吉(じゅうきち)」・・重吉。

(36-7)「吉例(きちれい・きつれい)」・・以前からずっと引き続いて行なわれている、めでたいしきたり。ここでは正月のお祝いのこと。

(36-7)「神道清浄(しんとうしょうじょう)」・・「清浄」は、煩悩や悪行がなく、心身の清らかなこと。

 *<漢字の話>「道」・・「トウ」は呉音「ドウ」は漢音。

(36-7)「神道清浄に」・・「に」は、「の」を訂正している。「の」の右に、見せ消ち記号「二」がある。

(36-9)「冨貴(ふうき)」・・富んで尊いこと。財産が豊かで位の高いこと。

*<漢字の話>「富」・・「フ」は呉音、「フウ」は漢音。なお、影印は、ワ冠の「冨」。「冨」は、平成16年、人名漢字に追加された。

(36-9)「冨貴の人も同然なるに」・・正月には、貧しい者も富める者と同様に十分に飲み食いして楽しむのに。

(36-10)「此(かくの)ごとく」・・このように。「此」は、普通の「この」だが、「如此」は、「かくのごとし(く)と読む。

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「船長日記」11月注(1)

「船長日記」11月注                              

(31-3~4)「霜月(しもつき)」・・陰暦11月の異称。

 *語源説

 ①ヲシモノツキ(食物月)の略〔大言海〕。

②シモフリツキ(霜降月)の略〔奥義抄・名語記・和爾雅・日本釈名・万葉考別記・紫門和語類集〕。また、シモツキ(霜月)の義〔類聚名物考・和訓栞〕。

③貢の新穀を収める月であるところから、シテオサメ月の略か〔兎園小説外集〕。

④シモグル月の義。シモグルは、ものがしおれいたむ意の古語シモゲルから〔嚶々筆語〕。

⑤スリモミヅキ(摺籾月)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

⑥十月を上の月と考え、それに対して下月といったものか。十は盈数なので、十一を下の一と考えたもの〔古今要覧稿〕。

⑦新陽がはじめて生ずる月であるところから、シモツキ(新陽月)の義〔和語私臆鈔〕。

⑧シモ(下)ミナ月、あるいはシモナ月の略。祭り月であるカミナ月に連続するものとしてシモナツキを考えたものらしい〔霜及び霜月=折口信夫〕。

(31-6)「かへらぬよまひ事(ごと)」・・何の役にも立たないぐち。「かへらぬ」は、どのような手段をもってしても、もとにもどらない事柄。取りかえしのつかないこと。「よまひ事(ごと)」は、ひとり言に、愚痴を言うこと。わけのわからない繰り言を言うこと。不平をかこつこと。また、そのことば。人の発言・意見などをののしって言うのにも用いる。

(31-7)「閏霜月」・・文化10年は、11月の次に閏11月があった。

 置閏法(ちじゅんほう)・・暦法の一つ。暦の基本周期である朔望(さくぼう)月は29.530589日、太陽年は365.242199日で、日の端数がある。暦法はこの端数を切り捨て・切り上げて1日の整数倍とし、それぞれ29日・30日の暦月、365日・366日の一暦年とする。太陰暦法では大月30日、小月29日を交互に12回繰り返すと、その総日数は354日となるが、12朔望月(一太陰年)の日数は354.36706日であり、その差は0.36706日、三太陰年でほぼ1日に達する。厳密には30年間で11日となるので30年間に11回、小月を大月とし、一暦年を355日とする。太陰太陽暦法では一太陰年は一太陽年と10.87514日違う。月の満ち欠けで日を数えて12か月たつと季節は10日または11日遅れることになる。この場合、ほぼ32~33か月で1か月を挿入して、一暦年を13か月にすることで、月の満ち欠けと季節の関係を元に戻すことができる。メトン法、中国の章法はこの置閏法の例である。

 太陽暦法では太陽年の端数0.242199日は四暦年でほぼ1日に達するから、4年ごとに1日を加え、一暦年を366日にする。ユリウス暦はこの例である。このように朔望月太陽年の日の端数を調節して1日・1月を挿入して暦年暦月の平均の長さを太陽年、朔望月の長さに近づける法を置閏法という。挿入される1日・1月を閏(うるう)日、閏月と称し、閏日・閏月を含む年を閏年という。置閏法のいかんによって太陰暦法、太陰太陽暦法、太陽暦法に多種多様の暦法が生ずることになる。

 *<漢字の話>「閏」・・「門」+「王」で、暦からはみ出た日には、王が門の中にとじこもって政務をとらないことをあらわす。

(31-8)「物(もの)うくなりて」・・いやになって。「物(もの)うく」は、物憂く。おっくうに。心が重く。めんどうくさく。形容詞「物憂し」の連用形。「もの」は接頭語。

(31-8)「打ふしやうに」・・伏して。「打(うち)」は、接頭語、「やう(様)」は接尾語。

(31-10)「つらつら」・・副詞。よくよく。つくづく。影印は「く」に見えるが、ここは、「く」(変体仮名「良」)

(31-10)「末(すえ)つ方(かた)」・・末のころ。

*<文法の話>「つ」は、格助詞。「~の」の意。「天つ風」「沖つ白波」など。奈良時代に多く用いられ、平安時代以降は慣用的な複合語としてのみ用いられた。接続する体言は、方角・場所・時などを表す語が多い。現代語にも「目(ま)つ毛」などの形で残っている。

(31-11)「飯の」・・「の」は主格を表わす格助詞。「~が」。

(31-11)「そこなふ」・・物事を悪い状態にさせる。ここでは、飯が食べれなくなるほど、寝臭(ねぐさ)くなること。腐ったにおいがすること。

(31-11~32-1)「赤道下なり来りたるならん」・・「赤道下なり」の「なり」は、語調がよくない。異本は、「赤道下へ」と「なり」を「へ」に作る。

(32-2)「所詮(しょせん)」・・けっきょく。元来は仏語。文字などで表わされる言語。能詮(経典に説かれる意義を表す言語)に対していう。

(32-3)「暫時(しばし・しばらく・ザンジ)」・・すこしの間。音読みでは「ザンジ」だが、異本は、かなで、「しばし」に作る。

 *夏目漱石は、「暫時」の読み方について、「ザンジ」と「しばらく」の両方のふりがなをしている。

 ・「吾輩は又暫時(ざんじ)の休養を要する。のべつに喋舌って居ては身体(からだ)が続かない」(『吾輩は猫である』)

 ・「二人は人間として誰しも利害を感ずる此問題に就いて暫時(しばらく)話した」(『彼岸過迄』)

(32-4)「功徳(くどく)」・・「く」は「功」の呉音。仏語。現在、また未来に幸福をもたらすよい行ない。神仏の果報をうけられるような善行。

(32-4)「珠数(じゅず・じゅじゅ・ずず)」・・現在では、「数珠」と「数」+「珠」が普通だが、影印は「珠数」と逆になっている。京都府下京区の油小路西入に「珠数町(じゅずちょう)」「上珠数町(かみじゅずやちょう)」がある。

 *<漢字の話>「数」は、漢音がス、呉音がシュであって、ジュの音はない。「前田本色葉字類抄」には、「数珠」に「ス(平双点)ス(平単点)」のよみが示されている。中世・近世になって「ジュズ」のよみが定着する。一方、近世中頃から再びズズも現われて双方のよみが行なわれた。

 *数珠・・仏を拝んだり、念仏を唱える回数を数えたりするときに手にかけ、つまぐる仏具。多くの小さい珠を糸に貫いて輪に作る。中間にある大きな珠を母珠、その他の小さい珠を子珠という。数は百八煩悩(ぼんのう)を除く意から一〇八個が普通であるが、その他五四、二七など数種のものがある。また、念仏宗は三六、禅宗は一八のものを用いる。珠は、むくろじ、さんご、水晶などで製し、形は円形であるが、修験道では伊良太加(いらたか)という数珠を用いる。(32-4~5)「置たたる」・・ここは、「置たる」で、「た」が重複している。(32-5)「珠数の(を)」・・「を」の左に小さく「二」とあるのは、「見せ消(け)ち」。
 *<文法の話>見せ消(け)ち・・誤写・誤記または異文などの文字の訂正・注記のしかたの一つ。もとの文字がわかるように、傍点をつけ、またはその上に細い線を引くなどして、その誤りや異文を示すやり方。

 現代語では、「見せ消し」だが、「消す」の古語は、「消つ」で、「消ち」は「消つ」の連用形で、「見せ消ち」は、連用中止法で、名詞に転じた用法。

 さらに言えば、一般に、平安時代の和歌・和文には「消(け)つ」を用いて「消(け)す」を用いず、鎌倉時代以降は徐々に「消(け)す」に統一されていった。

(32-5~6)「こししらへ」・・ここは、「こしらへ」で、「し」が重複している。

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蝦夷日記11月注

蝦夷日記 2012.11                               

(108-6)「美礼」・・美麗(びれい)。「礼」は、「麗」の当て字。美しいこと。うるわしくあでやかなこと。また、そのさま。

(108-6)「羅しや」・・羅紗。毛織物の一つ。一般には織目が見えないまでに縮絨(しゅくじゅう)・起毛・剪毛(せんもう)の加工仕上げを行なったものをいう。ポルトガル語のRaxaを語源としている。日本へは南蛮貿易によって、十六世紀後半に舶載され、武将たちに防寒や防水を兼ねた陣羽織・合羽などとして用いられた。特に緋羅紗は猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれて珍重された。江戸時代を通じてオランダおよび中国の貿易船によって、大羅紗・小羅紗・羅背板(らせいた)・ふらた(婦羅多)・すためん(寿多綿)のほか、両面羅紗・形附羅紗・類違い羅紗など多くの品種が輸入されている。武家では火事羽織・陣羽織、あるいは鉄砲・刀剣・槍など武器や挾箱などの調度の蔽布・袋物類、または馬装などに、町人の間では羽織・夜具、下駄の鼻緒などに利用されてきた。幕末には洋式調練に伴って、軍装に用いられるようになり、明治維新後は軍服や制服・大礼服に洋服が採用され、羅紗の需用がより一層多くなった。

(108-7)「てつぼを襦袢(じゅばん)」・・鉄砲襦袢。「てつぼを」は、「鉄砲」。筒袖襦袢。筒袖の襦袢。つつっぽ。つつそで。

 *「筒袖襦半図 江戸にてつつっぽと云。京坂にて鉄炮襦半と云。三都とも近年筒袖襦半を用ふ」(喜田川守貞著『随筆・守貞漫稿〔1837~53〕』)

 *「筒袖(つつそで)」・・袂(たもと)がなくて、筒のような形をした袖。また、そういう袖のついた着物。子供の着物、大人のねまき・仕事着などに用いる。

 *「襦袢」・・肌に着用して汗をとるのに用いる。元来は白地でつくられ肌着と称えたが十六世紀南蛮文化が舶載されてから肌着をgibão(ポルトガル語、襦袢)と称えるようになり、従来の肌着の上にも変化をきたした。古名は汗衫(かざみ)・汗取ともいって、その構成は対丈のものであった。南蛮服飾は上下二部式であり、元禄時代でも南蛮系の丈の短い襦袢のことを「腰切襦袢」と称えて元の形を表現している。近世に入り、丈の短い襦袢が行われるようになると、従来の肌着を長襦袢、丈の短いものを半襦袢と称えるようになり、また袖も胴も元は同一の布であったのが、袖裂を華麗なものにかえたものや、みえがかりの所に色物を用いた装束襦袢、仕立の上で裄を表着より五分(約一五ミリ)長くしたものが十八世紀に流行した。

(109-1)「毛物(けもの)」・・獣(けもの)。「毛物」は、獣の語源説のひとつ。

(109-2)「取喰(とりくら)ふ」・・捕獲して食べる。つかまえて食べる。

*「此陰に夜な夜な妖者(ばけもの)有て、往来の人を採食(トリクラ)ひ」(『太平記』)

(109-23)「此処、犬様成ものにて、誠に美麗也」・・異本に、「其毛物は、リブンカモイと申獣、尤、犬の様成ものにて誠に美麗のもの也」に作り、本影印の「犬様成」の前に「ブンカモイと申獣」とある。

(109-56)「少しも」・・①わずかながら。②通常は、下に打消しの語を伴って、全然。まったく。ちっともの意だが、本書は、①の例。

 *「少しも益の増さらんことを営みて」(『徒然草』)

(110-6)「昼八ツ時半」・・午後3時頃。シラヌシ出帆は、「五ツ時」(午前8時)だから、シラヌシ~ソウヤ間は、6時間半かかったことになる。

(110-7) 「ソウヤ」・・漢字表記地名「宗谷」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、場所名・岬名などとしてもみえ、また広域通称名でもあった。江戸期のソウヤ場所の中心地は、現在の稚内市街地ではなく、宗谷岬寄りの宗谷丘陵の西側の現稚内市大字宗谷村字宗谷であった。

(110-7)「支配人 八右衛門」・・ 粂屋(くめや)八右衛門。柏屋(藤野)喜兵衛のソウヤ詰めの現地支配人(責任者)。宗谷厳島神社の鳥居に天保6年(1835)に寄進した鳥居がある。また、安政3(1856)に建立された宗谷護国寺の建立にもかかわった。

(111-1)「ヲンコロマナイ」・・アイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、現稚内市宗谷村字宗谷市街地から宗谷岬に向って清浜集落の近くを宗谷湾に注ぐ普通河川の名がある。当地一帯は近代に入って宗谷村に含まれた。

(111-2)「沖ヘ五丁程、ソウヤ岩有、廻り五六丁有」・・「ソウヤ岩」は、現稚内市宗谷村珊内沖にある弁天島をいうか。珊内から約1キロ沖にあるから「沖ヘ五丁程」より倍近く沖にある。周囲はO.5キロだから、「廻り五六丁」は、ほぼ正確。日本最北端の島。

(111-3)「サンナイ」・・現稚内市大字宗谷村字珊内。宗谷岬の西方約一・五キロ、稚内市大字宗谷村字珊内を中心とする地域。ソウヤ場所のうち。しかし、ソウヤが、安政6(1859)秋田藩領となるが、幕府は、樺太渡海の要津であるサンナイを宗谷場所より独立させて幕領とした。松浦武四郎著『東西蝦夷山川地理取調図』(以下「松浦図」)は、「シヤーヌイ」に作る。

(111-4)「シラセツ」・・「松浦図」は、「シラリテツカ」に作る。

(111-5)「つしや岩」・・宗谷岬の南の100メートル沖ある龍神島。周囲は150メートル。アイヌ語で、チシヤ岩。ポンモシリとも。チシヤに関する伝説を松浦武四郎は、『西蝦夷日誌』で、「チシ崖下本名 チシヤにて泣と云事。昔此辺ヘ大魚来りしを、毎夜変化者取去りしと。(魚を奪われ土人泣たる所へ)シヤマイクル来り大なる石を投入て、変化の者を追ひしより号。又一説チシは高き事ヤとは岡とも云。前にポンモシリと云島有を号とも云」と述べている。

(111-7)「トマリナイ」・・現稚内市大字宗谷村字峰岡のうち。漢字表記地名「泊内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(111-10)「チヱトマリ」・・現稚内市大字宗谷村字峰岡のうち。武四郎の『西蝦夷日誌』は「チエトマイ」とし、漢字表記地名「杖苫内」に作る。「松浦図」は、「チヱトイヲマイ」に作る。

(112-3)「トホヤ」・・不明。

(112-4)「シラヲベツ川」・・漢字表記地名「知来別川」。猿払村北西部の湿原から流れ出て牧場の中などを蛇行、知来別でオホーツク海に注ぐ。二級河川。流路延長15キロ。

(112-4)「ノコンムウニ」・・武四郎の『西蝦夷日誌』は「ノチコンケウ」とある。

(112-5)「ヲニシベツ川」・・鬼志別川。浜鬼志別で、オホーツク海に注ぐ。

(112-6)「ヲニシベツ」・・漢字表記地名「鬼志別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現宗谷郡猿払村浜鬼志別。現在、猿払村役場は、鬼志別川中流の鬼志別東町にある。

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「好きなように読んでください」「どちらでもいい」について

「好きなように読んでください」「どちらでもいい」について

 

私は、例会で、司会として、「好きなように読んでください」「どちらでもいい」という発言をしています。

別に異論は出ていないのですが、この件で書かせてもらいます。

古文書は、その文書に触れる人が、声を出して読むことを前提にして書かれていない場合が多いと思います。

幕府文書などや紀行文がそうだと思います。

一方、歌舞伎や能、狂言は、役者が声を出して演技するわけですから、書かれた文書(台本など)は、かなが振られている場合が多いと思います。

そこで、そういう台本でない文書は、音読みするか、訓読みするか、また、あきらかに筆者の書きくせ、間違いを間違い通りに読むか読まないか、意味が反しない限り、「好きなように読んでください」「どちらでもいい」といっています。

ところで、このやり方が、まちがっていないことを書いた本に出会い、我意を得たりと思いましたので、書きます。

近刊の今野真二著『百年前の日本語』(岩波新書)がそれです。

氏の論の要旨は次の通りです。

<百年前の日本語においては、それらが大きな「揺れ/揺動」の中にあった・・「揺れ」というと、不安定な状態を想像しやすいが、そうではなくて、むしろ「豊富な選択肢があった」と捉えたい>

そして、

<「揺れ」の状態からの変化は・・江戸期から明治初期にかけてではなく、むしろ明治期から現代に至る百年間で進行したとうえよう>

と述べ、さらに、

<その変化は「揺れ/揺動をなくす」、すなわち「選択肢をなくす」という方向へと進むものであった>

と述べ、

<言語は時間の経過とともに、何らかの変化をする・・ところが現代は、使用する文字、漢字の音訓などに関して、できるだけ「揺れ」を排除し、一つの語は一つの書き方に収斂させようとする傾向が強い>

と指摘しています。

国家が、「当用漢字」「常用漢字」を決め、書き方、読み方を指定したことは、一層、その傾向に拍車をかけたといえます。

文字、漢字は、いろいろな書き方、読み方があってもいい。どうしても、一つにしぼる必要はない、というのが、氏の著書を読んだ私の感想です。

 

蝦夷日記10月注

(101-1)「ラクマカ」・・西海岸の地名。日本名「楽磨」を当てる。『樺太の地名』(第一書房刊)には、「正しくはラクマツカ。此処はよい澗で、どんな時化(しけ)でも心配なく舟を入れて置くによい処の意」とある。

(101-2)「千石積位の弁財三艘程掛り澗あり」・・ここは、「弁財船が三艘ほど入港できる澗」の意味か。異本は、「澗」を「沼」に作る。しかし、ラクマカに沼はない。影印も「沼」に見えなくもないが、ここは、好意的に「澗」としたい。安政3年(1856)に樺太を探検した武四郎は、「地形南の方に岬突出して少しの澗なり、沖三四丁に暗礁有。其間を弁財懸り澗とす。後ろは山なり」(松浦武四郎記念館刊『竹四郎按日誌 按北扈従(あんぽくこしょう)』)と書いている。

(101-3)「シラヌシ運上屋より凡四十り三十三丁五十間程」・・武四郎に前掲書には「シラヌシへ三十七里卅②二丁廿間」とある。

(101-4)「トコタン」・・西海岸の地名。日本名「床丹」を当てる。

(101-6)「トンナイケヤ」・・西海岸の地名。日本名「富内岸」を当てる。「富内岸」は、「床丹」の南にあるので、ここの記述は、逆か。

(101-8)「レフンニタチ」・・武四郎の前掲書には、ノトロ(日本名「小能登呂岬」)の前に「レフンニタ」がある。武四郎は、北のライチオシカから、シラヌシに向けて南下しているから、本書とは逆になる。

(101-9)「ニタ」・・西海岸の地名。日本名「仁多須」を当てる。武四郎の前掲書には「ニタツク」とある。
(101-10)「ヱリウシナヰ」・・武四郎の前掲書には「ヱソウシナイ」とある。

(102-1)「ハボマヘ」・・西海岸の地名。日本名「羽母舞」を当てる。

(102-1)「ノトロ崎」・・日本領有時代、能登呂半島南端の岬を「西能登呂崎」といい、西海岸の出岬を「小能登呂崎(このとろざき)」と命名した。武四郎の前掲書など、多くは、「ノトロ崎」としている。

(102-3)「ノタツシアン」・・「シ」は、影印では「レ」に見えるが、ここは、好意的に「シ」と読みたい。ノダサム。日本名「野田寒(ノダサム)」。日本領有時代は、「野田」。

(102-4)「尺地(せきち・しゃくち)」・・わずかな土地。せまい土地。

(102-6)「ハチコナイ」・・西海岸の地名。日本名「鉢子内」を当てる。

(102-67)「アユシ子ウシナヰ」・・「シ」は、影印では「ン」に見えるが、ここは、好意的に「シ」と読みたい。

(102-7)「ハアセウシナイ」・・「シ」は、影印では、「ン」に見えるが、ここは、好意的に「シ」と読みたい。武四郎の前掲書には「ハーセウシナイ」とある。

(102-9)「チヽカヘ」・・武四郎の前掲書には「チカヘシボ」とある。

(10210)「ヲフツチコル」・・武四郎の前掲書には「ヲウチイ」とある。

(103-2)「トメウシナイ」・・「シ」は、影印では、「ン」に見えるが、ここは、好意的に「シ」と読みたい。武四郎の前掲書には「トマムシシユナイ」とある。

(103-34)「シラロヽ」・・武四郎の前掲書には「シラヽヲロ」とある。

(103-6)「ナヨロ」・・西海岸の地名。日本名「名寄」を当てる。

(103-8)「中遣船(なかづかいぶね)」・・近世、北海道での廻船分類上の名称。百石積以上を弁才船とするのに対して四十石から九十石積までの小廻船をいう。内地の天当船に相当し、乗組は二人を定数とする。図合船(ずあいぶね)と弁才船との中間を意味する呼称。

(105-1)「ヲシヨロ」・・西海岸の地名。日本名「鵜城(うしろ)」を当てる。万延元年(1860)に、幕府は大野藩に北蝦夷地開発を命じたが、大野藩は、鵜城を経営した。
(105-4)「間竿(けんざお)」・・大工が建築現場で用いる一間以上の長い物さし。「間」は影印は、「問」に見えるが、ここは、好意的に「間」と読みたい。

(105-9)「此内住也」・・異本は、「此内に住也」「住居致す」に作る。

(106-1)「スメロンクロン人」・・スメレンクル人。ギリヤーク人のこと。アイヌの人々は、ギリヤーク人を「スメレンクル」は呼称した。ギリヤークは、樺太(サハリン)北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。文化5年(1808)から翌年にかけて樺太と黒竜江下流域を探検した間宮林蔵の『北蝦夷図説』四(スメレンクル)は最古のギリヤーク民族誌で、記述もくわしい。

(106-6)「ボロコタン」・・ホロコタン。樺太西海岸の地名。北緯50度の少し北にある集落。安政5年(1857)越前大野藩、カラフト西岸ライチシカより北ホロコタンまでの間に土農を移すこと、ウショロに「元会所」設置を許可される。

(106-7)「上川伝一郎(うえかわでんいちろう)」・・『柳営補任(りゅうえいぶにん)』には、「うえかわ」とあり、「安政三辰五月廿六日、御勘定より下田奉行支配調役、同四巳九月廿六日小十人組」とある。

(106-8)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸時代の目付は、臨戦体制が解かれ、幕府・藩の政治機構が整備されるに伴って、政治監察や家臣団統制のための役職として置かれたものである。幕府は、中央に大目付・目付、目付の下僚として徒(かち)目付・小人(こびと)目付を常置し、直轄地大坂・駿府・長崎の目付を定期的に派遣し、大名の領国へも臨時的に国目付を派遣した。

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