(49-1)「喰(くい)」・・動詞「くう(食)」の連用形の名詞化。食うこと。くらうこと。異本は、「食」に作る。ここは、「しょく」と読んでもいいか。
(49-2)「米の」<文法の話>・・「の」は、主格を表わす格助詞で、「~が」の意。ここでは、「米が・・」。4行目の「青き鳥の」の「の」も同様。「鳥が・・」の意。
(49-2)「給(たべ)度(たく)思ひつめたる」・・「給(たべ)」は、下2動詞「給(た)ぶ」の連用形。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「たぶ」の親見出しで、漢字に、「賜・給・食」を当てている。また、『基礎古文書のことば』(柏書房)の「給」の項には、[たぶ]とあり、「食べる。酒を飲む。煙草を吸う。乳を飲む。」とその用例をあげている。『くずし字用例辞典』(東京堂出版)にはないので、P825下段の「給」の読みに、「たべる(たぶ)」を追加記入されたらいいか。
(49-6)「半田村」(P11~8の再掲)・・愛知県知多郡にかつて存在した村。現在の半田市中心部に該当する。古くから酒、醤油、味噌などの醸造業が栄えていた。また、三河湾に面する半田港があり、米などの材料の運搬、酒、醤油などの江戸への運搬により海運業でも栄えていた。酒粕を用いた酢の醸造が始まると、酢は尾州廻船によって江戸に運ばれた。運搬には阿久比川の排水路として築かれた半田運河が利用されていた。このこともあり、江戸時代後期には知多郡最大の村となった。明治22年(1889)に半田町なり、昭和12年(1937)周辺町と合わせて半田市となった。
(49-9)「一間(いちのま)」・・和船の間取りの名称の一つで、菱垣廻船など瀬戸内廻船では、船首小間の次の間である、いわゆる二の間をいう。船大工より廻船筋で用いることが多く、この場合、淦間(あかま)を二の間と呼ぶ。また、伊勢、東海方面では、いわゆる胴(どう)の間をいい、淦間船梁を一の間船梁という。 (50-1)「子浦(こうら)」(P3-2の注の再掲)・・伊豆半島の突端に近い西岸の集落。現静岡県賀茂郡南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。乗組員一四名のうちに子浦出身の音吉がおり、体験を記した水主音吉救助帰国聞書(戸崎家文書)が残り、浄土宗西林(さいりん)寺には音吉の墓がある。 (50-2~3)「乙川(おっかわ)村」・・為吉の出身地は、多くの書は、旧知多郡乙川(おっかわ)村<現愛知県半田市乙川(おっかわ)町>としている。尾張には、もうひとつ幡豆(はず)郡に乙川(おつかわ)村があった。こちらは、吉良町を経て、現愛知県西尾市吉良町乙川。こちらの方が海岸に近い。為吉は、あるいは、こちらの乙川の出身かもしれない。と、私は、疑ってみる。 (50-3)「柿崎(かきさき)」・・現静岡県下田市柿崎(かきさき)。下田町の東、南に突き出した須崎(すざき)半島付根に位置する。村内にある弁天島は、嘉永7年(1854)、吉田松陰らはが、下田湊に停泊するアメリカ軍艦で密航しようと、機をうかがい小舟で乗出した島でもある。 (50-4)「田子(たご)村」・・現静岡県西伊豆町田子(たご)。駿河湾に面し、東には天城山系の山を負う。農耕地区の大田子(おおたご)と漁業に適した井田子(いたご)からなる。重蔵は、井田子の出身か。 (50-8~9)「恩を送り果さでは」・・恩を送り果たさなくては。「恩を送り果たす」は、前世で受けた恩をすっかり送ること。つまり、最後まで看病してやること。 (51-9)「何ニまれ、かにまれ」・・何であろうとかまわず。「まれ」は、係助詞「も」に動詞「ある」の命令形「あれ」の付いた「もあれ」の変化したもの。多くの場合「…(に)まれ…(に)まれ」の形で用いられる。 *「なににまれ、かにまれ、手にあたらむ物を取りて捨てで持たれ」(『古本説話集』) *「いささか、ようまれ、悪(あ)しうまれ、思ひだに出でられば、仕うまつるべきを」(『宇津保物語』) (51-10)「あく迄」・・飽く迄。動詞「飽く」に助詞「まで」がついてできた語。もう飽きたと思うほど十分に。これ以上ないというほどに。限りなく。たっぷりと。徹底的に。 (51-11) 「垢離(こり)」・・「垢離」はあて字で「川降(かわお)り」の変化したものともいう。神仏に祈願する時、冷水を浴びてからだのけがれを除き、身心を清浄にすること。真言宗や修験道(しゅげんどう)からおこったもの。水ごり。
(49-7)「打込(うちこみ・ぶちこみ・ぶっこみ・ぼっこみ)なば」・・ほうりこんだら。投げ入れたら。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、親見出し「打込」に、「うちこむ」「ぶちこむ」「ぶっこむ」「ぼっこむ」がある。