森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2013年01月

『ふなをさ日記』2013年2月注

(49-1)「喰(くい)」・・動詞「くう(食)」の連用形の名詞化。食うこと。くらうこと。異本は、「食」に作る。ここは、「しょく」と読んでもいいか。

(49-2)「米の」<文法の話>・・「の」は、主格を表わす格助詞で、「~が」の意。ここでは、「米が・・」。4行目の「青き鳥の」の「の」も同様。「鳥が・・」の意。

(49-2)「給(たべ)度(たく)思ひつめたる」・・「給(たべ)」は、下2動詞「給(た)ぶ」の連用形。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「たぶ」の親見出しで、漢字に、「賜・給・食」を当てている。また、『基礎古文書のことば』(柏書房)の「給」の項には、[たぶ]とあり、「食べる。酒を飲む。煙草を吸う。乳を飲む。」とその用例をあげている。『くずし字用例辞典』(東京堂出版)にはないので、P825下段の「給」の読みに、「たべる(たぶ)」を追加記入されたらいいか。

(49-6)「半田村」(P118の再掲)・・愛知県知多郡にかつて存在した村。現在の半市中心部に該当する。古くから醤油味噌などの醸造業が栄えていた。また、三河湾に面する半田港があり、米などの材料の運搬、酒、醤油などの江戸への運搬により海運業でも栄えていた。酒粕を用いたの醸造が始まると、酢は尾州廻船によって江戸に運ばれた。運搬には阿久比川の排水路として築かれた半田運河が利用されていた。このこともあり、江戸時代後期には知多郡最大の村となった。明治22(1889)に半田町なり、昭和12(1937)周辺町と合わせて半田市となった。


(49-7)「打込(うちこみ・ぶちこみ・ぶっこみ・ぼっこみ)なば」・・ほうりこんだら。投げ入れたら。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、親見出し「打込」に、「うちこむ」「ぶちこむ」「ぶっこむ」「ぼっこむ」がある。

(49-9)「一間(いちのま)」・・和船の間取りの名称の一つで、菱垣廻船など瀬戸内廻船では、船首小間の次の間である、いわゆる二の間をいう。船大工より廻船筋で用いることが多く、この場合、淦間(あかま)を二の間と呼ぶ。また、伊勢、東海方面では、いわゆる胴(どう)の間をいい、淦間船梁を一の間船梁という。

(50-1)「子浦(こうら)」(P3-2の注の再掲)・・伊豆半島の突端に近い西岸の集落。現静岡県賀茂郡南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。乗組員一四名のうちに子浦出身の音吉がおり、体験を記した水主音吉救助帰国聞書(戸崎家文書)が残り、浄土宗西林(さいりん)寺には音吉の墓がある。

(50-23)「乙川(おっかわ)村」・・為吉の出身地は、多くの書は、旧知多郡乙川(おっかわ)村<現愛知県半田市乙川(おっかわ)町>としている。尾張には、もうひとつ幡豆(はず)郡に乙川(おつかわ)村があった。こちらは、吉良町を経て、現愛知県西尾市吉良町乙川。こちらの方が海岸に近い。為吉は、あるいは、こちらの乙川の出身かもしれない。と、私は、疑ってみる。

(50-3)「柿崎(かきさき)」・・現静岡県下田市柿崎(かきさき)。下田町の東、南に突き出した須崎(すざき)半島付根に位置する。村内にある弁天島は、嘉永7(1854)、吉田松陰らはが、下田湊に停泊するアメリカ軍艦で密航しようと、機をうかがい小舟で乗出した島でもある。

(50-4)「田子(たご)村」・・現静岡県西伊豆町田子(たご)。駿河湾に面し、東には天城山系の山を負う。農耕地区の大田子(おおたご)と漁業に適した井田子(いたご)からなる。重蔵は、井田子の出身か。

(50-89)「恩を送り果さでは」・・恩を送り果たさなくては。「恩を送り果たす」は、前世で受けた恩をすっかり送ること。つまり、最後まで看病してやること。

(51-9)「何ニまれ、かにまれ」・・何であろうとかまわず。「まれ」は、係助詞「も」に動詞「ある」の命令形「あれ」の付いた「もあれ」の変化したもの。多くの場合「…(に)まれ…(に)まれ」の形で用いられる。

 *「なににまれ、かにまれ、手にあたらむ物を取りて捨てで持たれ」(『古本説話集』)

 *「いささか、ようまれ、悪(あ)しうまれ、思ひだに出でられば、仕うまつるべきを」(『宇津保物語』)

(51-10)「あく迄」・・飽く迄。動詞「飽く」に助詞「まで」がついてできた語。もう飽きたと思うほど十分に。これ以上ないというほどに。限りなく。たっぷりと。徹底的に。

(51-11) 垢離(こり)」・・「垢離」はあて字で「川降(かわお)り」の変化したものともいう。神仏に祈願する時、冷水を浴びてからだのけがれを除き、身心を清浄にすること。真言宗や修験道(しゅげんどう)からおこったもの。水ごり。

 

 

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『蝦夷日記』2月注

(126-2)「此山を下(くだ・お)り」・・能取湖を抱くようにした能取岬のある東部は丘陵になっている。「山」とあるが、この丘陵の最高地点は、航空自衛隊網走分屯基地付近で標高246メートル。「下り」とあるのは、その丘陵の東海岸に出ることをいう。

(126-23)「海端(うみばた・うなばた・うみっぱた・うなっぱた)」・・海のきわ。海岸。海辺。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「海端」親見出しに、読みとして、「うみばた」「うなばた」「うみっぱた」「うなっぱた」が別々に載っている。いずれも同じ意味。

(126-3)「バイラケ」・・『松浦図』には、「ハイラキ」とある。現網走市二ツ岩付近。バイラギ川河口付近。

(126-3)「面白キ岩山の出岬、丸き離れ岩あり」・・二ツ岩のこと。

(126-4)「モヨロ」・・漢字表記地名「最寄(もよろ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。網走川左岸の河口付近の地名。この地は、最寄貝塚で知られる。最寄貝塚は、オホーツク文化の代表的な貝塚の一つ。明治時代から著名な遺跡であったが、大正初年から始められた米村喜男衛の献身的な遺跡保護と調査研究により学問的な評価がたかまり、昭和11年(1936)に国指定の史蹟となった。

(126-6)「アバシリ」・・漢字表記地名「網走」のもとになったアイヌ語に由来する地名。網走は、先住民族の遺跡が多く、その一つモヨロ貝塚はオホーツク式土器文化の代表的遺跡である。北見地方への和人の進出は全道で最も遅かったが、網走には幕府直轄時代万延元年(1860)に網走御用所が置かれ、シャリ場所と分離、アバシリ場所が設定された。

(126-7)「板土蔵」・・「土蔵」は、土や漆喰(しっくい)などで四面を厚く塗った倉庫のことをいうが、蝦夷地の各地に土蔵があったとは思われない。ここでいう「土蔵」は、単に、倉庫をいい、「板土蔵」は、「板蔵」くらいの意か。

*<漢字の話>国訓で「くら」と発音する漢字いろいろあるが、元来の意味には差異がある。

「倉」・・穀物をいれるくら。

「庫」・・器物を入れて置くくら。兵車や武器を入れて置くくら。解字は、「广」+「車」で、車(戦車)をいれるくらの意味を表す。「倉庫」は、穀物でも器物でも、物をいれておくくらの意味になる。

 「蔵」・・物品をおさめておく所。

 「廩」・・こめぐら。「倉廩(そうりん)」は、「倉」は穀ぐら、「廩」は米ぐらの意で、米や穀物類を納めておく倉。

 「府」・・文書や財宝をいれるくら。転じて役所。官庁。「政府」の「府」は、ここから来ている。

(126-9)「丸岩」・・網走川河口の沖にある帽子岩。現在は、網走港の防波堤の構成部分。

(126-10)「巾四十間位川有」・・網走川のこと。網走川は、網走地方を流れる一級河川。流路延長93.6キロ、流域面積1380平方キロ。阿寒カルデラ外輪山の釧北峠付近を源流として北流する。この川は屈斜路カルデラの形成にかかわる軽石流堆積物が厚く覆う洪積台地や丘陵を開析して流れている。津別町字本岐(ほんき)でチミケップ川、津別町市街地の西で津別川が合流する。ここから北東流して美幌町に向かう。谷底平野の幅はしだいに広くなり、河岸段丘の発達も良好である。美幌町市街地の北端で南から美幌川が合流する。その後河床勾配が緩くなり、三角洲を形成しながら女満別町市街地の北西で網走湖に注ぐ。網走湖の東岸から女満別川が流入する。北東岸には湖水の出口があり、再び川となって網走市街地を貫流しオホーツク海に注ぐ。

(127-2)「シリイド」・・『松浦図』には、「シレトコ」とある。現網走市鱒浦漁港付近。

(127-3)「ロボロと申所、面白き岩鼻」・・鱒浦漁港の南にある岩。「ロボロ」については、玉虫左太夫著『入北記』の「アバシリ土人家調」の項に、「アハシリ」と「エチャニ」(本文書では「ヱザニ」)の間に「ヒボロ」がある。

(127-4)「ボンワタリ」・・『松浦図』には、「ホウワタラ」とある。

(127-4)「フンベヲマナヰ」・・『松浦図』には、「フンベヲマイ」とある。

(127-5)「ヲシヨク」・・現網走市鱒浦のオショップ川河口付近の地名。『松浦図』には、「ヲツヨフ」とある。

(127-8)「エザニ」・・現網走市鱒浦の勇仁(いちゃに)川河口付近の地名。『松浦図』には、「エチヤヌニ」とある。

(127-9)「ニゲルバケ」・・現網走市藻琴の藻琴川河口付近の地名。松浦武四郎の『西蝦夷日誌』には、「ニクルハケ」とある。斜里郡小清水町止別(やんべつ)のJR釧網線止別駅の東、斜里町との境界付近に「ニクル沼」がある。

(127-910)「モコト川」・・藻琴川。

(127-10)「川上に大沼有」・・藻琴湖。網走市東部、オホーツク海沿岸部にある。東藻琴村の藻琴山に源を発して北流する藻琴川(二級河川)が流入する汽水湖。周囲7.3キロ、面積0.98平方キロ、最深部5.4メートル。短い流路でオホーツク海に注ぐ。

(128-1)「ナヨロ」・・漢字表記地名「娜寄」のもととなったアイヌ語に由来する地名。藻琴川右岸のオホーツク海沿岸の地名。現網走市北浜付近。

(128-2)「トウブチ」・・濤沸湖。網走市とその東、斜里郡小清水町の境界にある東西約8キロ、南北幅最大約1キロの潟湖。浦士別(うらしべつ)川水系に属する。東西に延びる延長約7キロ・最大幅15メートルの砂洲によってオホーツク海と隔てられ、西端にある湖口が市町境をなし、北岸の砂洲が小清水町、南岸は網走市である。周囲約30キロ、湖面面積9.3平方キロ、最深2.5メートルの富栄養湖。南岸には浦士別川・オンネナイ川・丸万(まるまん)川などが注いでいる。北岸砂洲は小清水原生花園とよばれ、オホーツク沿岸最大の野生植物群落地である。湖一帯は網走国定公園に含まれる。

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『東蝦夷地臼山焼一件御用状写』出版

監修:田端宏氏 札幌歴史懇話会発行

『東蝦夷地臼山焼一件御用状写』出版

(函館市中央図書館所蔵)            定価 1400

 

当会で、古文書解読学習をしたテキストの影印と解読文の出版です。内容は、嘉永6年(1853)有珠山の噴火について、現地詰合より松前町奉行所への報告書です。東日本大震災を契機に、過去の災害が注目されています。本文書で扱われている有珠山噴火は、被害こそ少なかったものの、避難についての当局の対応など、参考になる点も多いです。本文書の出版は、単に古文書の学習ばかりでなく、災害対策など、多方面にお役たてば幸いです。

申し込みは、事務局 森勇二まで(電話090-8371-8473

「船長日記」13年1月注

(43-1)「たべるなる」・・文法的には、「なる」は断定の助動詞「なり」の連体形で、活用語の連体形に接続する。

 古文では、下2動詞「食(た)ぶ」の連体形は「たぶる」だから、ここは、古文的には「たぶるなる」が本来。このころから、現代表記との差異はなくなりつつあったのか。

(43-4)「浦賀の御判物」・・「御判物(ごはんもの・ごはんぶつ)」は、奉行の裏判のある書類。「浦賀」は、「浦賀奉行」のこと。

 *浦賀奉行・・江戸幕府遠国奉行の一つ。江戸入津船の管理には、元和2年(1616)ごろから下田に番所が設けられていたが、風波の難が多いところから、享保5年(172012月に下田番所を廃して翌6(1721)正月浦賀にうつした。武家の船では、武器・武具、あるいは婦女、囚人・怪我人をのせ五百俵以上の米・大豆を積んだものは浦賀奉行に申告し、廻船などの商船も、漁船と空船を除いては検査を受けて証印を得ることとなった。老中支配、千石高、役料五百俵(元文二年(一七三七))、芙蓉間詰。安政ごろから開国にともない要職となり、従五位、長崎奉行の上席となった。

(43-45)「尾州の御船印(おふなじるし)」・・「船印」は、近世の船に広く使われた標識で、船体・帆・幟などに船主または雇主を明示するためのもの。廻米・廻銅用に幕府が傭った廻船につけた「日の丸船印」はその好例だが、本来は戦国時代の水軍が所属大名の印としてつけた標識が次第に派手となり、江戸時代には幕府・諸藩の軍船は帆に家紋または色わけの意匠、船体各部に銅製金鍍金の家紋をつけ、矢倉上にも特別に装飾的印を立てて船印と称し、また多数の幟・吹流し・しない・四半・幕などの飾り物で装飾し、それら全体を総称して船飾りと呼んだ。こうした船印により参勤交代で航海する諸大名の大船団も一見して何藩と識別できた。一方、民間廻船は船主の標識として帆に黒(稀に赤)の縦・横・斜めの線かそれらを組み合わせた簡素な印をつけたが、家紋的なものは大名船との混同を避けて使わなかった。その代り水押側面に船主の船印つまり屋号の紋章をつけ、船名幟の下部に同じ印を染める程度であった。この船印に対して帆の場合は別に帆印と呼んで区別することが多い。

 尾張藩の船印は、五本骨の黒扇、「尾」印、日の丸に「八」の字を白く抜いたものなど、いろいろあった。

(43-7)「銭も七八把有」・・「銭(ぜに)」は、江戸時代、銅、鉄でつくられた貨幣のこと。金(大判・小判など)、銀(丁銀・豆板など)に対する語。円形で中央に穴があり、藁さしにさし通して束にしておく。

(43-8)「博奕(ばくち・ばくえき・はくち・はくよう)」・・「ばくうち(博打)」の変化した語。金銭、財物を賭け、賽、花札、またトランプなどを用いて勝負を争うこと。ばくえき。賭博。

 *<漢字の話>「奕」・・漢音で「エキ」、呉音で「ヤク」。「ち」と発音するのは、「打(うち)」の変化した音の当て字。

(44-9)「寒念仏(かんねぶつ・かんねんぶつ)」・・仏教信徒が、寒中三十日間苦行をする寒行(かんぎょう)の時、山野に出て声高く念仏を唱え修行するのが本来の形であるが、のちには、黒法衣あるいは白装束で鉦をたたき念仏を唱えながら町や村を練り歩き、家々で喜捨を乞うようになった。日蓮宗では団扇太鼓をたたき、南無妙法蓮華経と唱えてまわる。一人、あるいは数人で一団となって行う。平安時代に空也上人が京都で始めた鉢叩き僧の五三昧(ござんまい)や七墓めぐりの修行に始まるといわれている。なお、俳諧では冬の季語とされている。

(44-9)「なりとも」・・体言、用言の連用形、助詞、副詞を受ける。仮にある事柄を示し、おおよその範囲を限定する。特定のものに限定し得ない時、および限定したくない時に用いる。でも。なりと。

 この語は中世末・近世に多用されるが、近代には衰え、多くの場合「何なりとも」といった成句で使われる。

(44-9)「奉加(ほうが)」・・神仏への寄進の金品に、自分のものを加え奉るの意。勧進(かんじん)によって神仏に金品を寄進すること。また、その金品。知識。転じて、一般に、金品を与えること、またはもらうこと。また、その金品。寄付。

(44-10)「回向院(えこういん)」・・東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗鎮西義の寺。山号は国豊山。寺号は無縁寺。明暦3年(1657)の江戸大火のとき、保科正之は諸老と計り、牛島新田に五十間四方の地を選び、十

万数千人の無縁の屍を舟で運んで一所に埋葬し、そのうえに漏沢園(無縁塚)を築き、寺社奉行松平勝隆は、増上寺二十三世森蓮社遵誉貴屋に金三百両を寄せ、導師として七日間の千部経供養を修した。貴屋はここに一宇を建てて、諸宗山無縁寺と称し、小石川伝通院末の智香寺の信誉自心を二世とした。のち塚のうえに金銅の阿弥陀如来像を安置し、本堂を別に建てたが、天和2年(1682)の火災のあと、本堂を塚のうえに移した。ついで元禄16年(1703)の火災で本尊がとけたため、前堂に新鋳の銅仏をおき、その鋳型を本尊とした。また万治年間(165861)町奉行所の命で牢死や刑死者を弔って三仏堂を造り、寛文7年(1667)住職の第誉義観は、幕府に乞うて小塚原の刑場に常光庵を建て、回向院の別院とした。さらに安政大地震の死者七千余人も葬られている。天明元年(1781)から境内で片場所の勧進相撲が催され、文政10年(1827)の冬以後は両場所とも興行された。いまの国技館の大相撲の前身である。また境内は諸国の霊仏の出開帳に利用され、山東京伝や鼠小僧次郎吉の墓もある。 
(44-10)「大なる石碑」・・現在の回向院には、災害や事故などの死者を弔う石碑が林立している。本書にいう「石碑」は、明暦大火の17回忌に当る延宝3年(1675)に建立された。正式には、「石造明暦大火横死者等供養塔」といい、東京都指定有形文化財になっている。

 『江戸名所図会』の「回向院」の、本堂右の三仏堂の手前に見えるのがそれ。堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高305m

(45-3)「髪そり」・・現代では、「剃刀」を当てる。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、「「和漢通用集」に「剃刀 かみそり 僧の具」とあること、また、「剃刀をあてる」という言い方が、本来剃髪することを指したと思われること、さらに・・僧侶の間で隠語としても用いられていることなどから、剃刀は、もともと仏僧と結びつきの深い道具であったと考えられる。」とある。

(45-4)「たちわり」・・4段動詞「たちわる」の連用形。裁ち割って。切り裂いて。

(45-5)「塩の」・・「湯」の左に小さく「ニ」とあるのは、「見せ消ち」記号で右に「の」と訂正してある。

(45-6)「たえかね」・・現代では、「耐え兼ね」。「耐(た)え」は、古文では、本来ここは、下2動詞「耐(た)ふ」の連用形「耐(た)へ」である。異本は、「たへ」としている。

 しかし、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、親見出し「耐ゆ」の説明に、<ハ行下二段動詞「たふ(堪)」から転じて中世頃から用いられた語>とある。「耐(た)ゆ」も、「耐(た)ふ」も用いられていたことになる。だから、ここは、「耐え」でもいいことになる。

(45-8)「くぐ(く)りありき」・・潜(くぐ)り歩いて。「くぐり」は、4段動詞「くぐる」の連用形。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には<上代文献では第二音節も清音で「くくる」の語形である。「観智院本名義抄」によれば、同語形の「括」(結ぶ意)の「くくる」のアクセントが上上平であるのに対して、この語は平平上と異なっていた。「書陵部本名義抄」を見ると、アクセントは同じであるが、第二音節が濁音化しており、平安末頃には、「くくる」と「くぐる」の両形が存したらしい>とあるから、ここは、「くくり」でも、「くぐり」でもいいことになる。

 なお、「ありき」は、4段動詞「ありく」の連用形で、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、<中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる。>とある。

(45-8)「頓(やが)て」・・間もなく。そのうちに。

 *<漢字の話>「頓」・・国訓では、本文の「頓(やが)て」のほか、

「頓(とみ)に」「頓(ひたすら)」「頓ひたぶる」」などに当てる場合がある。

(45-9)「殊(こと)ごとく」・・みな。すべて。「殊」は、当て字。

(45-1146-1)「割合(わりあい)て」・・分担して。

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『蝦夷日記』13年1月例会注

(120-2)「ルロツ」・・「松浦図」には、「ルロチ」とある。漢字表記地名「瑠橡(るろち)」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現紋別郡興部町中心地の南の集落。現興部町豊野付近。「瑠橡村」は、明治初年から大正4年(1915)まで存続した紋別郡の村。村名は「ルトチ」の訓を付される例もある(大小区画沿革表)。興部村の南東にあり、北東はオホーツク海に面する。南部山間に発する瑠橡川がほぼ北流して同海に入る。近世にはモンベツ場所のうち。明治初年ルロチなどの地を包含して成立した。明治8年(1875)「ルトチ村改瑠橡村」となる。大正4(1915)四月沙留村とともに興部村と合併した。現在、「瑠橡」という行政字名はない。こういう地名は残してほしいものだ。河川名としては残っている。

 *<漢字の話>「橡」・・「瑠橡」の「橡」の訓に、「とち」「とちのき」「くぬぎ」「つるばみ」を当てるが、本地名のように、「ろち」の訓はない。ここは、地名であるから、「ろち」もありか。漢字を当てはめた人物は、「ルトチ」と聞いたか。アイヌ語地名をいわば無理やり漢字にあてはめた例。

(120-3)「この間に小川」・・豊野でオホーツク海に注ぐ瑠橡(るろち)川。

(120-5)「サルゝ」・・漢字表記地名「沙留(さるる)」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現紋別郡興部町沙留(さるる)。『松浦図』には「シヤロゝ」とある。

(120-6)「此処岩山の出岬(でさき)也」・・現興部町沙留にある沙留岬。「出岬」は、「でみさき」より、「でさき」と読んだほうが、語調がいい。積丹町の大字に「出岬町」と書いて、「でさきまち」と読む地名がある。なお、一帯は、明治39年まで、「出岬(でさき)村」が存在していた。

(120-6)「サルゝ川」・・紋別郡興部町沙留(さるる)の東でオホーツク海に注ぐ沙留(さるる)川。

(120-8)「ヲシカリシヤラ大池」・・現紋別郡興部町富丘の海岸にあるオムシャリ沼。付近に、オムサロ原生花園がある。

(120-10)「ソボウ」・・順路から見て、渚滑(ショコツ)あたりか。『蝦夷紀行』は「ソホウ」に作る。

(120-11)「ちかつのち出崎」・・紋別市の西の北浜町3丁目にあるオホーツク海に突き出たチカプノツ岬。異本は、カタカナで「チカツノチ」に作る。影印の最初と最後の文字「ち」は、変体仮名の「知」。『くずし字用例辞典』P1264参照。

(120-10)「此所に広サ三十四間計川有」・・渚滑川をいうか。

(121-1)「モンベツ」・・漢字表記地名「紋別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。近世後期、オホーツク海沿岸部ほぼ中央に位置していた漁業基地。1680年代に開設したソウヤ場所に属した。寛政元年(1789)クナシリ・メナシの戦に関連しソウヤ場所請負人飛騨屋久兵衛が失脚、25月松前藩は北辺の取締を理由にソウヤ場所からカラフトシラヌシとシャリ場所を分離し藩の直領とした。

シャリ場所設置により沿岸部の帆船航路がシャリ(現斜里町)まで延長、このためソウヤ場所とシャリ場所との間で寄港地が必要となり、自然湾形に恵まれた当地に番屋が設置された(紋別市史)。初め番屋はアイヌコタン所在地の藻鼈(もべつ)川河口部に置かれていたが、その後四〇町ほど北のウエンノトロ(現弁天岬)の地に移り、以後同所がモンベツ、前所在地をモウベツまたはモウヘツ(現元紋別)と呼称区分をされた。

幕末期になると運上屋があるとされたり、場所とよばれたりしていたが、ソウヤ場所と合せて同一の請負人が請負うことが続いたので運上金も一括された。

番屋の領域は天保郷帳によれば「モンベツ持場之内、ポロナイ、ヲヽム、サワキ、ヲコチベ、ルロチ、シヤロヽ、シヨコツ、チカプノツ、ンベツ、モウベツ、ユウベツ、トウブツ、トウゴロ」と北はポロナイ(現雄武町)、東はトウゴロ(現常呂町)までである。なおソウヤ場所との境界は「モンヘツエサシ領分境目」であり、「古来よりトンナイウシの島を向ふに見る処以て定め有けるが(中略)惣マモンヘツ領三十二里三十二丁三間」、シャリ場所との境は「先年よりモユワを以て境となし有候由。(中略)其モユワと云は今の境の処より十丁計南東の方高き砂山也。其境杭の有処は本名チャ(メチャ)コヲマナイと言処なり」とされていた(場所境調書)。

場所請負はシャリ場所とともにソウヤ場所の出張所のような存在であった。文化4(1807)柏屋藤野喜兵衛がソウヤ・シャリ両場所の請負人になるが、運上金は両場所一括で六〇〇両である(嘉永三年「宗谷斜里場所引受証文」網走市史)。漁場労働者はほとんどアイヌであり、アイヌに対する非人道的扱いや苛酷労働の強制が戸口減少の一因にもなり、種々の問題を残した。

(121-9)「モンベツ川」・・現藻鼈(もべつ)川。南東の現丸瀬布(まるせつぷ)町境山岳部を水源とする。紋別市の南東でオホーツク海に流入する。

(122-1)「ヤシユン(シ)」・・ヤシュシ。漢字表記地名「八十士」のもとになったアイヌ語に由来する地名。『松浦図』には、ヤシユシとある。オホーツク紋別空港の南の地。ヤシュシナイ川が小向(こむけ)原生花園でオホーツク海に注ぐ。影印は「ヤシユン」に見えるが、「ヤシユシ」と読みたい。現紋別市八十士(やそし)。オホーツク紋別空港付近の地名。

(122-2)「ホンケと申所に●大沼あり」・・「ホンケ」は、「コムケ」。「コムケ」は、漢字表記の「小向(こむかい)」のもとになったアイヌ語地名。「コムケ湖」は、潟湖(せきこ・砂嘴=さし=、砂州、沿岸州などによって海の一部が外海と隔てられてできた湖沼で、紋別市東部のオホーツク海に面した丘陵地帯にある野鳥の楽園コムケ湖。ここには、オオハクチョウ、コハクチョウ、オジロワシ、アオサギ、ノゴマなど約200種類もの珍しい野鳥が飛来するので、バードウォッチングに絶好のエリア。また、コムケ湖の周辺には、小向原生花園があり、夏にはハマナス、コケモモといった高山植物が咲き、秋には真っ赤なじゅうたんを敷き詰めたかのように広がるサンゴ草群落を鑑賞することができる。紋別の野鳥と野草の楽園。最近、旭山動物園のフラミンゴが脱出し、このコムケ湖に留まったことで知られる湖。

 なお、「小向」は、紋別市の行政字名は、「こむかい」としている。河川、沼は、「コムケ」。

(122-23)「蝦夷地にては、池を沼(トウ)と申也」・・ここの「沼」は、アイヌ語の「トウ」と読みたい。北海道の湖沼には、「沼」と書いて「トウ」と読むものが多い。また、「ポロカヤントウ沼」など、アイヌ語の「○○トウ」の語尾に「湖」「沼」をつけている場合もあるが、「沼・沼」となり、私は、違和感がある。

(122-5)「シブンノツナイ」・・漢字表記の「信部内(しぶない)」「志文(しぶん)」のもとになったアイヌ語地名。また、「渋野津内」とも当てられた。紋別市と上湧別町の境界をシブノツナイ川が流れる。シブンノツナイ川をはさんで、西側の紋別市の行政字名は、「志文(しぶん)」、湧別町の行政字名は、「信部内(しぶない)」。河川、橋の名は、「シブノツナイ」。

(122-7)「ユウベツ川」・・湧別川。網走地方を流れる一級河川。流路延長八六・七キロ(うち指定区間七四キロ)、流域面積一四八〇平方キロ。北見山地天狗岳(約一五五三メートル)の北側斜面を水源として流れ下り、現遠軽町白滝市街地で支湧別(しゆうべつ)川が合流する。その後北東流して現遠軽町丸瀬布市街地に入る。ここでは南から武利(むりい)川、西から丸瀬布川が合流する。金山で流れの向きを東に変え、遠軽町市街地に向かう。遠軽町市街地の入口で流れを北に変えて市街地北東部で生田原(いくたわら)川が合流する。さらに現湧別町上湧別町屯田市街地、同町字中湧別の市街地の西を流れて湧別町市街地の北端でオホーツク海に注ぐ。

(122-9)「ユウベツ」・・漢字表記地名「湧別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

(123-3)「トイトコ」・・漢字表記地名「登栄床(とえとこ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現紋別郡湧別町登栄床(とえとこ)」。オホーツク海とサロマ湖に挟まれた細長い砂洲のうち西側、サロマ湖東部の最西端奥の地名。当地は寛政2(1790)村山伝兵衛がシャリ場所開設の折、ユウベツ―トコロ間の中継地として開いた所と考えられている。地名の由来は、松浦武四郎『戊午日誌』に「トイトコは沼の源と云儀也」とあり、元来はサロマ湖の西端、砂洲の付け根にあたる地域の地名であるが、明治期以降湧別村に属する砂洲の総称となった。

(123-4)「トウフツと申大沼」・・「トウブツ」。漢字表記地名「鐺沸(とうぶつ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現在は、サロマ湖東部の旧湖をいうが、かつては、サロマ湖をさした。

 サロマ湖は、紋別郡湧別町、常呂郡佐呂間町・常呂町にまたがる潟湖。幅200700メートルの砂洲によってオホーツク海と区切られ、その長さは約25キロ。湖口は昭和4年(1929)までは東側の現常呂町字栄浦(さかえうら)東側にあり、現在は湧別町・常呂町境および常呂町字栄浦西側の二ヵ所にある。湖の周囲約72キロ、面積146.9方キロ。北海道最大の面積をもつ富栄養湖で、全国では第三位。本流の佐呂間別(さろまべつ)川のほか、西からテイネ川・芭露(ばろう)川・計呂地(けろち)川・床丹(とこたん)川・トップウシベツ川・アネップナイ川などの河川が流入する。

(123-6)「トクセ」・・『松浦図』には、「トクセイ」とある。松浦武四郎の『西蝦夷日誌』には、「トキセ」とあり、「トエトコ」から続けて、「是より椴(とど)・槲(かしわ)柏原の砂地、壱里一丁十間トキセ平浜」とある。

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