森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2013年03月

「ふなをさ日記」平成25年4月注

                  

(61-2)「極(き)めし」・・きめた。決心した。組成は、下2動詞「極(き)む」の連用形「極(き)め」+過去の助動詞「き」の連体形「し」。「極(き)む」は、ひろく「決(き)む」と書く。

(61-2)「事ぞなき」<文法の話>・・「ぞなき」の組成は、係助詞「ぞ」+ク活用形容詞「なし」の連体形「なき」。「ぞなし」とせず、「ぞなき」となるのは、係り結びの法則で、「ぞ・なむ・や・か」または「こそ」(係り)に呼応して、その文を終止する述語である活用語が、それぞれ連体、已然の各活用形をとる(結び)現象をさす。「声聞く時秋は悲しき」「柿本人麿なむ歌の聖なりける」「春やときやおそき」「祝ふ今日こそ楽しけれ」など。

(61-23)「とやかく」・「とやかくや」の変化したもの。「と」を伴って用いることもある。雑多な事態を、特定しないまま列挙するのに用いる。非難したり迷惑に思う気持を込める場合が多い。何のかのと。ああだこうだと。あれやこれやと。

(61-3)「するほどに」・・変体仮名は、「春(す)」+「類(る)」+「本(ほ)」+「止(と・ど)」+「丹(に)」

(61-3)文化十二亥」・・文化12年(1815)。年月日の表記には、「年」を省略することは、よ

く見かける。この年の干支は「乙亥(おつがい・いつがい・きのとい)」

*<漢字の話>「乙」・・「オツ」は呉音、「イツ」は漢音。

            ①「乙鳥(いっちょう)」・・燕のこと。燕の元の字は乙(いつ)で、

             字の形と音とが似ているところから「乙」を通用する。

            ②「乙夜(いつや)」・・今の午後10時前後の2時間。または10

              以降の2時間。

            ②「乙夜之覧(イツヤのラン)」・・天子の書見。天子は昼間政務で

             忙しく、夜10時過ぎに読書するからいう。乙覧。

(61-3)「正月元日」・・「元日」は、一年の最初の日、つまり1月1日だから、「正月元日」とい

 う 言い方は、「列車に乗車する」と同じ言い方で、正しくない。ここは、「文化十二亥元日」

で、「正月」はいらない。なお、「正月」は、一年の初めの月。古代中国では帝王が新しく国を

たてると、暦を改めた。陰暦正月は夏の時代の暦の正月に基づく。夏暦は十二支の寅の月、殷は丑の月(十二月)、周は子の月(十一月)、秦は亥の月(十月)を正月と定めた。漢代以降清代まで夏暦が用いられ、この暦がわが国に伝来された。寅の月は孟春の季節にあたり、春を一年の最初とするわが国の習俗と合致し、正月は年頭であるとともに初春という意識を形成した。

また、「正月」の語源説に、<政治に専念した秦の始皇の降誕の月であるところからセイグヮツ(政月)といっていたものが、「正月」と書かれるようになり、音が改められたもの>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)がある。

*<漢字の話>「元日」・「がんじつ」と読むと、「がん」は呉音、「じつ」は漢音。熟語を音読する場合、上下とも漢音、上下とも呉音に読むのが普通である。このように、漢音・呉音を混交して音読する例も往往ある。

たとえば、「言語」の「げんご」と読めば、上は漢音、下は呉音。

(61-4)「思安」・・思案。思いめぐらすこと。深く考えること。また、その考え。「安」は当て字。

(61-5)「終(つい)に」・・行為や状態が、最終的に実現するさまを示す。最後に。とうとう。結局。いよいよ。

 *<漢字の話1>「終」・・国訓には、普通は「おわ(る)」「おえ(る)」が多い。そのほか、

         ①「つい」・・「終(つい)の別れ」「終(つい)の住処」

               「卑怯な私は、終(つい)に自分で自分をKに説明するのが厭になったのです」

               (漱石『こゝろ』)

         ②「おおせる」・・「逃げ終(おお)せる」

                「其不思議のうちには、自分の周囲と能く闘ひ終(おお)せたものだといふ

                誇りも大分交ってゐた」(漱石『道草』)

         ③「しまう」・・「これでお終(しま)いだ」「終(しま)い湯」

                「新開地は店を早く終(しま)ふので此店も最早(もう)閉っていた」(国

                 木田独歩『竹の木戸』)

 *<漢字の話2>「終」・・解字は、甲骨文は象形で、糸の両端を結んだ形にかたどり、糸の結びめ、おわちの意味を表す。篆文は季節の終わりの「冬」に糸を付した。

(61-5)「命のさかひ」・・死ぬか生きるかの分かれ目。命の瀬戸。

(61-5)「とらず」・・「ず」は変体仮名の「須」。

(61-5)「弥(いよいよ)」・・「弥」は、国訓で、「いや」<「弥栄(いやさか)」「弥増(いやまし)」>、「いや」、「いよいよ」と読む。「いよいよ」は、「愈」「愈愈」「愈々」「弥弥」「弥々」とも書く。

(61-6)「付たる」・・変体仮名は、「た」は「多」、「る」は、「流」。

(61-7)「去(さる)にても」・・然るにても。組成は、ラ変動詞「さり(副詞「さ」にラ変動詞「あり」の付いた「さあり」が変化した語)」の連体形「さる」+連語「にて」+係助詞「も」。そうであっても。それにしても。それはそれとしても。

(61-7)「すぢ」・・筋。おもむき。ようす。さま。「助るすぢ」は、助かるようなこと。

(61-8)「ぞかし」・・文末にあって強調を表わす係助詞「ぞ」に、間投助詞(一説、終助詞)「かし」が付いたもの。自己の考えを強く聞き手に向かって主張し、みずからも確認する気持を表わす。…なのだよ。「人の命ぞかし」は、「人の命であることよ」。

 *「多くの人殺してける心ぞかし」(『竹取物語』)

*「この住吉の明神は、例の神ぞかし」(『土佐日記』

*「ここは常陸の宮ぞかし」(『源氏物語』)

*「その程を尋ねてし給ふぞかし」(『堤中納言物語 虫めづる姫君』)

*「夏の蝉の春秋を知らぬも有ぞかし」(『徒然草』)

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蝦夷日記25年4月注

(138-4)「コヨヲノ先」・・「コヨヲ」は、「珸瑶瑁(ごようまい)」。「珸瑶瑁(ごようまい)村」は、明治5年(1872)から大正4年(1915)までの根室国花咲郡の村。歯舞村の東、根室半島の東端部に位置し、東端に納沙布岬がある。北側は根室海峡、南側は太平洋に臨む。珸瑶瑁海峡を挟んで北東に浮ぶ歯舞諸島(水晶島・秋勇留島・勇留島・志発島・多楽島)は当村に所属した。大正4年(1915)友知(ともしり)村など五村と合併し二級町村歯舞村となる。現根室市珸瑶瑁(ごようまい)・豊里・温根元(おんねもと)・納沙布(のさつぷ)・水晶島。また、「珸瑶瑁村」は、歯舞諸島の秋勇留島(あきゆりとう)・勇留島(ゆりとう)・多楽島(たらくとう)・志発島(しぼつとう)も所属していた。なお、納沙布岬と水晶島の間の海峡を「珸瑶瑁(ごようまい)水道」という。

(138-7)「此アツウシベツより直に山道に相掛り」・・別海から厚岸へは、ほぼ現国道44号線沿い(風連川支流の姉別川沿い)が普通の行路であった。「山道」とあるが、険しい道ではない。ここは、「海岸道」でなく、「内陸部の道」程の意味か。寛政11年(1799)、幕府は、蝦夷地を直轄地にすると、交通路の整備を行った。『新厚岸町史』によると、風連湖畔のアツウシベツから厚岸までについていえば、風連川を利用する道で、アツウシベツからノコベリベツ間の山道を整備した。さらにベカンベウシ川から舟で厚岸に出た。旅宿所をアンネベツ(姉別)とノコベリベツに建てている。

 なお、近代の道路・鉄路にふれると、大正6年(1917)厚岸町真竜(しんりゆう)から同町糸魚沢(いといざわ)、茶内を通り野付郡別海までの道路が開削され、同8年(1919)11月には、官設鉄道根室線(現JR根室本線)の厚岸―厚床(現根室市厚床)間が開通して、交通の便が大きく改善された。

(138-8)「レン子クル」・・松浦武四郎『竹四郎廻浦日記』に、「カムイチセンヘツ」と「イソマヘツ」の間に、「リヱニクル」がある。現根室市明郷(あけさと)付近。

(138-9)「ライベツ」・・風連川支流のライベツ川流域。松浦武四郎『竹四郎廻浦日記』に「此処より山道四里半にて南海岸フウテシユマ江道有り」とある。アツケシとネムロを結ぶ風連川沿いの交通の要路。

(138-10)「コタンアンベツ」・・風連川中流域。現厚岸郡浜中町姉別原野付近。

(139-2)「山田屋文右衛門」・・アッケシ場所請負人の山田文右衛門。文右衛門について、ジャパンナレッジ版『国史大辞典』を引用する。

 「江戸時代から明治時代前期にかけて、北海道で活躍した事業家の代々の通称。古く松前に移り住んだ旧家と伝えられているが確かなことはわかっていない。明らかなのは文化4年(1807)当時栖原角兵衛が松前藩より請け負っていた留萌場所の支配人として増毛より滝川に通ずる山道を切り開いたのが十五代文右衛門で、能登国羽咋郡志賀町の出身。以前蝦夷通辞だったという。当時樺太・宗谷を舞台として活躍していた同郷阿部屋の下で働いていたらしい。文政4年(1821)太平洋岸勇払場所、翌年隣の沙流場所を、天保3年(1832)にはさらに厚岸場所を併せ請け負い、場所内のアイヌを手不足の場所に出稼させ、新しい漁法を入れて収獲を増加し、また勇払―千歳間に陸路を開き、牛車をもって石狩の鮭を勇払に送るなどの工夫をこらして産をなした。甥の十六代文右衛門は、安政2年(1855)幕府の蝦夷地再直轄に際し、支店を箱館に設けてこれに協力し、4年箱館奉行より樺太開拓の命を受け、東海岸栄浜近傍に漁場を拓き、元治元年(1864)無事引き上げるまで続けた。有名なのは、開国により昆布が輸出品として有望化したのに着眼、投石による昆布礁の造成によって増産し得ることを実験し、率先して沙流場所に集中的に投石して範を示し、奥地に昆布漁を拡げるための刺戟として役立った。開拓使はこれを高く評価し、明治14十四年(1881)明治天皇行幸の際には賞状を賜わり、養殖漁業の先駆としてその名を知られた。同16年9月12日没。墓は石狩郡石狩町の能量寺にある。」

 これによると、本文書当時のアッケシ場所請負人は、15代文右衛門である。

 なお、『新厚岸町史』には、「天保13年(1852)の9代文右衛門死去により10代文右衛門清富が請け負い、明治を迎えた」とある。

(139-3)「ヲヱナウシ」・・風連川中流域。現厚岸郡浜中町姉別原野付近。

(139-5)「イトヱチンベ」・・風連川上流域。現厚岸郡浜中町円朱別原野付近。『松浦図』には、「イトエチセンベ」とある。

(139-6)「ノコベリベツ」・・漢字表記地名「野古辺」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地はアッケシからネモロの「アツウシベツ」に至る山道の止宿所であり、内陸部へ向かう際の拠点でもあった。ノコベリベツ川は、風連川の上流部。(139-9)「木綿紺糸(こんいと・こういと)」・・紺色の木綿の糸。

(139-89)「被下物(くだされもの)」・・漢文訓読がそのまま、日本語に適用された例。目上の人からもらったもの。いただいたもの。頂戴物。拝領品。たまわりもの。くだされ。「被」を省略して「下物」と書いて「くだされもの」と読む場合もある。

(139-9)「針壱疋(はりいっぴき)」・・針50本。「疋」は、「匹」の当て字で、縫い針の単位。50本で「1匹」。

(140—1)「ホンノヰベツ」・・不明。

(140-2)「ヲラウンベツ」・・ノコベリベツ川の支流。

(140-3)「ベカンヘウシ」・・漢字表記地名「別寒辺牛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地はアッケシからネモロ場所内「アツウシベツ」へ向かう山道沿いに位置する。また、当村は往時厚岸湖から別寒辺牛川を遡上して根室へ出る交通路にあたっていたが、明治23年(1889)厚岸より湖岸を経て浜中に達する新道が開かれ、風澗(ふうかん)駅が設けられた。

(140-5)「此川巾十間計」・・「此川」は、別寒辺牛(べかんべうし)川。厚岸町のほぼ中央を流れる普通河川。延長43.8キロ、流域面積738.8平方キロ。厚岸町の北方、標高120メートル前後の根釧台地に源を発し、標茶・厚岸両町境に沿って台地上を蛇行しながら南東に流れ、下流部でトライベツ川、チャンベツ川、サッテベツ川、チライカリベツ川、大別(おおべつ)川などの支流を合せ、尾幌(おぼろ)川とともに厚岸湖の北西部に注ぐ。中流域から下流域にかけて泥炭湿原が発達し、下流部にはヨシ、スゲが茂る低層湿原、中流部には約100ヘクタールの高層湿原が形成され、湿原の発達過程を知ることができる。また数多くの野生生物が生息し、希少種のハナタネツケバナなどが生育する。厚岸湖とともに貴重な自然として高い評価を受け、平成5年(1993)国設鳥獣保護区に指定されたのを受けて、厚岸湖・別寒辺牛湿原としてラムサール条約の登録湿地になっている。

(140-6)「周廻り三り余大沼也」・・「大沼」は厚岸湖。厚岸町東部にある楕円形の汽水湖。周囲約26キロ、面積31.8平方キロ、最大水深は11メートルであるが、大部分は1メートル内外である。厚岸湖は約一万年前から九千年前に別寒辺牛(べかんべうし)川が運ぶ川水によってできた淡水湖が原形で、さらに海面の上昇によって海水が浸入して入江となった後、約三千年前に再び海面が低下して海水が後退し、淡水と入交じる汽水湖となり現在に至っている。北方から別寒辺牛川、東方からトキタイ川、南東方から東梅(とうばい)川などが流入し、西端の幅600メートルの水路で厚岸湾に通ずる。湖内には牡蠣が堆積してできた60余の牡蠣礁があり、牡蠣(かき)島と通称されている。前近代にはアッケシ沼とよばれた。明治初年から鑑札制度により牡蠣の採取が行われていたが、現在は牡蠣の種苗を春から結氷前まで筏式または垂下式で養殖し、さらに牡蠣礁に地播きして四―五年後に採取する方法がとられている。アサリ、ノリの養殖も営まれるほか、サンマ漁、サケ・マス漁も盛んである。冬季にはほぼ結氷するが、道東海岸線における最大のオオハクチョウの越冬地で、オジロワシ、オオワシも飛来する。別寒辺牛川が注ぐ湖北地区は平成6年(1994)、厚岸湖・別寒辺牛湿原としてラムサール条約の登録湿地になっている。湖全体は厚岸道立自然公園の特別地域となっている。

(140-7)「かき島」・・牡蠣島。厚岸湖内にある牡蠣礁。天然牡蠣が堆積した島礁で、一般に牡蠣島とよばれる。かつては大小65を数えた。アイヌ語では、ビバモシリなどと呼ばれた。『松浦図』には、「イチヤセモシリ 和蠣シマト云」とある。

(140-8)「シゝヨベ」・・『松浦図』には、「シユゝべ」とある。

(140-9)「ノテト」・・アイヌ語に由来する地名。現厚岸湾口に位置するコタン名のほか岬名としても記録されている。御供山北に突出した砂洲。松浦武四郎『廻浦日記』に「ノテド、此所タンタカへの渡り口也」とある。

(141-1)「舟路(ふなじ・しゅうろ)二り」・・「舟路」は、舟の道。この行程は、ベカンベウシから舟で厚岸湖に出て、牡蠣島を迂回し、厚岸湖南岸のアツケシまでの道のりをいう。

(141-1)「アツケシ」・・漢字表記地名「厚岸」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名や会所およびその周辺をさす地名としてのほか湾・港などの名称としても記録されている。

 「アツケシ場所」は、厚岸湾を中心として設置された場所。開設は1620~40と伝えられ、寛永20年(1643)8月アッケシ商場へ松前藩の船が来航し、厚岸湾に停泊していたオランダ船カストリクム号を検分した。松前船は米・衣服・酒・煙草などを運んできて、毛皮・鯨油・油脂などと取引するという。場所名は「悪消」とも記され、運上屋はヌサウシコタン(現湾月町)に置かれた。アッケシ場所は「異国通路の土地にて、要害第一の所に御座候」とされ(蝦夷地一件)、松前藩主直属の商場であった。元禄14年(1701)アッケシ場所からキイタップ場所(のちのネモロ場所)が分割されたことにより縮小した。キイタップ場所がネモロ場所となると、キイタップ場所の運上屋が置かれていた「キイタツプ」周辺もアッケシ場所に帰属した。3年(1774)飛騨屋久兵衛がアッケシ場所を二〇年季で請負い、1780年代後半の運上金は120両であった。飛騨屋は89年のクナシリ・メナシの戦の責任を問われて場所請負を免ぜられ、代わって村山伝兵衛が差配を命じられた。99年東蝦夷地は幕府の直轄となり、場所は直捌となって請負人は免ぜられた。ヌサウシコタンの運上屋は会所と改められ、詰合所には幕府役人が常駐した。またネモロ場所を結ぶ陸路、クスリ場所とを結ぶ海岸路が整備され、ノコベリベツなどに旅宿所を設けた。文化2年(1805)には国泰寺が置かれた。請負制度は13年に復活し、米屋藤兵衛が1688両余で請負い、文政元年(1818)竹屋長七がその後を継いだ。1790年には松前藩によってアッケシに勤番所が設けられ、幕府直轄領時の1807年には盛岡藩士に、21年の松前藩復領後は同藩士に警備が命じられた。27年には栖原六郎兵衛、天保元年(1830)には山田文右衛門が請負人になった。アッケシ場所では1810〇年代後半頃から天然痘が大流行し、死亡・流離する者が絶えなかった。また43年3月には「前代未聞の大地震、津浪」が発生して番屋・家蔵・アイヌの住居など数十棟が流失し、多数の溺死者を出した。また閏9月には大風によって家蔵が破損し、甚大な被害をもたらした。この年の損害により山田家の運上金600両のうち200両が三ヵ年に限り免除された。

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「ふなをさ日記」13年3月注

(55-1)「はまんとて」・・食(は)まんとて。食べようと思って。「食(は)まん」は、4段動詞「食(は)む」の未然形「食(は)ま」+推量の助動詞「む(ん)」の終止形。

 *<文法の話>「とて」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、語構成に関して、

 <()格助詞「と」に接続助詞「て」の付いたもの、とするのが一般の説である。

()断定の助動詞「と」に接続助詞「て」の付いたもの、とする説もある。

*接続助詞は用言のみに付く、と定義する以上、格助詞に付くとする()説には疑問が生じ、その点で()の説には矛盾がない。ただし「とて」を「と言ひて」「とありて」などの圧縮形と考えるならば()説も可能である。>とある。

(55-1)「橋船(はしぶね・はしふね)」・・端舟とも。本船に対する端船で、大型船に積み込み、人馬・貨物の積みおろしや陸岸との連絡用として使用する。はしけぶね。はしけ。端伝馬。脚継舟(あしつぎぶね)。

(55-34)「待(まち)かけて」・・待ち掛けて。待ち懸けて。待ちうけて。待ちかまえて。下2動詞「待ち懸(掛・か)く」の連用形「待ち懸(掛・か)け」+接続助詞「て」。

(55-4)「安(やすら)からず」・・不安である。「安らか」は、ゆったりとして感じのよいさま。心が安らぐようなさま。形容詞「安らけし」の未然形「安らから」+打消の助動詞「ず」の終止形。

(55-5)「事(こと)ともせず」・・何とも思わない。問題にもしない。気にもかけない。全くとりあわない。ことにもせず。

(55-7)「案じて」・・あれこれと考えをめぐらして。

(55-89)「こししらへ」・・「し」がひとつ重複か。

(55-9)「平苧(ひらお・ひらそ)・・「苧」は、麻、苧(からむし)の茎の皮の繊維で作った糸。緒にするもの。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「片麻布(かたまふ)」の説明に「苧麻の平苧(ひらそ)で織った布」とあり、「平苧」に「ひらそ」と訓じている。

(55-9)「平の付て」・・異本は、「平芋を付けて」に作る。「の」は「を」の誤りで、「平芋の」は、「平芋を」か。

(55-10)「しゃち(車地)」・・人力により綱を巻き上げる大きな轆轤(ろくろ)。重い物を引っぱったり、持ち上げたりするのに用いられる。また、和船では、車立の車の両端に棒をさし、綱を巻く道具にしたものをいう。

 和船の艫(とも)やぐら内部左右に設けて、帆・伝馬船・碇・重量荷物などの上げ下ろしに用いる船具。巻胴・轆轤棒・轆轤座、身縄、しゃじき棒、飛蝉などからなり、今日のウインチに相当する。

(55-11)「水きは」・・水際(みずぎわ)

(56-2)「になひ」・・「にないおけ(担桶)」の略。てんびん棒で担ぐおけ。

(56-3)「くるしみおどりさわぎ勢いに」・・どうも、語調がよくない。異本は、「苦みて、踊りさわぐ勢いに」につくる。このほうが、分かりやすいし、語調もいい。

(56-3)「ヱギ」・・餌木(えぎ)か。餌木は、大形のイカを釣る擬餌針(ぎじばり)。木片で魚またはエビの形を作り、その末尾に群鉤をつけ、下腹部には、鉛または穴あき銭をはめこんで浮沈の均衡をはかった。享保年間(171736)には薩摩で行なわれていたが、文政12年(1829)頃、クスノキで作った油焼のエビ形で多獲したことから、楠材のものが北九州や徳島などでも盛んに用いられるようになった。異本は、「鰓(えら)」に作る。

(56-34)「つな切るゝと、わにのヱキ切るゝかして」・・ここも、語調がよくない。異本は、「綱切るゝか、鰓(えら)切るゝかして」に作る。

(56-5)「ながら」・・副助詞。接尾語・接続助詞とする説もある。(数詞や副詞「さ」を受けて)「すべて」「…とも」の意を表わす。ここは、「四本とも、すべて」の意になる。

 *「犬の前足をふたつながら肩にひきこして」(『大鏡』)

 *「学問、遊芸、両(ふたつ)ながら出来のよいやうに思はれるから」(二葉亭四迷『浮雲』)

(56-6)「此程(このほど)」・・近い過去から現在までの時間を漠然とさしていう語。このごろ。ちかごろ。最近。

(56-78)「心持(こころもち)」・・気分。気持。

(56-9)「おもひたらひたる」・・思い足らいたる。十分に思ったようになる。「たらひ」は、「足(た)らふ」の連用形。「足(た)らふ」は、動詞「たる(足)」の未然形に上代の反復・継続の助動詞「ふ」の付いたもの。十分になる。満足な状態になる。

(56-9)「十一人」・・病死は十人だが、転落死した要吉を含めると十「一人」になる。異本は、「十人」としていている。

(56-10)「くが」・・「くぬが」の変化した語。海、川、湖、沼などに対して、陸の部分。陸地。くにが。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<水部に対する陸部を表わす語には、「やま・をか」などもあるが、それらは平地部分とも対になる。一方、「くが」は平地とは対にならず、水部に対する語であり、後には、海路・水路に対する陸路をさすようにもなる。>とある。

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