森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2013年04月

蝦夷日記5月注

                                         

(143-10144-1)「高サ弐丈五尺余・・立岩あり。都合弐ツあり。」・・現釧路町冬窓床(ブユマ)の沖のローソク岩。

(144-3)「アトイカ」・・漢字表記地名「跡永賀」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路郡釧路町跡永賀(あとえか・あとえが)村。

(144-6)「コンブムイ」・・漢字表記地名「昆布森」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路郡釧路町昆布森(こんぶもり)村。

(144-8)「チヤラシベツ」・・・漢字表記地名「地嵐別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路郡釧路町大字昆布森(こんぶもり)村字地嵐別(ちあらしべつ)。

(144-9)「半道(はんみち)」・・一里の半分。半里。

(144-910)「ベツヲシヤモ」・・漢字表記地名「昆沙門」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路市桂恋のうち。『松浦図』には「ヘツシヤム」とある。現在、釧路市の地名に三津浦があるが、三津浦の地名の由来には、地内のコンブ漁村集落がアイヌ語地名ベッシャム(現昆沙門)、オコツ(現三ツ浦第一)、カンパウシ(現三ツ浦第二)の3つに分かれていたことにちなむという。

(145-1)「大穴あり、汐水打出し古今面白き岩なり」・・この海岸には、岩礁や岩場のところで、海中には奇岩がそそりたち、洞窟のような岩も多く、龍の口に似てることから、「龍神口」呼ばれている。

(145-2)「カツラコヰ」・・漢字表記地名「桂恋(かつらこい)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路市桂恋。「桂恋」を当てるので、アイヌ語ではなく、和語かと思われるが、古くは「カツロコイ」「カチロコイ」ともいい、アイヌ語で、「カツラコイチリ」という鳥が多く集まることに由来するという。(『蝦夷地名考並里程記』)

(145-3)「クスリ」・・漢字表記地名「釧路」のもとになったアイヌ語に由来する地名。「クスリ場所」は、北海道東部、太平洋岸に設置された東蝦夷地の場所の一。釧路川流域を中心とする。場所境はたびたび変遷し、享和2(1802)以降、西は直別(ちよくべつ)川(現釧路市音別町・浦幌町境)を挟んでトカチ場所、東は厚岸湾に面するモセウシ(現釧路町別太川河口北側)でアッケシ場所に接する。初め西は大楽毛(おたのしけ)川を境にシラヌカ場所に接していたが、享和2(1802)シラヌカ場所がクスリ場所に併合されたことにより西へ拡大。東はアチョロベツ川(現釧路町大字昆布森村)でアッケシ場所に接していたが、さらに東のモセウシに変更された。北のシャリ場所との境は「シャリ領ワツカウイより山え上り、ルウチシと申峠を以て境に相定め候」と斜里岳から藻琴山に続く稜線に設定されていたが、その後ヲタウニが境とされた。アバシリ場所との境はヲンネナイであったが、文化4(1807)のアバシリ越新道開削後ニマンベツ(現大空町女満別)とされた。享保十二年所附には「くすり」とみえている。場所名は「久寿里」とも記された。寛政11(1799)まで松前藩主直営地。177080年代から飛騨屋久兵衛(益郷)が当場所の一括請負経営を行い、天明8年(1788)から再び漁業請負を行った。運上金は初め五〇両(蝦夷草紙別録)、その後一三〇両となり(東蝦夷地場所大概書)、一六〇両に増加した(松前随商録)。享和2(1802)以降は幕府領となる。

文化9(1812)に直捌が廃止されると請負経営が再開され、二二年(文政5(1822)に米屋(佐野孫右衛門)が場所請負人となった。米屋の下で働く漁業者は道南の箱館・松前、下北地方の出身者が多かった。多くは春の鰊漁業、夏の昆布採取、秋鮭漁業に季節的に出稼し、一部は外国船警備や漁業準備のため越年した。1850年代後半は鮭漁業では引網に加え建網(定置網)を導入する時期にあたる。このため河口で鮭が大量に捕獲された結果、クスリアイヌとネモロアイヌがそれぞれ入会漁場としていた西別川の鮭漁をめぐって紛争が起こっている(ニシベツ川一件)。なお松浦武四郎はクスリ場所以東の三場所について「生産は、是実に蝦夷第一等の出嵩といふべし。尚又是に河海魚猟の具を蜜(密)にし、山野開拓の力を施さば、不日にして北海無比の一良国とならん」とその優位性を説いている(板本「東蝦夷日誌」)。明治2年(1869)漁場請負制は廃されるが、佐野孫右衛門は引続き漁場持となり、同9(1876)まで続いた。

(145-10)「クスリ川」・・釧路川(くしろがわ)。釧路地方を流れる一級河川。流路延長154.1キロ、流域面積2510平方キロ。屈斜路湖を水源として、屈斜路カルデラや摩周カルデラが形成されるまでの火山活動に由来する、厚い火山噴出物が地表面を覆う丘陵地帯を南東に流下する。途中で弟子屈町を貫流し、西から鐺別(とうべつ)川が合流する。本流は標茶町内で流れを南西に変え、同町五十石(ごじつこく)付近で釧路湿原に入り、釧路町では湿原の東縁部を流れて、さらに釧路市の市街地を通って太平洋に注ぐ。湿原の北にある丘陵地帯から流下するオソベツ川・ヌマオロ川・久著呂(くちよろ)川・雪裡(せつつり)川などが湿原の中で本流に次々と合流している。釧路川では洪水による被害が度々発生した。その後洪水防止と釧路港への土砂の流入を防ぐことを目的にして、釧路町の岩保木(いわぼつき)から釧路市の新富士(しんふじ)地先に至る延長12キロの人造河川が開削された。現在は平成13年(2001)四月五日付の国土交通省告示によって人造河川のほうを「新釧路川」、市の中心部を流れる川を「釧路川」とよぶことになった。

(146-2)「ベトマイ」・・漢字表記地名「別途前」のもとになったアイヌ語に由来する地名。「別途前川」は、現在、釧路市星が浦付近のJR根室線に沿って、線路の南側を流れる小川。

(146-3)「此間小川」・・川は、阿寒川か。阿寒川は、阿寒町と釧路市を流下する二級河川。流路延長98.4キロ、流域面積717.9キロ。阿寒国立公園内阿寒町の阿寒湖南東岸から流出、南に流れて飽別(あくべつ)川・徹別(てつべつ)川・舌辛(したから)川・大楽毛(おたのしけ)川などを合流して、釧路市の西部、大楽毛で太平洋に注ぐ。阿寒川は、もとは釧路川に注いでいた。1800年頃のクスリ・シヤリ・シベツ間里程絵図(近藤重蔵蝦夷地関係史料)にはアカン沼(阿寒湖)から流れ出て蛇行しながら流下し、「ヲタノシケ」北東でクスリ(釧路)川に合流する川筋が描かれている。また当川の流路は太平洋岸からオホーツク海岸に抜けるアバシリ山道の一部として活用され、松浦武四郎は安政5(1858)にヲタノシケから阿寒湖へ抜けている(「久摺日誌」など)。下流域には明治17年(1884)・同18(1885)の両年にわたり鳥取県旧士族105戸が移住したが、阿寒川の洪水に悩まされた。いっぽう釧路川河口に近代港湾を修築するにあたって阿寒川と釧路川の分離が計画され、大正7年(1918)に阿寒川の流路を変更し、当時の釧路町別途前(べつとまい)(現釧路市新富士町)で太平洋に注ぐ阿寒新川(新放水路)を開削する工事が完成した。しかし同9(1920)8月に発生した洪水で、阿寒川と大楽毛川の間に掘られていた分水路を本流とする河川に変わり、釧路川から完全に分離した。現在釧路市鳥取大通付近で新釧路川に合流している仁々志別(ににしべつ)川の下流部は、大正7年開削の阿寒川の新放水路にあたる。現在河谷に沿って国道240号(通称まりも国道)が通過、沿線に釧路空港もあり、阿寒国立公園への観光ルートとなっている。

(146-4)「ヲタノシケマフ」・・漢字表記地名「大楽毛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路市大楽毛(おたのしけ。流域一帯は近代に入り、「大楽毛川」以西は庶路(しよろ)村(現白糠郡白糠町庶路)に、以東は釧路郡釧路村(現釧路市)に包含された。

(146-5)「コヱトヰ」・・漢字表記地名「恋問」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現白糠郡白糠町コイトイ。

(146-6)「ツロロ川」・・「ツロロ」は、ショロ。『松浦図』には、「シヨロヽ」とある。「ツロロ川」は、庶路川。白糠町の東部を流れる二級河川。流路延長66.8キロ、流域面積328.7平方キロ。阿寒富士の南西麓の白糠丘陵中に発したコイカタショロ川・コイボクショコツ川が合流して庶路川となり、クッチャロシベツ川・シケレベ川などの支流を集めながらやや南東へ流下し、庶路原野を貫流し、下流域で庶路市街を右曲後東進して太平洋へ注ぐ。河口部ではコイトイ川が合流している。

(146-7)「此所より●シヤリ山越」・・いわゆるアバシリ越新道。現白糠(しらぬか)町の庶路(しよろ)を起点に庶路川を遡行、阿寒(あかん)湖の南岸から西岸に回り、現釧北峠付近のルウチシ(ルチシ)で山を越えて網走川上流へ出、同川沿いに北行、美幌・女満別・網走を経て斜里に至る道。一八〇七年文化4(1807)に新しく整備されて休泊地が定められたため新道とよばれた。アバシリ山道ともいう。『地名考并里程記』は「文化四年卯年八月、西地人馬継立のため、小荷駄馬引越させ候砌、通路いたす」と述べ、経路地と休泊地(チブタナイ、シタカラブト、ヲフイチセナイ、ヌヲン子イ、アバシリヲン子ナイ、カムイショブイ、ヲン子ナイ、シマンベツ、トラブツ、シャリ)をあげ、「シラヌカよりシヤリ会所許迄、行程凡六十里程ある由」と記している。なおヲタノスケ(大楽毛)からの山道がシタカラ(舌辛)でこの道に合流していた。明治期には近呼新道とよばれ、現在は釧北峠付近から美幌までは国道240号、美幌から女満別までは国道39号にほぼ引継がれている。

(146-7)「サクジス」・・漢字表記地名「刺牛(さしうし)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。「サクシヽ」「シヤクシウシ」「サクジヽ」とも。『竹四郎廻浦日記』には、「シヨロベツ」と「シタヌカ」の間に「サシユヽ」がある。現白糠郡白糠町刺牛(さしうし)。

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ふなをさ日記5月注

(66-1)「しめし」・・示。教え。

(66-2)「異国」・・影印の「己」+「大」の字は、「異」の異体字。(『くずし字用例辞典』P703参照)

(66-3)「さる」・・連体詞。動詞「さ(然)り」の連体形から。(前の事柄を受けて)そのような。そういう。

(66-2)「異国」・・影印の「己」+「大」の字は、「異」の異体字。(『くずし字用例辞典』P703参照)

(66-7)「日々(ひび)」・・毎日。

(66-8)「凪(なぎ)」・・国字。ジャパンナレッジ版『字通』には、<「和(な)ぐ」の名詞形。〔万葉〕には「夕薙」のようにしるしており、凪という字は〔文明本節用集〕などに至ってみえる。凩(こがらし)・凧(たこ)なども、みな同じ造字法で、風の省文に従う。卜文では風はもと鵬の飛ぶ形に作り、音符として(凡)(はん)を加え、それがのち風の字となった。>とある。一方、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の親見出し「凪」の項の補注には、<上二段活用動詞「なぐ(和)」の連用形の名詞化したものであるならば、「なぎ」の「ぎ」は上代、乙類音でなければならないが、「朝なぎ」「夕なぎ」の万葉集例は、「ぎ」を甲類音を表わす字で記しているので、四段活用動詞の連用形の名詞化したものである。そこで、水面がなぎ倒されたように平らになることで、「なぐ(薙)」の連用形の名詞化とする説もある。また、「万葉‐六・一〇六二」に「夕薙(ゆふなぎ)」という表記がある。>とある。なお、「風」部の国字には、「六甲颪」の「颪(おろし)」がある。

(66-8)「戌(いぬ)の時」・・午後8時ころ。

(66-9)「ねぶり」・・動詞「ねぶる(眠)」の連用形の名詞化。ねぶること。ねむり。

(66-9)「ねぶく」・・ク活用形容詞「ねぶし」の連用形。

(66-10)「重吉がうしろに」・・「重吉が」の「が」は、連体格の格助詞。「~の」。ここは、「重吉のうしろに」。

(66-11)「装束(しょうぞく・そうぞく)」・・特別な日のために身支度すること。

*<漢字の話>「装」・・「装」の発音は、「ショウ」が漢音、「ソウ」が呉音。「装」を「ショウ」と漢音で読む例は、手元の漢和辞典では、上接語では皆無。下接語で「衣装(いしょう)」のみ。

(66-11)「ひたゝれ」・・「直垂」を当てる。方領(ほうりょう)・闕腋(けってき)の肩衣(かたぎぬ)に袖をつけた衣服。袴と合わせて着用する。元来は庶民の労働着であったものが、平安末期から武士の日常着となり、水干にならって鰭袖(はたそで)・袖括(そでぐくり)・菊綴(きくとじ)が加えられ、鎌倉時代には幕府出仕の公服となり、室町時代には公家も私服とした。また、江戸時代には風折烏帽子をかぶり、袴を長袴として礼服となり、式日の所用とされた。

(67-1)「烏帽子(えぼし)」・・「えぼうし」の変化した語。「烏」は、「からす」。烏塗(くろぬり)の帽子の意。元服した男子の用いたかぶりものの一種。令制の朝服付属の冠に対し、貴賤の別なく、成人の男子の日常不可欠のかぶりものとされた。

(67-1)「ゑぼし」・・「烏帽子」のふりかな(ルビ)に、「ゑぼし」とある。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」に、<語頭字について「え」か「ゑ」かという論争が江戸時代以降ある。明治時代でも、物集高見、落合直文などは「ゑぼし」とし、大槻文彦は「えぼし」とした(国語調査委員会「疑問仮名遣」)。>とある。

*「ルビ」について

 「ジャパンナレッジ」のコラム「日本語どうでしょう!~知れば楽しくなることばのお話~」に小学館国語辞典編集部編集長の神永暁(かみなが・ぎょう)氏のエッセイ<「ルビ」は英語だが、英語に「ルビ」はない>がある。以下に引用する。

<小学生向けの国語辞典は現在10社ほどの出版社から刊行されているのだが、そのほとんどが総ルビになっている。総ルビというのはすべての漢字に振り仮名が付いているということである。なぜ小学生向けの辞典がそのようになっているのかというと、小学生の間に広まっている「辞書引き学習」に、低学年からも取り組めるようにという配慮なのである。「辞書引き学習」の開発者である深谷圭助氏は、講演会やワークショップなどで必ず「総ルビの辞書を買ってください」と呼びかけている。
 ところがあるとき、会場にいた保護者から「ルビってなんですか?」という質問があった。
 確かに編集に関わっている人間にとっては「ルビ」はふつうに使われる語なのだが、一般の方にはあまり馴染みのない語だったのかもしれない。ましてや、なぜ振り仮名を「ルビ」と言うかなどということをご存じの方は、あまりいらっしゃらないであろう。
 「ルビ」は元来は印刷用語で、振り仮名用の活字の名称だったのである。振り仮名の起源は平安時代初期に漢文に付けた訓点(漢文を訓読するための手がかりとして、漢字の上や脇に書き入れる文字や符号)に始まると言われている。後に漢字の読みを示すために脇に付けた平仮名を「振り仮名」と呼ぶようになり、さらに活版印刷が主流になった明治時代になって「ルビ」とも呼ばれるようになったのである。
 この「ルビ」は英語の「ルビー(ruby)」、すなわち宝石のルビーに由来する。英語ではやはり印刷用語として、5.5ポイントの大きさの活字を「ruby」と呼んでいたのである。
 だが、もちろん英文に振り仮名が存在するわけではない。ではなぜ振り仮名=ルビになったのかと言うと、日本で五号活字(「号」は活字の大きさを表す単位。数が多くなるほど小さくなる。現在はほとんど使われない)の振り仮名として用いた七号活字が、欧文活字のルビーとほぼ同じ大きさだったところからこのように呼ばれるようになったというわけである。あくまでも日本での呼び名なのである。
 だが、手許の国語辞典で「ルビ」を引いてみると、「ルビ」の起源に言及せず、単に「ruby」という英語を示すだけのものがある。英語に「ruby」という語は存在しても、振り仮名の意味ではないのだから、日本独特の「ルビ」の起源について触れる必要があるのではないかと思う。>

(67-1)「の給ふ」・・普通は、「宣(のたま)ふ」。「曰(のたま)ふ」も使われる。動詞「のる(宣)」に四段活用動詞「たまう(賜)」の付いた「のりたまう」の変化したもの。上位から下位へいう、告げ知らせるの意を表わすのが原義。

(67-2)「かならず」・・「かならず」は、「間違いなく」の意味のほかに、特に、否定表現を伴って、確言、強制、確信が、絶対的ではないことを表わす。絶対に…(というわけではない)。きっと(…とは限らない)。ここは、「決して急いで乗るべきではない」。

(67-2)「せき込(こみ)て」・・あわてて。急いで。「せき込む」は、「急(せ)き込む」。心がせいていらだつ。せいて気をもむ。あせる。

(67-3)「給(たま・たも)う」・・①「タ・マ・ウ」と3音で発音しても、②「タ・モー」と2音で発音してもいいかと思うが、②の「タモー」は、ウ音便の例。古文調に発音する場合は、この②のウ音便が使われる。現在でも、関西では、ウ音便になる場合が多い。その例として、「笑(わら)う」が、「ワロー」、「習(なら)う」が、「ナロー」と発音する。なお、『くずし字用例辞典』は、「たもう」とウ音便を採用している。(P825

(67-4)「船玉(ふなだま)」・・船霊、船魂とも。船の守護神。古代から船乗りのあいだで信仰され、はじめ住吉の神を祭神としたが、のちには仏教の影響を受けて神仏混交の形をとり、大日・釈迦如来、聖観音などの諸説も現われ、また船の主要部一二か所にそれぞれ一体をあてて、十二船霊とも唱えるようになった。近世の船霊祭文によると、十二船霊は、舳が馬頭観音、帆が白衣観音、舵が如意輪観音というようにすべて観音とするものや、天照大神・春日大神・北野天神・貴船明神などの神を混ぜるものもあり、船匠の流儀による相違が目立つ。船中でまつるには、帆柱の受材である筒(つつ)の下部に小穴を二つあけ、納物として夫婦雛・髱(かもじ)・麻を左側に、賽(さい)二個・五穀・銭一二文を右側に封入する。これを筒納めまたは神入といい、筒立祝という造船儀礼中最高の行事とされる。

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胸を張って歩く

年をとると、知らず知らずに背を丸めて歩くようになります。妻から、いつも、「おとうさん、胸を張って!目線は水平線より上に!」と注意されました。大事なことだと思います。
シャンとして歩いているお年寄りを見ると、「そうだ。私も」と思い直し、胸を張って歩くようにしています。

古文書学習会のご案内


札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013513日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp


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