森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2013年05月

『蝦夷日記』6月注

(150-1)「ヲイカマイ川」・・オイカマナイ川。「ヲイカマイ」は、漢字表記地名「生花苗」のもとになったアイヌ語に由来する地名としても記録されている。「オイカマナイ川」は、2級河川「生花苗川」。最下流に、生花苗沼が形成されている。なお生花苗沼の内陸部、キモントウ川上流にキモントウ沼、南方1.5キロの海岸沿いに周囲7.5五キロの汽水湖ホロカヤントウ沼がある。

(150-1)「船守(ふなもり)」・・渡し守。

(150-3)「ヲン子ナイ」・・松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「ヲイカマイ」と「ホリカヤニ(ホロカヤントウ)の間に、「ヲン子ナイ」があり、「小休所一棟(八坪)有」とある。現在の晩成温泉付近か。

(150-4)「トウブヰ」・・漢字表記地名「当縁」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現広尾郡大樹町美成。

(150-7)「アヰホシマ」・・『松浦図』には「アエホシマ」とある。現広尾郡大樹町浜大樹。

(150-8)「ヒロツナヱ」・・歴舟川河口付近の地名。現広尾郡大樹町旭浜。『松浦図』には、「ヘルフ子、ベロツナイともいう」とある。歴舟川は、近世の文献には、「ペロツフナイ」(東行漫筆)、「ベロツナイ」「ペロツナイ」(地名考并里程記・観国録)、「ヘルフネ」「ベルフネ」(「協和私役」「観国録」、「戊午日誌」辺留府禰誌)、「ベロチナイ」(辺留府禰誌)など。

「歴舟・レキフネ」という表記・訓は近代に入りまず歴舟(ヘルフネ)と漢字化され、さらに音を転じて歴舟(レキフネ)となったものであろう。

 「歴舟川」は、大樹町を流れる二級河川で、流路延長64.7キロ、流域面積558.5平方キロ。日方(ひかた)川ともいう。日高山脈南部のヤオロマップ岳に源を発して山脈東斜面を流れ、十勝平野最南部に出て太平洋に注ぐ。この間ポンヤオロマップ川・歴舟中(れきふねなか)の川・振別(ふりべつ)川・メム川などの支流を合せる。上・中流は険しいV字状の渓谷をなし、下流は扇状地を形成するとともに両岸に二―三段の河岸段丘を発達させている。昭和62年以降8回(昭和6263年・平成元年・35122122年)環境省の公共用水域水質調査で日本一きれいな河川に選ばれ、また平成8年には国土庁から「水の郷100選」に選定された全長64.7kmの日本一の清流。大樹町は、「清流日本一の町」をキャッチフレーズにしている。

(150-9)「弐ヶ瀬(ふたかせ・にかせ)」・・「瀬」は、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<①歩いて渡れる程度の浅い流れ。あさせ。②急流。はやせ。③広く、川の流れや潮流もいう。>とある。ここでは、①か。

 *「流の静なる所を淀といひ、深き所を渕といひ、浅き処をといふ」(『小学読本〔1874〕』)

 *転じて、物事に出あうとき。機会。「身をすててこそ浮かぶもあれ」「逢()」。また、置かれている立場。「立つがない」

(150-11)「モンベツ」・・漢字表記地名「紋別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現広尾郡大樹町旭浜。紋別川は、大樹町と広尾町の境界を流れる。

(151-1)「トヨイ川」・・「トヨイ」は、漢字表記地名「豊似」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現豊似川河口付近。現広尾郡広尾町エツキサイ。豊似川は、広尾町北部を流れる二級河川。流路延長37.6キロ、流域面積183平方キロ。日高山脈稜線上のトヨニ岳(1493メートル)東側に発した数条の流れが二股(ふたまた)橋付近で合流して豊似川となって北東へ流れる。上豊似付近でパンケアイアン沢川を合せたのち向きをやや南東に転じ、右岸にカムメロベツ川・カシュンナイ川などを合せながら流れ、海岸平野の農耕地帯を経て太平洋に落ちる。支流はいずれも清澄でヤマベの生息がみられ、またカムメロベツ遺跡・花春内(かしゆんない)遺跡など縄文時代早期から晩期の包蔵地がある。

(151-12)「二タ瀬小さし。都而五ツ瀬有」・・異本は、「二タ瀬、小さき三瀬、都合五ツ瀬」とある。異本の方がわかりやすいか。

(151-4)「ノツカ」・・野塚。野塚川河口付近。現広尾郡広尾町エツキサイ。「ノツカ川」は、「野塚川」で、日高山脈稜線上の野塚岳(1353メートル)の西面が源流。広尾町エツキサイで太平洋に注ぐ。

(151-6)「ラツコ」・・漢字表記地名「楽古」のもとになったアイヌ語に由来する地名。楽古川河口付近。現広尾郡広尾町会所前。

(151-7)「ラツコ川」・・日高山脈稜線上の楽古岳(1472メートル)の東面が水源。

(151-9)「ヒロウ」・・漢字表記地名「広尾」のもとになったアイヌ語に由来する地名。トカチ場所の中心地。トカチ場所は、東蝦夷地に設定された場所の一つ。その境は西は「ヒタヽヌンケ」(現広尾町)の川中をもってホロイヅミ場所に、東は「チョクヘツ」(直別川)をもってクスリ場所(初めシラヌカ場所)に接し、南東は海に面する。往古クスリ場所との境は西方の「ヲコツヘ」(現浦幌町)に設定されていたが、役人の通行が増えたため直別(ちよくべつ)川に渡守を置く必要が生じ、クスリ・トカチ両場所のアイヌが隔年で渡守を勤めるようになり、やがて同川がクスリ・トカチ両場所の境目となったという。内陸部シャマニ場所・シツナイ場所・サル場所との境はカモイノホリ岳などのある日高山脈中に、イシカリ場所との境は十勝川最上流の石狩山地中に各々設定されていた。

 設定された時期は不明だが、クスリ場所と同様162040年代とも考えられる。六六年(寛文6(16666月、トカチ場所知行主である松前藩家老蠣崎蔵人広林からトカチ明神社(現広尾町十勝神社)に円空作の観音像(現同町禅林寺蔵)が納められていることから、同年以前にさかのぼるとみられる。

 寛政11年(1799)当場所を含む東蝦夷地は幕府領となり、一八〇二年(享和2(1802)以降は幕府の永御用地となった。これにより直捌制がとられ、箱館奉行はシャマニ(現様似町)に詰合を派遣し、トカチ場所を管轄下に置いた。

 文政4(1821)蝦夷地が松前藩領に復すると、文政8(1825)からは福島屋清兵衛が運上金二〇〇両で請負人となり、天保9(1838)以降はホロイズミ場所も請負ってトカチ・ホロイズミ両場所の請負人となった。天保11(1841)清兵衛から屋号など一切を継承した支配人杉浦嘉七が両場所の請負人となった。

(151-12152-1)「三丁余沖に廻り壱丁余高サ三丈計の大岩」・・現在の十勝港南端の防波堤の一部になっている立岩。

(152-2)「ヒロウ川」・・広尾川。日高山脈を源とする東広尾川(18.0㎞)と西広尾川(16.4㎞)が「青岩」の手前で合流し、太平洋へ流れ込む。

(152-23)「ンムベマモイ」・・『松浦図』には、「フンヘヲナイ」とある。現広尾郡広尾町フンベ。広尾市街から音調津(おしらべつ)に向かう国道336号、通称黄金道路に沿って約3キロ南の地点にある滝。高さ一〇メートル余、幅一五〇メートル。懸崖から数十条の滝が飛沫をあげている。水源は湧水で、道内の滝としては珍しい。「十勝国地誌提要」には「粉辺浜ニアリ 同所海岸ニ発源シ直ニ海ニ注ク 高二丈余巾三間余」とある。かつては豪壮な景観をみせていたが、昭和30年代から懸崖上の高台の林を海産干場造成のため伐採したことによって保水力がなくなり、水量が減少した。融雪時や大雨の時などは往時をしのばせる水量となり、厳冬期は一面の氷滝となる。近年は自然の造形美に加え、銘水として滝水を持ち帰る人もおり、滝の傍らに海難碑が建てられるなど観光地となった。

(152-4)「ヒボロ」・・漢字表記地名「美幌」のもとになったアイヌ語に由来する地名。美幌川河口付近。現広尾郡広尾町美幌。

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『ふなをさ日記』6月学習分注記

(72-1)「さしおきて」・・放っておいて。「さしおき」は、「さしお(差置)く」の連用形。 「さしお(差置)く」は、そのままにしておく。捨てておく。放っておく。「さし」は接頭語。

(72-12)「たび給へ」・・どうか放っておいてくださいませ。「たび給へ」は、「たび(賜)給ふ」の命令形。上位から下位に「与える」「くれてやる」の意の動詞「たぶ(賜)」に、補助動詞「たまう(給)」の付いてできたもの。多く、命令形が用いられる。ここでは、補助動詞として用いる。動詞または動詞に「て」の付いたものにつく。~して下さる。(命令形で)どうか~して下さい。

(72-2)「左(さ)にては」・・そういうことでは。「左(さ)」は、「然(さ)」の当て字。「然(さ)」は、文脈上または心理的にすでに存する事物、事態を、実際的に指示する語。そのように。そんなに。そう。

 室町時代後期になると「さう」の例が見えはじめ、「さ」で表現すべきところを次第に「さう」で表現するようになる。現代では「そう」を用い、「さ」は「さよう」「さほど」などの複合語として残るのみで、単独では用いられない。

(72-3)「汝(なんじ)」・・古くは「なむち」。「な(汝)むち(貴)」の意。対称。上代古くは、相手を尊敬して呼んだ語と推定されるが、奈良時代以降、対等またはそれ以下の相手に対して用いられ、中世以降は、目下の者に対する、もっとも一般的な代名詞として用いられる。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注に、<大国主神の別名が、「大汝」や「大己貴」などと書かれていたり、「卿」「仁」などの文字に対して、古辞書が、キミやイマシの訓とともにナンヂを挙げているところなどから、古くは敬意が含まれていたと考えられる。>とある。

 <漢字の話>「汝」・「女(なんじ)」・・「サンズイ」のない「女」も「なんじ」と読む。「女」は、「汝」の初文で、「女」は、動詞として妻とすること。転じて代名詞として二人称に用いる。代名詞には、のち「汝」を用いる。

(72-4)「きぬつむぎ」・・絹紬。絹織物の一種。柞蚕(さくさん)紡糸または絹紡糸を原料として織ったつむぎ。

(72-4)「御判物(ごはんもつ・ごはんもの)」・・直状(じきじょう)形式の文書の一種類。発給者の判(花押)のある文書で書状以外のものをいう。下達文書という意味で「書下(かきくだし)」と呼んだ。書状と書下との相違は、内容的に書状が純私務に関わるものであるのに対して、書下は差出者の家務の執行に関わる命令を内容とするところにある。また形式的には、書状の書止め(文書の末尾)が「…候、恐々謹言」などとなるのに対して、書下の書止めは「…也、仍状如件」「…之状如件」などとなる点で、書状と書下は区別される。

(72-6)「メ(し)め」・・<漢字の話>「〆」・・多くの漢和辞典は、「〆」を国字としている。『くずし字用例辞典』は、「合字」に挙げている(P1294下段)。「〆」を使う熟語(当て字を含め)に、「〆縄」「〆飾り」「〆鯖」「〆切り」「〆粕」などがある。なお、影印の「メ(し)め」は、2画に見えるが、『漢字源』は、1画の「〆」を「メ」の異体字としている。

 *「〆」を使った固有名詞・・①「〆張鶴(しめはりつる)」・・新潟県、宮尾酒造株式会社の製造する日本酒。平成23酒造年度の全国新酒鑑評会で金賞を受賞。②「〆木(しめぎ)遺跡」・・山梨県南アルプス市下市之瀬(しもいちのせ)にある、甲府盆地西端の市之瀬(いちのせ)川の扇状地上に位置する縄文時代と奈良・平安時代の複合遺跡。③「〆木(しめぎ)遺跡」・・群馬県高崎市多胡(たご)字〆木(しめぎ)にある古墳群の遺跡。

(73-1)「道計(みちばかり)」・・航海士。

(73-2)「両人」・・音吉と半兵衛。

(73-3)督乗(とくせう)丸」・・「督乗」に「とくせう」とルビがある。「せう」は、歴史的仮名遣いで現代仮名遣いでは「じょう」。発音は、「ジョー」

(73-5)「いんぎんに」・・慇懃に。「殷勤」も当てる。心をこめて念入りにするさま。何度も、または、ことこまかにすること。

(73-6)「あふぎて」・・「あふぎ」は、歴史的仮名遣い「あふ(仰)ぐ」の連用形。発音は、「アオギテ」または、「オーギテ」。現代仮名遣いでは、「あおぐ」の連用形「あおぎ」。

 *歴史的仮名遣い・・歴史的かなづかいでは、「あ」に「う」がつづくとき、オの長音に読む。たとえば、「あうむ、会うて」などは「オーム、オーテ」と読む。「ふ」を伴う場合も、「あふぐ(仰)、あふひ(葵)、あふれる(溢)」などを例外としてオの長音に読むことが多い。「あふぎ(扇)、あふみ(近江)」などは「オーギ、オーミ」と読む。なお動詞の「あふ」は、口語としては「アウ」であるが、文語では「オー」と読む習慣が残っている。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、親見出し「あおぐ(あふぐ)」の語誌に、

 <鎌倉時代頃から「あふぐ」と表記したり「あをぐ」と表記したりするというゆれが見える。前者はハ行転呼音によって生じた連母音au(>ao) が長母音化するという音韻変化に従った語形オーグ[u ]であり、後者はアオグ[aou ]であると想像される。前者は、頻度の高い連用音便形がオーイデ、オーイダ[ide, ida ]となり、音韻として確立したばかりの長母音がさらに母音単独音節[i ]に続くためにきらわれ、次第に使われなくなった。連母音ao を保持した後者の語形は、前者との並存を経て優位となり、現在に至っているが、「日葡辞書」には「auogui, u, uoida 」とあり、既に「アオグ」が定着していたことがうかがわれる。>

 とある。

(73-7)「筒袖(つつそで・つっぽ)」・・袂(たもと)がなくて、筒のような形をした袖。また、そういう袖のついた着物。子供の着物、大人のねまき・仕事着などに用いる。削袖(そぎそで)。つつっぽうそで。つっぽうそで。つつっぽう。つつっぽ。

 *北原ミレイは、「石狩挽歌」で、「赤い筒袖(つっぽ)のヤン衆がさわぐ」と唄う。

(73-8)「聞(きこ)ゆまじ」・・意味が通じない。「聞(きこ)ゆ」」は、意味がわかる。理解できる。納得できる。

*「御歌もこれよりのはことわりきこえてしたたかにこそあれ」(『源氏物語 末摘花』)

*「聞えぬ事ども言ひつつ、よろめきたる」(『徒然草』

*「ハハアなるほどなるほど。きこへました」(滑稽本『東海道中膝栗毛』)

(73-9)「浦賀の切手」・・浦賀奉行の御判物。浦賀奉行は、江戸幕府遠国奉行の一つ。江戸入津船の管理には、元和2年(1616)ごろから下田に番所が設けられていたが、風波の難が多いところから、享保5年(1720)に下田番所を廃して翌6(1721)浦賀にうつした。武家の船では、武器・武具、あるいは婦女、囚人・怪我人をのせ五百俵以上の米・大豆を積んだものは浦賀奉行に申告し、廻船などの商船も、漁船と空船を除いては検査を受けて証印を得ることとなった。

(73-9)「見(み)すれば」・・見せると。構成は、下2段動詞「見(み)す」の已然形「見(み)すれ」+接続助詞「ば」

(73-10)「手品(てじな)」・・手の様子。手のぐあい。手つき。手さばき。手ぶり。

(73-10)「見する」・・見せると。「見す」の連体形。「見す」は、動詞の連用形に助詞「て」を添えた形につき、補助動詞のように用いる。ためしに…して人に示す。

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