森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2013年07月

『ふなをさ日記』8月学習の注

(84-1)<くずし字の話>「よく洗(あらい)て」の「よ」・・「よく」の「よ」の1画目の横棒がほとんどないか、「ヽ」になっている場合がある。(『くずし字用例辞典』P1288下段参照)

(84-1)<漢字の話>「釣」・・①常用漢字で、旁の3画目が「一」から「ヽ」になった。「勺」「的」「酌」まど。

              ②常用漢字になっていない字は、「一」のまま。


(84-2)「薬種」・・薬の材料。調剤前の薬品。主として、漢方薬の原料。

(84-3)「とにかくに」・・何かにつけて。得てして。どうかすると。ともすれば。とかくに。

(84-4)「のみ」・・今日では、①「ある事物を取り立てて限定する。強調表現を伴う。…だけ。…ばかり」の意だが、ここは、①の限定の意味合いが薄れ、強調表現のために用いられたもの。ある事物や連用修飾語の意味を強調する。「~が」

(84-4)「ことば通じせね」・・「通じせぬ」は、語調がよくない。異本は「通ぜぬ」と、「し」がない。

(84-5)<くすじ字の話>「見れ共」の「共」・・冠の部分が省略されて、脚の「ハ」だけになっていたり、「ん」のようになっている場合が多い。(『くずし字用例辞典』P84下段)

(85-5)「いとど」・・副詞「いと」の重なった「いといと」が変化したもの。程度が更にはなはだしいさま。ますます。いよいよ。ひとしお。一段と。

(84-6)「午(うま)の時(とき)」・・昼の12時ころ。

(84-67)「給物(たべもの)や出(いず)るらん」・・食べ物が出るだろうか。「や」は、係助詞。結びの推量の助動詞「らん」は「らん」の連体形。「係り結びの法則」といい、文末は連体形で結ぶ。

(84-7)「大きやかなる」・・形容動詞「大きやかなり」の連体形。「やか」は接尾語。大きく見えるさま。

(84-8)<くずし字の話>「真中」の「真」・・冠の部分が「者」のくずし字のようになって、脚の「ハ」が大きくなったり、「つ」のようになっている場合が多い。(『くずし字用例辞典』P735下段~P736上段)

(84-8)「居(す)へて」・・置いて。下2動詞「居(す)う」の連用形。本来ならおくりがなは、「居(す)ゑ」と「ゑ」でであるべきで、「居(す)へ」の「へ」は誤用。「据う」とも。

(84-9)「中に据、」・・影印は、「倨」と、ニンベンになっている。テヘンの「据」の誤りか。ちなみに「倨」は、「おごる・あなどる」の意で、「倨気(キョキ)」(ごうまんな気分)、「倨視(キョシ)」(たかぶって人をみさげる)などの熟語がある。

(84-9)「キヤマン」・・ギヤマン。オランダ語「diamant 」。彫刻をほどこしたガラス製品を「ギヤマン彫り」と呼んだところから。ガラス製品一般をさす。ビードロ。玻璃(はり)。

(84-9)<漢字の話>「庖」・・①「庖」は、常用漢字でないから、脚の3~5画目は、「己」でではなく「巳」。同様に「鞄」(かばん)、「炮」(鉄炮)、「鉋」(かんな)、「咆」(咆える)、「雹」(ひょう・あられ)なども、「巳」

              ②常用漢字になった字は、「巳」から、「己」になった。「包」(つつむ)、「抱」(だく)、「泡」(あわ)、「砲」(鉄砲)、「胞」(同胞)、「飽」(飽きる)


(84-10)「めぐり」・・動詞「めぐる(巡)」の連用形の名詞化。かこみ。周囲。

(84-10)「床几(しょうぎ)」・・室内で臨時に着席する際に用いる一種の腰掛け。脚を打違いに組み尻の当たる部分に革を張り、携帯に便利なように作ったもの。陣中や狩り場などでも用いられた。また、神輿の台などにも使用された。畳床几(たたみしょうぎ)。            

(85-1)「呑(のど)」・・普通は、「喉・咽・吭」などを使う。

(85-2)「かゝる」・・腰かける。

(85-23)「丼鉢(どんぶりばち)」・・厚手で深い陶製の、食物を盛る鉢。なお、「丼」は、「井」の本字。国字としては、井戸に物を投げたさまから、「どぶん」「どんぶり」の音を取って、「どんぶり」の意味を表す。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注に<「丼」には「集韻」に「投物井中声」とあるように、井戸に物を投げいれた音の意がある。名詞ドンブリに「丼」があてられたのは、井戸に物を投げいれたときの音をさす副詞ドンブリに対応する漢語が「丼」であったことによるか。>とある。

(85-3)「もろこし」・・もろこし(唐土)より渡来したところから。イネ科の一年草。アフリカ原産で、日本へは中国を経て渡来し、広く栽培されている。高さ一・五~三メートル。稈(かん)の節に短毛を生じる。葉は線状披針形、長さ約六〇センチメートル。夏、梢頭に長さ二〇~三〇センチメートルの円錐状の花穂をたてる。小穂は卵形で赤褐色。子実は白・赤褐色・黒色など。「もち」と「うるち」の別があり、子実を粉末にして餠や団子をつくる。漢名、蜀黍。たかきび。もろこしきび。とうきび。

(85-4)「ヘケツ」・・本書では、これまで船頭を「べケツ」としているので、「ベケツ」のことか。

(86-1)「円豆(えんどう)」・・空豆。「豌豆」「薗豆」とも書く。

(86-1)「青み」・・青味。吸い物、刺身、焼き魚などのあしらえとして添える青い野菜。

(86-6)「しらげ」・・動詞「しらげる(精)」の連用形の名詞化。米をつきしらげること。玄米をついて精白すること。また、その米。白米。

(86-8)「太白(たいはく)」・・精製した純白の砂糖。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、「支那よりは三種白糖を持来る。上品を三盆と云、次を上白、下品を太白と云」という『随筆・守貞漫稿』の用例を引いている。

(87-3)「しひて」・・動詞「しいる(強)」の連用形に助詞「て」が付いてできた語。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(87-6)「残なく」・・残らず。

(87-8)「聞(きか)まほしく」・・聞きたく思って。「まほしく」は、助動詞「まほし」の未然形。「話し手、またはそれ以外の人物の願望を表わす。…したい。」

(88-23)「気(け)しき」・・様子、有様。

(88-3)<文法の話>「見する」・・「見する」は、「見す」の連体形。ここは、「見す」と終止形が本来だが、連体止めの用法。なお、異本は、「見するを」と、接続助詞の「を」を下接している。「を」は連体形に接続するから、この場合は、「見する」でいい。

(88-4)「切(きり)こなして」・・切って細かくして。「切こなす」は、たくみに所要の形に切る。適宜に切る。

(88-45)<文法の話>「塩漬にしたるにてぞ有ける」・・「有ける」は、終止形では「有けり」。ここでは、係助詞「ぞ」を受けて連体形「ける」で終止する。「係結終止法」という。

(88-5)「浅ましき」・・「浅まし」は、②意外である。驚くべきさまである。②品性がいやしい。がつがつしている。さもしい。などの意があるが、ここでは②か。

 語誌についてジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<平安散文では、思わぬ結果になった後の落胆、失意といった不快な感じを込めている。時代が下がるにつれて、情けない、見苦しい、いたましいといった意が強くなり、近世では貧しい、品性がいやしい、さもしいの意となり、現代語に連なる。>とある。

(88-6)「十五日」・・陰暦正月一五日の朝には、一年中の邪気を払うとして、望粥(もちがゆ)の御膳を供する。古くは米・粟・黍・稗・子(みのごめ)・胡麻・小豆の七種をまぜてたいた粥と、小豆を入れた粥とが行なわれたが、のちには小豆粥だけになった。本文は2月15日だが、その習慣は適用されたのか。

(88-7)「わきて」・・動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(88-9)「今は、神々をおがむ事はできす」・・肉を食すれば、けがれたりとして、神前で拝む事はできない。

(88-11)「いやとよ」・・感動詞「いや(否)」+連語「とよ」から。他人のことばを強く打ち消す時のことば。いやそうではない。

(89-1)「何にまれ」・・「何にもあれ」の変化したもの。事物を非選択的に受け入れる気持を表わす。どんなものでも。どれと限らず。

(89-2)<文法の話>「言聞せける」・・「ける」は、「けり」の連体形。ここは、本来は「言聞せけり」だが、連体止めの形をとっている。

(89-3)「そがそか敷(しく)」・・「そがそがし」は、曾我兄弟が貧に苦しんだところから「曾我」にかけて、貧乏じみたさまや貧弱なさまを表わす語。

(89-5)「あくまで」・・飽きるほど。ここでは、食べ飽きるほど。「あく」は、4段活用「あく」の連体形。副助詞「まで」は連体形に接続する。

(89-6)「漸々(ようよう)に」・・だんだんに。すこしづつ。

(89-7)「ものしたり」・・そのようにした。「ものす」は、名詞「もの(物)」にサ変動詞「する」の付いてできたもの。種々の動詞の代わりとして、ある動作をそれと明示しないで婉曲(えんきょく)に表現するのに用いる。人間の肉体による基本的な動作をさす場合が多く、中古の仮名文学に多く用いられた

(89-10)「地走(ちそう)」・・馳走。「地」は、「馳」の当て字。用意のためにかけまわる意から)心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

(89-11)「のべて」・・延(の)べて。広げて。「のべて」は、下2動詞「のぶ」の連用形「のべ」+接続助詞「て」。

『蝦夷日記』8月学習注

(162-2)「● より鮭五百本」・・意味不明。異本は、「●尤大鮭五百本」に作る。「より」を「尤」とし、「鮭五百本」の前に、「大」がある。

(162-2)「びん」・・異本は、カタカナで「ピン」に作る。

(162-4)「モヤチコチ」・・松浦図は「チヤシコツ」とある。井寒台と絵笛の間の地名。「チヤシコツ」について、松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「此所より上に新道有。文化度御切開の由。・・上に城跡と云もの有。形ばかりの土塁にして聊(いささか)ばかり象(かたち)を残す。地名チヤシコツ城跡の事也。是よる字エフイの上を通りてシリヱトへ下る」とある。

(162-5)「ユフイ川」・・松浦図には、「イフイ」とある。「ユフイ」は、漢字表記地名「絵笛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町絵笛。

(162-56)「シリイド」・・漢字表記地名「後辺戸」のもとになったアイヌ語に由来する地名(岬名)。現浦河町浜東栄付近。

(162-6)「ヱウら川」・・異本は、「元ウラ川」に作る。「元」のくずしは、ひらがなの「え」によく似ているので、筆者は、「元ウら川」の「元」を「え」と読み、さらに、カタカナの「ヱ」として、「ヱウら川」としたのではないだろうか。「元浦川」は、浦河町の西部を流れる二級河川。日高山脈の神威岳(一六〇〇・五メートル)に水源を発するシュオマナイ川と、ソエマツ岳(一六二五メートル)に水源をもつソエマツ川が合流する辺りから一般に元浦川とよばれる(河川管理上はソエマツ川筋が本流)。合流点付近からはほぼ南流となり、野深(のぶか)付近から蛇行を繰返し、荻伏(おぎふし)市街を経て太平洋に注ぐ。流路延長四三・五キロ、流域面積二三九・七平方キロ。

(162-78)「ヱ(元)ウら川奥山、続(つらなり・つらなって)蝦夷小屋五十軒余有之」・・「奥山続」は、①「ヱ(元)ウら川奥、山続」。②「ヱ(元)ウら川、奥山続」。③「ヱ(元)ウら川奥山、続蝦夷小屋」などの読み方があるのだろうが、私は、「奥山、続(つづきて・つらなりて)蝦夷小屋五十軒・・」と読みたい。つまり、続いているのは、「奥山」や「山」ではなく、「蝦夷小屋」。元浦河上流には、最近まで、姉茶、野深などのアイヌ人の集落が続いていた。以下、前掲『竹四郎廻浦日記』(安政3年)の記述を表にしてまとめて見る。

 

位置についての記述

地名

蝦夷小屋軒数

川筋は渡し場より少し上(十七丁)

ヒラキウカ

24

此少し上

ヌンヘトウ

3(当時はなし)

又少し上り(凡四丁)

トフシンタリ

13

又少し上りて

フウレトウ

4(今はなし)

又少し上りて

ウエンコタン

3(今はなし)

並て少しまた上に(十丁)

ヤハトル

3(昔5軒有し由)

また少し上りて(十丁)

トウルケシ

2(むかし3軒有)

また少し上に(半里)

ケナシトマラ

むかし有て、今はなし

また少し上に

エヲルウシ

4(昔無かりし処)

又しばし上りて(十丁)

ケナシトマツフ

今はなし(先年3軒有し由)

又少し上りて(半里)

ア子シヤリ(姉茶)

2(昔時は4軒)

又少し上り(八九丁)

コイカヘツ

10(昔は8軒程有し由)

又少し(十二丁)上りて

ヌフカ(野深)

11(昔9軒)

 

合計78軒

 

(162-9)「モトウラカワ」・・かつて当川はウラカワとよばれていた。最下流部の右岸にはウラカワ場所(商場)の運上屋が置かれ、運上屋の一帯もウラカワの地名でよばれていた。しかし一八世紀の九〇年代までに運上屋(会所)は東方の昌平(しようへい)川河口部(ムクチ)に移転、当川やかつての運上屋所在地はともにモトウラカワとよばれるようになった。

(162-10)「惣名(そうみょう)」・・全域。

(162-10)「を●ニウシ」・・異本は、「ヲニウシ」に作る。本テキスト影印は、「惣名を、ニフシ」と読むか、「惣名、をニフシ(オニフシ)」と読むか。

漢字表記地名「荻伏」のもとになったアイヌ語地名。当地一帯は近代に入り荻伏(おぎふし)村に包含された。現浦河町荻伏。明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治一五年(一八八二)までの村。浦河郡の南西部に位置し、西はポンニウシ川(伏海川)をもって三石郡鳧舞(けりまい)村(現三石町)に、北は問民(とうみん)村に、東は元浦(もとうら)川をもって開深(ひらきぶか)村に接し、南は太平洋に面する(「浦河町管内図」浦河町史、輯製二十万分一図、「状況報文」など)。近世の史料(「東蝦夷地場所大概書」、「戊午日誌」宇羅加和誌など)にヲニウシ、エカヌウシ(エカニウシ)、モトウラカワとみえる地などからなる。古くはウラカワ場所の会所(運上屋)があり、またミツイシ場所との境界の地でもあった。

(163-3)「小林屋重吉」・・小林重吉。5代前の祖庄兵衛は、陸奥大畑の人で、寛政年間に松前に渡った。その子半次郎の時、箱館に転住。半次郎の子寅五郎が文政年間三石場所請負人となる。重吉は、文政8年(1825)年1月生まれ。幼名を庄五郎という。明治元年(1868)、箱館町年寄を命じられる。箱館戦争の際には、新政府軍に協力し、旧幕軍が海中に張った網索を切断した。彼は、その後も函館の水道工事を行なうなどの功績がある。明治3年(1870)には、西洋形帆船・万通丸を購入したが、北海道での民間人の西洋形船所有の鼻祖となった。また、明治10年(1877)日高の姨布(おばふ)(現三石町)に刻み昆布製造所をたて、輸出の道をひらく。更に、自宅で月謝をとらない夜学校を始めたが、のち、明治12年(1879)には函館商船学校を設立した。明治35年(1902)没。享年77。

(163-4)「ミツイシ会所」・・この「ミツイシ会所」の文字の位置は、不自然で、意味不明。異本は、3行目の「小林屋重吉」と「持」の間にあり、「小林屋重吉ミツイシ会所持」とある。

(163-5)「ケリマブ」・・漢字表記地名「鳧舞(けりまい)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り鳧舞(けりまい)村に包含された。現日高郡新ひだか町三石鳧舞。

(163-5)「巾二十間余川」・・2級河川鳧舞川。

(163-8)「是より山坂通」・・いわゆる鳧舞山道。鳧舞と東蓬莱間の約4キロの山道。

(163-9)「ヲラリ」・・東蝦夷地ミツイシ場所のうち。鳧舞川と三石川の間の太平洋沿岸。現日高郡新ひだか町三石東蓬莱付近。

(163-10)「ビセバケ」・・東蝦夷地ミツイシ場所のうち。鳧舞川と三石川の間の太平洋沿岸。現日高郡新ひだか町三石東蓬莱。松浦図には「ヘセハケ」とある。

(164-1)「ミツイシ川」・・日高地方の三石を流れる二級河川。流路延長31.6キロ、流域面積159.4平方キロ。セタウシ山(859メートル)から西方向に延びる稜線(静内川との分水嶺)に水源を発し、太平洋に注ぐ。

(164-3)「ミツイシ」・・漢字表記地名「三石」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ミツイシ場所の中心地。武四郎の『山川地理取調図』にはミツイシ川河口付近に「ミトシ」、その西方現姨布川河口までの間に「シヨツフ」「コイトイ」、同河口付近に川を挟んで東に「ミツイシ会所」、西に「ヲハケ」(「ヲハフ」の誤記であろう)、その西に「カシユシラリ」が記載されている。語源はともかくミツイシはミツイシ川河口の地名として発生、やがて河川名・場所名として用いられたことにより会所名ともなり、広域地名化したのであろう。

(164-6)「被下(くだされ)」・・名詞。目上の人、または身分の高い人から物品などをいただくこと。また、いただいたもの。下賜。くだされもの。

 *「見せて下ださいな、免状を、そして下賜(クダサレ)の御時計もネ」(木下尚江著『良人の自白』)

(164-7)「ヲコツナヱ」・・現日高郡新ひだか町三石港町の三石漁港付近の地名。

(164-8)「フツシ」・・ブシとも。漢字表記地名「布辻」のもとになったアイヌ語に由来する地名。布辻川は、旧静内町と旧三石町の境界であった。

(164-9)「ミツイシかかり」・・「かかり」は、「懸り」「掛り」で、担当の意か。ここは、ミツイシ会所管内という程の意か。

(165-2)「ラシユベツ」・・ウシュッペ。アイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町静内春立の春立漁港付近のウシュッペ川河口付近。

(165-2)「チヤツナヱ」・・松浦図には、チヤラセナイとある。現日高郡新ひだか町静内春立の春立漁港と元静内の間の地名。

(165-5)「シツナヰ」・・漢字表記地名「静内」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町元静内付近。シツナイ場所は、静内川(シビチャリ川)の流域を中心とするシビチャリ場所と、同川の東方に続く海岸部を中心とするシツナイ場所が、寛政11年(1799)東蝦夷地が幕府直轄地となった際、統合されてシツナイ場所となった。統合後、会所(旧運上屋)は元静内川の河口部に置かれたが、安政6年(1859)頃に捫別(もんべつ)川の河口部(モンヘツのうち)に移転した。なお、現元静内の地は、明治4年(1871)5月、阿波徳島藩の淡路洲本城代家老稲田九郎兵衛邦稙主従一行の上陸地でもある。

(165-5)「萬屋仙左衛門(よろずやせんざえもん)」・・文化9年(1912)から場所請負制が復活し、東蝦夷地は一九場所に統合された。シツナイ場所は福山(松前)の阿部屋伝吉が運上金六七三両永五〇文で落札し、翌文化10年(1813)から実施された(新北海道史)。文政2年(1819)からの七年季は松前の万屋専左衛門・同弥次兵衛の二人がシツナイ、ウラカワ、シャマニの三場所を合せて一千四八両二分永一〇〇文で請負い(「場所請負人及運上金」河野常吉資料)、これにより万屋は日高三地区の基盤を固めた。文政4年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度もそのまま引継がれた。文政9年(1826)の更新期にはシツナイ、ウラカワ、シャマニの三場所は万屋(佐野)専左衛門の一人請負人となり、以後場所請負制度の廃止まで、この三場所は万屋専左衛門の独占場所であった(様似町史・静内町史・浦河町史)。

(165-5)「運上金三場所の内」・・「三場所」は、サマニ、ウラカワ、シツナイの事。この三場所の運上金が一緒であることを言う。

(165-8)「モンベツ」・・漢字表記地名「捫別(もんべつ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。シツナイ会所は、安政6年(1859)頃に日高郡新ひだか町春立元静内から、モンベツ(捫別)川河口付近に移転した。

(165-9)「モンベツ川」・・捫別川。現日高郡新ひだか町で太平洋に注ぐ2級河川。

(166-1)「ウセナヰ」・・現日高郡新ひだか町春立と東静内の境界付近。谷元旦の『蝦夷紀行』に「ウセナイに休み居る内、番人の囃しに、当春二月廿八日、海上へ氷ながれ来る。厚さ三丈余にて、大さ六七間、或は三四間もあり。山々に登りて見るに、漸海上一面にて際限なきよし。夷人に尋ぬるに、今迄なき事也といふ。海岸の昆布は皆、氷のために根多く絶えたるよし。甚だ奇なる事也」(前掲条)と、当地への流氷の到来についての記述がみえる。

(166-4)「シヒシヤリ」・・シベチャリ。漢字表記地名「染退」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町静内川河口付近。なお、「シベチャリチャシ跡」が、静内川左岸、河口より五〇〇メートル余り上流の標高約八〇メートルの段丘上にあり、舌状に延びた段丘の先端に位置する丘先式のチャシである。シャクシャインの戦においてシャクシャイン側の拠点と考えられているチャシである。昭和26年(1951)には道指定史跡となり、平成9年(1997)には静内川流域の他の四ヵ所のチャシとともに国の史跡に指定された。松浦武四郎もこのチャシについて板本「東蝦夷日誌」のなかで「ルウトラシ小川チヤシコツ城跡、此処、錫者允(シャクシャイン)の居城なりしと」「金丁文四郎はメナブトに住し(中略)錫者允(シャクシャイン)首長此処に城畳(塁)取立」と記している。

 中央の不動坂チャシが主砦といわれ、ここにアイヌの酋長シャクシャインが拠った。寛文年間(1661~73)染退(しべちゃり)アイヌの酋長シャクシャインと、波恵(はえ、沙流郡日高町門別)アイヌのオッテナ・オニビシの二大勢力が争い、オニビシは松前藩の助力を得て、シャクシャインを討とうとした。シャクシャインは松前藩がアイヌを圧迫して絶滅を企てていると各地に伝えたので、同九年に東西蝦夷地のアイヌが蜂起して乱を起した。松前藩はこれを討ち、シャクシャインの拠るシベチャリのチャシを焼きはらった。

(166-4)「巾四十間余の大川」・・「大川」は、現静内川。静内川は、日高地方、静内町を流れる二級河川。流路延長68キロ、流域面積649.8平方キロ。上流は日高山脈中南部に水源をもつシュンベツ川とメナシベツ川ともよぶ本流の二股に分れ、静内町農屋(のや)付近で合流して南西に流れ、太平洋に注ぐ。河口に静内町市街がある。旧名は染退(しべちやり)川(大正一一年測量五万分一図)で、近世にはシビチャリ、シブチャリ、シフシャリ、シビチャレなどともよび、語意も諸説ある。 

 近代に入り明治4年(1871)阿波徳島藩淡路洲本城代の稲田家が流域に入植、また同5年(1872)には西の新冠川流域にまたがる新冠牧馬場が、当川の中流右岸、現御園の河岸段丘面に開かれ、これらの開発が現在の馬産・酪農、沖積地での稲作の基礎となった。上流が急流で氾濫が多く、明治44年(1911)の八〇町歩の耕地の流失、昭和30年(1955)に静内市街地の入船町全域が冠水した被害などが顕著(静内町史)。

(166-8)「シンヌツ」・・漢字表記地名「真沼津」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現新ひだか町静内駒場付近。当地一帯は近代に入り下下方(しもげぼう)村に包含された。当地はニイカップ場所とシツナイ場所の境界となっており、武四郎の『廻浦日記』に「浜道到てよろし凡一里。此処ニイカツフ、シツナイの境目也」とあり、標柱に「三ツ石境フツシへ五里一丁、サル境アツヘツへ三里八丁」とあると記す。現在、新日高町(旧静内町)との境界は、もう少し西。

(166-9)「濱田屋佐次兵衛」・・箱館在住の商人・場所請負人。文化9年(1821)から場所請負制が復活し、東蝦夷地は一九場所に統合された。ニイカップ場所は入札により箱館の浜田屋亀吉が運上金一八五両で落札、翌文化10年(1813)明治2年(1869)の請負制度の廃止まで、浜田屋が当場所の経営を独占した。

(166-10)「ヲラリ」・・漢字表記地名「浦里」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現新冠町西泊津(にしはくつ)付近。

(166-10)「ムイノスケ」・・現新冠町の市街地の地名。松浦図には「モエノシケ」とある。

(167-3)「ニイカツフ川」・・日高地方、新冠町を流れる二級河川。流路延長77.3キロ、流域面積402.1平方キロ。日高山脈中部の幌尻(ぽろしり)岳に水源を発し、南西に流れ太平洋に注ぐ。中・上流域は日高山造山褶曲帯にあって屈曲に富み、諸所に先行谷を造り、険しい急流。下流は新第三紀の丘陵域を直線状に流れて谷底を広げ、三―四段の河岸段丘と沖積地が発達。河口左岸に新冠町市街があり、海岸の丘陵末端に二―三段の海岸段丘が発達する。近世には河口部左岸にニイカップ場所の会所が置かれていた。

(167-5)「ニイカツフ」・・漢字表記地名「新冠」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ニイカップは古くはヒボクといった。ニイカップ場所の範囲については、「東蝦夷地場所大概書」によると、西はアツヘツ(現新冠町と日高町厚賀の境界をなす厚別川)をもってサル場所に、東はシンヌツ(ニイカップ会所元から東へ一里の地点)をもってシツナイ場所に接し、場所内海岸部の路程は三里八町。ただし「場所境調書」によると、シツナイ場所との境界は、もともと、シンヌツ西方のヲラリとシンヌツの間にあったという。文化9(1812)から請負制が復活し、東蝦夷地は19場所に統合された。当場所は入札により箱館の浜田屋亀吉が運上金185両で落札、翌10年(1813)から明治2年(1869)の請負制度の廃止まで、浜田屋が当場所の経営を独占した。一八二一年(文政4年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度はそのまま引継がれた。

 なお、ニイカップ会所の位置について、松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「峨々たる断崖の岬を廻りて砂浜の上に会所一棟・・」とある。

(167-10)「セツブ」・・漢字表記地名「節婦」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでい
ます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年8月12日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

 『ふなをさ日記』7月学習の注   

(78-1)「船の内(なか)」・・異本は、「内」を「中」に作る。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「うち」は閉鎖的な意をもつ「隠る」「籠る」「籠む」「埋もる」などの動詞と共存しやすく、逆に「明示的な中心部」の意をもつ「なか」はそれらと共存しにくい。しかし、こういう「うち」「なか」の区別がいつごろまで続いたかは、はっきりしていない。>とある。

(78-1)「あらためて」・・調べて。「あたたむ」は、①変更を加える。②改善する。③威儀をただす。④禁止する。⑤改易する。⑥新しく別の機会をつくる。⑦取り調べる。検査する。吟味する。などの意味があるが、ここでは⑦.

(78-1)「重吉が手道具」・・「重吉が」の「が」は、連体格の格助詞で、「・・の」。ここは、「重吉の手道具」の意味。

(78-1)「手道具」・・身の回りの小道具や調度。手具足。

(78-2)「やゝ巳の時頃に」・・「やっと巳の時頃に」。「やゝ」は、漢字では「稍・漸」。①次第に。②ちょっと。③しばらくの間。④ややもすると。⑤やっと。などの意味があるが、ここでは、⑤.

(78-2)「巳の時」・・午前10時ころ。なお、影印は、「巳」が「己」のように見える。古文書では、「巳」は、多くは、「己」の形が多い。

(78-3)「黒坊(くろんぼう)」・・黒色人種をいう蔑称。黒人。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「黒坊」の補注に<「信長公記‐一四」の天正九年(一五八一)二月二三日の条に「きりしたん国より黒坊主参り候〈略〉惣の身の黒き事、牛の如く」とあるのが黒人を描写した最も古い文献と思われる。>とある。また、同語源説に、<クロは、セイロン島の地名コロンボ(崑崙)からで、コロンボの人の膚色が黒いところから黒の意に転じた〔日本書紀通証・言元梯・大言海〕。>とある。

 *<文法の話>「黒坊」を「くろんぼう」と読むときの「くろん」の「ん」について・・「黒(色)の坊(主)」。「ん」=「の」。格助詞「の」の変化した語。話しことばで用いる。体言を受け、その体言が下の体言を限定することを示す。

(78-3)「持来(もちきた)り」・・「持」は、「物」の訂正。「物」の左に「ニ」の記号があるが、見せ消ち記号。

(78-4)「午時(うまどき)」・・正午ころ。

(78-4)「さ鉢」・・皿鉢。「浅鉢(あさはち)」の略。浅くて大きな鉢。磁器の浅い鉢。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、語源説に、<(1)アサハチ(浅鉢)の上略か〔大言海〕。(2)沙鉢の義。沙は浅い物をいう語〔和訓栞〕。>を挙げている。

(78-45)「小麦団子」・・小麦粉で作った団子。餡(あん)や甘辛いしょうゆ餡をつけて食べる。

 *<漢字の話>「麥」と「来」・・

①ムギは紀元前十世紀頃、中央アジアから周にもたらされた植物で、周の人々は、これを神のもたらした穀物として珍重し、「来(ライ)」と呼んだ。「来」は、もともと、穂が左右に出たムギを描いた象形文字。「麥」は、それに「夂(足)」をそえたもの。遠くから歩いてもたらされたムギを表す。がんらい、「来」が「ムギ」、「麥」が「くる・もたらす」の意味をあらわしたが、いつしか逆になった。

②「麥」「麦」の部首は、「麥(麦)」。この部首に含まれる漢字に「麩(ふ・ふすま)」、「麹(こうじ)」、「麺(めん)」などがある。なお、大切な食べ物(植物)の漢字は、部首になっている。「米」「豆」はもとろん、「麻」「黍」も部首である。

(78-5)「切もちばかりに」・・切もちほどに。「ばかり」は、程度・範囲を表す副助詞。①ほんの…だけ。②ほど。ぐらい。の意味があるが、ここでは、②。

 なお、影印は、「切もちばかりにに」と「に」がふたつあるように見える。重複か。

(78-6)「蒲鉾(かまぼこ)」・・かまぼこの起源は不明であるが、平安末期すでに「蒲鉾」の名があったことが『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』にみえる。また、「蒲鉾はナマズ本也(もとなり)、蒲(がま)の穂を似せるなり」と伊勢貞頼(いせさだより)の『宗五大草紙(そうごおおぞうし)』(1528)にあり、植物のガマの穂に似ているところからこの名が出たようである。つまり、当初は後世の焼きちくわのようなもので、ナマズなどの身をすりつぶして竹串(たけぐし)に塗り付けて焼いた。天正(てんしょう)(157392)のころには、すり身を木の板に塗り付けて焼く、板付きかまぼこ(初めは、板かまぼことよんだ)が現れ、在来のガマの穂形のものは、その切り口の形からちくわ(竹輪)とよばれるようになった。江戸時代には、煮て熱を通すようになり、さらに味の抜けない蒸し煮法が一般的となった。原料は白身の魚で、初期にはナマズ、タイが多く用いられた。『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1695刊)には、タイ、アマダイ、ハモを上とし、ヒラメ、キス、ハゼ、イカなどがこれに次ぎ、フカやナマズは下品としている。名産地として仙台(宮城県)、小田原(神奈川県)、富山、大坂、宇和島(愛媛県)、仙崎(山口県)などがあげられ、それぞれ原料や製法に特色をもっている。全国的にサメが使われるほか、仙台ではキチジ、ヒラメ、小田原ではグチ(イシモチ)やオキギスを、大阪ではハモ、宇和島・仙崎ではエソ、グチ、キス、北日本ではタラ類を原料とする。しかし、最近ではスケトウダラからつくった冷凍すり身がよく用いられている。

 蒲鉾は元来既成保存食ではなく、手もちの魚や客人の数などを見あわせてその時々に作った即席料理の一種である。したがって早く火が中まで通る必要があるので、肉は薄い方が喜ばれ、水蒲鉾といわれる位軟かいのが本筋だった。漁業が発達してフカなど安価な魚で大量生産ができ、庶民の経済も向上した江戸時代中期からは既成保存食として重要な位置を占めることとなる。関東の蒸蒲鉾に対して上方に焼蒲鉾が発達したのは、漁港尼崎などで作ったのを京都へ運ぶ途中で痛まないようにしたためだと伝える。

 なお、「かまぼこ」の語源は諸説あるが、ガマ科の植物の花穂(かすい)が鉾(ほこ)の形に似ているところからいう。

(78-8)「臭き」・・

 *<漢字の話>「臭」・・常用漢字で、脚が「犬」から、「ヽ」を取り去り、1画少ない「大」になった。

 『漢語林』の解字を見ると、「犬」+「自」で、「自」は鼻の象形。「犬」は、鼻のはたらきのよい犬の意味。で、におい・においをかぐの意味を表す。「大」では、意味不明になる。

 同様に、「犬」が「大」になった常用漢字を挙げると、

 「戻」・・旧字体は、「戸」+「犬」。元来は、戸口にいる犬の意味から、あらあらしい・もとるの意味。国訓で「もどる」は、意味不明。

 「突」・・旧字体は、「穴」+「犬」。穴から急に犬が飛び出すさまを示す。「穴」+「大」では、意味不明。

 「涙」・・本来は、とぎれずにはらはらとつながる意味。

(78-9)「くわし」・・菓子。発音は、「クヮシ」。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「菓子」の語誌に

 <(1)漢字「菓」の本字は「果」で、木の実の意味。「果子」「菓子」の熟語は中国より日本での使用例の方が古い。一方、古くはクダモノ(木の物の意)という語がほぼ同義で用いられており、「菓子」はクダモノの漢語的表現といえよう。

(2)挙例の「続日本紀‐天平八年一一月丙戌」のように、古くは橘などの果物を指していたが、大陸との交流が盛んになるにつれて、米や麦の粉に甘葛(あまずら)、飴、蜂蜜などを加えて作る団子のようなものが伝わり、「唐菓子(とうがし)」などと呼ばれた。平安時代になると、菓子の意味範囲が広がり、唐菓子や餠類も含めるようになる。

(3)室町時代には、さらに多様化し、茶請けの軽い食べ物の「点心」のほか、練り羊羹、中国から渡来の饅頭などがあり、後半期にはポルトガル・スペインから、カステラ、ボーロ、コンペイトーなどが伝わり「南蛮菓子」と呼ばれた。

(4)江戸時代には日本特有の菓子も発達し、京都の「京菓子」のほか、「煎餠」や「おこし」の類をいう「干菓子」という呼称も用いられるようになった。

(5)明治以降は西洋から、チョコレート、ビスケット、シュークリーム、ケーキなど多くの菓子が入ってくるようになり、「西洋菓子」と呼ばれたが、日本独自の製法も発達し、やがて、「洋菓子」というようになる。それに対して「和菓子」という言葉も生まれた。>とある。

(78-10)「かゆ」・・粥。

(78-11)「かし」・・「・・よ」。間投助詞。終止した文に付き、聞き手あるいは自らに対して念を押し、強調する。中古に現われた助詞で、会話に多く用いられる。

(78-11)「くだんの」・・件の。「くだり(件)」の変化した語。ふつう、「くだんの」の形で連体詞的に用いる。

前に述べた事柄を、読者や聞き手がすでに承知しているものとして、さし示す語。「の」を伴った形で、前に述べた、さっきの、例の、の意に用いる。

(79-1)「はち」・・鉢。

(79-2)「我だに」・・私でさえ。「だに」は、副助詞。さえ。…までも。

(79-3)「いか成(な)らん」・・(推測して)どうであろう。どんなだろう。なりたちは、形容動詞「いかなり」の未然形「いかなら」+推量の助動詞「む」。

(79-67)「ふくらして」・・膨(ふく)らまして。

(79-7)「洗(あらい)ながし」・・釜やおはちについていて、洗う時に流れ出る御飯つぶ。あらい。ここでいう「櫃の洗ながし」は、米櫃に残っているご飯粒。

(79-10)「あくまで」・・飽くまで。もう飽きたと思うほど十分に。これ以上ないというほどに。限りなく。たっぷりと。徹底的に。

(79-10)「な思ひそ」・・どうか思わないでほしい。「な」は、副詞。「な…そ」の形で、動詞の連用形(カ変・サ変は未然形)を間にはさんで、相手に懇願しつつ婉曲に禁止する意を表す。どうぞ…してくれるな。

(80-1)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま。

(80-1)「よしや」・・副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。不満足ではあるが、やむをえないと考えて、放任・許容するさまを表わす語。まあいい。ままよ。仕方がない。

(80-2)「勝手(かって)」・・建物の中や、場所などのありさま。また、物事のやり方。現代では、とくに、その建物、場所(物事)に慣れていて、そこでの行動のしかた(それに対する対処のしかた)が身についている場合にいう。

(80-5)「人気(ひとけ・ひとげ)」・・人のけはい。人がいそうな様子。

(80-6)「ぶた」・・豚。「ぶ」は、変体仮名「婦」に濁点で、「ぶ」。

(80-7)「ちん」・・狆(ちん)か。狆は、犬の一品種。体重二~三キログラムの小形種。額が広く、眼と鼻が

に一直線に並ぶ。体毛は黒と白または茶と白のぶちで、絹糸状の長毛でおおわれる。奈良時代中国から輸入さ

れ江戸時代に盛んに飼育。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「狆」の項の語誌に

 <江戸時代には仮名表記のほか「狆」という表記も現われた。この字は中国では明・清時代の西南のある少数民族を指す字であったが、それとは別に日本で作られたものか。

特徴的な顔つきからの「ちんくしゃ」や、人になつく性質からの「狆猫婆(ちんねこばばあ)」などの表現が生まれ、体躯が小さいところから「ちんころ」に広く子犬を指す用法も生じた。>とある。

(80-7) 「獣(け)もの」・・「獣」のあとに、「もの」があるから、「獣」は、「け」と読むのがいいか。

(80-7)「庭鳥(にわっとり・にわとり)」・・庭にいる鳥。庭で飼う鳥。鶏(にわとり)をさしていう。

(80-9)「はこ」・・箱。

(80-10)「よりふして」・・寄り臥して。

(81-2)「強(しい)て」・・動詞「しいる(強)」の連用形に助詞「て」が付いてできた語。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(81-6)「ぶた」・・豚。影印は、変体仮名「婦」で、「ふ」。ここは、濁点がない。

(81-8)「かくても」・・「かくて」に強調の意を加えたもの。こういう状態でも。

(81-9)「腹むなしくて」・・腹がすいて。

(81-11)「いたく」・・副詞。形容詞「いたい」の連用形から。程度のはなはだしいさま。ひどく。はなはだしく。ずいぶん。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「いたく」の語誌に、

 <(1)「いたし」は極度である意も表わすが、上代では肉体的・精神的苦痛を表わす例がめだつ。中古に入ると程度のはなはだしさを示す用法は連用形「いたく」にかたよるようになり、これが上代の「いた」の副詞的用法にも通じる副詞となった。

(2)音便化して「いたう」となるが、韻文では後まで「いたく」の形が好んで使われ、特に「いたくな…そ」の禁止表現は、一つの定まった表現のように用いられた。

(3)「いたく」は動作・作用の程度のはなはだしさを表わす語としてもっぱら動詞の修飾に用いられ、形容詞についてその状態のはなはだしさをいう場合は「いと」が使用された。>とある。

(82-2)「手水(ちょうず)」・・(「てみづ」の変化した語)手や顔などを洗い清めるための水。また、洗い清めること。特に、社寺などで参拝の前に手や口を清めること。

(82-3)「左」・・影印は、「右」の左横に見せ消ち記号の「ニ」があり、「左」と訂正している。

 *<漢字の話>「左」と「右」の部首・・

・「左」・・「工(たくみ)」部。脚の「工」は工具の象形。工具を持つひだり手、ひだりの意味を表す。また、左右の手が相互に助け合うことから、たすけるの意味をも表す。

・「右」・・「口(くち)」部。「口」+「又」(音符)。音符の「又」はみぎ手の象形。「口」は、祈りの言葉の意味。神の助けの意味を表す。

(82-3)「大ゆび」・・手足の指のうちで、もっとも太い指。おやゆび。おおよび。おおおよび。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「大指」の項の語誌に、

 <古くはオホオヨビ。後に、重複した母音が脱落してオホヨビに、またオヨビからユビへの変化にともなって、十二世紀頃にはオホユビが一般的となる。中世には、オホユビから音韻が脱落したオユビ、さらに転じたオヨビの形も見られるが、近世に至るまで、親指の名称としてはオホユビが最も一般的であった。>とある。

 さらに、「親指」の項の語誌には、

 <オヤユビは元祿時代頃から例が見えるが、オホユビの勢力も依然強く、節用集類でもオホユビの訓のものが多い。「書言字考節用集」では、「拇」に対し右に「オホユビ」、左に「オヤユビ」と訓を付している。おそらく、当時としてはオホユビを正しいとする意識があったのであろう。明治になって、オヤユビがオホユビを圧倒する。>とある。

(82-4)「人さしゆび」・・食指。

*「食指がうごく」・・食欲がきざす。また、広く物事を求める心がおこる。鄭の子公がひとさしゆびの動いたのを見て、ごちそうになる前ぶれだと言ったという「春秋左伝‐宣公四年」の「子公之食指動、以示子家曰、他日我如此必嘗異味」(子公の食指動く。以て子家に示して曰く、他日、我此くの如く、必ず異味を嘗めり)の故事から。なお、「異味」は、「珍味」で、ここでは、黿(げん=スッポン)のこと。

(82-5)「肩の下」・・異本は、その前に「左右の」とあり、「左右の肩の下」に作る。

(82-5)「ぬかずき」・・額衝、額突。「ぬかずき」は、「ぬかずく」の連体形の名詞化。額を地につけて礼拝する。丁寧に礼をする。「ぬか」は、「額(ひたい)」のこと。古くは「ぬか」だけで礼拝の意味があったらしい。

(82-6)「異国人(いこくびと・いこくじん)の神を拝む・・」・・「異国人の」の「の」は、主格の格助詞で、「~が」。ここは、「異国人」。

(82-8)「時宜(じぎ)」・・時にかなった挨拶をすること。礼儀にかなった挨拶の仕方・作法。辞儀。時義。

(83-1)「二千五百石」・・日本の船の積載量は、奈良時代から米の積載能力の石で表わしたが、室町時代になると「兵庫管領千石船」とか「櫟木善性八百石船」というように、積石数を表面に出してよんだ。ただし、船の石は積載容積ではなく、その容積に相当する米の重量であるから、量制の変化に対応して同じ石でもかなりの相違がある。江戸時代になって統一された公定枡の一石は六・四八二七立方尺で、これに対する米の重量四十貫が積載量の基準となり、明治初期まで使われた。したがって千石積は、載貨重量150トンに相当する。

 だから、「二千五百石」は、375トンになる。

(83-1)「ホーストン」・・イギリス船フォレスター号。

(83-2)「ベケツ」・・フォレスター号船長ビケット。

(83-3)「右筆(ゆうひつ)」・・祐筆とも。筆に長じたもの。文書にたずさわって仕えるもの。文官。武家社会に多く見られる職務。文書・記録の執筆・作成にあたる常置の職。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)の右筆、江戸幕府の奥右筆・表右筆など。武将の家などにも見られる。ここでは、フォレスター号の書記官くらいの意味か。

(83-5)「ベテツ」・・先には、「ベケツ」とある。異本は、「ベケツ」。

(83-5)「篤実(とくじつ)」・・人情にあつく実直なこと。誠実で親切なこと。

(83-7)「言にき」・・言ってしまった。「にき」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形に過去の助動詞「き」の付いたもの。自分の直接経験として、過去になった事柄、完了した事柄を表わす。…てしまった。すでに…た。

(83-89)「半切(はぎり・はんぎり・はんげり)」・・たらいの形をした底の浅い桶。はんぎり。半桶・盤切。

(83-11)「こそげて」・・刮(こそ)げて。削り落して。「こそぐ」は、物の表面を削る。表面に付着したものを削り落とす。

『蝦夷日記』7月学習の注

(156-1)「六月土用に入」・・陰暦で、立春・立夏・立秋・立冬の前各一八日間の称。陰陽五行説で四季を五行にあてはめる場合、春・夏・秋・冬を木・火・金・水に配すると土があまるので、四季それぞれ九〇日あるうちの終わりの五分の一ずつを土にあてたもの。春は清明、夏は小暑、秋は寒露、冬は小寒の後、各一三日目に土用入りとなり、一八日で土用が明けて新しい季節が始まる。土用中に土を犯すことは忌むべきこととされ、葬送などはこの期間は延期された。

 たとえば、今年の場合、7月7日が小暑だから、13目の7月19日が土用の入り。

 なお、現在、日高管内のコンブ漁は、漁協の浜ごとのコンブ部会で解禁日が決められるが、7月10日頃から20日前後が解禁日。

(156-2)「目方四千貫目にて石高にいたし百石積り、凡五千石高」・・計算すると、20万貫になる。メートル法換算では、750トン。ちなみに平成24年度の日高管内のコンブ生産は、2941トン(乾燥状態)。

(156-3)「水いしと申名代の昆布」・・「水いし」は、「三石」か。北海道産の昆布としては、松前地方のものが主流であったが、昆布漁場も沿岸に広がり、日高沿岸一帯で生産されるようになった。松前産のものが減少したため、三石産がこれに代わり、日高沿岸の昆布は「ミツイシコンブ」と総称されることとなる。名付け親である宮部金吾博士により、明治35年(1902)に学名となっている。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、「こんぶ」の語誌を

 <(1)「本草和名」には「和名比呂女、一名衣比須女」とあるが、ヒロメは幅が広いことから、エビスメは蝦夷(えびす)産が多いことから付けられた名と考えられる。

(2)「色葉字類抄」に「コンフ」、「伊呂波字類抄」に「コフ」とあり、中古末にはすでに「こぶ」「こんぶ」の両称が行なわれていた可能性があり、その併称は今日までつづいている。その語源をアイヌ語とする説もあるが、漢名の音読によるとする説もある。

(3)古く砂金などとともに重要物資として交易されていたが、中世には、海上輸送で若狭の小浜に運ばれて「若狭昆布」、さらに京都で加工が行なわれて「京昆布」と呼ばれた。近世以降は、大阪が昆布の中心地の観を呈するようになった。>と記している。

(156-4)「巾三、四寸、丈五、六間」・・メートル法換算では、巾9センチ~12センチ、丈は9メートル~11メートルになる。ミツイシコンブは、実際には、成長した状態で、幅7~15センチ、長さ2~7メートル。本文書の記述は、長さがちょっとオーバーに書かれているか。縁辺部はゆるやかにうねる程度でほとんど波打たない、中帯部は幅の6分の1と細く、表面の中央部に幅の狭い1本の溝が走るように見える。葉の基部は輪郭が広いくさび形またはほぼ円形である。葉の色は緑色を帯びた黒褐色。

(156-4)「干あげ長サ三尺程也切俵に致し」・・影印は、意味不明。ここは、異本を参考に読点を入れると、「干あげ、長サ三尺程(也)(に)切、俵に致し」がいいか。「也」は不用で、「に」を挿入にして、「干あげ、長サ三尺程に切、俵に致し」がいいか。なお「干」を「亍」としているが、単なる筆の流れか。

(156-5)「京、大坂、中国、九州、長崎迄も積出ス」・・昆布の採取は、江戸時代の徳川幕府による蝦夷地開拓以来盛んになり、昆布を食べる地域も広がっていった。昆布が北海道から各地へ運ばれた道は「こんぶロード」と呼ばれ、北海道で採取された昆布は、江戸時代、北前船を使い、日本海沿岸をとおり西回り航路にて大阪まで運ばれ、さらに、こんぶロードは薩摩藩により、琉球王国を中継地点として清(中国)までのびていった。

 たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べてる。関東地方はこんぶロードの到達がおそかったため、全国的に見て昆布の消費量が少ない地域となっている。このように、現在見られる地域による食べ方の違いは、こんぶロードの歴史的背景と関連があるという。(この項日本昆布協会のHP参照)

 *「大坂」・・大阪の地名は、15世紀末に石山別院を建立した蓮如上人の『御文(おふみ)』に「大坂」とあるのが初見と伝えられ、江戸後期には「大坂」「大阪」の字の混用がみられる。明治以降行政名として「大阪」の字を用いるようになった。(この項ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』参照)

(156-7)「被下(くだされ)」・・名詞。目上の人、または身分の高い人から物品などをいただくこと。また、いただいたもの。下賜。くだされもの。

(156-10)「俄(にわか)に」・・形容動詞「にわかなり」の連用形。突然に。語源説のうち、私は、「急な事は一、二と分かずの意か〔和句解〕。」が納得。

(156-10)「アベヤキ」・・アイヌ語に由来する地名。現えりも町下笛舞付近。普通河川アベヤキ川下流の地名。

(156-11)「フイマム」・・漢字表記地名「笛舞」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現えりも町笛舞。

 笛舞村は、明治初年から明治三九年(一九〇六)までの村。幌泉郡の西部に位置し、北西は近呼(ちかよつぷ)村に、南東はアベヤキ川をもって幌泉村に接する。明治四年二月、幌泉詰の開拓大主典関定吉が開拓使本庁に提出した地名の漢字改正案ではブヨマップに「笛舞」の字を当てた。同三九年(1906)、当村など九ヵ村が合併して二級町村幌泉村となった。

(156-11)「此間小川有橋」・・「小川有、橋」か、「小川、有橋」と読むのか。有(ある)のは、小川か橋か。異本は、「小川橋有」に作る。

(157-1)「ホンウエンコタン」・・江戸時代から見える地名。ホロイズミ場所のうち。現えりも町笛舞の笛舞漁港付近。

(157-3)「ニカンベツ」・・アイヌ語に由来する地名。現様似町字旭。普通河川ニカンベツ川河口付近。当地はもとホロイツミ支配所のうちであったが、一八〇一年(享和元年)シャマニ、ホロイツミ両所乙名立会のもとにシャマニ支配所の領域とされた(東蝦夷地場所大概書・場所境調書)。現在もニカンベツ川河口は、両岸とも様似町の区域で、左岸の集落も様似町に属する。

(157-5)「万屋仙左衛門(よろずやせんざえもん)」・・福山出身の場所請負人。佐野仙左衛門。「万屋」は家号。文政2年(一八一九)から万屋専左衛門・同弥次兵衛の二人がシャマニ、ウラカワ、シツナイの三場所を請け負っている。(「場所請負人及運上金」河野常吉資料)。これにより万屋は日高三場所での基盤を固めた。以後、万屋仙左衛門の名で営業。文政4年(1821)、幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度はそのまま引継がれた。三場所は文政9年(1826)の更新期から万屋専左衛門の一人請負人となり、以後場所請負制度の廃止まで続いた。

(157-5)「シヤマに」・・シャマニ。漢字表記地名「様似」のもとになったアイヌ語に由来する地名。影印は、「シヤマ」がカタナカで、「に」がひらがな。様似は、近世はシャマニとよばれ、シャマニ場所の会所などが置かれ、同場所の中心地であった。また海防警備上の要所で、一八二一年(文政四年)に蝦夷地が松前藩領に復すると、同藩は幕府領時代を踏襲して当地に警備の勤番所を置き、五五年(安政二年)の再上知後は、シャマニ詰はニイカップからトカチまでを持場とした。シャマニ場所は、一七九九年(寛政一一年)に東蝦夷地が幕府領となって後、ウラカワ場所の東側に設定されていたアブラコマ場所を東西に分割、西半を当場所、東半はホロイツミ場所としたことで成立した。

(157-5)「ボロムイ」・・現えりも町下近浦付近。

(157-7)「ボロマンベツ」・・漢字表記地名「幌満」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字幌満。

(157-8)「是より山道」・・シャマニ場所から東方のホロイツミ場所へ向かう道のうち、ブユガシュマ(冬島)の東方、ヲソフケウシ(現オシクシ)から内陸部に入り、アポイ岳南裾の山中を上り下りし、その間コトニの休所を経てホロマンベツ(現幌満川)に至った山道。様似山道・様似新道ともいった。山道が開かれる以前は海沿いの道を行ったが、ブユガシュマ―ホロマンベツ間の海岸部は海食崖が発達し(現在は日高耶馬渓とよばれる)、この道はテレケウシ、チコシキル、ルランベツとよばれた大難所をはじめ、波が打寄せる岩場を伝う危険な道であった。ルランベツは、山道と海岸結ぶ坂道があり、念仏坂と呼ばれた。寛政10年(1798)に蝦夷地巡察のために派遣された幕府使番で蝦夷地取締御用掛大河内政寿が翌九九年にシャマニに駐留して指揮、配下の中村小市郎らに担当させて同年五月から普請にかかっている。このとき併せてサルル山道が開かれ、またこの年には近藤重蔵がルベシベツ山道を開削している。これらの山道(新道)の完成により、箱館からクスリ(釧路)までの馬による通行が可能になった。

(157-9)「ほろまんべつ川」・・幌満川。日高山脈の広尾岳付近に源を発し、中流には洪水予防と電源用の幌満ダムがある。ダムの下方は幌満渓谷の景勝地、また下流左岸には国指定の天然記念物ゴヨウマツの自生地があるなど、流域一帯は日高山脈襟裳(えりも)国定公園の一部となっている。

(157-10)「ヤワヲイ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。

(157-10)「岩鼻(いわはな)」・・岩の突端。突き出た岩の先端

(158-1)「山坂難所也」・・松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「川を渡りて巌壁の間に爪懸り有ばかりの道の有るを辛ふじて上る也。・・甚難所なりし也。念仏坂と其を言し」とある。

(158-2)「ヲホナイ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。

(158-3)「コトニ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。様似山道の途中にコトニ小休所があった。

(158-4)「フユニ」・・漢字表記地名「冬島」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字冬島。

(158-7)「ふゆか島と申大岩」・・いわゆる冬島の石門。現在は冬島漁港の防波堤の一部になっている。

(158-8)「行きぬけ」・・先へ抜けて出ること。抜け通っていること。また、通り抜けられる所。通り抜け。いきぬき。

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