森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2013年09月

 『ふなをさ日記』10月学習注

(5-1)「切(きれ)」・・動詞「きれる(切)」の連用形の名詞化。布帛(ふはく)の切れ端。また、広く反物(たんもの)、織物をもいう。

(5-34)「重吉が右の手」・・「重吉が」の「が」は連体格の格助詞。「~の」。ここでは、「重吉の右の手」。

(5-5)「曲(きょく)ろく」・・僧家で用いる椅子。主として僧が法会などで用いる。背のよりかかりを丸く曲げ、四本の脚は牀几(しょうぎ)のようにX型に作ってあるもの。全体を朱または黒の漆で塗り、金具の装飾を施す。曲木(きょくもく)。

(5-7)「沙汰(さた)」・・報知。報告。通知。消息。たより。また、吹聴すること。「沙」はすな、「汰」はえらび分けるの意で、語源説に「沙(すな)を水で淘(ゆ)り、沙金をえりわける意が転じたもの」がある。

(5-8)「地走(ちそう)」・・馳走。「地」は「馳」の当て字。「馳走」は、(用意のためにかけまわる意から)心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

(5-11)「入(いる)れば」・・下2動詞「入(い)る」の已然形「入(いる)れ」+接続助詞「ば」。

(6-1)「えもいはぬ」・・なんとも言えずよい。言いようもなくすばらしい。積極的、肯定的な意を含めていう。

(6-1)「待遠(まちどお)に」・・待ち遠しく。形容動詞「待遠なり」の連用形「待遠に」。

(6-1)「めり」・・推定の助動詞。用言・助動詞の終止形に付く。ただし、ラ変型活用をする語には通例ラ行の語尾を脱した形に付く。目前の情況から判断・推量することを示す。…と見える。…と見うける。見たところ…と思われる。

(6-2)「沙汰(さた)」・・(「沙」はすな、「汰」はえらび分けるの意)元来は、水中でゆすって砂の中から砂金や米などをえり分けること。転じて、物、人物の精粗をえり分けること。物事の是非をえらび分けて正しく処理すること。始末すること。処置すること。多くは、政治上の処理。政務のとりさばきを意味する。

(6-3)「体(てい)」・・(接尾語的に用いて)そのようなもの。そのような様子。風(ふう)。風体。ふぜい。

 *<漢字の話>

①「体」を「てい」と訓じる場合・・「テイ」は漢音。「体裁(ていさい)」「風体(ふうてい)」「世間体(せけんてい)」「面体(めんてい)」「為体(ていたらく)」「這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)」「有(あ)り体(てい)」「然(さ)らぬ体(てい)」など。

②「体」、「躰」、「軆」・・①影印の「躰」は、「体(軆)」の俗字。②『新潮日本語漢字辞典』の「体」の項には、<もと「軆」と「体」は別字。当用漢字表で「軆」の新字体として「体」が選ばれたため、両者の字形に区別がなくなった。>とある。また、『漢語林』には、<「体」は、古くから「軆」の俗字として用いられた。>とある。

(6-3)「そこかしこ」・・あちらこちら。漢字では「其処彼処」をあてる。「ここかしこ」は、「此所彼処」。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の親見出し「かしこ」の語誌に

 <「かしこ」は平安時代になって発生した語で、上代には見えない。上代の中称・遠称代名詞「そこ」が平安時代になって中称にだけ使用されるようになり、遠称にはあらたに「かしこ」を用いるようになった。>

とある。

(6-4)「ありく」・・動き回る。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「あるく」の語誌に、

 <上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる。>とある。

 また、「あるく」の語誌には、

 <類義語「あゆむ」は一歩一歩の足取りに焦点をあてた語であるが、「あるく」「ありく」は足取りを超えて歩行移動全体に焦点が及ぶ。したがって、徒歩でなく、車に乗って移動するような場合にも用いられる。また、「あゆむ」が目標を定めた確実な進行であるのに対し、「あるく」「ありく」は散漫で拡散的な移動を表わすという違いも認められる。>とある。

(6-5)「陸(くが)」・・影印は、「陸」に「くが」とルビがある。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「陸(くが)」の語誌に

(1)水部に対する陸部を表わす語には、「やま・をか」などもあるが、それらは平地部分とも対になる。一方、「くが」は平地とは対にならず、水部に対する語であり、後には(2)のように海路・水路に対する陸路をさすようにもなる。

(2)語形としては「クムガ」(書陵部本名義抄・色葉字類抄)、「クヌガ」(日本書紀古訓)、「クニガ」(改正増補和英語林集成)などがあり一定しない。語源的には「国(クニ)処(カ)」ともいわれるが、そうだとすると、日本書紀古訓の「クヌガ」は「クヌチ(国内)」などとの類推から作られた語形である可能性もある>とある。

(6-8)「とりどり」・・漢字は、「取取」を当てる。思い思い。それぞれ。まちまち。いろいろ。語源説に「一人一人の略か」(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)とある。

(7-3)「畜生道(ちくしょうどう)」・・仏語。六道(すべての衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)の一つ。悪業の報いによって導かれた畜生の世界、またはその生存の状態。畜生。畜生界。畜趣。「畜生(ちくしょう)」は、(人に飼養されて生きているものの意から)禽獣・虫魚などの総称。

(7-3)「落歟」・・異本は、「落ちたるか」につくる。

 *<漢字の話>「歟」・・

①「か」。「や」とも読む。句末に用いて疑問・反語・推量・感嘆の意を表す助字。

②変体仮名にもある。(『くずし字用例辞典』P1250下段)「歟」を助詞の「か」の意味で、かなにしないで漢字のまま使用している例もある。「渠は目下誰かの縁談に就いて、配慮しつつあるのではない」(泉鏡花『婦系図』)

③「」の部首・・部首は「欠」で、「あくび」と呼ぶ。当て字の「欠伸」から。なお、旁(つくり)になったときは、「けんづくり」と呼ぶ。「欠」の漢音「ケン」から。

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『蝦夷日記』2013.10注 

(174-2)「引取場所小川はし有」・・異本は、「場所」と「小川」の間に、「なり」があり、「引取場所なり小川橋有」に作る。

(174-3)「ベツベツ」・・漢字表記地名「別別(別々)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川名としても記録されている。当地一帯は近代に入り樽前村に包含された。ベツベツ川はシラヲイ場所とユウフツ場所の境界となっていた。現在も、苫小牧市と白老町の境界となっている。なお、別々川上流に「インクラの滝」がある。昭和初期まで「別々の滝」と呼ばれていたが、木材を運ぶ「インクライン」があったことから「インクラの滝」となった。

 *インクラ・・英語の「インクライン(incline)」=「傾斜面」の意=の「イン」を省略した造語。インクラインは、斜面にレールを敷き、動力で台車を走らせて船舶や荷物などを運ぶ装置。一種のケーブルカー。昭和11(1936)、苫小牧から白老にかけての樽前山麓林を管理していた帝室林野局札幌支局苫小牧出張所は、社台台地. のエゾマツ、トドマツ、ナラ、センなど豊富な木材資源 を搬出するため、別々の滝右岸にインクラインを建設した。昭和19(1944)、使用中止になった。

(174-3)「野口屋又蔵」・・場所請負人。初代又蔵は、天明元年(1781)陸奥国北郡大畑村に生まれる。寛政年間、家兄に従い福山に来る。栖原角兵衛の店員となり、のち独立。文政10年(1827)、白老場所請負人となる。代々又蔵の名を継ぎ、屋号を(まるまた)と称し、4代まで白老の請負を継続した。なお野口屋は天保12(1841)以降シラヲイ場所の請負人を勤め、漁場経営のほか下宿所・人馬継立・書状継立・異変通

報・備米管理・アイヌ介抱などの任にもあたり、明治2(1869)の場所請負制廃止や陸奥一関藩の分領支配を経たのちの同5(1873)以降も一時期白老郡漁場持となっている。

(174-5)「サタイ」・・漢字表記地名「社台」のもとになったアイヌ語に由来する地名。社台村は明治初年から大正8年(19193月までの村。白老郡の東側に位置し、西は白老村、東は別々川を境に勇払(ゆうふつ)郡樽前村(現苫小牧市)に接し、北に樽前山(1041メートル)・多峰古峰(たつぷこつぷ)山(661メートル)などがそびえ、南は太平洋に臨む。中央西部を社台川が流れる。明治42年(1909)国鉄室蘭線(現JR室蘭本線)社台駅が開業。

(174-7)「シラヲイ」・・漢字表記地名「白老」のもとになったアイヌ語に由来する地名。シラヲイ場所は白老川流域を中心に設定された近世の場所(持場)名。シラヲイ場所は西は「フシコヘツ」(現在の登別市と白老町の境の伏古別川)を境としてホロベツ場所、東は「ヘツヘツ川」(現在の苫小牧市と白老町の境をなす別々川)をもってユウフツ場所に接し、南は海に臨み、場所内の海岸線は五里二七町余であったが、かつての西境は「フシコヘツ」のやや東の「カムエシンタ」岬、東境は「ヘツヘツ川」のやや西の「シヤタイ川」で(場所境調書)、場所の領域が東西にやや拡張している。

 白老町の市街地北西にシラヲイ仙台藩陣屋跡がある。国指定史跡で、隣地に仙台藩白老元陣屋資料館と塩釜神社がある。嘉永6年(1853)ロシア使節のプチャーチンが和親通商を求めて肥前長崎に来航、さらにペリー艦隊の来航もあって箱館が開港されることになり、蝦夷地の再直轄が論議され、五五年(安政二年)四月に幕府は仙台藩・秋田藩・盛岡藩・弘前藩・松前藩に出陣を命じ、蝦夷地の警備に当たらせた。仙台藩に対しては、東蝦夷地のシラヲイよりシレトコ(知床)岬に至る一帯およびクナシリ、エトロフ両島を持場とし、元陣屋をユウフツ、出張陣屋をアッケシ、ネモロ(根室)、クナシリ、エトロフに設置するように指示した。仙台藩は三好監物を蝦夷地御用掛に任じ、30人の調査隊を率いて警備地を視察したが、元陣屋は幕府の指示したユウフツを不適地とし、シラヲイが適地であると陣屋見込絵図を添えて藩主に報告した。元陣屋のシラヲイ変更は五六年の春に幕府から許可された。

(175-1)「シラヲイ川」・・白老川。白老町の東寄りを南東に向かって流れ、白老市街の西側で太平洋に注ぐ二級河川。流路延長24.2二キロ、流域面積178.3平方キロ。白老岳(968メートル)の南斜面に発し、上流は川底勾配が急で白老滝や岩を縫うように峡谷の中を急流となって流下し、トドマツ川・赤川・深沢(ふかさわ)川・ポンベツ川を合流、字森野付近から川幅も徐々に広がり、流れも緩やかになる。主要道道白老―大滝(おおたき)線の御料地(ごりようち)橋付近からは幅200メートルの河原になる。河口の西側からウヨロ川・ブウベツ川が海岸に沿って流れ、白老川と合流して海に出るが、河口一帯は各上流から運ばれてきた土砂で砂洲地帯を形成している。

(175-2)「天気、風」・・「天気」は、「天候、空模様」一般のことではなく、「空が晴れていること。天候のよいこと。」という。したがって、「天気、風」とは、「天候はよく晴れているが風がある」くらいの意味。

(175-2)「シキウ」・・漢字表記地名「敷生」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現白老町敷生川河口流域の竹浦付近。

(175-4)「シキウ川」・・敷生川。白老町と伊達市大滝との境界にあるホロホロ山に源を発し、毛敷生川合流点から日本製紙社有の取水堰を経て竹浦地区の太平洋に注ぐ。流域には、日本製紙白老工場がある。

(175-5)「メツブ」・・メップ。アイヌ語に由来する地名。

(175-6)「アイロ」・・アヨロ。アイヌ語に由来する地名。現白老町西部・虎杖浜付近。

(175-9)「フシコベツ」・・漢字表記地名「伏古別」のもとになったアイヌ語に由来する河川名および地名。「伏古別川は、登別漁港に注ぐ。フシコベツを境に東はシラヲイ場所、西はホロベツ場所。西岸一帯は近代に入り登別村に包含された。現在も、河口付近は、白老町と登別市の境界となっている。

(175-10)「岡田屋半兵衛」・・恵比須屋半兵衛。恵比須屋は、近江商人岡田弥三右衛門の松前における支店の名称。支配人をもって営業し、文化年間以降は、恵比須屋源兵衛・恵比須屋弥兵衛・恵比須屋半兵衛の名で営業。この時期の恵比須屋半兵衛は、ホロベツ・ムロラン(エトモ)の場所請負人。

(176-1)「ヌフリベツ川」・・登別川。登別市を流れ太平洋に注ぐ二級河川。登別川水系の本流である。上流のカルルス温泉や、支流クスリサンベツ沿いの登別温泉があり、北海道屈指の温泉地となっている。かつては千歳川と呼ばれたことがある。

(176-3)「村雨(むらさめ)」・・にわかに群がって降る雨。激しくなったり弱くなったりして降る雨。にわか雨の類。群雨、叢雨、不等雨とも書かれる。地方によっては夕立の意味に用いられる。

 *<漢字の話>「村」・・「むら(群)」と同語源。「村雨」の「村」は、「群」の当て字ではない。「村」に「むらがる」の意がある。なお、「村」は、現在は、小学校1年生が習う教育漢字になっているが、元来は、「邨(むら)」の異体字。

 *青森県三戸地方で、「村雨」といえば、五月の節供に禁を破って働いたために村に雨が降らなくなることをいう。「村」が文字通り、「村落」の意味に使われている例。

 *「村雨」の語を含む熟語・・

①「村雨の宿」=村雨の降った時、雨やどりする宿。

②「幾村雨(いくむらさめ)」=幾度も降り過ぎる村雨。

③「一村雨(ひとむらさめ)」=ひとしきり降るむらさめ。にわか雨。

④「一村雨(ひとむらさめ)の雨宿(あまやど)り」=ひとしきり降ってくるむらさめを避けようとして、未知の他人といっしょに雨宿りをするのも、深い因縁に結ばれているからだの意。袖振りあうも他生の縁。

⑤「袖(そで)の村雨(むらさめ)」・・(「伊勢物語‐一〇七」の「数々に思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる」による)わが身の上の幸、不幸を思い知らせて降る雨。わが身のさまを知る雨。多く涙にかけていう。

*<雨を「さめ」と訓じること>・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』に<母音ではじまる「あめ」が熟合する際、母音の連続を避けて子音sが挿入された形と見る説が一般的であるが、ほかには「いね」が「うましね」になるくらいで、子音の挿入される例はほとんどなく、「さめ」は「あめ」の古形だという説もある。>とある。

(176-3)「ランボケ」・・漢字表記地名「蘭法華(らんほっけ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り蘭法華(らんほつけ)村に包含された。現登別市札内町・富浦町。明治9年(1876)頃から同一五年15(1882)までの村。幌別郡の東寄りに位置し、東は登別村、太平洋に蘭法華岬が突き出す。西は幌別村。明治3(1870)仙台藩白石領の片倉邦憲の家臣佐野源蔵ほか三戸が入植、同4(1871)の第二回移住でも4戸・11人が入植した。同15(1882)に登別村に合併。

(176-4)「此所山の出岬」・・蘭法華岬。

(176-4)「サルと申」・・不詳。

(176-5)「ヲカシベツ」・・漢字表記地名「岡志別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。登別市の岡志別川河口流域。現登別市幸町付近。

(176-6)「ホロベツ」・・漢字表記地名「幌別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り幌別村に包含された。胆振幌別川河口流域。ホロベツ場所は、現登別市の幌別川流域を中心として設定された近世の場所。西はワシベツ(現室蘭市と登別市の境をなす鷲別川)をもってモロラン場所(もとはヱトモ場所)、東はフシコベツ(現登別市と白老町の境をなす伏古別川)をもってシラヲイ場所に接する。安政元年(1854)再度幕府直轄地となり、ホロベツ場所を巡見した勘定吟味役村垣範正は、ホロベツ請負人の恵比須屋(岡田)半兵衛は松前城下住いで、運上金は三五両、会所一・漁小屋一・蔵三・小屋四があり、アイヌは五三棟・二六四人、当時は鮭三〇〇石目ほどで、「小場所至而困窮場所之由」と伝えている(「村垣淡路守公務日記」安政元年閏七月二四日条)。

(176-8)「ホロベツ川」・・登別市の中央部を南流する二級河川。行政管理上は胆振幌別川という。流路延長17.6キロ、流域面積104.7平方キロ。来馬(らいば)岳(1040.1メートル)の南西斜面を源とし、幌別市街西部で太平洋に注ぐ。

(176-10)「トンケシ」・・漢字表記地名「富岸」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現登別市富岸(とんけし)川流域。

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古文書解読学習会 札幌歴史懇話会主催

古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日(10月は、第1)13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。 

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年10月7日(月)

13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター

大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3



◎現在の学習内容

①「ふなをさ(船長)日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています               

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp



 『ふなをさ日記』9月学習の注 (2)

『船長日記巻之三』

(1表紙)「ふなをさ」・・船頭。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

*なお、「ふなをさ日記 地」が張られている、紙を「題簽(だいせん)」という。「題簽」とは、和漢の書籍の表紙の左側又は中央に題名を書いて貼りつける短冊型の紙片あるいは布片。また、その題字のこと。

(1~表紙) 「ふなをさ日記」の下にある丸に星印・・中央に「文」とある。これは、北海道道庁の「北海文庫」所蔵図書の印。

「北海文庫」は、金田吉郎(かねたきちろう)氏の寄贈図書の名前である。金田氏は、明治23(1890)北海道庁属となり、財務部経理課長、檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡長、小樽高島忍路余市古平美国積丹郡長を歴任、明治30年(1897)東京府属に転じた。明治37(1904)東京府南多摩郡長に就任してから、同郡八王子町に「北海文庫」を設立した。氏は、北海道庁に勤務後、北海道に関する図書を蒐集した。氏の「図書献納ヲ御庁ニ願スル理由」(以下「理由書」。『北海文庫図書ノ始末』所収)の中で、「北海道ニ関係アルモノハ新古細大ヲ問ハズ、断管零墨(断簡零墨=だんかんれいぼく。古人の筆跡などで、断片的に残っている不完全な文書。切れ切れになった書きもの=)ヲ撰マズ、極力之ヲ蒐集セリ」と記している。金田氏は、同年55日に北海道庁長官河島醇(かわしまじゅん)に「図書献納之儀ニ付願」を提出している。氏は、前掲「理由書」のなかで、「本年一月、御本庁舎火災ニ罹リ、御保管ノ図書モ多ク灰燼ニ帰シタルト聞ク・・不肖吉郎所蔵ノ図書ヲ御庁ニ献納シ拓殖ノ参考ニ供セントス」と献納の理由を述べている。「本庁舎火災」というのは、明治42111日午後6時過ぎ、北海道庁内印刷所石版部から火災が発生したことをいう。この火災で庁舎屋根裏の文庫にあったすべての文書が焼失した。金田氏が献納した図書は、合計1326点である。明治政府賞勲局は、金田氏の寄附行為に対して銀杯を送っている。

 「船長(ふなをさ)日記」は、金田氏の寄贈によるものである。金田氏が、この本をどうようにして蒐集したのかについては、不詳。

(1~表紙) 「地)」・・日本の古典籍(こてんせき)、和古書(わこしょ)、和本(わほん)の冊数の数え方の二冊目。本文書は、「天・地・人」の3冊からなっている。

(1~表紙)「図書票簽(としょひょうせん)」・・表紙の中央に「図書票簽」が貼付されている。「簽(せん)」は、ふだ。

(1表紙) 「舊記(きゅうき)」・・図書票簽の「類名」欄に「舊記」とある。「舊」は、常用漢字「旧」の旧字体。北海道立文書館の「旧記」は、近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録などが2341点所蔵されている。原本に類するものは少ないが、すぐれた写本が多く、その内容の豊富さにおいても、誇りうる集書といえる。本文書はそのひとつである。

(2-3~4)「行て行て」・・「行て」がひとつ重複か。異本は、「行きて」と1回のみ。

(2-4)「猟師たる者」・・「たる」は、違和感がある。異本は、「たる」を「だつ」に作り、「猟師だつ者」とする。

(2-5)「鉄炮(てっぽう)」<漢字の話>「炮」・・①「石偏」の「砲」は、元来は、「礟(ほう)」の異体字。昔、石をはじき飛ばして敵にあてた武器。「火偏」の「炮」は、火(火薬)の力で弾丸を発射させる装置の武器。②旁について・・「鉄砲」の「砲」は、常用漢字なので、「包」で、中は「己」。一方、「鉄炮」の「炮」は、常用漢字でないので、旁の中は、「巳」

(2-5)「渡(わた)り」・・「渡り」は、「わたり」(辺り)で、「渡」を「わた」と読むのは、当て字。

(2-6~7)「おろし捨(すて)」・・下したまま置き去りにすること。

(2-89)「一丈」・・尺貫法による単位で、10尺(3.0303メートル)にあたる。

(3-1)「杓子(しゃくし)」・・飯や汁をすくう用具。汁杓子は円または長円形の頭を中くぼみに削り、柄をつけたもので、ブナなどを用いて木地師の一派が作製する。貝杓子も用いられ、「おかい」とも呼ばれるが、金属製品の普及で衰退している。飯杓子は長円扁平な頭に柄をつける。ほおのき製で、東北地方では「へら」とも呼ぶ。「しゃもじ」は、女房詞が普及したもの。杓子を主婦がもつために、主婦権の譲渡を「しゃくし渡し」とか「へら渡し」という。

 *「じゃもじ」・・「しゃくし(杓子)」の後半の「くし」を略し「文字」を添えた女房詞が一般化したもの。

 *「女房詞(にょうぼうことば)」・・中世に内裏や上皇の御所の女房の間で用いられた言葉。次第に広く公家社会で用いられるようになり、将軍家・大名その他の武家の女性の間でも用いられるようになった。食料品・道具・人事・衣料・神事・仏事・時刻などを表わす各分野の女房詞が多様に使われている。女房詞は近世には上品な言葉と意識され、一般の武家や町家の女性の間にまでも広まるようになった。女房詞は、「―もじ」と「お―(下略)」という造語法を特色とする。前者には「こもじ(鯉)」「すもじ(鮓)」「たもじ(蛸)」などがあり、後者には「おなす(なすび)」「おはま(はまぐり)」「おなま(なます)」などがある。これらの女房詞の中には、

「かもじ」・・「髪(かみ)」「髢(かずら)」「母(かか)」など「か」で始まる言葉の後半を略し、「文字」を添えたもの

②「ゆもじ」・・「ゆ」の音を語頭にもつ語の後半を略して「文字」を添えた女房詞。「ゆかたびら」の後半を略して「文字」を添えたものなど。

③「おひや」・・女房詞「おひやし(御冷)」の略)水。おもに冷たい飲み水。もともとは敬意の高い女性語であったが、江戸時代には単に丁寧な表現として、男女に関係なく一般に使われるようになった。

④「おでん」・・「田楽(でんがく)」の女房詞。

など、のちに女性語となり、男性も使う一般語となったものも多い。なお、御所の女房詞は、現在も宮中の女官用語や尼門跡の言葉としても受け継がれている。女房詞は女性語の歴史の中で特に注目されるものである。(この項はジャパンナレッジ版『国史大辞典』参照)

(3-2)「さましたたる」・・「た」がひとつ重複か。ここは、「さましたる」が正しいか。異本は、「さましたる」に作る。n

(3-3)「獣(け)もの」・・「獣」を文字通り「ジュウ」と読むと、「じゅうもの」となり、語感がよくない。ここは、「獣」のあとに「もの」があるから、「獣」を「け」と訓じ、「けもの」と読むのがいいか。

(3-3)「取(と)らするなり」・・助動詞「なり」は、終止形に接続するから、「取る」の連体形「取(と)らする」は、文法的には誤り。「ここは、文法的には「取らすなり」が正しい。

(3-5)「子丑(ねうし)」・・やや北北東。

(3-5)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

 *<仮名遣いの話>「じかた」か「ぢかた」か。「地」の音読みに漢音の「ち」と呉音の「じ」がある。「現代仮名遣い」(昭和61年内閣告示第1号)では、

(1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」 例 ちぢみ(縮) つづみ(鼓) つづく(続) つづる(綴)
(2)二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」例 はなぢ(鼻血) そこぢから(底力)

をあげるが、「注意」として、

<次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであって、上記(1)、(2)のいずれにもあたらず、「じ」「ず」を用いて書く。例 じめん(地面) ぬのじ(布地) ずが(図画) りゃくず(略図)>

としている。

本書の「地方(じかた)」は、元来呉音にある「じ」なので、「ぢ」としない。「地元(じもと)」「地獄(じごく)」「地酒(じざけ)」「地主(じぬし)」「地雷(じらい)」「地面(じめん)」「地震(じしん)」「布地(ぬのじ)」

「下地(したじ)」なども同様。

(3-6)「碇(いかり)」・・船をとめておくため、綱や鎖をつけて水底に沈めるおもり。・錨とも書き、古代は単に石に綱をつけただけのもので、『万葉集』では「重石」と書いて「いかり」と読ませている。「錨」は、金属のおもり。

(3-7)「陸(りく・おか・くが・くにが・くぬが・くむが)」・・陸地。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「くが」の語誌には、

 <(1)水部に対する陸部を表わす語には、「やま・をか」などもあるが、それらは平地部分とも対になる。一方、「くが」は平地とは対にならず、水部に対する語であり、後には(2)のように海路・水路に対する陸路をさすようにもなる。

(2)語形としては「クムガ」(書陵部本名義抄・色葉字類抄)、「クヌガ」(日本書紀古訓)、「クニガ」(改正増補和英語林集成)などがあり一定しない。語源的には「国(クニ)処(カ)」ともいわれるが、そうだとすると、日本書紀古訓の「クヌガ」は「クヌチ(国内)」などとの類推から作られた語形である可能性もある。>

 とある。

 *<漢字の話>「陸」・・①『漢字源』の解字には、旁の「坴(りく)」は、「土」+「八(ひろがる)」+「土」で、土が高く積って広がるさま、陸は、「阜(おか)」+「坴」で、もりあがって連なる意味を含むとある。

 *なお、「リク」は、漢音。呉音は、「ロク」で、証文や契約書で、改竄(かいざん)や誤解をさけるために「六」の代りに用いることがある。

(4-1)「いゝけれど」・・古文では、「いひけれど」で、「いゝ」は、「いひ」が正しい。異本は、「いひけれど」に作る。

(4-2)「口を引(ひき)て」・・「口」は、「くちなわ(口縄)」の略。牛馬などの口につける縄。

 なお、異本は、「口を引(ひき)てたべ」とある。「たべ」は、「た(給)ぶ」の命令形で、「ください」の意。本書は「たべ」がない。

(4-2)「不通」・・「通ぜず」。ここは、漢文の返読になっている例。

(4-2)「止事(やむこと)を得(え)ず」・・とどまることができない。しかたがない。よんどころない。やむをえない。やむなし。

(4-3)<見せ消ち>「あしく」を「ありく」と訂正・・「し」の左の「ニ」は見せ消ち記号。「ありく」は「歩く」。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ありく」の語誌に

 <上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる。>

 とある。

 また、「あるく」の語誌には、

 <類義語「あゆむ」は一歩一歩の足取りに焦点をあてた語であるが、「あるく」「ありく」は足取りを超えて歩行移動全体に焦点が及ぶ。したがって、徒歩でなく、車に乗って移動するような場合にも用いられる。また、「あゆむ」が目標を定めた確実な進行であるのに対し、「あるく」「ありく」は散漫で拡散的な移動を表わすという違いも認められる。>

 とある。

(4-5)「尻馬」・・他の人が乗っている馬の尻。「尻馬に乗る」は、人の乗っている馬の後部に乗ること。

(4-5)「麦穂(むぎほ・バクスイ)」または、「麦、穂」か。・・「麦穂」は「麦の穂」。

(4-6)「穂に出る」・・現代では、「穂が出る」というように、「穂に」ではなく、「穂が」という。古文では、「穂に出(い)ず」という表現をする。穂となってぬき出る。穂先に実を結ぶこと。「に」は、動作・作用の結果、変化の結果を示す格助詞。

 *「めづらしき君が家なるはなすすき穂出(ほにいづる)秋の過ぐらく惜しも〈高円広成〉」(『万葉集』)

*「ほにいでたる田を、人いとおほく見さわぐは、稲かるなりけり」(『枕草子』)

*「あつしあつしと門々の声〈芭蕉〉二番草取りも果さず穂に出て〈去来〉」(『俳諧・猿蓑』

*「今よりはうゑてだにみじ花すすきほにいづる秋はわびしかりけり〈平貞文〉」(『古今和歌集』)

(4-7)「白壁(しらかべ・しろかべ)」・・白い壁。

 *「白」を「しら」と訓じる例・・「白(しろ)」は、語頭では、「しら」に変化することがある。「白髪(しらが)」、「白和え(しらあえ)」。「白羽(しらは)」、「白樺(しらかば)」、「白魚(しらうお)」。「白玉(しらたま)」、「白洲(しらす)」、「白々(しらじら)しい」、など。

 **「白」を「しら」「しろ」と両方訓じる例・・「白砂(しろすな・しらすな)」、

(4-8)「大手先(おおてさき)」・・城の大手門の前。または、その広場。ここでは「紅毛屋敷」の正面前。

(4-9)「紫羅紗(むらさきらしゃ)」・・「羅紗」は、毛織物の一つ。一般には織目が見えないまでに縮絨(しゅくじゅう)・起毛・剪毛(せんもう)の加工仕上げを行なったものをいう。ポルトガル語のRaxaを語源としている。日本へは南蛮貿易によって、十六世紀後半に舶載され、武将たちに防寒や防水を兼ねた陣羽織・合羽などとして用いられた。特に緋羅紗は猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれて珍重された。江戸時代を通じてオランダおよび中国の貿易船によって、大羅紗・小羅紗・羅背板(らせいた)・ふらた(婦羅多)・すためん(寿多綿)のほか、両面羅紗・形附羅紗・類違い羅紗など多くの品種が輸入されている。武家では火事羽織・陣羽織、あるいは鉄砲・刀剣・槍など武器や挾箱などの調度の蔽布・袋物類、または馬装などに、町人の間では羽織・夜具、下駄の鼻緒などに利用されてきた。(この項『ジャパンナレッジ版国史大辞典』参照)

(4-910)「唐ざらさ」・・輸入品のサラサ。「さらさ(サラサ・更紗)」は、近世初頭から舶載された外国の模様染布の総称。金箔・金泥を施したものは特に金華布・金更紗と呼称する。主として木綿の布に手描き、あるいは型を用いて模様を染めたもので、インド・ジャワをはじめタイ・スマトラ・中国・イラン・ヨーロッパ製のものがある。日本で模倣製作されたものは「和更紗」と呼ぶ。その語源についてはジャワ語のsrasah、ポルトガル語のsarassa,saraçs、スペイン語のSaraza、インド西海岸の要港であったSulatの転訛)、インド南海岸地域の古語saraso,sarassesなどが考えられるが、いずれも確かな証拠はない。(『ジャパンナレッジ版国史大辞典』参照。)

(5-1)「切(きれ)」・・動詞「きれる(切)」の連用形の名詞化。布帛(ふはく)の切れ端。また、広く反物(たんもの)、織物をもいう。

(5-34)「重吉が右の手」・・「重吉が」の「が」は連体格の格助詞。「~の」。ここでは、「重吉の右の手」。

(5-7)「沙汰(さた)」・・報知。報告。通知。消息。たより。また、吹聴すること。「沙」はすな、「汰」はえらび分けるの意で、語源説に「沙(すな)を水で淘(ゆ)り、沙金をえりわける意が転じたもの」がある。

(5-8)「地走(ちそう)」・・馳走。「地」は「馳」の当て字。「馳走」は、(用意のためにかけまわる意から)心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

(5-11)「入(いる)れば」・・入れれば。下2動詞「入(い)る」の已然形「入(いる)れ」+接続助詞「ば」。

『ふなをさ日記』9月学習の注(1)

            
(90-1)「シツハン」・・ジャパン。マルコ=ポーロ著「東方見聞録」中で日本にあてられた地名「ジパング」から。中国の東1500海里の島で、黄金宝石に富むとされる。ジャパン(Japan )をはじめとして欧米で日本をさす語はこの語に由来する。 

(90-2)「シヤコ」・・異本は、「ミヤコ」に作る。

(90-23)「キウシウ」・・九州か。西海道のこと。筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅の九か国に分けたことによる。

(90-3)「ヱト」・・江戸か。

(90-3)「スルガ」・・駿河か。東海道一五か国の一つ。大化改新のときに成立。天武天皇9年(680)伊豆国を分離。古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設定された。南北朝時代以降は今川氏の領国となり、一時、武田氏に支配された。天正10年(1582)徳川家康が領有。明治4年(1871)の廃藩置県により静岡県に編入。駿州。

(90-3~4)「日本の人にて、何国(いづく)の人にやとたづぬるならんと思ひて」・・(イギリス船の乗組員が、重吉らに)「日本の中のどこの地方の人か」と尋ねるだろうと思って。

(90-5)「遠江(とおとうみ)」・・(都に近いうみ、近つ淡海=ちかつおうみ。琵琶湖=に対し、都に遠いうみ、遠つ淡海=とおつおうみ。浜名湖=のある国の意)東海道一五か国の一つ。大化改新(645年)後、素賀(すが)・久努(くぬ)などの諸国が統合して成立。鎌倉幕府は国守に御家人を任じ、南北朝時代に今川氏・斯波氏が守護となる。のち、今川氏が領有。桶狭間の戦いで今川氏が滅びた後は徳川家康が支配し、江戸時代には浜松・掛川・横須賀・相良の諸藩に分かれた。明治4年(1871)の廃藩置県により堀江県となり、浜松県を経て、同九年静岡県に合併された。遠州。

(90-6)<見せ消ち>「両」を「南」と訂正・・「両」の左にある「ニ」は、見せ消ち記号。

(90-6)「手品」・・手の様子。手のぐあい。手つき。手さばき。手ぶり。

(90-7)「気色(きしょく・きそく・けしき・けしょく)」・・顔面にあらわれた表情。顔色。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「気色」の語誌には、

 <(1)「気色」は、呉音「けしき」と、漢音「きしょく」及びその直音化の「きそく」の三とおりの読みがなされる。「きそく」は平安末期以降用いられ、さらにやや遅れて「きしょく」が中世以降盛んに使用されたが、「きしょく」の多用に伴い、「きそく」は徐々に用いられなくなっていった。

(2)中世以降、〔二〕の用法で「けしき」と「きしょく」(「きそく」は「きしょく」よりさらに意味が限定される)が併用されるが、「けしき」は中古の仮名文学に多用されたため、和語のように意識され、外面から観察される心の様子について用いられる傾向があるのに対し、「きしょく」は漢語的な性質をもち、人の内面の状態そのものを表わすことが多いというおおよその違いがある。>

 とある。

(90-8)「まします」・・異本は「おはします」に作る。ここは、「おまします」の「お」が脱か。「おまします」は、「おおまします」の変化したもの。あるいは、「おわします」の「わ(は)」が「ま」に変化したものか。「ある」「いる」の尊敬語。いらっしゃる。おわします。

(90-10)「仕たれば」・・したれば。「仕」は変体仮名にない。ひらがなの「し」に当てたか。

(90-11)「ランダン」・・ロンドンか。本書は、次に、「オランタ(オランダ)といふ事成べし」とあるが、後に、「ロンドン」としている。(『ふなをさ日記―地』のP8)

(91-2)「紅毛(こうもう・オランダ)」・・明代中国人がオランダ人を指して呼んだ紅毛番・紅毛夷の略称。彼らの毛髪・鬚が赤いところから由来する。イギリス人を呼称する語にも用いられたことがある。日本でもこれが援用され、ポルトガル・イスパニヤを南蛮と呼称したのに対し、主として紅毛は阿蘭陀・和蘭・荷蘭などとともにオランダを指す語として併用した。イギリスをも呼んだがこれはきわめて少ない。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には、

<漢字で「紅毛」と書いてオランダとよませる場合もあり、振り仮名のない場合はどちらとも決めかねることが少なくない。>

とある。

(91-4)「なめり」・・断定の助動詞「なり」の終止形(一説に連体形)が推定の助動詞「めり」を伴うとき音便化して「なんめり」となり、その撥音「ん」が表記されなかったもの。主として外観から判断、推定する意を表わす。…であると見える。…であるらしい。

(91-6)「心悦(よろこ)べ」・・「心悦」は、名詞で「心からよろこぶこと」。ここは、動詞扱いになっているから、「心悦べ」を、「こころよろこ(べ)」と読むと、違和感があり、単に、当て字として、「よろこ(べ)」と、訓じるほうが妥当か。なお、異本は、「喜べ」に作る。

 

『蝦夷日記』2013.9月注


(168-1)<図書館所蔵印>「北海道帝国大学圖書之印」

<北海道大学の略史>

・明治5(1872).4.15・・開拓使仮学校開校(芝・増上寺)

・明治8(1875).7.29・・開拓使、仮学校を札幌に移転、「札幌学校」と改称。97日開校式。

・明治9(1876).8.14・・「札幌農学校」の開校式。(札幌学校からの改称は9月)

・明治40(1907).6.22・・札幌農学校を東北帝国大学農科大学とする。

・大正7(1918).4.1・・北海道帝国大学となる。

・昭和22(197).10.1・・北海道大学と名称変更。

<北海道大学附属図書館の略史>

・明治9(1876).9・・札幌農学校講堂に「書籍室」設置(蔵書6,149冊)

・明治40(1907).6・・「東北帝国大学農科大学図書館」と改称。

・大正7(1918).3・・「北海道帝国大学図書館」と改称。

・大正7(1918).11・・「北海道帝国大学附属図書館」と改称。

・昭和6(1931).12.9・・『蝦夷日記』を巌松堂書店(東京神田・現巌松堂出版)から購入。

・昭和22(197).10・・「北海道大学附属図書館」と改称。

・平成24(2012)331日現在の蔵書・・3788009

(168-2)「アツベツ」・・東蝦夷地サル場所のうち。日高地方西部、厚別川下流右岸の地域。現沙流郡日高町厚賀町。「厚賀」は、明治42(1909)までは、沙流郡厚別村であったが、同年門別村の大字になった。「厚賀」の地名は、厚別と賀張(かばり)の頭文字を取り、明治4年(1871)当地に移住した旧彦根彦根藩士によって名づけられたという。(『門別町史』)

(168-3)「アツベツ川」・・日高管内の西部を流れる川。地元では「あっぺつ」ともいう。中流以降は日高町門別と新冠町との境界をなしながら南西流して太平洋に注ぐ。二級河川。流路延長は42.8キロ、流域面積290.7平方キロ。日高山脈のリビラ山(1291メートル)の西麓に源を発し、初めは日高山系の壮年谷を深く刻みながら西方に向かい、門別町の三和(みわ)地区で流れを南西方から南東方に変える。同町正和(しようわ)集落でピウ岳(1134メートル)西面を水源として門別・新冠の町境を流下してきた里平(りびら)川と合流して南流に転じ、両町の境界に沿って流れ、左岸に新冠町域を流れてきた比宇(ひう)川・元神部(もとかんべ)川などを合せ、元神部川合流地点付近から南西流に戻り、日高町厚賀市街と新冠町大狩部(おおかりべ)との間で海に入る。近代以降は上流奥地の木材伐出しが盛んであった。

 『蝦夷地場所大概書』によれば、当川は「佐留」と「新勝府」の場所境であり、「川守夷人は新勝府より出し、渡船は佐留より」出していた。しかし後には双方から隔年で渡守を出すようになり、『場所境調書』」はその経緯について「往古はアツヘツの西岸を以てなし、其川東にはニイカッフ土人等多く住居いたしたるに、ニイカッフ計にして此川を渡すことを怒り、渡し守はニイカッフより差出候間、船丈をサルにて作り呉候様相談相調ひ、左様に致し居候処、其内此川筋には鹿が多く居る事を知、モンヘツの上より土人等多く山越致しては来り、此上に住し、終に此処の住人となり、当時両所入合に相成候。川も今にては一ケ年交代に渡し守を相勤るよし也」と述べる。

(168-4)「山田や文右衛門」・・山田文右衛門。江戸時代から明治時代前期にかけて、北海道で活躍した事業家の代々の通称。古く松前に移り住んだ旧家と伝えられているが確かなことはわかっていない。明らかなのは文化4年(1807)当時栖原角兵衛が松前藩より請け負っていた留萌場所の支配人として増毛より滝川に通ずる山道を切り開いたのが十五代文右衛門で、能登国羽咋郡志賀町の出身。以前蝦夷通辞だったという。当時樺太・宗谷を舞台として活躍していた同郷阿部屋の下で働いていたらしい。文政4年(1821)太平洋岸勇払場所、翌年隣の沙流場所を、天保3年(1832)にはさらに厚岸場所を併せ請け負い、場所内のアイヌを手不足の場所に出稼させ、新しい漁法を入れて収獲を増加し、また勇払―千歳間に陸路を開き、牛車をもって石狩の鮭を勇払に送るなどの工夫をこらして産をなした。甥の十六代文右衛門は、安政2年(1855)幕府の蝦夷地再直轄に際し、支店を箱館に設けてこれに協力し、同4(1857)箱館奉行より樺太開拓の命を受け、東海岸栄浜近傍に漁場を拓き、元治元年(1864)無事引き上げるまで続けた。有名なのは、開国により昆布が輸出品として有望化したのに着眼、投石による昆布礁の造成によって増産し得ることを実験し、率先して沙流場所に集中的に投石して範を示し、奥地に昆布漁を拡げるための刺戟として役立った。開拓使はこれを高く評価し、明治14年(1881)明治天皇行幸の際には賞状を賜わり、養殖漁業の先駆としてその名を知られた。同16(1883)912日没。墓は石狩郡石狩町の能量寺にある。

(168-6)「フクモミ」・・漢字表記地名「福籾」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高町厚賀市街の西を流れる玉水川流域の地名。

(168-7)「ケノマイ」・・漢字表記地名「慶能舞」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現沙流郡日高町清畑の慶能舞川河口付近。

(168-7)「チヤラセナヰ」・・現沙流郡日高町清畑と同豊郷の間。松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「小休所一棟、此辺砂路至てよろし。出稼小屋海岸に多し」とある。

(169-1)「ハヰ」・・漢字表記地名「波恵」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高町豊郷。波恵川河口付近。

(169-1)「此間小川はし有」・・「小川」は、波恵(はえ)川。現沙流郡日高町豊郷集落の西側。

(169-4)「サル」・・「サル」は、漢字表記地名「沙流」「沙留」「佐瑠」などのもとになったアイヌ語に由来する地名。本来は「サル」(現沙流川)流域をさし、場所名としても用いられた。当初運上屋(のち会所)はサルベツ河口のサルフトに置かれていたが、一八世紀半ば頃東方のモンベツに移されたが、運上屋(会所)の名前は、そのまま、「サル」と呼ばれたため、地名は、「モンベツ」であるが、「サル」または「サルモンベツ」とよぶ場合もあった。

(169-4)「会所」・・サル場所の運上屋は当初沙流川の河口(サルフト)にあったが、のちにモンベツ(サルモンベツ、現門別町本町)に移った。会所(運上屋)のモンベツ移転時期については、1790年代には運上屋がすでにサルモンベツに移っていたことが確認できる。

(169-78)「此所山の出先也」・・現門別漁港付近をいうか。

(169-8)「馬切(まきり)」・・マキリ。アイヌ語から。小さい刀。

(169-89)「稲荷大明神」・・現門別稲荷神社。

(169-9)「義経大明神」・・寛政11(1799)幕吏近藤重蔵らがモンベツ(門別)とビラトリ(平取)とに寄進した源義経神像を安置するためにモンベツ会所が両所に社祠を造営したことをもって創建とされるが異説も少なくない。義経社はビラトリのほかシノタイ(現日高町門別)にも祀られていた。義経の神像はモンベツの会所近くに祀られる弁天社に合祀されており、神像がヒラトリからモンベツへ移されていたことが知られる。本文書の「義経大明神」は、モンベツ・シノタイにあった。

(169-910)「三社壱つの宮」・・『協和私役』には、「公の祠は会所の後の岡にあり。二祠あり。前は弁天、稲荷、公を配して是を祭る。公の木造一尺余なるを安置す」「後に一祠あり。義経社と云。扁額を掛く。公の像本は此祠に祭るなるべし。人の来り拝せんが為に移して前祠に在らしむ」とある。本文書の「三社」は、サルモンベツの弁天社、稲荷社、義経社をさすか。「壱つの宮」の文意は、義経社は、その1つの社の意か。

(169-10)「ビウトリ」・・平取。漢字表記地名「平取」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

(170-2)「奉安鎮(安鎮奉る)」・・「安鎮(あんちん)」は、神仏などを安置して、鎮めること。

(170-3)「モンベツ川」・・日高門別川。沙流郡日高町の中西部に位置する標高337メートルに源を発し、多数の支流と合流しながら門別の中心部を貫流して門別本町市街地で太平洋に注ぐ。流域目mm席99.8平方キロ、流路延長31.1キロの2級河川。

(169-10)「ビウトリ」・・ビラトリ。漢字表記地名「平取」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

(170-5)「サルブト」・・漢字表記地名「佐瑠太」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入って佐瑠太(さるふと)村に包含された。現日高町富川。

(170-8)「フイバブ」・・現日高町富川西の太平洋岸。むかわ町との境界付近。現在、フィハップ海浜公園となっている。平成元年(1989)から5(1993)まで、潮干狩り客のため、JR日高本線の「フィハップ臨時駅」が解説された。

(170-10)「ム川」・・漢字表記地名「鵡川」のもとになったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、流域の総称・場所名として用いられ、また河口部のコタン名としても記録されている。

(170-10)「広サ七十間余の大川」・・「大川」は、鵡川。日高山脈北部、上川管内占冠(しむかつぷ)村と同南富良野町の境にそびえる狩振(かりふり)岳(1323.4メートル)の西麓に源を発し、上川管内の南端部から胆振管内東端部にかけて南西に向かって流れる一級河川。流路延長は135五キロで、流域面積は1270平方キロ。上流域に占冠村役場がある小盆地があり、パンケシュル川・双珠別(そうしゆべつ)川を合流後、蛇紋岩の岩脈をうがち、占冠村の赤岩青巌(あかいわせいがん)峡を下る。中流域では胆振かんないのむかわ町穂別市街で夕張山地から南流する穂別川と合流し、沖積低地を曲流して同支庁の鵡川町で太平洋に注ぐ。

 *ところで、「ムカワ」の地名の由来は、アイヌ語の「ムカ」(水が湧くの意)による説がある。また、「ムックアッ」から訛って「ムカワ」になったという。でれば、「鵡川」は、「ムカワ川」あるいは「鵡川川」であるべきと思う。

(171-1)「ムカワブチ」・・ムカワフト。鵡川河口付近。はじめ、鵡川上流部を上ムカワ、下流部を下ムカワと称し、流域全体をムカワと称するとともに、下ムカワの中心地・鵡川河口部をもムカワと呼称した。この狭義のムカワが幕末にムカワフトと称するようになった。明治初年から同6(1873)まで勇払郡のうち、「鵡川フト村」と称し、明治6(1873)「鵡川村」となった。

(171-3)「イルシカベツ」・・漢字表記地名「入鹿別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現勇払郡むかわ町田浦。

(171-5)「アヅマ」・・漢字表記地名「厚真」のもとになったアイヌ語に由来する地名。地一帯は近代に入り厚真村に包含された。現在の自治体名「厚真」は、「アツマ」と清音で読む。

(171-6)「アヅマ川」・・勇払原野の東側を流れる二級河川。厚真町の苫小牧港東港東外防波堤の東側で太平洋に注ぐ。流路延長は52.3キロ、流域面積は382.9キロ。厚真町と夕張市境の夕張山地南部に源を発し、新第三紀層の褶曲作用による台地を横切り、ショウシウシ川・メルクンナイ沢を合せて厚真ダムを造る。さらにショロマ川・鬼岸辺(おにきしべ)川・頗美宇(はびう)川を合流してしだいに流域を広げ、厚真市街付近で北から近悦府(ちかえつぷ)川、東からウクル川などが流入、各河川とも隆起扇状地からなる広い沖積地をつくり、胆振東部の穀倉地帯を形成する。下流部は勇払原野東部の泥炭低湿地で、牧場が点在する。河口右岸の苫東厚真(とまとうあつま)火力発電所では四基の発電機が稼働し、平成一四年(二〇〇二)七月現在165万キロワットの道内最大の出力を誇る。

(171-8)「ユウブツ」・・漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧市勇払。「ユウフツ場所」は、寛政11(1799)幕府が東蝦夷地を直轄地とした際、シコツ十六場所をまとめてユウフツ場所とした。

(172-3)「巾三十間余の川」・・勇払川。苫小牧市の北部から東部を流れる二級河川。安平川の支流で、流路延長三七・八キロ、流域面積二一九・四平方キロ。支笏火山群のモラップ山(五〇六・六メートル)東麓の字丸山の奥地に源を発し、市域の北部を横断し、字沼ノ端北部でウトナイ湖から流出して南部に向かう美々川を合流して勇払原野を南流、河口付近で安平川に合流して太平洋に注ぐ。

(172-34)「此所より西蝦夷地●イシカリ川へ山越道なり」・・西蝦夷地(イシカリ場所)と東蝦夷地(ユウフツ場所)の境界は、島松川。

(172-5)「マコマイ」・・漢字表記地名「真小牧」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧西港付近。昭和10年代まで苫小牧川は海岸線に沿って東流し、苫小牧西港の港口付近から太平洋に注いでいた。

(172-8)「トマコマイ」・・漢字表記地名「苫小牧」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り苫小牧村に包含された。松浦武四郎の『山川地理取調図』では「マコマイ」と「ホンコイトイ」「コイトイ」の間に記載されている。なお苫小牧村は、勇払郡に属し、はじめ「苫細村」とかき、明治8年(1875)太政官布告で「苫小牧村」に修正された。

(172-10)「コヱトイ」・・漢字表記地名「小糸魚」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧西部の小糸魚川河口付近。P173にも「コヱトイ」がある。ここは、松浦図の「ホンコヱトイ」をさすか。

(173-4)「タルマイ」・・支笏湖南岸にある風不死(ふつぷし)岳の東に接する活火山。苫小牧市・千歳市・白老郡白老町にまたがる。扁平な円錐型火山で、東方と南方に長い裾野をもつ。頂上部は直径約1.2キロのなだらかな外輪山の内側にあり、浅い火口原の中央に直径約400メートル、比高約130メートルの溶岩円頂丘がある。明治42年(1909)半固結の輝石安山岩質溶岩が古溶岩円頂丘を破壊して出現したもので、世界でもまれな三重式火山。溶岩円頂丘は昭和42年(1967)に道の天然記念物に指定。外輪山の最高点は東山で1023.1メートル、溶岩円頂丘の標高は1041メートルで、樽前山の最高点をなす。風不死岳および支笏湖北西岸に接する恵庭岳とともに、支笏湖を湛えた支笏火山カルデラの寄生火山で、完新世初頭に火山活動を開始した。以後、昭和5354年の小噴火まで、寛文7年(1667)以降のみでも数十回の噴火を繰返す。

(173-6)「ニシタル」・・ニシタップ。漢字表記地名「錦多峰(にしたっぷ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧市錦岡付近。

(173-8)「ヲボフ」・・漢字表記地名「覚生」のもとになったアイヌ語に由来する地名。苫小牧市西部の覚生川河口付近。現苫小牧市錦岡付近。

(173-10)「南部」・・陸奥の豪族南部氏の旧領地で、現在の青森県東半分から岩手県中部にわたる地域の称。

 蝦夷地には、古くから、南部地方から、出稼ぎに来る人々がいた。

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