森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2013年10月

『蝦夷日記』2013.11注(2) 

(183-9)「千代田村」・・現北斗市千代田。近世から明治33年(1900)まで存続した村。大野川の下流域左岸に位置し、北は大野村。近世は東在大野村の枝村。稲荷神社の勧請が寛政6年(1794)であることから、この頃に人々が定住し始めたと考えられる。明治33(1900)大野村の一部となる。

(183-9)「いなりさま」・・千代田稲荷神社。寛政6年(1794)勧請と伝えられている。

(183-9)「有川村」・・近世から明治12年(1879)まで存続した村。久根別川・大野川・戸切地(へきりち)川などの河口付近にある。近世は東在箱館付村々のうち。

(184-1)「七重濱村」・・久根別川河口左岸、常盤川河口右岸に位置する。

(184-3)「箱館町」・・近世から明治2年(1769)までの村(町)。亀田半島の基部から津軽海峡に突き出た函館半島の陸繋部を占め、同半島の南西端の函館山に抱かれる箱館湊を中核として発達した。一八世紀半ば頃には湊を取囲むように町場が形成され、町役所(のち町会所)が置かれて、町年寄・名主・町代が町役人として町政を取扱った。近世の箱館村は東在の村で、古くは宇須岸(ウスケシ)といった。

(184-3)「八幡宮」・・現函館八幡宮。『函館市史』によると、 

<文安21445)年、河野政通が宇須岸館の東南隅に鎮護の神としてまつり、アイヌ騒乱で一時赤川に移ったといわれているが、河野政通の渡来年代とは相違している。『蝦夷実地検考録』には慶安年間、巫子伊知女創祀、正徳51715)年神職菊池惣太夫の時再営したとあり、更に『福山秘府』には「造立相知れず」と記されている。いずれにしても江戸前期には河野館の跡にまつられており、宝永51708)年には造り替えられたと伝えられている。>とあり、さらに、

<箱館奉行所の設置にあたり、文化元(1804)年9月、会所町(現函館市元町)に遷宮された。ときに官では造営資金100両を贈るとともに、以後年々米20俵を支給することにした。また羽太、戸川の両奉行は弓矢、甲胃、額などを奉納した。更に文化8(1811)建物を補修し、境内も広くした。また、奉行所の祈願所なので、正月神楽と8月祭礼には、葵紋の高張提灯や幕が貸し与えられ、幣帛(へいはく)、神饌(しんせん)が献じられた。>とある。

また、近代の函館八幡宮についても、

<開拓使の崇敬社に任じられた函館八幡宮は、明治10(1878)に国幣小社に列せられたが、同11年と12年には2度も火災に遭い、そのため13年には会所町から現在地(現函館市谷地頭)に遷座しなければならなかった。>とある。

(184-3)「菊地大内蔵」・・箱館八幡宮7代目宮司。菊地大蔵(おおくら)。函館八幡宮の宮司は、明治10(1878)まで、代々菊地家が勤めた。「大内蔵」の読みは、「おおくら」。(別掲『神社大鏡』より箱館八幡宮縁起参照)

 *内蔵寮(くらりょう・くらのつかさ)・・

①令制で、中務省に属し、金銀・珠玉・宝器を管理し、供進の御服、祭祀の奉幣などをつかさどった役所。職員に、頭、助、允、大少属、大少主鎰、蔵部、価長、典履、百済手部などがあり、後に史生、寮掌、内蔵寮別当そのほかが加え置かれた。うちのくらのつかさ。くらづかさ。

 ②旧制度の宮内省の一寮。明治17年(1774)設置。皇室事務のうち財務、主計、用度に関する事務を分掌した。職員に頭、主事が置かれた。昭和23年(1948)廃止。

(184-3)「御本陳、八幡宮神主菊地大内蔵 御旅宿」・・『村垣淡路守公務日記』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会刊)には、「八時、箱館会所町八幡宮神主菊地大内蔵宅旅宿へ安着」とある。神主の自宅が本陳になったと思われる。また、「宿、立派也。十五畳、次十畳、手広し」ともある。

(184-4)「閏七月廿九日、此所迄御着に相成り」・・この日に箱館に着いているのは、村垣範正。したがって、本書の著者は、村垣の従者であることが伺われる。なお、嘉永7(1854)7月は、小の月で、29日まで。

(184-5)「其内に、蝦夷地行諸役人中様、御揃に相成」・・堀利熙の箱館着は、村垣より20日遅れて8月20日のこと。

(184-6)「照明寺」・・称名寺か。称名寺について、『函館市史』は、 

<正保元(1644)年、伊勢の僧円龍が来て亀田に建て阿弥陀庵といった。これを明暦元年(1655)に五念山阿弥陀堂と改称し、更に元禄31690)年に護念山摂取院称名寺と公称した。松前光善寺の末寺で、『福山秘府』(寺院本末部)には元禄3年箱館(いまの弥生小学校西側)に移したとあるが、寺伝によると宝永51708)年611日移転となっており、宝永元年の僧空念の納経記録には、その時まだ亀田にあったことを記録しているから、寺伝の方が正しいと思われる。>とある。

境内の墓地には、高田屋一族の墓や日本最初の気象観測所を開設した福士成豊などの墓がある。

(184-9)「箱館山」・・函館市街の南西部、津軽海峡に突き出た函館半島の南西端にある山。標高333.8メートル。臥牛(がぎゆう)山ともいう。亀田川や沿岸流が運んだ土砂が堆積してできた砂洲によって亀田半島と結ばれ、陸繋島となった。現在、主峰を御殿山とよび、その北東の峰を薬師山(252メートル)、北西の峰を観音山(265メートル)とよぶ(ほかに地蔵山・汐見山・入江山・八幡山などの諸峰がある)。近世にはこれら山塊を総称して箱館山、または薬師山とよんだ。

(185-12)「山の内、西国三十三所の観世音」・・文政―天保年中(18181844)に、箱館町民の蛯子長兵衛が山中に三三体の観音石像を安置し、称名寺を結願寺とする三十三所観音を開いた。

(185-5)「地蔵町(じぞうまち)」・・現函館市末広町・豊川町。江戸時代、弁天町・大(おお)町・内澗(うちま)町と続く箱館町の表通りに沿う町で、内澗町の東に位置する。古く北方は海に面していたが、地先の海岸は前期幕府領期から順次埋め立てられていった。内澗町寄りから16丁目に分れ、内澗町から南東に向かって当町に入った表通りは、当町23丁目あたりで緩やかに弧を描いて向きを北東方に変えて進み、6丁目の北東端部には亀田村との境界となる枡形が設けられていた。五丁目の山手側にあった地蔵堂(元文元年建立、寛政七年再建、弁天町高龍寺持、明治二九年現函館市住吉町に移転)が町名の由来という。

(185-5)「内脇町」・・内澗町(うちまちょう)。「脇」は「澗」の誤りか。内澗町は、現函館市末広町付近。箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町・大町・内澗町・地蔵町と続いて北西―南東に走る、箱館町の表通りにあたる通りに沿って町屋が形成される。近世に北東方が海に面し、地先海岸は箱館湊の良好な係船地の一つであったが、近世末期から明治初年にかけて海岸は埋め立てられ、東浜町などが成立した。弁天町・大町などとともに箱館で最も早くに開かれた町の一つ。

(185-5)「大町(おおまち)」・・現函館市大町。函館山の北東面に開けた箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町屋は弁天町・大町・内澗町と続く通りの両側に立並び、北西―南東に走るこの通りが箱館町の表通りにあたった。北東ははじめ箱館湊に面していたが、近世末から明治初年にかけて当町や弁天町・内澗町などの地先は埋立てられた。

 明治2年(1869)の箱館大町家並絵図(市立函館図書館蔵)では、内澗町境の御役所(おやくしよ)坂(現基坂)から北西へ14丁目があり、1丁目の中ほどの坂が白鳥(しらとり)坂、1丁目と2丁目の境の坂が浄玄寺坂(あるいは喜楽町坂)、2丁目と3丁目との間の坂が称名寺坂(あるいは七軒町坂)、3丁目と4丁目との間の坂が実行寺(じつぎようじ)坂(あるいは三丁目横丁)とよばれていた。御役所坂は両側が松並木で、同坂を下りたところが運上所、実行寺坂を下りたところが「沖ノ口役所」であった。町の入口(内澗町境)の湊側土手下には高札場があった。

(185-5)「弁天町(べんてんちょう)」・・北西―南東に走る箱館町の表通りに沿う町で、大町の北西に続く。大町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町北端の岬(弁天崎・弁天岬)には弁天社(現厳島神社)が祀られており、町名は同社に由来する。

(185-5)「中町(なかまち)」・・仲町とも。現函館市弁天町など。弁天町の通りの上手(山手)を並行して走る通りに沿った町で、上手は神明(しんめい)町、西は鰪間(たなごま)町。「箱館夜話草」によれば、「鰪間町と神明町との間にある」ことが町名の由来という。本町通の裏手にあたる当町と鰪間町・神明町を総称して三町(三丁)ともいった。

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古文書解読学習会のご案内

古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。 

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年11月11日(月)

13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター

大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3



◎現在の学習内容

①「ふなをさ(船長)日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています               

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『蝦夷日記』2013.11注(1)                      

(180-1)「御附(おつき)」・・「附(つき)」は、つき従うこと。また、その人。ここでは、従者。

 *<漢字の話>「付」と「附」

①「附」は「付」の正字ではなく、全く別の字。現在、両方とも、常用漢字になっている。

②部首に関しては、「付」は「人」部。(偏になったとき、「にんべん」)。「附」は、「阜」部(偏になったとき、「こざとへん」)

③元来の意味では、「付」は「あたえる」の意で、「付与」「交付」「付託」など。「附」は「つく」の意で、「附着」「附録」「附近」「附則」など。北大図書館が、「北海道大学附属図書館」と「附属」としているのは、正しい。

④「ふわ・らいどう」も「附和雷同」、「けんきょう・ふかい」も「牽強附会」と「附」。

⑤しかし、現在は、新聞をはじめ、いずれの場合も「付」で書かれることが多い。ただし、官庁・法律用語では「附属」「附則」などには、「附」を用いる。

(180-1)「供方(ともがた)」・・「供」の敬称。お供。

(180-1)「鷲の木村」・・現茅部郡森町鷲ノ木。「鷲の木」は、現在の行政字は、「鷲ノ木」で、「の」はカタカナの「ノ」。近世から明治35年(1902)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政12(1800)に「村並」となった(『休明光記附録』)。『天保郷帳』の「従松前東在」に「鷲ノ木」とみえ、持場として「尾白内・森・蛯谷古丹・本茅部・石倉」が記される。安政5年(1858)正式に村となった成立時は、西は茂無部(もなしべ)川を挟んで落部(おとしべ)村、東は鳥崎川を挟んで森村、北は海に面していた。明治元年(1868)1020日、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍の艦隊が北上して上陸した地としても知られる。明治2(1869)8月茅部郡鷲ノ木村となり、同35(1902)二級町村森村の一部となった。

 *箱館六箇場所・・箱館の後背地を箱館の人びとが運上金を納めて請け負い、産物は小船で箱館に出荷されて本州方面に販売していた。その村々は、木古内、鹿部、砂原、掛潤、鷲ノ木、茅部の六ヶ村。

 *榎本武揚と鷲ノ木・・本書は、嘉永7(1854)に幕吏の堀・村垣の蝦夷地・樺太巡見の際の従者の日記であるが、当時18歳の榎本は、堀の従者だったといわれている。(異説もある)。とすれば、旧幕軍の指揮官・榎本にとって、鷲ノ木上陸は2度目といえる。彼が旧幕軍の旗艦・開陽丸で、蝦夷地を目指した時、上陸地は、かつて上陸した経験のある鷲ノ木としたといわれている。なお、本書冒頭の「蝦夷地御渡海諸役人御名前」に榎本の名前はない。堀の従者の記載の最後に、「御徒士三人、右名前なし」とある「三人」のうちのひとりか。                                      

(180-3)「御本陳(ごほんじん)」・・松浦武四郎は『蝦夷日誌』に「則此処を東陣と号而諸役人の取扱所也」と記している。ここでは、一行の宿泊所くらいの意か。

 *<漢字の話>「陣」と「陳」・・普通、「ジンヤ」と言う場合、「陣屋」と、「陣」を 使う。影印は、「陳」。「陣」は、漢音で「ジン」、呉音で「チン」。一方、「陳」は、漢 音で「チン」、呉音で「ジン」だから、ややこしい。さらに、「陳」の俗字を「陣」と するから一層ややこしい。(『字通』、『新潮日本語漢字辞典』など)

(180-3)「海上十三り」・・本書一行は、室蘭(現室蘭市崎守町)から噴火湾を船で航行し、鷲ノ木に上陸している。「十三り」とあるが、実際は、約47キロで、12里ほど。

 *森~室蘭間の航路略史

 ・幕府の蝦夷地直轄時代から幕吏や諸藩士たちが頻繁に往来していた通路。

 ・明治4(1871)、開拓使は、ケプロンの提言を受け、札幌本道開削計画をたてる。  当初の計画では、航路は、室蘭(現室蘭市崎守町)と砂原間であったが、ワ-フィールドの実測の結果、室蘭は、絵鞆岬の東・トッカリモイ(現室蘭市海岸町と緑町の境界付近:室蘭港付近)、砂原は風波が激しくて不適当とされ、森に移された。

 ・札幌本道の工事は、明治5(1871)318日、亀田村一本木を起点として開始された。

 ・明治5(1871)4月、トッカリモイに木造桟橋が完成、全長266メートルの森の桟橋も完成した。同年6月、開拓使は、喜得丸、晴得丸を森―室蘭間の運送にあて、7月、開拓使附属船稲川丸(15トン)をもって、室蘭~森間の定期航路を開始。以後、弘明丸、辛未丸、石明丸などが就航。

 ・明治14(1881)95日、明治天皇は、北海道巡幸の際、室蘭から召艦・迅鯨(じんげい)で森桟橋に上陸。

 ・明治18(1885)9月、この航路は、日本郵船会社に経営を引き継ぎ、室蘭丸(52t)が運行。

 ・明治26(1893)10月、函館~室蘭間の定期航路が開始され、森~室蘭間の定期航路は廃止。

・明治41(1908)6月、楢崎平太郎、小汽船喜生丸で、室蘭・森間の定期航路開始。

・昭和3(1923)、長輪線(おさわせん)の鉄道(長万部〜輪西間)が開通したため、船舶の定期航路廃止。 

(180-9)「森村」・・茅部場所に含まれていたが、寛政12年(1800)に「村並」となり(火『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に鷲ノ木持場「森」と記される。安政5年(1858)鷲ノ木村から独立して森村となり、同年村並から正式に村となった。成立時は、西は鷲ノ木村、東は尾白内(おしろない)村、北は海に面していた。村名はアイヌ語のオニウシ(樹木の茂った所の意)呼ばれていたが、和人が住居するようになってから、意訳して「森」になったという。「オニウシ」の名は、道の駅「YOU・遊・もり」に併設されている「オニウシ公園」に残る。

(180-8)「掛り間村」・・掛澗(かかりま)村。はじめ箱館六箇場所の一つ茅部場所のうち。のち砂原場所のうち。明治2(1869)茅部郡に所属。明治39(1906)砂原村の大字になる。

(180-8)「大平村」・・尾白内村。「ヲシラナイ」「ヲシラナヘ」ともい、漢字も「大白内」、「大平内」とも書かれた。「尾白内村」は、箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政12年(1800)に「村並」となり(『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に「鷲ノ木持場尾白内」と記される。安政5年(1858)鷲ノ木村から独立して尾白内村となり、同年村並から正式に村となった。

(180-8)「砂原村(さわらむら)」・・近世から明治39年(1906)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所の中心であったが、寛政12年(1800)に「村並」となり(『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に「砂原」とみえ、持場として掛澗(かかりま)が記される。安政5年(1858)正式に村となった。遡って、寛政11(1799)東蝦夷地は幕府直轄となり、砂原は盛岡藩兵が警衛することに決まる。文化4年(18074月ロシア船がエトロフを襲ったため、砂原には100人の兵が配置された。砂原村は明治2(1869)茅部郡に所属。平成17(2005)森町と合併し、森町の行政字になる。なお、合併前には、砂原中心地には、「会所町」という字があった。明治二年(1869)8月茅部郡森村となる。

(180-78)「山の出岬砂岬」・・「砂岬」は、「砂崎」か。現森町砂原市街地の東に突き出た「砂崎(すなざき)」を指すか。

(180-7)「駒ヶ嶽」・・北海道南西部、内浦湾南方のコニーデ式火山。標高1131メートル。寛永17年(1640)以降たびたび噴火、昭和4年(1929)にも大爆発があった。渡島富士。渡島駒ヶ岳。

(180-10)「せしの村」・・不詳。『蝦夷紀行』は、本書の「夫よりせしの村なり」の記述はない。

(181-3)「御用人(ごようにん)」・・江戸時代においては、幕府のみならず大名・旗本の家で、財務や内外の雑事をつかさどった役人をいう。したがって、家臣のなかで有能な者をこれに任じられた。

(181-3)「中小姓(ちゅうごしょう)」・・江戸時代の諸藩の職名の一つ。小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分で、主君に近侍して雑務をつとめる小姓組に対し、主君外出の際供奉し、また祝日に配膳・酌役などつとめたもの。

(181-4)「少々道□□」・・『蝦夷日記』は、「少々道」のあとに「帰り候而」があり、「少々道帰候而」に作る。

(181-5)「鳥崎村(とりざきむら)」・・現茅部郡森町鳥崎町。鳥崎川河口部西岸にあたる。明治2年(1869)八月渡島国茅部郡鷲ノ木村に属した。『角川日本地名大辞典』(角川書店)には、菅江真澄の『えぞのてぶり』を引用し、<「鳥井が崎とてアヰノの家ありて・・森の中に八船豊受姫(やふねとようけひめ)の祠あれば、鶏居(とりい)あまた立かさねて、是を崎の名におへり」あるように、「鳥居のある先」の意味と思われる>と記している。

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