(183-9)「千代田村」・・現北斗市千代田。近世から明治33年(1900)まで存続した村。大野川の下流域左岸に位置し、北は大野村。近世は東在大野村の枝村。稲荷神社の勧請が寛政6年(1794)であることから、この頃に人々が定住し始めたと考えられる。明治33年(1900)大野村の一部となる。
(183-9)「いなりさま」・・千代田稲荷神社。寛政6年(1794)勧請と伝えられている。
(183-9)「有川村」・・近世から明治12年(1879)まで存続した村。久根別川・大野川・戸切地(へきりち)川などの河口付近にある。近世は東在箱館付村々のうち。
(184-1)「七重濱村」・・久根別川河口左岸、常盤川河口右岸に位置する。
(184-3)「箱館町」・・近世から明治2年(1769)までの村(町)。亀田半島の基部から津軽海峡に突き出た函館半島の陸繋部を占め、同半島の南西端の函館山に抱かれる箱館湊を中核として発達した。一八世紀半ば頃には湊を取囲むように町場が形成され、町役所(のち町会所)が置かれて、町年寄・名主・町代が町役人として町政を取扱った。近世の箱館村は東在の村で、古くは宇須岸(ウスケシ)といった。
(184-3)「八幡宮」・・現函館八幡宮。『函館市史』によると、
<文安2(1445)年、河野政通が宇須岸館の東南隅に鎮護の神としてまつり、アイヌ騒乱で一時赤川に移ったといわれているが、河野政通の渡来年代とは相違している。『蝦夷実地検考録』には慶安年間、巫子伊知女創祀、正徳5(1715)年神職菊池惣太夫の時再営したとあり、更に『福山秘府』には「造立相知れず」と記されている。いずれにしても江戸前期には河野館の跡にまつられており、宝永5(1708)年には造り替えられたと伝えられている。>とあり、さらに、
<箱館奉行所の設置にあたり、文化元(1804)年9月、会所町(現函館市元町)に遷宮された。ときに官では造営資金100両を贈るとともに、以後年々米20俵を支給することにした。また羽太、戸川の両奉行は弓矢、甲胃、額などを奉納した。更に文化8年(1811)建物を補修し、境内も広くした。また、奉行所の祈願所なので、正月神楽と8月祭礼には、葵紋の高張提灯や幕が貸し与えられ、幣帛(へいはく)、神饌(しんせん)が献じられた。>とある。
また、近代の函館八幡宮についても、
<開拓使の崇敬社に任じられた函館八幡宮は、明治10年(1878)に国幣小社に列せられたが、同11年と12年には2度も火災に遭い、そのため13年には会所町から現在地(現函館市谷地頭)に遷座しなければならなかった。>とある。
(184-3)「菊地大内蔵」・・箱館八幡宮7代目宮司。菊地大蔵(おおくら)。函館八幡宮の宮司は、明治10年(1878)まで、代々菊地家が勤めた。「大内蔵」の読みは、「おおくら」。(別掲『神社大鏡』より箱館八幡宮縁起参照)
*内蔵寮(くらりょう・くらのつかさ)・・
①令制で、中務省に属し、金銀・珠玉・宝器を管理し、供進の御服、祭祀の奉幣などをつかさどった役所。職員に、頭、助、允、大少属、大少主鎰、蔵部、価長、典履、百済手部などがあり、後に史生、寮掌、内蔵寮別当そのほかが加え置かれた。うちのくらのつかさ。くらづかさ。
②旧制度の宮内省の一寮。明治17年(1774)設置。皇室事務のうち財務、主計、用度に関する事務を分掌した。職員に頭、主事が置かれた。昭和23年(1948)廃止。
(184-3)「御本陳、八幡宮神主菊地大内蔵 御旅宿」・・『村垣淡路守公務日記』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会刊)には、「八時、箱館会所町八幡宮神主菊地大内蔵宅旅宿へ安着」とある。神主の自宅が本陳になったと思われる。また、「宿、立派也。十五畳、次十畳、手広し」ともある。
(184-4)「閏七月廿九日、此所迄御着に相成り」・・この日に箱館に着いているのは、村垣範正。したがって、本書の著者は、村垣の従者であることが伺われる。なお、嘉永7年(1854)閏7月は、小の月で、29日まで。
(184-5)「其内に、蝦夷地行諸役人中様、御揃に相成」・・堀利熙の箱館着は、村垣より20日遅れて8月20日のこと。
(184-6)「照明寺」・・称名寺か。称名寺について、『函館市史』は、
<正保元(1644)年、伊勢の僧円龍が来て亀田に建て阿弥陀庵といった。これを明暦元年(1655)に五念山阿弥陀堂と改称し、更に元禄3(1690)年に護念山摂取院称名寺と公称した。松前光善寺の末寺で、『福山秘府』(寺院本末部)には元禄3年箱館(いまの弥生小学校西側)に移したとあるが、寺伝によると宝永5(1708)年6月11日移転となっており、宝永元年の僧空念の納経記録には、その時まだ亀田にあったことを記録しているから、寺伝の方が正しいと思われる。>とある。
境内の墓地には、高田屋一族の墓や日本最初の気象観測所を開設した福士成豊などの墓がある。
(184-9)「箱館山」・・函館市街の南西部、津軽海峡に突き出た函館半島の南西端にある山。標高333.8メートル。臥牛(がぎゆう)山ともいう。亀田川や沿岸流が運んだ土砂が堆積してできた砂洲によって亀田半島と結ばれ、陸繋島となった。現在、主峰を御殿山とよび、その北東の峰を薬師山(252メートル)、北西の峰を観音山(265メートル)とよぶ(ほかに地蔵山・汐見山・入江山・八幡山などの諸峰がある)。近世にはこれら山塊を総称して箱館山、または薬師山とよんだ。
(185-1~2)「山の内、西国三十三所の観世音」・・文政―天保年中(1818~1844)に、箱館町民の蛯子長兵衛が山中に三三体の観音石像を安置し、称名寺を結願寺とする三十三所観音を開いた。
(185-5)「地蔵町(じぞうまち)」・・現函館市末広町・豊川町。江戸時代、弁天町・大(おお)町・内澗(うちま)町と続く箱館町の表通りに沿う町で、内澗町の東に位置する。古く北方は海に面していたが、地先の海岸は前期幕府領期から順次埋め立てられていった。内澗町寄りから1~6丁目に分れ、内澗町から南東に向かって当町に入った表通りは、当町2~3丁目あたりで緩やかに弧を描いて向きを北東方に変えて進み、6丁目の北東端部には亀田村との境界となる枡形が設けられていた。五丁目の山手側にあった地蔵堂(元文元年建立、寛政七年再建、弁天町高龍寺持、明治二九年現函館市住吉町に移転)が町名の由来という。
(185-5)「内脇町」・・内澗町(うちまちょう)。「脇」は「澗」の誤りか。内澗町は、現函館市末広町付近。箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町・大町・内澗町・地蔵町と続いて北西―南東に走る、箱館町の表通りにあたる通りに沿って町屋が形成される。近世に北東方が海に面し、地先海岸は箱館湊の良好な係船地の一つであったが、近世末期から明治初年にかけて海岸は埋め立てられ、東浜町などが成立した。弁天町・大町などとともに箱館で最も早くに開かれた町の一つ。
(185-5)「大町(おおまち)」・・現函館市大町。函館山の北東面に開けた箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町屋は弁天町・大町・内澗町と続く通りの両側に立並び、北西―南東に走るこの通りが箱館町の表通りにあたった。北東ははじめ箱館湊に面していたが、近世末から明治初年にかけて当町や弁天町・内澗町などの地先は埋立てられた。
明治2年(1869)の箱館大町家並絵図(市立函館図書館蔵)では、内澗町境の御役所(おやくしよ)坂(現基坂)から北西へ1~4丁目があり、1丁目の中ほどの坂が白鳥(しらとり)坂、1丁目と2丁目の境の坂が浄玄寺坂(あるいは喜楽町坂)、2丁目と3丁目との間の坂が称名寺坂(あるいは七軒町坂)、3丁目と4丁目との間の坂が実行寺(じつぎようじ)坂(あるいは三丁目横丁)とよばれていた。御役所坂は両側が松並木で、同坂を下りたところが運上所、実行寺坂を下りたところが「沖ノ口役所」であった。町の入口(内澗町境)の湊側土手下には高札場があった。
(185-5)「弁天町(べんてんちょう)」・・北西―南東に走る箱館町の表通りに沿う町で、大町の北西に続く。大町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町北端の岬(弁天崎・弁天岬)には弁天社(現厳島神社)が祀られており、町名は同社に由来する。
(185-5)「中町(なかまち)」・・仲町とも。現函館市弁天町など。弁天町の通りの上手(山手)を並行して走る通りに沿った町で、上手は神明(しんめい)町、西は鰪間(たなごま)町。「箱館夜話草」によれば、「鰪間町と神明町との間にある」ことが町名の由来という。本町通の裏手にあたる当町と鰪間町・神明町を総称して三町(三丁)ともいった。