森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2013年11月

『蝦夷日記』12月注(2)

(190-3)「当寅年五月中、異国船大船四艘来り」・・「異国船」は、いわゆるペリー艦隊。「五月中」とあるが、実際は、4月15日にマセドニアン、バンダリア、サザンプトンの3艘、同21日にペリー乗船の旗艦ポーハタン(意味:インディアン首長の名)がとミシシッピーを率いてが入港している。「四艘」ではなく、5艘。

(190-4)「箱館も殊之外大さわぎ致」・・松前藩は、領民に対し、以後アメリカ船退帆時まで御用以外で箱館に往来することを禁止し、知内村及び上ノ国村-木古内村間の峠番所他で領民の往来を厳しくチェックすること、また蝦夷地各場所行の廻船は対象外とするが、城下及び在々の地廻船にあっては、陸路往来の場合と同様アメリカ船退帆時まで箱館への入港を禁止する旨厳達した。その後藩庁は、家中・寺社・領民に対しアメリカ船渡来の際の対応方法に関する触を相次いで出していったが、47日には特に箱館市中を対象にした18か条からなる触が町役所から出された。『箱館市史』にあるその部分を記す。

1)アメリカ船が箱館沖へ現れたとの合図があり次第、「町々在々之人足共」は早々役所及び各自の持場にかけつけること。

2)アメリカ船渡来の際、「浜表」へ出、あるいは屋根に登り見物することを禁止する。

3)アメリカ船滞留中は、「人夫相勤候者」以外は商用であっても、小船で乗りだすことは勿論、海辺へ出て徘徊することを厳禁する。

4)「当澗居合之船々大小共」、以来残らず沖の口役所より内澗の方へ繰入れ、船を繋ぎおくこと。異国船退帆まで出帆を禁止し、かつ異国船へ近付くことを禁止する。

5)アメリカ船滞船中は、どのようなことがあっても、アメリカ人に対し決して「手荒」なことをせず、何事も「穏に申なため」、さからわないようにとの幕命を守り、「町々婦人小児之分」は、大野・市ノ渡辺の村々に親類・身寄のある者は早急に引越すべき筈ではあるが、そうなれば多くの百姓が混乱し、大変困ることになるので、引越しの件を猶予してくれれば、「婦人共」は老若にかかわらず必ず取締るとの町年寄たちの申立も余儀なきこと故、それを許すので、この点をよく心得、「不束之義」なきよう厳しく申付けるべきこと。

6)山背泊近辺、築嶋・桝形外、亀田浜、七重浜等は、場末で人家も少なく、夜分密に上陸の程もはかりがたいので、これらの地の婦女子は老若とも全員、男子も1213才以下の者は、もよりの山の手辺へ早急に引越すこと。難渋の者には手当を与える。

7)箱館に来ている領民及び他国者は、調査の上、早々用事を済させて帰郷させ、遊民体の者は退去させること。

8)異国船滞留中、「牛飼之者共」箱館市中及び海岸近くの村へ牛で諸荷物の運送をしないこと、浜辺近くの野山での放し飼いは禁止。

9)異人たちが上陸した場合、馬士及び在々の者は途中より早々引返すこと。

10)「酒之義者異人共殊之外好物之由」、少しでも呑ませれば手荒なことをするので、一切目にかからぬよう「悉く蔵入」し、店先には置かないこと。売買は「蔵内」で行うこと。

11)呉服店・小間物店は商品を片付けること。もっとも、餅・菓子、草履・草鞋等は店先へ置いても良いが、彼等が望む物を与えなければ、不本意に思い、自然角立つようなことがあってはまずいので、食物に限らず差支えのない品を無心した場合は、これを与えてもよい。もし返礼品を差出しても、一応は差戻し、強いて差出す様子なれば、その品を預り置、早々町役所へ差出すこと。遣しがたい大切な品は、必ず隠し置くこと。

12)アメリカ船が入港の際、もし発砲しても騒立てず、静かにしていること。

13)海に面した住居は、いずれも戸障子に必ず締をつけ、立合障子には目張りをし、決して覗見等をしないこと。

14)火の元には特に念を入れ用心すべきこと。

15)年回仏事等に相当しても、異船滞留中は延期し、新喪の時は、葬具等を手軽にし、男子のみで夜分に物静かに墓所へ葬送すること、追善もこれに准じ穏便に営むこと。

16)異船滞留中は、観音・薬師・愛宕・七面等の山にある神仏への参詣を厳禁する。

17)音曲・所作は、異船滞留中厳禁。

18)異船滞留中、取とめのない風説は厳禁。
 以上のように、松前藩が住民の動向にいかに神経をとがらしていたのかを知ることができよう。米艦入港のほぼ1週間前のことであった。

 (190-56)「其節、折能、御公儀様、御役人衆様、三馬屋迄御出被成、風待御逗留中」・・蝦夷地巡検を命じられた目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正らは、松前に渡るため、三厩滞在中であった。

(190-67)「其内、御両三人計り、早船にて御、渡海被成」・・三厩滞在中の堀、村垣は、松前藩の訴えにより、428日、支配勘定安間純之進、徒目付平山謙二郎、吟味役下役吉見、御小人目付吉岡元平、通詞武田斐三郎を箱館に派遣した。

(190-5)<欠字>「折能(おりよく) 御公儀」・・「能」と「御」の間に空白があるが、尊敬を表す体裁で、「欠字」という。なお、改行することを「平出(へいしゅつ)」という。

(190-78)「直様(すぐさま)、箱館表に於て御懸合有之」・・安間らは、430日福山着、54日箱館着。

56日から旗艦ポーハタン号上で、安間・平山たとペリーが会談。

 この会談で、ペリーが主張した主な点は、

1)遊歩区域を、官舎を中心に7里四方とし、そのことを今日決定すること。

2)市中で婦女子の姿を見ないことはアメリカ人を「敵仇」とすることであり、また、市中では各家が門を閉じ、市民は我々に親しまないで多く走り去り、しかも役人が我々のあとを尾行することなどは、条約の精神に合わないことであり、こうしたことは、下田でも見なかったことである

などの2点であった。

安間・平山は、

1)の遊歩区域については、後日下田で協議すべきものであることを伝えるとともに、これはすこぶる重大なこと故、誤解が生じないようその返答の内容を武田斐三郎に命じてオランダ語に翻訳させ、オランダ語翻訳文をペリーに渡した。(2)については、横浜に於て森山栄之助を介して説明した如く、日本は長く鎖国を祖法としてきたために、日本人は未だ外国人になれていず、そのためにおきた現象であって、このことはペリー自身すでに横浜において経験ずみのはずである。箱館は江戸より遠く離れた地であってみればなおのことであり、アメリカ人を敵視しているために生じたことでは決してない、などと答えた。

(190-8)「早速引払、出帆いたし候」・・『箱館市史』は、「翌57日も応接所で両者の会談が予定されていたが、ペリーはこれ以上会談を続けたところで新たな回答を得る保証は何一つなく、箱館来航の所期の目的は充分果たされたことや、下田での応接掛との会談の期日が迫っていたこともあって、7日の会談を放棄し、翌58日、ポーハタン号・ミシシッピー号を率いて箱館を去った。その結果、箱館の遊歩区域をめぐる問題は、結局下田での日米交渉にもちこされることとなったのである。なお箱館来航のペリー艦隊のうち、サザンプトン号は、既に428日噴火湾調査に向い、マセドニアン号・ヴァンダリア号の2艘は、55日各々下田(前者)と上海(後者)へ向けて出帆していた」と記している。

(191-1)「数百人」・・箱館に来航したペリー艦隊の乗組員は、『箱館市史』によると、1183人になる。

(191-8)「箱館御奉行」・・第二次箱館奉行支配の属吏は、組頭、組頭勤方、調役、調役並、調役下役元締、調役下役、同心組頭、同心、足軽の順序で、ほかに通訳、在住、雇、雇医師があった。第一次時代と違うのは、ただ吟味役を組頭に改めたのと、安政64月調役下役が定役と改められた2点だけである。組頭は同勤方を合わせて大抵同時に34人を置き、箱館奉行を補佐したが、前時代の吟味役と同じく練達の士であった。調役および調役並は大抵10数名いて、箱館、江戸および蝦夷地の要所に在勤し、定役は数十名、同心もまた数十名あっていずれも各地に在勤していた。在住はしだいに増加して100余名となり、箱館近在および蝦夷地に居住して開墾その他に従い、あるいは奉行所の公務を兼掌した。雇は開拓その他必要によって特に雇入れた者で、これにも有為の士が多く、雇医師は10数名あり、箱館および蝦夷地に在勤していた。

(191-8)「竹内(たけのうち・たけうち)下野守」・・江戸末期の幕臣。通称清太郎。下野守。安政元年(1854630日、勘定吟味役より、箱館奉行となり(「野州鎮台」といわれた。)樺太の日露国境を北緯五〇度と提議。万延2(1861)正月2日勘定奉行に転じた。ついで外国奉行を兼任し、英・蘭・露・葡・仏・プロシアを歴訪。露国で樺太国境について談合したが調印に至らなかった。文化4~慶応3年(180767

(191-9)「新藤鉊蔵(しんどうしょうぞう)」・・嘉永7(1854)713日、鉄炮箪笥奉行より箱館奉行支配組頭になり、文久3(1863)1214日箱館奉行並になる。慶応3(1867)1023日製鉄奉行に転じる。

(191-10)「力石(ちからいし)勝之助」・・嘉永7(1854)719日、勘定吟味方改役並より、箱館奉行支配調役、安政2年(185512月箱館奉行支配組頭勤方、同39月に箱館奉行支配組頭。文久元年(1861)418日賄頭に転じる。

(192-1)「富田類右衛門」・・嘉永7(1854)7月箱館奉行支配調役並、安政2(1855)4月箱館奉行支配調役になる。文久2(1862)1214日小十人組に転じるが、同年同月、箱館奉行支配調役に帰役。元治元年(1864)522日蔵奉行格に転じる。

(192-4)「御奉書」・・諸形式があるが、時代が下ると、公文書一般をさすようになった。書札様文書は、その内容を伝達しようとする当該人が、みずからが差出人としてその名を署する直状(じきじょう)と、当該人の意向をうけて代理のものが代理人名を署して発給する文書と、二つに大別できる。後者の場合、真の差出当該人は貴人のことが多く、代理人はその配下の者がこれにあたるから、奉書と呼ばれている。このように、直状に対して、貴人の仰を配下が奉り、配下の名をもって伝える書札様文書を、広義の奉書という。

(192-5)「竹内下野守様御当着迄」・・堀利熙が箱館奉行に任命されたのは、嘉永7721日で、東蝦夷地巡検中、現中標津で奉書を受け取っている。堀の箱館帰着は820日のこと。なお、竹内が箱館に着任したのは、9月末。

(192-7)「河野三郎太郎」・・河津三郎太郎。「野」は「津」の誤り。字は祐邦(すけくに)。嘉永7(1854)728日徒目付より箱館奉行支配調役、安政元年(1854)1227日箱館奉行支配組頭。箱館在勤中、奉行を補佐し、七飯薬園開設、五稜郭築造の責任者など、蝦夷地経営に尽力、文久3(1863)411日新徴組支配に転じる。その後、外国奉行、勘定奉行、長崎奉行、外国事務総裁を経て、慶応4(1868)229日、若年寄に任じられる。明治7年(1874327日没。谷中玉林寺に眠る。

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『蝦夷日記』2013.12月注(1)

(187-1)「地蔵堂に亜墨利加人の石塔二つ立置有」・・現在、函館の観光名所になっている函館市船見町にある外 

 人墓地は、外国人墓地は、嘉永7(1854)ペリー一行が来航した際に死亡した水夫2人を埋葬したのが始まりとされている。ペリー艦隊は、同年415日に、マセドニアン号、バンダリア号、サザンプトン号、21日に旗艦ポーハタン号、ミシシッピー号の5隻が箱館に入港した。死亡した水夫は、いずれもバンダリア号の乗組員で、4月29(西暦525)にジェームズ・G・ウルフ(50歳)、51日(西暦527日)にGW・レミック(19歳)のふたり。山背泊火葬場付近(当時地蔵堂境内・現外人墓地=プロテスタント墓地)に埋葬された。(岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記』)現在の外人墓地は、かつては、地蔵堂(現地蔵寺)の境内だった。

なお、バンダリヤ号の水兵たちが出発にあたって、この遠い異国の浜辺の丘に眠る2人の友を弔うため記念碑を設け、彼らの作った前述の碑文を刻むよう頼んでいった。しかしこれは当時直ちに実現されなかったが、昭和29717日、ペリー来港100年記念式当日ようやくこれが実現し、2基の墓のかたわらに建設された。

(187-1)「地蔵堂」・・船見町にある現地蔵寺。文化年間から存在したという。古くから山背泊の地蔵として親しまれてきた。天保10年銘の木像大地蔵がある。

(187-1)亜墨利加(アメリカ)」・・『宛字外来語辞典』(柏書房)には、「アメリカ」の宛字として、米利堅、米利幹、米利賢、米里幹、美利堅、弥理堅、亜米利加、亜墨利加、亜美利加、亜墨、美理哥、美理格、哶哩干、墨夷、亜国、などがある。

(187-1)「唐文字(からもじ)」・・漢字のこと。

(187-2)「彫付(ほりつけ・えりつけ)」・・「ほりつけ(えりつけ)」は、「ほりつく(えりつく)」の連体形の名詞化。彫刻する。刻む。彫りつける。影印は、「彫」の異体字で、「周」+「久」。(『くずし字用例辞典』P310下段参照)

(187-2)「昼飯(ひるめし・ひるはん・ひるいい・ひるま・ひるまま・ちゅうはん)」・・お昼ごはん。

(187-2)「昼後(ひるご)」・・ひるすぎ。午後。

(187-4)「愛宕山大権現」・・愛宕山は、函館山を構成する峰ひとつ。北東方中腹辺には愛宕社があり、愛宕山と呼ばれた。

(187-4)「休足(きゅうそく)」・・仕事や歩行などをやめて体を休めること。

(187-5)「薬師堂」・・『蝦夷島奇観』によれば、元和21616)年、河野政通の子孫で良道阿闍梨という出家が、箱館山に金銅の薬師仏をまつり、河野家の長久を祈ったとあるが、その跡はいまのところ不明である。また『蝦夷実地検考録』には、山に医王山明神があるとし、明暦元(1655)年草創、元文41739)年再建と記している。更に『寺院明細帳』では、もと尻沢辺に鎮座していたものを山に移したとあり、諸説いずれにあるか不明であるが、しかし古くから薬師仏の奉祀があり、そのため薬師山といわれるようになった。

(187-7)「入海(いりうみ)」・・陸地にはいり込んだ海、湖。湾。入り江。

(187-9)「遠目鏡(とおめがね)」・・望遠鏡。江戸時代、「十里見(じゅうりけん)」、「千里鏡(せんりきょう)」とも呼ばれた。

(187-11)「洲の岬」・・不詳。東京大学史料編纂所編『大日本古文書 幕末外国関係文書之附録二』所収の「村垣淡路守公務日記」には、「西ニ矢越サキ」とある。

(187-12)「左井(さい)」・・佐井。青森県北部、下北郡にある村。下北半島西部にあり、津軽海峡に臨む。村の大部分が恐山山地からなり、平地に乏しく、海岸に集落が点在する。佐井港は江戸時代以前から良港として知られ、下北産のヒバ材の積出し港として明治まで続いた。山地の97%が国有林で、産業はわずかな耕地での米作と肉用牛の飼育、沿岸漁業などが行われる。海岸一帯は下北半島国定公園の一部で、仏ヶ浦(国指定名勝・天然記念物)の景勝がある。

(188-2)「水元(みずもと)」・・函館山山中の水元谷。下は『南部藩蝦夷地経営図9』(函館中央図書館蔵)

水元谷は、安政2年、南部藩が本陣を設けた。(現元町配水地下辺一帯)

かつては、函館山登山のメインコースだった。また、戦前戦中には、軍用道路で元々は自動車が走れる幅があった。

 (188-4)「尻沢邊(しりさわべ)」・・現函館市住吉町・谷地頭町・青柳町。近世末まで存在した村。函館山の東麓、函館半島陸繋部の西部にある。東は津軽海峡、山は谷地頭へもたれかかるようにみえ、南には立待(たちまち)岬がある。地域の氏神は住吉町にある住三吉神社。

(188-4)「立待」・・函館山南部の東側にある立待岬。津軽海峡を挟んで、下北半島の大間崎と対峙する。前期幕府領期に異国船警固のための砲台が岬上の段丘部に築かれ、盛岡藩が固めていた。『蝦夷日誌(一編)』に「立マチ 是又岩岬なり」とみえ、「遠見番所壱軒有。足軽壱人相勤る也。五十匁壱挺、百匁壱挺、三百匁壱挺を相備ふ也。実に南東大洋ニ枕ミ当所第一の要害也。此岬南部尻矢岬と対峙し而其風景またよろし。尻沢辺村懸り也」と記される。近代に入ると函館要塞の一部となって一般市民の立入りは禁止されたが、第二次世界大戦後は解放された。現在は与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑が建ち、近くには石川啄木一族の墓所もあり、景勝地として多くの観光客が訪れている。

(188-6)「帰宿(きしゅく)」・・宿舎に帰ること。帰って宿泊すること。

(188-8)「谷地頭」・・現函館市谷地頭町・青柳町。明治6年(1873)の町名町域再整理の際に、尻沢辺町を細かく区画割してできた町の一つで、旧尻沢辺町の北西部(山手側)にあたる。『蝦夷日誌(一編)』は谷地頭の地名由来について「尻沢辺より弐丁計上の方也。此処ニ谷地有。其の上故ニ此名有る也。当所ニ而八ツの頭の大蛇が、むかし此沼に居しをもて号る等云伝ふ」などと記している。

(188-10)「山の上町、遊女屋十六、七軒有之」・・以下は、『函館市史』の、幕末の箱館の遊里について記述。

<安政初年、茶屋は21軒となり、ほかにも11軒が免許を得ていた。酌女は100人余りだったが、開港とともに外国人相手の商売が必要となり、安政5年に願書を出して幕府の公許を得たのが「売女渡世」である。もと茶屋は前記21軒が料理茶屋といって、酌取女をおいて客を取り、また芝居、軽業などの興行の際、仕出しもして業とし、11軒は客引手宿とか下宿とかいい、料理の酌取りだけで音曲はできなかった。その料理茶屋が公然と売女渡世に変り、山ノ上町茶屋町は江戸吉原に模して廓(くるわ)を造り、坂の突当りに大門を設けた(この坂を「見返り坂」と呼んだ)。廓は官から金を借り、外国人のために異人休息所とか異人揚屋と呼ばれる三層楼も建てられた。見番も設けられ、線香代を定め、芸者の養成につとめ、廓以外の芸者を禁じ、隠し芸者が見つかると廓に3年間無給奉公させられた。芸者には江戸言葉を習わせ、行儀を教えたが容易でなかったという。当時の芸者を評した狂歌に「つかみ鼻、立小便とオケツネと、イケスカナイはアメリカの客」とある。
 酌取女は「がの字」と呼ばれ、これは遊女の価200文で縄に通した銭の形が雁の字に似ているからだとか、香木の伽羅の伽が濁ったのだとかいわれる。このほかに密娼もおり、内澗町では「風呂敷」、大町では「薦冠(こもかぶり)」、弁天では「車櫂」、谷地頭では「狐」などと呼んだ、箱館奉行は安政35月から、密娼を見つけしだい蝦夷地の開発場にやることにしていたが、山ノ上町に遊廓ができるとここへ送り、10年間無給で奉公させることにした。
 座敷で興じられる唄は、以前は、甚句、おけさ、追分などであったが、このころは都々逸、端唄などが盛んになっていた。遊楽地は山ノ上町だけではなく、東築島には文政のころから山ノ上茶屋5軒の出張りがあり、これがのち「島の廓」となったし、五稜郭ができると鍛冶村にも御用茶屋ができた。また谷地頭も『蝦夷実地検考録』には「花木を植え、泉水を環らし、亭 を設けて客を延く」、「函府第一の勝境とて、貴賤、僧俗を論ぜず妓を携え、酒を載、茗を煮、棋を囲む。絃歌の声紛々たり」とある。

(188-10)「かのじ・がのじ」・・娼妓をいう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、『桜園叢書』の「箱館方言」に「がのじ」を挙げている。また、同「補注」に、<「津軽方言集」に「女郎の眉、蛾てふ虫の眉の見えよきに似たれば、いふと。或は云ふ、春、雁と共に海岸地方などに来たりたれば、以て異名とせりと如何にや」とある。>と記している。さらに、「雁の字」の引用を示し、<松前の江指(えさし・現在は江差町)で遊女のことをいう。>として、

<*東遊雑記〔1789〕一四「所の風にて、傾城とも女郎とも云はずして、遊女の惣名をいふに鴈の字と云なり。小童に至るまで鴈の字と称して、おやまとも、女郎とも、遊女ともいはぬなり」

*西蝦夷日誌〔1863~64〕二「是等を惣称して当島にて鴈(ガン)の字(ジ)と云。其起元は、此者等船々え入や多くの水夫共各各弐百の銭を投出に、其銭鴈行に成し男に其夜の情を契とかや」>を例示している続きを読む

 『ふなをさ日記』11月学習の注  

(10-1)「亥子(い・ね)」・・北北東。

(10-2)「寅時(とらどき)」・・午前4時頃。

(10-2)「*(列+火)敷(はげしく)」・・影印は、「烈」の異体字。

 *<漢字の話>「烈」の部首・・「火」の部。脚になったとき、「灬」の形になり、「れっか」「れんが」と呼ぶ。「れっか」は、「列火」と書き、点のならんだ火の意。「れんが」は、「連火」と書き、点の連なった火の意。

(10-3)「終(つい)に」・・最後に、とうとう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ついに」の語誌は、

 同訓異字として【終・遂・了・卒・竟】をあげ、

【終】(シュウ)おわり。おしまい。最後。「最終」「臨終」おわる。完了する。おえる。果てる。「終了」「終止」 おわりまで。いつまでも。「終日」「終生」 おしまいに。とうとう。結局。《古つひに・をはる・をへたり・をはり・きはまる・しぬ・はて・ともし》

【遂】(スイ)おして行く。とげる。なしとげる。おえる。きわめる。「遂行」「完遂」 かくして。その結果。はては。結局。《古つひに・をはる・とぐ・とぐる・とげぬ・つくす・いたる・とどむ・はたす・はたる・とほる・おふ・したがふ・ゆく・すすむ・なす・よる・やしなふ・あまねし・ひさし》

【了】(リョウ)さとる。あきらか。「了解」「了然」 おわる。おえる。おわり。「終了」「完了」 おしまいに。とうとう。結局。また、過去・完了を表わす助字。《古つひに・をはる・やむ・さとる・あきらか》

【卒】(ソツ)おわる。おえる。完了する。しとげる。「卒業」 死ぬ。「卒去」「卒年」 にわか。突然。あわただしい。「卒爾」「卒倒」おしまいに。とうとう。結局。《古つひに・をはる・やむ・しぬ・うす・ことごとく・すでに・にはか・にはかに・したがふ・つくる・とる》

【竟】(キョウ)おわる。おえる。つきる。きわめる。おわり。「竟宴」「終竟」とうとう。結局。最終的に。「畢竟」「究竟」《古つひに・をふ・をはる・きはむ・わたる》>と記している。

(10-4)「つくづく」・・思考や感情についていい、主観的に動かしがたくなった、という気持を表わす語。心から。

(10-5)「櫂(かい)の折(おれ)たる船人(ふなびと)」・・難破した人。つまり、重吉たちのこと。

(10-5)「乗(のせ)したる故(ゆえ)」・・「乗(のせ)したる」は、語調がよくない。異本は、「乗(のせ)たる」に作り、「乗し」の、「し」がない。

(10-8)「上(あが)り登(のぼり)たれば」・・語調がよくない。異本は、「上り」を「上へ」とし、「上へ登りたれば」に作る。

(11-2)「シヱガン」・・「sugar」。砂糖。                                  

(11-2)「ロンメ」・・不詳。

(11-3)「クロツバ」・・不詳。

(11-3)「ヲーツカ」・・ウオッカか。

(11-5)「歟(か)」・・句末に用いて、疑問・反語・推

量・感嘆の意を表す助字。漢文の疑問を表す助字の「歟(ヨ)」を、日本語の「か」にあてはめた。ジャパンナレッジ版『字通』には、『説文解字』の「安らかなる气(き)なり」を引いて、「ゆるい詠嘆や、かるい疑問の語気を示す」とある。

 *「来疲(くるかづかれ)」・・来るか来るかと待っている気疲れ。

*「来る(カ)疲労(ヅカレ)に、やうやうと客ねしづまる真夜中(おほびけ)すぎ」(坪内逍遙『当世書生気質』)

(11-10)「湊(みなと)」・・ジャパンナレッジ版『字通』は、『説文解字』を引いて、<声符は奏(そう)。奏は奏楽。諸楽を合奏するので、湊集の意がある。〔説文〕十一上に「水上の人の會(あつ)まるなり」とみえる。水陸より物資の集まることを、輻湊という」と説明している。

 *なお、「みなと」の語源について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「な」は「の」の意で、「水の門」の意>などをあげている。

(12-1)「渡(わた)り」・・あたり。普通、「辺り」とする。「渡」は当て字か。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。へん。へ。近所。

(12-14)「此渡りに・・さまたげもせによし」・・別添の富田虎男(当時立教大学アメリカ研究所所長・現立教大学名誉教授)著「日本人のインディアン像―その1.徳川時代のインディアン像―」(立教大学アメリカ研究所刊『アメリカ研究8号』所収 1986)で、「インディアンを直接見聞した記録として伝えられている最古の者は、督乗丸船頭重吉の口述書であろう」と紹介されている。

(12-1)「穴居(けっきょ)」・・自然または人造の洞穴に住むこと。また、その住居。

(12-4)「チマヨチマヨ」・・不詳。

(12-7)「容子(ようす)」・・様子。物事の状態。有様。形勢。状況。

(12-8)「作事(さくじ)」・・船の手入れ。

(13-12)「受たれば」・・異本は、「受」の前に「見」があり、「見受けたれば」に作る。

(13-2)「いかで」・・「いかにて」の撥音便化した「いかんて」が変化した語。あとに、意志、推量、願望などの表現を伴って用いる。切なる願望のため、あれこれと方法を考える気持を表わす。何とかして。せめて。どうにかして。どうか。

(13-4)「手に付(つき)て」・・その部下となって。その配下に属して。

(13-4)「ねもごろ」・・「ねんごろ」の古形。心がこもっているさま。親身であるさま。

(13-5)「ヲロシアに随へる国」・・アラスカを指すか。ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、<1741年、ロシアのピョートル帝に雇われたデンマーク人ベーリングが発見した。ロシア毛皮商人が徐々に入植していき、18世紀末にはロシア・アメリカ会社が毛皮貿易を独占し、シトカを建設して19世紀初めに繁栄を誇った。しかし19世紀なかばになると、ロシアはイギリスがアラスカを奪いはしないかと恐れて、アメリカへの売却交渉を始め、結局1867年にアメリカのシュアード国務長官が720万ドルで購入した。これは当時「シュアードの冷蔵庫」などと嘲笑されたが、シュアードは太平洋にまたがる海洋帝国建設の一環として位置づけていたといわれる。1896年クロンダイクで金鉱が発見されると、アラスカ一帯でゴールド・ラッシュが起こり、カナダと国境紛争が生じたが、これも調停でアメリカに有利に解決した(1903)。

 1912年に準州となり、1959年に49番目の州として連邦に編入され、アメリカの大陸防衛体制の前哨(ぜんしょう)地域として戦略上重要な役割を担っている。>とある。

 *ロシアのアメリカ大陸進出略史(小坂洋右=ようすけ=著『流亡』参照)

 ・1725年1月・ロシア皇帝ピョートル1世が、ベーリングを長とする探検隊派遣命令に署名。

 ・1728322日、探検隊、カムチャッカのニジネ・カムチャックに到着。34日間航海して引き返す。

 ・1732428日、女帝アンナ・ヨアンノヴア、第二次探検隊を発令。

 ・17333月出発、ヤクーツクで3年間準備し、オホーツクに着いたのは1737年秋。

 ・17409月、ベーリングら一行第二次探検隊、アメリカ航海に乗り出す。

1741年、ベーリング、アラスカ海岸に上陸。

1784年、ロシアがコディアック島に拠点を建設

1799年 ロシアが「ロシア領アメリカ」として領有宣言し、行政を露米会社に委ねる。

1853年 ロシアがアメリカにアラスカ売却を提案。

1861329日、ロシア政府が露米会社から行政権を回収。

18671018日、ロシアがアメリカにアラスカを売却

1959年1月3日、アラスカ、アメリカの州に昇格。

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