(190-3)「当寅年五月中、異国船大船四艘来り」・・「異国船」は、いわゆるペリー艦隊。「五月中」とあるが、実際は、4月15日にマセドニアン、バンダリア、サザンプトンの3艘、同21日にペリー乗船の旗艦ポーハタン(意味:インディアン首長の名)がとミシシッピーを率いてが入港している。「四艘」ではなく、5艘。
(190-4)「箱館も殊之外大さわぎ致」・・松前藩は、領民に対し、以後アメリカ船退帆時まで御用以外で箱館に往来することを禁止し、知内村及び上ノ国村-木古内村間の峠番所他で領民の往来を厳しくチェックすること、また蝦夷地各場所行の廻船は対象外とするが、城下及び在々の地廻船にあっては、陸路往来の場合と同様アメリカ船退帆時まで箱館への入港を禁止する旨厳達した。その後藩庁は、家中・寺社・領民に対しアメリカ船渡来の際の対応方法に関する触を相次いで出していったが、4月7日には特に箱館市中を対象にした18か条からなる触が町役所から出された。『箱館市史』にあるその部分を記す。
(1)アメリカ船が箱館沖へ現れたとの合図があり次第、「町々在々之人足共」は早々役所及び各自の持場にかけつけること。
(2)アメリカ船渡来の際、「浜表」へ出、あるいは屋根に登り見物することを禁止する。
(3)アメリカ船滞留中は、「人夫相勤候者」以外は商用であっても、小船で乗りだすことは勿論、海辺へ出て徘徊することを厳禁する。
(4)「当澗居合之船々大小共」、以来残らず沖の口役所より内澗の方へ繰入れ、船を繋ぎおくこと。異国船退帆まで出帆を禁止し、かつ異国船へ近付くことを禁止する。
(5)アメリカ船滞船中は、どのようなことがあっても、アメリカ人に対し決して「手荒」なことをせず、何事も「穏に申なため」、さからわないようにとの幕命を守り、「町々婦人小児之分」は、大野・市ノ渡辺の村々に親類・身寄のある者は早急に引越すべき筈ではあるが、そうなれば多くの百姓が混乱し、大変困ることになるので、引越しの件を猶予してくれれば、「婦人共」は老若にかかわらず必ず取締るとの町年寄たちの申立も余儀なきこと故、それを許すので、この点をよく心得、「不束之義」なきよう厳しく申付けるべきこと。
(6)山背泊近辺、築嶋・桝形外、亀田浜、七重浜等は、場末で人家も少なく、夜分密に上陸の程もはかりがたいので、これらの地の婦女子は老若とも全員、男子も12~13才以下の者は、もよりの山の手辺へ早急に引越すこと。難渋の者には手当を与える。
(7)箱館に来ている領民及び他国者は、調査の上、早々用事を済させて帰郷させ、遊民体の者は退去させること。
(8)異国船滞留中、「牛飼之者共」箱館市中及び海岸近くの村へ牛で諸荷物の運送をしないこと、浜辺近くの野山での放し飼いは禁止。
(9)異人たちが上陸した場合、馬士及び在々の者は途中より早々引返すこと。
(10)「酒之義者異人共殊之外好物之由」、少しでも呑ませれば手荒なことをするので、一切目にかからぬよう「悉く蔵入」し、店先には置かないこと。売買は「蔵内」で行うこと。
(11)呉服店・小間物店は商品を片付けること。もっとも、餅・菓子、草履・草鞋等は店先へ置いても良いが、彼等が望む物を与えなければ、不本意に思い、自然角立つようなことがあってはまずいので、食物に限らず差支えのない品を無心した場合は、これを与えてもよい。もし返礼品を差出しても、一応は差戻し、強いて差出す様子なれば、その品を預り置、早々町役所へ差出すこと。遣しがたい大切な品は、必ず隠し置くこと。
(12)アメリカ船が入港の際、もし発砲しても騒立てず、静かにしていること。
(13)海に面した住居は、いずれも戸障子に必ず締をつけ、立合障子には目張りをし、決して覗見等をしないこと。
(14)火の元には特に念を入れ用心すべきこと。
(15)年回仏事等に相当しても、異船滞留中は延期し、新喪の時は、葬具等を手軽にし、男子のみで夜分に物静かに墓所へ葬送すること、追善もこれに准じ穏便に営むこと。
(16)異船滞留中は、観音・薬師・愛宕・七面等の山にある神仏への参詣を厳禁する。
(17)音曲・所作は、異船滞留中厳禁。
(18)異船滞留中、取とめのない風説は厳禁。
以上のように、松前藩が住民の動向にいかに神経をとがらしていたのかを知ることができよう。米艦入港のほぼ1週間前のことであった。
(190-5~6)「其節、折能、御公儀様、御役人衆様、三馬屋迄御出被成、風待御逗留中」・・蝦夷地巡検を命じられた目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正らは、松前に渡るため、三厩滞在中であった。
(190-6~7)「其内、御両三人計り、早船にて御、渡海被成」・・三厩滞在中の堀、村垣は、松前藩の訴えにより、4月28日、支配勘定安間純之進、徒目付平山謙二郎、吟味役下役吉見、御小人目付吉岡元平、通詞武田斐三郎を箱館に派遣した。
(190-5)<欠字>「折能(おりよく) 御公儀」・・「能」と「御」の間に空白があるが、尊敬を表す体裁で、「欠字」という。なお、改行することを「平出(へいしゅつ)」という。
(190-7~8)「直様(すぐさま)、箱館表に於て御懸合有之」・・安間らは、4月30日福山着、5月4日箱館着。
5月6日から旗艦ポーハタン号上で、安間・平山たとペリーが会談。
この会談で、ペリーが主張した主な点は、
(1)遊歩区域を、官舎を中心に7里四方とし、そのことを今日決定すること。
(2)市中で婦女子の姿を見ないことはアメリカ人を「敵仇」とすることであり、また、市中では各家が門を閉じ、市民は我々に親しまないで多く走り去り、しかも役人が我々のあとを尾行することなどは、条約の精神に合わないことであり、こうしたことは、下田でも見なかったことである
などの2点であった。
安間・平山は、
(1)の遊歩区域については、後日下田で協議すべきものであることを伝えるとともに、これはすこぶる重大なこと故、誤解が生じないようその返答の内容を武田斐三郎に命じてオランダ語に翻訳させ、オランダ語翻訳文をペリーに渡した。(2)については、横浜に於て森山栄之助を介して説明した如く、日本は長く鎖国を祖法としてきたために、日本人は未だ外国人になれていず、そのためにおきた現象であって、このことはペリー自身すでに横浜において経験ずみのはずである。箱館は江戸より遠く離れた地であってみればなおのことであり、アメリカ人を敵視しているために生じたことでは決してない、などと答えた。
(190-8)「早速引払、出帆いたし候」・・『箱館市史』は、「翌5月7日も応接所で両者の会談が予定されていたが、ペリーはこれ以上会談を続けたところで新たな回答を得る保証は何一つなく、箱館来航の所期の目的は充分果たされたことや、下田での応接掛との会談の期日が迫っていたこともあって、7日の会談を放棄し、翌5月8日、ポーハタン号・ミシシッピー号を率いて箱館を去った。その結果、箱館の遊歩区域をめぐる問題は、結局下田での日米交渉にもちこされることとなったのである。なお箱館来航のペリー艦隊のうち、サザンプトン号は、既に4月28日噴火湾調査に向い、マセドニアン号・ヴァンダリア号の2艘は、5月5日各々下田(前者)と上海(後者)へ向けて出帆していた」と記している。
(191-1)「数百人」・・箱館に来航したペリー艦隊の乗組員は、『箱館市史』によると、1183人になる。
(191-8)「箱館御奉行」・・第二次箱館奉行支配の属吏は、組頭、組頭勤方、調役、調役並、調役下役元締、調役下役、同心組頭、同心、足軽の順序で、ほかに通訳、在住、雇、雇医師があった。第一次時代と違うのは、ただ吟味役を組頭に改めたのと、安政6年4月調役下役が定役と改められた2点だけである。組頭は同勤方を合わせて大抵同時に3、4人を置き、箱館奉行を補佐したが、前時代の吟味役と同じく練達の士であった。調役および調役並は大抵10数名いて、箱館、江戸および蝦夷地の要所に在勤し、定役は数十名、同心もまた数十名あっていずれも各地に在勤していた。在住はしだいに増加して100余名となり、箱館近在および蝦夷地に居住して開墾その他に従い、あるいは奉行所の公務を兼掌した。雇は開拓その他必要によって特に雇入れた者で、これにも有為の士が多く、雇医師は10数名あり、箱館および蝦夷地に在勤していた。
(191-8)「竹内(たけのうち・たけうち)下野守」・・江戸末期の幕臣。通称清太郎。下野守。安政元年(1854)6月30日、勘定吟味役より、箱館奉行となり(「野州鎮台」といわれた。)樺太の日露国境を北緯五〇度と提議。万延2年(1861)正月2日勘定奉行に転じた。ついで外国奉行を兼任し、英・蘭・露・葡・仏・プロシアを歴訪。露国で樺太国境について談合したが調印に至らなかった。文化4~慶応3年(1807~67)
(191-9)「新藤鉊蔵(しんどうしょうぞう)」・・嘉永7年(1854)7月13日、鉄炮箪笥奉行より箱館奉行支配組頭になり、文久3年(1863)12月14日箱館奉行並になる。慶応3年(1867)10月23日製鉄奉行に転じる。
(191-10)「力石(ちからいし)勝之助」・・嘉永7年(1854)閏7月19日、勘定吟味方改役並より、箱館奉行支配調役、安政2年(1855)12月箱館奉行支配組頭勤方、同3年9月に箱館奉行支配組頭。文久元年(1861)4月18日賄頭に転じる。
(192-1)「富田類右衛門」・・嘉永7年(1854)7月箱館奉行支配調役並、安政2年(1855)4月箱館奉行支配調役になる。文久2年(1862)12月14日小十人組に転じるが、同年同月、箱館奉行支配調役に帰役。元治元年(1864)5月22日蔵奉行格に転じる。
(192-4)「御奉書」・・諸形式があるが、時代が下ると、公文書一般をさすようになった。書札様文書は、その内容を伝達しようとする当該人が、みずからが差出人としてその名を署する直状(じきじょう)と、当該人の意向をうけて代理のものが代理人名を署して発給する文書と、二つに大別できる。後者の場合、真の差出当該人は貴人のことが多く、代理人はその配下の者がこれにあたるから、奉書と呼ばれている。このように、直状に対して、貴人の仰を配下が奉り、配下の名をもって伝える書札様文書を、広義の奉書という。
(192-5)「竹内下野守様御当着迄」・・堀利熙が箱館奉行に任命されたのは、嘉永7年7月21日で、東蝦夷地巡検中、現中標津で奉書を受け取っている。堀の箱館帰着は8月20日のこと。なお、竹内が箱館に着任したのは、9月末。
(192-7)「河野三郎太郎」・・河津三郎太郎。「野」は「津」の誤り。字は祐邦(すけくに)。嘉永7年(1854)閏7月28日徒目付より箱館奉行支配調役、安政元年(1854)12月27日箱館奉行支配組頭。箱館在勤中、奉行を補佐し、七飯薬園開設、五稜郭築造の責任者など、蝦夷地経営に尽力、文久3年(1863)4月11日新徴組支配に転じる。その後、外国奉行、勘定奉行、長崎奉行、外国事務総裁を経て、慶応4年(1868)2月29日、若年寄に任じられる。明治7年(1874)3月27日没。谷中玉林寺に眠る。