森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2014年01月

 『ふなをさ日記』2月学習の注

                   
(24-1)「時々に衣服さえ」・・異本は、「に」を「の」とし、「時々の衣服さえ」に作る。文意は、「季節ごとの衣服」の意だから、「時々の」の方が妥当か。

(24-2)「命の親」・・命を助けてくれた恩人。

 *(美女を「命取り」というのに対して)醜い女のこと。→「いのちとり(命取)」とは美女、「命の親」とは悪女の異名。

 *「命取り」・・生命、地位、財産、名誉などを失う原因となるものや事柄。美女をいうのにも用いた。

・「あの御器量で金銀に事欠き給はぬ御暮しは、太夫様方の命取(イノチト)りといふもの」(『浮世草子・風流曲三味線』)

・「おもき顔にもにっこりと、わらひをふくむあいきゃうは、俗に所謂いのち取、男ころしといふべけれ」(『人情本・仮名文章娘節用』)

(24-3)「いたこ」・・潮来節のこと。潮来節について、ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、

<江戸中期の流行唄。江戸時代の水郷潮来(茨城県)は、東北地方の米を江戸へ送る集積地であり、また鹿島、香取両神宮への参拝客でにぎわった。そのため、舟唄とも遊女の舟遊び唄ともいわれるこの歌は、明和期(176472)の末にはお座敷化して江戸へ伝わり、文化期(180418)にかけて大流行した。777526文字からなるこの詞型は、日本全域で愛唱された初めての民衆歌謡といえよう。やがて江戸では新内や祭文(さいもん)の旋律が加えられ、大坂では「よしこの」の母胎になるなど、歌い崩されて本来の旋律は失われてしまい、現代では端唄(はうた)『潮来出島』、民謡『潮来音頭』『潮来甚句』として残っているにすぎない。>

とある。

 <漢字の話>「潮」を「いた」と訓じること・・ジャパンナレッジ版『国史大辞典』には、

 <『鹿島志』に「板来と書たるを、西山公(徳川光圀)、鹿島に潮宮(イタノミヤ)あり、常陸の方言に潮をイタといふは興ある事とおほしてかく書改められたりと云ふ」とあるように、江戸時代に「潮来」と改称された。>

 とある。つまり、「潮」を「いた」発音するのは、常陸地方の方言だという。

(24-34)「新内節」・・ジャパンナレッジ版『新版 歌舞伎事典』には、

<三味線音楽の一流派。江戸浄瑠璃。宮古路豊後掾の門弟加賀太夫が富士松薩摩掾となり、また、そのワキ語り敦賀太夫が鶴賀若狭掾となって、一派を樹立した。その若狭掾の門弟二世鶴賀新内のフシ落しが喜ばれ、安永(17721781)末ごろ新内節の名称で統一された。若狭掾までは歌舞伎の舞台に出演していたが、〈流し〉という形態に変わり、上調子(高音(たかね)という)の発達とウレイをきかせたクドキの発達で流行するようになる。のち中興の祖富士松魯中が出て語り物をふやし、さらに七世加賀太夫が人気を博して今日も根強い人気を保っている。若狭掾作品の《蘭蝶》は歌舞伎化され、《明烏》は清元その他に移されている。ほかに義太夫節、一中節から移したものもあり、《膝栗毛》のような滑稽物もある。曲節の種類は少ないが、他流に与えた影響は大きく、〈流し〉の三味線は、歌舞伎で下町や大川端の夜更けを描く下座音楽に用いられている。>とある。

(24-6)「哥(うた)」・・「哥」は、「歌」の古字。

(24-8)「にても」・・格助詞「にて」に係助詞「も」の付いたもの。…でも。…においても。

(24-9)「嘲弄(ちょうろう)」・・ばかにすること。からかいなぶること。

(24-9)「身にし(染)みて」・・深く心に思いこんで。心からうちこんで。

(24-11)「しゐて」・・強いて。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(25-3)「返すがえすも」・・「かえす(返)」の終止形を重ねたもの。「も」を伴うことが多い。古くは「かえすかえす」)動作、作用が繰り返し行なわれるさまを表わす。ひとえに。ひじょうに。

(25-3)「しんに」・・真に。本当に。まことに。また、真剣に。本気で。

(25-3)「あしざま」・・悪樣。悪いよう。悪いふう。「あしざまに(言う)」の形で、悪意をこめて事実よりも悪く言うのに用いることが多い。

 CF「よざま(善樣)」・・よいさま。よいふう。

(25-4)「くどけば」・・くどくどと繰り返していえば。「くどく(口説)」は、嘆きのことばを繰り返す。しつこくいう。愚痴(ぐち)をいう。

(25-4)「その事その事」・・相手の言うことに共鳴する意を表わすのにいう。それがよい、それがよい。その通りだ、その通りだ。

*「『藤さんはきれい好であらっしゃるから』『その事その事』」(『人情本・春色恵の花』)

*「『奥山へ行って、一杯やらうぢゃあねえか』『其事々々、寒くって堪(こて)えられねえ』」(『歌舞伎・歳市廓討入』

*「『まアそんな事はどうでもいいや。仲直りに今の酒を奥でやると仕ようぢゃねえか』『其事其事、サア来ねえ』」(『歌舞伎・今文覚助命刺』)

(25-5)「さも」・・副詞「さ」に助詞「も」が付いてできたもの。副詞「さ(然)」を強めたいい方。そのようにも。その通りにも。

(25-8)「彼城(かのしろ)」・・シトカのロシア人の要塞をノボ・アルハンゲリスク。当時、重吉らは、ロシア領アメリカ(現アメリカ合衆国アラスカ州)のアレキサンダー諸島のパラノフ島西部の町・シトカに滞在していた。シトカは、ロシア国策会社であるロシア・アメリカ会社の初代支配人アレキサンドル・バラノフが組織した統治・交易の中心地であった。彼らはその要塞をノボ・アルハンゲリスク(バラノフが生まれたアルハンゲリスクに因む)と名づけた。

(25-89)「日本人を連来れと仰事あり」・・前掲の『船長日記 その信憑性と価値』(風媒社 2013)で著者の村松氏は、「重吉等はピゴットに伴われ、ここを訪れているようだ。バラノフは重吉に会った時、すでに七十歳ほどの老人であった」と記している。「仰事」を発したのは、バラノフということになる。文化127月のことであった。

(25-9)「今は」・・異本は、「今日は」に作る。

(25-9)「月代(さかやき・さかゆき・さかいき・つきしろ・つきびたい)」・・中古以来、成人の男子が、日常、冠または烏帽子をかぶったためにすれて抜けあがった前額部の部分の称。また、室町期、武士が兜を付けるときに剃った前額部の称。近世、露頭が日常の風となった成人男子が、額から頭上にかけて髪を剃(そ)ること。また、その部分の称。

 *「月代」を「さかやき」と読む語源説・・諸説あるが、「昔、冠を着けるときに、前額部の髪を月形に剃ったところから、サカは冠の意、ヤキ(明)は鮮明の意。」が、比較的わかりやすく、面白い。

(25-10)「惣髪(そうはつ)」・・男の結髪の一つ。額(ひたい)の上の月代(さかやき)を剃らず、全体の髪を伸ばし、頂で束ねて結ったもの。また、後ろへなでつけ垂れ下げただけで、束ねないものもいう。江戸時代、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った髪型。四方髪。なでつけ。そうがみ。そうごう。

(25-11)「こよのふ」・・こよなく。この上なく。

 *<文法の話>「のふ」・・諸説あるが、一説に、打消しの助動詞「ず」の未然形の古い形「な」に接尾語「ふ」の付いた「なふ」の「な」が、さらに「の」に変化し、「のふ」になったとも。

(26-2)「苧(お・からむし)」・・イラクサ科の多年草。茎の繊維から織物をつくる。

(26-45)「ざん切(ぎり)」・・散切。月代(さかやき)をそらないで、頭髪をうしろへなでつけて結ばず、切り下げたままにした髪形。なでつけ。散切髪。

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2月学習『蝦夷地見込書秘書』注

(4-1)「纔(わずかに)」<漢字の話>・・ジャパンナレッジ版『字通』の「纔」の項に、

 <「帛、雀頭の色なり。一に曰く、微黒色、紺の如し」とし、「纔は淺きなり。讀みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>とある。

(4-1)「人別(にんべつ・じんべつ・にんべち)」・・住民の数。人頭。人口。

(4-1)「盛業(せいぎょう)」・・事業、商売などがさかんであること。

(4-2)「手(て)」・・仕事をする力。労力。また、仕事をする人。人手。「手があく」「手を貸す」「手が足らぬ」「手がかかる」「手を分かつ」「手がつまる」「手がすく」「手がやける」

(4-5)「通船(かよいぶね・かよいせん・つうせん)」・・航路・河川・関所などを船が通航すること。また、その船。

(4-5)「目当(めあて)」・・目標とする物や場所。目じるし。

(4-6)「節々(せつせつ)」・・おりおり。ときどき。ときたま。

(4-7)「乗寄(のりより)」・・寄港すること。

(4-8)「子丑(ねうし)」・・ほぼ北北東。実際は、礼文島は、利尻島の北西にある。

(4-8)「レフンシリ」・・礼文島。漢字表記地名「礼文」のもととなったアイヌ語に由来する地名、島名。

(4-8)「蝦夷地」の「地」は、見せ消ち・・「蝦夷地」の「地」の左に小さく見せ消ち記号の「ヒ」がある。したがって、ここは、「蝦夷地家」ではなく、「地」を読まず、「蝦夷家」と読む。

(4-11)<漢字の話>「帋(かみ)」・・多くの辞書は、「帋」を「紙」の異体字とする。ジャパンナレッジ版『字通』は、『和名抄(わみょうしょう)』の(平安中期の日本の漢和辞典)「古文、帋に作る」を引いている。

(6-3)「当今」・・このごろ。現今。

(6-3)「折柄(おりから)」・・ちょうどその時。おりしも。

(6-4)「御入料(ごにゅうりょう)」・・支出。

(6-4)「本蝦夷地」・・北蝦夷地に対する東西蝦夷地本土。

(6-6)「証跡(しょうせき)」・・後に、そのことが事実、真実であることを証明する痕跡(こんせき)。証拠となるあとかた。

(6-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実

(6-7)「被為在(あらせられ)」・・組成:ラ変動詞「在(あり)」の未然形「在(あら)」+使役の助動詞「為(す)」の未然形「せ」+受身の助動詞「らる」の連用形「られ」。

(6-7)「本末前後」・・『大学』(中国の経書)の「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。(物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)するところを知ればすなわち道に近し)」を引くか。

(6-7)「循序(じゅんじょ)」・・順序。順番にしたがうこと。順番どおりに行なうこと。

(6-8)「経尽」・・「尽」は、「営」の誤りか。『蝦夷地廻浦録』には「経営」とある。

 (6-8)「被為尽候(つくさ・せ・られ・そうろう)」・・組成:4段活用動詞「尽(つく)す」の未然形「尽(つく)さ」+使役の助動詞「為(す)」の未然形「せ」+受身の助動詞「らる」の連用形「られ」+動詞「候(そうろう)」。

(6-8)「永制(えいせい)」・・ながく変わらない制度。

(6-9)「大意(たいい)」・・あらまし。おおよそ。

(6-10)「砂利」・・シヤリ。シヤリは、漢字表記地名「斜里」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(6-10)「藩籬(はんり」」・・領地。「藩」、「籬」ともに、まがきの意。

(7-1)「捨郭(すてぐるわ)」・・山城を築く時、くるわにするように地をきりならし、塀をかけないでそのままにしておく箇所。敵の攻撃を受けたとき、防御の拠点とする。

(7-1)「御見据(おみすえ)」・・取扱い。

(7-2)「堅固(けんご)」・・防備などがしっかりしていて攻撃されても容易に破られないこと。ものがかたくしっかりしていること。また、そのさま。

(7-2)「出丸(でまる)」・・本城から張り出して築いた小城。出城。

(7-3)「備立(そなえだて)」・・兵を配置すること。軍陣をつくること。また、その配置や陣。陣立。

(7-4)「肝要」・・大切なこと。また、そのさま。かなめ。

(7-5)<見せ消ち>「取捨置候姿を以故」の「を以」・・「を以」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があるので、「を以」は、読まず、「取捨置候姿故」と読む。

(7-6)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。

(7-7)「先轍(せんてつ)」・・前例。

(7-7)「松前伊豆守」・・松前藩主・松前崇広(たかひろ)。文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849729日のこと。

(7-9)「白主(しらぬし)」・・カラフト南部の能刀登呂半島(ロシア名クリリオンスキー半島)南端の集落。寛政2年(1790)に交易所を設けた。蝦夷地からの渡航地でもあった。

(7-910)「二百十日」・・立春から数えて二一〇日目に当たる日。九月一日頃で、稲の開花と台風の襲来とがぶつかる時期なので、農民は厄日として警戒する。

(7-10)「手当」・・あらかじめその用に備えること。また、そのために配置される人。

(8-3)「実備(じつび)」・・実際に役にたつ備え。

(8-3)「当時」・・ただいま。現在。現今。

(8-4)「警衛(けいえい)」・・かためまもること。

(8-45)「行届兼候筈無之、強而」・・『蝦夷地廻浦録』には、「行届兼候筈無之」と「強而」の間に「乍去、極寒窮陰之地、風土に馴れ不申候而は、冬分凌方無之」がある。

(8-5)「士分以上」・・『蝦夷地廻浦録』には、「以上」は、「以下」とある。

(8-5)「而已(のみ)」・・漢文の訓読体。「而已」という終助詞にあたる用法で「而(すなは)ち已(や)む」の意

(8-5)「火辺(ほべ・ほへ・かへん)」・・火のそば。暖炉のそば。

 *「火」を「ほ」と訓じる例・・「火影(ほかげ)」「火照(ほて)る」「火群(ほむら)」「火口(ほくち)」など。

 *常用漢字表の「音訓欄」に「ほ」があり、「火影」を例示している。

 *なお、万葉仮名で、「火」は、「ひ」「ほ」と読む。

   **「降雪火影(ほかげ)にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す」(国木田独歩『武蔵野』)

   **「ゐろりの火(ほ)かげに寐所をまうけて臥す」(芭蕉『奥の細道』)

(8-6)「浮腫(ふしゅ)」・・皮下組織内に、組織間液が大量にたまった状態。押すとへこむ。むくみ。

(8-6)「雪車(そり)」・・そり。

(8-6)「橇(かんじき)」・・

(8-7)「徒(いたづら)に」・・何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。むやみやたらに。わけもなく。ただひたすら。

(8-7)「逸居(いっきょ)」・・気楽に遊び暮らすこと。怠けて暮らすこと。

(8-8)「下情(かじょう)」・・下の階層の事情。為政者などから見た庶民の実情。

(8-8)「実功(じっこう)」・・実際の仕事や職務。

(8-8)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。

(8-8)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。

(8-10)「給分(きゅうぶん)」・・給料。

(8-11)「歩卒(ほそつ)」・・徒歩の兵卒。徒武者(かちむしゃ)。足軽。歩士。

(9-1)「急度(きっと)」・・きびしく。厳重に。なお、江戸時代の刑罰に「急度叱(きっとしかり)」がある。

庶民に科せられた刑罰の一種。叱(しかり)の重いもので、厳重に叱責するだけで放免する軽刑。叱と同様、犯罪者本人だけでなく、連座した者にもしばしば科せられた。

(9-2)「枢要(すうよう)」・・かなめ。影印の「樞」は、「枢」の旧字体。

(9-5)「調練(ちょうれん)」・・訓練を積むこと。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見   学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年2月10日(月)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『ふなをさ日記』1月学習の注

              
(18-1)「北極七十度」・・シトカの緯度は、北緯57度。

(18-12)「所所也」・・「所」の字

がふたつあり、重複している。

(18-3)「日も」・・異本は、「日々」に作る。

(18-3)<変体仮名>「そ(所)ら晴わたり」の「そ(所)」・・変体仮名「所(そ)」は、めったに見ない。『くずし字用例辞典』P1262上段には、「そよ」「それは」の2例がある。「所」を「ソ」と読むには呉音。手元の漢和辞典には、「ソ」と読む熟語は見当たらない。なお、「所」は、万葉仮名「そ」の乙類だが、万葉集には、6例しかない。「所許(そこ)」「所己(そこ)」「己所(こそ)」など。

(18-3)「雰(きり)」・・「霧」とは別に常用漢字になっている。「雰囲気」「雰霧(ふんむ)」など。

 *【雰霧】ふんむ・・きり。「資財己の用を爲さず、名位得て守るべからず。晨霜秋露、雰霧の氣有り。朝に凝(こ)ると雖も、夕に消ゆ。」(晋・劉『石勒に遺る書』)

(18-4)「初の」・・異本は、「先の」に作る。

(19-1)「入津(いりつ・にゅうしん・にゅうつ)」・・船が港に入ること。入港。

(19-2)「祝義(しゅうぎ)」・・「しゅう」は「祝」の漢音。「祝言(しゅうげん)」など。祝いの儀式。祝典。

(19-3)「有合(ありあう)」・・ものがたまたまそこにある。折よくその場にある。ありあわせる。

(19-8)「たけなは」・・「酣」、「闌」を当てる。ある行為・催事・季節などがもっともさかんに行なわれている時。また、それらしくなっている状態。やや盛りを過ぎて、衰えかけているさまにもいう。最中(さいちゅう)。もなか。まっさかり。語源説に、「ウタゲナカバの約」などがある。

(20-2)「け坊主」・・「けし(芥子)坊主」で、「し」が欠か。「芥子坊主」は、子供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、まわりを全部そったもの。

(20-3)「替りたり」・・違っている。普通は「変りたり」と、「替」でなはなく、「変」を使う。

(20-6)「何卒(なにとぞ)して」・・「何卒(なにとぞ)」に同じ。手段を尽くそうという意志を表わす。どうぞして。なんとかして。なにとぞして。

*<漢字の話>「何卒(なにとぞ)」の「卒」・・「卒」は、漢音で「ソツ」「シュツ」、呉音で「ソチ」「シュチ」。「卒」は、1字で「とぞ」と読むのではなく、「と・ぞ」の「ぞ」で、漢音の「ソツ」の国訓(当て読み)。代名詞「なに(何)」に助詞「と」と「ぞ」が付いてできたもの。したがって、「何卒」を「なにとぞ」と訓じるのは、「何(なに)と卒(ぞ)」という、いわば、熟字訓といえる。

(20-8)「南京知らぬとこたふる」・・異本は、「南京」の「京」と「知らぬ」の「知」の間に、「人は」があり、「南京人は知らぬと答ふる」に作る。ここは、<南京人は、「知らぬ」と答ふる>が読みやすいか。

(20-11)「定りて」・・動詞「さだまる(定)」の連用形に助詞「て」の付いてできたもの。

きっと。必ず。まちがいなく。

(21-4)「砂糖」・・日本への砂糖の渡来は奈良時代、754年(天平勝宝6)に唐僧鑑真が来日の際、黒糖を持ってきたのが最初といわれている。「東大寺献物帳」(756)にも「蔗糖」の記事がみえるが、これは薬用に用いられていた。室町時代に入って、中国との貿易が盛んとなり、砂糖の輸入も多くなった。しかしその量は微々たるもので、同じような状態が江戸時代まで続いた。

 日本に製糖法が伝わったのは、慶長年間(15961615)奄美(あまみ)大島の直川智(すなおかわち)が台風のため中国福建に漂着し、そこでサトウキビ栽培と製糖の技術を習得、ひそかにサトウキビの苗を持ち帰って植え付けたのに始まるという。

(21-6)「いかにせまし」・・副詞「いかに」に、サ変動詞「す」の未然形「せ」、推助動詞「まし」の付いたもの。

 もしするならどうしようか。「いかにせん」も、意味はだいたい同じであるが、「いかにせまし」のほうが、ためらいの気持が強い。

(21-9)<古文書の典型>「嬉しかりき」の「き(幾)」の右の「ヽ(てん)」・・右に打つ点はなるべく離して打つ。

*ひらがなの「お」「か」「む」に「ヽ(点)」があるわけ。

*「於」→「お」         「加」→「か」          「武」→「む」

(21-10)「興に入来る」・・おもしろくなる。おもしろがる。感興を覚えて夢中になる。

(22-4)「はや(早)げ」・・形容詞「はやい」の語幹に、接尾語「げ」の付いたもの。いかにも早そうなさま。

(22-56)「もだしがたければ」・・黙ってはいられず。「もだし」は、「もだ(黙)す」の連用形で、そのままにしておく。無視する。

(22-7)「すがすが(清清)」・・副詞。多く「と」を伴って用いる。物事の進行が、さわやかに滞ることのないさまを表わす語。すらすら。

(22-8)「おもい侘(わび)て」・・思い悩んで。「侘びる」は、あれこれと思いわずらうこと。

(22-10)「よまひ言」・・世迷言。ひとり言に、愚痴を言うこと。わけのわからない繰り言を言うこと。不平をかこつこと。また、そのことば。人の発言・意見などをののしって言うのにも用いる。当初、「いまひ事」と書かれていたが、「事」の左に見せ消ち記号の「ニ」があり、右に「言」と訂正してある。

(22-10)「唐人(からびと)」・・外国人。

(23-5)「ほむる」・・褒める。「褒(ほ)む」の連体形。

(23-7)「又、あすもメリケン船へ集るよしを、重吉、つらつら思ひ廻ス」・・異本は、「あすも」と「メリケン船へ」の間に、「外の」があり、「明日も外のメリケン船へ集るよし」に作る。

1月『蝦夷地見込書秘書』注(2)

(2-9)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・徒目付(かちめつけ)に従って、各種の調査や警備などに当たった。

(2-10)「字(あざ・あざな)」・・土地の小区画としての名称として始まり、近世以後、行政区画単位としての性格を強めた。

(2-10)「トマリ」・・江戸期、リイシリの中心地。リイシリ運上屋があった。現利尻富士町本泊。

(2-10)「運上家(うんじょうや)」・・蝦夷交易のため場所(松前藩は蝦夷地を場所に分けて、その地の蝦夷交易権を知行として藩士に与えていた)に設けられた出張所。交易が場所請負人の手に移ってからは、その商人の出張所の形となり、蝦夷との交渉にあたる通詞、書記にあたる帖役などに助けられて支配人が番人・稼方などを指揮し、交易や漁業にあたった。寛政11年(1799)幕府直轄後、東蝦夷地では会所と呼ばれ、民政を司ることになったので、西蝦夷地でも蝦夷地各地の中心的施設となり、住民の福利厚生・通信・交通・宿泊などみなここで行われるようになった。

(3-1)「北請(きたうけ)」・・北向き。「請」は、ある方向に向いている部分。

(3-1)「入澗(いりま)」・・港。「澗」は、河口を利用した河港と区別して、入江や島かげを利用した港をいう。日本海岸から北海道地方にかけて使われることが多い。掛り澗。

(3-12)「弐艘ならでは澗懸(まがか)り不相成」・・2艘以外は、澗懸りできない。2艘しか、澗懸りでしない。「ならでは」は、通例、あとの打消の表現に呼応する。…でなくては(…しない)。…でなければ。…以外には。「澗懸り」は、船を船澗(ふなま)に碇泊させること。

(3-2)「ヲシトマリ」・・鴛泊。ウシトマリ。現利尻富士町鴛泊。利尻島の北部海岸に位置する集落。「松浦図」には「シヤコカイウシ」とある。資料3.「松浦図」参照。

(3-45)「ラエトマリ」・・松浦武四郎著『東西蝦夷山川地理取調図』(以下、単に「松浦図」)には、「エラエトマリ」とある。現利尻富士町沼浦と鬼脇の間付近。「オタドマリ沼」がある。資料3.「松浦図」参照。

(3-6)「船囲(ふなかこ)ひ」・・数か月以上使わない船を、水上に繋留し、または陸に引き揚げ、船体全体を苫・筵で覆って傷まないように処置すること。

(3-7)「ヲタトマリ」・・現利尻富士町沼浦付近。資料3.「松浦図」参照。

(3-9)「可成(かなり)」・・十分ではないが一応の程度までいっているさまにいう。形容動詞の「かなり」の語源は、よいとして許す意味の「可」に断定の助動詞「なり」の付いてできたもの。

(3-10)「トヽ」・・椴(とど)松。

(3-10)「ヲンコ」・・オンコ。イチイ科の常緑針葉高木。別名イチイ。アララギ、昔この材から笏(しゃく。礼服または朝服を着用するとき、右手に持つ細長い板)をつくったことから、位階の正一位(しょういちい)にちなんでつけられたといわれる。

(3-10)「トウヒ」・・マツ科の常緑針葉樹。エゾマツの一変種。

(3-11)「生木(なまき・いきき)」・・地に根をはって、生き生きとしている樹木。

(3-11)「立木(たちき・たつき・りゅうぼく)」・・地面に生えて立っている木。

(4-1)「盛業(せいぎょう)」・・事業、商売などがさかんであること。

(4-2)「手(て)」・・仕事をする力。労力。また、仕事をする人。人手。「手があく」「手を貸す」「手が足らぬ」「手がかかる」「手を分かつ」「手がつまる」「手がすく」「手がやける」

(4-5)「通船(かよいぶね・かよいせん・つうせん)」・・航路・河川・関所などを船が通航すること。また、その船。

(4-6)「節々(せつせつ)」・・おりおり。ときどき。ときたま。

(4-7)「乗寄(のりより)」・・寄港すること。

(4-8)「子丑(ねうし)」・・ほぼ北北東。実際は、礼文島は、利尻島の北西にある。

(4-8)「レフンシリ」・・礼文島。漢字表記地名「礼文」のもととなったアイヌ語に由来する地名、島名。

(4-8)「蝦夷地」の「地」は、見せ消ち・・「蝦夷地」の「地」の左に小さく見せ消ち記号の「ヒ」がある。したがって、ここは、「蝦夷地家」ではなく、「地」を読まず、「蝦夷家」と読む。

(6-4)「本蝦夷地」・・北蝦夷地に対する東西蝦夷地本土。

(6-6)「証跡(しょうせき)」・・後に、そのことが事実、真実であることを証明する痕跡(こんせき)。証拠となるあとかた。

(6-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実

(6-7)「本末前後」・・『大学』(中国の経書)の「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。(物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)するところを知ればすなわち道に近し)」を引くか。

(6-7)「循序(じゅんじょ)」・・順序。順番にしたがうこと。順番どおりに行なうこと。

(6-8)「経尽」・・「尽」は、「営」の誤りか。『蝦夷地廻浦録』には「経営」とある。

(6-8)「永制(えいせい)」・・ながく変わらない制度。

(6-10)「砂利」・・シヤリ。シヤリは、漢字表記地名「斜里」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(6-10)「藩籬(はんり」」・・領地。「藩」、「籬」ともに、まがきの意。

(7-1)「捨郭(すてぐるわ)」・・山城を築く時、くるわにするように地をきりならし、塀をかけないでそのままにしておく箇所。敵の攻撃を受けたとき、防御の拠点とする。

(7-2)「堅固(けんご)」・・防備などがしっかりしていて攻撃されても容易に破られないこと。ものがかたくしっかりしていること。また、そのさま。

(7-2)「出丸(でまる)」・・本城から張り出して築いた小城。出城。

(7-3)「備立(そなえだて)」・・兵を配置すること。軍陣をつくること。また、その配置や陣。陣立。

(7-5)<見せ消ち>「取捨置候姿を以故」の「を以」・・「を以」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があるので、「を以」は、読まず、「取捨置候姿故」と読む。

(7-6)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。

(7-7)「先轍(せんてつ)」・・前例。

(7-7)「松前伊豆守」・・松前藩主・松前崇広(たかひろ)。文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849729日のこと。

(7-9)「白主(しらぬし)」・・カラフト南部の能刀登呂半島(ロシア名クリリオンスキー半島)南端の集落。寛政2年(1790)に交易所を設けた。蝦夷地からの渡航地でもあった。

(7-910)「二百十日」・・立春から数えて二一〇日目に当たる日。九月一日頃で、稲の開花と台風の襲来とがぶつかる時期なので、農民は厄日として警戒する。

(7-10)「手当」・・あらかじめその用に備えること。また、そのために配置される人。

(8-3)「実備(じつび)」・・実際に役にたつ備え。

(8-3)「当時」・・ただいま。現在。現今。

(8-45)「行届兼候筈無之、強而」・・『蝦夷地廻浦録』には、「行届兼候筈無之」と「強而」の間に「乍去、極寒窮陰之地、風土に馴れ不申候而は、冬分凌方無之」がある。

(8-5)「士分以上」・・『蝦夷地廻浦録』には、「以上」は、「以下」とある。

(8-5)「而已(のみ)」・・漢文の訓読体。「而已」という終助詞にあたる用法で「而(すなは)ち已(や)む」の意

(8-5)「火辺(ほべ・ほへ・かへん)」・・火のそば。暖炉のそば。

 *「火」を「ほ」と訓じる例・・「火影(ほかげ)」「火照(ほて)る」「火群(ほむら)」「火口(ほくち)」など。

 *常用漢字表の「音訓欄」に「ほ」があり、「火影」を例示している。

 *なお、万葉仮名で、「火」は、「ひ」「ほ」と読む。

   **「降雪火影(ほかげ)にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す」(国木田独歩『武蔵野』)

   **「ゐろりの火(ほ)かげに寐所をまうけて臥す」(芭蕉『奥の細道』)

(8-6)「浮腫(ふしゅ)」・・皮下組織内に、組織間液が大量にたまった状態。押すとへこむ。むくみ。

(8-7)「徒(いたづら)に」・・何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。むやみやたらに。わけもなく。ただひたすら。

(8-7)「逸居(いっきょ)」・・気楽に遊び暮らすこと。怠けて暮らすこと。

(8-8)「下情(かじょう)」・・劣った心。自分の心や気持を卑下していう。

(8-8)「実功(じっこう)」・・実際の仕事や職務。

(8-8)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。

(8-8)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。

(8-11)「歩卒(ほそつ)」・・徒歩の兵卒。徒武者(かちむしゃ)。足軽。歩士。

1月『蝦夷地見込書秘書』注(1)

                      

*参考文献・・特に引用文献を記さない場合は、『日本国語大辞典』『国史大辞典』『日本歴史地名大系』『日本百科全書(ニッポニカ)』『字通』(いずれもジャパンナレッジ版)、『新潮日本語漢字辞典』(新潮社)、『古語辞典』(旺文社)を参照した。

◎テキスト影印について・・本書の原本は、国立国会図書館所蔵である。影印は、その写本で、全く同一の北海道立図書館と北海道大学附属図書館のふたつの図書館所蔵の『蝦夷地見込書秘書』(以下単に『秘書』)を比べ、適宜、比較的かすれなどの少なく、見やすい影印を選んで使用した。

◎『秘書』の書誌・・テキスト影印の表紙と本文冒頭(P12)に、いつくかの印・付戔がある。これらに触れると、わが国の国立図書館史にもなると思うので、その略史を記す。(国立国会図書館支部上野図書館刊『上野図書館八十年略史』1953参照)

 ①明治5年(18726、文部省達により、博物局書籍館(しょじゃくかん)が東京湯島の旧幕府の聖堂を利用して設置。蔵書は旧昌平坂学問所・和学講談所・医学館・開成学校の引継資料が多かった。

②翌明治6(1873)319太政官達により、博物館・博物局・小石川薬園とともに正院博覧会事務局に合併。

③明治7(1874)729、湯島聖堂が地方官会議の議場に宛てられたために、東京浅草の旧米庫に移転し、翌八月十三日これを浅草文庫と称した。

④明治8(1875)29日、官制上これを文部省に復帰し、蔵書・備品のことごとくを博覧会事務局に移管。

⑤明治8(1875)48、文部省は「東京書籍館(しょじゃくかん)」を再び旧湯島の聖堂に設置、同省所蔵図書をもって閲覧の用に供した。したがって官制・内容ともに新設の図書館となった。明治10(1877)215日閉鎖。その理由は、西南戦争の戦費を得るため最も弱い文化機関を廃止するためであった。

⑥明治10(1877)215、東京書籍館の永井久一郎館長補の働きで、東京府に移管され、「東京府書籍館(しょじゃくかん)」となった。しかし振るわなかった。

⑦明治13(1870)71、再び文部省に復帰、「東京図書館」と称し、市民図書館として成功を得た。

⑧明治18(1885)、東京上野公園内の東京教育博物館内に移転。

⑨明治30(1897)422、同館長田中稲城らの努力によって「帝国図書館」の官制を施行し、同館が帝国図書館となった。

⑩明治39(1896)3月、東京都台東区上野公園の現在の地に新館の一部を建築して移転したが、日露戦争後の不況により建築は完成せず、昭和4年(19298月ようやく増築した。

⑪昭和22(1947)124日政令によって「国立図書館」と改称。

⑫昭和23(1948)29日、国立国会図書館法が公布。

⑬昭和23(1948)65日、国立国会図書館が赤坂離宮を仮庁舎として開館。昭和36(1961)永田町現庁舎に移転。

⑭昭和23(1948)81日静嘉堂・東洋文庫を、翌年41日東京上野の帝国図書館を吸収し、また、各省庁の図書館を支部図書館として全体の構成を整えた。

◎「名古屋県学校」・・「名古屋県」は、明治初期、主として尾張国(愛知県)、美濃国(岐阜県)にあった県。明治4年(1871714日の廃藩置県とともに成立。同5(1872)42日、愛知県と改称されるまで約10ヶ月存続した。(資料1参照)。当初は江戸時代の尾張名古屋藩領から成瀬隼人正家の封土を承継した犬山県域を除く、尾張国愛知・春日井・丹羽・葉栗・中島・海東・海西・知多郡および美濃国の一部などを管轄。4(1871)11月犬山県を併合、同年同月知多郡を額田(ぬかた)県に割く。県庁を名古屋の旧藩臣竹腰(たけのこし)竜若(正旧)邸に設置。4(1871)12月、宇和島県貫属士族井関盛艮が県権令に就任。

 *「名古屋県学校印」・・名古屋県は、明治4年(1871714日~明治5(1872)4月日の間存続した県。この印は、本テキストが「東京書籍館」所蔵以前に、「名古屋県学校」の所蔵であったことが覗える。なお、それ以前の所蔵については、印章からは確定できない。ただ、旧名古屋藩の藩校明倫堂が所蔵していた可能性が高い。明倫堂は、明治2(1869)11月、藩は、職制改革で、「明倫堂」の号を廃して、単に「学校」と称した。この「名古屋藩学校」は、明治4(1871)714日の廃藩置県を受けて、同月27日、廃止になった。(名古屋市役所刊『名古屋市史学芸編』 1915参照)

◎「明治九年文部省交付」・・「文部省」は、明治4年(18717月の廃藩置県直後の同月18日に創設された中央教育行政機関。文部省は、各官庁に貸出していた書籍や、旧藩の藩校旧蔵の書籍を回収して、東京書籍館に交付した。

◎印章から本書の原本の書誌を考察すると、

 ①「名古屋県学校」所蔵(のち愛知県)

 ②明治9(1876)、文部省は、『蝦夷地見込書秘書』を愛知県から回収、「東京書籍館」に交付する。

  ①「東京書籍館(しょじゃくかん)」所蔵。(P2中央の丸印)

②明治13(1870)、「東京図書館」所蔵。(表紙の付戔)

③明治30(1897)、「帝国書図書館」所蔵。(P2中央の角印)

④現在は、「国立国会図書館」所蔵。

(1-表題)「見込書秘書(みこみしょひしょ)」・・「見込書」は、「大体の予想、見通しについて書きしるした文書」。「秘書」は、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 ①秘して、人に見せない書物。秘蔵の本。また、秘伝を書いた書物。

 ②秘密で、重要な文書。機密文書。

 ③天子が秘蔵する書物。宮中の蔵書。

 とあるが、本テキストは、②に当るか。

(2-1)「奉(ほう)」・・献上すること。『蝦夷地廻浦録』(北海道大学附属図書館蔵)には、この「奉」の字はない。

(2-1)「猪俣英次郎」・・安政元年(1854)、村垣与三郎配下の勘定方として、蝦夷地巡検に加わる。

(2-2)「安間純之進(あんまじゅんのしん)」・・北海道立文書館のホームページの「星野家所蔵安間純之進文書」 の「私文書群の作成者に関する情報 」に詳しい経歴が掲載されているので、引用する。

 ・江戸時代後期の幕府の官吏。

 ・1804年(文化元)1019日甲斐国都留郡小沼村(山梨県西桂町)の渡邊家(さきたま屋)に生まれる。

 ・江戸の御家人・玉木家の養子となるが離縁、次いで安間家の養子に入る。

 ・1854年(安政元)、支配勘定のとき、目付堀利煕・勘定吟味役村垣範正に従い、蝦夷地及び樺太に出張。

 ・同年、箱館奉行支配調役、1857年(安政4)、同組頭勤方、次いで組頭を歴任。箱館台場建築の功により将軍から拝領物があった。

 ・1862年(文久2)西丸切手御門番之頭に任ぜられるとともに「永々御目見以上」を仰せ渡され、正式な旗本家となった。

 ・幕府瓦解後は星野家(山梨県大月市)の立て直しに尽力。

 ・1887年(明治201020日死去、享年84歳。

 ・なお、蝦夷地出張の途次、松前藩からの依頼に応じ、箱館に来航したペリーへの対応を、徒目付平山謙二郎、蘭学者武田斐三郎(あやさぶろう)らと共に手助けした。

(2-3)「西蝦夷地」・・松前藩は、自己の支配する範囲を松前(シャモ地・人間地とも通称された)と称し、蝦夷地と区別し、その範囲を、城下を中心として西は熊石付近、東は汐首岬付近までとした。そして蝦夷地には藩の許可なくして和人の往来を禁じて永住を許さず、西は熊石、東は亀田に番所を設けてこれを取り締った。蝦夷地は城下から西行して達する西蝦夷地もしくは上蝦夷地と、東行して達する東蝦夷地もしくは下蝦夷地に分かたれており、寛政十一年(一七九九)幕府が東蝦夷地を直轄した時、箱館付近から襟裳岬を経て知床岬までの間およびその付属の島々を限り、内陸では千歳川筋漁(恵庭市)と斜里山道カンチウシに境杭が立てられた。

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