(37-1)<変体仮名の話>「言ければ」の「け(介)」・・「介」を「け」とするのは、なぜか。「介」の呉音に「ケ」があり、万葉仮名でも「け」。しかし、一説に、①「介」の字母(漢字の音の基本となる文字)が「个(カ)」であるといい、「个」は、物や人を数える語で「箇」の同じとする。②「介」の部分からカタカナの「ケ」ができ、のち、変体仮名の「け」として使われるようになった。
(37-1)「明は」・・「明日の朝」で、「日の朝」欠か。異本には、「明日の朝は」とある。
(37-1~2)「とらの時」・・午前4時頃。
(37-4)「ねや(閨・寝屋)」・・寝室。
*<漢字の話>「閨」・・ジャパンナレッジ版『字通』に、<アーチ形のくぐり戸のような門戸をいう。もと里中に設ける小門であった。〔爾雅、釈宮〕に「宮中の門、之れを闈(イ)と曰ふ。其の小なる者、之れを閨(ケイ)と曰ふ」とあり、後宮に設けることが多い。のち閨房の意となる。のち閨房の意となる。>とある。
**「閨秀(けいしゅう)」・・才芸にすぐれた女性。
(37-6)<変体仮名の話>「違わず」の「わ(王)」・・「王」は漢音・呉音とも「オウ」であるが、変体仮名で「わ」とするのは、「王」の歴史的仮名遣いが「ワウ」であったことによる。
(37-6)「心を取て」・・人の気持を察して。
(37-7)<変体仮名の話>「計(ばかり)にて」の「に(丹)」・・①「丹」の解字は、「丹砂(たんさ)」(深紅色の鉱物)を採掘する井戸の象形。「ヽ」が丹砂をあらわす。「丹」は、国訓で「に」。万葉仮名でも「に」。「青丹(あおに)よし」など。
②「丹」の部首は、「ヽ」部で、「チュ」と発音する。「てん」部」、「ちょぼ」部とも。
(37-8)「いらぬ事」・・むだなこと。
(37-10)「安かるべし」・・「安し」は、らくらくと物事を行なうことができる。容易である。
(37-11)「偽(いつわ)り」・・うそを言う。だます。
(38-3)「冨家(ふうか・ふか・ふけ)」・・富裕な家。財産家。かねもち。
(38-5)「北より三人の目の女」・・異本のひとつには、「北より」を「此より」とある。
(38-6)「彼(かれ)」・・話し手、相手以外の人をさし示す。明治期まで男にも女にも用いた。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<明治以降、西欧語の三人称男性代名詞の訳語として、口頭語に用いられるようになった。明治以前は、人を指示する場合、男女を問わなかったが、明治以降に同じく訳語として定着していった「彼女」との間で、しだいに男女の使い分けをするようになったと考えられる。>とある。
*「たそがれ」・・古くは「たそかれ」。「誰(た)そ彼(か)は」と、人のさまの見分け難い時の意。夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれどき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。
*「かわたれ」・・「彼(か)は誰(たれ)」の意。「かわたれどき」は、あれはだれだとはっきり見分けられない頃。はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。夕方を「たそがれどき」というのに対して、多くは明け方をいう。
(38-10)「念頃(ねんごろ)」・・懇ろ。心がこもっているさま。親身であるさま。
(39-3)「迎(むかい)」・・「迎」は、「向」か。異本は、「向い」としている。
(39-6)「包(つつま)ず」・・隠さず。「包む」は、かくすの意。
(39-7)「打わらひ」・・「うち」は接頭語。「打わらう」は、あざけり、おかしさ、よろこびなどの気持で、口をあけて笑い声をたてる。ふと笑う。
*「わかき人は、ものをかしく、みな、うちわらひぬ」(『源氏物語・常夏』)
(39-8)「ま事(こと)」・・真事(まこと)。真実の事柄。事実。
*「正真事(しょうまっこと)」・・まことを強めていった語。正真正銘であること。うそいつわりのないこと。また、そのさま。
(39-8)<変体仮名の話>「此国に」の「に(耳)」・・「耳」の漢音は、「ジ」だが、呉音では「ニ」。また、万葉仮名の「に」。
(39-9)「帰ることなかるべし」・・異本は、「帰ることなるべからず」としている。
(39-11)「まどひ」・・「惑(まど)ふ」の連用形。「惑う」は、考えが定まらずに、思案する。
(40-1)「言取(いいとり)たる」・・「言い取る」は、ことばで表現、伝達する。話し合う。
(41-1)「乱妨(らんぼう)」・・暴力を用いて無法に掠めとること。他人のものを理不尽に強奪すること。掠奪すること。
(41-1~2)「わきて」・・分て。別て。動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。
(41-6)「広東」・・中国南東部、広東省の省都現広州の旧称。
(41-6)「南京(ナンキン)」・・中国、江蘇(こうそ)省の省都。同省南西部の長江が北東から東へ流れを変える屈曲点に位置する。
(41-6~7)「かしこ」・・彼処。あそこ。本文では、広東、南京のこと。
(41-8)「廻り通(どお)し」・・「廻り遠し」か。「通」は、「遠」の当て字か。「廻り遠い」は、目的地の達するのに遠回りであること。
(41-9)「ヲホーツカ」・・オホーツク。現ロシア連邦東部、ハバロフスク地方の町。オホーツク海北西岸の漁港。、1647年に冬営地ができ、そこに1649年にコソイ小柵(しょうさく)(砦(とりで))が建設された。19世紀なかばまでロシアの太平洋岸の主要港で、カムチャツカ、千島、日本、アラスカなどへの探検隊の基地となった。
(41-10)「仙台の善六」・・善六は、仙台藩石巻の若宮丸(800石積)の水主で、ロシア漂着後、イルクーツクで洗礼を受けロシアに帰化した。ロシア名ミハイル・ジェラロフとか。若宮丸は、寛政5年(1793)11月27日、仙台藩御用米を積んで江戸に向ったが強風のため漂流、寛政6年(1794)5月10日、アリューシャン列島の無人島に漂着。その後オホーツクに到着、イルクーツクを経て首都ペテルブルクに到着した。享和3年(1803)、世界一周をめざしたナデジタ号に、遣日使節レザノフが乗船し、日本への帰国を許された若宮丸の乗組員津太夫ら4名と通詞役として帰化した善六も乗船した。享和3年(1803)6月16日、ナデジダ号は、バルト海のクロンシュタット港を出港、南アメリカを迂回して太平洋に出、ハワイを経てカムチャッカ半島のペトロハバロフスクに入港。帰国漂流民と善六のいがみ合いのため、善六は、ペトロハバロフスクで下船した。
ナデジダ号は、文化元年(1804)9月6日、長崎に到着。津太夫らは、日本に帰還した。彼らは最初に世界一周した日本人である。
さて、善六は、その後、文化10年(1813)ゴローニンを引き取りに箱館に来たリコルドの通詞として、20年ぶりに日本の土を踏んでいる。その後、善六は、イルクーツクに帰り、日本語教師を勤めている。文化13年(1813)頃、イルクーツクで死亡したという。