森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2014年06月

 『ふなをさ日記』6月学習の注

(42-1)「我は廻り道なれども」・・異本は、「我は」と「廻り道なれども」の間に、「ヲホーツカへ行くは」があり、「我は、ヲホーツカへ行くは廻り道なれども」とある。           

(42-1)<くずし字の趣>「道」・・「首」+「しんにょう」。「しんにょう」が、ほとんど「点(ヽ)」になんている。

(42-2)<くずし字の趣>「順」・・「川」+「頁(おおがい)」。「川」の3画目の「l」が極端に長く、旁の「頁」は、小さい。なお、「順」の部首は、「川」でなく、「頁」。

(42-7)「ゑんせう(えんしょう)」・・煙硝。

 火薬。「せう」は歴史的仮名遣い。発音は、「エンショー」

(43-2)「午未(うまひつじ)」・・南南東。

(43-4)「加模西葛杜加」・・カムチャッカ。「カムシカツトカ」とルビがある。『宛字外来語辞典』(柏書房)には、

「カムチャッカ」の当て字として、「堪察加」が一般的だが、ほかに、「加模沙都加」「柬砂葛」「柬寨加」「柬察加」など。 *カムチャッカ・・アジア大陸の北東端部から南方へ、太平洋に突出する半島。東側はベーリング海、西側は千島、サハリンとともにオホーツク海を囲む。火山が多い。中心都市はペトロパブロフスク‐カムチャツキー。

 カムチャッカの略史 

カムチャツカ半島について、西洋人に詳細な情報がもたらされ始めたのは17世紀のことである。イワン・カムチャッキーやセミョン・デジニョフなどのロシアの探検家によって、この地域の情報が集められた。17世紀末には入植が開始されている。1697年、カムチャツカのはるか北部にあるアナディールから、ウラジミール・アトラソフ率いる約120人の軍勢がカムチャツカ西岸を南進し、アイヌとの戦闘が起こった。カムチャダールの集落には伝兵衛という漂流民の和人が居住していたが、アトラゾフに捕らえられペテルブルクに連行された。連行された和人は、ペテルブルクで日本語学校の校長として生涯を終えている。1700年(元禄13年)、幕命により、松前藩は勘察加(カムチャツカ半島)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。1708年頃にはカムチャツカはロシアによって占領される。
1713年
頃には約500名のコサックが居住していた。1715年(生徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加(カムチャツカ半島)」は松前藩領と報告。その後、18世紀前半には、ブィトス。ベーリングにより2度の探検が行われている。、1729年、日本人ゴンザとソウザ17名(二人以外は後にロシア側に殺害されたという)の乗った「若潮丸」が半島南端のロパトカ岬付近に漂着。1731年から1739年までカムチャダールの大反乱が起こったが、ロシア人はなどの武器を使用し反乱を制圧。日本人大黒屋光太夫の一行がペテルブルクへ向かう途中、1787年から約1年カクチャッカに滞在しており、当時の様子が「北槎聞略」に記されている。1854年にはクリミヤ戦争のため、英仏艦隊がペトロハバロフスク・カクチャッキーに来寇している。(この項『ウィキペデア』より)

*なお、「カムサスカ」は、干鮭(からざけ)が転音したもので、昔は日本へ干鮭を運送・交易していたので、カムチャッカも日本の属島だとする荒唐無稽なこじつけがましい解釈が行われていた。(菊地勇夫著『エトロフ島 つくられた国境』=吉川弘文館=)

(43-4)「カムサスカの鼻」・・カムチャッカ半島南端のロパトカ岬か。ロパトカ岬の緯度は、北緯5087分。

 細川かたしは、演歌「北緯五十度」のなかで、「北緯五十度もう見おさめだ・・・ さらばさよならロパトカ岬」と歌う。

(43-5割注)「凡四□五十里」・・影印の「四」と「五」の間の文字は不明。異本は「凡四五千里」としている。

(43-5)「爰より蝦夷迄廿三島つゞきたり」・・「廿三島」は、千島列島のこと。カムチャツカ半島と日本列島との間に一列に並ぶ二十三の島より成る。最初、寛永20年(1643)オランダ探検船によって発見紹介され、カムチャツカ半島を征服したロシア人が正徳3年(1713)来島して経営に着手、元文34年(173839))ベーリングの探検によって全貌が明らかにされた。ロシアは東洋貿易の基地を求めて、ウルップ島を根拠地として安永7年(1778)に納沙布の松前藩根拠地に来航して通商を求めた。同藩はこれを拒絶したが、ロシアは寛政4年(1792)松前、文化元年(1804)長崎と相ついで使節を送った。この情勢に対応して宝暦4年(1754)交易所がクナシリ島に進められ、幕府は天明56年(178586)大規模な蝦夷地調査隊を派遣、寛政12年(1800)蝦夷地を直轄に移しエトロフ島を開発した。文化元年(1804)長崎に来航したロシア使節が、翌年幕府の通商拒絶にあうや、文化34(180607)、ロシア船が択捉および樺太の日本根拠地を襲って乱暴を働いた。ために日露両国の間は緊張したが、文化8(1811)たまたま国後島に寄港したロシア測量船長ゴロウニン以下を日本側が捕えて拘囚し、部下がその釈放に尽力した事件を契機として和解した。その後折々ロシア船が択捉島に漂流民を送還するにとどまり、真の解決は安政元年(1854)日露和親条約締結まで待たねばならなかった。この条約により、両国国境は択捉・得撫両島を隔てる択捉海峡に引かれた。明治2年(18698月、日本はエトロフ・クナシリ両島を合わせて千島国と称し、北海道の一部に編入した。明治8(1875)樺太・千島交換条約が締結され、日本は、慶応3年(1867)両国雑居の地と決められた樺太から撤退して全島がロシア領となり、その代償として得撫島以北の千島列島の領有権を得、列島すべてが日本領となった。

 *主要な島の数は25を超えるが、面積50平方キロメートル以上の島を北から順にあげると、以下の13島である(〔 〕内はロシア語読み)。

 占守(しむしゅ)〔シュムシュ〕島、阿頼度(あらいと)〔アライド〕島、幌筵(ほろもしり)〔パラムシル〕島。(以上北千島)

 温禰古丹(おねこたん)〔オネコタン〕島、春牟古丹(はるむこたん)〔ハリムコタン〕島、捨子古丹(しゃすこたん)〔シャシュコタン〕島、松輪(まつわ)〔マツア〕島、羅処和(らしょわ)〔ラシュア〕島、計吐夷(けとい)〔ケトイ〕島、新知(しんしる)〔シムシル〕島、得撫(うるっぷ)〔ウルップ〕島(以上中千島)。

 択捉(えとろふ)〔イトルプ〕島、国後(くなしり)〔クナシル〕島(以上南千島)。

(43-56)「クリー」・・千島列島。クルミセ(久留味世とも書き、「人間」を意味するアイヌ語の「クル」に由来)などとよばれ、列島の名称になったとされる。英語名クリル諸島Kuril Islands、ロシア語名もクリル諸島Курильские Острова/Kuril'skie Ostrova

(43-6)「奥蝦夷」・・ジャパンナレッジ版『国史大辞典』には、「松前に近い地方を口蝦夷、遠い所を奥蝦夷と呼んだが、その境は、東は襟裳岬、西は神威岬であった」とある。

 また、『北海随筆』(板倉源次郎著)には、「東西海に乗り馴れたる船方の者どものいへるは、ソウヤ迄弐百七、八十里、キイタツプ迄三百里ばかりといふ。(中略)此東西両所迄は松前より商船行て交易して、是より奥へは船かよはず、地つづきて蝦夷人も住居せる村々有。此舟かよわざる所凡百五十里といふ。是を奥蝦夷ともいふとなり」とある。

(43-7)「二島(にとう)はヱゾへ近くて日本の島なり。」・・「二島」は、クナシリ・エトロフ両島。寛永10(1789)727日、近藤重蔵は、エトロフに渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。寛政12(1800)5月、エトロフ島掛となった近藤重蔵、山田鯉兵衛はエトロフ島に渡海、オイトに会所を設け漁場13ヶ所を開いた。

(44-1)「晴(はる)れば」・・晴れれば。

*<文法の話>・・接続助詞「ば」は、已然形に接続する。下2動詞「晴(は)る」の已然形は「晴(は)るる」。活用は、「晴れ」(未然)・「晴れ」(連用)・「晴る」(終止)・「晴るる」(連体)・「晴れよ」(命令)。

従って、ここは「はるれば」。「はれれば」は現代文。

(44-3)「ふ(経)る」・・時がたつ。年月が過ぎる。「ふ(経)る」は、下2動詞「経(ふ)」の連体形。

*<文法の話>終止形は、下2動詞「経(ふ)」。活用は、「経(へ)」(未然)・「経」(へ)」(連用)・「経(ふ)」(終止)・「経(ふ)る」(連体)・「経(へ)よ」(命令)。

(45-45)「迎迎に来り」・・「迎」が重複している。

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6月『蝦夷地見込書秘書』

(15-1)<漢字の話>「教諭」の「諭」と「輸」にかんして

 「運輸」などの「諭」を「ユ」と読むのは「慣用音」。「慣用音」は、呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音のこと。主として漢字の偏旁などの字体に惹かれて誤ったものが多い。漢字を日本語(やまと言葉)に当てはめた「訓読み」とは区別して言う。

 「輸」の音読みは、「シュ」で、「ユ」の読みはない。では、なぜ、「ユ」と読むのか。「教諭」の「諭」の旁の「兪(ユ)」に惹かれて、音が転じ、それが日本で通用したもの。

 したがって、「輸血」は、本来は「シュケツ」。同様に「諭入」は「シュニュウ」、「運輸」は「ウンシュ」が本来の読み。漢和辞典には、「輸送」に「ユソウ・シュソウ」のふたつの読みが書かれている。「輸出」も「ユシュツ・シュシュツ」がある。

 *その他の慣用音の例・・①「消耗」の「耗」は、旁の「毛」に惹かれて「モウ」と読む。正しくは「コウ」。②「情緒」の「緒」は「ショ」が正しく、「チョ」は慣用音。

 ③その他、「堪能」の「堪(カン)」を「タン」、「立案」の「立(リュウ)」を「リツ」、「雑誌」の「雑(ゾウ)」を「ザツ」、「喫茶」の「喫(けき・キャク)」を「キツ」、「演劇」の「劇(ケキ・ギヤク」)を「ゲキ」と読むなどは慣用音。

 *百姓読み・・韻書(中国で韻文をつくるさいに脚韻をふむ参考書として、文字をその韻によって分類し、韻目の順に配列した書物。)に合わない音を「百姓読み」という。「百姓読み」それは必ずしも慣用音ばかりでなく、一時的な誤読をさした場合もある。「垂涎(すいぜん)」を「すいえん」、「洗滌(せんでき)」を「せんじょう」、「絢爛(けんらん)」を「じゅんらん」などというたぐい。

(15-1)「専務(せんむ)」・・もっぱら行なうべきつとめ。

 (15-3)「退去いたし候」・・ロシアは、嘉永6829日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイらは、樺太占領の命を受けてクシュンコタンに来航、いわゆるムラビヨフ哨所を築いた。一方、ヨーロッパでロシアがトルコに干渉、ロシアの南下を恐れる英仏もトルコ側に参戦、クリミヤ戦争が勃発し、アジアでも英仏艦隊がロシアに対し活動を強め、ロシアは、シベリア防衛のため、安政元年518日、クシュンコタンを撤退せざるを得なかった。

 (15-5)「下向(げこう)」・・都から地方へ行くこと。

(15-5)「仮令(たとい・たとえ)」・・仮に想像してみれば。

 *<文法の話>「たとい」は、「たとふ」の連用形の名詞化。また、「たとえ」は、「たとい」が「たとえ」の語形に同化したもの。

 「たとう」の語源説のひとつに、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<物を立てて比べる意で、タツ(立)から出た語〔国語の語根とその分類=大島正健〕。タトヒは、物と物とを対立させて比べる意でタチアヒ(立合)の約〔国語溯原=大矢透・大言海〕。>をあげている。

 なお、「仮令」は、もともとは漢文で、「けりょう」「かれい」と読み、日本語の「たとい」に当てはめた国訓。

*「假令(たとひ)臣を誅すとも、秦の爲に黔中(けんちゅう)の地を得ば、臣の上願なり。」(『史記』)

*「假令僕伏法受誅 若九牛亡一毛」(假令=たとい=僕の法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡=うし=なうが若し)〔司馬遷『報任少卿書』〕

(15-6)「飢餲」・・「餲」は、「渇」か。「飢渇(きかつ)」は、腹がヘリ、のどがかわくこと。「餲」の読みは「アイ」。

(15-7)「生来(しょうらい)」・・生まれつき。もともとの性質。持って生まれたたち。

(15-7)「愚直(ぐちょく)」・・正直すぎて気がきかないさま。ばか正直。

(15-8)「信実(しんじつ)」・・まじめで偽りのないこと。まごころのあること。また、そのさま。正直。律義(りちぎ)。

(15-10)「憐愍(れんびん)」・・あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。

(15-11)秤量(しょうりょう)」・・「称」「秤」はともにはかる意、「秤」は「称」の俗字。はかりにかけて目方をはかること

(15-11)「心を用ひ」・・「心を用いる」は、気をくばる。注意を払う。配慮する。

(16-2)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。時間的な時期、機会を意味するほか、一般に、その時の物事の情況、状態、条件などをさしていう。

(16-2)「銃陣(じゅうじん)」・・銃で武装した兵隊からなる陣。

(16-3)「外患(がいかん)」・・外国や外部から圧迫や攻撃を受けるおそれ。

(16-4)「一廉(ひとかど)」・・相当に。相応に。人並みに。いっぱしに。「廉(かど)」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

<カドは「少しかどあらん人の、耳にも目にもとまること、自然多かるべし」〔源氏‐帚木〕に見られるように才能の意。このカドは、中世には衰退傾向にあったらしく、ヒトカドなどの複合語の構成要素に見られるのみになっている。>とある。

(16-4)「警衛(けいえい)」・・警戒し守ること。かためまもること。「衛」は、守る事。解字は「宮室などの周囲をめぐりあるくの意味からまもるの意味を表す」(『漢語林』)「護衛・後衛 ・前衛・自衛 ・防衛・守衛」など。「衛生」は、養生することで、「生きるために衛(まも)る」こと。

(16-5)「生質(せいしつ・しょうしつ)」・・生まれつきの性質。

(16-6)「本文(ほんもん)」・・主になっている文章。

(16-8)「不取締(ふとりしまり)」・・取り締まりの悪いこと。しまりがないこと。また、そのさま。不用心。

(16-1117-1)「被

仰付」・・半丁を超えての平出になっている。

(17-1)「憐恤(れんじゅつ)」・・あわれんで恵むこと。情をかけて物を施すこと。

(17-1)「狎(なれ)」・・「狎れる」の連用形。「狎れる」は、うちとけすぎる。「狎」の解字は、「犭(犬)」  

 +「甲」。「甲」はおさえるの意味。犬などを自分の意のままにおさえこむ、飼いならすの意味を表す。

(17-2)「後変」・・『開拓諸書付』は、「後弊」としている。

(17-3)「教化移俗(きょうかいぞく)」・・「教化」は、教え導くこと。「移俗」は、風俗を移すこと。ここでは、アイヌの人々を教え諭し、日本の風俗に移行させつこと。

(17-4)「取捨(しゅしゃ)」・・取ることと捨てること。よいものを取って用いることと悪いものを捨てて用いないこと。

(17-8)「倍(ますます)」・・『開拓諸書付』は、「傍(かたわ)ら」としている。「倍」は、いよいよ。漢文の「倍(バイ)」の国訓。

 *「独在異郷異客、 独(ひとり)異郷ニ在(あり)テ、異客(いかく)ト為リ、

佳節親」  佳節ニ逢ウ毎(ごと)ニ、倍(ますます)親(しん)ヲ思ウ

(ただ独り、異国にあり、めでたい節句の日に出逢うたびに、ますます肉親のことが懐かしく思われる)〔唐、王維、「九月九日憶山東兄弟詩」〕

(18-1)「遣払(つかいばらい)」・・金銭を払うこと。支払い。

(18-3)「魚猟(ぎょりょう・うおとり)」・・魚をとること。漁猟。漁(りょう)。漁獲。

(18-4)<見せ消ち>・・「弐千五百目」の「五百」の「五」と「百」の左に、それぞれ、「ヒ」のような記号があり、右に「石」とある。これを「見せ消ち」といい、「五百」を「石」と訂正し、「弐千五百目」を「弐千石目」としている。

(18-4)「石目(こくめ)」・・枡ではかった量。枡目(ますめ)。

(18-45の下)<角括弧内の3行>・・「付札」してかかれた文章。「付札」とは、下知(指令)、意見、返答などを記して本紙に貼付した紙のこと。つけがみ。張札。付箋。本テキストは写本であるので、付札であることを示すために、角括弧を付けてある。

(18-78)『開拓諸書付』は、8行目の「金千五百六拾両」の前の行に「此諸入用内訳」とある。この方が、文意に合っているか。

(18-10)「仕向(しむけ)」・・取扱。

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