森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2014年07月

『ふなをさ日記』8月学習の注

(52-2)「又の日」・・①次の日。翌日。②別の日。後日。ここでは、①か。

(52-2)「そこに一年計居ける」・・「そこ」とは、北千島のオンネコタン島。実際には7ヶ月ほど。

(52-2)「明(あく)る年」・・文化11(1814)

(53-4)「そこたち」・・「たち」は接尾語。対等以下の複数の相手にやや丁寧な気持をこめて用いる。

(53-4)「賄(まかない)」・・費用を出すこと。

(53-5)「いぶかしく思ひ」・・「いぶかし」は、疑わしい。よくわからない。語源説に、<イブカシキ(息吹如)の義で、イブキは、口から吹かれる息の意とも、霧の意ともいう>などがある。

 *<漢字の話>「訝」・・「いぶかる」は、「訝る」と書くが、「訝」の解字は、「言」+「牙」で、音符の「牙」は、つきだすきばの意味。疑いの気持をつきだし、言葉で確かめる、いぶかるに意味をも表す。

(54-1)「賄賂(わいろ)」・・自分に都合のよいようにとりはからってもらう目的で他人に贈る品物や金銭。まいない。そでのした。

 *<漢字の話>1「賄」・・解字は、「貝」+「有」。「貝」は、財貨で、むかし貝殻を貨幣としたのでいう。音符の「有」は、食事を手にして人にすすめるの意味。財貨を人に贈るの意味を表す。

 *<漢字の話>2「賂」・・解字は、「貝」+「各」。音符の「各」は、いたるの意味。財宝をもたらす・おくるの意味を表す。

(54-2)「いやしむる」・・下2動詞「いやしむ」の連体形。「いやしむ」は、いやしいものとして見下げる。軽んずる。さげすむ。いやしぶ。賤しい。

 *<漢字の話>「賤」・・解字は、「貝」+「戔」。音符の「戔」は、小さい、すくないの意味。金品が少ないの意味から、身分が低いの意味を表す。

(54-3)「振廻(ふるまい)」・・振舞。「舞」に「廻」を当てることもある。

 *「昔は大身小身は申に及ばず、軽き壱人も召仕ふ程の者、町人迄も正月は椀飯振廻(ワウバンブルマヒ)とて、親類縁者子供まで、洩さずよび集め、夫々分限相応に結構して、目出度とことぶき、うたひののしり、酒もりして遊ぶ。〈略〉是故に疎なる親類の中も、椀飯振舞に亦したしく成事あり」(随筆・『八十翁疇昔話』1716年頃か)

 *<日本語の話>「椀飯振廻(おうばんぶるまい)」・・「椀飯」の「おう」は、「わん(椀)」の変化したもの。

  「椀飯(おうばん)」・・王朝時代、公卿たちが殿上に集まったときの供膳。鎌倉・室町時代には将軍家に大名が祝膳を奉る儀式となり、年頭の恒例として、また、慶賀の時などに行なった。応仁の乱以後はあまり行なわれなくなり、江戸時代には、民家で正月に親類などを招いて宴を催すことをいった。大供応。盛饗。

  なお、「大盤振舞(おおばんぶるまい)」と書くのは、「おうばんぶるまい(椀飯振舞)」から転じて「大盤」などの字をあてるようになったもの。

  また、「椀飯(おうばん)」と「大盤(おおばん)」は、ルビが違う。

(54-4)「髪剃(こうぞり・かみそり)」・・「こうぞり」は、「かみそり」の変化した語。髪をそる小型の刃物。こ

うずり。かみそり。中古から中世にかけては「かうぞり」とも言ったが、近世には「かみそり」が一般化した。

 かみそりは、現在ではひげを剃る理容器具の一種であるが、本来は僧侶が剃髪をするのに用いた物である。『和

名抄』には「加美曽利」という文字が僧坊具の一つに数えられている。つまり仏教の伝来とともに中国からも

たらされたもので、僧侶が厳しい戒律によって、剃髪具として用いたことに始まるといえる。(ジャパンナレ

ッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

 現在、「剃刀」に「かみそり」を当てるが、熟字訓という。

*熟字訓・・漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。常用漢字表付表にない熟字訓に、土筆(つくし)、水母(くらげ)、私語(ささやき)、故郷(ふるさと)がある。

 平成22(2010)に改定された常用漢字表の付表には、これまでの110個から6個追加されて116個の熟字。

*<わたくしごと>「髪剃菜(こうぞりな)」・・コウゾリナ。キク科の多年草。顔剃菜(かおそりな)または剃刀菜(かみそりな)のなまったものといわれる。私が生活した日高の様似町のアポイ岳には、特別天然記念物の固有種エゾコウゾウリナがある。毎年、その花を見に、アポイに登った。

(54-9)「皆人(みなひと)」・・その場にいる人、全員。すべての人。

(54-11)「懇(ねんごろ)」・・「ねもころ」の変化した語。心をこめて、あるいは心底からするさま。熱心である

さま、親身であるさま。また、手あついさま。語源説のひとつに、「ネは根、ゴロは如の義。草木の根の行き

渡るがごとき心配りの意」がある。

(54-11)「つらつき」・・面付き。顔つき。おもだち。つらがまえ。

(55-4)「ヲンテイレハン」・・P54は、「ヲンテレイハン」。「イ」と「レ」が逆。

(55-5)「都よりのは仰には」・・「都よりのは」の「は」は誤記か。異本には、この「は」はなく、「都よりの仰

せには」としている。

(55-8)「そこ立(たち)は」・・「そこ達は」。「達」に「立」を当てている。あなた達は。

(56-4)「仙台の善六」・・「仙台(藩内、石巻)の善六」。寛政5(1793)1127日、16人が乗組み石巻を出

帆した若宮丸の乗組員。寛政8(1796)3月、乗組員中最初にイルクーツクで洗礼、洗礼名ピョートル・ステ

ファノビッチ・キセリョーフ。同年夏、イルクーツクで日本語学校教師補。文化12(1815)、同校正教師に

なる。レザノフの日本渡航時、通訳としてカムチャッカのペトロハバロフスクまで同行。文化10年(1813)

福山に囚われていたゴローニンらの受け取りにリコルドの通訳として箱館に来た。善六は、文化13(1816)

イルクーツクで死亡している。したがって、重吉がカムチャッカに着いた時には、善六は、イルクーツクに存

命であった。

*善六とロシアの日本語学校・・ロシアにおける最初の日本語学校は、1737年、ペテルブルクの科学アカデミー附属して設置された。その後、1753年イルクーツク移転が決定され、1754年イルクーツク航海学校が開設されたとき、その中に日本語学校が付設された。1816年に閉鎖されるまで、約80年間続いた。その間の日本人漂流民が教師として係ったことを略記する。

 ・17361739(ペテルブルク)・・ゴンザとソーザ(薩摩漂流民)

 ・17461785?(ペテルブルク・イルクーツク)・・竹内徳兵衛配下7名。(南部佐井の漂流金)「さのすけ」の息子は、露日辞典『レキシコン』を作る。

 ・17911796(イルクーツク)・・光太夫配下の庄蔵、新蔵(伊勢漂流民)

 ・17961810(イルクーツク)・・新蔵、善六(仙台石巻の若宮丸漂流民)。新蔵、「和露辞典」著す。

 ・18101816(イルクーツク)・・善六(仙台石巻の若宮丸漂流民)、善六、レザノフの「露和辞典」に寄与。

 ◎漂流民の日本語学校の活動は、教師が学のない漂流民であり、ロシア東洋学史にさほど大きな足跡を残さなかった。他方、まさに学のなかったことが、貴重な日本方言資料を生み出し、日本語学校は、日本方言学にきわめて大きな寄与をなしている。(この項、村山七郎著「ロシアの日本語学校について」=早稲田大学図書館刊『早稲田大学図書館紀要』第5号 1963=参照)

*若宮丸・・石巻出帆後、塩屋崎沖で漂流し、寛政6(1794)510日、アリューシャン列島に漂着。その後、

シベリヤを横断してイルクーツクに到着、更に首都ペテルブルグに行き、アレクサンドル1世に謁見、帰国の

意思を確認された漂流民にうち、津太夫ら4名が帰国を希望した。帰化した6人はロシアに残ることになった

が、帰化組のひとり善六は、通訳として世界一周の旅に同行することになった。5名を乗せたナジェジダ号と

ネヴァ号は、1803723日サンクトペテルブルグのクロンシュタット港から出航した。世界一周艦隊は、

コペンハーゲン、ファルマス(イギリス)、カナリア諸島、サンタカタリーナ島(ブラジル)南太平洋のマル

ケサス諸島を経て太平洋を渡り、カムチャッカ半島のペトロハバロフスクを経て長崎に到着した。彼らは、期

せずして、最初に世界一周した日本人となった。

資料2.若宮丸漂流民の足跡(『世界一周した漂流民』所収)

(56-3)「ユクーツカ」・・イルクーツク。ロシア連邦中部の都市。イルクーツク州の州都。バイカル湖の南西約

70キロメートル、アンガラ川とイルクート川の合流点に位置する。シベリア東部の経済・交通の要地であり、

化学・機械などの工業が盛ん。人口、行政区58万(2008)。17世紀半ばにコサックが砦(とりで)を築いたこと

に起源し、毛皮の集散地として発展。帝政ロシア時代は政治犯の流刑地だったほか、第二次大戦後は日本人の

主な抑留地の一つだった。なお、イルクーツクの日本語学校のついては、別添の東出朋著「ロシアにおける日

本語教育のあけぼのーロシアの東方政策から考えるー(九州大学比較社会文化学府刊『比較社会文化研究』第

34号 2013)参照。

(56-45)「カピタン」・・ポルトガル語のcapitãoに由来し、もとは、船長または船隊司令官の意である。カピ

タン=モールは、ポルトガル人の海上での最高司令官であるとともに、アジア在任地での首席・長官をさした。

一五五〇年代に、ポルトガルは日本貿易にもこの制度を設けた。日本人はこれを略して甲比丹と呼んだが、の

ちに平戸のイギリス・オランダの商館長をもそう呼び、特に鎖国以後は、もっぱら長崎のオランダ商館長をさ

すことになった。本書では、イルクーツク長官の意味か。

(56-5)「日本詞」・・「日本通詞」。「通」欠か。異本の多くは「日本通詞」とする。

(56-7)「徃来には十八ヶ月」・・ちなみに、現在のシベリヤ鉄道のウラジオストック~モスクワ間は、9,259キロ

 あり、6泊7日かかる。

(56-11)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま
(56-11)「内々(ないない)」・・ひそかに。内密に。

(56-11)「非是」・・「是非」の誤記か。ルビは「せ(ぜ)ひ」としている。 

  8月『蝦夷地見込書秘書』注                            

(23-4)「人別(にんべつ)」・・戸籍。

(23-5)「新井田隆助(にいだ・りゅうすけ)」・・安永6(1777)4月、藩命を受けて上下6人と共に、飛騨屋の船2隻で樺太に渡海、同島南部を見分、アイヌ介抱を実施した。「初而同島江渡海」とあるが、『新北海道史』によると、新井田の渡海以前にも、松前藩士が樺太に渡海した記述がある。

 ・寛永初年(1624)、松前藩主・公広(きんひろ)派遣の家士が樺太のウッサムまで巡回。

 ・寛永12(1635)、松前藩、佐籐加茂左衛門・蠣崎蔵人らをして樺太を見分させる。晩秋にいたり福山に帰る。

 ・寛永13(1636)、家士甲道庄右衛門を樺太に派遣、ウッサムで越年して翌春タライカまで経歴して帰る。

 ・元禄2(1689)、松前藩、藩士蠣崎伝右衛門を地図作成のためカラフトに派遣。(一説にカラフトには至らずと。)のち、元禄御国絵図となる。

 ・宝暦元年(1751)2月、松前藩士加藤嘉兵衛、樺太渡海・軽物交易の許可方を出願、かつ海鼠引漁業の調査を実施し報告する旨申出る、この件許可につき同年5月上下4人樺太に渡海・家作。以後宝暦7年(1757)まで毎年貨物を積載して近樺太シラヌシに渡り、山靼切地・十徳・青玉・魚油・干鱈・海豹皮などを交易し、藩に御用軽物を上納。

(23-67)<尊敬の体裁・平出>・・6行目の「検査致し候由」で、改行している。これを「平出」といい、古文書の趣のひとつ。7行目冒頭の「公辺」への敬意を表す。

(23-7)<尊敬の体裁・欠字>・・「渡海被 仰付」の「被」と「仰」の間に1字分空いている。これを「欠字」という。「仰」に敬意を表している。

(23-7)「公辺」・・公儀と同じ。

 *「公儀」・・近世の国家権力の呼称。語源的には公(おおやけ)の事柄・儀式、朝廷などを指したが、戦国時代には領域一円をおおう超越的で公権性のある政治権力(者)を指すようになる。将軍足利義昭は公儀と呼ばれた。しかし公儀は天下という、より普遍性をもつ概念に対しては下位にあった。元亀三年(一五七二)に織田信長は義昭を批判した意見書のなかで「天下之御為」として「公儀」義昭を責め、翌天正元年(一五七三)「公儀」に「御逆心」ありとして追放する。そのころ有力な戦国大名が公儀と自称し、家臣から公儀と呼ばれたり異なる用語で公儀と同義の意味を表わしたりし始める。全国支配権を失った幕府将軍の公儀性を奪うように地方的小公儀が生まれ、それらが真正の公儀の位置をめざして競争する。その際に足利氏公儀との結合あるいは継承がその近道であるとする判断が上洛への熱意をかきたてた。それを実現した信長は、足利氏公儀を追い、みずからも家臣から公儀と呼ばれたが、唯一の公儀たるべく他の戦国的公儀を粉砕する天下布武の戦争をすすめた。豊臣秀吉は天下統一の事業を継承しみずからを公儀と称し、私戦を禁じ百姓に農耕専一を命じ、天下の無事を約束したが、秀吉までは公儀意思は絶対権力者の個人的な恩恵に左右される人格的な色彩が色濃い。これに比し徳川氏が築きあげた公儀は、将軍個人の人格とは区別される法的組織的公儀であった。将軍個人の恣意が働く場合もあったが、撫民・御救の政治という原則が生き続け、老中合議を中心とする機関的公儀が政治をすすめた。それから外れる場合は民衆が一揆などの手段で撫民を要求した。大名もはじめ公儀と称したが、やがて公儀名代の立場で独自の仕置(しおき)を行い、公儀を背景に領内への威信を示そうとするようになる。そして幕府が大公儀とも呼ばれるようになる。近世後半以降、幕府の撫民能力喪失によって民衆諸身分の公儀離れが強まり、さらに対外関係の不手際で近世公儀の権力構造は根本的に疑われるようになる。(『ジャパンナレッジ版日本国史大辞典』)

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『ふなをさ日記』7月学習の注 

(47-1)「ヲロシヤの船エゾへ来り」・・文化8(1811)6月に、千島測量のためゴロウニン率いるディアナ号はクナシリ沖に来航、ゴロウニンはクナシリ島トマリに上陸し、会所役人と会見したが、会見中逃走をはかったためを幕府役人は彼らを捕えて箱館に幽囚、翌年8月にゴロウニンの安否確認にクナシリ島にやってきた副将リコルド率いるディアナ号が来航した。

(47-2)「大ごうけつ」・・高田屋嘉兵衛のこと。観世丸に乗船し箱館への帰途にクナシリに寄港したところをリコルドに拿捕され、カムチャツカに連行された。

(47-3)<文法の話>「かゝる」・・ラ変動詞「かかり(斯有=かくあり=)」が、近世以降、しだいに連体形による連体修飾用法だけに限られるようになり、現代口語文に残存したもので、改まったかたい表現に用いる。

このような。かくのごとき。

(47-34)「ヲロシヤ人も折々言出して舌をまきて居たりし」・・嘉兵衛は、カムチャッカで、ロシア語を習得し、翌年五月に国後島に送還され、ゴロウニン釈放、紛争の平和的解決のため、日露両国の交渉・調停に尽力し、日露の両当事者からその能力を賞賛された。

(47-5)「ルタカウ」・・ロシヤ海軍大尉イリヤ・ルダーコフ。リコルド不在中、カムチャッカ長官代理。

(47-2)「おこす」・・遣(おこ)す。こちらに送ってくる。よこす。

(47-6)「許(もと)」・・<漢字の話>「許」の訓は、「もと」では、「其許(そこもと)」「此処許(ここもと)」「国許(くにもと)」などがあるが、他にもさまざまある。「何許(いずこ)」、「如許(かくのごとし)」、「為許(なにがために)」、「許嫁・許婚(いいなずけ)」、「許多(あまた)」、「幾許(いくばく)」など。

(47-7)「にしきえ」・・錦絵。浮世絵の多色刷り木版画の総称。精巧な技術により多くの色を正確に刷り分けて、錦のような美しいいろどりを示す。江戸時代、明和2年(1765)絵暦の流行を契機として、絵師鈴木春信が、俳諧師・彫師・摺師の協力を得て創始、江戸を中心として発展した。絵師に、勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・歌川豊国・葛飾北斎・歌川(安藤)広重などがいる。

(47-78)「忠臣蔵の十段目」・・「仮名手本忠臣蔵」の十段目は、「天川屋義平内の場」。討入りの支度の一切を頼まれた天河屋義平(天野屋利兵衛)の元へ大勢の捕り手が踏み込んできて、武器を隠しているだろうと尋問する。白状しないとみると、幼い一子由松の喉に刀をつきつけて口を割らせようとするが、義平は長持ちの上に座り、「天川屋の義平は男でござる。子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」と啖呵を切る。そこへ由良之助が現れ、これは義平の義侠心を試すために仕組んだことであると詫び、次のように語って舞台を去る。「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存。一国の政道を任せたとしても惜しからぬ器量」云々・・。

(47-8)「つゞき絵」・・二枚以上が組になって一つの構図・場面を表わした絵。一枚ずつでもある程度の独立性があって鑑賞できる。特に浮世絵についていうことが多い。

(47-9)<文法の話>「見する」・・下2動詞「見す」の連体形。ここは、本来は、終止形の「見す」だが、連体形で終わっている。「見する」のあとに「由」「事」などを省略する手法を「連体止め」という。

(47-9)「都ベトロブ」・・ペテルブルグ。ロシア連邦北西部の大都市サンクト・ペテルブルグの略称。設立時から1914年まで用いられたのち、一時ロシア風にペトログラードとよばれだが、ロシア革命後の24年レニングラードと改称、91年のソ連崩壊後ふたたびサンクト・ペテルブルグに戻った。

(48-5)「薩摩(さつま)の人三人」・・薩摩籓の手船永寿丸の船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人。

 *<永寿丸の漂流と重吉らとの出会いと帰国>略年表

  ・文化9(1812)1019日、鹿児島藩主島津斉興(なりおき)手船永寿丸(23反帆600石積)は、江戸屋敷への廻米を積んで薩摩・脇本湊(現鹿児島県阿久根市脇本)を出帆。乗組員は、船頭の喜三左衛門ら25人。

  ・同年123日、紀州沖で、強風に遭い漂流。漂流中、13人が病死。

  ・文化10(1813)924日、北千島ハルムコタン島に漂着。強風で破船、6人は溺死。上陸した6人のう

ち、3人が死亡。残った船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人は島民に救助される。

  ・同年10月末、オンネコタンに渡り、翌文化11(1814)5月パラムシル島に渡る。7月、ロシア役人とともに、ロパトカ岬に上陸、ボリシエレックを経て、8月ペトロパヴロフスク着。長官代理ルダーコフと面会。

  ・文化12年(18155月ペトロパヴロフス出帆、海上40日でオホーツク着。710日頃、ロシヤ船パーウェル号で、オホーツク出帆、8月初めエトロフ沖に達するが強風のため上陸できず、9月中旬ペトロパヴロフスへ乗戻る。

  ・同年(1815)9月1日、ペトロパヴロフスクで永寿丸の3人と、督乗丸の重吉、音吉、半兵衛の3人が出会う。6人はペトロパヴロフス越冬する。

  ・文化13(1816)5月、永寿丸の喜三左衛門、督乗丸の重吉ら6人が、ロシヤ船パーウェル号で帰国の途に就く。611日、督乗丸の半兵衛病死。

  ・同年628日、重吉ら5人ウルップ島上陸。77日エトロフ島に渡り、松前へ護送され、92日、松前着。

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7月『蝦夷地見込書秘書』注

(19-2)「附届(つけとどけ)」・・「つけとどけ」は、現在では、「贈りもの」とか「賄賂」という意味で使われるが、ここでは、単に、「届け」「提出」くらいにの意味か。

 *<漢字の話>「附」・・①「附」は、「付」の旧字体ではなく、別の字。「付」と「附」の元来の意味では、「付」は「あたえる(付与・交付など)」、「附」は、「つく(附着・附録・附近など)」であったが、いまの国語ではいずれの場合も「付」でかかれることが多い。ただし、官庁・法律の用語で「附属」「附則」などには、「附」用いる。(この項『漢語林』参照)

 ②「付」も「附」も、別々に常用漢字になっている。

  .常用漢字とは・・「一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安を、次の表のように定める。」(平成221130日内閣告示第二号)とあり、「次の表」、つまり、「常用漢字表」の「前書き」には、「この表は、法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現在の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」

 ロ.「附則」は、法令で使われるから、「附」は常用漢字。

  ハ.また、大臣認証書、法律・政令・条約の公布文や批准書、大使の信任状、叙勲の表彰には、「大日本国璽」と「璽」が使われるから、「璽」(「御名御璽」の「璽」)も常用漢字。

.」も常用漢字・・「朕」は、昭和21年(1946)に「日本国憲法上諭」で使用されたのが最後で、その後は使われていない。「は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

御名 御璽

昭和二十一年十一月三日」

(19-3)「厚薄(こうはく)」・・あついこととうすいこと。多く、物事の度合が十分であるかないかにいう。

(19-3)「先前(せんぜん・せんせん)」・・さきざき。まえまえ。まえかた。前前(ぜんぜん)。

 *「先前様(せんぜんさま)」・・「さま」は接尾語。さっきのお方様。最前のお方。

(19-3)「仕来(しきたり)」・・動詞「しきたる(仕来)」の連用形の名詞化。昔からのやりかた。以前からのな

らわし。先例。慣例。

(19-6)「領主より役場へ」・・『蝦夷地廻浦録』は、「より」を「並」とし、「領主並役場へ」とある。

(19-9)「仕切金(しきりきん・しきりがね)」・・売主が買主から受けとるべき代金、立替金、諸経費の総額。仕

切銀。しきり。

(20-1)「給扶持(きゅうぶち)」・・支給される扶持。

(20-2)「惣体(そうたい)」・・あるものの全体。物事のすべて。

(20-9)「等閑(とうかん・なおざり)」・・物事をいいかげんな気持ですること。気にもとめないで放っておくこ

と。なおざりにすること。おろそか。ゆるがせ。

(21-2)「長崎俵物(ながさきたわらもの)」・・江戸時代、長崎貿易の輸出品となった俵詰めの干塩魚。

(21-2)「煎海鼠(いりこ・いりなまこ)」・・①ナマコのはらわたを取り去って煮て干したもの。薬用、また、中

華料理の材料などに用いる。ほしこ。きんこ。②小さいイワシなどの雑魚(ざこ)を煮て干したもの。煎り雑

魚。煎り干し。煮干し。

(21-3)「墾開闢」・・「墾闢」「墾開」「開闢」はあるが、テキストのような3字の「墾開闢」は、手元の辞書には

見当たらない。『蝦夷地廻浦録』『開拓諸書付』とも、「開」はなく、「墾闢」としている。

・「墾闢(こんぺき・こんびゃく)」は、荒地をきり開くこと。また、新しい分野をきり開くこと。開墾。「闢」はひらく意。

・「墾開(こんかい)」は、山林や原野を切り開いて、耕地にすること。開墾。

・「開闢(かいびゃく」は、荒れ地などが切り開かれること。

(21-4)「銕□」・・『開拓諸書付』は「鉄坑」としている。

(21-6)「治定(じじょう)」・・物事にきまりがつくこと。落着すること。また、そうすることに決めること。

(21-6)「見据(みすえ)」・・判断。

(21-7)「差向(さしむき)」・・①さしあたり。今のところ。当面。②いってみれば。さしずめ。

(21-7)<見せ消ち>・・「御差数」の「差」の左に「ヒ」にような記号が見えるが、これは見せ消ちの記号。「差」

の右に「手」が書かれてあるが、「差」を「手」に訂正した意味。ここは「御手数」とする。

(21-8)「不被為懸(かけさせられず)」・・漢文訓読調にすると、「不懸」と返り点が3つある。

 *<構成>下2動詞「懸(か)く」の連用形「懸(か)け」+使役の助動詞「為(さす)」の未然形「為(さ)せ」+使役の助動詞「被(ら)る」の未然形「被(ら)れ」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」

(21-9)「粗(あらあら)」・・おおよそ。ざっと。概略。通常「粗粗」と書くが、「粗」1字だけでも、「あらあら」

と読む。

(21-10)「堀織部正(ほりおりべのかみ)」・・箱館奉行堀利熙(としひろ)。堀は、嘉永6(1853)目付となり

翌安政元年(1854)122日、松前蝦夷地事務取扱を仰付らる。28日松前蝦夷地出張を命じられ、327

日江戸出発、54日松前着、510日宗谷に向い福山出発。612日カラフトのクシュンコタンに渡航。帰

途は西蝦夷地を経て、820日、箱館帰着。一方、幕府は、630日に箱館奉行を置く。堀は、721日、箱館奉行に補され、従5位に叙し官名が織部正となった。堀は、カラフトの帰途であった。

 *「織部(おりべ)」・・「織部司(おりべのつかさ)」の略。織部司は、令制で大蔵省に属する官司。錦、綾、羅、紬を織り、また、いろいろの染物のことをつかさどった。職員に正(かみ)、佑(すけ)、令史(さかん)各一人と挑文師(あやどりのし)四人、挑文生(あやどりびと)八人ほかがいる。

 *<漢字の話>「熙」・・①漢音・呉音とも「キ」。部首は「火」の「連火(れんが)」又は「列火(れっか)」で総画は15画。②解字は、形声文字で、「巸」+「火」。音符の「巸」(イ・キ)は、授乳を待つ胎児の会意文字で、よろこぶの意。火を付し、よろこびや光の意味をあらわす。(『新漢語林』)

③「」は日本人の名前に使われる場合、「おき・さと・てる・のり・ひろ・ひろし・ひろむ・よし」などがあるは、堀利熙の場合、「としひろ」が一般的。なお、「」は平成2年(1990)に人名漢字になっている。元首相の「細川護煕(もりひろ)」の「」。

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