森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2014年08月

9月学習『ふなをさ日記』の注

(57-1)「一同に」・・一緒に。

(57-3)「去(さる)にても」・・然るにても。[連語]《動詞「さり」(ラ変)の連体形+連語「にて」+係助詞「も」》「然」を「去」とするのは、当て字。「さる」は、「然有(さり)」で、副詞「さ」にラ変動詞「あり」の連体形「ある」のついた語で、「さある」が変化した語。そうであっても。それにしても。それはそれとしても

(57-5)「心へたり」・・文法的には、「心へ」は、「心え」が正しい。「心得(う)」は、ア行下2動詞だから、その連用形は、「心え」。

(57-6)「受(うけ)がひ」・・承知して。「うけがふ」は、「肯ふ」で、よいと認める。肯定する。承諾する。承知する。

(57-6)「こよなう」・・この上なく。非常に。とても。形容詞「こよなし」の連用形。「こよなし」は、後世、連用形、連体形が文章語として「この上ない」の意に用いられる。語源に関しては「これ(是)より(従)無し」「こよ(越)無し」「このよ(此世)無し」などの説がある。

(57-10)「深切(しんせつ)」・・他人への心情で、思いやりのあること。特に相手のために配慮のゆきとどいていること。また、そのさま。この味が派生したのは中世ごろからと思われる。「日葡辞書」の訳語は現在の「親切」にあたるが、「フカイタイセツ」とあるので、表記は「深切」であったと考えられる。(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「深切」の補注』)

(58-2)「滞留(たいりゅう)」・・旅先にしばらくとどまっていること。滞在。逗留。

(58-2)「くさぐさ」・・種々。物事の種類や品数などの多いこと。また、そのさま。いろいろ。さまざま。

(58-3)「片はし」・・片端。ほんの一部分。一端。

(58-3)「聞(きか)まほし」・・聞きたい。「まほし」は、動詞および助動詞「す」「さす」「ぬ」の未然形に下接する。話し手、またはそれ以外の人物の願望を表わす。…したい。

 *「まほし」の語誌・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <(1)語源については、推量の助動詞「む」のク語法「まく」と形容詞「欲し」とが合した「まくほし」が変化したとする説、「ま」に直接「欲し」が付いたとする説などがある。

(2)奈良時代から平安初期までは「まくほし」が用いられ、その後の和歌やかなの日記・物語などでは、「まほし」が用いられている。訓点語には用例が見られない。鎌倉時代になると、擬古的な文章を除いて一般的には「たし」が多用されるようになり、中世以後は雅語としてとらえられた。

(3)話し手以外の人物の願望を表わすところから、接尾語として取り扱う説(時枝誠記)もある。

(4)(2)の、そうあってほしいというところから、理想的だという意味の「あらまほし」のような用法が成立した。>とある。

(58-4)「からき思ひ」・・つらい思い。「からき」は、「辛(から)し」の連用形。「辛し」は、苦しい。つらい。せつない。悲痛だ。

(58-6)「まなび」・・学び。見たり聞いたりしたことを、そっくり人に語り伝える。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「まねぶ」の語誌に、

 <マナブは漢文訓読文、マネブは和文にそれぞれ多く用いられており、性差・位相差も考えられるが、マネブの使用例の多くは口まねする、あるできごとをその通りに模倣するの意で、教えを受ける・学問するといった意味あいはマナブにくらべるとずっと少ない。そのため模倣を意味するマネルが広く用いられるようになると、マネブは口頭語から退いてマナブの雅語のように意識されるに至る。>とある。

(58-6)「物しつる」・・「物す」は、言う、書く、食う、与える、その他種々の物事を行なう意を表わす。本文書では、話す。

(58-7)「事にふれ」・・何かにつけて。折に触れて。機会があるたびごとに。

(58-7~8)「まねび」・・(58-6)の「まなび」に同じ。

(58-8)「何事にまれ」・・何事であろうと。「まれ」は、連語で、係助詞「も」に動詞「ある」の命令形「あれ」の付いた「もあれ」の変化したもの。…(で)あろうと。…でも。

(58-8)「風与(ふと)しても」・・偶然になされるさま。ちょっとしたきっかけや思いつきで行なうさま。ひょいと。はからずも。

 *「ふと」に当てる字・・「与風」「不図」「風度」「与と」「不と」「風と」などがある。

 *「風」を、「フ」と読む熟語に「風情(ふぜい)」「風呂(ふろ)」「風土記(ふどき)」などがある。

(58-9)「わざ」・・業。こと。ありさま。おもむき。「容易なわざではない」

(58-9~10)「のどやか」・・長閑か。気持をのんびりして、ゆっくりするさま。時間的にゆとりのあるさま。

(58-10~11)「兎(と)有(あり)し、角有(かか)し」・・ああであった、こうであった。

 *「よの人のとあるかかるけぢめもききつめ給ひて」(『源氏物語 朝顔』)

 *「一事も見洩らさじとまぼりて、とありかかりと物ごとに言ひて」(『徒然草』)

 *「事のやう聞きてのち、とありかかりとわきても答へめ、疾く語り給へといへば」(『御伽草子・伊香物語』)

 *「かかり」・・斯有り。「かくあり」の変化した語。このようである。こんなである。

  **「かからば」・・斯有らば。かくあらば。それならば。こういうことならば。

  **「かかるに」・・斯有るに。かくあるに。

  **「かかれど」・・斯有れど。かくあれど。

  **「かかれば」・・斯有れば。かくあれば。

  **「とありともかかりとも」・・事態の雑多をそのまま容認する気持を表わす。どのようであっても。いかようでも。

(59-1)「あなる」・・「あなる」は、「あなり」の連体形。「あなり」は、動詞「あり」に伝聞推定の助動詞「なり」

の付いた「ありなり」の音便「あんなり」の「ん」が表記されなかった形。あるようだ。あるそうだ。あると

いう。

 (59-1)「仮初(かりそめ)」・・ふとしたさま。ほんの一時のさま。まにあわせ。その場かぎり。「仮初」は、当て字。

(59-1)「たいめ」・・「たいめん(対面)」の撥音無表記。対面。

(59-2)「かたきわざ」・・難き業。むずかいしいこと。

(59-2~3)「あかぬ心地」・・「あか・ぬ・心地」で、「あく=四段動詞〔飽く(十分満足する、堪能する、心ゆく)〕の未然形」+「ぬ=打消の助動詞〔ず〕の連体形」+「「心地」。飽きたりない気持ち、不満足な気持ち
「あながち」・・強ち。強引なさま。むりやりなさま。

(59-3)

(59-3)「手あて」・・手だて。手段。

(59-6~7)「やういく」・・養育。養い育てること。はぐくむこと。「やういく」は歴史的仮名遣い。発音は、「ヨーイク」。

(59-9)「国風(こくふう・くにふう・くにぶり)」・・その国の風俗、習慣。その地方の気風。

(59-10)「物入(ものいり)」・・費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(59-11)「ついへ」・・ついえ。費。費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(61-2)「重吉の等が」・・「の」は誤記か。ここは、「重吉等が」か。

(61-6)「爰彼所(ここかしこ)」・・このところあのところ。この場所あの場所。此処彼処。

(61ー8)「するど」・・物が鋭くとがっているさま。鋭利なさま。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ずるど」の語誌には、

 <(1)中古以来の訓点資料に見られる語で、中世においても、軍記物語や抄物に多く用いられた。本来は物の先端の尖っている様子を意味する語であったが、後には人間の行動の機敏な様子をも表わすようになった。

(2)中世後期には、形容詞「するどし」が派生、時代が下るとともに形容詞の方が多く用いられるようになり、形容動詞は文章語的な性格が強まっていく。このような語義変化や形容詞派生の背景には、「すすどし」からの影響が考えられる。なお、近世には「すんど」という形も用いられた。>とある。

(62-2)「あかがねのへ」・・「あかがね」は、銅。「のへ」は不明。異本は、「銅にて」「銅もて」としている。

(62-3)「煙出(けむだ・けぶりだ・けむりだ)し」・・内部の煙を排出するために開けた、煙の出口。多く、家屋の軒下や屋根に開けた窓や煙突をいうが、炭焼きなどの竈(かま)や、船、蒸気機関車などの煙突をもいう。また、かやぶきの屋根などで、屋根の上に作ったけむだしを、特に、「櫓煙出(やぐらけむだし)」という。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「なまり」として、ケブダシ〔岩手・山形小国・栃木・信州上田〕、ケブダス〔千葉〕、ケブッダシ〔長崎・島原方言〕、ケモダシ〔仙台音韻・栃木〕、ケムタシ(常総)をげている。

(62-5)「がんぎ」・・雁木。階段。地方によっては、いろいろな場面に使われる。①海岸の石垣など設けられた階段。②桟橋の階段。③道路から川原などにおりる所につくられた段。④神社、寺院などの石段。⑤道路から前庭へ登る石段。語源は、雁が群れをなして空を飛ぶときのような形をしたものから、ぎざぎざの形、階段をいう。

(62-8)「三尺計もも」・・「も」が重複か。あるいは、二つ目の「も」は見せ消ちか。

(62-10)「観音びらき」・・扉の一種。観音をおさめる厨子の戸をまねて、左右の扉を中央で合わせるように作った戸。仏壇、倉、門などに多く用いられる。

9月『蝦夷地見込書秘書』注

(27-1)「私領中」・・蝦夷地が松前藩の支配時代の期間のこと。幕府は、文化4年(1807)3月、唐太を含む全蝦夷地を直轄地にした。

(27-2)「復領」・・蝦夷地が幕府直轄領になり、松前藩は、奥州梁川に移封になったが、文政4年(1821)12月7日、幕府は、松前蝦夷地を松前章広に還与した。

(27-2~3)「被  仰付(おおせつけられ)」・・「被」のあと改行されている。次の行に「仰付」があり、敬意を表す古文書独特の体裁。「平出(へいしゅつ)*」という。「平(たいら)に出(だ)す」意。

 *平出・・「平頭抄出(へいとうしょうしゅつ)」の意と釈し、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。また同様の主旨をもって、敬意を表すべき文字を行頭に数字高く掲げる擡頭、その文字の上を一、二字分空闕にする闕字、さらに貴人の諱の字画の末画を闕く闕画の制などがあるが、明治5年(1872)正月、令して天皇の諱の闕画の制を廃し、ついで同年八月、左院の議を納れ、擡頭・平出・闕字の書式を繁文縟礼とし、爾後記録に用いることを停止した。

(27-3)「松前奉行」・・幕府の松前蝦夷地における出先機関たる遠国奉行の名称の変遷を記す。

<第一次直轄時代>                            

・享和2年(1802)2月23日・・幕府、「蝦夷地奉行」設置。

・同年5月10日・・「箱館奉行」と改称。

・文化4年(1807)10月24日・・奉行所を福山に移し、「松前奉行」と称する。

・文政4年(1821)12月7日・・松前藩、蝦夷地復領。幕府の「松前奉行」は廃止。翌文政5(1822)最後の松前奉行夏目左近将監は西丸留守居に転任し、松前奉行は廃止。

<第二次直轄時代~幕府瓦解>

・安政元年(1854)630日・・幕府、「箱館奉行」を置く。

・明治元年(1868)412日・・新政府、「箱館裁判所」設置、同

年閏424日、「箱館府」と改称。同年閏427日、新政府、旧幕府箱館奉行より、事務を引き継ぐ。

(27-3)「国疆(こっきょう・くにざかい)」・・国境。

(27-5)「伊豆守」・・12代松前藩主(松前家16世)松前崇広(たかひろ)。伊豆守に任じられたのは、嘉永2(1849)728日。崇広は、文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として福山に生まれる。嘉永2年(184961日松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。享年38。墓は、松前町松代の法幢寺にある。

(27-5)「重役(じゅうやく・ちょうやく・おもやく)」・・ここで

は、松前藩の重職者をいう。嘉永2(1849)崇広襲封時の重職者は、家老4名、中老2名、用人11名である。

(27-5)「松前監物(まつまえけんもつ)・・当時松前藩の家老。

(27-8)「順廻(じゅんかい)」・・次々にまわすこと。また、順序に従ってまわしていくこと。

(27-89)「文政五年御戻地」・・幕府が、松前蝦夷地を松前藩に返したことをいう。その経過を記す。

 ・文政4(1821)127日・・松前章広、営中(江戸城)において、老中青山下野守より松前蝦夷地一円を章広に還与する旨申渡される。

 ・文政5(1822)413日・・松前藩家老蠣崎将監・同松前内蔵、松前奉行支配吟味役森覚蔵より福山城及び福山より樺太まで西地一円の引渡を受ける。

 ・同年724日・・松前奉行夏目左近将監、西丸留居に転任、松前奉行はこの年をもって廃止。

 復領の達しは、文政4127日にだされているが、松前蝦夷地にかかわる徴税権は文政5年から与え、文

 政4年分は、従来の領地(奥州梁川)からの収納とされた。したがって、実質的な復領は文政5年からということになる。

(27-9)「松前志摩守」・・9代松前藩主(松前家13世)松前章広。安永4(1775)730日生まれ。松前道広の長男。寛政4(1792)松前藩主9代となる。ロシア使節ラクスマンやイギリス船の来航などがあり、寛政11(1799)東蝦夷地が、文化4(1807)には全蝦夷地が幕府直轄地となり,章広は陸奥梁川9000石に移封された。文政4(1821)松前復帰がかない、翌5年藩校徽典(きてん)館を創立。天保4(1833)925日死去。59歳。

(27-910)「夏目左近将監」・・松前奉行夏目信平。第一次直轄最後の松前奉行。文政5(1822)724日、松前氏に松前蝦夷地の引継を行った。

*「左近将監(さこんのしょうげん・さこんのじょう)」・・「将監」は、官名で、近衛府の第三等官。「じょう」「まつりごとひと」ともいう。近衛府は、平安時代、六衛府の一つ。初め、天平神護元年(765)、授刀衛が近衛府と改称され、大同2年(807)、近衛府を左近衛府と改め、中衛府を右近衛府と改めたもの。兵仗(ひょうじょう)を帯びて宮中を警固し、朝儀に列して威容をととのえ、また、行幸に供奉(ぐぶ)、警備した武官の府。左右の府に、大将(カミ)、中将(スケ)、少将(スケ)、将監(しょうげん・ジョウ)、将曹(しょうそう・サカン)、府生(ふしょう)、番長(ばんちょう)などの官があった。

(28-1)「榜示杭(ほうじぐい・ぼうじぐい)」・・境界のしるしに立てられた標柱。また、地名・方角・里程などを書いて示した標柱。示。示木。さかいぐい。

(28-3)「相准(あいじゅん)じ」・・習って。手本として。

 *<漢字の話>「准」・・「准」は、「準」の俗字であるが、法律用語の「批准」「准尉」(旧陸軍の階級の一つ)「准教授」などの語には習慣として「准」が用いられる。

(28-7)「ホコラニ」・・不詳。カラフト北西岸ポゴビか。

(28-7)「スメレンクロ夷人」・・ギリヤーク人。樺太北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、アイヌはスメレングルと称した。ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。

(28-8)「容貌」・・影印の「皃」は、「貌」の異体字。

(28-8)「習俗(しゅうぞく)」・・世の中の習慣や風俗。風習。ならわし。

(28-9)「無慾」・・「慾」は、現代表記では「欲」に書き換える。

(28-9)「生質(せいしつ)」・・生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり。

(28-9)「鄙猥(ひわい)」・・下品なこと。

(28-9)「吝嗇(りんしょく)」・・ものおしみすること。

(28-11)「争闘(とうそう)」・・あらそいたたかうこと。たたかい。闘争。

 *<漢字の話>「闘」・・「闘」の旧字体は、「門がまえ」でなく、「鬥(たたかい)がまえ」の「鬪」。

(28-11)「儘(まま)」・・「間間(まま)」の当て字。「間間(まま)」は、そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。

 *<漢字の話>「儘」・・影印は、「侭」と右は、「尽」となっているが、「侭」は、「儘」の俗字。なお、現在常用漢字の「尽」の旧字体が「盡」だから、ややこしい。

(29-1)「ウシヨロ」・・樺太中部西海岸の地名。ライチシカ湖の北にある。日本名鵜城。江戸時代に大野藩がこのに元会所というのを置いた。

(29-3)「フヌフ」・・樺太東海岸の元泊(モトドマリ)と樫保(カシホ)の間の地名。

(29-4)「進退(しんたい)」・・ふるまい。行為。

(29-6)「ウヱンコタン」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「遠古丹」。

(29-6)「コタンウトロ」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「鵜取」

(29-6)「タライカ」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「多来加」。タライカは、多来加湾の一番奥まった所にある、多来加湾は、南樺太北部東岸、北知床岬と野手戸岬との間を占め、南に大きく開ける湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴によって隔てられた潟湖である多来加湖(面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(29-11)「水豹(すいひょう・あざらし)」・・「あざらし(海豹)」の異名。

(30-2)「介抱(かいほう)」・・江戸時代、幕府の蝦夷交易のこと。御救交易ともいう。蝦夷を介抱するという意味であるが、実際には与えるところが少なく、得るところが大であったという。

(30-4)「御普請役」・・樺太東浦を巡検した間宮鉄次郎のこと。「普請役」は、江戸幕府の職名の一つ。勘定奉行に属し、江戸・関八州、その他の幕府領、および幕府の管轄した河川の灌漑・用水、ならびに道や橋などの土木工事をつかさどったもので、勘定所詰、在方掛、四川用水方の三課に分かれ、元締・元締格・普請役などの役職があった。また、勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。

(30-4)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・樺太東浦を巡検した松岡徳次郎のこと。「御小人目付」は、江戸幕府の職名の一つ。徒目付(かちめつけ)に従って、各種の調査や警備などに当たる。

(30-5)「先前(せんぜん・せんせん)」・・さきざき。まえまえ。

(30-7)「押包(おしつつみ)」・・「おし」は接頭語。「つつむ(包)」を強めていう。しいて隠す。はばかる。

(30-8)「随従(ずいじゅう・じうじゅ)」・・つきしたがうこと。供をして行くこと。

(30-8)「気随(きずい)」・・自分の思いのままに振る舞うこと。

(30-8)「懶惰(らんだ)」・・なまけ怠ること。無精をすること。「らいだ」は、「らんだ(懶惰)」を誤読した語。「懶」の音符(形声による漢字の組み立てで、音(おん)を表す部分)の「賴」に引かれて誤ったもの。こういう読みを「慣用音」という。

 *慣用音・・「運輸」などの「諭」を「ユ」と読むのは「慣用音」。「慣 用音」は、呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音のこと。主として漢字の偏旁などの字体に惹かれて誤ったものが多い。漢字を日本語(やまと言葉)に当てはめた「訓読み」とは区別して言う。

 「輸」の音読みは、「シュ」で、「ユ」の読みはない。では、なぜ、「ユ」と読むのか。「教諭」の「諭」の旁の「兪(ユ)」に惹かれて、音が転じ、それが日本で通用したもの。 したがって、「輸血」は、本来は「シュケツ」。同様に「諭入」は「シュニュウ」、「運輸」は「ウンシュ」が本来の読み。漢和辞典には、「輸送」に「ユソウ・シュソウ」のふたつの読みが書かれている。「輸出」も「ユシュツ・シュシュツ」がある。

 *その他の慣用音の例・・①「消耗」の「耗」は、旁の「毛」に引かれて「モウ」と読む。正しくは「コウ」。②「情緒」の「緒」は「ショ」が正しく、「チョ」は慣用音。③その他「堪能」の「堪(カン)」を「タン」、

「立案」の「立(リュウ)」を「リツ」、「雑誌」の「雑(ゾウ)」を「ザツ」、「喫茶」の「喫(けき・キャク)」を「キツ」、「演劇」の「劇(ケキ・ギヤク」)を「ゲキ」と読むなどは慣用音。

 *百姓読み・・韻書(中国で韻文をつくるさいに脚韻をふむ参考書として、文字をその韻によって分類し、韻目の順に配列した書物。)に合わない音を「百姓読み」という。「百姓読み」それは必ずしも慣用音ばかりでなく、一時的な誤読をさした場合もある。「垂涎(すいぜん)」を「すいえん」、「洗滌(せんでき)」を「せんじょう」、「絢爛(けんらん)」を「じゅんらん」などというたぐい。

(30-8)「生立(おいたち)」・・生い立つこと。特に、人が成長すること。育っていくこと。育ち。

(30-9)「被召寄(めしよされ)」・・呼び出され。「召寄(めしよ)す」は、目上の人が下位の人を呼びよせること。

(30-10)「シツカ」・・南樺太北部のタライカ湾に面した町。日本名「敷香」。第二次世界大戦前は樺太庁敷香支庁の所在地。付近に内川炭田があり、樺太庁鉄道の終点であった。

(30-11)「雑処(ざっしょ)」・・入りまじっていること。雑居。

 

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