(68-1)「二ヶ月の間也。米、実のるを」・・語調がよくない。異本は、「也」を「に」とし、「二ヶ月の間に、米、実のるを」としている。
(68-1)「実のる」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「実乗る」の意>とし、語源説のひとつに、<ミナル(実成)の転か>を挙げている。なお、同訓異字として、下記を挙げている。
みのる【実・稔・酉・年・熟】
【実】(ジツ)家の中に財宝が満ちる。転じて、しっかりと中身がみのる。実をむすぶ。内容がいっぱいにみちる。「実線」「果実」「結実」《古みのる・なる・みつ・ふさく》
【稔】(ネン)穀物がみのる。穀類が熟する。「稔歳」転じて、経験などが積み重なる。物事に習熟する。熟達する。「稔熟」「稔聞」《古みのる・にきはふ・ゆたかなり・うむ》
【酉】(ユウ)酒壺。さけ。また、成熟した穀類で酒を醸す。転じて、よくみのる。成熟する。
【年】(ネン)稲がみのる。作物がみのる。「年穀」「年災」「年歳」「豊年」「祈年祭」《古みのる》
*大有レ年 <大(おおい)ニ、年(ネン)有り>(中国の歴史書『左伝』)→大豊作であった
【熟】(ジュク)果実がよくうれる。穀物が十分にみのる。「熟柿」「熟田」「完熟」「黄熟」転じて、物事が十分な状態になる。物事によくなれて通じる。習熟する。「塾達」「熟練」「円熟」《古うむ・あまし・むまし・なる・ねる》
(68-3)「しゐな」・・粃。からばかりで実のない籾(もみ)。十分にみのっていない籾。語源説のひとつに「シニヒイネ(死日稲)の義〔日本語原学=林甕臣〕。」がある。
*島崎藤村は、『破戒』の中で、「空籾」に「シヒナ」とルビしている。
「其女房が箕(み)を振る度に、空殻(シヒナ)の塵が舞揚って」
(68-4)「各別(かくべつ)」・・とりわけ。特別。現代では「格別」と、「各」は、「格」を使う。なお、「各別」と言う場合、多くは、「それぞれ別であること。また、めいめいが別々に行なうこと。」の意味に使われる。
(68-5)<変体仮名>「つねニは」の「ね」・・元になった漢字は、「祢」。
*<漢字の話>「祢」・・①「祢」は「禰」の俗字。ともに、平成16年9月に人名漢字に追加された。
②「禰」の偏は5画の「示」で、 「祢」は、4画の「ネ」。部首はいずれも「示」部。
③「祢」の草体からひらがなの「ね」が、偏からカタカナの「ネ」ができた。
(68-5)「団子(だんご)」・・穀物の粉を水でこねて小さく丸め、蒸し、またはゆでたもの。醤油の付焼にしたり、あん、きな粉などをつけたりして食べる。「団子」の語誌について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、
<(1)中国の北宋末の風俗を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある。
(2)「伊京集」にはダンゴ・ダンスの両形が見られ、そのダンスは唐音の形と思われる。「日葡辞書」にはダンゴの形しかなく、近世ではもっぱらダンゴが優勢のようであるが、ダンス・ダンシの形も後々まで存在する。
(3)中世まではもっぱら貴族や僧侶の点心として食されたが、近世になると、都会を中心に庶民の軽食としてもてはやされるようになった。団子を売る店や行商人も多く、各地で名物団子が生まれている。
(4)農村では、古来団子は雑穀やくず米の食べ方のひとつであり、昭和の初期までは米飯の代わりに団子汁などが食べられていた。>とある。
また、語源説のひとつに、「米麦の粉をねり団(あつめ)たものであるところから。団は聚・集の義〔愚雑俎〕。」がある。
(68-6)「ヒンフハン」・・資料『ヲロシヤノ言』P5左下段10行目に「小麦だんご ヒンピヤン」とある。
(68-7)「又の年」・・次の年。翌年。
(68-8)<見せ消ち>「古郷に」・・影印には「へ」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があり、右に「に」と訂正している。
(68-10)「何しに」・・何為。代名詞「なに」に動詞「する」の連用形「し」、格助詞「に」の付いてできたもの。
原因・動機を不明なものとして指示する。どうして(…なのか)。なぜ、なんのために(…するのか)。
(68-10~11)「牛を喰はんや」・・喰うだろうか、いや、喰わない。「喰(く)ふ」の未然形「喰(く)は」+推量の助動詞「む(ん)」の連体形「む(ん)」+反語の係助詞「や」。
(68-11)「さでは」・・それでは。副詞「然(さ)」+接続詞「では」。前の事柄に基づいて、推量・意志・疑問などを導くのに用いる。それなら。そういうわけなら。その上は。
(69-2)<見せ消ち>「偽(いつわり)を」・・「偽」が見せ消ち。
(69-4)「カンハラ」・・資料『ヲロシヤノ言』P5左中段4行目に「かれい カンバラ」とある。
(69-4)「かう」・・甲(こう)。歴史的仮名遣いは、「かふ」だが、「こふ」「かう」も見える。
(69-7)「初メの程(ほど)」・・初めのころ。「程(ほど)」は、物事の種々の段階をある幅を持った範囲として示す語。時分。ころ。
(69-7)「不通(つうぜざる)」・・不レ通。サ変動詞「通(つう)ず」の未然形「通(つう)ぜ」+打消の助動詞「ず」の連体形「ざる」。
(69-9)<見せ消ち>「是々は」・・「是々」の「々」が見せ消ち。
(69-9)「すめぬかほ付(つき)」・・済めぬ顔付。納得しない顔付。「すめぬ」は、下2動詞「済(す)む」の未然形「済(す)め」+打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」。
(69-11)<漢字の話>「問聞(といきく)」・・「問」も「聞」も、「門」があっても部首が「門」部(門がまえ)でない漢字。
・「問(モン・とウ)」・・口部
・「聞(モン・ブン・きク)」・・耳部
・「悶(モン・もだえル)」・・心部
・「誾(ギン)」・・言部。
(70-3)「その名を言(いう)を、其書付おきたる下へ書て」・・重吉は、帰国後、
オホーツクでロシヤ人から聞き、書き留めたロシヤ語の言葉を、「ヲロシヤノ言」という5枚刷りを刊行した。この「ヲロシヤノ言」について、平岡雅英撰『日露交渉史話』(筑摩書房刊 1944)に、「本邦における和露対訳集の上梓は、恐らくこれが嚆矢であろう」とし、「出版の年月は明らかでないけれども、重吉等は異国の鬼となった同僚供養のため建碑を志し、ロシヤから持帰った衣服器物類を展覧して奉加銭を集めたから、『ヲロシヤノ言』もそのをり刷って販売し、資金の一端としたに相違ない。それならば帰国後間もないころである」と記している。
*別冊資料「ヲロシヤノ言」(玉井幸助校訂解説『大東亜海漂流譚 船長日記』育英書院刊=1931=所収)参照
(70-4)「覚へ」・・「覚へ」は、文法的には、本来は、「覚え」。下2動詞「覚ゆ」の連用形は、「覚え」。
(70-7)「初(はじめ)の程(ほど)」・・初めのころ。「程(ほど)」は、おおよその程度を表わす語。物事の種々の段階を、ある幅を持った範囲として示す語。本文では、時間的な程度を表わす。時分。ころ。
(70-9~10)「サテシ」・・資料『ヲロシヤノ言』P4右下段9行目に「腰懸る事 ザデヱシ」とある。
(70-10)「せうぎ」・・床几(しょうぎ)。腰掛。
(70-11)「いわず」・・文法的には、本来は、「いはず」。ハ行5段動詞「いふ」の未然形は、「いは」。ところが、現代語の「言う」は、ワ行で、未然形は、「言(い)あ」でなく、「言(い)わ」だから、文法的にも、揺れていたか。
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