森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2014年11月

『ふなをさ日記』12月学習の注                      

(73-3)「村上貞助(むらかみていすけ)」・・備中の人。安永9(1780)生まれ。

・文化5(1808)85日、師とする村上島之丞(秦檍丸)が病死して、その養子となった。地理に詳しく、画技を善くした才人であった。

・文化6年(1809)、松前奉行の同心に召抱えられた。貞助の力量が発揮され、それが業績として衆目を集めるようになったのが、ゴローニン事件の通訳を勤めるようになってからである。

・文化8(1811)10月中旬、貞助は松前でゴローニンとともに幽囚された古参士官のムール少尉に接近してロシア語を会得し、通弁や翻訳にまで仕事の幅を広げた。秦貞廉の筆名で、友人の間宮林蔵が口述した「東韃地方紀行」を編纂している。

・文化10(1813)、松前奉行の江戸会所詰となっていた貞助は、松前奉行支配調役下役に登用され、新任の服部貞勝の手付となった。

・同年926日にゴローニンら8人が釈放されるまで、通詞として主要な役割を果たした。

 ・ロシアとの外交交渉は一段落してのちの貞助は、在住勤方の上原熊次郎と交互勤務している。本文の重吉らがエトロフに上陸した際、事情聴取のが貞助。その時の記録を「漂流人長右衛門外一人口書」「漂流人共相咄候儀別段書留置奉差上候書附」として残している。

 ・文政5(1822)に幕府の蝦夷地直轄が廃されると、江戸に戻り、勘定奉行支配の普請役となった。

 ・文政6(1823)3月、上司の勘定奉行遠山左衛門尉(景晋)の薦めでアイヌの民俗を集めた『蝦夷生計図説』の著述を完成した。

(73-3)「ゆえゆえしく」・・故々しく。「故々し」は、子細がありそうである。由緒ありそうである。風格があって重々しい。

(73-6)「ソロタ」・・「『ヲロシヤノ言』判読」(以下単に「判読」)P9下段12行に「金のコト ソロタ」とある。

(73-6)「ハラアライ」・・「判読」P3下段5行に「着物 ハラアテ」とある。

(73-6)「サブカ」・・「判読」P4下段8行に「かぶり笠 シヤブカ」とある。

(73-6)「シフカ」・・「判読」P1中段2行に「悪敷 ブトイ」とあり、また、P2上段6行に「大きニ悪敷 シフカフトイ」とある。から、「大ニ」は、「シフカ」か。

(73-67)「セルセース」・・「判読」P1上段9行に「はらたち セリゼヱス」とある。

(73-7)「まねびし」・・口まねして。「まねぶ」は、他の者の言ったことやその口調をそっくりまねて言う。口まねして言う。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「まねぶ」の語誌に

 <(1)マナブと同源であるが、その前後は不明。マナブが平安初期には上二段、中期以後四段に活用したので、マネブも古くは上二段に活用したか。

(2)マナブは漢文訓読文、マネブは和文にそれぞれ多く用いられており、性差・位相差も考えられるが、マネブの使用例の多くは口まねする、あるできごとをその通りに模倣するの意で、教えを受ける・学問するといった意味あいはマナブにくらべるとずっと少ない。そのため模倣を意味するマネルが広く用いられるようになると、マネブは口頭語から退いてマナブの雅語のように意識されるに至る。>とある。

(73-8)「そこ爰(ここ)」・・其処此処。あちらこちら。あちこち。なお、「甲首乙首」を「そこここ」と当てる事もある。この語形の基になる。

 *「河流(ながれ)に沿ふて甲首乙首(ソコココと逍遙なして河下に」(『狐の裁判〈井上勤訳〉二』)

(73-10)「皇国(こうこく・すめらみくに)」・・天皇が統治する国。昭和20年頃まで、日本の異称として用いられた。すめらみくに。なお、「皇」を「すめら」と訓ずるが、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、「ら」は接尾語で、「すめ」は、地方神的な神をさす用例が多いが、「すめら」の形では、大部分が天皇、特に現在の天皇をさしていう表現に用いられている。

 *<漢字の話>「皇」・・ジャパンナレッジ版『字通』によると、「皇」の解字について、

 <王の上部に玉飾を加えている形。王は鉞頭(えっとう。まさかり)の象。刃部を下にして玉座におき、王位の象徴とする。その柄を装着する銎首(きょうしゅ。)の部分に玉を象嵌して加え、その光が上に放射する形であるから、煌輝の意となる。>とある。

(73-10)「大晦日(おおみそか・おおつもごり)」・・一年の最終の日。毎月ある晦日(「みそか」とは三十日の意)に大の字をつけたの。大つごもりともいう。

 なお、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「つもごり」の語誌に、

 <(1)語源として単純なキの音節の脱落による(ツキゴモリ→ツゴモリ)という説は、他に類例がなく極めて疑問。意味上対をなすツイタチと音節数の平衡性を保つためにキが脱落したという見方もあるが、上代の複合語形成の原則からは、ツキタチ・ツキゴモリよりもツクタチ・ツクゴモリの方が自然であり、従ってツクゴモリ→ツウゴモリ→ツゴモリという変化過程も考えられる。

 (2)ツキコモリは興福寺本「日本霊異記」訓釈に見られ、天治本・享和本「新撰字鏡」にはツキコモリ・ツクコモリの両訓が見られるが、特にツクコモリの意味の限定は難しい。上代において、「ツク─」は「太陰」を表わし、「ツキ─」は暦日の「つき」を表わすという意義分化があった可能性もあり、意義の分裂に沿って語形の分裂が起こった可能性も否定できない。

 (3)なお、ツゴモリは中世においてツモゴリという形を派生させ、文献上にも姿をとどめるが、「かたこと‐三」に「つもごりといふはわろし」とあるように、正統な語形としてはとらえられていない。>とある。

(74-1)「けふ(今日。きょう。音韻はキョー)」・・「けふ」は、歴史的仮名遣い。

 *歴史的仮名遣いとは「発音は時代とともに変化して来たが書き方は最初のまま変化させずに来た」という原理のもの。今それを読むときには当然今の発音によって読む。

 *昭和6171日告示の「現代仮名遣い」の前書きには、

  <歴史的仮名遣いは,明治以降,「現代かなづかい」(昭和21年内閣告示第33号)の行われる以前には,社会一般の基準として行われていたものであり,今日においても,歴史的仮名遣いで書かれた文献などを読む機会は多い。歴史的仮名遣いが,我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして,尊重されるべきことは言うまでもない。また,この仮名遣いにも歴史的仮名遣いを受け継いでいるところがあり,この仮名遣いの理解を深める上で,歴史的仮名遣いを知ることは有用である。付表において,この仮名遣いと歴史的仮名遣いとの対照を示すのはそのためである。>

  とあり、「付表」に「現代仮名遣い 歴史的仮名遣い対照表」を挙げている。

 *現代仮名遣いの「きょう」を歴史的仮名遣いで「けふ」とした例として、「今日」のほかに、

  ・脅威(ケフヰ)・協会(ケフクヮイ)・海峡(カイケフ)を挙げている。

 *「喋喋(ちょうちょう)しい」・・(口数が多い。口まめである。口軽である。転じて、調子がいい。いいかげんに調子をあわせる。)歴史的仮名遣いでは、「てふてふし」と書いた。

  *「さう喋々(テフテフ)しくは饒舌り得なかった」(夏目漱石『彼岸過迄』)

  *「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡つて行つた」(安西冬衛の1行詩は有名。タイトルは「春」 1929

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12月学習『蝦夷日記注』                       

  

(39-1)「四里程ニ付」・・『蝦夷地御開拓諸御書付書類』など異本には、「程」と「ニ」の間に「南」があり、「四里程南ニ付」としている。

(39-1)<漢字の話>「陳屋(じんや)」の「陳」・・①ジャパンナレッジ版『字通』には、<正字は陳・・陣は俗字。・・東は嚢(ふくろ)の形、車は車の形で、示すところが異なる。陣は聖所に軍車のある形で、本陣の意を示すものであろう。」としている。

 ②現在は、「陳」「陣」は、別々にそれぞれ常用漢字になっている。

③「陳」を「ジン」と読むのは呉音。「チン」は漢音。手元の漢和辞典には、「陳」を「ジン」と読む熟語はわずか姓に「陳野(じんの)」があるのみ。

(39-4)「東西(とうざい)」・・「東や西」の意から、あちらやこちら。あらゆる方向。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「東西」の語誌に、

(1)節用集類で「東西」に「アナタコナタ」と当てられている。

  (2)「左右(そう)」と似ているが、「左右」よりも動作性が強いといわれる。

  (3)『南総里見八犬伝』に「船にて飽まで東西(モノ)賜りぬ」と読ませた例が見られる。>とある。

(39-5)「余地(あまりち)」・・手余地(てあまりち)。江戸時代、手不足のため空閑地となっている田畑。農民の離村または放棄で耕作されない田畑。

(39-6)「文化度、ウルツフ島の御振合」・・文化11(1814)12日、幕府が下した国境問題についてのロシアへの対応をいう。幕府は、松前奉行に対し、日本はエトロフ、ロシヤはシムシル島を限り、中間のウルップ島などには家屋を設けずに中立地帯とし、彼我の漂流民を送還するのはウルップ島においてせよと命じ、その旨を認めた諭書を下付したことをいう。なお、この諭書は、結局ロシア側には、渡らなかった。

その前後の経過を箇条書きする。

 ・文化8(1811)526日・・船将ゴローニン率いるディアナ号、クナシリ島トマリ沖に到来。

 ・同年64日・・薪水・食料の補給のためゴローニンら8名トマリに上陸し、クナシリ会所で調役奈佐瀬左衛門と会見、会見中逃亡を図ったため補縛される。副将リコルドは救出をあきらめ、67日カムチャッカに向けて去る。

 ・同年72日・・ゴローニンら、南部藩士に護送されて箱館に到着、入牢。箱館役所で吟味を受けたのち、822日箱館を出発、825日福山到着。

 ・この年冬、村上貞助、松前奉行の命により、ゴローニンらについてロシア語を学ぶ。

 ・文化9(1812)126日・・幕府、ゴローニンらの処置を決定。返還せずに留置き、かつ、この上ロシア船の渡来あれば漂流船たりとも用捨なく打払うべき旨松前奉行・南部津軽両家へ通達。

 ・同年84日・・リコルド、ゴローニンらの返還を交渉するため、文化4(1807)フヴォストフに捕えられた五郎次と漂民をともない、クナシリ島センベコタン沖に到来、ここに滞船して五郎次らを使い交渉したが、クナシリ在勤役人らによりリゴローニンはすでに誅されたとし拒否される。リコルドはこれに納得せず、真偽を正すべく814日クナシリ島ケラムイ沖にてエトロフ島より帰帆の高田屋嘉兵衛持船観世丸を襲い、嘉兵衛らを連行、同月17日クナシリ島よりカムチャッカにむけて去る。

 ・文化10(1813)526日・・リコルド、ディアナ号に高田屋嘉兵衛らを乗せてクナシリ島センベコタン沖に来る。高田屋嘉兵衛らを介してクナシリ詰調役並増田金五郎らと交渉、先年のフヴォストフの乱暴はロシア政府の関与せぬことである旨を陳べ、ゴローニンの放還をもとめる。

 ・同年619日・・松前詰吟味役高橋三平ら、リコルド到来の報に接した松前奉行の命により捕虜のロシア人らをともないクナシリ島に到着。諭書をリコルドに交付し、捕虜放還の条件として、ロシア国長官の陳謝書を提出し、先年掠奪の武器・器物等を返還することを要求、リコルドはこれを承認し、上官と相談のうえ請書を携えて8月下旬までに箱館に渡来する由を述べ、624日クナシリ島を出帆、いったんオホーツクに帰る。

 ・同年817日・・松前奉行、返還準備としてゴローニンらを福山から箱館に移す。

 ・同年916日・・ディアナ号箱館沖到着。17日入津。19日上陸を許可されて沖の口番所において高橋三平らと会見。リコルド、シベリア総督テレスキンの書を提出。

 ・ロシア政府の陳謝の趣意を了承し、松前奉行服部貞勝臨席のもとに、沖の口番所にてゴローニンをロコルドに引き渡す。

 ・ディアナ号、箱館より帰帆。

【日露の国境問題】

・なお、リコルドには、捕虜受取りだけでなく、両国の国境を画定する任務を負わされていた。リコルドは、ゴローニンに相談したが、ゴローニンの意思では、奉行はただ捕虜に関して交渉する権限が与えられているにすぎないから、今国境問題、修好条約問題を提議すれば、奉行は江戸に報じ、指令を仰がねばならないので、非常に日数を要し、また、修好条約などはとうてい望みがないといった。リコルドも同意し賛同した。

・ただ、出帆にあたって、ゴローニンとリコルドの連名で公文書を高橋三平、柑本兵五郎宛に送り、国境画定・接境応接の返答をうるため明年56月ころ、武器を乗せない小船をエトロフ島に派遣するから、返答を渡されたいとの希望を述べた。

 ・文化11(1814)12日・・奉行の伺いに対して、日本はエトロフ、ロシヤはシムシル島を限り、中間のウルップ島などには家屋を設けずに中立地帯とし、彼我の漂流民を送還するのはウルップ島においてせよと命じ、その旨を認めた諭書を下付した。

 ・同年3月・・高橋三平は諭書を携えて箱館を発し、エトロフ島に出発、68日ウルップ島に進んだが、ロシア船はついに姿を見せなかった。

 ・文政元年(1818)夏・・ウルップ島に派遣された飯田五郎作、箱に収め柱に打ちつけたロシア人の文書を発見持ち帰る。大意は「文化11(1814)エトロフ島北部の近海に来たが、答書を携えた日本人を見ず、ゆえにやむなくオホーツクに帰る」とあった。

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古文書解読講座のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年12月8日(月)

13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

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