(93-1)「来たれかし」・・来てください。「かし」は終助詞。呼びかけや命令の文末に付いて、強く念を押したり、同意を求めたりする意を表す。…ことだ。…よ。

(93-1)「南京(なんきん)」・・「きん」は「京」の唐宋音。揚子江下流の曲流点の江浙デルタの頂点に位置する。水陸交通の中心地。明の永楽帝の時北京に対して称した。近世、このあたりの地一帯、ひいては中国のことをもいった。

(93-1)「広東(かんとん)」・・珠江三角州の北端にあり、華南地方の政治、経済、文化の中心。特に唐代以後は華南最大の貿易港として繁栄した。現広東省の省都・広州。

(93-1)「天竺(てんじく)」・・中国古代のインド地方の呼び名。同系統の古称としては天篤(てんとく)、天督(てんとく)、天豆(てんとう)、天定(てんてい)などがあり、語源は、身毒(しんどく)、印度(いんど)などと同じく、サンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。文献では『後漢書(ごかんじょ)』「西域伝」に「天竺国、一名身毒。月氏(げつし)の東南数千里にあり」とあるのが最初であり、魏晋(ぎしん)南北朝期に一般化し、日本にも広まった。

(93-1)「紅毛(こうもう」・・明代中国人がオランダ人を指して呼んだ紅毛番(『東西洋考』)・紅毛夷(『野獲編』)の略称。彼らの毛髪・鬚が赤いところから由来する。イギリス人を呼称する語にも用いられたことがある。日本でもこれが援用され、ポルトガル・イスパニヤを南蛮と呼称したのに対し、主として紅毛は阿蘭陀・和蘭・荷蘭などとともにオランダを指す語として併用した。イギリスをも呼んだがこれはきわめて少ない。

(93-1)「珍らしき」・・影印は、「珍」の俗字の「珎」。古文書では、「珎」は頻出する俗字。

(93-2)「にぞ」・・格助詞「に」+協調の係助詞「ぞ」。「~ので」。ここは「言い出したので」。

(93-3)「だに」・・副助詞。名詞、活用語の連体形・連用形、副詞、助詞に付く。軽い事柄をあげて他のより重い事柄のあることを類推させる意を表す。…さえも。…でさえ。…だって。

(93-4)「中々に」・・予想した以上に。意外に。かなり。

(93-1011)「重吉こそ連行んとは思ひたれ・・思ったけれども。組成は、係助詞「こそ」+完了の助動詞「たり」の已然形「たれ」。「こそ」を受けて、文を終止する場合、活用語は已然形となる。「係結

終止法」という。意味的に次の文に逆説で続くときは、読点にする。

(93-11)「気色(けしき)」・・物の外面の様子、有様。また、外見から受ける感じ。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)「気色」の呉音読みによる語。和文中では、はやく平安初期から用いられているが、自然界の有様や人の様子や気持を表わす語として和語化していった。

(2)類義の「けはひ(けわい)」が雰囲気によって感じられる心情や品性といった内面的なものの現われを表わすことに傾くのに対し、「けしき」は顔色や言動といった一時的な外面を表わすことにその重心がある。

(3)鎌倉時代以降、人の気分や気持を表わす意は漢音読みの「きそく」「きしょく」に譲り、「けしき」は現在のようにもっぱら自然界の様子を表わすようになった。それによって表記も近世になって「景色」があてられるようになる。>とある。

(94-1)「斯ては果じ」・・これでは、いつまでたってもらちがあかない。「果(は)つ」は、打消しを伴って、「はかどる」。ここでは「はかどらない」

(94-1)「免(ゆる)し」・・「ゆるす」は、願いを聞き入れる。聞き届ける。

(94-1)「あながち」・・一途(いちず)なさま。ひたむきなさま。

(94-3)「ウルツー島」・・ウルップ島(得撫島)。千島列島南西部、択捉島北東方の火山島。

(94-3)<カナの話>なぜ、「ヱトロフ」の「ヱ」は、カギの「ヱ」か。・・

 ①「ヱトロフ」は、「惠登呂府」を当てた。例えば、寛政10(1798)、近藤重蔵がエトロフに立てた標柱は「大日本惠登呂府」。「ヱビスビール」の「ヱビス」は、「恵比恵」から取ったので、「ヱ」。

 ②変体仮名の「惠」は、ひらがなの「ゑ」、カタカナでは、カギの「ヱ」のもとになった字。

 ③カタカナの「五十音図」のア行は、元来は、「ア・イ・ウ・ヱ・ヲ」。「エ」よりもカギの「ヱ」が多く用いられた。なお、「オ」よりも「ヲ」が多用された。

(94-4)「あわひ」・・動詞「あふ(合)」に接尾語「ふ」の付いた「あはふ」の名詞化か。物と物との交わったところ。重なったところ。また、境目のところ。中間。間。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<平安時代、「あひだ」は和文には例が必ずしも多くはなく、しかも時間的用法が主であるのに対し、「あはひ」は和文に多用され、空間的用法が中心となる。漠然性は現代語においても、表現として効果的に生かされている。このように、共通語としては、雅語として固定的に使われているが、各地方言では、生活語として命脈を保っている。>とある。

 <仮名遣いの話>歴史的仮名遣いでは、「あはい」。現代仮名遣いでは「あわい」。影印の「あわひ」は、それをチャンポンにした仮名遣い。

(94-5)「言しろひなり」・・「言いしろひなり」は、形容詞。「しろふ」は、は互いに事をし合う意。互いに言い合う。あれこれと話し合う。

(94-67)「いとはぬか」・・かまわないか。

(94-7)「心得て侍る上は」・・承知の上であるから。

(94-8)「わりなく」・・しかたなく。「わり(理)なし」は、仕方がない。やむを得ない。余儀ない。是非もない。

(94-9)「わたり」・・辺。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。へん。へ。近所。

(94-11)「ゆゑよし」・・故由。わけ。いわれ。

(95-1)「心とけたるとはいへども」・・和解しあっているとはいうものの。

(95-12)「先にもヲロシヤの人、松前へとらはれて、三年計も居たる」・・ゴローニンの来航と逮捕事件。「三年計」とあるが、実質2年半、ゴローはニンは、捕らわれの身だった。その概略を記す。

 ・文化8(1811).5.26・・千島諸島および満州沿岸測量の命を受けた船将ゴローニン率いるディアナ号、薪水、食料補給のためクナシリ島トマリ沖に到来。

 ・同年6.4・・ゴローニンらトマリに上陸、クナシリ会所にて調役役奈佐瀬右衛門と会見、会見中逃亡を図ったため捕縛。副将リコルドは救出をあきらめカムチャッカへ去る。

 ・同年7.2・・ゴローニンら、南部藩士に護送されて箱館に到着、入牢。822日箱館出発、25日福山到着。

 ・この冬・・村上貞助、松前奉行の命によりゴローニンらについてロシア語を学ぶ。

 ・文化9(1812)1.26・・幕府、ゴローニンらの処置を決定、返還せずに留置き、ロシア船の渡来あれば打払うべき旨、松前奉行、南部津軽両家に通達。

 ・同年2月・・松前奉行、ゴローニンらの捕囚を緩め、松前近在の逍遥を許す。

 ・同年2月・・間宮林蔵、ゴローニンらと面会し、天文・測量などを質問。

 ・文化9(1813).3.24・・ゴローニンら、置所の板塀の下土を掘って逃亡、44日、江差付木の子村で捕えられ、福山に送還、入牢。

 ・同年8.4・・リコルド、ゴローニンらの返還交渉のため、文化4年(1807)エトロフで、フヴォストフに捉えられた五郎次と漂民6名(文化7年=1810=漂流した摂州の歓喜丸乗組員)をともない、クナシリ島センベコタン沖に到来、クナシリ在勤役人と交渉したが、役人は、ゴローニンは処刑されたとして拒否される。リコルドは、真偽を正すべく814日クナシリ島ケラムイ沖で高田屋屋嘉兵衛持船観世丸を襲い、嘉兵衛らを連行、カムチャッカにむけて去る。

 ・文化104.7・・リコルド、ディアナ号に嘉兵衛らを乗せてクナシリ島センベコタン沖に来る。嘉兵衛を介してクナシリ詰役人と交渉。先年のフォストフの乱暴はロシア政府の関与せぬことである旨述べ、ゴローニンのを放還を求める。

 ・同年6.19・・松前詰吟味役高橋三平ら、松前奉行の命により捕虜のロシア人シイモノフをともない、クナシリ島に到着、諭書をリコルドに交付し、捕虜放還の条件としてロシア国長官の陳謝書の提出と先年掠奪した平気・器物の返却を要求。リコルドはこれを承諾し、上官と相談の上、諭書を携えて8月下旬までに箱館に渡来する由を述べ、6月24日クナシリ島を出帆、いったんオホーツクに帰る。

 ・同年8.17・・松前奉行、返還準備としてゴローニンらを福山より箱館に移す。同月20日、ゴローニン箱館着。

 ・同年9.16・・ディアナ号箱館沖到着。17日入津。同日リコルドはオホーツク総督ミニィツキィの書を提出。19日には上陸を許されて沖の口番所にて高橋三平らと会見、シベリア総督テレスキンの書を提出。

 ・同年9.26・・ロシア政府の陳謝の趣意を了承し、松前奉行服部貞勝臨席のもとに、箱館沖の口番所にてゴローニンらをリコルドに引き渡す。

 ・同年9.29・・ディアナ号箱館より帰帆。

(95-23)「さはいへ」・・「然(さ)はいえ」。そうは言うものの。さは言えど。影印の「左」は、変体かなの「さ」。ここでは、1行目の「ヲロシアとは互に心とけたる」を受けて、「そうは言っても」となっている。

 *「さ(然)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <奈良時代には「しか」が主流で、「さ」は「さて」や「さても」のように複合した形でしかみえない。

平安時代に入っても、和歌については「しか」が優勢で、物語などの散文で「さ」が発達してから和

歌にも浸透し、一二世紀から一三世紀にかけて用例が激増した。それに対し、「しか」は漢文訓読文や

和漢混交文に残るだけとなる。

 室町時代後期になると「さう」の例が見えはじめ、「さ」で表現すべきところを次第に「さう」で表現

するようになる。現代では「そう」を用い、「さ」は「さよう」「さほど」などの複合語として残るの

みで、単独では用いられない。>とある。

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