森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2015年05月

『ふなをさ日記』5月学習の注 

(98-1)「又(また)の日(ひ)」・・次の日。翌日。一般には「別の日。後日」の意が多いが、ここは、翌日の意。

(98-1)「何国(いづく)」・・異本は、ひらかなで「いづく」としている。

(98-2)「辰巳風(たつみ・たつみかぜ・たつみのかぜ)」・・東南の方角から吹いてくる強風。「辰巳風」と書いて、たんに「たつみ」「たづみ」という地方がある。なお、余談だが、「辰巳風」を「とつみふう」と読めば、江戸深川の遊里の気風や風俗。意気と張りを特色とした。また、語源説に、「

日の立ちのぼり見ゆの転略〔国語蟹心鈔〕」がある。

(98-23)「磁石を立(たて)」・・ここの「立(たて)る」は、使ったり仕事をしたりするのに十分な働きをさせること。「磁石を使い」の意。

(98-3)「申酉(さるとり)」・・西南西。

(98-3)「夜(よる)の戌(いぬ)の時」・・午後8時頃。

(98-4)「はて(果)」・・いちばんはしの所。

(98-8)「羆(ひぐま)」・・ひぐま。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <「二十巻本和名抄‐一八」に「羆 爾雅集注云羆〈音碑 和名之久万〉」とあるように、古くはシクマ(シグマ)と呼ばれていた。ヒグマの語形は近代以降多く見られるようになるが、「言海」(一八八九〜九一)は、ヒグマとシグマの両方を見出し語にあげ、ヒグマの項で「しぐまノ誤」と述べており、シグマを正しい語形としている。その後も同様の辞書が多く見られ、明治中期以降も、シグマを正しいとする規範意識があったことがうかがわれる。ヒグマが一般化したのは大正期か。>とある。

 また、『新漢語林』の「羆」の項には、<「しぐま」と、よむのは字形による>とある。

 <漢字の話>

「熊」:「火」部。「火」が脚(あし・漢字の下部)になるときは、「灬」の形をとり、「連火(れんか)」あるいは「列火(れっか)」と呼ぶ。

「羆」:「罒(よこめ・あみがしら・よんかしら)」部。

(98-8)「やらん」・・~であろうか。疑いをもった推量を表す。「にやあらむ」の転。断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「や」+ラ変動詞「あり」の未然形「あら」+推量の助動詞「む」の連体形「む」。

(98-89)「いくらともなく」・・数多く。

(98-11)「ひまなく」・・隙(ひま)なく。休みなく。「隙(ひま)」は、連続して行なわれる動作のあいま。間断。

(98-11)「東風(こち・ひがしかぜ・こちかぜ・あゆ・あゆのかぜ)」・・東の方から吹いて来る風。特に、春に吹く東の風をいう。

(99-1)「夜」<見せ消ち>・・影印は、「今」の左に、カタカナの「ヒ」に似た記号がある。これを「見せ消ち」記号という。「今」を訂正して、「夜」とした。

(99-23)「焚けるに、今宵は羆のうれひもなかりける・・通常の文は、終止形で結ぶ。ところが、係助詞「ぞ」を用いると、その文末は連体形で結ぶ。ここは、「けり」の連体形「ける」で結んでいる。

(99-3)「辰時(たつどき)」・・午前8時ころ。

(99-4)「かねて」・・以前から。

(99-4)「任(まか)せ」・・随って。

(99-5)「高山(こうざん)あり」・・エトロフ島北部にあるラッキベツ山(1206メートル)か。

(99-5)「大成滝(だいなるたき)おちる」・・エトロフ島北部のラッキベツ岬北の断崖絶壁にあるラッキベツ滝。高さは140メートル。テキストには「三十間」とあるが、その3倍ある。嘉永2年(1849)、千島に渡った松浦武四郎は、『三航蝦夷日記』の「ラッキベツ」という小項目のなかで、「其間は、皆峨峨たる岸壁にして船を寄する処無、実に恐敷海岸なり。其落る滝高サ五丈仭と云えども、先三十丈と見ゆる也。幅は先五丈位も有る様に思わる。一道の白絹岩端に掛けたる風景、実に目覚ましき光景なり。然れ共我等も岸を隔つこと廿三、四丁にて眺望至す故に、委敷は見取がたし。然れ共其形本邦にては、紀州郡那智山の滝よりも一等大なり」と記している。

(99-67)「岩ほ」・・巌(いわお)。旧仮名遣いは、「いはほ」で、発音は「イワオ」。語源説に、「イハホ(石秀)の略言」がある。

(99-8)「熊野なちの山の滝」・・熊野那智山の大滝。落差は、133メートルだから、ラッキベツ滝の方が、直瀑(ちょくばく。水の落ち口から、岩壁を離れ、また岩壁に沿ってほぼ垂直に落下する滝)としては、大きい。エトロフが日本に返還されると、ラッキベツ滝が日本一となる。

(99-9)「ふねを乗(のる)」・・船をすすめる。「乗る」は、乗物などをあやつって進ませる。走らせる。操縦する。「のりまわす」「のりこなす」などの形で用いられることが多い。

(99-9)「となり」・・格助詞「と」に断定の助動詞「なり」の付いたもの。…というのである。…ということである。

(99-10)「きつらん」・・来つらん。来ただろうか。カ変動詞「来(く)」の連用形「()」+完了の助動詞「つ」の終止形「」+推量の助動詞「らん(む)」の終止形「らん」。

(99-1)「思(おもい)しかども」・・思ったのだけれども。動詞「思う(ふ)」の連用形「思い(ひ)」+過去の助動詞「き」の已然形「しか」+逆接確定条件の接続助詞「ども」。

(100-1)「出(いで)こん」・・出てくるだろう。下2動詞「出(い)づ」の連用形「出(い)で」+カ変動詞「来(く)」の未然形「」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)

(100-1)「あらん」・・あるだろう。ラ変動詞「有(あ)り」の未然形「あら」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

(100-3)「はな」・・端(はな)。突き出た所。岬や岩壁の先。

(100-8)「いざ給(たま)へ」・・さあ、おいでなさい。「たまえ」は尊敬の意を表わす補助動詞「たまう(給)」の命令形で、上に来るはずの「行く」「来る」の意を表わす動詞を略したもの。さあ、おいでなさい。場面によって、私といっしょに行きましょうの意にも、私の所へいらっしゃいの意にもなる。中古以降、親しい間柄、気楽な相手への誘いかけとして、よく用いられている。

「御(み)いとまなくとも、かの主(ぬし)は出で立ち給なん。いざたまへ、桂(かつら)へ」(『宇津保物語』)

いざ給へかし、内裏(うち)へ、といふ」(『枕草紙』)

「萩、すすきの生ひ残りたる所へ、手を取りて、いざ給へ、とて引き入れつ」(『宇治拾遺物語』)

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5月学習『秘書注』 

                

(61-4)「其村々江」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「江」に「よりカ」と傍注している。

(61-5)「而巳(のみ)」・・漢文訓読の当て字。「のみ」は、「~にすぎない」「~だけだ」という限定を表すだけでなく、強く言い切る漢文訓読文で用いられる。したがって、テキスト文章の「人別相届候而巳」は、「人別を届けだけ」というより、「人別を届けたのである」と強調の意味に解すべきであろう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「のみ」の語誌に、

<漢文における文末助辞「而巳」が限定・決定・強調に用いられ、日本語の副助詞「のみ」の用法に近いため、訓読文において文末の「而巳」字を「のみ」と必ず訓じるようになり、意味も「限定」という論理性が薄れ、「強く言い切る」という情意性を表わすようになった。>とある。

古田島洋介氏は、漢文表現の「のみ」について、<「のみ」をひたすら限定と考え、「~にすぎない」「または「~だけだ」と訳そうとすると、否定的な意味合いに傾き、語感を取り違える危険性がある。時として「のみ」が強調の意にもなることを念頭に置いて、「~なのである」をも用意し、さらには限定と強調を兼ねた響きを持つ「~ばかりである」あるいは「~にほかならない」なども手駒に加えておくのが無難だろう、訓読表現の「のみ」は、日本語の「のみ」よりも意味の範囲が広いのである」(『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』吉川弘文館 2013)と述べている。

(61-7)<見せ消ち>「ウ子」→「字」・・「ウ」と「子」の左に「ヒ」のような記号がある。これは見せ消ちの記号で、「ウ」「子」を消し、右に「字」と訂正している。写した原本の「字」の冠の「ウ」と脚の「子」が、離れていたのか。

 (61-7)「チヨーメン」・・黒龍江河口右岸の港。

(61-8)「ナツコ」・・北樺太の地名。北緯52度の南。山丹への渡り口。『足軽書付』の「ナツコ」の項には、「満州地方僅ニ壱里半位ニ見ゆる。此処ニ而交易之為メ渡来の山丹人に逢ふ」とある。

 下は、中村小市郎著『樺太雑記』(『犀川会資料』所収 北海道出版企画センター刊 1982)より

 (62-1)「髪薄く」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「髪薄く」の「髪」を「鬚」とし、「鬚薄く」とある。

(62-1)「弁髪(べんぱつ)」・・男の結髪の一種で、頭髪の周囲は剃って、中央に残った髪を編んで長く後ろに垂らしたもの。もと満州人の習俗であったが、清朝時代には中国全域に行なわれた。

(62-2)「衣裾(いきょ)」・・きもののすそ。

(62-4)「耳かね」・・耳金。耳につける金属製の装飾品。耳輪、耳鎖の類。

(62-4)「姿容(しよう・すがたかたち)」・・すがたかたち。みめかたち。容姿。

(62-5)「温柔(おんじゅう)」・・人柄がおだやかで、すなおなこと。また、そのさま。やさしくて、人にさからわないさま。温順。

(62-5)「男子」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「男」に「女カ」と傍注している。

(62-5)「幼稚」・・幼児。「幼」も「稚」も小さいの意。なお「稚」の旁の「隹」は「小さい鳥」の意で、「隹」(ふるとり)」として部首になっている。「隹」には、「雀」「隼」「雛」などがある。

 *晋・陶潜〔帰去来の辞、序〕

  余家貧、耕植不足以自給  余(われ)、家貧しく、耕植するも以て自ら給するに足らず。

幼稚盈室、瓶無儲粟    幼稚、室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)     

無し。

(62-6)「口吻」・・

(62-5)「手甲(てっこう・てこう・てっこ)」・・手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-6)「文字」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「字」に「身カ」と傍注している。「文身(ぶんしん)」は、手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-8)「闘諍(とうそう)」・・いさかい。

(62-8)「家居(かきょ・いえい)」・・すまい。家。

(62-9)「睍(のぞ)き」・・覗き窓。影印は「睍」だが、ふつうは「覗」を使う。

(62-10)「婚(こん)」・・旁の昏は昏夕(ゆうべ)。その時刻より婚儀が行われた。

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