森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2015年07月

8月学習『秘書注』 

(68-1)(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。(まま)」・・そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。

(68-3)「穴居(けっきょ)」・・原始あるいは古代社会において、自然の洞穴や、竪穴をうがちその上に簡単な覆屋を設けて住む風習があり、これに対して用いられた呼称である。

(68-4)「木陰(こかげ)」・・木のかげ。樹木の幹や枝葉のかげになっているところ。

 *「木陰(こさ)」・・木陰が多くて耕作に不向きな土地。

 *「木陰引(こさひき)」・・江戸時代、往来の並木や砂除(すなよけ)林、魚附(うおつけ)林などの陰になったり、山や高いがけの日陰になったりして、作物のできのわるい田畑の年貢を減免すること。木蔭引(こかげひき)。

 *「木陰払(こさはらい)」・・田畑の日当たりをよくするためにこさを伐ること。関東には屋敷林が多いので、田畑の所有者の日照権を守るため、こさを伐らせるか陰代として料金を取ることを認めていた。

 *「木陰(こかげ)に臥(ふ)す者は枝を手折(たお)らず」・・なさけをかけてくれた人に対しては、害を加えないのが人情であるということのたとえ。

 (「韓詩外伝‐二」の「食其食者不毀其器、陰其樹者不折其枝」による)

(68-4)<漢字の話>「陰」の「木」・・①「き」の語源説が面白いので紹介する。

 (1)イキ(生)の上略〔日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべ=鈴江潔子・国語の語根とその分類=大島正健・大言海〕。

(2)ケ(毛)の転。素戔嗚尊の投げた毛が木になったという伝説から〔円珠庵雑記〕。木は大地の毛髪であるところからか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(3)キ(黄)の義〔言元梯〕。

(4)草がクサクサとして別ち難いのに対し、木はキッと立ち、松は松、梅は梅とキハマルところから〔本朝辞源=宇田甘冥〕。

(5)ツチキ(土精気)の上略で、キムシ(地気生)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(6)キリ(切)、またはコリ(樵)の反〔名語記〕。

(7)五行相剋の説では、金剋木といって木は金にキラルルところから〔和句解〕。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

➁「木」はテキストのように、複合語の場合、語頭では「こ」と変化することがある。

「木漏(こもれ)れ日」「木霊(こだま)」「木(こ)っ端(ぱ)」「小梢(こずえ)」「木立(こだち)」「木花開耶姫(このはなのさくやひめ)」

(68-56)「山丹切(さんたんぎれ)」・・黒龍江下流に住む山靼人と、樺太アイヌ・北海道宗谷アイヌとが交易し、その際に伝わった中国(明末清初頃)産の錦。蝦夷錦(えぞにしき)。

(68-6)「きせる」・・キセル。({カンボジア}khsier 「管」の意)管の一端に刻みタバコをつめて火をつけ、他端の吸口からその煙を吸う道具。両端が金属、途中が竹でできている物が多い。タバコをつめる口を火皿、火皿のついた湾曲している部分全体を雁首(がんくび)、雁首と吸口の中間の管を羅宇(ラウ)と呼ぶ。キセリ。キセロ。キセル筒。

 日本に慶長(15961615)頃に伝来したとされるが、以降、慶長初期に流行した火皿の大きな河骨型(こうぼねがた)と呼ばれるもの、元和・寛永(16151644)頃に遊侠の徒が護身用に用いた鉄製の長い「喧嘩煙管」など、時代によりさまざまな形のものがある。「俳諧・毛吹草‐四」には、近江水口、肥後隈本などの名産としてキセルが挙げられており、近世初期にはかなり普及していたことが知られる。

(70-2)「ニクフン人」・・ギリヤーク人。樺太北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。1897年の人口4650人中、1971人が樺太に居住していた。樺太の原住民は北部のギリヤーク、中部東岸のオロッコ、南部のアイヌであるが、1959年のその総人口人中、ギリヤークが人を占めている(アイヌは人で、ほぼ同数が第二次世界大戦後、北海道に引き揚げた)。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、キーレン語のGilekkoの転訛、中国人のいう乞烈賓・乞列迷・吉烈迷・済勒弥はゴルジの称呼Gillemiの音訳、別にFiyakaとも呼び費牙喀などと音訳、アイヌはスメレングルと称した。ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。皮膚は黄褐色、顔貌は蒙古型で丸くて扁平、頭髪は直毛で黒色、髭が多い。人種・言語の系統は不明で、古アジア族の一つとされている。夏は校倉式に丸太を組み立ててつくった小屋を、冬は竪穴を住居としていた。氏族制をもち、族外婚規制がまもられている。漁業をもっぱらとし、冬はわずかに狩猟をしていたが、いまはオロッコとともに、トナカイ=コルホーズの組織をつくっている。文化5(1808)に樺太と黒竜江下流域を探検した間宮林蔵の『北蝦夷図説』四(スメレンクル)は最古のギリヤーク民族誌で、記述もくわしい。

(70-3)「泝(さかのぼ)り」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<〔説文〕十一上に泝を正字とし、重文として遡を出しているが、二形ともに行われており、ただ慣用を異にするところがある。水流にさかのぼるときには泝を用いるが、時間的にさかのぼるばあい、たとえば法律の効力がその発布以前にさかのぼって及ぶようなときには遡及といい、泝は用いない。>とある。

(70-4)「ロモウ川」・・現トゥイミ川。北カラフト最大の川。「ロモウ」は「ロゴウ」か。ロゴウはカラフト北部東海岸の地名。旧日本名は呂郷。

(70-10)「アラコイ」・・カラフト北部西海岸の地名。北緯51度付近。旧日本名は荒子井。

 「北蝦夷地西浦クシユンナイよりナツコまで足軽廻浦為致候行程荒増申上候書付」(東京大学史料編纂所刊『大日本古文書 幕末外国関係文書の十四』)の「アラコイ」の項に 

 「オツチシより凡弐里半 此処スメレンクル家七軒あり、大川有、川口弐拾間余、川上7七八十権間位もあるよし、小石地ニ而、奥山遠く青木立、是より山道越ニ而タライカナイ江凡弐拾六七日の里程なるよし」とる。

(71-2)<くずし字>「互に」の「互」・・「楽」「閑」と類似しているので、文脈から判断する。 

(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。南樺太の北東部から南南東に向けて突出する半島、またその南端の岬。旧称シンノシレトコ(真知床)岬。ロシア連邦ではサハリン州に属し、テルペニヤ岬Мыс Терпения/Ms Terpeniyaとよぶ。東北山脈の延長にあたり、半島は長さ約70キロメートル。幅約5キロメートルの地峡をもつ。この岬により、オホーツク海と多来加(たらいか)湾(テルペニヤ湾)を分ける。低平な丘陵の半島で、樺太島の東端(東経14440分)にあたる。半島の東岸は寒流の勢力に強く影響されて6月まで流氷があり、7月の平均気温はわずか10℃。岬の沖合いには海豹(かいひょう)島(チュレーニー島)がある。文化6(1809)間宮林蔵(まみやりんぞう)はこの岬まで探検にきて引き返している。

 

『ふなをさ日記』8月注 

(113-1)「はごこまん」・・「育(はぐく)まん」に同じ。世話をする。面倒をみる。語成は、「育(はごく)む」の未然形「育(はごく)ま」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

 *「育(はぐく)む」は、「羽包(はくく)む」の意。親鳥がひな鳥を羽でおおい包む。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <ククムは親鳥が雛を羽でもって包み養う意。上代・中古にはハグクムが一般に用いられていたが、中世になるとハゴクムの勢力が強くなり、ハグクムは歌論・注釈書などに用いられるのみとなった。これは、語源が忘れられたことと、当時オ段とウ段の交替現象が広く生じていたことによる。しかし、江戸時代になって語源が再認識され、ハグクムの形が次第に勢力を取り戻し、近代には、日常語として復活した。>とある。」

 *<漢字の話①>「育」・・部首は「肉(にくづき)」。解字は「女性が子を生む形にかたどり、うむ・はぐくむの意味をあらわす」(『新漢語林』)

 *<漢字の話➁>「ツキ」の部首・・現在の多くの漢和辞典は、「検索」の便利さを重視しているため、その立場から、部首の統廃合、漢字の部首移動が行われている。以下に、現在、「月」部に統合されている「月」の本来の部首(『康煕字典』による部首)を記す。

  1.「日月」の「月(つき)」(つきへん)・・常用漢字では、

月、有(本来は「肉部」)、朗、朝、望。

    常用漢字で「つきへん」の字はない。ほとんどが「肉

月(にくづき)」。

  2.「肉部」(偏になるときは「月」の形になるので「肉月

(にくづき)」・・肌、育、肩、背、肺、胸胴、脚、腕、腎、腰、膝など、多数ある。

  3.「舟月(ふなづき)」・・常用漢字では、朕、服。

    **「服」・・「舟」はふねの両側につけるそえ板の意味。転じて身につけるの意味を表す。

    **「朕」・・舟を上流に向かっておしあげる航跡をがくさまから、しるし・あとの意味を表す。

          借りて天子の自称の意味を表す。

 *<漢字の話③>本来の部首の「月」の字形

  1.「日月」の「月」・・「月」の中の横線が右の縦線に接しない。

  2.「肉月」の「月」・・横線が左右に接する。

  3.「舟月」の「月」・・横線でなく、「ヽ」がふたつの形をとる。

(113-1)「すぎわひ」・・生業(すぎわい)。生計を立てるための職業。世渡りの手段。なりわい。生計。

(113-3)「なぞや」・・何ぞや。連語「な(何)ぞ」+係助詞「や」。反語の意を表す。どうして…か。

(113-3)「いみじさ」・・「いみじき」か。「いみじ」は、ひどくつらい、苦しい、みじめである、悲しい、情けない、恐ろしい、困ったことである、などの気持を表わす。

(113-3)「とふ」・・問(と)う。

(113-5)「よしや」・・副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。逆接の仮定条件を表わす語。もし。かりに。たとい。万一。よしんば。

 *ふるさとは遠きにありて思ふもの

   そして悲しくうたふもの

    よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

    ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

  そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや (『室生犀星「小景異情」』)

(113-5)「乞食(こつじき・こじき・かたい・ほいと)」・・「こつ」は「乞」の慣用音。「じき」は「食」の呉音。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、

 <(1)中古の「こじき」は促音の無表記で、「こっじき」と読むべきか。中世から近世にかけて「こつじき」が一般的で、近世にしだいに「こじき」が増え、近代以降「こじき」が普通となった。

(2)本来は托鉢と同じで僧の修行の一つであったが、中世頃から物もらいの意で用いられるようになり、近世になると托鉢の意ではあまり用いられなくなる。そのため、「こじき」は、もっぱら物もらいの意となり、特にそれと区別して、托鉢のことを「こつじき」と古い形でいうこともある。>

とある。

 *「ほいと」・・「ほいとう(陪堂)」の変化した語。「陪堂(ほいとう)」の「ほい」は「陪」の唐宋音。

禅宗で、僧堂の外で、食事のもてなし(陪食=ばいしょく=)を受けること。

(113-6)「本意(ほんい・ほい)」・・本来の志。かねてからの希望。

(113-7)「あながち」・・(下に打消を伴って)一概には。必ずしも。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、

 <(1)「あな」は自己、「かち」は勝ちか。自分勝手に物事を一方的に押し進めて、他を顧みないさまが原義と思われる。

(2)類義語「しいて(強)」が相手の意志にさからって事を進める意で、古代の和歌や散文に用いられているのに対して、「あながち」は自己の内部の衝動によっていちずに動く意。客観的に見ればわがままという情態性を表わすが、「源氏物語」に百例以上も用いられている以外はあまり頻用されない。

(3)連用形「あながちに」は以後徐々に情態性を失い、程度性の強い語へと変化していく。平安末から否定表現と呼応する用法が多くなり、中世には語尾の落ちた「あながち」に否定を伴った形が現われ、陳述副詞のように用いられた。>とある。

(113-8)「田地(でんち・でんじ)」・・田となっている土地。田。

 *<漢字の話>「田(でん)」・・①元来は、区画された狩猟地・耕地の象形で、田ばかりでなく、耕作地の総称。②したがって、「田」は狩りをする意もあり、「田(でん)す」は、狩りをすること。

<晋・陶潜〔帰去来の辞〕>

帰去来兮       帰去来兮(かへりなん いざ)

   田園將蕪胡不帰    田園 將(まさ)に蕪れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる

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『ふなをさ日記』7月学習注  

(108-2)「塚田留次郎」・・当時。松前奉行調役下役。

(108-2)「松井庄三郎」・・異本は「村井庄三郎」とある。

(103-2)「神無月(かんなづき、かみなしづき、かみなきづき、かみなづき、かむなづき、かみなかりづき)」・・陰暦十月のこと。「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には語源説が11項目ある。折口信夫の説「一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された」も紹介されている。なお、異本は「十一月四日」とある。

(108-3)「三厩」・・「みんまや」。テキスト影印は「うまや」とルビがある。三厩は青森県北西部の地名。津軽半島の北西端にある。松前街道の宿駅。漁業が主。龍飛(たっぴ)崎がある。

(108-3)*「忠右衛門(ちゅうゑもん)」・・右衛門は、「ゑもん」か「うゑもん」か。古くは「右衛門」と書いて「うゑもん」。""も発音していた。なぜ「うゑもん」と言っていたのに「ゑもん」になってしまったのか。「忠右衛門」は、元々は「うゑもん」。「ゑ」は「we(うぇ)」に近い発音で、「uwemon(ううぇもん)」だった。それが「u」と「we」の発音が一緒になって「wemon(うぇもん)」。その後、「ゑ」と「え」の発音が区別されなくなり「右衛門」と書いて「emon(ゑもん)」と発音するようになった。

 <律令の職「右衛門府(うえもんふ)」>・・左衛門府とともに衛士を率いて宮城諸門の警衛、開閉をつかさどった。職員に督、佐各一人、大尉・少尉・大志・小志各二人のほか、府生、衛士等がある。

 <変体仮名の「衛」>・・「ゑ」。「恵」「奥のゑ」「重たいゑ」という。したがって、「忠右衛門」のルビは、「ちゅうゑもん」が本来。なおカタカナの「ヱ」は、「かぎのヱ」。

 <黙字>・・「右衛門」の「右」のように、発音しない字を黙字という。「伊達(だて)」の「伊」、「和泉」の「和」など。

(108-5)「三十日経て十二月四日」・・「神無月(10月)四日」に三厩を出発して、「三十日を経」れば、「十一月四日」だから日数が合わない。「神無月(10月)四日」は、異本の「十一月四日」が正しいか。

(108-5)「千住(せんじゅ)」・・東京都足立区南部の地名。旧南足立郡千住町。広くは荒川区南千住(旧北豊島郡南千住町)を含める。江戸時代は奥州街道最初の宿場町として、遊女も多く繁栄した。

 なお、「千住」の語源説に「千手観音堂があったところから千手の転」がある。

(108-6)「ヱゾ会所」・・松前奉行所の江戸会所。直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。

<江戸の箱館奉行所(のち松前奉行所)の江戸会所>
 箱館奉行所(松前奉行所)の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島の霊岸橋際埋立地に置かれた(現東京都中央区新川町1丁目霊岸島児童公園付近)。江戸時代から、蝦夷地の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行、のち松前奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。

(108-7)「霊岸島(れいがんじま)」・・霊巖寺が建てられてあったところから呼ばれた。東京都中央区、隅田川河口の島。現在新川一・二丁目となる。江戸初期までは中島と呼ばれていた。万治元年(1658)霊巖寺が深川に移ると、水運に恵まれた地の利から倉庫が並び、江戸時代は材木問屋街、のち清酒問屋街として発展した。

(108-9)「御奉行」・・この時期、江戸在勤の松前奉行は、服部貞勝。

 *箱館奉行の勤務体制・・江戸と箱館(のち松前)と1年交代で勤務した。

(108-910)「尾張の古郷の方」・・重吉の故郷、尾張藩の江戸屋敷の役人。

(108-11)「尾州御屋敷(びしゅうおやしき)」・・江戸の尾張藩の屋敷。上屋敷は、市ヶ谷にあった。

(109-1)「尾州御蔵方」・・尾張藩の御蔵奉行の役人。

(109-1)「木曽路(きそじ)」・・江戸時代の五街道の一つ、中山道をいう。江戸日本橋から板橋、浦和、高崎の宿を経由し、碓氷(うすい)峠を越えて信濃に入り、鳥居峠を越えて、木曾谷から美濃、近江に至り、草津宿で東海道に合するもの。この間、六十七次。草津、大津を加えて六十九次ともいう。

 狭意には、長野県南西部、中山道の鳥居峠付近から馬籠(まごめ)峠に至る間をいう。奈良時代の初めに開かれ、江戸時代には贄川(にえかわ)から、奈良井、藪原、宮越(みやのこし)、福島、上松(あげまつ)、須原、野尻、三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠まで十一宿が置かれた。吉蘇路。信濃路とも。

 *重吉が通った名古屋までの道筋

  ①下諏訪まで・・イ.中山道 

.甲州道

  ②中山道から名古屋まで

.下街道・・中山道の大井宿と大久手宿の間の槇ヶ根追分から土岐川沿いに名古屋城下の伝馬町札の辻に至る。

.上街道(うわかいどう)・・中山道伏見宿を過ぎて、太田宿の手前の太田の渡しの手前から上街道に入り、土田(どた)宿、善師野(ぜんじの)宿、小牧宿を経て名古屋城下に至る。

(109-2)「清水御門(しみずごもん)」・・名古屋城三の丸北側にあった唯一の門。門内に尾張藩の勘定奉行所があった。枡形の内部を土塁で仕切る厳重な構造であった。だが、門そのものは櫓門ではなく、矢来を組み上げただけの比較的簡易な施設となっていた。門跡は、現在は道路になっており、旧状をまったくとどめていない。

(109-3)「かたみ(互)に」・・たがいに。 

*「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは〈清原元輔〉」(後拾遺和歌集)

(109-3)「つばら」・・委曲・審。くわしいさま。十分なさま。つばらつばら。つまびらか。つばらか。

(109-4)「鳴海の御代官」・・「鳴海」は鳴海陣屋・鳴海代官所。戦国時代には織田・今川両勢力の接触地点で鳴海砦が設けられた。慶長検地では高三千七百三十八石余の大村。慶長6年(1601)東海道三河池鯉鮒(ちりゅう)宿と熱田宮宿の間の宿駅となり、本陣一・脇本陣二・問屋三があり、L字状の街道に沿って十ヵ町の町並が続いた。天明2年(1782)尾張国愛知・知多郡の一部と三河国の領分計百二ヵ村を支配する鳴海代官所が村内の森下に設けられた。慶長13(1608)に始まるとされる木綿の鳴海絞が東海道の旅客に名産として売られ、伝統産業として続いている。明治19年(1886)東海道線開通で寂れたが、同22(1889)町制施行。名古屋鉄道本線や国道一号線などによって復活、第二次世界大戦後は住宅地として開発が進み、昭和三十八年(一九六三)四月一日名古屋市に合併、緑区が生まれ、その一部となった。

鳴海代官は大代官で鳴海村から愛知郡東南部、知多郡東半分を収めた(石高七万二千石)。重吉の故郷半田村も鳴海代官所の支配であった。

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7月学習『秘書注』  

(64-1)「廻浦(かいほ)」・・海岸をめぐること。

 *<漢字の話>「浦」と「津」・・「浦」は、海岸。「津」は港。「津々浦々」は、和製4字熟語。

(64-3)「御普請役(ごふしんやく)」・・江戸幕府の職名。享保九年(一七二四)に勘定奉行支配御普請役として新設。東海道五川、一五か国の幕府領の堤、川除(かわよけ)、用水などの普請箇所の検分・修築、新田の検分などをつかさどったもの。勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。→

(64-3)「間宮鉄次郎」・・安政元年(1854)、堀・村垣に従い蝦夷地に出張し、カラフトに渡り、東海岸を巡視した。のち、箱館奉行支配調役下役となり、同3(1856)調役並、万延元年(1860)調役に進んだ。

(64-4)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。

(64-5)「弁利(べんり)」・・便利。都合。

(64-7)「トンナイチヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名富内。頓内茶、屯内茶とも。

(64-7)「シユマヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名島矢。栄浜の北にある。なお、トンナイチヤとシユマヤ間は「凡廿里余」とあるが、『南樺太全図』の航路を計算すると約19里。

(64-89)「シラヽヲロ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名白浦。シユマヤ~シラヽヲロ間は、約13里。

(64-9)「砂素浜(すなすはま・すなすわま)」・・砂洲浜。「素浜」は、洲浜。「洲浜」は、浜辺の入りこんだところ。水の湾入したなぎさ。州が出入りしている海岸。

(64-11)「ナイブツ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名内淵。本書の間宮、松岡らの巡検に先立つこと53年、享和元年(1801)、カラフト島検分を命じられた幕吏・中村小一郎は東海岸を内淵まで検分した。

(64-11)「タライカ」・・日本名多来加。南樺太北部東岸、北知床(テルペニヤ)岬と野手戸(のてと)(ソイモノフ)岬との間を占め、南に大きく開ける湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴によって隔てられた潟湖である多来加湖(ネフスコエ湖、面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(65-1)「往返(おうへん)」・・行き来。往来。往復。

(65-1)「縁辺(えんぺん)」・・ゆかりある人。縁続きの人。縁家。

(66-7)「相対(あいたい)」・・対等であること。対等で事をなすこと。

(67-2)「平日(へいじつ)」・・ふだん。平生。平素。

(67-3)「シウカ」・・シスカか。日本名敷香。南樺太北部東岸の地名。多来加湾西部に位置する。

(67-34)「ホロナイ川」・・幌内川。北カラフトに源を発し、北緯50度からから南樺太に入り、多来加湖の西側を流れ、多来加湾へ注ぐ。長さ320kmは利根川に匹敵する長さを誇り、樺太の日本統治時代の当時は日本唯一の国際河川として知られていた。

(67-4)「タナンコタン川」・・「タナンコタン」は、日本名多蘭。多蘭川は、幌内川下流で、幌内川から分流し、多来加湖西部を流れ、多来加湾に注ぐ。

(67-5)「野鄙(やひ)」・・下品でいやしいこと。

(67-10)「容貌(ようぼう)」・・テキスト影印の「㒵」は「貌」の異体字(俗字)。なお「皃」は同字。テキスト翻刻の凡例に「異体字は正字に直す」としたので、本注記の見出しも同様にする。

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