(68-1)「(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。(まま)」・・そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。
(68-3)「穴居(けっきょ)」・・原始あるいは古代社会において、自然の洞穴や、竪穴をうがちその上に簡単な覆屋を設けて住む風習があり、これに対して用いられた呼称である。
(68-4)「木陰(こかげ)」・・木のかげ。樹木の幹や枝葉のかげになっているところ。
*「木陰(こさ)」・・木陰が多くて耕作に不向きな土地。
*「木陰引(こさひき)」・・江戸時代、往来の並木や砂除(すなよけ)林、魚附(うおつけ)林などの陰になったり、山や高いがけの日陰になったりして、作物のできのわるい田畑の年貢を減免すること。木蔭引(こかげひき)。
*「木陰払(こさはらい)」・・田畑の日当たりをよくするためにこさを伐ること。関東には屋敷林が多いので、田畑の所有者の日照権を守るため、こさを伐らせるか陰代として料金を取ることを認めていた。
*「木陰(こかげ)に臥(ふ)す者は枝を手折(たお)らず」・・なさけをかけてくれた人に対しては、害を加えないのが人情であるということのたとえ。
(「韓詩外伝‐二」の「食其食者不毀其器、陰其樹者不折其枝」による)
(68-4)<漢字の話>「陰」の「木」・・①「き」の語源説が面白いので紹介する。
(1)イキ(生)の上略〔日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべ=鈴江潔子・国語の語根とその分類=大島正健・大言海〕。
(2)ケ(毛)の転。素戔嗚尊の投げた毛が木になったという伝説から〔円珠庵雑記〕。木は大地の毛髪であるところからか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。
(3)キ(黄)の義〔言元梯〕。
(4)草がクサクサとして別ち難いのに対し、木はキッと立ち、松は松、梅は梅とキハマルところから〔本朝辞源=宇田甘冥〕。
(5)ツチキ(土精気)の上略で、キムシ(地気生)の義〔日本語原学=林甕臣〕。
(6)キリ(切)、またはコリ(樵)の反〔名語記〕。
(7)五行相剋の説では、金剋木といって木は金にキラルルところから〔和句解〕。
(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)
➁「木」はテキストのように、複合語の場合、語頭では「こ」と変化することがある。
「木漏(こもれ)れ日」「木霊(こだま)」「木(こ)っ端(ぱ)」「小梢(こずえ)」「木立(こだち)」「木花開耶姫(このはなのさくやひめ)」
(68-5~6)「山丹切(さんたんぎれ)」・・黒龍江下流に住む山靼人と、樺太アイヌ・北海道宗谷アイヌとが交易し、その際に伝わった中国(明末清初頃)産の錦。蝦夷錦(えぞにしき)。
(68-6)「きせる」・・キセル。({カンボジア}khsier 「管」の意)管の一端に刻みタバコをつめて火をつけ、他端の吸口からその煙を吸う道具。両端が金属、途中が竹でできている物が多い。タバコをつめる口を火皿、火皿のついた湾曲している部分全体を雁首(がんくび)、雁首と吸口の中間の管を羅宇(ラウ)と呼ぶ。キセリ。キセロ。キセル筒。
日本に慶長(1596~1615)頃に伝来したとされるが、以降、慶長初期に流行した火皿の大きな河骨型(こうぼねがた)と呼ばれるもの、元和・寛永(1615~1644)頃に遊侠の徒が護身用に用いた鉄製の長い「喧嘩煙管」など、時代によりさまざまな形のものがある。「俳諧・毛吹草‐四」には、近江水口、肥後隈本などの名産としてキセルが挙げられており、近世初期にはかなり普及していたことが知られる。
(70-2)「ニクフン人」・・ギリヤーク人。樺太北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。1897年の人口4650人中、1971人が樺太に居住していた。樺太の原住民は北部のギリヤーク、中部東岸のオロッコ、南部のアイヌであるが、1959年のその総人口人中、ギリヤークが人を占めている(アイヌは人で、ほぼ同数が第二次世界大戦後、北海道に引き揚げた)。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、キーレン語のGilekkoの転訛、中国人のいう乞烈賓・乞列迷・吉烈迷・済勒弥はゴルジの称呼Gillemiの音訳、別にFiyakaとも呼び費牙喀などと音訳、アイヌはスメレングルと称した。ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。皮膚は黄褐色、顔貌は蒙古型で丸くて扁平、頭髪は直毛で黒色、髭が多い。人種・言語の系統は不明で、古アジア族の一つとされている。夏は校倉式に丸太を組み立ててつくった小屋を、冬は竪穴を住居としていた。氏族制をもち、族外婚規制がまもられている。漁業をもっぱらとし、冬はわずかに狩猟をしていたが、いまはオロッコとともに、トナカイ=コルホーズの組織をつくっている。文化5年(1808)に樺太と黒竜江下流域を探検した間宮林蔵の『北蝦夷図説』四(スメレンクル)は最古のギリヤーク民族誌で、記述もくわしい。
(70-3)「泝(さかのぼ)り」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<〔説文〕十一上に泝を正字とし、重文として遡を出しているが、二形ともに行われており、ただ慣用を異にするところがある。水流にさかのぼるときには泝を用いるが、時間的にさかのぼるばあい、たとえば法律の効力がその発布以前にさかのぼって及ぶようなときには遡及といい、泝は用いない。>とある。
(70-4)「ロモウ川」・・現トゥイミ川。北カラフト最大の川。「ロモウ」は「ロゴウ」か。ロゴウはカラフト北部東海岸の地名。旧日本名は呂郷。
(70-10)「アラコイ」・・カラフト北部西海岸の地名。北緯51度付近。旧日本名は荒子井。
「北蝦夷地西浦クシユンナイよりナツコまで足軽廻浦為致候行程荒増申上候書付」(東京大学史料編纂所刊『大日本古文書 幕末外国関係文書の十四』)の「アラコイ」の項に
「オツチシより凡弐里半 此処スメレンクル家七軒あり、大川有、川口弐拾間余、川上7七八十権間位もあるよし、小石地ニ而、奥山遠く青木立、是より山道越ニ而タライカナイ江凡弐拾六七日の里程なるよし」とる。
(71-2)<くずし字>「互に」の「互」・・「楽」「閑」と類似しているので、文脈から判断する。
(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。南樺太の北東部から南南東に向けて突出する半島、またその南端の岬。旧称シンノシレトコ(真知床)岬。ロシア連邦ではサハリン州に属し、テルペニヤ岬Мыс Терпения/Ms Terpeniyaとよぶ。東北山脈の延長にあたり、半島は長さ約70キロメートル。幅約5キロメートルの地峡をもつ。この岬により、オホーツク海と多来加(たらいか)湾(テルペニヤ湾)を分ける。低平な丘陵の半島で、樺太島の東端(東経144度40分)にあたる。半島の東岸は寒流の勢力に強く影響されて6月まで流氷があり、7月の平均気温はわずか10℃。岬の沖合いには海豹(かいひょう)島(チュレーニー島)がある。文化6年(1809)間宮林蔵(まみやりんぞう)はこの岬まで探検にきて引き返している。