森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2015年09月

記事タイトル『始末書』10月学習の注記

【魯夷唐太嶋渡来の年代経過 ― 『新北海道史年表』より

<嘉永5年(1852)>

 ~ロシアの海軍大佐ネヴェリスコイ、ボスニャック海軍大尉に樺太探検を命じる。

<嘉永6年(1853)>

 7.18 ロシア使節プチャーチン、4隻の軍艦を率いて長崎に来航。

8.19 長崎奉行に国書を手交して、国交およびカラフト・千島の境界画定を要求。

 8.29 ロシア海軍大佐ネヴェリスコイ、カラフトの占領の命を受けて、陸軍少佐ブッセそ

の他の将校とともに陸戦隊73人を率い、露米会社の汽船ニコライ号にて樺太久

春古丹(クシュンコタン)に来航。

 9.1 上陸を開始し、屋舎、物見櫓、穴蔵をつくり、柵をめぐらした陣営(ムラビヨフ哨

所)を築く。

 9.16 樺太へ異国船来航の報が松前に届き、9.17に一番隊、9.18に二番隊を派遣。

幕府へも報告。(10.10二番隊マシケに到着、そのまま越年。)

 10.10 プチャーチン、老中に交渉開始の督促状をおくり、千島・カラフトの所属を問い、

蝦夷島に1か所開港を要求。(10.23 長崎を一旦退去) 

12.5 プチャーチンの率いる軍艦、長崎に再来航。

12.14 幕府応接掛、プチャーチンと会見。12.20より国境と和親通商について交渉開始。

*幕府応接掛の対応

・エトロフ島につては、「蝦夷ハ日本所属の人民なれハ、あいの居候処は日本領ニ候」と日本領を主張。

・カラフトについては、半分に分割もありうるが自分らでは決定しがたいと主張。

12.26 境界画定のため、日本の役人カラフトに派遣し見分することを提案。

12.28 ロシア使節より、樺太見分のために派遣する日本の幕吏に無礼のないようにとの

カラフトのロシア守備兵宛紹介状を受け取る。

<安政元年(1854) 11.27嘉永から安政へ改元>

 1.2 ロシア使節、日本領の境界をエトロフ島とカラフト南端アニワ港に限ると主張。

 1.3 幕府応接掛、エトロフ島は日本領、樺太島は、調査の上決定すると主張。

 1.8 ロシア使節、長崎出帆(上海へ)。

 2.8 目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正、松前蝦夷地出張を命ぜられる。

 3.23 プチャーチン、長崎に来航。

3.28長崎奉行に本年6月樺太アニワ港において境界交渉を行う旨の覚書を送る。

3.29長崎退去。

 3.26 松前藩の樺太警備一番隊、樺太リヤトマリに着岸。

3.28取調べの家来、クシュンコタンに到着。

4.1クシュンコタンのロシア陣営を視察。

4.9二番隊シラヌシに到着。

 5.17 ロシア船将ポシェットら、クシュンコタン滞船のディアナ号で、松前藩の同地勤務物頭三輪持らと会見。ポシェットより幕府の露使応接掛宛書簡(アニワ湾での日露の境界画定交渉の中止と樺太のロシア兵を退去させる旨)などを受け取る。

5.18 ロシア船4隻は、滞留のロシア兵を撤収してクシュンコタンを去る。

   (『日露関係とサハリン島(秋月俊幸著)』によると、ロシア兵の撤退は、クリミヤ戦争(1853~1856年、ロシア対トルコ・英仏連合)開戦の報が届いており、英仏艦隊によるムラヴィヨフ哨所の攻撃を避けるためであったとする。)

5.28 掘、宗谷に到着(村垣は6.2到着)。ロシア人の久春古丹退去の報を受け、幕府にその状況を報告。

6.12 掘、村垣ら、北蝦夷地久春古丹に渡航。ロシア陣営を視察。それより北に進み、西はライチシカ、東はオハコタンに至る。

   (普請役間宮鉄次郎、御小人目付松岡徳次郎は東海岸タライカまで、支配勘定上川伝一郎は西海岸ホロコタン、さらに松前藩士今井八九郎はナツコまで調査。)

(1-5)「魯夷」・・ロシア(魯西亜)人に対する蔑称。「夷」は、未開の国、未開人、特に東方のえびすの意。中国人が周辺に住む異民族に対して用いた呼称に「東夷、北狄、西戎、南蛮」がある。

(1-5)「始末書」・・『大辞林』では、事故を起こした者が、その報告や謝罪のために、その間の事情を記して提出する文書とあるが、本書の始末書は、謝罪とは関係がなく、単に、事故が起こったとき、その始末(顛末)を書いて、目上の人や当局に差し出す文書の意(『角川漢和中辞典』)。

(1-6)「クシュンコタン」・・久春古丹、楠渓とも。日本領時代は「大泊」。「クシュンコタンは、宝暦(1850年代)以来、邦人の魚場を開ける処にして、松前氏出張番屋を置きし地なり。明治政府、樺太開拓使を置き、其使廳を此に定めしも政治の着手に由なし。征露戦役後、明治39(1906)まで民政署を置き、民政署を廃するに及び支廳を置き、南部の治所とす。」(『大日本地名辞書(吉田東伍著)』)

(1-6)「退帆(たいはん・たいほ)」・・船が帆をあげて帰途につくこと。たいほ。

(1-7)「御勘定評定所留役水野正左衛門」・・評定所では、寺社、町(江戸)、勘定の三奉行が、相互にまたがる事件を集会して裁判したり、国家の重大事件を裁いた。留役勘定(22人、単に「留役」とも)は、留役勘定組頭(1人)の次席で、常に評定所の立会いに列座。多忙な職務で、この職から奉行職に出世した者は幾人もいる。『柳営補任(幕臣の役職者名簿)』によれば、水野正左衛門は、嘉永7(1854)725日御勘定評定所留役より、箱館奉行支配組頭に任ぜられ、同年11月箱館に於いて死亡とある。しかし、『村垣淡路守公務日記』には、同年閏717日卒中のため、クスリ(釧路)で死亡したとある。

(1-7)「支配勘定出役矢口請三郎」・・支配勘定御勘定所の役職の一つである支配勘定(勘定の次席で、役高は100俵、御目見以下譜代席)でいながら、他の職を兼ねたものを支配勘定出役(しゅつやく・でやく)という。(笹間良彦著『江戸幕府役職集成』)

     矢口請三郎は不詳。

(1-8)「御徒目付河津三郎太郎」・・徒目付は、目付の命令によって、探偵をし、城内の宿直、大名登城の時の玄関の取締り、評定所、伝奏屋敷、紅葉山、牢獄への出役を行い、また、目付の命令によって文案の起草、旧規の調査などを行った。1005人扶持、御譜代席。人数は、50人位、ほかに西の丸にも245人位。

     河津三郎太郎は、『柳営補任』によれば、嘉永7(1854)728日箱館奉行支配調役、同年1227日同支配組頭に任ぜられている。のち、長崎奉行、外国事務総裁、更に明治元年(1868)229日若年寄に任ぜられ、幕末を迎えている。

(1-9)「御勘定奉行」・・その職は、諸国の代官を管掌し、収税、金穀などの出納と幕府領内の人民に関する訴訟を扱った。勝手方公事方があり、勝手方は、収税、金穀の出納、禄米の支給、貨幣の鋳造から河川橋梁の普請、幕府の一切の出入費について取扱い、公事方は、天領(幕府の領地)の訴訟を取扱った。幕府の財政を掌る所に老中の所掌である勘定所があり、この勘定所を直接支配するのが、御勘定奉行勝手方である。定員は4名で、勝手方2名、公事方2名。1年で交替しあう。

(1-9)「御目付」・・その職は、旗本を監察糾弾する役で、御目見以下を監察糾弾する徒目付、小人目付を支配している。定員は、享保(1720~30)頃から10名。職域は広く、礼式、規則の監察用部屋から廻ってくる願書、伺書、建議書の意見具申を将軍や老中に申し立てられる。また、殿中を巡視して諸役の勤怠を見廻り、評定所裁判にも陪席し、御台所見廻り、御勝手向、上水、道方などの廻りの分担もあった。1000石高。ここでは、堀を指すか。

(1-9)「吟味役」・・「御勘定吟味役」か。ここでは、村垣を指すか。その職は、勘定所の目付であり、御勘定奉行の相談役。勘定所関係の事務一切の検査をする役であり、非違があれば、老中に具申する権限を持ち、奉行が支配下の役人を転免させる折は連署をする。幕府で臨時出費として巨額を要する時は、その御掛となった。

     100300俵位の家禄の者(勘定組頭、評定所留役、代官など)から抜擢され、御勘定奉行、遠国奉行、二の丸留守居役へ昇進をする。定員は、当初4名、のち6名。役高は500石、御役料は300俵。部下に、吟味方改役、吟味改役、吟味下役がいる。

(1-9)「出帆懸(しゅっぱんがけ)」・・出帆の際。「懸け」は、その動作が起ころうとする直前の状態であることを表わす。「死にかけ」「つぶれかけ」。

(1-10)「差向」・・今のところ、目下、さしあたり。

続きを読む

『ふなをさ日記 人』10月注(2)

(32右下)「シイリ」・・チリ。

(32右下)「カロ」・・

(32右下)「テルラゲルニヤ」・・アルゼンチンか。

(32右下)「テルレデヘウ」・・ティラデルフエゴ。現アルゼンチンの州。アルゼンチン本土とはマゼラン海峡によって隔てられている。

(32右下)「長人国」・・*談義本・成仙玉一口玄談〔1785〕一・箒良到伯西児(ブラジル)之談「此国の人長壱丈あるを以て、世に是国を長人国と称(なづ)けたり」

(32右下)「銀河」・・ラプラタ川か。

(33)「北極」のうち

(33右上)「モンカリヤ」・・

(33左上)「スーヱイデン」・・スエーデン。

(33左上)「ノーハウヱントイン」・・ノルウエー。

(33左上)「大北洋」・・ノルウエー海か。

(33左上)「クルウンラント」・・グリーンランド。

(33)「正帯」(北)のうち

(33右上)「テルアラコンハキイ」・・

(33右上)「カムサスカ」・・カムチャッカ。

(33右上)「ヲロシヤ」・・オロシャ。

(33右上)「八丈」「四国」「九刕(州)」「琉球」

(33右上)「大寃(たいえん)」・・台湾。

 *増補華夷通商考〔1708〕三「白砂糖〈略〉木綿 西瓜 薬種少々 鳥獣 米 南瓜 ボウブラ 右の類唐船に積来る也。是を大寃船(タイワンフネ)と云」

(33右上)「ヱゾ」・・蝦夷

(33右上)「カラフト」・・樺太

(33右上)「サド」・・佐渡

(33右上)「オキ」・・隠岐

(33右上)「イキ」・・壱岐

(33右上)「ツシマ」・・対馬。

(33右上)「カイ子ニ」・・

(33右上)「ニヒヤ」・・

(33右上)「女直」・・「女真」。中国、東北地方東部に居住し、粛慎・勿吉・靺鞨などと呼ばれてきたトゥングース系民族の遼・宋以後の名称。女直ともいう。

(33右上)「朝鮮」・・「女直」の右下にある。

(33右上)「ヲランカイ」・・渤海か。

(33右上)「ヒヤンス」・・ツングースか。

(33右上)「カイマキタ」・・

(33右上)「大韃靼」・・タタール。

(33右上)「チンケシキ」・・キルギスか。

(33右上)「シビリヤ」・・シベリヤ。

(33右上)「カルムキ」・・ウルムチか。

(33右上)「トルケクダニヤ」・・トルキスタンか。

(33右上)「カタイ」・・

(33右上)「大流沙」・・ゴビ砂漠か。

(33右上)「コンロン」・・崑崙。

(33右上)「莫卧尓」・・モゴル。ムガール。モンゴル(蒙古)とインドムガール帝国の混同が見られる。

(33右上)「大清(だいしん)」・・清、清朝、大清国、大清帝国ともいい、1636年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝。

(33右上)「大清」内の都市名・・「北京」「山東」「福建」「南京」「広東」「雲南」「四川」「寵門」

(33右上)「東天竺」「北天竺」「西天竺」「中天竺」「南天竺」・・「天竺」は、中国古代のインド地方の呼び名。同系統の古称としては天篤(てんとく)、天督(てんとく)、天豆(てんとう)、天定(てんてい)などがあり、語源は、身毒(しんどく)、印度(いんど)などと同じく、サンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。

(33右上)「夏至昼長線」・・北回帰線のこと。夏至線ともいう。「回帰線」は、地球の北緯および南緯約2326分の等緯度線のこと。それぞれ北回帰線、南回帰線という。また地球から見て太陽が夏至のころにかに座に入り、冬至のころにやぎ座に入るので、それぞれ夏至線、冬至線、あるいは、かに座の回帰線、やぎ座の回帰線ともいう。太陽が春分点から次の春分点まで戻る時間を1回帰年(または太陽年)とよぶが、この1年間に太陽は赤道―北回帰線―赤道―南回帰線―赤道の順に動き、このことから回帰線の名が生まれた。

(33左上)「モスコビイ」・・モスクワ。

(33左上)「リユスランド」・・

(33左上)「ヘルシマ」・・ペルシャか。

(33左上)「大夏」・・バルクを中心とする北アフガニスタンの、中国での呼称。漢代のバクトリア王国にあたるとされるが、紀元前二世紀、この国を滅ぼしたトハラの音訳ともいわれる。

(33左上)「ヲルカリヤ」・・ブルガリヤ。

(33左上) 「北高海」・・カスピ海。ロシア南部からイラン北部にひろがる世界最大の湖。塩湖。

  *管蠡秘言〔1777〕「海泉川湖〈略〉亜細亜の西辺に北高海と称するものあり。実は海にあらず、大湖なり」

(33左上)「太海」・・位置からエーゲ海と黒海か。

(33左上)「キリイケニ」・・ギリシャか。

(33左上)「ヲンカリヤ」・・ブルガリヤか。

(33左上)「ナトリヤ」・・アナトリア。小アジアの異称。アジアの西端にあり、トルコの大半部を占める、地中海と黒海に挟まれた半島。

(33左上)「ジユデヤ」・・シリア。

(33左上)「天堂国」・・位置からイラクか。

(33左上)「アラビヤ」・・アラビア

(33左上)「ホフレン」・・ルーマニアか。

(33左上) 「小ダッタン」・・ウクライナか。

(33左上)「フンカリヤ」・・ブルガリヤ。

(33左上)「イタリヤ」・・イタリア。

(33左上)「トイツランド」・・ドイツ。

(33左上)「紅毛」・・オランダ。

(33左上)「北海」・・北海。

(33左上)「スニツランド」・・スコットランド。

(33左上)「ヱイスランド」・・アイスランド。

(33左上)「イルランド」・・アイルランド。

(33左上)「フランス」・・フランス。

(33左上)「イスハニヤ」・・イスパニア(スペイン)。

(33左上)「ホルトカル」・・ポルトガル。

(33左上)「地中海」・・地中海。原意は「まわりを陸地で囲まれ、海峡により他の海域に連なる海。」ここでは、ユーラシア・アフリカの二大陸に囲まれ、西はジブラルタル海峡により大西洋に通じる海域。大西洋の付属海で、ボスポラス海峡以北は黒海と呼ばれる。東はスエズ運河により紅海・インド洋に通じる。

(33左上)「西紅海」・・紅海。カルフォルニヤ湾を「東紅海」とするのに対していうか。

(33左上)「ヱシツト」・・エジプト。

(33左上)「ハルハリヤ」・・リビアか。

(33左上)「サカラ」・・サハラか。

(33左上)「ヒルトルゲリツト」・・位置的に、アルジェリアか。

(33)「暖帯」のうち

(33右中)「ヲガシマ」・・小笠原諸島。

(33右中)「呂宋」・・ルソン。フィリピンの古称。

(33)「澎湖(ほうこ)三十六湖」・・「澎湖諸島」は、台湾の西方海上50キロ、台湾海峡中にある群島。中国では澎湖列島という。欧名ペスカドールは漁人諸島の意。六十四の島々からなる。

(33右中)「ホル子ヲ」・・ボルネオ。マレー諸島の中央部にある世界第三の大島。北西部のマレーシア領サバ・サラワク両州およびブルネイ‐ダルサラーム国を除いて約四分の三はインドネシア領のカリマンタン州。赤道直下にあり高温多湿で大半は密林におおわれている。

(33右中)「安南」・・ベトナム中部地方。また、この地に建てられたベトナム人国家の称。唐代に安南都護府が置かれて以来の呼称。

(33右中)「南蛮(なんばん)」・・戦国時代以後わが国で、ルソンやジャワなどの東南アジア方面をさして用いた呼称。また、東南アジアに植民地をもつポルトガル・スペインをさし、オランダ・イギリスなどと区別して用いた呼称。

(33右中)「チヤンハン」・・

(33右中)「カボチヤ」・・カンボジア。

(33右中)「マラツカ」・・マラッカ。マレー半島の先端。

続きを読む

記事タイトル『ふなをさ日記 人』10月注(1)

(26)「腹ゴモリ」・・胎内にいたこども。

(26)「皃(かお)」・・「貌」の異体字。

(26)「古渡(こわたり)」・・古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。良質、高貴として珍重された。

(26)「色取(いろどり)」・・古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。良質、高貴として珍重された。

(27)「水豹(すいひょう)」・・「あざらし(海豹)」の異名。

(27)「コハゼ」・・小鉤・鞐。真鍮、角、象牙などでつくった爪形のもの。書物の帙(ちつ)、足袋、脚絆、合羽などの合わせめの端につけて、「こはぜかけ」にかけて合わせとめる。

 <漢字の話>「鞐(こはぜ)」・・国字。

(29)「弥帆(やほ)」・・(「や」は重なる意)和船の船首に展張する小型の補助帆。本帆に対して重ねてかけるところからいい、また、八重帆ともいう。江戸時代の千石積荷船の場合、その面積は本帆の一割以下で帆走力の増加は期待できず、装備はしても実際にはあまり使用されなかった。

(29)「タツル」・・建てる。タ行下二段活用他動詞「建(た)つ」の連体形「建(た)つる。

(30)「石碑」・・重吉が建立した供養碑の変遷を略記する。(村松澄之著『「船長日記」その信憑性と価値』風媒体社 2013 参照 以下『村松本』)

 ・文政5(1822)頃 笠寺(現名古屋市南区笠寺町)に建立(川合彦充著『督乗丸の漂流』筑摩書房 1964 以下『川合本』) 

 ・天保11(1840)から嘉永6(1853)までの間、成福寺(じょうふくじ 現名古屋市熱田区)に移転

  なお、『村松本』は、安政元年の大地震で笠寺の石碑は転倒、放置され、それ以後、成福寺の帰山和尚が移転したとする。

 *碑の台石は、督乗丸をイメージした船の形で、その上に円形の塔がある。

(30)「徳本(とくほん)」・・江戸時代中期の浄土宗の僧。紀伊国日高郡の人。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。宝暦8年(1758)生まれる。天明4年(17846月出家。諸所に草庵を結び、木食草衣、長髪で高声念仏、苦修練行すること多年、わずかに『阿弥陀経』の句読しか習わず、宗義を学ばずして、おのずから念仏の教えの要諦を得たという。教化の足跡は紀伊はもとより、河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など広域に及んでいる。享和3年(180311月京都鹿ヶ谷法然院で長髪長爪の異相を改め、翌月江戸小石川伝通院智厳について宗戒両脈を相承した。文化11年(181410月小石川に一行院が再興されるや、推されて中興開山となった。文政元年(1818106日没。六十一歳。一行院に葬られる。庶民教化者らしく道歌、説法聞書、請待記録、伝記などが多く伝わり、特異な筆跡を刻んだ名号碑が各地に建立されている。戸松啓真他編『徳本行者全集』がある。

(30)「徳本筆(とくほんひつ)」・・徳本の書いたもの。「徳本文字」といわれ、各地に徳本の書いた「南無阿弥陀仏」の六字名号碑や掛軸が残っている。

(30)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」・・梵語namo amitabhaya buddhaya の音訳で、「帰命無量光覚」と訳す。仏語。阿彌陀仏に帰依することを表わすことば。浄土の信仰者は等しくこれを称えて極楽浄土を願う。真宗ではこれを六字名号といい、仏名とし、これを本尊とする。

(30)台座・・死亡年月日、名前が彫られている。

(30)「矢場(やば)」・・矢場町(やばちょう)。現名古屋市中区大須三丁目・栄三丁目。町号の由来は寛文8年(1668)三輪神社の境内に弓矢場が作られたためとされる。

(30)「半田村(はんだむら)」・・現愛知県半田市の内。北は英比(あぐい・阿久比)川を挟んで乙川村に、次いで岩滑(やなべ)村に接し、南は成岩(ならわ)村に接する。英比川と船江川の河口に挟まれた所で南は海に面している。

(30)「伊豆子浦(いずこうら)」・・現静岡県南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。

(30)「乙川村(おつかわむら)」・・現愛知県半田市の内。北部は丘陵部で南部は海に面し、東は亀崎かめざき村、南は英比あぐい(阿久比)川を境に半田はんだ村に接する

(30)「伊豆柿崎(いずかきざき」・・現静岡県下田市柿崎。下田町の東、南に突き出した須崎半島付根に位置する。枝郷として北に外浦がある。

(30)「田子(たご)」・・現]西伊豆町田子。駿河湾に面し、東には天城山系の山を負う。農耕地区の大田子(おおたご)と漁業に適した井田子(いたご)からなる。

(30)「亀崎(かめざき)」・・北側で有脇村に接するが、北から東南にかけて海に面し、西は乙川村に接する。海沿いの急斜面に集落を形成する漁村であり港町の様相を示している。

(31)漢文の体裁

 ①原文・・白文                    子曰学而時習之

 ②~1訓読文1・・原文+句読点+返り点        子曰ク、学而時習之、

 ②~2訓読文2・・原文+句読点+返り点+送り仮名   

                            子曰ク、学テ而時ニ習ウ之ヲ、

 ③書き下し文・・                   ()(いは)く、(まなび)(とき)(これ)(なら)う、

(31-4)「喎蘭新訳地球全図(オランダしんやくちきゅうぜんず)」・・いわゆるマテオ・リッチ系地図。寛政8年(1896)に日本で刊行された世界地図で、東西が二つの半球で描かれている。未だオーストラリア大陸の東側が不分明であった時代の世界地図が基となっている。地誌的な記述をまわりに配し、これ1枚で多くの地理情報を得ることができる。50×90cmくらいの一枚図で、東西両半球図のまわりにヨーロッパ・北アメリカなどの地誌が細かく書き込まれたもの。作者の橋本宗吉は幼名を直政、大槻玄沢に学び、大阪蘭学の基礎を築いた人物。 

*マテオ・リッチ系地図・・イエズス会士マテオ・リッチ(1552-1610)が中国での普及活動の一助として「坤興万国全図」を出版したのは、1602年のこと。それから50年後の1652年、この「坤興万国全図」をもとにしたと思われる「万国総図」が、わが国で出されている。「万国総図」は作者不詳だが、これが西洋知識に基づいて作られたわが国最初の世界地図で、マテオ・リッチ系地図と呼ばれる。そして1708年、この「万国総図」をもとにして当時の地図製作の第一人者である石川流宣が「万国総界図」を発表し、さらに1788(天明8)に至り、石川流宣の流れを継いだ長久保赤水が「地球万国山海興地全図説」を発表しました。赤水は原目貞清の「興地図」(1720)とこのマテオ・リッチ系世界地図を参考にしたといわれている。「喎蘭新訳地球全図」、1796(寛政8)の発表で製作者は大阪の医師橋本伯敏(橋本宗吉)、校閲は長久保赤水。赤水は1788(天明8)発表の「地球万国山海興地全図説」の前に「改正地球万国全図」(1785年・天明5) も刊行しており、橋本伯敏が世界地図を発表したときにはすでに世界地図製作の権威の一人になっていた。その赤水の校閲を得るということは、いわば「喎蘭新訳地球全図」は、当代第一人者のお墨付きを得た「最新の地図」ということになる。

(この項ウェブサイト「いるか書房別館」を参照)

続きを読む

9月『秘書注』

(72-1)「気随(きずい)」・・自分の気持、気分のままにふるまうこと。また、そのさま。気まま。

(71-5)<決まり字>「寒気」の「寒」のくずし字・・冠部分が「う」、脚部分が「を」のようになる。

(71-5)「広野(こうや)」・・ひろびろとした野原。テキスト影印は「広」の旧字体の「廣」。

 「広野」と言う場合、「曠野」を使うことが多い。

(72-10)「江ナカイ」・・テキスト影印は、「ヲロツコ人共江」と、「江」に見えるが、「江」は、「ト」で、「トナカイ」か。

(72-10)「手染」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は。「染」を「馴」とし、「手馴」としている。

(73-5)「欠隔(かけへだて)」・・ここは、「かけへだて」で、「欠」は、「懸(かけ)」の当て字か。

(73-6)「自儘(じまま)」・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手

(73-7)「当年(とうねん・ことし)」・・ことし。今年。本年。

(73-10)「承引(しょういん)」・・承知して引き受けること。承知すること。承諾すること。聞き入れること。

(73-11)「致来(いたしきたり)」・・してきたこと。伝えてきたこと。しきたり。

 

 

(74-3)<見せ消ち>「当人」→「番人」・・「当」の左に、見せ消ち記号の「ヒ」があり、右に「番」と訂正している。

(74-3) <決まり字>「任置(まかせおき)」の「任」・・旁の「壬」が、「己」のようになる。

 (74-3)「所業(しょぎょう・しょごう・しわざ)」・・行なう事柄。多く、好ましくない行為にいう。しわざ。

(74-4)「気請(きうけ・きしょう)」・・「請」は、「受」の当て字なら、「気受(きうけ)」、「性」の当て字なら「気性」。意味は「気質。気だて」。

(74-5)「コタンケシ」・・カラフト東海岸のタライカ湾西部の地名。日本名「古丹岸」「古丹消」

(74-7)「ニイトイ川」・・日本名新問川。『樺太の地名』(葛西猛千代他共著 第一書房 1930)に「新問川はエストル山の北方、西樺太山中に発し南東より湾曲して、ノテト岬の南方より湾に注ぐ、長さ二十里、南は知取(シリトル)、北は内路に接す」とある。

(75-3)「麁絵図(そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。

 <漢字の話>「麁」・・「麤」の俗字。「麤」は、あらい、そまつの意味。解字は「鹿」+「鹿」+「鹿」で、しかの群は羊のように密集しないところから、遠くはなれる、あらいの意味を表す。なお、「群」の部首も「羊」で、むらがるひつじの意味をあらわす。

(75-5)「寅八月」・・嘉永7年(=安政元年)1854年。

(75-6)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。

(75-7)「松岡徳次郎」・・松岡徳次郎」・・安政元年(1854)、堀・村垣の蝦夷地巡見に随行し、間宮鉄次郎と共に、北蝦夷地(カラフト)の東海岸を見分。のち、安政元年(1854)閏七月箱館奉行所調役下役、同3年(1856)同支配勘定格、文久3年(1663)同調役並、慶応2年(1866)同調役に進んだ。(『江戸幕臣人名事典(新人物往来社)』、『慶応二年履歴短冊(道立文書館蔵)』)

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

drecom_moriyuzi

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ