【魯夷唐太嶋江渡来の年代経過 ― 『新北海道史年表』より】
<嘉永5年(1852)>
~ロシアの海軍大佐ネヴェリスコイ、ボスニャック海軍大尉に樺太探検を命じる。
<嘉永6年(1853)>
7.18 ロシア使節プチャーチン、4隻の軍艦を率いて長崎に来航。
8.19 長崎奉行に国書を手交して、国交およびカラフト・千島の境界画定を要求。
8.29 ロシア海軍大佐ネヴェリスコイ、カラフトの占領の命を受けて、陸軍少佐ブッセそ
の他の将校とともに陸戦隊73人を率い、露米会社の汽船ニコライ号にて樺太久
春古丹(クシュンコタン)に来航。
9.1 上陸を開始し、屋舎、物見櫓、穴蔵をつくり、柵をめぐらした陣営(ムラビヨフ哨
所)を築く。
9.16 樺太へ異国船来航の報が松前に届き、9.17に一番隊、9.18に二番隊を派遣。
幕府へも報告。(10.10二番隊マシケに到着、そのまま越年。)
10.10 プチャーチン、老中に交渉開始の督促状をおくり、千島・カラフトの所属を問い、
蝦夷島に1か所開港を要求。(10.23 長崎を一旦退去)
12.5 プチャーチンの率いる軍艦、長崎に再来航。
12.14 幕府応接掛、プチャーチンと会見。12.20より国境と和親通商について交渉開始。
*幕府応接掛の対応
・エトロフ島につては、「蝦夷ハ日本所属の人民なれハ、あいの居候処は日本領ニ候」と日本領を主張。
・カラフトについては、半分に分割もありうるが自分らでは決定しがたいと主張。
12.26 境界画定のため、日本の役人カラフトに派遣し見分することを提案。
12.28 ロシア使節より、樺太見分のために派遣する日本の幕吏に無礼のないようにとの
カラフトのロシア守備兵宛紹介状を受け取る。
<安政元年(1854) 11.27嘉永から安政へ改元>
1.2 ロシア使節、日本領の境界をエトロフ島とカラフト南端アニワ港に限ると主張。
1.3 幕府応接掛、エトロフ島は日本領、樺太島は、調査の上決定すると主張。
1.8 ロシア使節、長崎出帆(上海へ)。
2.8 目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正、松前蝦夷地出張を命ぜられる。
3.23 プチャーチン、長崎に来航。
3.28長崎奉行に本年6月樺太アニワ港において境界交渉を行う旨の覚書を送る。
3.29長崎退去。
3.26 松前藩の樺太警備一番隊、樺太リヤトマリに着岸。
3.28取調べの家来、クシュンコタンに到着。
4.1クシュンコタンのロシア陣営を視察。
4.9二番隊シラヌシに到着。
5.17 ロシア船将ポシェットら、クシュンコタン滞船のディアナ号で、松前藩の同地勤務物頭三輪持らと会見。ポシェットより幕府の露使応接掛宛書簡(アニワ湾での日露の境界画定交渉の中止と樺太のロシア兵を退去させる旨)などを受け取る。
5.18 ロシア船4隻は、滞留のロシア兵を撤収してクシュンコタンを去る。
(『日露関係とサハリン島(秋月俊幸著)』によると、ロシア兵の撤退は、クリミヤ戦争(1853~1856年、ロシア対トルコ・英仏連合)開戦の報が届いており、英仏艦隊によるムラヴィヨフ哨所の攻撃を避けるためであったとする。)
5.28 掘、宗谷に到着(村垣は6.2到着)。ロシア人の久春古丹退去の報を受け、幕府にその状況を報告。
6.12 掘、村垣ら、北蝦夷地久春古丹に渡航。ロシア陣営を視察。それより北に進み、西はライチシカ、東はオハコタンに至る。
(普請役間宮鉄次郎、御小人目付松岡徳次郎は東海岸タライカまで、支配勘定上川伝一郎は西海岸ホロコタン、さらに松前藩士今井八九郎はナツコまで調査。)
(1-5)「魯夷」・・ロシア(魯西亜)人に対する蔑称。「夷」は、未開の国、未開人、特に東方のえびすの意。中国人が周辺に住む異民族に対して用いた呼称に「東夷、北狄、西戎、南蛮」がある。
(1-5)「始末書」・・『大辞林』では、事故を起こした者が、その報告や謝罪のために、その間の事情を記して提出する文書とあるが、本書の始末書は、謝罪とは関係がなく、単に、事故が起こったとき、その始末(顛末)を書いて、目上の人や当局に差し出す文書の意(『角川漢和中辞典』)。
(1-6)「クシュンコタン」・・久春古丹、楠渓とも。日本領時代は「大泊」。「クシュンコタンは、宝暦(1850年代)以来、邦人の魚場を開ける処にして、松前氏出張番屋を置きし地なり。明治政府、樺太開拓使を置き、其使廳を此に定めしも政治の着手に由なし。征露戦役後、明治39年(1906)まで民政署を置き、民政署を廃するに及び支廳を置き、南部の治所とす。」(『大日本地名辞書(吉田東伍著)』)
(1-6)「退帆(たいはん・たいほ)」・・船が帆をあげて帰途につくこと。たいほ。
(1-7)「御勘定評定所留役水野正左衛門」・・評定所では、寺社、町(江戸)、勘定の三奉行が、相互にまたがる事件を集会して裁判したり、国家の重大事件を裁いた。留役勘定(22人、単に「留役」とも)は、留役勘定組頭(1人)の次席で、常に評定所の立会いに列座。多忙な職務で、この職から奉行職に出世した者は幾人もいる。『柳営補任(幕臣の役職者名簿)』によれば、水野正左衛門は、嘉永7年(1854)閏7月25日御勘定評定所留役より、箱館奉行支配組頭に任ぜられ、同年11月箱館に於いて死亡とある。しかし、『村垣淡路守公務日記』には、同年閏7月17日卒中のため、クスリ(釧路)で死亡したとある。
(1-7)「支配勘定出役矢口請三郎」・・支配勘定は、御勘定所の役職の一つである支配勘定(勘定の次席で、役高は100俵、御目見以下譜代席)でいながら、他の職を兼ねたものを支配勘定出役(しゅつやく・でやく)という。(笹間良彦著『江戸幕府役職集成』)
矢口請三郎は不詳。
(1-8)「御徒目付河津三郎太郎」・・徒目付は、目付の命令によって、探偵をし、城内の宿直、大名登城の時の玄関の取締り、評定所、伝奏屋敷、紅葉山、牢獄への出役を行い、また、目付の命令によって文案の起草、旧規の調査などを行った。100俵5人扶持、御譜代席。人数は、50人位、ほかに西の丸にも24、5人位。
河津三郎太郎は、『柳営補任』によれば、嘉永7年(1854)閏7月28日箱館奉行支配調役、同年12月27日同支配組頭に任ぜられている。のち、長崎奉行、外国事務総裁、更に明治元年(1868)2月29日若年寄に任ぜられ、幕末を迎えている。
(1-9)「御勘定奉行」・・その職は、諸国の代官を管掌し、収税、金穀などの出納と幕府領内の人民に関する訴訟を扱った。勝手方と公事方があり、勝手方は、収税、金穀の出納、禄米の支給、貨幣の鋳造から河川橋梁の普請、幕府の一切の出入費について取扱い、公事方は、天領(幕府の領地)の訴訟を取扱った。幕府の財政を掌る所に老中の所掌である勘定所があり、この勘定所を直接支配するのが、御勘定奉行勝手方である。定員は4名で、勝手方2名、公事方2名。1年で交替しあう。
(1-9)「御目付」・・その職は、旗本を監察糾弾する役で、御目見以下を監察糾弾する徒目付、小人目付を支配している。定員は、享保(1720~30)頃から10名。職域は広く、礼式、規則の監察用部屋から廻ってくる願書、伺書、建議書の意見具申を将軍や老中に申し立てられる。また、殿中を巡視して諸役の勤怠を見廻り、評定所裁判にも陪席し、御台所見廻り、御勝手向、上水、道方などの廻りの分担もあった。1000石高。ここでは、堀を指すか。
(1-9)「吟味役」・・「御勘定吟味役」か。ここでは、村垣を指すか。その職は、勘定所の目付であり、御勘定奉行の相談役。勘定所関係の事務一切の検査をする役であり、非違があれば、老中に具申する権限を持ち、奉行が支配下の役人を転免させる折は連署をする。幕府で臨時出費として巨額を要する時は、その御掛となった。
100~300俵位の家禄の者(勘定組頭、評定所留役、代官など)から抜擢され、御勘定奉行、遠国奉行、二の丸留守居役へ昇進をする。定員は、当初4名、のち6名。役高は500石、御役料は300俵。部下に、吟味方改役、吟味改役、吟味下役がいる。
(1-9)「出帆懸(しゅっぱんがけ)」・・出帆の際。「懸け」は、その動作が起ころうとする直前の状態であることを表わす。「死にかけ」「つぶれかけ」。
(1-10)「差向」・・今のところ、目下、さしあたり。
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