森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2015年11月

『魯夷始末書』12月学習分注記

(9-1)「ソウヤ」・・現稚内市宗谷村。西蝦夷地ソウヤ場所の内。ソウヤ場所は、松前藩により、貞享年間(16884~1688)に開設されたといわれ、運上屋が置かれ、アイヌ集落も形成され、場所運営の拠点となるほか、早くから北蝦夷地、利尻、礼文のアイヌ交易の中心地となった。場所請負人は、寛延3(1750)村山伝兵衛、以降変遷を経て、文化5(1808)柏屋(藤野)喜兵衛が請負い、その後一時共同請負になったが、文化12年(1815)には再び藤野喜兵衛が単独で請負い、以後明治2(1869)まで、藤野家が経営にあたった。

(9-1)「領主(りょうしゅ)」・・松前藩主のこと。当時の藩主は12代崇広(たかひろ)。崇広は、文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。

(9-2)「丑蔵(うしぞう」・・「丑」。くずし字用例辞典p12

(9-4)「シラタン」・・「シラヌシ」の誤りか。

(9-4)「立越(たちこえ」・・連用形。「たち」は接頭語。山や川などの障害物となるものを越えてゆくこと。出かける、出かけて行くこと。

(9-5)「申通(もうしとおし」・・連用形。伝言などを取り次いで申し上げること。取り次いで申し上げること。申し届けること。

(9-5.6)「勤番所」・・松前藩は、文化5(1822)の復領後、蝦夷地の警備と行政監督のため、勤番所を12ヶ所(東蝦夷地9~ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフ、西蝦夷地2~イシカリ、ソウヤ北蝦夷地1クシュンコタン)を設けた。嘉永3(1850)時のソウヤ勤番所の体制は、物頭1、目付代1、組士2、徒士2、医師1、足軽(在住足軽で場所請負人の番人)4となっている。(『松前町史』)

(9-6)「領主役場」・・松前藩の藩政を取りおこなう場所、役所。8.29のロシア船来航の報告については、9.16に松前に届いている。

(9-6)「注進(ちゅうしん)」・・〔「注」は書くの意〕。事件の内容を書き記して急ぎ上申すること。事件を急いで報告すること。

(9-9)「エンルエーツ」・・日本名「真岡」か。エンルモコマプ、エンルコマフとも。

     樺太西海岸漁業の中心地。本島唯一の不凍港である真岡港を控える。『大日本地名辞書』には、「西の運上屋とて、総て西浦の漁業を括する所なり。支配人、番人居住し、甚手広なり。夷家も38軒あるよし。」とある。『樺太(サハリン)関係略地図および同地名対照表』(以下「樺太地名対照表」と略)NO67

(9-9)「斬(本ノママ)」・・「春漁為手当、□を伐」とする前後の文脈から、「斬」は、「薪」か。

10-2)「勘弁(かんべん)」・・考えわきまえること。熟考すること。

10-5)「倶々(ともども)」・・一緒に。つれだって。

10-6)「空嶋(からしま)」・・「空(から)」は、内部に本来ならあるべきものがないこと。何も持っていないこと。うつつ。例:「から元気」、「から威張」。

     「空嶋」は、松前藩士や場所請負人の支配人、番人が、樺太から居ない状態になること。

10-8)「乙名(おとな)」・・中世後期以降の村落においてその代表者あるいはその上層階層を呼ぶ名称(『日史大辞典』)。蝦夷地においては、「役土人」の名称の一つ。

     以下、「乙名」をはじめとする「役土人」について、『新北海道史』の記述を部分引用する。

【乙名、脇乙名(わきおとな)、小使(こづかい)】

     寛文の乱に敗北した蝦夷は、まったくその独立を失い、(略)今まで藩主と対等の地位にあった蝦夷の酋長は松前氏に服属することになった。その結果室町末期の自冶体の首脳をさして呼んだ「おとな」の名称が従属した酋長に用いられ、名主、庄屋と解されるにいたった。(略)さらに、各部落には乙名のほかに、脇乙名、小使が任命された。乙名は部落長、脇乙名はその補佐役、小使は乙名の命によって部落の者を号令するもので、これを三役と称し、部落の統治はこの三役を通じて行われたのである。(以下略。)

     【惣乙名、惣小使、】

     寛政ごろから場所ごとに惣乙名、惣小使などの役名が設けられ、蝦夷中の名望家をもってこれに充てた。惣乙名は一場所の乙名上に立つもので、普通はその地方一の家柄の者をもってこれに充て、(略)惣小使は場所のおける小使の上に立つものである。

      *参考 『日史大辞典』によると、『惣(そう)』は、中世に出現した村落共同体組織をいう。「惣」は、「揔」の異字で、音通に同じく、「聚束(あつめたばねる)」の意味をもつ。(『角川漢和中辞典』~「惣」は「揔」を誤って書き伝えた字)

     【土産取(みやげとり)】

     「年寄」といった役土人を監督する地位にあるものであり、乙名、小使などに準ずる格式で、オムシャの際などにはそれらとほぼ同様の待遇によって、土産を受けるものであった。

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記事タイトル『難船之始末』12月学習の注

*本テキストについて

 本テキストは、北海道大学附属図書館所蔵本である。(請求番号 奥平家116

 文化10(1813)10月江戸より帰航の途中伊豆沖で暴風に逢い、14ケ月の漂流ののち英国船に救助され、カムチャッカから薩摩の永寿丸の乗組員らとともにロシア船で帰国した督乗丸船頭長右衛門(重吉)と水主音吉の口書(くちがき)。本書の末尾に「文化十三子七月」とあるから、エトロフ島での口書と思われる。

◎『ふなをさ日記』によると、エトロフ上陸以来、重吉らは次のように各所で取り調べを受けている。

1.文化13(1816)79日・・エトロフ島シヒトロ番屋にて箱館奉行調役下役村上貞助の調べ。

2.同年720日より82日まで・・エトロフ島フルエベツ番屋に滞在中の調べ。

3.同年82日・・エトロフ島ヲトヒ番屋にての調べ。

4.同年819日・・クナシリ島トマリ番屋にての調べ。

5.同年919日より数日・・箱館奉行所にて調べられ、その口書は江戸へ送られる。

6.同年124日以後・・江戸霊岸島にて、箱館奉行江戸会所の役人に取り調べを受ける。

7.文化14年(18175月初旬・・名古屋城清水御門にて尾張藩の勘定奉行より取り調べを受ける。

8.その後2日間・・鳴海の代官所にての調べ。

(1)「奥平家文書」・・文政7年(1824)松前藩に仕官し、御側御用・町吟味役を歴任した元桑名藩士奥平貞守(勝馬)旧蔵の資料。

(1)「納屋町(なやまち)」・・現名古屋市中村区名駅(めいえき)五丁目・名駅南(めいえきみなみ)一丁目一帯。納屋町は、慶長15(1619)に掘削された熱田湊に通ずる堀川(下流に、熱田~桑名間の東海道の海路・七里の渡しの渡船場がある)に臨み、廻船問屋などが軒を並べて繁栄した。江戸時代には「納屋の富は名古屋の七分」と言われた。(川合彦充著『督乗丸の漂流』筑摩書房 1964)なお、「納屋町」の地名の由来については、「魚を入れておく小屋を納屋(なや)がけといい、苫葺の魚納屋で商売したところから、町号が生じた」とある。(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

(1)「小嶋庄右衛門」・・「役所御用達」をつとめ、指折りの豪商。(『督乗丸の漂流』)

(1)「千弐百石積」・・120総トン見当。

(2-1)「長右衛門」・・「督乗丸の船頭は、長右衛門という人物で、重吉の叔父であると記録されている。漂流したときは、何かの都合で重吉が叔父の代わりに船頭として乗組んでいたため、帰国後の口書(調書)には、この名を使っている」(村松澄之著『船長日記 その信憑性と価値』風媒社 2013

(2-12)「生国知田郡半田村」・・重吉は三河湾に浮かぶ佐久島(現愛知県西尾市一色町佐久島)の百姓善三郎の次男として天明5(1785)に生まれた。15歳の時から船乗り生活に入り、後に知多郡半田村荒古(現愛知県半田市荒古町)の百姓庄兵衛の養子になった。

(2-1)「郡(ぐん・こおり)」・・①律令制で、一国の下の行政区画。郡司が管轄する。この下に郷、里があった。

(2-2)「門徒宗」・・浄土真宗の俗称。その信徒を門徒と呼ぶところからいう。「門徒」は、元来は仏教用語。『梵摩渝経(ぼんまゆぎょう)』その他にみられ、古代からあることば。初めは、門下、門人、門葉を意味し、末寺寺院の僧侶(そうりょ)をさす。その後、俗を含んだ同信者の集団をも門徒といい、親鸞(しんらん)の門弟の場合、地名を冠して、高田門徒、鹿島門徒などと称した。さらに下って浄土真宗では、もっぱら在俗の信者を門徒といった。檀家・檀徒を門徒と通称し、それを基盤に成り立つため、真宗を俗に門徒宗ともよんだ。

(2-34)「文化十酉年」・・1813年。

(2-5)「尾張様」・・尾張藩。尾張藩は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は619500石。文化10(1813)当時の藩主は10代徳川斉朝(なりとも)。

(2-5)「廻米(かいまい)」・・江戸時代に遠隔地へ米を廻送すること、またその米をいう。江戸幕府は、1620年(元和6)初めて江戸浅草に御米蔵を建て、翌年大坂に御蔵奉行(おくらぶぎょう)を置いて諸国の廻米を収蔵した。諸侯も、大坂、江戸などの蔵屋敷へ貢租米を廻送して、市中の米問屋を通じて換金に努めている。江戸、大坂などの中央市場へは多量の米が廻送されたが、それらは、天領などからの御城米(ごじょうまい)、藩からの蔵米(くらまい)のほか、商人が農民から貢租余剰米を買い付けた納屋米(なやまい)もあった。江戸幕府は、米の輸送の安全のために厳しい廻米仕法に努めたので、城米の品質や員数などが厳重に点検された。廻米には、海路が多く用いられたが、河川や駄馬も併用された。交通の整備とともに廻米量は増加し、市場に米の供給が過剰となった享保(171636)以降、幕府はしばしば江戸、大坂への廻米を制限して、米価の調節を図った。

(2-7)「師崎(もろざき)」・・多半島の先端に位置し、東に日間賀(ひまか)島・篠(しの)島を望む。南知多は尾張氏との関係が深く、その一族の師介が支配者となったので、この地名が生れたとも伝える。師崎には、遠見番所があり、船奉行が海上諸船の往来を管理した。

(2-8)<漢字の話>「売払」の「売」・・影印は、旧字体の「賣」。解字は「出」+「買」。「買」が、「かう」の意味に用いられたため、区別して「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、省略形の俗字による。

(2-9)「子浦(こうら)」・・現静岡県南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。文化10(1813)当湊で日和待ちしたのちに出帆した督乗丸は御前崎沖で流され一七ヵ月間太平洋を漂流した後、イギリス船に助けられた。その後ロシアなどを経て文化一四年に帰国。乗組員一四名のうちに子浦出身の音吉がおり、体験を記した水主音吉救助帰国聞書(戸崎家文書)が残り、浄土宗西林寺には音吉の墓がある。

(3-1)「相繋り」・・「袋」「災」「醤」「豊」「賀」など、脚のある字は、縦長に書かれ、二字に見える場合がよくある。

(3-1)「霜月」・・陰暦十一月の異称。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語源説に、

(1)ヲシモノツキ(食物月)の略〔大言海〕。

(2)シモフリツキ(霜降月)の略〔奥義抄・名語記・和爾雅・日本釈名・万葉考

別記・紫門和語類集〕。また、シモツキ(霜月)の義〔類聚名物考・和訓栞〕。

(3)貢の新穀を収める月であるところから、シテオサメ月の略か〔兎園小説外集〕。

(4)シモグル月の義。シモグルは、ものがしおれいたむ意の古語シモゲルから

〔嚶々筆語〕。

(5)スリモミヅキ(摺籾月)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(6)十月を上の月と考え、それに対して下月といったものか。十は盈数なので、十一を下の一と考えたもの〔古今要覧稿〕。

(7)新陽がはじめて生ずる月であるところから、シモツキ(新陽月)の義〔和語私臆鈔〕。

(8)シモ(下)ミナ月、あるいはシモナ月の略。祭り月であるカミナ月に連続するものとしてシモナツ

キを考えたものらしい〔霜及び霜月=折口信夫〕。

がある。

(3-2)<決まり字>「夜ニ入」の「夜」・・決まり字は形で覚える。

(3-34)「暗夜(やみよ・あんや)」・・暗い夜。

(3-9)<漢字の話>「檣(ほばしら)」・・多く「帆柱」と書く。「檣」の音読みは、「ショウ」。

 *「檣灯(しょうとう)」:夜間航行中、マストの先端に掲げる白色の灯火。「赤いガラスを嵌(は)めた檣灯が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取って閃(ひらめ)いた」(有島武郎『或る女』)

 *「檣楼(しょうろう)」:艦船の帆柱の中間にある物見台。「艦内に行きかふ人の影織るが如く、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者」(徳富蘆花『不如帰』)

(4-1)「七島(しちとう)」・・ここでは伊豆七島。行政上の管轄は、明治以前は伊豆国に属し、江戸時代には幕府の直轄領として韮山代官の支配下にあった。明治2年(1869)八丈島・青ヶ島は相模府に、その他は韮山県に属し、翌三年には八丈島・青ヶ島も韮山県に編入された。その後同四年足柄県、九年静岡県と移ったが、11(1878)東京府に編入され今日に至っている。

(4-2)「見え渡り」・・(1)全般にわたって見える。一面に見える。(2)一見してそれとわかる。見て推察される。

(4-4)<漢字の話>「其侭」の「侭」・・影印の「侭」は、「儘」の俗字。

(4-6)「登り船」・・異本は「戻り船」とある。

(4-9)「豆粥(まめがゆ・トウジュク)」・・大豆をまぜて炊いた粥。

 *<漢字の話>「粥」の音読みは「ジュク」「シュク」「イク」

 *「粥腫(ジュクシュ)」:皮膚に脂肪などがたまってできる腫瘤(しゅりゅう)。アテローム。

 *「粥状硬化(ジュクジョウコウカ)」:動脈硬化の代表的なもの。

(5-1)「切(きり)」・・「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。体言また

はそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。「…かぎり」「…だけ」の意。

(5-1)「仕廻(しまい)」・・物事が終わること。「仕舞」「終い」「了い」なども当てる。

(5-3)「永々(ながなが・えいえい・ようよう)」・・長い間。

(6-7)「島山(しまやま)」・・島の中にある山。山の形をしている島。また、川水などにかこまれて島のように見える山。

(6-7)「䑺船(ほぶね・はんせん・はしりぶね)」・・異本は「走船」とある。

(6-89)「万年暦(まんねんごよみ)」・・一年限りの用ではなく、いつの年にも通用する暦。日や方角の吉凶、男女の相性などを記した書物。

記事タイトル『魯夷始末書』11月学習の注記

(5-1)「与三右衛門」・・「門」は、『くずし字用例辞典』P1134

(5-1)「常蔵」・・「常」は、『くずし字用例辞典』P281

(5-1)「儀兵衛」・・「儀兵衛」の「衛」はP963。下記は「兵衛」の例(『古文書解読字典』より)参照。

(5-2)「豊吉(とよきち)」・・「豊」は、『くずし字用例辞典』P1023

(5-3)「居越(いこし)」・・「居越す」の連用形。いつづけること。

(5-4)「同月晦日」・・嘉永6年(1853829日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイは、陸軍少佐ブッセその他の将校と共に73名を率いてクシュンコタン沖に来航。翌30日、ボート3艘に16人が分乗して沿岸一帯の測量を始めた。そのうち主だったもの数人が上陸した。

*和暦の「月」・・大の月(30日)と、小の月(29日)とがあるが、この年の8月は、大の月で、晦日の日付は、30日であった。

    *「晦日」・・「みそか」の語源説に「ミトヲカ(三十日)の転」がある。暦の月の初めから三〇番めの日。また、月の末日をいい、一二月の末日は大みそか、二九日で終わるのを九日みそかという。尽日(じんじつ)。つごもりとも。

(5-5)「異国船」・・露米会社の「ニコライ」号。「露米会社」は、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的としたロシア帝国の国策会社。1799年、パーヴェル1世の勅許により、正式に「露米会社」となった。

     なお、露米会社は、「ニコライ」号の使用を認めなかったが、ネヴェルスコイはそれを無視してこの船で樺太占領の航海に向かった。(秋月利幸著「嘉永年間ロシア人の久春古丹占拠」=北海道大学スラブ研究センター刊『スラヴ研究19巻』所収 1974))

(5-5)「端船(はしぶね・はぶね)」・・伝馬船(てんません)。本船に曳航または搭載され、必要に応じて本船と陸岸との往来や荷物の積みおろしに使われる小船。艀(はしけ)・脚継船(あしつぎぶね)ともいう。近世の廻船では百石積以上になると伝馬船を搭載したが、その大きさは本船の積石数の三十分の一前後が標準で、千石積では三十石積級で全長約四十尺もあり、櫓八挺と打櫂(うちかい)・練櫂(ねりかい)をもち、帆まで装備する。空荷の時は船体中央胴の間の伝馬込(てんまこみ)に載せ、積荷のある時は船首側の合羽(かっぱ)の上に搭載した。船体は本船への上げおろし作業を考慮し、一本水押(みよし)ながら先端を上棚より突出させない形式でこれが伝馬船の特徴であった。しかし軍船の場合、大型関船でも伝馬船は搭載不可能でこれを随伴させるのを常とした。そのため通常の一本水押とするなど、廻船用の伝馬船とはやや船型を異にした。また軍船の船団行動にはこのほかにも碇の上げおろし用の碇伝馬や飲料水を積む水伝馬などを伴った。

(5-6)「頭立(かしただち)」・・「頭立つ」の連体形。「かしらに立つ」の意。人の上に立つ。長となる。また、中心になる。

(5-7)「首長ノニリスコイ」・・「ノニリスコイ」は、東シベリア総督ムラヴィヨフから指令を受けてクシュンコタン占拠を指揮したロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。なお、ネヴェルスコイは、荷揚げを完了した96日に、ニコライ号に乗って去り、ムラビヨフ哨所には、陸軍少佐ブッセ、海軍中尉ルダノフスキーの外69人の兵士たちが残留した。(『日露関係とサハリン島(秋月俊幸著)』、『新撰北海道史』)

(5-7)「プスセ」・・陸軍少佐ブッセ。ネヴェルスコイ退去後のムラビヨフ哨所の隊長となった。

(5-8)「次官ロタノスケ」・・ムラビヨフ哨所の副官・海軍中尉ルダノフスキー。なお、ロシア側資料では、上陸士官は、ネヴェリスコイ、ブッセ、ボシニャークで、日本側資料では、ボシニャークをルダノフシキーと取違えているが、ルダノフシキーは本船に待機していた。(秋月利幸著「嘉永年間ロシア人の久春古丹占拠」)

(5-9)「何か」・・影印の「歟」は変体仮名と見る。

(5-9)「更紗風呂敷」・・「サラサ」の語源はポルトガル語。人物、花、鳥獣、幾何学模様などをさまざまな色で手描きや型染めにした綿布。室町末期より南アジア諸国から輸入され、日本でも作られた。印花布、花布、更紗ともいう。

     また、「風呂敷」について、『守貞謾稿』には、「衣類、夜具のみにあらず、諸物ともに専ら風呂敷に包む。この風呂敷を昔は平裹(ひらづゝみ)と云ふなり。風呂敷と云ふは、浴室に方形の布を敷きて足を拭ふの料とする物故に、ふろしきと号く。また、古雅器、茶器等の商人は、鬱金(うこん)木綿と云ふて黄もめん風呂しきを用ふるもあり。皆必ず縦横同尺の方形なり。」とある。

(5-10)「仕方(しかた)」・・身ぶり、手まねをすること。しぐさ。

(6-2)「出来合(できあい)」・・前から作ってあって、まにあうこと。既製のもの。

(6-3)「乞請(きっせい・こっしょう)」・・こいねがうこと。こい求めること。

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