森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2016年01月

『魯夷始末書』2月学習分注記

(17-2)「逸ゝ(いちいち)」・・(副詞的に用いて)一つ残らず。どれもこれも。ことごとく。ことこまかに。
(17-3)「素立(すだて)」・・まだ骨組だけで、内装も外装もほどこされていない家。

    柱立や梁などの組み上がった状態。棟上の終わった状態。

(17-3)「造作(ぞうさく)」・・建物内部の仕上工事。天井、床板、建具、棚、階段などを取り付けること。

(17-3)「正月」・・一年のいちばんはじめの月。むつき。いちがつ。語源説に「政治に専念した秦の始皇の降誕の月であるところからセイグヮツ(政月)といっていたものが、『正月』と書かれるようになり、音が改められたもの」なある。

(17-5)「遠台(えんだい)」・・警戒や偵察など遠見のために設けたやぐら。物見櫓、遠見櫓、遠見台、望遠台とも。

(17-6)「矢狹(やざま)」・・城内から矢を射ることができるように、城の廓や櫓の側面に設けた多く、縦長の小穴。三角形のこともある。

(17-6)「隅々(すみずみ)」・・方々の隅。あらゆる隅。

(17-8)「士卒」しそつ)」・・士と卒。士官と兵卒。武士と雑兵

(17-8)「焚出場(たきだしば)」・・一時に大量の炊事をして、大勢の者に食事を配り与える所。

(17-10)「畳上(たたみあげ)」・・積み重ねる。幾重にも積む。重ね上げる。

(18-1)「布蓙(ぬのござ)」・・「蓙」は国字で、藺(い)などを編んで作った敷物、薄縁(うすべり)、ござむしろ。「布蓙」は、布製の敷物、薄縁。

(18-3)「炉気(ろき)」・・香炉のかおり。

(18-3~4)「仕懸(しかけ)」・・仕掛け。

*「仕懸文庫(しかけぶんこ)」・・①江戸深川の遊里で、遊女の着替えを入れて持ち運ぶための手箱。②洒落本。1冊。山東京伝作・画。寛政3年(1791)刊。江戸深川仲町の岡場所の風俗を描く。

(18-4~5)「銅銭或は銀札」・・銅銭は「コペイカ銅貨」、銀札は、「ルーブル銀貨あるいはコペイカ銀貨」。当時の帝政ロシアの貨幣制度は、本位金貨幣であるルーブル金貨のほか、補助貨幣として、銀貨(1ルーブル銀貨、5025201510の各コペイカ銀貨)や銅貨(53211214コペイカ銅貨)が流通していた。

(18-6)「弁用(べんよう)」・・ある用件を適切に処理すること。また、役に立つように用いること。

(18-7)「板檀(いただん)」・・「板壇」か。

(18-7)「土竈」・・土を固めて作ったかまど。へっつい。土間や庭に直接、土で焚口を構えるものたが、町家の場合は、木作りの箱の中に、石を敷いたものを台として、その上に土製の竈が置かれ、この総体を「へっつい」という。『守貞謾稿』には、「竈(かまど)」を俗に「へつい」と云う。また、訛て「へつゝい」と云ふなりとある。

    *<漢字の話>「竃」・・かまど。「ど」は処の意。土・石・煉瓦(れんが)などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。

    「釜」・・飯を炊いたり湯を沸かしたりするための器具。

    *「塩竃市」・・宮城県中央部、松島湾に面する市。

(18-8)「火勢(かせい)」・・火の燃える勢い。火気。

(18-8)「屡(しばしば)」・・副詞。「しば(屡)」を重ねたもの。たびたび。しきりに。幾度も。何回となく。なお「屡(しば)」は、「頻(し)く」「頻(しき)る」などの語基「し」に、「もと」「端」などを意味した「は」の付いたものとする説もある。

(18-8)「濺き(そそぎ)」・・「濺ぐ」の連用形。水を注ぐの意。

    *「濺」の解字・・旁の「賤」は、うすいの意味。

(18-9)「所謂(いわゆる)」・・動詞「いう(言)」の未然形に上代の受身の助動詞「ゆ」の連体形が付いて一語化したもの。①世間一般にいわれている。また、一般にそうたとえられている。②すでに周知の。言うまでもない。

    *漢文として使われていた「所謂」を「謂う所(いうところ)」と読み、その意味となる日本語が「いはゆる」だったので、「いわゆる」となったもの。

    ○[論語] 所謂大臣者、以道事君、不可則止

        所謂(いわゆる)大臣なるものは、道を以て君(きみ)に事(つか)え、不可(ふか)ならば、則(すなわち)止(や)む>

→(すぐれた大臣といわれるものは、道により主君に仕え、意見が採用されなければ辞任するものだ。)

    ○[史記] 管仲世所謂賢臣、然孔子小

        <管仲(カンチュウ)は、世に所謂(いわゆる)賢人(けんじん)なり。然(しか)るに、孔子は之を小(ショウ)とす。>

        →(管仲は、世に言う賢人だが、孔子はこの人物を小者と考えた)

(18-9)「蒸気風呂」・・蒸し風呂。サウナ風呂か。サウナ風呂(フィンランド風の蒸し風呂)は、石塊を入れた鉄釜を下から熱した熱と、その石に水をかけて発する蒸気熱とで室内の温度・湿度を高め、その室内に入って汗を流す。

(19-1)「夫役(ぶやく・ぶえき)」・・労働課役。主として地方の農民を強制的に徴発し、公事の労役に従事させること。

(19-2)「軍卒(ぐんそつ)」・・軍兵。兵士。または、軍勢。

(19-4)「雨覆(あまおおい)」・・建物のある部分に雨がかかるのを防ぐ設備。「雨(あめ)を「あま」と読むのは転音。「雨垂(あまだ)れ」「雨傘(あまがさ)」

*「変音」・・日本語で、二つの成分が結合して新たな合成語ができるとき、しばしばその成分の音素に変化が生じることがある。音素の変化を「変音」という。

これには①「転音または母音交替(あまだれ)」②「連濁(あおぞら)」「音便(つんざく)」「音韻添加(まっしろ)」「音韻脱落(手洗い→たらい)」「音韻融合(けふ→きょう)」「連声」「半濁音化(ひっぱがす)」がある。

*「転音」・・語音が本来の形を変えること。また、その変わった音。日本語では主として、複合語をつくる際の、前の部分の語末におこる母音の転換をいう。酒(さけ)→酒樽(さかだる)の「か」、舟(ふね)→舟足(ふなあし)の「な」の類。

(19-7)「一時(いっとき)」・・昔の時間区分で、一日の十二分の一。今のおおよそ二時間。一刻。奈良・平安時代の定時法では二時間、鎌倉時代以降の不定時法では季節により、また昼夜によって相違する。

(19-7)「朝は六ツ半」・・午前七時ころ。

(19-8)「顔をそゝき」・・顔を洗い清めること。「そゝぎ」は「注ぐ」の連用形で、「洗い清める」の意もあるが、『角川古語大辞典』には、本来は、「すすぐ(濯ぐ)=洗い清める」との間に、意義の混淆があるとある。      

(19-9)「銅板之如き仏像」・・イコン。アイコンとも。ギリシャ正教会やロシア正教会などの東方教会で、礼拝の対象とした聖画像。多くは板絵で、キリスト・聖母・聖伝などを描いた。

19-20~20-1)「足並調練(あしなみ・ちょうれん)」・・歩調をそろえる行進訓練。

(20-3)「夕七ッ時頃」・・午後四時頃。不定時法における昼と暮の境の時間帯。

(20-4)「灯籠(とうろう・とうろ)」・・照明器具の一つ。火袋を有することが特徴で、その中に油火またはろうそくを点ずる。

(20-5)「謡物(うたいもの)」・・詞章に節を付けて歌うものの総称。

(20-6)「類船(るいせん)」・・船が行動をともにすること。また、その船。江戸時代では同時に出港する船や同じ水域を航行している船をもいう。友船。片船。

(20-6)「表準(ひょうじゅん)」・・標準。そこに達すべきよりどころ。目標。

(20-7)「腰掛(こしかけ)」・・腰を下ろして休むための椅子や台。ここは「ベット」か。

(20-8)「妄(みだり)に」・・思慮、分別もなく、いい加減に。でたらめに

(20-10)「慇懃(いんぎん)」・・礼儀正しいこと。へり下って丁寧なこと。

(20-10)「会釈(えしゃく)」・・軽くお辞儀をするさま。なお、「会釈」と書いて「あしらい=能、狂言、歌舞伎などの囃子の一種で、一般に調子に乗らず、音も小さい単純な伴奏をいう。」と読む場合がある。関連する用語として、「会釈囃子(あしらい・ばやし)」、「会釈間(あしらい・あい)」などがある。

 

 

 

 

 

(18-7)「竃」関連資料(塩竃市公式ホームページから)

 

*塩竈市の『竈』の字については、『竈』と『釜』の両方を使用することが認められていま

す。

『竈』は21画と画数が多く、書き方も難しい漢字ですので、正しい書き順を左に示します。

ちなみに市役所で用いる公用文ではこの『竈』を用いることになっています。

◎地名の由来

海水を煮て塩をつくるかまど(竈)のことを「塩竈」といいました。つまり、もともとは

地名ではなく、製塩用のかまどのことを指す名詞でした。以前は日本の各地の砂浜にこの

ようなかまど(塩竈)があり、これが海辺の風景におもむきを添えていたといわれていま

す。わが郷土も、この竈のある場所として有名になり、それがそのまま地名になっていっ

たといわれています。

 塩竈という地名のほかに、国府津(『こうづ』と読み、国府の港という意味です)とも呼

ばれていましたが、塩竈神社が、陸奥国の総鎮守(多賀城から見て東北の方角に位置する

鬼門を守る意味がある)として建てられ、信仰を集めるようになり、国府津よりも塩竈の

方が地名として定着していったものといわれています。

◎塩竈か塩釜か

塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっています。ただ

し、市民の方、あるいは他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解

釈して受理することとしています。

 市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、

それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。

「鹽」という漢字についは、当用漢字の「塩」を用いてもさしつかえありませんが、「竈」

と「釜」では、字義が違っており、本市の地名の由来が、「鹽竈神社」の社号に因むもの

であるところから、「釜」ではなく「竈」を用いることに統一されました。

『難船之始末』2月学習の注 

      

(14-2)「馳走(ちそう)」・・(1)心を込めたもてなし。また、そのときふるまう酒や料理など。(2)うまい飲み物や食べ物。ぜいたくな食事。立派な料理。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

 <(1)江戸時代には、まだ漢語「馳走」の原義(走り回る・周旋の意)が残っていたと思われ、(1)の用法では、酒や料理の意で用いられることよりも、接待・もてなしの意で用いる方が一般的。

(2)現代語では(1)(2)の用法でのみ用いられるが、(1)の用法としては、もっぱら「ご馳走する」「ご馳走になる」の形で用いられ、形式が固定化している。

(3)江戸時代など、ふるくは「馳走になる」など「馳走」の形で用いられることもあったが、次第に丁寧語形「ご馳走」の方が一般的となった。>とある。

(10-2)「徃返(おうへん・ゆきかえり)」・・行きと帰り。また、行って帰ること。往復。

(10-4)「揚荷(あげに)」・・船舶などから陸揚げされる荷物

(10-4)「仕廻(しまい)」・・「仕舞」などの当て字がある。「し」は動詞「する」の連用形。し終える。し

(10-9)「旱必丹(カピタン)」・・船長のこと。なお、江戸時代は、オランダ商館長もさした。

 「カピタン」の当て字には、ほかに、加比丹、加必丹、加昆丹、加昆旦、甲比旦、甲必丹、葛必丹などがある。

(11-2)<漢字の話>「大工」・・①「工」を「ク」と読むのは呉音。「大工(だいく)」の外には、「石工(いしく)」「画工(がく)」「楽工(がっく)」がある。②なお「工」の解字は、にぎるところのある、のみ(鑿)の象形とも、さしがねの象形ともいう。工具の象形から、工作するの意味をあらわす。

(11-3)「ルキン」・・『ふなをさ日記』には、「ヲロシヤに随へる国にてルキンといふ所也といふ。ルキンは北アメリカなり」とある。

(11-34)「此所は魯西亜領分之内」・・アラスカは、1741年、ロシアのピョートル帝に雇われたデンマーク人ベーリングが発見した。ロシア毛皮商人が徐々に入植していき、18世紀末にはロシア・アメリカ会社が毛皮貿易を独占し、シトカを建設して19世紀初めに繁栄を誇った。しかし19世紀なかばになると、ロシアはイギリスがアラスカを奪いはしないかと恐れて、アメリカへの売却交渉を始め、結局1867年にアメリカのシュアード国務長官が720万ドルで購入した。これは当時「シュアードの冷蔵庫」などと嘲笑されたが、シュアードは太平洋にまたがる海洋帝国建設の一環として位置づけていたといわれる。1896年クロンダイクで金鉱が発見されると、アラスカ一帯でゴールド・ラッシュが起こり、カナダと国境紛争が生じたが、これも調停でアメリカに有利に解決した(1903)。

 1912年に準州となり、1959年に49番目の州として連邦に編入され、アメリカの大陸防衛体制の前哨(ぜんしょう)地域として戦略上重要な役割を担っている。

 *ロシアのアメリカ大陸進出略史(小坂洋右=ようすけ=著『流亡』参照)

 ・1725年1月・ロシア皇帝ピョートル1世が、ベーリングを長とする探検隊派遣命令に署名。

 ・1728322日、探検隊、カムチャッカのニジネ・カムチャックに到着。34日間航海して引き返す。

 ・1732428日、女帝アンナ・ヨアンノヴア、第二次探検隊を発令。

 ・17333月出発、ヤクーツクで3年間準備し、オホーツクに着いたのは1737年秋。

 ・17409月、ベーリングら一行第二次探検隊、アメリカ航海に乗り出す。

1741年、ベーリング、アラスカ海岸に上陸。

1784年、ロシアがコディアック島に拠点を建設 。

1799年 ロシアが「ロシア領アメリカ」として領有宣言し、行政を露米会社に委ねる。

1853年 ロシアがアメリカにアラスカ売却を提案。

1861329日、ロシア政府が露米会社から行政権を回収。

18671018日、ロシアがアメリカにアラスカを売却 。

1959年1月3日、アラスカ、アメリカの州に昇格。

 (14-4)穿(?)」・・「釵」はかんざし。「釵子(さいし)」は、宮中に奉仕する女官の髪飾りの一種。古くは唐制に倣って、わが国で髪上げの際に用いた2本脚の金属製のかんざしである。江戸時代、女房の晴装束のおりに、おすべらかしの前髪にあてる平額(ひらびたい)を挿すこととなり、従来の釵子をかんざしといった。釵子は平額を、宝髻(ほうけい)の名残である丸かもじと地髪に留めるために、平額の下方にある丸い二つの穴と、角の穴にかんざしを挿し込んだ。つまりかんざし3本が1組となっている。

(14-6)「気強成(きづよなる)」・・形容動詞「気強なり」の連体形。気が強いさま。

(14-6)「乱妄(らんぼう)」・・乱暴。荒々しい行ないをすること。


 

古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願い
します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年2月8日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカ
ムチャッカに送られ同
13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『難船之始末』1月学習の注 

(7-4)「麾(まね)キ」・・船から他船または陸地に対し、合図のため掲げる標識。近世の船方では、漂流船などが救助を求めるために掲げる標識をいい、適宜手元の筵、布、笠などを棹の先端につけて立てた。

(7-4)「マキリ䑺(ばしり)」・・間切䑺。帆船の逆風時での帆走法で、船は風を斜め前からうけて開き帆とし、上手廻しまたは下手廻しをもって右開き・左開きを交互に行ないながら、ジグザグのコースをとって風上に向かって帆走すること。間切り乗り。

(7-8)「仕形(しかた)」・・身ぶり。手まね。

 *「仕形声(しかたごえ)」・・ある作業や身ぶりなどをまねて、からだを動かし、声をはりあげること。また、その声。

 *「仕形談義」・・身ぶり、手ぶりをまじえた説教

 *「仕形咄」・・①手ぶり、身ぶりして語る話。②江戸時代、身ぶりを豊富にとり入れた笑い話。また、所作入りの落語。

 *「仕形舞」・・ことばに合わせ、身ぶり手まねで舞うこと。また、その舞。

(7-21)「尾州御船印(おふなじるし)」・・「船印」は、近世の船に広く使われた標識で、船体・帆・幟などに船主または雇主を明示するためのもの。廻米・廻銅用に幕府が傭った廻船につけた「日の丸船印」はその好例だが、本来は戦国時代の水軍が所属大名の印としてつけた標識が次第に派手となり、江戸時代には幕府・諸藩の軍船は帆に家紋または色わけの意匠、船体各部に銅製金鍍金の家紋をつけ、矢倉上にも特別に装飾的印を立てて船印と称し、また多数の幟・吹流し・しない・四半・幕などの飾り物で装飾し、それら全体を総称して船飾りと呼んだ。こうした船印により参勤交代で航海する諸大名の大船団も一見して何藩と識別できた。一方、民間廻船は船主の標識として帆に黒(稀に赤)の縦・横・斜めの線かそれらを組み合わせた簡素な印をつけたが、家紋的なものは大名船との混同を避けて使わなかった。その代り水押側面に船主の船印つまり屋号の紋章をつけ、船名幟の下部に同じ印を染める程度であった。この船印に対して帆の場合は別に帆印と呼んで区別することが多い。

 尾張藩の船印は、五本骨の黒扇、「尾」印、日の丸に「八」の字を白く抜いたものなど、いろいろあった。

(7-21-2)「浦賀御判物(ごはんもつ)」・・「御判物」は、奉行の裏判のある書類。「浦賀」は、「浦賀奉行」のこと。

 *浦賀奉行・・江戸幕府遠国奉行の一つ。江戸入津船の管理には、元和2年(1616)ごろから下田に番所が設けられていたが、風波の難が多いところから、享保5年(172012月に下田番所を廃して翌6(1721)正月浦賀にうつした。武家の船では、武器・武具、あるいは婦女、囚人・怪我人をのせ五百俵以上の米・大豆を積んだものは浦賀奉行に申告し、廻船などの商船も、漁船と空船を除いては検査を受けて証印を得ることとなった。老中支配、千石高、役料五百俵(元文二年(一七三七))、芙蓉間詰。安政ごろから開国にともない要職となり、従五位、長崎奉行の上席となった。

(7-27-8)「穿鑿(せんさく)」・・さぐり求めること。根ほり葉ほり尋ねること。

 <漢字の話>①「穿」の部首は「穴」部。解字は、「穴」+「牙」で、きばであなをほる、うがつの意味を表す。

 ②「穿」の脚の「牙」は、4画。「穿」は常用漢字ではない。

 ③ところが、常用漢字になっている「邪」、「雅」「芽」の「牙」は、1画多い「牙󠄀」で5画。常用漢字になって1画増えた。これらの旧字体の「牙」部分は4画。

 ④ところが平成22年に改訂された「常用漢字表」で追加された「牙」は、4画。

(7-28-9)「手道具(てどうぐ)」・・身の回りの小道具や調度。手具足。

(7-297-3~1)「何方(いずかた)」・・どちら。テキストでは、国を表し、どこ(の国)。

 *「何方道(どっちみち)」・・どっちみち。いずれにしても。

 *「何方不付(どっちつかず)」・・中途半端なさま。

 *「何方此方(どっちこっち)」・・複数のもののうちどれか。

 *「何方此方(どっちんかっちん)」・・どちらも。どっちもこっちも。

 *「何方此方無(どっちこっちない)」・・①優劣がつけにくい。互角である。②大したことはない。

(7-32)「ランタン」・・『ふなをさ日記』には、「ランダンとは、ヲランタといふ事成べし」とある。しかし、後に、「諳乂利亜(アンケリア・イキリス)の都ロンドン」としている。(『ふなをさ日記―地』のP8)。

(7-37)「篤実(とくじつ)」・・人情にあつく実直なこと。誠実で親切なこと。

(8-1)「丑ノ方」・・北北東。

(8-2)「皮船」・・簡単な骨組に動物の皮革などで外部を張って造った船

(8-6)「コシリヤカ」・・『ふなをさ日記』にはには「猟師は、スハコーリヤカといふ所のものなりとぞ」とある。

(8-89)「シユツハン」・・『ふなをさ日記』には「アミシスカ」とある。現アメリカ合衆国アラスカ州のアレキサンダー諸島のパラノフ島西部の町・シトカか。

(8-9)「地方(じかた)」・・海上から見て、陸地のこと。

(9-4)「名ヲハヲケカ」・・・『ふなをさ日記』は、「ヲテカ」としている。それなら、ここは、「名ヲハ(をば)、ヲケカ」と読むか。

『魯夷始末書』1月学習分注記

1210)「ハツトマリ」・・満州(現ロシア沿海州地方)の海岸の集落。『幕外文書7-補遺22』(『秘書』の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」に同じ。)に、「満州之続き、~、爰は大陸の内」、「魯西亜人よりハツトマリと申立の由」、「通弁(清水)清三郎らは、アツサムと計り心得候哉」とあり、また、享和元年(1801)に幕吏中村小市郎が樺太調査をした時の麁絵図に「アツシヤム」の名がみえる(『秘書』注記P57-958-1参照)。これらのことから、「ハツトマリ」は、嘉永6年(1853)初頭に海軍大佐ネヴェリスコイが部下の海軍大尉ボシニャークに命じてアムール川下流地方の「デ・カストリ湾」に設けた「アレキサントロフ哨所」の場所と比定できる。

13-4)「去ル戌年」・・嘉永3年(1850)。本書が書かれた寅年(安政元年)の4年前。

134.5)「萬国地理図」・・『秘書』P44の「明清地理書」および『秘書』P35の「西洋ニテ近来彫刻仕候地図」と同じものを指すか。幕末の日本に影響を与えた「世界地理書」としては、清国人の魏源が著した「海国図志」がある。以下、大谷敏夫著『魏源と林則徐』(山川出版社 世界史リブレット人シリーズ)により、『海国図志』の概要を紹介する。

     1844年(道光24年=弘化元年)、魏源は『海国図志』50巻を完成。この書は、林則徐の『四洲志』を底本に、歴代の史志および明以来の島志、外国に関する書や新聞を加えて書いた世界地理書。

      *『四洲志』~イギリスの地理学者ヒュー・マレー(中国名:慕瑞)の『世界地理大全』や『明史』、『清史』、西洋人フェルビースト(南懐仁)の『坤輿図説』などを材料にしている歴史地理書。

     ②1847年(道光27年=弘化4年)、アメリカ人のプロテスタント宣教師ブリッ

ジマン(高理文・裨冶文)の『美理哥合省国志略』、オランダの法律学者ヴァ

ッテル(滑達爾)の『各国律例』、イギリス人のイギリス東インド会社広州駐

在の貿易監督官ディヴィス(徳庇時)の『華事夷言』、ドイツ人の伝教士チャ

ールズ・FA・ギュツラフ(郭実獵・郭士力)の『貿易通志』を用いて、増

補し、『海国図志』60巻本を完成。

     ③その後、更に、ポルトガル人のマチス(馮吉士)の『地理備考』、徐継畲(じ

ょけいよ)の『瀛環志略(えいかんしりゃく)』などを書き加えて、1852年(咸

2年=嘉永5年)に、『海国図志』100巻本を完成。

     ④日本へは、嘉永3年(1850)に、『海国図志』60巻本、3部が渡来したが、キリスト教に関する記述のため禁書になり、その後、嘉永6年(1853)、ペリーの来航に伴って、100巻本が再び輸入され、この書の研究が盛んになった。 

13-5)「満州」・・中国の東北地方を指していった旧通称。その領域はロシアとの係争地

となり、時代によって変遷がある。1858年(安政5年)までは、外満州(がい

まんしゅう)といわれる外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南、黒竜江(アムール

川)以北・ウスリー川以東の地域(現在のロシア連邦の沿海地方、アムール州、

ユダヤ自冶洲、ハバロフスク州)を含んでいたが、1858年(安政5年)のアイ

グン条約、1860年(万延元年)の北京条約によって、外満州がロシアに割譲さ

れ、以後、中国東北部の「内満州」地域が単に満州と呼ばれた。

13-5)「支那」・・中国に対してかって日本が用いた呼称。中国最初の統一国家の秦(シ

ン)の音に由来するとされる。日本では江戸中期以後、第二次大戦末まで用いら

れた。

13-5)「蒙古」・・モンゴリア。内陸アジア東部のモンゴル高原、ゴビ砂漠を中心とした

地域。

13-6)「止白里」・・シベリア。ロシア語名「シベリー」。ユーラシア大陸北部、ウラル山脈から太平洋岸に至るロシア連邦領アジアの総称。ロシア全土の約57㌫を占める広大な地域。なお、シベリアの当て字に、「止白里也」「止白里亜」「止百里」「止伯里亜」「失部唎旋」「西比利亜」「西伯里亜」「西伯里」「斉百里」「叙比利亜」「悉白里亜」「細白里」「細伯里亜」「紫比利亜」などがある。(『宛字外来語辞典』柏書房)

(13-6)「彊(さかい)」・・境界。

(13-6)「コツカ」・・「オホーツク」か。アムール川が流れ注ぐオホーツク海沿岸域。現ロシア連邦ハバロフスク州のオホーツク地方。

13-6)「日本海繞(にほんかいじょう)」・・日本海の北辺部を指すか。「繞」は「めぐる。まとう。まとわりつく。」のほか、「もすそ(裳裾)=衣服の裾」の意がある。日本海の北辺部は、中国(北京)からみると、辺境で、衣服の裾部分にあたる。なお、日本海は、アジア大陸、サハリン島、日本列島に囲まれた縁海で、1815年(文化12年)ロシアの航海者クルーゼンシュテルンの作った海図で、初めて「日本海」の名が付けられた。

13-7)「シンクカレと云ル大山脈」・・興安嶺と外興安嶺。中国北東、内モンゴル自冶区と黒竜江省にかけての西の大興安嶺(ターシンアンリン)、伊勒呼里山脈、東の小興安嶺(シヤオインアンリン)からなる興安嶺とそれにつながる現在のロシア連邦シベリア南東部の外興安嶺(スタノヴォイ山脈)。なお、外興安嶺は、ロシアと清国との係争地で、1689(元禄2)のネルチンスク条約で一旦清国とロシアとの境界になったが、1858年(安政5年)のアイグン条約で、完全にロシア領になった。

13-7)「シカト云山」・・シホテ・アリニ山脈。現ロシア・ハバロフスク州と沿海州にまたがる平均標高800~1,000mの中山性の山地。日本海側とアムール川流域(オホーツク海に注ぐ。)の分水嶺になっている。日本海北西岸に沿い、北東から南西方向に続く。長さ1,200キロ、幅200~250キロ。最高峰は、北緯49度付近のトルドキ・ヤニ峰(2077m)。

13-8)「推考(すいこう)」・・道理や事情などからおしはかって考えること。

1310)「松前箱館沖」・・津軽海峡。

1310)「南蝦夷地北蝦夷地之間海」・・宗谷海峡。

13-10~14-1)「カムサスカ」・・カムチャッカ。現在のロシア連邦極東連邦管区カムチャッカ地方にある「ペトロパブロフスク・カムチャツキー」。『北槎聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)』(桂川甫周著亀井高孝校訂 岩波文庫)には、「カムシヤツカ」について、「ヲホツカとアナヂルスカヤの間にさし出でたる大地なり。」とある。

14-2)「●掛(ま・がかり)」・・●は「舟扁に閒」か。船が碇泊すること。

14-2)「用弁(ようべん)」・・用便とも。用事をたすこと。

14-3)「キイヨロ」・・ナイヨロ。

14-3)「シトタラン」・・シトクラン。

14-3)「任申(もうす・に・まかせ)」・・「任申」は、返読で、「申すに任せ」。「(相手の)言うがままに」の意。

14-4)「クシンナイ」・・クシュンナイ。日本名「久春内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。樺太地名NO89.吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「西白漘の北5里の海岸に在り、東海岸なる真縫に至る横断路の基点にして、~略~、真縫川の谷に通ず。此の間は一の地峡を成し、幅僅に7里となる。」とある。

14-4)「マカヌイ」・・マアヌイ。日本名「真縫」。樺太東海岸のうち。樺太地名NO173

     『大日本地名辞書』には、「本島の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホーツク海に濱す。西岸なる久春内との間、直距7里に過ぎず、」とある。

14-8)「イリノスロイ」・・(人名)ネヴェリスコイ。

14-9)「ヲロノフ」・・(人名)オルロフ

1410)「フースセ」・・(人名)ブッセ

1410)「コタノスケ」・・(人名)ルダノフスキー

15-1)「曾而(かって)」・・全然。少しも。下に打消しの語を伴って、強い否定を表す。

15-2.3)「不案心(ふあんしん)」・・古く「ふあんじん」とも。安心できないこと。気がかりで落ち着かないこと。

15-6)「米三千俵」・・米(玄米)1俵の量(「俵入」という。)は、江戸時代、各地、各藩ごとに一定せず、天領(幕府の直轄地)の場合、関東では、3斗5升入であったが、俵入は、2升の延米を加え3斗7升が普通。越後、三河などは4斗入、尾張、摂津、肥後などは5斗入。関東の私領では、上野では4斗2升または4斗3升入、下総では3斗9升または4斗入であった。(『日史大辞典』)。一方、松前藩の蝦夷地における俵入について、田島佳也神奈川大学経済学部教授は、『近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人』の著述のなかで、「蝦夷俵は、(4斗入れではなく、)最初2斗入れが寛文年間(1661~1673)に、7、8升入れになった。」、また「1857年(安政4年)、箱館奉行の一行とともに蝦夷地を査察した玉虫左太夫の『入北記』によると、苫前場所では、8升入れ米俵が、(1俵として)交易品の交換基準とされていた。」と指摘している。

15-8)「心付(こころづけ)」・・気をつけること。注意。配慮。

158.9)「無油断」・・「ゆだん・なく」

16-1)「右不申(本ノマヽ)」・・「右にもうさざる」で、「出稼ぎをしている46人ではない」ということを意味しているか。意味的にはやや不鮮明。それで、「本ノマヽ」のルビがあるのか。

16-2)「老衰(ろうすい)」・・年とって体の衰えること。老いて衰弱すること。

16-6)「山方(やまかた)」・・山のある地方。里方に対する山村、山林。

16-6)「蝦夷舩椴檜」・・「蝦夷舩」は「蝦夷松」の誤りか。「椴(とど)」は「椴松」。「檜」は、樺太に生育していたかは疑問、別種の樹木(翌檜=ヒバの類)か。

16-6)「元口(もとくち)」・・丸太材の根元に近い方の太い切口。反対語「末口」。

16-9)「自侭(じまま)・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手。

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