(25-1)「簱」・・ロシアの国旗で、白・青・赤の三色の旗。「嘉永六丑秋ニカライ人滞留北蝦夷地クシュンコタン山上江居小屋他取建候書面写」(北海道大学付属図書館所蔵)の絵図面では、東側物見台の上に掲揚されているのが見える。
(25-1)「華飾文彩之簱(かしょくぶんさいのはた)」・・ロシアの国章旗。ロシアでは、国旗のほかに、国の紋章あるいは徽章として、双頭の鷲を中心に、盾、王冠、王笏、宝珠がデザインされ、彩色された「国章」が定められている。そのデザイン、色模様は、時代によって異なるが、本書当時は、双頭の鷲は黒色、盾は赤となっている。
「華飾」は、華美なこと。「文彩」は、いろどり。「華飾文彩之簱」は。華美ないろどりの籏。
(25-6)「遠見(とおみ)」・・警戒または偵察のために、遠くの状勢をうかがうこと。高い所から四方を見張ったり、遠くまで潜行して敵状をさぐること。またその人。
(25-7)「リヤトマリ」・・リヤコタンとも。日本名「利家泊」、「利耶泊」、「利屋泊」。樺太南海岸の内。樺太地名NO3。吉田東伍著『大日本地名辞書』に、「アニワ湾の西岸の大漁場にして、白主を去る十里許。鱒、鯡の好漁場として知られた地」とある。
(25-7)「捕押(とらえおさえ、とりおさえ)」・・つかまえること。捕まえ拘束すること。
(25-7)「打擲(ちょうちゃく・うちなぐり)」・・なぐること。殴打すること。
<漢字の話>
① 「打」を「だ」と読むのは、慣用音。
*慣用音・・呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。
②「打」を「チョウ」と読むのは呉音。手元の漢和辞典には、「打擲(ちょうちゃく)」以外に、「打」を「チョウ」と読む熟語はない。
(25-9)「差向(さしむき)」・・今のところ。さしあたり。
(25-9)「安否(あんぴ)・・無事かどうかということ。
(25-10)「申宥(もうしなだめ)」・・「申宥む」の連用形。とりなして申し上げること。申し上げて相手の心を静めること。
(26-1)「候得(本ノマヽ)」・・「候得共」で、「共」が脱か。
(26-1)「未為取調(いまだとりしらべせず)」・・「未」は再読文字で、「いまだ~(せ)ず」となる。
(26-1)「物頭(ものがしら)」・・槍、弓、鉄砲などの足軽を統率する武将。足軽大将のこと。江戸時代は、各藩にあったほか、幕府の職名として、先手組(さきてぐみ)の弓組、鉄砲組の頭を称した(『角川古語大辞典』)。松前藩では、嘉永3年(1850)の軍制改革で、一番隊の隊長は、「物頭」を以ってすることに決められた(『松前町史』)。また、「嘉永三年(1850)の蝦夷地勤番家臣名」(『松前町史史料編第1巻』)によれば、ヱトロフ、クナシリ、ソウヤの勤番所の筆頭者の役職が「物頭」となっている。さらに、本事件発生後の安政元年(1854)1月18日、職制の改正がなされ、番頭(ばんがしら)、近習番頭、旗奉行、小納戸の職とともに「物頭」の職が増置されている(『新北海道史年表』)。
(26-2)「三輪持(みわ・たもつ)」・・松前藩士。当時の列席は中書院。役職は御用人で、江差奉行・寺社奉行を兼帯。
(26-2)「倹使(けんし)」・・「倹」は「検」の誤りか。事実をあらため、見届けるために派遣される使者。室町時代以降に用いられた語で、鎌倉時代には、一般に実検使といった。この時、氏家丹右衛門が、検使役として、樺太に派遣された。
*検使は、このほか、以下の役があった。①殺傷、自殺、変死などの実情を調べ確認するために奉行所などから派遣される役人。また、その役人の取調べ。江戸時代には、領内騒擾、喧嘩乱闘、行き倒れ、変死など変事発生のときは、必ず確認を請わなければならなかった。②土地境界争いが起こったとき、実地に見分するため派遣される役人。また、その見分。地境論のある場合は、多く、双方が立ち会って作成した絵図の提出を求めるが、絵図だけで不明の場合に派遣された役人。③切腹の場に立ち会い、それを見届けること。また、その役の人。江戸時代、大名などの切腹の場合は、多く、大目付あるいは目付が任命された。④江戸以外の犯罪地または代官陣屋などで死刑が執行されるとき、それに立ち会うため派遣される役人。また、その立会い。
(26-2)「氏家丑右衛門」・・「丑」は、「丹」か。氏家丹右衛門は、松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では、江差奉行出役、町吟味役。「嘉永六癸丑御扶持家列席帳」では、「中之間御中小姓」の条にその名がみえる。
(26-2)「支配人平三郎」・・清水平三郎。北蝦夷地クシュンコタン場所支配人。山丹通辞。安政元年(1854)春松前藩士分。同年7月御徒士席、目見得以上。安政3年(1856)2月箱館奉行組同心抱入、北蝦夷地詰。安政3年(1856)6月箱館奉行所調役下役出役申渡、北蝦夷地詰。万延元年(1860)7月函館奉行所定役。文久3年(1863)8月歿。享年59。
(26-4)「伝授(でんじゅ)」・・大切なことや物事を教え伝えること。特に、秘伝、秘法などを師から弟子に伝え授けること。なお、伝え受け継ぐ場合は、「伝受」と表記する。
(26-9)「直支配(じきしはい)」・・漁場などを商人に請負わせるのではなく、松前藩が直接、管理経営すること。「直捌」のこと。
(27-2)「目見(めみえ)」・・動詞「まみゆ」の連用形「まみえ」の訛(『江戸語大辞典』)。江戸時代、将軍(主君)に直接お目通りすること。また、それが許される身分。
(27-4)「番人共」・・樺太経営は、伊達屋林右衛門、須原屋六右衛門両名の場所請負人にゆだねらていた。漁業は、春から夏にかけて支配人や百数十人の番人の指揮のもとに、アイヌを使役して行われていた。松前藩は、毎春勤番の藩士を派遣して監督した。秋の始めには勤番藩士、支配人、番人も引き上げた。当地には、越冬番人37名を残すばかりであった。
(27-5)「急脚を飛せ候」・・番人の伝吉、吉兵衛を、ソウヤから、急使として、急ぎに急がせて松前の領主役場まで報告に派遣している。「急脚(きゅうきゃく)」は、急な便りを運ぶ者。急飛脚。
(27-6)「重立(おもだち)」・・4段動詞「重立(おもだ)つ」の連用形。中心となって。
*ふつう、「おもだった」の形で用いる。「会社のおもだった人」
(27-6)「請負人共」・・当時、北蝦夷地クシュンコタン場所の請負人は、栖原屋(六右衛門)と伊達屋(林右衛門)の共同請負になっていた。
(27-7~8)「一番、二番手追々出立~(略)~マシケ并ソウヤ着」・・一番隊は、嘉永6年(1853)9月17日松前出発、10月9日ソウヤ着、二番隊は、9月18日松前出発、10月10日マシケ着、渡海できずそのまま越年。(『新北海道史年表』)
(27-8)「マシナ」・・「マシケ」か。
(27-9)「在(本ノマヽ)蝦夷」・・「在」と見えるのは、「北」の誤りか。
(28-4)「竹田作郎」・・松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では御勘定奉行出役、「嘉永六癸丑年御扶持家列席帳」では士席御先手組の条に、その名前がみえる。なお、『松前町史』では、一番隊の隊長は、物頭竹田忠憲となっている。
(28-4)「目付役」・・「目付」とも。江戸幕府の目付は、旗本の監察役で、部下に徒目付、小人目付がいた。各藩でも、部下を監察する者を目付あるいは目付役と呼び、その部下は、徒目付あるいは横目付と呼んだ。
(28-5)「足軽」・・軽武装の歩卒。徒歩軍(かちいくさ)をする身軽な兵。近世には、幕府や各藩の兵卒として組織されるようになり、二人扶持、三人扶持という軽輩者であったが、「士分」であり、名字、帯刀を許され、羽織を着用した。渡り奉公人の「中間(ちゅうげん)」とは区別される。諸藩の足軽は、その領内から召し抱えられるのが原則で、譜代の者が多かった。職務は、平時は、警固、巡視などを勤め、戦場では、組を組織して、弓や鉄砲を扱った(弓足軽、鉄砲足軽という。)
(28-5)「雑兵(ぞうひょう)」・・名もない下級の兵士。徒歩立の軽卒をいう。一騎立ちの武者の従卒や大将直属の組子(くみこ)、中間をいう(『角川古語大辞典』)。
(28-6)「酒井蔀(さかい・しとみ)」・・松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では、御用人にその名前がみれる。なお、『松前町史では、二番隊の隊長として派遣されたのは、番頭の新井田朝訓としている。
<4月学習の樺太をめぐる動き(略年表)>
◎嘉永6年(1853)
・8.28・・ロシア将兵、クシュンコタンに来航。
・8.30~9.1・・ハツコトマリ(クシュンコタン北隣)へ上陸、陣営(ムラヴィヨフ哨所)建
築。日本の越冬番人は、食料を、饗応、玄米10俵を与える。
更に、積荷揚陸のため艀(はしけ)を貸与、ロシア人の宿泊と物資の保管のために倉庫
を清掃して明け渡す。また、乾燥した木材の使用も認める。
・9.3以降・・越年番人らは、全員クシュンコタンを退去。多くはシラヌシからソウヤへ逃
げ帰る。越年頭長助など13名は、樺太に留まることにしたが、山を越えナイブチへ避
難。後の取締を惣乙名ベンカクレ、脇乙名ラムランケ、小使イッポングに託す。
ナイブチへ逃げた番人らは、ロシア人オルロフ一行(クシュンナイに上陸し、マーヌイ
経由で南下)に出会い、クシュコタンへ戻ることを勧められ、9月28日までにクシュ
ンコタンへ帰還。
・9,16・・ロシア人のクシュンコタン占拠の報、松前へ届く。
・9.17・・1番隊(物頭竹田作郎ほか85名)松前出発。10.9ソウヤ到着。越冬。
・9.18・・2番隊(物頭酒井蔀ほか77名)松前発進。10.10マシケ着。越冬。
◎嘉永7年(安政元年1853)
・3.20・・松前藩士物頭三輪持、検使氏家丹右衛門、支配人清水平八郎、番人60名が同行
し、藩兵に先立って渡海、シラヌシへ向かう。3.26シヤトマリ着。3.28クシュンコタ
ン着。
・4.11・・1番隊、クシュンコタン着、クシュンコタン勤番所を詰所とする。
・4.21~5.3・・2番隊、ハツコトマリ(クシュンコタン北隣)に到着、仮陣屋を建てる。