森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2016年03月

魯夷始末書4月学習注記

25-1)「簱」・・ロシアの国旗で、白・青・赤の三色の旗。「嘉永六丑秋ニカライ人滞留北蝦夷地クシュンコタン山上江居小屋他取建候書面写」(北海道大学付属図書館所蔵)の絵図面では、東側物見台の上に掲揚されているのが見える。

25-1)「華飾文彩之簱(かしょくぶんさいのはた)」・・ロシアの国章旗。ロシアでは、国旗のほかに、国の紋章あるいは徽章として、双頭の鷲を中心に、盾、王冠、王笏、宝珠がデザインされ、彩色された「国章」が定められている。そのデザイン、色模様は、時代によって異なるが、本書当時は、双頭の鷲は黒色、盾は赤となっている。

     「華飾」は、華美なこと。「文彩」は、いろどり。「華飾文彩之簱」は。華美ないろどりの籏。

25-6)「遠見(とおみ)」・・警戒または偵察のために、遠くの状勢をうかがうこと。高い所から四方を見張ったり、遠くまで潜行して敵状をさぐること。またその人。

25-7)「リヤトマリ」・・リヤコタンとも。日本名「利家泊」、「利耶泊」、「利屋泊」。樺太南海岸の内。樺太地名NO3。吉田東伍著『大日本地名辞書』に、「アニワ湾の西岸の大漁場にして、白主を去る十里許。鱒、鯡の好漁場として知られた地」とある。

25-7)「捕押(とらえおさえ、とりおさえ)」・・つかまえること。捕まえ拘束すること。

25-7)「打擲(ちょうちゃく・うちなぐり)」・・なぐること。殴打すること。

     <漢字の話>

   「打」を「だ」と読むのは、慣用音。

*慣用音・・呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

     ②「打」を「チョウ」と読むのは呉音。手元の漢和辞典には、「打擲(ちょうちゃく)」以外に、「打」を「チョウ」と読む熟語はない。

25-9)「差向(さしむき)」・・今のところ。さしあたり。

25-9)「安否(あんぴ)・・無事かどうかということ。

25-10)「申宥(もうしなだめ)」・・「申宥む」の連用形。とりなして申し上げること。申し上げて相手の心を静めること。

26-1)「候得(本ノマヽ)」・・「候得共」で、「共」が脱か。

26-1)「未為取調(いまだとりしらべせず)」・・「未」は再読文字で、「いまだ~(せ)ず」となる。

26-1)「物頭(ものがしら)」・・槍、弓、鉄砲などの足軽を統率する武将。足軽大将のこと。江戸時代は、各藩にあったほか、幕府の職名として、先手組(さきてぐみ)の弓組、鉄砲組の頭を称した(『角川古語大辞典』)。松前藩では、嘉永3年(1850)の軍制改革で、一番隊の隊長は、「物頭」を以ってすることに決められた(『松前町史』)。また、「嘉永三年(1850)の蝦夷地勤番家臣名」(『松前町史史料編第1巻』)によれば、ヱトロフ、クナシリ、ソウヤの勤番所の筆頭者の役職が「物頭」となっている。さらに、本事件発生後の安政元年(1854)118日、職制の改正がなされ、番頭(ばんがしら)、近習番頭、旗奉行、小納戸の職とともに「物頭」の職が増置されている(『新北海道史年表』)。

26-2)「三輪持(みわ・たもつ)」・・松前藩士。当時の列席は中書院。役職は御用人で、江差奉行・寺社奉行を兼帯。

26-2)「倹使(けんし)」・・「倹」は「検」の誤りか。事実をあらため、見届けるために派遣される使者。室町時代以降に用いられた語で、鎌倉時代には、一般に実検使といった。この時、氏家丹右衛門が、検使役として、樺太に派遣された。

     *検使は、このほか、以下の役があった。①殺傷、自殺、変死などの実情を調べ確認するために奉行所などから派遣される役人。また、その役人の取調べ。江戸時代には、領内騒擾、喧嘩乱闘、行き倒れ、変死など変事発生のときは、必ず確認を請わなければならなかった。②土地境界争いが起こったとき、実地に見分するため派遣される役人。また、その見分。地境論のある場合は、多く、双方が立ち会って作成した絵図の提出を求めるが、絵図だけで不明の場合に派遣された役人。③切腹の場に立ち会い、それを見届けること。また、その役の人。江戸時代、大名などの切腹の場合は、多く、大目付あるいは目付が任命された。④江戸以外の犯罪地または代官陣屋などで死刑が執行されるとき、それに立ち会うため派遣される役人。また、その立会い。

26-2)「氏家丑右衛門」・・「丑」は、「丹」か。氏家丹右衛門は、松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では、江差奉行出役、町吟味役。「嘉永六癸丑御扶持家列席帳」では、「中之間御中小姓」の条にその名がみえる。

26-2)「支配人平三郎」・・清水平三郎。北蝦夷地クシュンコタン場所支配人。山丹通辞。安政元年(1854)春松前藩士分。同年7月御徒士席、目見得以上。安政3年(1856)2月箱館奉行組同心抱入、北蝦夷地詰。安政3年(1856)6月箱館奉行所調役下役出役申渡、北蝦夷地詰。万延元年(18607月函館奉行所定役。文久3年(18638月歿。享年59。

26-4)「伝授(でんじゅ)」・・大切なことや物事を教え伝えること。特に、秘伝、秘法などを師から弟子に伝え授けること。なお、伝え受け継ぐ場合は、「伝受」と表記する。

26-9)「直支配(じきしはい)」・・漁場などを商人に請負わせるのではなく、松前藩が直接、管理経営すること。「直捌」のこと。

27-2)「目見(めみえ)」・・動詞「まみゆ」の連用形「まみえ」の訛(『江戸語大辞典』)。江戸時代、将軍(主君)に直接お目通りすること。また、それが許される身分。

27-4)「番人共」・・樺太経営は、伊達屋林右衛門、須原屋六右衛門両名の場所請負人にゆだねらていた。漁業は、春から夏にかけて支配人や百数十人の番人の指揮のもとに、アイヌを使役して行われていた。松前藩は、毎春勤番の藩士を派遣して監督した。秋の始めには勤番藩士、支配人、番人も引き上げた。当地には、越冬番人37名を残すばかりであった。

27-5)「急脚を飛せ候」・・番人の伝吉、吉兵衛を、ソウヤから、急使として、急ぎに急がせて松前の領主役場まで報告に派遣している。「急脚(きゅうきゃく)」は、急な便りを運ぶ者。急飛脚。

27-6)「重立(おもだち)」・・4段動詞「重立(おもだ)つ」の連用形。中心となって。

     *ふつう、「おもだった」の形で用いる。「会社のおもだった人」

27-6)「請負人共」・・当時、北蝦夷地クシュンコタン場所の請負人は、栖原屋(六右衛門)と伊達屋(林右衛門)の共同請負になっていた。

277~8)「一番、二番手追々出立~(略)~マシケ并ソウヤ着」・・一番隊は、嘉永6(1853)917日松前出発、109日ソウヤ着、二番隊は、918日松前出発、1010日マシケ着、渡海できずそのまま越年。(『新北海道史年表』)

27-8)「マシナ」・・「マシケ」か。

27-9)「在(本ノマヽ)蝦夷」・・「在」と見えるのは、「北」の誤りか。

28-4)「竹田作郎」・・松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では御勘定奉行出役、「嘉永六癸丑年御扶持家列席帳」では士席御先手組の条に、その名前がみえる。なお、『松前町史』では、一番隊の隊長は、物頭竹田忠憲となっている。

28-4)「目付役」・・「目付」とも。江戸幕府の目付は、旗本の監察役で、部下に徒目付、小人目付がいた。各藩でも、部下を監察する者を目付あるいは目付役と呼び、その部下は、徒目付あるいは横目付と呼んだ。

28-5)「足軽」・・軽武装の歩卒。徒歩軍(かちいくさ)をする身軽な兵。近世には、幕府や各藩の兵卒として組織されるようになり、二人扶持、三人扶持という軽輩者であったが、「士分」であり、名字、帯刀を許され、羽織を着用した。渡り奉公人の「中間(ちゅうげん)」とは区別される。諸藩の足軽は、その領内から召し抱えられるのが原則で、譜代の者が多かった。職務は、平時は、警固、巡視などを勤め、戦場では、組を組織して、弓や鉄砲を扱った(弓足軽、鉄砲足軽という。)

28-5)「雑兵(ぞうひょう)」・・名もない下級の兵士。徒歩立の軽卒をいう。一騎立ちの武者の従卒や大将直属の組子(くみこ)、中間をいう(『角川古語大辞典』)。

28-6)「酒井蔀(さかい・しとみ)」・・松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では、御用人にその名前がみれる。なお、『松前町史では、二番隊の隊長として派遣されたのは、番頭の新井田朝訓としている。 

4月学習の樺太をめぐる動き(略年表)> 

◎嘉永6年(1853

8.28・・ロシア将兵、クシュンコタンに来航。

8.30~9.1・・ハツコトマリ(クシュンコタン北隣)へ上陸、陣営(ムラヴィヨフ哨所)建

築。日本の越冬番人は、食料を、饗応、玄米10俵を与える。

更に、積荷揚陸のため艀(はしけ)を貸与、ロシア人の宿泊と物資の保管のために倉庫

を清掃して明け渡す。また、乾燥した木材の使用も認める。

9.3以降・・越年番人らは、全員クシュンコタンを退去。多くはシラヌシからソウヤへ逃

げ帰る。越年頭長助など13名は、樺太に留まることにしたが、山を越えナイブチへ避

難。後の取締を惣乙名ベンカクレ、脇乙名ラムランケ、小使イッポングに託す。

ナイブチへ逃げた番人らは、ロシア人オルロフ一行(クシュンナイに上陸し、マーヌイ

経由で南下)に出会い、クシュコタンへ戻ることを勧められ、928日までにクシュ

ンコタンへ帰還。

9,16・・ロシア人のクシュンコタン占拠の報、松前へ届く。

9.17・・1番隊(物頭竹田作郎ほか85名)松前出発。10.9ソウヤ到着。越冬。

9.18・・2番隊(物頭酒井蔀ほか77名)松前発進。10.10マシケ着。越冬。

 

◎嘉永7年(安政元年1853

3.20・・松前藩士物頭三輪持、検使氏家丹右衛門、支配人清水平八郎、番人60名が同行

し、藩兵に先立って渡海、シラヌシへ向かう。3.26シヤトマリ着。3.28クシュンコタ

ン着。

4.11・・1番隊、クシュンコタン着、クシュンコタン勤番所を詰所とする。

4.215.3・・2番隊、ハツコトマリ(クシュンコタン北隣)に到着、仮陣屋を建てる。

『難船之始末』3月学習の注

     

(15-1)「抔(など)」・・漢音で「ホウ」、呉音で「ブ」。「すくう」「あつめる」の意。国訓で「など」だが、なぜ、いつから、複数を示す「など」の意に、「抔」が使われたかは、はっきりしない。

(15-1)「玉込(たまごめ)」・・銃砲に弾丸をこめること。また、装填された銃。

 *「玉込鉄砲」・・江戸時代、農作物を荒らし人馬に危害を加えるイノシシ、オオカミなどを撃ち殺すために百姓に貸与された、弾丸を込めた鉄砲。

(15-1)「仕置(しおき)」・・「仕置(しお)く」の連用形。「し」はサ変動詞「する」の連用形。しておく。処置する。しまつをつける。

(15-2)「内(うち)」・・一続きの時間。また、それに含まれるある時。

(15-3)「類(たぐい)」・・動詞「たぐう(比・類・副)」の連用形の名詞化。「たぐう」は、並ぶ。寄り添う。いっしょにいる。連れだっている。

(15-3)「等」・・音読みは「トウ」。訓読みで「など」だが、「ら」も訓読み。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「等」の補注に、

 <、「ロドリゲス日本大文典〈土井忠生訳〉」に「複数に使われる助辞はタチ、シュウ、ドモ、Ra (ラ)である。これらは名詞の後で直接に格助辞の前に置かれる。これらの語の間には敬意の度合による相違がある。〈略〉Ra (ラ)は謙遜する場合の第一人称に用い、また第二人称および第三人称をはなはだしく侮辱し軽蔑する場合に用いる。例、〈略〉Acuninra (アクニンラ)、Varera (ワレラ)、Fiacuxo ra (ヒャクシャウラ)」とある。>とある。

(15-4)「猟」・・ラッコ。普通は、「猟虎」と2字を当てる。あるいは、ここは、「猟虎、貂の皮」と読み、「虎」のルビ「トラ」を誤りと見るか。

 なお、異本は、「猟虎、豹」とある。

(15-4)「虎」・・影印は、虍(とらかんむり)が、いびつになっている。

(15-4)「貂」・・影印は、「ヒヨウ」とルビがある。「貂」は、普通は「テン」(イタチ科テン属)。なお、「ヒョウ」(ネコ科ヒョウ属)は、「豹」を当てる。

(15-6)「ヲホシカ」・・オホーツク。オホーツクは、ロシア連邦東部、ハバロフスク地方の町。オホーツク海北西岸の漁港。人口約1万。漁業コンビナート、船舶修理工場がある。極東におけるロシアのもっとも古い植民地の一つで、1647年に冬営地ができ、そこに1649年にコソイ小柵(しょうさく=砦=)が建設された。19世紀なかばまでロシアの太平洋岸の主要港で、カムチャツカ、千島、日本、アラスカなどへの探検隊の基地となった。

 なお、「オホーツク」の語源は、オホタ川という川の河口にある町なので、「オホタ」という言葉にロシア語で形容詞を作る語尾をつけたのが「オホーツク」=「オホタの(町)」の意。

(15-6)「漸(ようやく)」・・普通は、「漸く」と送り仮名「く」を伴う。「ややく(稍)」に「う」の音の加わってできた語か。他に、「やくやく(漸漸)」の変化した語、「やをやく」の変化した語などとする説がある。漢文訓読では「に」を伴って用いることが多い。

 なお、「漸(ようよ)う」は、「ようやく(漸)」の変化した語。「と」「に」を伴って用いることもある

古くは漢文訓読用語であった「ようやく(漸)」に対して、主として仮名文学、和文脈で用いられた。」また、「漸漸」「漸々」は、「ようよう」と読む。

(15-8)「煙霧(えんむ)」・・影印の「雺」は、「霧」の異体字。なお、「雰囲気」の「雰」も「きり」の意味がある。

*気象学上の「煙霧」・・地面から吹き上げられて大気中に浮かんでいる細塵(さいじん)や煙の粒子。またそれらのために遠方の風景がはっきり見えなくなる現象をもいう。気象観測上の用語で、煙霧は霧ではない。地面から吹き上げられた細塵であることがはっきりしている場合には塵(ちり)煙霧、燃焼によって生じた煙であることがはっきりしている場合には単に煙といい、そのいずれとも判別できないものを煙霧とよんでいる。

(15-9)「不得」・・「止」が欠か。「不止(やむをえず)」。

 *漢文訓読の返り点

  ①小返り(一字返りを示す)・・レ点(かりがね点=雁点)。古く雁(かりがね・ガン)の飛ぶ形

        を書いたことから。

      

 

 ②大返り

   ・一二点・上(中)下点・甲乙(丙)点・天地(人)点

(16-1)「去亥年」・・文化12年(1815)。

(16-2)「カワン」・・『ふなをさ日記地』の本文には、「カムサスカのカワン」の次に、「港の事也」と割書きがある。

(16-5)「馳走」・・<雑学>次ページ参照。

(16-6)「日本人三人」・・薩摩籓の手船永寿丸の船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人。

(17-475)「不為致(いたせず)」・・組成は、4段活用動詞「致(いた)す」の未然形「致(いた)さ」+サ変動詞「為(す)」の未然形「せ」+打消しの助動詞「ず」の連用形「ず」。

(17-8)「悦喜(えっき)」・・大いによろこぶこと。また、そのさま。喜悦。

 *促音便・・「悦(えつ)」を「えっ」とするのは、促音便。促音便は、音便の一つ。発音の便宜のために、語中において、ある音が促音に転ずる現象。活用語の連用形語尾の「ち」「ひ」「り」が、タ行音の助辞「て」「たり」などに連なる直前で起こるものが、最も多い。 「立ちて→立って」「食ひて→食って」「取りたり→取ったり」の類。ただし、その外、名詞の中で起こることもあり(夫「をひと→をっと」の類)、真白(ましろ→まっしろ)のように強調の意をこめたものもある。この現象は古くからあったと思われるが、促音の表記法が一定していなかったので、明らかでない。現在のように「っ」で表記した例は院政期ごろから見られる。

(18-1)「失費(しっぴ)」・・何かをするのについやした費用

(18-2)「ランラン」・・ロンドン。ここでは、イギリスのことをさすか。

(18-6)「イルコシツカ」・・イルクーツク。バイカル湖の西方にある商工業都市。本文の時期、帝政ロシアのシベリア総督府がおかれ、行政・経済の中心地であった。

(18-78)「さ候得ば」・・そうであるので。「さ」は「然」。影印の「左」は変体仮名で「さ」。

(18-9)「否(いな)」・・自分の発言を途中で否定したり、ためらったりするときに発することば。いや。いやそうではなく。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「否」の語誌には

 <(1)会話の中で、否定の応答として用いられたのは平安末ごろまで。それ以降は、文語として使われ続けたが、否定していることを手短かに表わす語として、「否を申す」のように、名詞として単独で、また、「否と思う」といった引用の形で、口語文の中にも多く用いられた。

(2)現代語においても、やや堅い文体の中では、「…だろうか。否、…である」のように、主張を強調するために、わざと反対の意見を前に出して否定する場合などに用いられる。>とある。

(19-1)「差帰(さしかえり)」・・「さし」は接頭語。

 *接頭語・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には

  <語構成要素の一つ。独立した一語としての機能をもたない造語成分(接辞)のうち、語や語基の前につくもの。語調を整えたり意味を添えたりする。「こ雨(さめ)」「お手紙」「御親切」「どん底」「たやすい」などの「こ」「お」「御」「どん」「た」の類。なお、「うちあける」「さしおさえる」の「うち」「さし」のように、動詞語源のたどられるものは接辞としての取扱いに問題がある。接頭辞。接頭。>とある。

(19-1)「今(いま)」・・さらに。その上に。あと。もう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「今」の語誌に

 *「貝のいろは蘇芳(すはう)に、五色にいまひといろぞたらぬ」(土左日記)

 <旧くは、「万葉」「古今」の「今二日」「今いくか(幾日)」も、この現在の瞬間に連続する同質時間としての二日・幾日といった意味であったと考えられ、「土左日記」の「いまひといろ(一色)ぞたらぬ」も、現在のこの状況(「いま」)においては、五色には一色足りないという意味で使われていたものととらえられる。>とある。

(19-4)「如何程歟」の「歟」・・「歟」は、本来は、漢文の助字。句末に用いて疑問・反語・推量・感嘆の意を表す。「欠(あくび)」部の13画(総画17画)。なお、変体仮名の「か」にもなる。

(19-4)「無本意(ほいなく)」・・もとからの気持や意志が達せられずに残念である。

 「本意」は、現代語では「ほんい」と読むが、「ほんい(本意)」の撥音「ん」の無表記で、古文では、「ほい」と読む。

(19-6)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。 かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま。

(19-6)「是非(ぜひ・しいひ・しひ)」・・「是非共(とも)に」の意から。是であれ非であれ共に。事情がどうあろうとも、あることを実現しよう、実現したいという強い意志や要望を表わす語。是が非でも。どうあっても。きっと。ぜひとも。

 *「儻(もしく)は所謂(いはゆる) 天道是か、非か。」(『史記』)[天道というものは信じてもよいものなのか、そうではないのか]

(19-8)「別而(べして・べっして)」・・特別に。とりわけて。格別に。ことに。

魯夷始末書3月分注記

21-1)「達之(本ノマヽ)」・・「之」は「者」で、「達者」か。熟達し上手なこと。

21―1)「通弁(つうべん)」・・通訳。

21-2)「小頭(こがしら)」・・組をなす人々のなかで、その一部分の小分した組の長。

     小隊長あるいは分隊長。

21-4)「魚漁(ぎょりょう)」・・魚介類をとること。「漁猟」と同義。「漁」を「りょう」と読むのは、「猟」にあてた国訓。

21-5)「ヱノシマナイ」・・ヱヌシコマナイ、エヌシコマナイホ。日本名「犬駒内」。樺

     太南部アニワ湾沿いの地名。樺太地名NO28。『樺太の地名』には、明治六年林氏紀行を引用し「湳渓より・・六里にしてイヌシクマナイ土人家十戸」とある。

21-5)「ヲマヘツ」・・ヲマンベツ。マンベツ。ヲマンヘチ。日本名「小満別」。樺太南  

     部中知床半島西岸。樺太地名NO39

21-5)「水 欠 働方」・・欠の部分は、「主」か。「水主働方」とか。

21-7)「従随(本ノマヽ)」・・「随従(ずいじゅう)」で、「従」と「随」の順序が逆か。

     「随従」は、つきしたがうこと。人の言うことを聞いてそれに従うこと。

21-8)「宿営(しゅくえい)」・・軍隊が兵営外で宿泊すること、また、其の場所。久春古丹の「ムラヴィヨフ哨所」に駐屯していること。

2110)「松前より引続候蝦夷地」・・近世、蝦夷島(北海道)において、松前藩は、その統治政策の一つとして、松前を中心とする周辺地域を和人の定住地(松前地、和人地、日本人地とも。)とし、和人の定住地以北の地を蝦夷地(東・西蝦夷地)と称するアイヌの人々の居住地とに区分した。「松前地=和人地」の区域は、時代により異なるが、17世紀には、北方は熊石(現八雲町内)、東方は亀田(現函館市内)が境界、19世紀末には、東方の範囲が山越内(現八雲町内)まで拡大した。

22-2)「恩沢(おんたく)」・・恵み。

22-4)「憤(いきどおり)」・・「憤る」の連用形。憤慨すること。

怒りの気ちを持つこと。

22-4)「以之外(もってのほか)」・・(事柄が普通でなくとがめ立てされるような場合に用いる)とんでもないこと。けしからぬこと。

語源説に、

(1)オモッテノホカ(思外)の義〔言元梯〕。

(2)オモヒ(以)ノホカ(外)の文字読〔大言海〕。

がある。

22-4)「申罵(もうしののしる)」・・悪口を言い立てること。

22-6)「異見(いけん)」・・「意見」。他人をいましめること。説教。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

     <(1)表記は、挙例のように「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

     (2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

     (3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、(2)の挙例「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

22-6)「無本意躰(ほいなきてい)」・・「本意」は「ほい」で、「ほんい」の撥音「ん」の表記されないかたち。本来の意志、もとからの望み。

22-8~9)「ナイフリ」・・ナイブチ(内淵)か。

23-3)「人跡(じんせき)」・・人が通った跡。

23-4)「究竟(きゅうきょう・くきょう)」・・事をきわめて、究極に達したところ。最高であること。また、そのさま。

23-5)「長橇(ながかんじき)」・・「橇」には、「そり」のほか、「かんじき」の訓がある。「履」や「歩行」の文言があることから、雪の中に足を踏み込んだり、滑ったりしないよう靴などの下に付ける道具の「かんじき」。

23-6)「巧者(こうしゃ)」・・物事に器用で、巧みなこと、あるいは、人のこと。

2310)「毎月七之日、三日」・・月毎の7、17、27の「7」の付く日の3日間。

2310)「いたし(以堂し)」・・「いたし」の「い」は「以」、「た」は「堂」の変体かな。

24-1)「打臥(うちふせ)」・・「打臥(うちふす)」の連用形。「打(うち)」は接頭語で、下の動詞の意を強める。「臥す」は、病気などのため、寝床に横になる。ふせる。

24-3)「申断(もうしだんじ)」・・「申断(もうしだんず)」の連用形。拒絶、断わりを言い立てること。

24-4)「折檻(せっかん)」・・厳しく戒めること。たたいて懲らしめること。

24-5)「来ル廿六日迄七日之間」・・和暦の「来ル(安政元年(1854)2月)26日迄7日之間」は、ロシア暦(ユリウス暦)では、185436日~312日、西暦(グレゴリオ暦)では、1854318日~324日にあたる。

24-5~6)「彼国之正月」・・ロシア暦による「新年の正月」ではなく、キリスト教にとって最も重要な行事である復活祭(イースター)の祝祭の期間を指す。復活祭は、春分の日の後の満月に続く日曜日が、その祝日にあたり、西暦(グレゴリオ暦)では、321日~425日の間で、年によって変わる。そして、祝日の一週間前の日曜日から、キリストの復活を祝う特別な行事がおこなわれる。

24―7)「領主城下」・・松前のこと。時の松前藩主は12代崇広(たかひろ)。

24-7)「出勢(しゅっせい)」・・「勢」は軍勢、兵力の意で、出兵すること。

24-9)「申談(もうしだんじ)」・・「申談(もうしだんず)」の連用形。『くずし字用例辞典』には、「申談」は、「もうしだんず」と訓がある。かけあうこと。談判すること。   

24-10)「籏(はた)」・・国字。「竹」と「旗」の合字。
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