森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2016年04月

魯夷始末書5月学習分注記

29-1)「一通(ひととおり)」・・ひとわたり。あらまし。

29-1)「承糺(うけたまわりただし)」・・よく話しを訊いて問い糾し。

29-2)「小屋より」・・「より」の左に「へ」があるが、「ヽ」で、消してある。これを「見せ消ち」という。「小屋へ」と書いて、後「小屋より」と訂正してある。

     *松前藩士三輪らが、アニワ湾西岸のリヤトマリへ到着したところ、プッセの命を受け、ムラヴィヨフ哨所より派遣されたリョースキンと、ヱレキセイフとアレクセーエフが滞在していたことをいう。

「小屋」は、クシュンコタンにロシアが構築した・ムラヴィヨフ哨所。

29-2)「士卒之内 (空白部分) と申者」・・「空白部分」は、へレケンとヱレキセイフの2人か。『サハリン島占領日記』(平凡社刊 東洋文庫 ニコライ・ブッセ著、秋月俊幸訳)によれば、「ヘレケン」はコサックの「ベリョースキン」、「ヱレキセイフ」は水兵の「アレクセーエフ」とある。

29-2)「類船(るいせん)」・・船が行動をともにすること。また、その船。江戸時代では同時に出港する船や同じ水域を航行している船をもいう。友船。

29-3)「首長(しゅちょう)」・・ムラヴィヨフ哨所の隊長・プッセのこと。

29-6)「申諭(もうしさとし)」・・連用形。言い聞かせて納得させること。教えてのみこませること。

29-7)「小屋場(こやば)」・・ムラヴィヨフ哨所。

29-9)「偽言(ぎげん)」・・うそ。虚言。

2910)「無跡形(あとかたなき)」・・痕跡をとどめないこと。根拠がないこと。

2910)「混雑(こんざつ)」・・ごたごたすること。もめること。いざこざ。

30-1)「事を好む」・・何か事件が起こることを望む。事を荒立てたがる。求めて争おうとする。事を構う。

     *「事」・・事件、出来事、変事。特別な用事。「ことあり」「こと出ず」「ことにのぞむ」「ことに遇う」などの形のときは、事件、変事などの意を表わし、「こととする」「ことと思う」などでは、重要な事態の意で用いられ、指定の助詞・助動詞を伴って述語になるときは、大変だの意となる。

30-1)「無思慮(むしりょ・ぶしりょ)」・・思慮の足りないこと。深い考えのないこと。また、そのさま。「無」を「ブ」と読むのは漢音。「ム」は呉音。

30-3)「不少(すくなからざる)」・・返読。少なくないこと。

30-3)<くずし字>「御座候」・・別紙に連綿体。

30-4)<くずし字>「懸念」の「懸」・・「を」や「近」と似ている。

30-5)「聊以(いささかもって)」・・「聊」は、「少しも。ちっとも。ほんのちょっと。」の意で、下に打消しの言葉を伴って使われる。「以(もって)」は、動詞「もつ(持つ)」の音便形に接続助詞「て」のついたもので、動詞本来の意味が次第に薄れて、助詞のように用いられるようになった。したがって「聊以」は、「少しも、(~ない。)」という形でもちいられる。

30-5)「闘論(とうろん)」・・言い争うこと。論議を闘わすこと。

30-6.7)「葡萄等」・・「葡萄」の次の字は、不詳。因みに、前掲『サハリン島占領日記』では、「棒砂糖と数フントの乾スモモと乾ブドウ」とある。

30-8)「演(えんじ)」・・連用形。言葉で述べること。詳しく述べること。

30-8)「承受(しょうじゅ・うけたまわりうけ)」・・お受けする。

30-9)「預置(あずかりおき)」・・連用形。保管、管理しておくこと。

30-9)「応対(おうたい)」・・ある問題について話し合うこと。談判。

31-2)<変体仮名>「通弁いたし」の「た(堂)」・・「堂」は変体仮名。音読みでは「ドウ」であるが、「と」とするのは、「トウ」の原音「ダウ」による。また、歴史的仮名遣いで、「堂」を「ダウ」と書いた。

31-3)「ロシカイ」・・ロシア。ロシアは、九世紀にロシア平原の西部に興り、のちヨーロッパの東部からシベリアに及ぶ地域を支配したスラブ民族を中心にした巨大国。九世紀後半キエフ公国の成立後、一二世紀には封建的諸公国の分立時代となり、一三世紀にモンゴルの征服を受け一時期キプチャク‐カン国の属国となった。その後一四世紀にはロシア帝国のもととなるモスクワ大公国が生まれ、中央集権国家として成長。一七世紀以降はロマノフ家の支配が始まりピョートル一世の時に絶対主義体制を完成、ロシア帝国として発展。しかし、1917年の二月革命によりロマノフ朝は崩壊。続く十月革命によりソビエト社会主義共和国連邦が成立。1991年、バルト三国を除く旧ソ連邦構成国(一二か国)とともに独立国家共同体を結成。オロシャ。

31-4)「ニカラ地名」・・ニコラエフスク・ナ・アムール。「ニコラエフスク」とも。日本名「尼港」。『世界地名大事典』(小林房太郎著 日本図書センター)には、「我が国人は、単に尼港と呼び、シベリアの東部即ち極東地方に位する都邑で、1850年、ネウェルスキー将軍が之を占領し、露帝ニコライ一世の名によりし、ニコライエフスクと命名した。其位置が黒竜江口に近く(上流80キロ)、江の左岸に位し、1855年軍港となり一時は盛大を極めたが、同軍港を浦塩斯徳(ウラジオスットク)に移せしより次第に衰えた。」とある。

     *「尼港事件(にこうじけん)」・・シベリア出兵中、黒龍江口のニコラエフスクを占領していた日本軍が、1920年(大正92月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが312日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。パルチザンに包囲されて全員殺害された事件。日本は事件解決まで北樺太を保障占領したが、賠償要求も成らず撤退した。

31-4)「都府(とふ)」・・みやこロシアの帝都「サンクトペテルブルク」のこと。日本語では「ペテルブルク」と表記されることもある。1703年、ピョートル一世がペトロパヴロフスク要塞を建造したことに始まり、「ザンクトペテルブルク」と名付けられ、1712年から1914年の十月革命に至る迄、ロシア帝国の首都であった。

31-4)「ニカライ長官」・・ロシアの皇帝ニコライ1世(在位182555)。パーベル1世の三男として生まれる。長兄アレクサンドル1世の急死と、次兄コンスタンティン大公の皇位継承権放棄によって、1825年即位した。おりからデカブリストが首都ペテルブルグの元老院広場で反乱を起こしたが、軍隊を使ってこれを鎮圧し、主謀者を処刑した。まじめな性格で規律を愛し、生涯を通じて革命思想、自由思想を弾圧した。26年、悪名高い秘密警察「皇帝官房第三課」を創設し、プーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンら多くの文学者や思想家を流刑にした。3031年のポーランドの反乱、4849年のハンガリーの革命を厳しく抑圧し、「ヨーロッパの憲兵」として恐れられた。中央アジアに出兵して、領土を拡張したが、クリミア戦争を引き起こし、敗色濃いなかで死去した。

31-5)「イニブスコイ」・・東シベリア総督ムラヴィヨフから指令を受けて、嘉永691日、クシュンコタン占拠を指揮したロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。

31-6)「去秋退帆」・・ネヴェルスコイは、荷揚げを完了した嘉永6(1853)96日に、ニコライ号に乗って去り、ムラビヨフ哨所には、陸軍少佐ブッセ、海軍中尉ルダノフスキーの外69人の兵士たちが残留した。

     ネヴェルスコイは、沿海州インペラートル湾のコンスタンチノフスク哨所に寄港して、ポシニャークをその指揮官として残し、デ・カストリ湾のハツトマリのアレクサンドロフスク哨所に帰着した。

31-6)「ハツトマリ」・・満州(現ロシア沿海州地方)の海岸の集落。『幕外文書7-補遺22』に、「満州之続き、~、爰は大陸の内」、「魯西亜人よりハツトマリと申立の由」、「通弁(清水)清三郎らは、アツサムと計り心得候哉」とあり、また、享和元年(1801)に幕吏中村小市郎が樺太調査をした時の麁絵図に「アツシヤム」の名がみえる。これらのことから、「ハツトマリ」は、嘉永6年(1853)初頭に海軍大佐ネヴェリスコイが部下の海軍大尉ボシニャークに命じてアムール川下流地方の「デ・カストリ湾」に設けた「アレキサントロフ哨所」の場所と思われる。

31-7)「マンゴー川」・・アムール川。ロシアと中国の国境付近を流れる大河。モンゴル北部のオノン川とシルカ川を源流とし、東流してタタール海峡に注ぐ。全長四三五〇キロメートル。黒龍江。

31-7)「営柵(えいさく)」・・とりでを建設すること。ネヴェルスコイは、アムール河河口上流にニコラエクス哨所を設置した。

31-7)「戍兵(じゅへい)」・・辺境の守備の兵。「戍」は、「人」+「戈(ほこ)」で、人がほこを持って守るの意味。特に辺境を守るの意味を表す。

31-7)「籠置(ろうち・こめおき)」・・留め置くこと。

32-1)「営砦(えいさい)」・・とりで。

32-2)「書役(かきやく)」・・文書の起草、記録などの事に当たる役。書記。なお、江戸時代、町年寄、町名主の補助をするための町(ちょう)役人のことで、江戸では、「書役」ともいい、自身番に出勤して、文書作成などの事務にあたった。

32-4)「ウンラ」・・樺太南海岸。日本名「雲羅」。吉田東伍著『大日本地名辞書』では、「露人ペルワヤパーヂ(一之澤)の地なるべし、九春古丹の北一里許、此辺に旧ウシュンナイといへる夷村もありしとぞ。」とある。

32-5)「無拠(よんどころなく)」・・返読。やむを得ないこと。

32-7)「瓦土(かわらつち)」・・粘土。

32-8)「圃地(はたち)」・・畑。菜園。なお「田圃(たんぼ)」は、「たのも(田面)」あるいは「たおも(田面)」の音変化で、田と畑ではなく、水田をいい、「田圃」は当て字。

32-8)「五升芋(ごしょういも)」・・「ばれいしょ(馬鈴薯)」(農林水産省の品種登録の名称)の異名。「じゃがいも」とも。「五升芋」は方言で、他に類似の方言として、「ごおしょういも」、「ごおしゅういも」、「ごおしいも」、「ごしいも」、「ごしも」、「ごしょなりいも」があるとしているものがある。

      探検家最上徳内が天明6年(1786)に本道に持ち込んだ時は「五升芋(ごしょういも)」を使っており、また、『村垣淡路守公務日記之九』の安政4年4月5日、同6日の条に、(米国捕鯨船が箱館へ入港したことにより)、亜国士官ライス江、「五升芋二俵、梨子二箱遣し候」と、「五升芋」を贈ったことが記されている。「五升芋」の語源説に、「こうしゅういも(甲州芋)」の転とという説もある。

32-7)「下地(したじ)」・・土台。基礎。

『難船之始末』5月学習の注

(25-1)「帰島」・・異本は、「帰国」とある。

(25-2)「達而(たって)」・・「達」はあて字。無理を押してもしゃにむに物事をするさまをいう。強いて。是非とも。

(25-3)「さも」・・副詞「さ」に助詞「も」が付いてできたもの。副詞「さ(然)」を強めたいい方。そのようにも。その通りにも。影印の「左」は変体仮名で「さ」。

(25-6)「与」・・「与」は、漢文の助辞。漢文訓読で「Aト与レB(AとBと)」の「与」

*「富与レ貴、是人之所レ欲也」(『論語』)

 (フウとキとは、これひとのほっするところなり)

(26-3)「船寄(ふなよせ)」・・船を寄せること。

(26-4)「掛戻(かけもどり)」・・駆け戻り。駆けてもといた場所へ帰る。

(27-1)「勝手(かって)」・・物事を行なうときなどの都合や便利。

(27-3)「入湾(にゅうわん)」・・入り込んだ湾。

(27-3)「入湾」のルビ「モトノマヽ」・・一般には「本(ほん)のまま」という。書物などを書写・校合する際に、不明の部分を原本どおり写し取ったこと。または、そのしるし。略して「ママ」と傍記することがある。

 *「本(ほん)」・・漢語では、もともと、草木の根、または根に近い部分をいうが、日本では物事のもとになるもの、根本、基本の意から、規範となるもの、主たるもの、本来的なものなどをさしていう。もとになるもの。書写されるもとの書物など、ある状況から転じて現在の姿に変わったものに対して、そのもとのものをいう。

(27-3)(クウ)(シツ歟)」・・異本は「穴居の跡」とある。なお『ふなをさ日記』には、「空室」に「あきや」とルビがある。   

(27-3のルビ)「歟(か)」・・漢文で、疑問をあわらす助辞。

(27-4)「ワニナウ」・・ウルップ島東海岸の地名。日本名は小舟。文献に現れた「ワニナウ」を拾うと、

 ・明和5(1769)・・「子年にはウルツブ島東浦ワニナウといふ処へヲロシヤ人多く乗りたる大船渡来」(『休明光記』)

 ・安永9年(1780)・・「彼もの共の乗船ウルツプ島ワニナウといふ所へ繋置しに、海浪にて山手へ打上げ、おろす能ず。(『休明光記』)

  *「海浪」は、この年18日に始まった大地震で、6月18日には最大規模に達して津波が起こったことをいう。停泊中のロシア船はナタリア号。4名が溺死。(『新北海道史年表』)

 ・天明元年(1781)・・前年のオロシヤ人(船長シャパーリン)、「小船に乗組帰国」(『休明光記』)

 ・天明4年(1784)・・ナタリア号引き下げのため派遣されたシャパーリンら、ワニナウに渡航したが、乗組員の不和も発生し、ナタリア号は放置される。(『新北海道史年表』)

・寛政7(1795)オロシヤ人ケレトプセ、ソシリ、コンネニチ数十人が、ウルップ島ワニナウへ大船で渡来、34人は家居をつくり永住、ラッコその他漁業を営むとともに、厚岸の長夷イトコエらと交易を開始した。(『新北海道史』)

(27-6)「泙合(なぎあい)」・・海が平穏の間。「なぎ」は、「凪」「和ぎ」「𣷓」とも書く。なお、愛知県豊川市の地名に「泙野(なぎの)」がある。

 *<漢字の話>「泙」・・漢文では、「ホウ」と読み、「水の勢いのさかんなさま」。「なぎ」とは逆の意味。「水」+「平」で、「なぎ」と訓じるのは、典型的な国訓。

(27-6)「両三日(りょうさんにち)」・・2,3日。「両」は、数の二。ふたつ。一般には、「両手」「両端」など、「対になっている物の双方」の意味で使われることが多い。

(27-6)「相立(あいたち)」・・相経(た)ち。(日数が)経過し。「立」は、「経ち」の当て字。

(27-7)「ラソワ人」・・中部千島ラショワ島に住む人。ラショワ島は、千島アイヌが居住していた。文2(18059月から翌年2月にかけて、継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名がアイヌやロシア人ズヴェズドチョトフと共に滞在した。「ラソワ」は、日本名「羅処和」。  

(27-9)「和泙(なぎ)」・・当て字。「和」も、「泙」もなぎの意。「なぎ」は「和ぎ」とも書く。なお、「なぎ」の語源として、<水面がなぎ倒されたように平らになることで、「なぐ(薙)」の連用形の名詞化とする説もある。>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(28-1)「礠針(じしん)」・・磁石の針。影印は、「礠」。

(28-2)「相極(あいきめ)」・・相決め。「極」の訓は、普通には、「みわめる」だが、古文、古文書では、「きめる」と読み事が多い。なお、現代語にも、「月極(つきぎめ)」「取極(とりきめ)」などがある。

(28-6)「時分(じぶん)」・・大体のとき。ころ。時期。

(28-8)「礼儀(れいぎ)」・・敬礼・謹慎を表わす作法。「礼」はその大なるもの、「儀」は小なるものをいう。社会のきまりにあった、交際上の動作や作法。挨拶のしかた。また、それを行なうこと。

(29-1)「然ば(しかれば・しからば)」・・先行の事柄の当然の結果として、後続の事柄が起こることを示す。順態の確定条件。そうであるから。だから。

 *「しからば」は、①順態の仮定条件(そうであるならば。それならば)を示す場合が多いが、➁順態の確定条件(そうであるからには。だから)をも表わす。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「しからば」の語誌には、<已然形に「ば」のついた「しかれば」と用法上接近して、中世末には➁の用法が多くなる>とある。

(29-4)<くずし字>「異国」の「異」・・「霊」「畢」のくずしと似ている。「異」は脚が「大」で、「霊」は、「火」、「畢」は、「十」だが、区別がつかない場合もある。

(29-5)<くずし字>「器物」の「器」・・冠と脚で構成される字は縦長になる場合が多い。

(29-5)<くずし字>「器物等」の「等」・・「ホ」の形になる。

『難船之始末』4月学習の注 

(20-1)「アトイヤ」・・日本名安渡移矢(あといや)。クナシリ島の北端の岬。エトロフへの渡航地。

(20-1)<くずし字>「衣服」の「服」・・「月」偏の1画目が短く「ノ」になる場合がある。

(20-2)「蔭(かげ)」・・かばったり守ったりしてくれる人。また、その恩恵。めぐみ。おかげ。

(20-3)「去冬中・・六人同居越年」・・文化12年(18159月初旬、督乗丸の船頭重吉、水主半兵衛、水主音吉の三人は、薩摩の永寿丸に乗った漂流民、船頭喜三左衛門水主の佐助、角次の三人と出会う。六人は、カムチャッカのペテロハバロフスクで、一緒に生活し、越冬した。

(20-6)「ハアウヱル」・・セント・パヴェル号。

(20-9)「便船(びんせん)」・・都合よく自分を乗せて出る船。

(20-921-1)「男女六人」・・『ふなをさ日記』には、「便船のもの男女都合六十八人乗」とある。

(21-1)「風順(ふうじゅん)」・・風向きのぐあい。

(21-2)「漸(ようやく・ようよう)」・・「ようやく」は、漢文訓読特有語で、仮名文学、和文脈では「ようよう」。

(21-6)<カタカナの話>「ヲホシツカ」の「ヲ」・・

①「オ」と「ヲ」の発音は鎌倉時代に区別されなくなり、五十音図上で「オ」と「ヲ」とが誤って転換したものが江戸時代まで普通に用いられた。

  「ヲ」の字母は、「乎」。「乎」の最初の第1画、2画、3画を取ったもの。従って、「ヲ」の書き方は、「フ」+「一」の2画ではなく、「ニ」+「ノ」と3画で書くのが正しい。

(21-6)「取用(しょよう)」・・現在は、「所用」を用いる。用件。用事。用向き。

(21-7)「大キニ」・・大きに。副詞。もと形容動詞「おおき(なり)」の連用形。連体詞「おおきな」が成立した室町時代以後の用例を副詞と認める)。はなはだ。たいそう。大いに。

(21-7)「愁傷(しゅうしょう)」・・人に死なれて嘆き悲しむこと。また、その嘆きや悲しみ。

(21-9)「真切(まぎり)」・・帆船の逆風時での帆走法で、船は風を斜め前からうけて開き帆とし、上手廻しまたは下手廻しをもって右開き・左開きを交互に行ないながら、ジグザグのコースをとって風上に向かって帆走すること。間切り乗り。まぎれ走り。まぎれ。

(22-2)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

(23-2)「可参段、夫より船を後より、薩摩三人江申聞候由、夫より乗戻候節」・・異本によると、ここは、写本の写し間違いで、異本は、「可参段、薩摩人々江申聞、夫より船を後へ乗戻候節」とある。

(23-7)<漢字の話>「相成候處」の「處」・・昭和2111月の当用漢字制定当初に、「処」が「處」の新字体として選ばれた。それ以前は、「処」は「處」の俗字とみなされていた。

(23-7)「翌日」の「翌」・・古文書では、脚のある字は縦長で書かれ、2字~3字に見えることがある。

(24-2)<くずし字>「四五日」の「日」・・縦の画は、「点」になる場合がある。

 *囗(国構え)の字の縦の画も「点」になる場合がある。

(24-4)「手間取(てまどり)」・・時間がかかる。「手間」は、手を使う仕事などで、その手を動かす動作のとぎれめ。また、その次の動作までの合い間。

(24-6)「其元(そこもと)」・・其許。対称。近世、同等またはやや目下の相手に対して用いる。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「其許」「其元」はともに「そこもと」「そのもと」両様に読め、江戸後半期には「そこもと」と並行して用いられたが、「そこもと」の方が標準的な言い方であったらしい。>とある。

(24-7)<カタカナの話>「ヱトロフ」の「ヱ」・・「ヱ」の字母は「恵」。「ヱトロフ」は、漢字では、「恵登呂府」を当てた。寛政10年(1798)、近藤重蔵は最上徳内と共にクナシリ島、エトロフ島を調査し、エトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てている。

 なお、「ヱビスビール」の「ヱビス」は、「恵比寿」なので、「ヱ」を使っている。

 また、無線電話で通信文の聞き間違いを防ぐために制定された規則である総務省令無線局運用規則別表第5号では、

「ヱ」は「かぎのあるヱ」、(「エ」は「英語のエ」

「ヲ」は「尾張のヲ」、(「オ」は「大阪のオ」)

「ヰ」は、「ゐどのヰ」(「イ」は「いろはのイ」)

と呼ぶことが定められている。

(24-7)「存寄(ぞんじより)」・・「存じ寄る」の連用形。思いつく、ある考えが浮かぶの意の謙譲語。

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