(29-1)「一通(ひととおり)」・・ひとわたり。あらまし。
(29-1)「承糺(うけたまわりただし)」・・よく話しを訊いて問い糾し。
(29-2)「小屋より」・・「より」の左に「へ」があるが、「ヽ」で、消してある。これを「見せ消ち」という。「小屋へ」と書いて、後「小屋より」と訂正してある。
*松前藩士三輪らが、アニワ湾西岸のリヤトマリへ到着したところ、プッセの命を受け、ムラヴィヨフ哨所より派遣されたリョースキンと、ヱレキセイフとアレクセーエフが滞在していたことをいう。
「小屋」は、クシュンコタンにロシアが構築した・ムラヴィヨフ哨所。
(29-2)「士卒之内 (空白部分) と申者」・・「空白部分」は、へレケンとヱレキセイフの2人か。『サハリン島占領日記』(平凡社刊 東洋文庫 ニコライ・ブッセ著、秋月俊幸訳)によれば、「ヘレケン」はコサックの「ベリョースキン」、「ヱレキセイフ」は水兵の「アレクセーエフ」とある。
(29-2)「類船(るいせん)」・・船が行動をともにすること。また、その船。江戸時代では同時に出港する船や同じ水域を航行している船をもいう。友船。
(29-3)「首長(しゅちょう)」・・ムラヴィヨフ哨所の隊長・プッセのこと。
(29-6)「申諭(もうしさとし)」・・連用形。言い聞かせて納得させること。教えてのみこませること。
(29-7)「小屋場(こやば)」・・ムラヴィヨフ哨所。
(29-9)「偽言(ぎげん)」・・うそ。虚言。
(29-10)「無跡形(あとかたなき)」・・痕跡をとどめないこと。根拠がないこと。
(29-10)「混雑(こんざつ)」・・ごたごたすること。もめること。いざこざ。
(30-1)「事を好む」・・何か事件が起こることを望む。事を荒立てたがる。求めて争おうとする。事を構う。
*「事」・・事件、出来事、変事。特別な用事。「ことあり」「こと出ず」「ことにのぞむ」「ことに遇う」などの形のときは、事件、変事などの意を表わし、「こととする」「ことと思う」などでは、重要な事態の意で用いられ、指定の助詞・助動詞を伴って述語になるときは、大変だの意となる。
(30-1)「無思慮(むしりょ・ぶしりょ)」・・思慮の足りないこと。深い考えのないこと。また、そのさま。「無」を「ブ」と読むのは漢音。「ム」は呉音。
(30-3)「不少(すくなからざる)」・・返読。少なくないこと。
(30-3)<くずし字>「御座候」・・別紙に連綿体。
(30-4)<くずし字>「懸念」の「懸」・・「を」や「近」と似ている。
(30-5)「聊以(いささかもって)」・・「聊」は、「少しも。ちっとも。ほんのちょっと。」の意で、下に打消しの言葉を伴って使われる。「以(もって)」は、動詞「もつ(持つ)」の音便形に接続助詞「て」のついたもので、動詞本来の意味が次第に薄れて、助詞のように用いられるようになった。したがって「聊以」は、「少しも、(~ない。)」という形でもちいられる。
(30-5)「闘論(とうろん)」・・言い争うこと。論議を闘わすこと。
(30-6.7)「葡萄□等」・・「葡萄」の次の字は、不詳。因みに、前掲『サハリン島占領日記』では、「棒砂糖と数フントの乾スモモと乾ブドウ」とある。
(30-8)「演(えんじ)」・・連用形。言葉で述べること。詳しく述べること。
(30-8)「承受(しょうじゅ・うけたまわりうけ)」・・お受けする。
(30-9)「預置(あずかりおき)」・・連用形。保管、管理しておくこと。
(30-9)「応対(おうたい)」・・ある問題について話し合うこと。談判。
(31-2)<変体仮名>「通弁いたし」の「た(堂)」・・「堂」は変体仮名。音読みでは「ドウ」であるが、「と」とするのは、「トウ」の原音「ダウ」による。また、歴史的仮名遣いで、「堂」を「ダウ」と書いた。
(31-3)「ロシカイ」・・ロシア。ロシアは、九世紀にロシア平原の西部に興り、のちヨーロッパの東部からシベリアに及ぶ地域を支配したスラブ民族を中心にした巨大国。九世紀後半キエフ公国の成立後、一二世紀には封建的諸公国の分立時代となり、一三世紀にモンゴルの征服を受け一時期キプチャク‐カン国の属国となった。その後一四世紀にはロシア帝国のもととなるモスクワ大公国が生まれ、中央集権国家として成長。一七世紀以降はロマノフ家の支配が始まりピョートル一世の時に絶対主義体制を完成、ロシア帝国として発展。しかし、1917年の二月革命によりロマノフ朝は崩壊。続く十月革命によりソビエト社会主義共和国連邦が成立。1991年、バルト三国を除く旧ソ連邦構成国(一二か国)とともに独立国家共同体を結成。オロシャ。
(31-4)「ニカラ地名」・・ニコラエフスク・ナ・アムール。「ニコラエフスク」とも。日本名「尼港」。『世界地名大事典』(小林房太郎著 日本図書センター)には、「我が国人は、単に尼港と呼び、シベリアの東部即ち極東地方に位する都邑で、1850年、ネウェルスキー将軍が之を占領し、露帝ニコライ一世の名によりし、ニコライエフスクと命名した。其位置が黒竜江口に近く(上流80キロ)、江の左岸に位し、1855年軍港となり一時は盛大を極めたが、同軍港を浦塩斯徳(ウラジオスットク)に移せしより次第に衰えた。」とある。
*「尼港事件(にこうじけん)」・・シベリア出兵中、黒龍江口のニコラエフスクを占領していた日本軍が、1920年(大正9)2月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。パルチザンに包囲されて全員殺害された事件。日本は事件解決まで北樺太を保障占領したが、賠償要求も成らず撤退した。
(31-4)「都府(とふ)」・・みやこ。ロシアの帝都「サンクトペテルブルク」のこと。日本語では「ペテルブルク」と表記されることもある。1703年、ピョートル一世がペトロパヴロフスク要塞を建造したことに始まり、「ザンクトペテルブルク」と名付けられ、1712年から1914年の十月革命に至る迄、ロシア帝国の首都であった。
(31-4)「ニカライ長官」・・ロシアの皇帝ニコライ1世(在位1825~55)。パーベル1世の三男として生まれる。長兄アレクサンドル1世の急死と、次兄コンスタンティン大公の皇位継承権放棄によって、1825年即位した。おりからデカブリストが首都ペテルブルグの元老院広場で反乱を起こしたが、軍隊を使ってこれを鎮圧し、主謀者を処刑した。まじめな性格で規律を愛し、生涯を通じて革命思想、自由思想を弾圧した。26年、悪名高い秘密警察「皇帝官房第三課」を創設し、プーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンら多くの文学者や思想家を流刑にした。30~31年のポーランドの反乱、48~49年のハンガリーの革命を厳しく抑圧し、「ヨーロッパの憲兵」として恐れられた。中央アジアに出兵して、領土を拡張したが、クリミア戦争を引き起こし、敗色濃いなかで死去した。
(31-5)「イニブスコイ」・・東シベリア総督ムラヴィヨフから指令を受けて、嘉永6年9月1日、クシュンコタン占拠を指揮したロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。
(31-6)「去秋退帆」・・ネヴェルスコイは、荷揚げを完了した嘉永6年(1853)9月6日に、ニコライ号に乗って去り、ムラビヨフ哨所には、陸軍少佐ブッセ、海軍中尉ルダノフスキーの外69人の兵士たちが残留した。
ネヴェルスコイは、沿海州インペラートル湾のコンスタンチノフスク哨所に寄港して、ポシニャークをその指揮官として残し、デ・カストリ湾のハツトマリのアレクサンドロフスク哨所に帰着した。
(31-6)「ハツトマリ」・・満州(現ロシア沿海州地方)の海岸の集落。『幕外文書7-補遺22』に、「満州之続き、~、爰は大陸の内」、「魯西亜人よりハツトマリと申立の由」、「通弁(清水)清三郎らは、アツサムと計り心得候哉」とあり、また、享和元年(1801)に幕吏中村小市郎が樺太調査をした時の麁絵図に「アツシヤム」の名がみえる。これらのことから、「ハツトマリ」は、嘉永6年(1853)初頭に海軍大佐ネヴェリスコイが部下の海軍大尉ボシニャークに命じてアムール川下流地方の「デ・カストリ湾」に設けた「アレキサントロフ哨所」の場所と思われる。
(31-7)「マンゴー川」・・アムール川。ロシアと中国の国境付近を流れる大河。モンゴル北部のオノン川とシルカ川を源流とし、東流してタタール海峡に注ぐ。全長四三五〇キロメートル。黒龍江。
(31-7)「営柵(えいさく)」・・とりでを建設すること。ネヴェルスコイは、アムール河河口上流にニコラエクス哨所を設置した。
(31-7)「戍兵(じゅへい)」・・辺境の守備の兵。「戍」は、「人」+「戈(ほこ)」で、人がほこを持って守るの意味。特に辺境を守るの意味を表す。
(31-7)「籠置(ろうち・こめおき)」・・留め置くこと。
(32-1)「営砦(えいさい)」・・とりで。
(32-2)「書役(かきやく)」・・文書の起草、記録などの事に当たる役。書記。なお、江戸時代、町年寄、町名主の補助をするための町(ちょう)役人のことで、江戸では、「書役」ともいい、自身番に出勤して、文書作成などの事務にあたった。
(32-4)「ウンラ」・・樺太南海岸。日本名「雲羅」。吉田東伍著『大日本地名辞書』では、「露人ペルワヤパーヂ(一之澤)の地なるべし、九春古丹の北一里許、此辺に旧ウシュンナイといへる夷村もありしとぞ。」とある。
(32-5)「無拠(よんどころなく)」・・返読。やむを得ないこと。
(32-7)「瓦土(かわらつち)」・・粘土。
(32-8)「圃地(はたち)」・・畑。菜園。なお「田圃(たんぼ)」は、「たのも(田面)」あるいは「たおも(田面)」の音変化で、田と畑ではなく、水田をいい、「田圃」は当て字。
(32-8)「五升芋(ごしょういも)」・・「ばれいしょ(馬鈴薯)」(農林水産省の品種登録の名称)の異名。「じゃがいも」とも。「五升芋」は方言で、他に類似の方言として、「ごおしょういも」、「ごおしゅういも」、「ごおしいも」、「ごしいも」、「ごしも」、「ごしょなりいも」があるとしているものがある。
探検家最上徳内が天明6年(1786)に本道に持ち込んだ時は「五升芋(ごしょういも)」を使っており、また、『村垣淡路守公務日記之九』の安政4年4月5日、同6日の条に、(米国捕鯨船が箱館へ入港したことにより)、亜国士官ライス江、「五升芋二俵、梨子二箱遣し候」と、「五升芋」を贈ったことが記されている。「五升芋」の語源説に、「こうしゅういも(甲州芋)」の転とという説もある。
(32-7)「下地(したじ)」・・土台。基礎。