森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2016年05月

町吟味役中日記 6月注記

(1-1)「天保(てんぽう)三壬辰年」・・1832年。

 *<漢字の話>「天保(てんぽう)」の「保(ほう・ぽう)」・・「保」は、呉音が「ほ」、漢音が「ほう」。日本の元号の「保」は、漢音の「ほう(ぽう)」と読む。

「保元(ほうげん)の乱」、「享保(きょうほう)」「寛保(かんぽう)」「神田神保町(ジンボウチョウ)など。

*古文書に見る年月日の表記・・①元号・年数字・十干・十二支・年②元号・年数字・十干・十二支(年を省略)③元号・年数字・十二支(十干だけを残すことはない)など様々な形式がある。

(1-23)「小四月・小五月」・・太陰太陽暦(俗に陰暦・旧暦と呼ばれる)では、月のみちかけの周期である一朔望月をもとに暦を組立てる。一朔望月は、平均で29.53日であるから、暦の一ヶ月の日数は必ず30日か29日のどちらかになる。30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」という。平朔(各月の朔をきめるのに、朔望月の平均の長さを順次加え朔の日をきめたもの)を用いて暦を作れば、大小の配列は大小大小大小と順序よく大小が交互にあらわれ、16ヶ月くらいに大大となるが、月の運動は大変複雑であるから、定朔(新月の日=朔=が一日となるように、小の月と大の月とを適当に組み合わせていく暦法。)を採用すると大小の順序、配列は多様になる。本テキストの天保3年の場合、大小大小小小大小大小大大小であった。

(2-1)「当番」・・なお、町奉行と町吟味役の勤務は、ともに一人ずつが毎日、一と六の日、すなわち、一・六・十一・十六・二十一・二十六日にそれぞれ交代する五日交代勤務であった。ただし非番でも原則として毎日出勤し、必要に応じ当番にあたる者を助けていた。また、奉行と吟味役のうち一人が毎夜泊り番として宿直に当っていた。

(2-1)「新井田周治」・・町奉行。町奉行は2名いた。

(2-2)「御用番(ごようばん)」・・月番。家老職も月ごと当番で業務にあたっか。

(2-2)「松前監物(まつまえけんもつ)」・・当時の松前藩家老職。

(2-3)「鈴木紀三郎」・・町奉行。

(2-3)「泊番(とまりばん)」・・町奉行2名と町吟味役2名の4人が交代で宿直にあたった。

(2-4)「当賀(とうが)」・・祝賀に当る日。記念日。お祝い。

(2-4)「表御礼(おもておれい)」・・表御殿での領主への拝謁。松前藩では、毎月1日、15に行われた。

(2-4)「内御礼」・・御内礼か。御内礼とは家老以下役職によって直接藩主に謁見することを許されること。

(2-5)「被仰出達(おおせいだされたっし)」・・指令書、指示書、命令書。

(2-7)「新組御徒士席(しんぐみおかちぜき)」・・松前藩の士分の職制のひとつ。足軽から昇進した。町奉行では、小使の職務。

(3-2)「御用状(ごようじょう)」・・御用の書状。主君あるいは官府の公的書状。

(3-5)「内澗町(うちまちょう)」・・現函館市末広町。箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町・大町・当町・地蔵町と続いて北西―南東に走る、箱館町の表通りにあたる通りに沿って町屋が形成される。近世に北東方が海に面し、地先海岸は箱館湊の良好な係船地の一つであったが、近世末期から明治初年にかけて海岸は埋立てられ、東浜ひがしはま町などが成立した。弁天町・大町などとともに箱館で最も早くに開かれた町の一つ。

(3-3)「引合(ひきあい)」・・訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など

(3-5)「百姓(ひゃくしょう・ひゃくせい)」・・江戸時代の町人に対して、百姓身分の人々。検地帳に登録された田畑をもち年貢を納める。大部分は農民。年貢を納める漁民・職人・商人なども百姓と称された。

(3-7)「旅籠(はたご)」・・旅籠屋。宿駅で武士や一般庶民の宿泊する食事付きの旅館。近世においては、普通に旅人を泊める平旅籠屋と、黙許の売笑婦を置く飯盛旅籠屋とがあった。

旅籠は元来,馬料入れの丈の低い竹籠をさしたが,《今昔物語集》等によれば旅行中に食糧を入れて持参する旅具であった。中世には宿屋が出現して馬の飼料を用意し,その馬槽を宿屋の看板としたことから〈馬駄餉〉,後世転じて旅籠屋というようになった。このようにして旅籠には,馬の食を盛る籠,旅行の食糧雑品を入れる竹の容器,宿屋,宿屋の食料,宿料といった各様の意味と変遷がある。宿屋としての旅籠は江戸時代初期に成立した。

 なお、「旅籠」は、「旗籠」を「旅籠」に書き誤ったところからという説がある。

(4-2)「町方(まちかた)」・・松前藩では、町奉行配下の士分以下の同心。幕藩制国家は従来の農民混住の都市から農民を除外した行政区画を設定して町方とし、農村の村方、漁村の浦方と区別した。町方は町奉行支配とした。松前藩では、町奉行配下に、町方掛、在方掛、下代があり、町方掛には、町方頭取の下に町方がおかれた。

(4-2)「八ツ間縄右衛門」・・嘉永6(1853)の松前藩の「御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』所収)に「足軽頭取」として「八間田網右衛門」の名がある。

(4-3)「下代(げだい・しただい)」・・一般には下級の役人。松前藩では、町奉行配下に、町下代が置かれた。なお、鈴江英一氏の論考「松前城下・町年寄の職掌と機能―松前藩における城下町支配解明のための一考察―」(『松前藩と松前11号』1977)には、寛政10(1798)の事例として町年寄(2名)のうち1名は町下代兼勤としている。「下代 伝兵衛」とあるから、当時の町年寄の一人、ここでいう「下代」は、町年寄の村山伝兵衛さすのだろうか。

 また、前記鈴江氏の論文で、天明3(1783)の平秩東作の『東遊記』を引いて「江差の地役人として下タ代・・」の記事を紹介している。時代は違うが、「下代」は「しただい」と読んだことも考えられる。

(4-4)「伝兵衛」・・村山伝兵衛か。伝兵衛は、元禄年間に能登国羽咋郡安部屋村から蝦夷地に進出した商人。「伝兵衛」は初代以降の当主によってたびたび襲名されている。本書当時の伝兵衛は6代目。

(4-6)<くずし字>「もの共」の「共」・・脚部の「ハ」は、「ん」のようになる場合がある。

(4-6)「欣求院(ごんぐいん)」・・松前にあった寺院。正保2年(1645)から光善寺の支院に列していた。明治元年(1868)に光善寺に合併。欣求院は、山号が「義経山」で、義経が津軽海峡を渡った際に海上の安全を弥陀如来に祈り、無事に渡ることが出来たので御礼として、仏像千体を作り、祭ったという、いわゆる「義経北行伝説」も伝わる。ちなみに、「欣求」は、仏語。よろこんで願い求めること。心から求めること。

(4-8)「殿様(とのさま)」・・松前藩12代藩主松前崇広(たかひろ)。

 *「殿様」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「殿」の表わす敬意の程度が低下し、それを補うために、「様」を添えてできたもので、成立事情は「殿御」と同様。室町期に「鹿苑院殿様」のように、接尾語「殿」に「様」を添えた例があり、この接尾語「殿様」が独立して、名詞「殿様」が生まれた。>とある。

 *「殿」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、<(1)もともとは貴人の邸宅の意だが、のちには邸宅とその住人の両方を表わすようになる。さらに、貴人の名を直接表現することを避ける風習により、住人だけを表わすようになったが、「殿」で称される人物が増加するとともに「殿」の表わす敬意の程度は低下した。

   (2)社会的な高位者に対する呼称から、相対的上位者、すなわち表現者よりも高い地位の者に対する呼称として用いられるようになり、たとえば、従者が主人に、妻が夫に、女が男に対して用いることになる。>とある。

   **「殿(しんがり)」・・「臀(デン)」と通じ、しり、うしろ、しんがり、最後部。なお、軍隊の先鋒、さきぞなえ・さきばらいは「啓」。

 *「様」・・室町時代から用いられ、「殿(どの)」より丁重な表現であった。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「殿」の表わす敬意が低下し、それに代わって「様」が使われるようになった。室町期においては「様」が最も高い敬意を表わし、「公」に続く三番目に「殿」が位置していた。江戸期には「様」の使用が増加し、「様」から転じた「さん」も江戸後期には多用されるようになる。なお「殿」から転じた「どん」は、奉公人に対してだけ用いる呼称という制約もあり、勢力が拡大しないまま衰退したが、方言として敬意を示すのに使う地域もある。>とある。

   **「さん」・・「さま(様)」の変化した語。「さま」よりくだけたいい方。

   ***ビジメスマナーとしての「殿」、「様」・・公文書の宛先は「殿」を用いるのが一般的だが、尊大な印象があるので、「様」を用いる自治体も増加しており、使い分けは揺れている。

(4-8)「被為入(いらせられ)」・・おはいりになり。「入(い)る」の未然形「入(い)ら」+尊敬の助動詞「為(す)」の未然形「為(せ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の連用形「被(られ)」

(5-12)「南條長六郎」・・町吟味役。

(5-3)「砌(みぎり)」・・「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。また、境界。さらに転じて、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

(5-4)「御直(おじき)」・・直接、主君の側近に親しく仕えている家臣。松前藩では、奥用人を指すか。なお、永田富智著「松前藩の職制についてー変遷とその特色」(『新しい道史 第11号』 所収 北海道総務部文書課 1965)に、「奥用人」について「藩主の側近にあって、藩主の行動日程の設定、家老、用人との連絡事項の伝達、大奥弘敷との連絡などが、主たる業務で1~2人が任命された。その系列には、側頭=御近習頭=御納戸番=祐筆=御奥弘敷番=御近習=御部屋付=北ノ丸御隠居番=刀番=医師=御馬取=草履取などがあった」と述べている。

(5-6)「口書(くちがき)」・・口書は広義では被糺問者の供述を録取したものをいうが、狭義では吟味筋における「吟味詰りの口書」を意味した。武士およびこれに準ずる身分を有す町人の分は「口書」といった。吟味筋の手続では、被疑者および関係者を訊問し、ときには拷問を用いたが、これによって犯罪の事実が認定されると、吟味詰りすなわち吟味終結る者(寺社侍以上)については「口上書(こうじょうがき)」と呼び、足軽以下、百姓・の口書が作られる。この訊問および口書の作成は奉行の下役によって行われる。

(5-6)「取調子(ちょうしと)ル」・・「調子」は、語調。「調子を取る」は、物事のぐあいをちょうどよい状態に整えること。「てにをは」を合わせる、漢詩などで平仄(へいそく)・韻を踏むこともいう。

(5-8)「光善寺(こうぜんじ)」・・松前郡松前町字松城にある浄土宗の寺院。近世の松前城下寺町に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると法幢寺の南、龍雲院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)(福山秘府)。松前藩主の菩提所の一つで、藩主の奥方の墓がある。なお松前藩主の墓所のある菩提寺は、法幢寺(ほうとうじ)。

(6-4)「新井田寄右衛門」・・不詳。

(6-4)「木村弥三郎」・・「御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』

所収)に、「先手組」「御武器方」に名がみえる。

(6-5)「ちりあくた」・・ちりとあくた。「ちり」は「チリ(散)」から、「あくた」は、<アは接頭語。クタはクタル(腐)の語根>など、語源には諸説ある。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

<乾燥した粉末状のものを指す「ちり」に対し、「あくた」は水気をもった廃物をいう。

「ほこり」と「ごみ」にもこれと類似の対応が認められるが、水気をもつものの方が廃物

の意味全体の代表となる点で、「あくた」は「ごみ」と共通している。>とある。

(6-7)「則(すぐ)」・・「則」は「即」。「即」は「則」と通じ、すなわち、あるいは、もしなどの副詞に用いるが、ここでは、その逆をいうか。

(7-1)「御会席」・・会合する席。

(7-12)「引取(ひきとる)」・・その場から退き去る。

(7-4)「正九ツ時」・・正午。

(7-5)「紙面(しめん)」・・書面。

(7-45)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。(5-4)「御直(おじき)」の項参照。

(7-8)「押込(おしこみ)」・・監禁する。とじこめる。

(7-8)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免すること。

町吟味役中日記 注記1【はじめに】

1.『町吟味役中日記』の書誌

 ①本書は、北海道大学附属図書館(以下北大図書館)所蔵(請求番号・奥平家130)である。同図書館が所蔵する奥平家資料は全部で161点にのぼる。本書はそのなかの1点である。

 ②本書は、松前藩町吟味役を勤めた奥平貞守(勝馬)の天保3(1832)4月、5月の勤務日記で、93丁ある。

 ③本書に押されている受入印によると、「JUL.20.‘33」とあるから、昭和8(1933)220日に現北海道大学の前身である北海道帝国大学附属図書館が所蔵したことになる。

 ④奥平家資料の中に、奥平貞守の子孫である奥平義行氏が述べた『奥平家文書の著者に就て』では、

  ・昭和4(1929)2月、義行氏の父・敬太郎死去

  ・同年6月、義行氏は樺太庁技師として出向、亡母に託した家伝の古写本全部が散逸。

  ・昭和417月、古本屋で「北海道総務部企画室編 北海道史料所在目録第5集」記載の「奥平家文書の著者について」を発見。

  ・義行氏は前掲書のなかで、「当方から寄附申出又ハ売却など考えられず、何者かの処置によっての結果であるが、よくも本道学究の総元締である北大に蔵せられてゐる事はその処を得たものとして喜びに堪えない」と述べている。

 ⑤以上から、本書は、昭和4年から同8年の間に、北大図書館の所蔵になったものと考えられる。

2.奥平貞守(勝馬)の来歴

 『奥平家文書の著者に就て』に詳しいが、略歴を述べる。

 ・天明7(1787)117日、桑名藩士奥平貞親の長男として生まれる。

 ・文政7(1824)811日、松前藩に召出され桑名出発。

 ・同年927日、手先組被仰付。

 ・文政8(1825)214日、側役被仰付。

 ・文政10(1827)410日、中小姓中の間被仰付。

 ・文政11(1828)523日、目付役被仰付。

 ・文政12(1828)215日、ソウヤ勤番物頭役被仰付。

 ・天保元年(1830)88日、町吟味役被仰付。本書は、徳馬のこの時期の日記。

 ・天保6(1835)215日、エトロフ勤番物頭役被仰付。

 ・天保9(1838)511日、町吟味役被仰付。

 ・天保14(1843)512日、見廻取締方掛被仰付。

 ・弘化元年(1844)215日、ソウヤ勤番物頭役被仰付。

 ・嘉永元年(1848)48日、御そば物頭役被仰付。

 ・嘉永3(1850)7月まで勤務、病気のためお役御免。

 ・同年112日死去。法源寺に埋葬。

3.近世の蝦夷地と松前藩

①松前藩の成立・松前藩時代・・慶長年間より寛政11(1799)までの約200年間

・慶長9(1604)、松前慶広(よしひろ)、家康より黒印状を頂戴する。以後、将軍代替のつど、蝦夷地の領知権、徴役権、交易の独占権を認める黒印制書を受ける。

②前期幕府直轄時代(松前藩は「梁川時代」)・・寛政11年より文政4年(182112

までの1510ヶ月の間。

・寛政4年(1792)ロシア使節ラックスマンの来航をはじめ、外国船の到来により、幕府は、蝦夷地対策の具体的行動を迫られた。

・寛政11(1799)116日、東蝦夷地ウラカワ以東知床及び東奥島々までの仮上知。

・同年812日、シリウチ川以東の追上知。

 ・同年928日、幕府、代地5000石の地として武蔵国埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。

 ・享和2(1802)、幕府、蝦夷地奉行を新設。同年510日、箱館奉行と改称。

 ・同年724日、東蝦夷地の永上知。

 ・文化4(1807)322日、蝦夷地一円の上知。727日、松前藩に新領地が示され、松前藩は、陸奥梁川へ移封。

 ・同年1024日、幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

 ③松前家の復領時代・・文政4年より安政2(1855)2月までの333ヶ月の間

 ・文政4(1821)127日、幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

  表面の理由は、幕府の蝦夷地直轄の結果、取締、アイヌ人撫育、産物の取捌きなどが行き届くようになり旧家格別の儀をもって、旧来の通り、松前氏に蝦夷地を領有させるとした。裏面には、水野忠成(ただあきら)が、松前氏の運動をききいれたことがある。水野忠成がそうしたのは、当時の北辺防備意識の衰退があった。

 ④後期幕府直轄時代(松前藩は道南地域部分支配)・・安政22月より明治元年(1868)4月箱館裁判所設置に至る133ヶ月の間。

  嘉永6(1853)7月、ロシア使節プチャーチン来朝、境界の決定と和親通商を請求。同8月、ロシア兵、クシュンコタン占拠、安政元年(1854)3月、日米和親条約締結、箱館開港などを背景に、幕府は蝦夷地の再直轄に乗り出す。

 ・安政元年(1854)626日、幕府、箱館および同所より6里四方を上知。

 ・同年630日、幕府、箱館奉行を置く。

 ・安政2(1854)222日、幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。

○松前藩の福山城下および東部木古内村以西、西部乙部村以南は、松前藩として残ったほか、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。

 ⑤松前地の一部返還

・元治元年(1864)1119日、乙部~熊石の8ケ村が返還される。

幕末の蝦夷地は、東部・木古内村以西、西部・関内村以南が松前家所領、それ以外は、幕府直轄領と分割支配体制となった。

⑥附:明治維新と松前藩

<版籍奉還まで>

・明治元年(1868)412日、新政府、箱館裁判所設置。

・同年91日、松前藩、館(たて)村(現桧山郡厚沢部町城丘)に築城開始。

・同年1025日、完成。

・同年113日、松前藩13代徳広、館城に入城。

・同年1111日、徳広、榎本軍の襲撃で、館城を出る。

・同年1119日、徳弘、熊石の関内から津軽へ逃れる。

・同年1129日、徳広、弘前で死去。

・明治2(1869)19日、修広(ながひろ)14代襲封(しゅうほう)。

・同年49日、新政府軍と松前藩兵(修広)、乙部上陸。

・同年417日、修広、福山奪還。

・同年624日、修広、版籍奉還。松前藩は、館藩と称し、修広、館藩知事に任命される。所領は、渡島国福島、津軽、爾志、檜山の4郡。(明治14.7.8福島郡と津軽郡は、合併し松前郡と改称)

<開拓使移管まで>

・明治4(1871)714日、廃藩置県で、館藩は、「館県」となる。

・同年99日、館県、「弘前県」に併合(9.23・・弘前県は、「青森県」と改称)

 ・明治5(1872)920日、「青森」県の渡島国4郡(旧松前藩領)を開拓使に移管。

4.松前藩の職制と寺社町奉行・町吟味役

 ①松前藩の職制

松前藩の職制は、復領後も、移封以前と大きく変わることはなかった。

  また、本州諸藩と著しく異なった点を挙げると、「他藩にあっては、町方は町奉行、寺社方は寺社奉行(宗門奉行などの名称もある)というように、町方と寺社方を司る役職が分かれている例が多かった」が、松前藩にあっては、両者を寺社町奉行が統一して支配した。」(『松前町史通説編第一巻上』)

 ②寺社町奉行の成立と職掌

 以下、『松前町史通説編第一巻上』を参考に述べる。

 寺社町奉行の設置年代は定かでないが、『新羅之記録』の記事から、慶長17(1613)以前にはすでにその設置をみていた。その職掌は、単に町方と寺社方にかかわるものだけでなく、和人地と蝦夷地の支配にかかわる広範囲なものであった。また、出入船舶・人物などいわば沖の口番所にかかわる権限さえ所持していた。

 寺社町奉行がこうした権限を所有していたのは、松前藩にとっては、蝦夷地と和人地の統一的支配と本州諸港との商品流通の統制が、藩制成立当初から藩の存立基盤そのものにかかわる重大課題となり、寺社町奉行は、まさにこうした課題に対処するための諸職の要として位置づけられていた。寺社町奉行は、用人が兼任する場合が多かったが、こうした現象も、寺社町奉行の位置づけと深くかかわるものであった。

 なお、寺社町奉行支配下の役所は、「町奉行所」または「町役所」と称し、寛文7(1667)までは蔵町にあったが、その後川原町の現松前町役場所在地に移された。

 ③町役人の組織

 城下の支配体制は、町奉行を頂点とし、部下に町吟味役を配した。町奉行、町吟味役は各2名ずつ任命された。奉行所の出納にあたる町下代が置かれた。町役人としては、町年寄の下に、名主・町代がおり、また、五人組が組織されて、そこには組合頭(組頭)を置いた。町奉行の職務は、城下と城下付在々の民政全般・裁判・ 警察などの治安、諸税収納・産業・駅馬往来・人別・地所割渡など広範囲なものであった。

④町吟味役勤務日記の意義

町吟味役の勤務日記については、奥平勝馬の日記として、天保3(1832)4月、5月、9月分の記録として『町吟味役中日記』、天保7(1836)821日から1225日にかけての『町吟味役御勤中日』、翌天保8(1837)正月」元日から1225日にかけての『当番御用記』があり、また、天保5(1834)以降町吟味役を勤めた工藤茂五郎(後に長栄)の『松前藩町奉行所吟味役 工藤長栄日記』がある。

『松前町史』はこれらの史料の意義について、「必ずしも連日の記録ではないことと、欠年があること等の制約はありつつも、いわゆる天保の大飢饉を間にはさむ時期の記録でもあり、また松前藩の治安・警察・裁判担当者の直接の記録であることから、当時の犯罪・裁判・刑罰の実態を知る上で、他に代えがたい史料である」と記している。

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