33
-3)「役々之者」・・目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正らの一行。

33-5)「国法」・・国のおきて。

33-6)「陣羽織」・・陣中で鎧・具足の上に着用された上着。

33-7)「着服(ちゃくぶく、ちゃくふく)」・・衣服を着ること。

33-8~10)「文化度・・乱妨ニ及候儀有之」・・文化3年(1806)9月~文化4年(1805)5月にかけて、露米商会の「ユナイ」号(艦長スヴォストフ)などによって引き起こされたクシュンコタン、エトロフ襲撃事件の記述。なお、本書は、「ヱトロフ、クナシリ等ニ於て魯西亜船之人数上陸・・」とあるが、クナシリには上陸していない。

33-9)「剰(あまっさへ、あまつさえ)・・そればかりか。そのうえに。「あまりさへ」の転。近世では、「あまっさへ」と「つ」が促音。現代では「あまつさえ」。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に<「剰」は唐の時代に行なわれた助字で、わが国では「あまりさへ」と訓読された。中世まで一般に「あまさへ」と表記されるが、これは「あまっさへ」の促音無表記。「落窪」には落窪の君の父の言葉に「あまさへ」の語が見えるところから、「あまっさへ」は平安時代にはすでに男子の日常語になっていたと考えられる。近世には「あまっさへ」と表記されるようになり、近代以降は文字に引かれて「あまつさへ」となった。>とある。

3310)「擒(とりこ)」・・いけどり。なお「とりこ」には、「擒」のほか、「虜」「俘」「囚」を当てる。また、語源説に「トリコ(捕籠)の義」などがある。

33910)「我国の人をも擒ニ致、連参」・・ロシア人は、文化3(1805)911日のクシュンコタン襲撃では、番人富五郎ら4人を捕え連行、翌4(1806)423日のエトロフのナイボ襲撃では、五郎治ら5人を連行、同29日のエトロフのシャナ襲を襲撃し、南部藩の火薬師大村治五平を捕えた。

     なお、五郎治は文化9(1812)帰国。シベリア滞在中に牛痘接種法をまなび,もちかえった種痘書はのち馬場佐十郎が翻訳。文政7(1836)松前で種痘を実施した。

34-1)「畢竟(ひっきょう)」・・つまるところ。結局。しょせん。「畢」も「竟」も「終わる」の意。

33-2)「手向(てむかい)」・・腕力や武力を用いて抵抗する。反抗する。

34-2)<かなづかいの話>「相見へ」・・口語の「見える」は、文語ではヤ行下2段活用「見ゆ」。連用形は、ヤ行の「見え」。つまり、ヤ行で活用しているから「見へ」ではなく、「見え」が正しい。「見へ」とすると、ハ行活用だから、終止形は、「見ふ」だが、そういう言い方はしない。同様に、「越える」も文語体は「越ゆ」。連用形は、「越へ」でなく、「越え」。また、「植える」の文語体「植う」もワ行で活用している動詞で、連用形は「植へ」でなく、「植ゑ」が正しい。古文書では、「見え」を「見へ」とする仮名遣いのあやまりがよく見られる。

34―3)「船高(ふなだか)」・・船石高。和船の大きさを示す単位。石高は、積荷である米の石高からきている。

     *<海運雑学>「トン」の由来は酒樽を叩いた音・・船の大きさを現すとき、重量トン、総トンなどの表現が用いられるが、このトンという単位、じつは酒樽を叩いたときの“トン”という音に由来するというのは、嘘のようで本当の話。15世紀頃、フランスからイギリスへボルドー産のワインを運ぶ船の大きさを表すのに使われ始めたものだという。ワインの樽をいくつ積めるかで、船の載荷能力を示した。当時の酒樽1個の容積は約40立方フィート。これにワインをいっぱいに詰めると2,240ポンドになり、これをメートル法で表すと1,016キログラムになる。このため、以前のイギリスの単位では、1トンは1,016キログラムだった。しかし現在ではメートル法が適用され、1,000キログラムが1重量トンになっている。容積も、かつては酒樽1個を単位としていたが、こちらも100立方フィートが1総トンとなり、現在では船の容積に一定の係数を乗じて得られた数値を1総トンとしている。東西を問わず、その時代時代の代表的な貨物が、船の大きさを表す単位になっているわけで、船がいかに人間の暮らしに密着した輸送機関だったかが、こうした点からもよくわかる。(日本船主協会HPより)

34-4)「船高凡三千石積位之異国船」・・ロシア軍艦「オリフツア」号。ブッセ著『サハリン島占領日記』では、「オリフツア」号は、プチャーチン提督指揮下の4艘の艦隊の1艘に加えられて、ひとつで、インペラートル湾から長崎に到来した軍艦で、ヨーロッパで、ロシアが英仏との断交が迫ったことを知ったプチャーチンは、艦隊を北方に展開するに際し、「オリフツア」号をタタール海峡に派遣して、アムール遠征隊長ネヴェリスコイと連絡をとらせたのち、カムチャッカの防衛強化のため、ペトロハバロフスク港へ向かうことを命じた。その途中、カラフトのクシュンコタンに入港した。ブッセは、日記に「万歳!ロシア船が到着した」と喜びを記している。彼は、ネヴェリスコイが開氷期と同時に派遣を約束していたロシア船は到来せず、見張りをアニワ岬に出し、自らもボートでエンドモロ岬を廻航してロシア船の到来を待ち望んでいた。(秋月俊之著『日露関係とサハリン島』)。

34-5)「船将ナセモク」・・軍艦「オリフツア」号の艦長ナジモフ。(秋月俊之著『日露関係とサハリン島』)。

34-7)「長崎使節」・・ロシアの遣日全権使節のプチャーチン。

34-7)「類船四艘」・・プチャーチン一行の軍艦4艘のこと。

    船将プチャーチン:旗艦「ハルラーダー〔パルラダ〕」号。

    船将コルサコフ:「ウストック〔ボストック。ヴォストークとも〕」号。

    船将ナシーモツ(ナジモフ):「アリフツサー〔オリブーツオリフツアとも〕」号。

    船将フウルウルヘルム:「メーンシーユヲ〔メンチコフ。メンシコフとも〕」号。(『幕末外国関係文書之一NO284』)ほか。

34-8)「南京」・・「上海」の誤りか。参考までに、嘉永67月~安政26月までのプチャーチンの日本への航海の行程を略記すると、以下のとおり。

    嘉永6(1853)7.18長崎来航(旗艦「パルラダ」号ほか3隻)同年10.23上海へ同年12.5長崎再来航安政元年(1854)1.8マニラへ琉球巨文島(朝鮮済州海峡)同年3.23長崎再々来航同年3.29インペラートル湾(沿海州)へ。

    安政元年(1854)8.30函館来航(旗艦「ディアナ」号単独)同年9.18大坂(天保山)同年10.14下田来航:〔「ディアナ」号、11.27の安政東海地震により大破、戸田(へだ)村で代船建造。12.21日露和親条約(日露通好条約とも)締結〕安政2年(1855)3.22「ヘダ」号(戸田村に因んで命名)でペトロパブロフスクへ同年6.20ニコラエフスク到着。 

参考文献:秋月著『日露関係とサハリン島』、『新北海道史年表』ほか。

34-8)「ホウチヤチン」・・エフィーミー(エフィム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン。日本語表記「布恬廷」。ロシアの海軍提督。遣日使節。1822年海軍兵学校を卒業、ラザレフの世界周航探検隊に参加し、ペルシア派遣使節などを経たのち、日本との国交および通商関係樹立の特命を受け、53年(嘉永6718日、パルラダ号以下軍艦四隻を率いて長崎に来航した。ロシア皇帝の国書を手交し、千島・樺太の測量と開国通商を求めたが調わず、同年125日再度来航して長崎で通好条約、国境問題の交渉を開始した。クリミア戦争の勃発により、翌年1月一時上海に退いたが、その後も長崎、樺太、箱館などに現れて機をうかがい、1221日下田において日露通好条約を結んだ。下田滞在中に津波にあって乗船ディアナ号を失い、戸田で代船ヘダ号を建造させた。これがわが国での西洋型船建造の始まりである。その後、57年(安政497日長崎で日露追加条約、翌年711日江戸で日露修好通商条約および付属貿易章程の調印に携わり、その功により海軍大将に昇進した。以後文部大臣、国務顧問官などを歴任し、831016日パリで没した。

35-9)「用所(ようしょ)」・・用事、所用。

35-5)「使節会議」・・魯西亜使節応接掛を命じられたのは、大目付格(西丸留守居)筒井肥前守政憲、勘定奉行川路左衛門尉聖謨、目付荒尾土佐守成允。ロシアと日本(筒井と川路)の両者の本格的な会談が行われたのは、嘉永6年(1853)年1220日で、その後、断続的に行われたが、翌年の安政元年(1854)正月8日、プチャーチンは長崎を出航している。(『幕末外国関係文書之一』)

35-5)「同所并大坂松前箱館」・・ロシア側は、ロシアの軍艦、商船に薪水・食料などを供与してもらうために開港を求めた港」は、「其一は本大島の大坂、其一は蝦夷島のハコダテ」(安政元年(1854)正月2日に差しだされた「日露修好条約草案」 『幕末外国関係文書之四―6』所収)の二港であったが、日本側は「大坂」に難色を示し、結局、その後、安政元年(1854)1221日、下田において締結した「日露和親条約」で、「箱館、下田、長崎」の三港に決まり、「大坂」は除外された。なお、ロシアに先立ち、安政元年(185433日に締結した日米和親条約では、下田と松前箱館の二港であり、日露和親条約は、これに沿ったものとなっている。

35-6)「治定(じてい)之書面」・・日本側がロシア側に渡した、安政元年(1854)正月6日付の「開港通商及利益均霑(和親通商問題についての将来の開国(港)と最恵国待遇の約束)の件」の文書と「樺太島経界の件」の文書。

36-4)「異国ニ無相違」・・秋月俊幸著『日露関係とサハリン島』には、この船は「バイカル」号で、「日本側の資料によれば、船印を下して数日間沖合に漂っており、カムチャッカから来たのであるが、哨所の異変を恐れて容易に近づかなったのである。」としている。また、この船は、52日(露暦515日)にクシュンコタンに着船し、同6日に出帆したとある。

36-7)「異変之程」・・秋月俊幸氏は、『日露関係とサハリン島』で、「恐らくはクシュンコタンにおびただしく翻る松前藩の旗指物をみて懸念したものであろう」と述べている。、松前藩兵の1番手は311日、2番手は321日には、クシュンコタンに、すでに到着していた。

36-7)「態(わざと)」・・故意に。