森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2016年07月

魯夷始末書7月学習注記

37-3)「又候(またぞろ)」・・ 「またぞうろう」の変化したもの。なんともう一度。こりもせずもう一度。

37-3)「船高凡弐千四五百石位之異国船」・・秋月著『日露関係とサハリン島』によれば、船号は「ニコライ」号。

37-4)「船頭ケムカシテロム」・・前掲書では、ニコライ号の船長名は「クリンコフストレム」とし、日本側の資料では船長名を「ケムカシテロム」と訛っているとしている。

37-6)「船高凡千六七百石位之異国船」・・前掲書では、船号は「イルトゥイシ」号としている。

37-7)「船将チハチヨウ」・・前掲書では、「チハチョフ」としており、役職を船長代理としている。(船長のPF・ガヴリロフは、インペラートル湾で重症の壊血病に罹っていたとしている。)

37-9・10)「船号チヱエナ、船将ソンレツフ」・・前掲書では、船号を「ドヴィナ」号、船将を「AA・ワシリエフ」としている。

38-1)「アヤン」・・シベリア東部・オホーツク海西岸の港。1844年から露米会社の出張所が移設された。アヤンは、露米会社の前進基地としてオホーツク港、ペトロハブロフスク港、ニコライエフスク港と並んで極東ロシア海域の四大主要港となった。

38-3)「折柄(おりから)」・・ちょうどその時。おりしも。

383.4)「船高凡弐千六七百石位之異国船」・・前掲書では、「メンシコフ」号。

38-4,5)「船将アーレルメン」・・前掲書では、「船長IV・フルゲルム」。

38-6)「取片付(とりかたづけ)」・・整理する。きちんとあとかたづけをする。

38-8)「難心得(こころえがたく)」・・理解しがたく。会得しがたく。

38-9)「布恬延(プチャーチン)」・・ロシアの遣日全権使節「エフィミー・ヴァシーリエヴィッチ・プチャーチン」の日本語表記。(『宛字外来語辞典』)

39-1)「一ト先(ひとまず)」・・何はともあれ。さしあたって。

39-2)「首長」・・クシュンコタンのムラヴィヨフ哨󠄀所の隊長ブッセ。

39-3)「蜜々(みつみつ)」・・密々。内々に行動すること。また、そのさま。ひそひそ。人に知られないようにこっそり。

39-3)「終夜(しゅうや・よすがら・よもすがら)」・・一晩中。夜どおし。「すがら」は、名詞に付いて、初めから終わりまで続く意を表わす。ずっと。

(39-4)「チユヱナ」・・37-9・10)には「船号チヱエナ」とある。

39-4)「フーレルン」・・前掲書では、「メンシコフ」号。

39-4)「ヲロトフユ」・・前掲書では「ヲロトフマ」。長崎でオランダ語の通訳を務めたプチャーチンの幕僚「ポシェット中佐」で、日本側資料で「ヲロトフマ」と呼んでいるのは、彼の官名(蘭文和解では「カピタンロイテナント」)の訛であろうかとしている。なお、ポシェット中佐は、プチャーチンからのムラヴィヨフ哨󠄀所撤退の提案を持参した。

39-6)「今井五郎兵衛」・・松前藩士か。天保15年(1844)時点のヱトロフ勤番所の物頭役に「今井五郎五郎」なる人物の名前がみえる(『松前町史』)。同一人物か。

4045)「従(より)

      公儀」・・「従」以下空白で、改行して「公儀」としているのは、律令で定められた公文書の書式の規定の一つである「平出(へいしゅつ)」で、文書中で、尊敬すべき人の名や称号を書くとき、敬意を表すために行を改めて前の行と同じ高さから書きだす書き方をいう。

なお、「平出」のほか、次の書式がある。

「擡(台)頭(たいとう)」=上奏文などの中で、高貴の人に関した語を書く時、敬意を示すため行を改め、ほかよりも一字分または二字分、上に出して高く書く書き方。

「闕(欠)字(けつじ)」=天子・貴人に関係した称号や言葉の上に、敬意を示すため一字または二字分の余白をあける書き方。

「闕(欠)画(けつかく)」=天子や貴人の名と同じ漢字を書く時、はばかってその最後の一画を省く書き方。

40-5)「品々(しなじな)」・・いろいろ。さまざま。

40-5)「掛合(かけあい)」・・談判すること。交渉すること。

40-6)「先着之者」・・堀・村垣一行のうち、本隊に先行してソウヤを出発し、515日シラヌシ着、同20日クシュンコタン着したのは、堀附添では、御徒目付河津太郎三郎。村垣附添では、御勘定評定所留役水野正左衛門、御普請役橋本悌蔵、支配勘定出役矢口清三郎、御普請役間宮鐡次郎、御小人目付松岡徳次郎。(『村垣淡路守公務日記之二』の「支配向其外北蝦夷地廻浦割」)

40-6)「纔(わずか)之里数」・・ほんの少しの道のり。『蝦夷日記』P92の「シラヌシ」の条に、「クシュンコタンより此所(シラヌシ)迄、海陸里数凡三十五り程」とあり、シラヌシ~クシュンコタン間の距離が記述されている。

     このほか、吉田東伍著『大日本地名辞書』の記述により、シラヌシ~クシュンコタン間の距離を浬(海里)で算出すると、55浬となる。

 単位:1里=3.9㎞ 1浬=1.852

      ・シラヌシ~ノトロ(西能登呂岬)間 2里(7.8㎞)≒4浬

      ・ノトロ~クシュンコタン間 51浬(94.5㎞)

      ○シラヌシ~クシュンコタン間 55浬(102.3㎞)

40-8)「暫時(ざんじ)」・・少しの間。しばらく

40-8)「再応(さいおう)」・・ふたたび。再度。

40-9)「ホウチヤチンより之書翰」・・遣日全権使節プチャーチンの命を奉じた船将ポシェットの名義で、魯西亜使節応接掛筒井備前守、川路左衛門尉宛の封状の書翰(蘭文と漢文で、後日、和解)で、その概要は、「一、使節は、日米和親条約締結(33日)の告報を得、それにより推量するに、我が境界を定むる処置も容易く成就すべきを察し(アニワ港での境界交渉を中止し、)、魯西亜出張の者共、暫の間、アニワ港を退く様取計候。一、使節が尚又申越候には、内約定の事を了するため、江都の近傍なる一港に至らむとするを日本全権に告白す。」とするもの(『幕末外国関係文書之六』―212として所収)。

     なお、『村垣淡路守公務日記之二』によれば、この時、領主家来宛ての開状の蘭文と魯西亜文の書翰(アニワ港駐屯露軍総兵官ブッセからアニワ港滞在の日本武官あて)が(三輪持に)渡されたとあり、後日、和解された書翰には、「我等之為に格別用達致し、案内、手伝い、水主働も致したあいぬ人を虐待することのないように」とする旨が記載されていた(『幕末外国関係文書之六』-213として所収)。

町吟味役中日記 7月注記

(6-4)「新井田壽右衛門」・・『松前藩士名前控』(北大附属図書館蔵)の「新組御徒士衆」に名前がある。

(6-4)「木村弥三郎」・・『松前藩士名前控』の「士席御先手組」に、「木村弥三郎」の名前が

ある。また、『御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳』(『松前町史史料編第1巻』所収)

に、「先手組」「御武器方」に「木村弥三郎」の名がみえる。

(6-4~5)「新井田壽右衛門、木村弥三郎居宅江之通り」・・「福山城下家臣屋敷割復元図」(『松前町史通説編第一巻下』所収)を見ると、松前城下愛宕町通りか。

(6-5)「ちりあくた」・・ちりとあくた。「ちり」は「チリ(散)」から、「あくた」は、<アは接頭語。クタはクタル(腐)の語根>など、語源には諸説ある。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

<乾燥した粉末状のものを指す「ちり」に対し、「あくた」は水気をもった廃物をいう。

「ほこり」と「ごみ」にもこれと類似の対応が認められるが、水気をもつものの方が廃物

の意味全体の代表となる点で、「あくた」は「ごみ」と共通している。>とある。

(6-7)「可申達旨(もうし・たっす・べき・むね)」・・組成は、「申す」の連用形「申し」+「達す」の終止形「達す」+「可(べし)」の連体形「可(べき)」+「旨(むね)」

(6-9)「可被申達(もうし・たっせ・らる・べく)」・・組成は、「申す」の連用形「申し」+「達す」の未然形「達せ」+「らる」の終止形「らる」+「可(べし)」の連用形「可(べく)」

(6-7)「則(すぐ)」・・「則」は「即」。「即」は「則」と通じ、すなわち、あるいは、もし、などの副詞に用いるが、ここでは、その逆をいうか。つまり、「則」は「即」。

(7-1)「御会席」・・会合する席。

(7-12)「引取(ひきとる)」・・その場から退き去る。

(7-4)「正九ツ時」・・正午。

(7-45)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。

(7-5)「杦村伝五郎」の「杦」・・国字。「杉」の旁の「彡」を書写体に従って「久」に改めた

もの。筆書きで、「彡」の最後の[]を「ゝ」のように書いたのを「亥」の最後3画のよう

にし、[ノ人]の初め2画[ノノ]をИ字状に続けて[]のように書いたものを、活字にす

るときに、書かれたとおりに作ったので、[][ノ人][]と変化した。

*同様に、「形」「彫」「影」など、「彡」を含む漢字のくずし字は、「久」となる場合があ

る。

(7-5)「紙面(しめん)」・・書面。

(7-6)「新井田」の名前は「周治」か「周次」か。

(7-8)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出

を禁ずるもの。

(7-8)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免すること。

(8-3)「深泊り」・・現青森県東津軽郡外ケ浜町蟹田塩越。東は陸奥湾に面し、南は石浜村、

西は山を隔てて小国村、北は二ッ谷村に接する。古くは、東風泊(こちどまり)と呼

ばれ、貞享4年(1687)の検地帳には深泊の名がみえる。小字に塩越の名がある。明治

22年(1889)の町村制施行と同時に、石浜村の字として貞享年の検地帳の字名をと

り、塩越となった。享和2(1802)の「測量日記」に家一六軒とあり、嘉永3年(1850

の「東奥沿海日誌」に「深泊り村同じく人家二十軒斗」とある。明治初年の「新撰陸奥国

誌」に家数四六としてる。

 『蟹田町史』には「蟹田浜の追鰊漁師らは二月末から・・松前へ渡海し、あるいは、鰊漁場の使用人に転向したり、土着する人も多かった」とある。

(8-5)「引合(ひきあい)」・・連れ。配偶者。

(8-7)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にある。海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(1444―)頃造立された。多くの文献は、「馬形町」と「端立町」を別々にしている。天保14年(1843)の御触留書(市立函館図書館蔵)に「馬形羽立(まかどはたて)町一本橋通り」とある。

 『松前町史通説編第一巻下』所収の天保14(1843)の「公定価格・借家家賃」表」には、「馬形足軽町」「馬形東新町」「馬形東上町」「馬形東中町」「馬形東下町」があり、「馬形羽立町通り」もある。

(8-9)「口書爪印(こうしょつめいん)」・・江戸時代、法廷での取調べの後、その口書(くちがき)を読み聞かせてその誤りのないことの承認の証として、それに爪印を押させたこと。

 *「口書(くちがき)」・・江戸時代、検使役人が作成した調書のこと。変死や殺人、傷害など検使を要する事件が発生した際、現場で関係者の供述を記したもの。

 *「爪印(つめいん)」・・江戸時代の刑事裁判で、被疑者が口書(くちがき)に捺印する場合に用いられた印。重罪にあたる被疑者は吟味中入牢させられ、普通、印を所持していないため、この方法がとられた。ただしこれは庶民に限られ、武士には書判(かきはん)を書かせた。爪判。

*「爪印(つまじるし)」・・①文章などの注意すべきところや、よくわからないところ、すぐれたところ、またすぐれた和歌などにつめの先でつけておくしるし。爪点。②遊女と客が互いの愛情の変わらないことを表わすための証。また、そのような行為。もと、客への心中だてのために、遊女が自分のつめをはがしておくったことから派生したことばという。

(8-9)「某(それがし)」・・自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。

 *「某(なにがし)」・・他称。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には<「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い。>」とある。

(10-3)「年行事(としぎょうじ)」・・

江戸時代、一年任期で五人組や問屋・株仲間など商工業の組合の事務を処理した世話役。「行事」は、江戸時代、町内または商人の組合などで、その組合を代表して事務を執り扱う人。

(10-5)「薬服(やくふく)」・・薬を服用すること。

(11-1)「取質(とりしち)」・・品物を預かって、お金を渡すこと。

(11-2)「受質(うけしち)」・・元金と質料を受け取り、預かっている質草を返却すること。

(11-2)「御目長(おめなが)」・・「めなが(目長)」の敬語。目先のことにとらわれないで気ながに物事を見るさま。ながい目でみるさま。

(11-4)「傳兵衛(でんべえ)」・・町吟味役配下の町年寄。場所請負人。

 *「町年寄」・・鈴江英一著『北海道町村制度史の研究』(北海道大学図書刊行会 1985

 を引用して、町年寄について記す。町年寄は、「藩士目見以上ノ格式ヲ付与シ、且帯刀ヲ許ス。其町年寄ニ登用セラレ勤功アルモノハ士席ニ列ス」(村尾元長著『維新前町村制度考』)とあるように、町年寄に選任されるのは、全町民一般からでなく、上層の町人に限られる。この町人層はまた、藩主らの吉凶などにあたって先んじて多額の献金をし、これに対して酒肴などを下賜される関係を持つなど、藩とは特別な交渉のある城下の特権的商人層である。表の町年寄の氏名をみても、町年寄と特権的商人層の結合が窺える。

    藩御用達・・伊達・栖原

    問屋及び頭取一族・・上田(近江屋)・富永・張江

    場所請負人とその一族・・村山・西川・林・塩田・桜庭

(11-8)<漢字の話>「醫師」の「醫」・・①「醫」は「医」の旧字体。音符の「殹」は、「エイッという、まじないの声の擬声語。治療に薬草酒を用いるようになり、酉を付し、病気をなおす人の意味を表す」(『新漢語林』②部首は「酉」。「ひよみのとり」「さけのとり」という。「酉」は、酒つぼの象形。②「酒」「酩」「酊」「酔」「酌」「酎」「酢」「酪」「酵」「醸」など、酒や発酵させて作る食品にかんする文字ができている。

(11-8)「高木三省(たかぎさんせい)」・・島田保久編著『蝦夷地醫家人名字彙』(自費出版2015)

には、「たかぎーさんせい」とし、「松前藩医。天保十一年(一八四〇)二月七日、病死者 

の容躰書を書く」とある。 

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