(41-1)「水野正左衛門」・・本書時、御勘定評定所留役。村垣範正の附添として西・北・東蝦夷地を廻浦。『柳営補任』では、「嘉永7(安政元)年(1854)寅閏7月25日箱館奉行支配組頭、永々御目見以上」に任じられ、「同年(嘉永7)11月於箱館死」となっている。しかし、『村垣淡路守公務日記』には、「(嘉永7年閏7月)17日夕刻、クスリ(現釧路)ニ而、正左衛門急病発し、卒中風之由、同夜九頃、事切申候由」とあり、実際は、嘉永7(安政元)年閏7月17日、脳卒中により死去したことがうかがえる。
(41-2)「煩労(はんろう)」・・心をわずらわし身を疲れさせること。わずらわしい骨折。
(41-3)「咎(とがめ)」・・「とが」とも。罪、罪科
(41-4)「宥恕(ゆうじょ)」・・寛大な心でゆるすこと。おおめに見て見逃すこと。
(41-4)「沙汰(さた)」・・物事の是非を選び分けて、正しく処理すること。始末すること。処置すること。
(41-4)「別而(べっして)」・・特別に、とりわけて、格別に。
(41-6)「執成(とりなし)」・・【連用形】具合の悪い状態を、間に入って取り計い好転させること。間に立って、周旋してうまくその場を納めること。
(41-6)「内得(ないどく)?」・・影印は「内」か、「納」かのどちらか。「内得=役職を利して取る利得、役得。」とすると、意味が不明。「納得=承知すること。同意すること。」か。
(41-7)「木品(きしな)」・・樹木および材木の種類、または、材木・白木(割材)類の品質。
(41-8)「猥(みだり)に」・・節度を失しているさま。度を過して、むやみやたらであるさま。なお「猥」を「みだら」と読むと、「いやらしい」の意味。
*「猥」の解字・・「犭(犬)」+「畏」。音符の「畏(イ・ワイ)」は、犬の鳴き声の擬声語。犬のほえ声を表し、転じてみだらの意味をも表す。
(41—10)「治定(じじょう)」・・物事にきまりがつくこと。落着すること。また、そうすることに決めること。なお「治定(じてい)」は、国などをおさめさだめること。
(42-2)「横文字之書面」・・本書面は、『幕末外国関係文書之六』所収の第213号文書(「五月十七日樺太島アニワ港駐屯露軍総兵官ブッセ書翰 松前藩士へ アニワ退去の件」)。この点について、『村垣淡路守公務日記之二』6月2日の条に、「魯西亜人カラフト退去之始末、幷書翰一通ハ、開状ニ而、領主家来(三輪持)江向候文躰、蘭文魯西亜文有之」、「彼之地ニ而、(水野)正左衛門、(河津)三郎太郎受取、直ニ(名村)五八郎ニ和解申付」とあり、堀、村垣らの一行に同行したオランダ通詞の名村五八郎が、和訳したことが記述されている。なお、『幕末外国関係文書之六』に収録されている文書の第一譯文の和訳者は、名村五八郎ではなく、森山栄之助と本木昌造となっているが、以下、参考までに記載をしておく。
【第一譯文】
アニワ港滞在之日本武官へ
我重役之命を奉し、当場所を退候ニ付てハ、是迄応接致候日本人幷アイノス人と是迄之懇情、且八ヶ月間、ハカトマシ滞在中、諸用弁し被呉候芳志之段及禮謝候、
凡何頃迄当場所出張差止候哉、又ハ何れに差遣候哉、其段ハ重役之心得にて候得共、日本人とアイノス人と之間ニ聊子細無之儀ハ、急度御請合申候、日本人ハ賢良之国民ニ候得ハ、アイノス人ニ対し、不承知之筋申掛候儀有之間敷候、アイノス人ハ、我等之為ニ格別用達致し、諸方乗廻り候節ハ案内致し、住所取建之節ハ、手傳等致し、又水主之働も致し候、右柔弱之アイノス人を如何之取扱ニ相成候て(ハヾカ)、ハカトマレニ罷在魯西亜人ニ対し、不和を被含候も同様ニ有之候、
マヨール(Majoor)
ブースセ(Busse)
右真譯致シ候、
暦数千八百五十四年第六月十二日
船将次官
ポスシエト
右之通文意和解差上申候、以上、
寅七月 森山栄之助 印
本木 昌造 印
【参考】
森山栄之助 文政3年(1820)生。家代々のオランダ通詞。英語も学び、蘭・英2ヶ国を使いこなせる通詞として活躍。嘉永6年(1853)、プチャーチン、長崎来航の際、川路聖謨(魯西亜使節応接掛)の通詞を務める。文久2年(1862)の竹内保徳らの遣欧使節団の通訳。
本木 昌造 文政7年(1824)生。江戸幕府の通詞。安政元年(1854)、プチャーチンが下田へ来航の際、下田条約の交渉の通詞を務める。
(42-2)「和蘭通詞(オランダつうじ)」・・「阿蘭陀通詞」とも。江戸時代に長崎でオランダとの折衝にあたった日本人通訳官。なお、本書時、堀・村垣一行には、オランダ語の通詞として、武田斐三郎と名村五八郎が随行。二人は、遣日全権使節プチャーチンの命を奉じた船将ポシェットの名義で、日本側の魯西亜使節応接掛筒井備前守、川路左衛門尉宛の書翰(『幕末外国関係文書之六』所収の第212号文書「露西亜応接掛へ 国境幷和親條約の件」)について、蘭文和譯ノ一として名村五八郎が、蘭文和譯ノニとして武田斐三郎が、それぞれ和訳している。なお、封をされて渡された筒井川路宛の書翰を、現地の一存で開封して和訳をした経緯については、『村垣淡路守公務日記之二』では、「筒井川路江之書翰、何様之義有之哉、一旦江戸表江差立、和解御下ケニ而ハ、差向御用弁ニも相成不申不都合ニ付、織部一存ニ而、五八郎江和解申付、開封いたし」、「筒井川路江宛候魯西亜人書翰漢文一通蘭文一通、五八郎和解いたし候処、~ 明日ハ斐三郎参着ニ候間、同人も一応和解申付候上、御用状差立候方ニ治定、」した旨、記述している。
【参考】
武田斐三郎 伊予国大洲の人。適塾などで蘭学を修める。嘉永6年(1853)プチャーチン長崎来航の際、箕作阮甫に従い、通詞御用を務める。後、箱館奉行所諸術調所教授役として五稜郭の設計建設などにあたる。元治元年(1864)開成所教授職並。明治維新後、兵学寮・士官学校教授、長官を務める。
名村五八郎 文政9年(1826)生。長崎阿蘭陀通詞の家に生まれ、家業を継ぎ、英語も修めた。嘉永6年(1853)幕府の命により出府。安政元年(1854)、日米和親条約締結のため働き、後、箱館奉行所詰となり、同3年(1856)箱館奉行所支配調役下役となる。万延元年(1860)、アメリカ軍艦ポーハタン号で渡米、遣米使節団(正使新見豊前守、副使村垣淡路守)の首席通詞を務める。又、慶応2年(1866)、小出大和守らの遣露使節団の随行員として訪露、同3年(1867)帰国。北海道で最初の「英語稽古所」を創設。
(42-3)「緋羅沙(ひらしゃ)」・・緋羅紗。濃くあかるい朱色の毛織物。
(42-8)「伊豆守」・・松前藩12代藩主松前崇広。「伊豆守」は受領名。藩主在任期間は、嘉永2年(1849)6月9日~慶応2年(1866)4月25日。この間、幕府の寺社奉行(文久3年(1863)4月28日~同年8月)、老中格(松前藩:無高)・海陸軍総奉行(元治元年(1861)7月7日~)、老中(松前藩:3万石)(元治元年11月~慶応元年(1865)10月1日)・海陸軍総裁(慶応元年(1865)~同年10月1日)を務める。
【参考】:松前藩の石高は、米が穫れないため表高は「無高」とされていたため、3万石~10万石の家格の譜代大名がなれる「老中」には、一足飛びにはなれず、「老中格」として就任、その後、加増されて「3万石」の家格となり、「格」がとれて、正式に「老中」となった。
(43-1)「可成丈(なるべきだけ)」・・「なるたけ(成丈)」に同じ。できるかぎり。なるべく。
「なりたけ」をはじめ、多くの異形を生じたが、これら以前は「なるほど」がこの意味用法をになっていた。「なりたけ」は江戸東京語で、「なりったけ」はその促音形。「なるべきだけ」の発生は「なるたけ」に少し遅れる。なお、「なるべきだけ」の語形は重言の意識が働いてか、その後急速にすたれ、現在では「なるべく」「なるたけ」の短い形がこの意味用法で残っている。(『ジャパンナレッジ版日本国語大辞典』の語誌)
(43-3)「矢来(やらい)」・・竹や丸太を縦横に粗く組んだ仮の囲い。「やらい(遣=追い払うこと。)」からをいう。「矢来」は、当て字。
(43-7)「先手組(さきてぐみ)」・・『文政六(一八二三)年十一月松前藩家臣名簿』の「職席」欄に「御先手組」として、細界太佐士(頭取)外、10名の氏名が記載され、『嘉永六癸丑年(1853)御扶持家列席帳』には、「士席御先手組(同格、同格医師、勤中格を含む。)」として、161名の氏名が記載され、一番隊物頭の竹田作郎や今井八九郎、『町吟味役中日記』の奥平勝馬の名もみえる。本来、「先手組」は、武勇に優れた者で編成され、戦時の際の陣立で本陣の前にいて、敵を攻撃する部隊。平時は、城の内外や主君の出向の際の警固、(幕府の場合、市中の火付盗賊改め)に当たった。幕府の場合の職名は、先手鉄砲組、先手弓組の併称。
(44-7)「狼狽(ろうばい)」・・うろたえ騒ぐこと。あわてふためくこと。「狼」も「狽」もオオカミの一種で、「狼」は、前足が長く、後足が短いが、「狽」はその逆。常に共に行き、離れれば倒れるので、あわてうろたえるということからきている。
(44-9)「ラヌシ」・・「シラヌシ」の「シ」が脱か。
(44-9)「風筋(かざすじ)」・・風の吹く方向。風向き。
(44-9)「沖掛(おきがかり)」・・沖合に停泊すること。「沖懸」、「沖繫」と同じ。
(44-10)「リイシリ」・・漢字表記名「利尻」のもとになったアイヌ語に由来する地名。利尻島。