森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2016年08月

魯夷始末書8月学習注記

41-1)「水野正左衛門」・・本書時、御勘定評定所留役。村垣範正の附添として西・北・東蝦夷地を廻浦。『柳営補任』では、「嘉永7(安政元)年(1854)寅閏725日箱館奉行支配組頭、永々御目見以上」に任じられ、「同年(嘉永711月於箱館死」となっている。しかし、『村垣淡路守公務日記』には、「(嘉永7年閏7月)17日夕刻、クスリ(現釧路)ニ而、正左衛門急病発し、卒中風之由、同夜九頃、事切申候由」とあり、実際は、嘉永7(安政元)年閏717日、脳卒中により死去したことがうかがえる。

41-2)「煩労(はんろう)」・・心をわずらわし身を疲れさせること。わずらわしい骨折。

41-3)「咎(とがめ)」・・「とが」とも。罪、罪科

41-4)「宥恕(ゆうじょ)」・・寛大な心でゆるすこと。おおめに見て見逃すこと。

41-4)「沙汰(さた)」・・物事の是非を選び分けて、正しく処理すること。始末すること。処置すること。

41-4)「別而(べっして)」・・特別に、とりわけて、格別に。

41-6)「執成(とりなし)」・・【連用形】具合の悪い状態を、間に入って取り計い好転させること。間に立って、周旋してうまくその場を納めること。

41-6)「内得(ないどく)?」・・影印は「内」か、「納」かのどちらか。「内得=役職を利して取る利得、役得。」とすると、意味が不明。「納得=承知すること。同意すること。」か。

41-7)「木品(きしな)」・・樹木および材木の種類、または、材木・白木(割材)類の品質。

41-8)「猥(みだり)に」・・節度を失しているさま。度を過して、むやみやたらであるさま。なお「猥」を「みだら」と読むと、「いやらしい」の意味。

    *「猥」の解字・・「犭(犬)」+「畏」。音符の「畏(イ・ワイ)」は、犬の鳴き声の擬声語。犬のほえ声を表し、転じてみだらの意味をも表す。

41—10)「治定(じじょう)」・・物事にきまりがつくこと。落着すること。また、そうすることに決めること。なお「治定(じてい)」は、国などをおさめさだめること。

42-2)「横文字之書面」・・本書面は、『幕末外国関係文書之六』所収の第213号文書(「五月十七日樺太島アニワ港駐屯露軍総兵官ブッセ書翰 松前藩士へ アニワ退去の件」)。この点について、『村垣淡路守公務日記之二』62日の条に、「魯西亜人カラフト退去之始末、幷書翰一通ハ、開状ニ而、領主家来(三輪持)江向候文躰、蘭文魯西亜文有之」、「彼之地ニ而、(水野)正左衛門、(河津)三郎太郎受取、直ニ(名村)五八郎ニ和解申付」とあり、堀、村垣らの一行に同行したオランダ通詞の名村五八郎が、和訳したことが記述されている。なお、『幕末外国関係文書之六』に収録されている文書の第一譯文の和訳者は、名村五八郎ではなく、森山栄之助と本木昌造となっているが、以下、参考までに記載をしておく。

     【第一譯文】

        アニワ港滞在之日本武官へ

     我重役之命を奉し、当場所を退候ニ付てハ、是迄応接致候日本人幷アイノス人と是迄之懇情、且八ヶ月間、ハカトマシ滞在中、諸用弁し被呉候芳志之段及禮謝候、

     凡何頃迄当場所出張差止候哉、又ハ何れに差遣候哉、其段ハ重役之心得にて候得共、日本人とアイノス人と之間ニ聊子細無之儀ハ、急度御請合申候、日本人ハ賢良之国民ニ候得ハ、アイノス人ニ対し、不承知之筋申掛候儀有之間敷候、アイノス人ハ、我等之為ニ格別用達致し、諸方乗廻り候節ハ案内致し、住所取建之節ハ、手傳等致し、又水主之働も致し候、右柔弱之アイノス人を如何之取扱ニ相成候て(ハヾ)、ハカトマレニ罷在魯西亜人ニ対し、不和を被含候も同様ニ有之候、

                             マヨール(Majoor

                               ブースセ(Busse

     右真譯致シ候、

      暦数千八百五十四年第六月十二日

                             船将次官

                                ポスシエト

     右之通文意和解差上申候、以上、

       寅七月                   森山栄之助 印

                             本木 昌造 印

    【参考】

 森山栄之助 文政3(1820)生。家代々のオランダ通詞。英語も学び、蘭・英2ヶ国を使いこなせる通詞として活躍。嘉永6年(1853)、プチャーチン、長崎来航の際、川路聖謨(魯西亜使節応接掛)の通詞を務める。文久2年(1862)の竹内保徳らの遣欧使節団の通訳。

本木 昌造 文政7(1824)生。江戸幕府の通詞。安政元年(1854)、プチャーチンが下田へ来航の際、下田条約の交渉の通詞を務める。

42-2)「和蘭通詞(オランダつうじ)」・・「阿蘭陀通詞」とも。江戸時代に長崎でオランダとの折衝にあたった日本人通訳官。なお、本書時、堀・村垣一行には、オランダ語の通詞として、武田斐三郎と名村五八郎が随行。二人は、遣日全権使節プチャーチンの命を奉じた船将ポシェットの名義で、日本側の魯西亜使節応接掛筒井備前守、川路左衛門尉宛の書翰(『幕末外国関係文書之六』所収の第212号文書「露西亜応接掛へ 国境幷和親條約の件」)について、蘭文和譯ノ一として名村五八郎が、蘭文和譯ノニとして武田斐三郎が、それぞれ和訳している。なお、封をされて渡された筒井川路宛の書翰を、現地の一存で開封して和訳をした経緯については、『村垣淡路守公務日記之二』では、「筒井川路江之書翰、何様之義有之哉、一旦江戸表江差立、和解御下ケニ而ハ、差向御用弁ニも相成不申不都合ニ付、織部一存ニ而、五八郎江和解申付、開封いたし」、「筒井川路江宛候魯西亜人書翰漢文一通蘭文一通、五八郎和解いたし候処、~ 明日ハ斐三郎参着ニ候間、同人も一応和解申付候上、御用状差立候方ニ治定、」した旨、記述している。

    【参考】

     武田斐三郎  伊予国大洲の人。適塾などで蘭学を修める。嘉永6(1853)プチャーチン長崎来航の際、箕作阮甫に従い、通詞御用を務める。後、箱館奉行所諸術調所教授役として五稜郭の設計建設などにあたる。元治元年(1864)開成所教授職並。明治維新後、兵学寮・士官学校教授、長官を務める。

     名村五八郎  文政9年(1826)生。長崎阿蘭陀通詞の家に生まれ、家業を継ぎ、英語も修めた。嘉永6(1853)幕府の命により出府。安政元年(1854)、日米和親条約締結のため働き、後、箱館奉行所詰となり、同3(1856)箱館奉行所支配調役下役となる。万延元年(1860)、アメリカ軍艦ポーハタン号で渡米、遣米使節団(正使新見豊前守、副使村垣淡路守)の首席通詞を務める。又、慶応2(1866)、小出大和守らの遣露使節団の随行員として訪露、同3(1867)帰国。北海道で最初の「英語稽古所」を創設。

42-3)「緋羅沙(ひらしゃ)」・・緋羅紗。濃くあかるい朱色の毛織物。

42-8)「伊豆守」・・松前藩12代藩主松前崇広。「伊豆守」は受領名。藩主在任期間は、嘉永2(1849)69日~慶応2(1866)425日。この間、幕府の寺社奉行(文久3年(1863428日~同年8月)、老中格(松前藩:無高)・海陸軍総奉行(元治元年(1861)77日~)、老中(松前藩:3万石)(元治元年11月~慶応元年(1865)101日)・海陸軍総裁(慶応元年(1865)~同年101日)を務める。

     【参考】:松前藩の石高は、米が穫れないため表高は「無高」とされていたため、3万石~10万石の家格の譜代大名がなれる「老中」には、一足飛びにはなれず、「老中格」として就任、その後、加増されて「3万石」の家格となり、「格」がとれて、正式に「老中」となった。

43-1)「可成丈(なるべきだけ)」・・「なるたけ(成丈)」に同じ。できるかぎり。なるべく。

     「なりたけ」をはじめ、多くの異形を生じたが、これら以前は「なるほど」がこの意味用法をになっていた。「なりたけ」は江戸東京語で、「なりったけ」はその促音形。「なるべきだけ」の発生は「なるたけ」に少し遅れる。なお、「なるべきだけ」の語形は重言の意識が働いてか、その後急速にすたれ、現在では「なるべく」「なるたけ」の短い形がこの意味用法で残っている。(『ジャパンナレッジ版日本国語大辞典』の語誌)

43-3)「矢来(やらい)」・・竹や丸太を縦横に粗く組んだ仮の囲い。「やらい(遣=追い払うこと。)」からをいう。「矢来」は、当て字。

43-7)「先手組(さきてぐみ)」・・『文政六(一八二三)年十一月松前藩家臣名簿』の「職席」欄に「御先手組」として、細界太佐士(頭取)外、10名の氏名が記載され、『嘉永六癸丑年(1853)御扶持家列席帳』には、「士席御先手組(同格、同格医師、勤中格を含む。)」として、161名の氏名が記載され、一番隊物頭の竹田作郎や今井八九郎、『町吟味役中日記』の奥平勝馬の名もみえる。本来、「先手組」は、武勇に優れた者で編成され、戦時の際の陣立で本陣の前にいて、敵を攻撃する部隊。平時は、城の内外や主君の出向の際の警固、(幕府の場合、市中の火付盗賊改め)に当たった。幕府の場合の職名は、先手鉄砲組、先手弓組の併称。

44-7)「狼狽(ろうばい)」・・うろたえ騒ぐこと。あわてふためくこと。「狼」も「狽」もオオカミの一種で、「狼」は、前足が長く、後足が短いが、「狽」はその逆。常に共に行き、離れれば倒れるので、あわてうろたえるということからきている。

44-9)「ラヌシ」・・「シラヌシ」の「シ」が脱か。

44-9)「風筋(かざすじ)」・・風の吹く方向。風向き。

44-9)「沖掛(おきがかり)」・・沖合に停泊すること。「沖懸」、「沖繫」と同じ。

4410)「リイシリ」・・漢字表記名「利尻」のもとになったアイヌ語に由来する地名。利尻島。

8月学習 町吟味役中日記 注記 

         

(12-1)「服薬(ふくやく・ぶくやく)」・・服用するために薬を調合すること。また、その調合した薬。調剤。

 *「服」の解字は、舟の両側にそえる板の意味を表す。転じて身につける意味を表す。

 *「服」は、『康煕字典』では、「舟月(ふなづき)」部。「舟月」部に属する漢字といして、「朋」「朝」「朕」がある。現在の漢和辞典は「月」部に統一されているが、元来、「月(つき)部、「肉月(にくづき)」「舟月(ふなづき)」に分かれていた。

 *「服用」を「薬を飲むこと」とするのは日本での意味。漢語では、身につけて用いること。「和漢異義語」という。国訓が漢字一字の字義に和文要素が混入する現象であるのに対し、「和漢異義語」は、漢字二字以上の熟語の語義に和文要素が混入する現象。(古田島洋介著『日本近代史を学ぶための文語文入門 -漢文訓読体の地平―』吉川弘文館 2013

<くずし字>「服薬」の「服」、「薬」。

 *「服」の偏「月」のくずし字

 *「薬」・・「廾(くさかんむり)」+「楽」の「楽」のくずし字は頻出します。

(12-1)「煎薬(せんじぐすり・せんやく)」・・植物の根・実・皮などを煎じて用いる医薬。

漢方薬の主流をなす。

(12-1)「一角(イッカク)」・・北極海に生息するイッカク科の哺乳類イッカクの牙を用いる。

イッカクはイルカの近縁動物で、体調は約5mで、雄の上顎に1対ある歯牙のひとつの門歯が長くなり、細長く2m以上に伸びるため、イッカクと呼ばれている。牙は象牙質で螺旋形になっている。

 イッカクの角は中世ヨーロッパにおいて神秘的な解毒薬として珍重されていた。日本に 

 はオランダ医学とともに江戸時代に伝えられた。

漢方薬ではないが、サイカク(犀角)と同様の解熱・鎮静の効能があるといわれ、粉末にして服用する。

(12-2)「壱分目」・・全体の十分の一。「分目」は、数詞につけて、あるものの全体の量を

 10としたとき、その内のどれだけの量であるかを表わすのに用いる。

(13-6)「風説」の「風」・・普通は2画目は外側から中に入る。

(14-6)「江指(えさし)」・・江差。江刺とも書く、村の成立時期は不明であるが、寛永7(1630)沖の口番所は市中津花町に設置され、交易港となる。続いて上の国に設置されていた檜山(ひのきやま)番所が延宝6(1678)市中中歌町に移転、のち安永元年(1772)江差奉行所と改称、松前藩西在の官府となる。

(14-6)「山之上町(やまのうえまち)」・・はじめ江差は、桧材、続いて元禄年間(16881703)以降鰊荷物が主な積出し荷物となる。港としての機能が高まるとともに沿岸部の津花、姥神、中歌、九艘川、詰木石で町場化が進み、慶安年間(16481651)には法華寺の前身妙翁寺が創建されも寺町の様相を呈した。市中の発展により後背段丘は「山の上町」として町場化が進んだ。

 海岸沿いの市街地(下町)と段丘上(山の上町)は、それぞれ断崖を掘削して、阿弥陀寺坂・法華坂・馬坂などの坂道や石段を造築して参道とした。

 松浦武四郎『再航蝦夷日記』には、「縦町十町」と並んで「横巷十九町」を挙げ、その中に、「山の上町」が見える。さらに「山の上町 薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿(こやど)、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。松前口説に「国は サァーエー 松前 江差の郡(こおり) 江差 山の上 げんだい町の 音に聞こえし こばやし茶屋に 抱えおなごは 三十二人」と唄われた花街であった。

(14-7) 「横死(おうし)」・・殺害されたり、不慮の災難にあったりして死ぬこと。天命を全うしないで死ぬこと。不慮の死。非業の死。

(14-8)「到着」の「到」・・「リ(リットウ)」が、「()」になる場合がある。

(14-8)「下役梅沢由右衛門」・・「下役」は、吟味下役で、町奉行吟味役吟味下役と、役職があった。

(15-2)「小使(こずかい)」・・町奉行の職制で、下代の下に「小使」があった。

(15-4)「今日」の「今」、「日」・・「今」は「て」のようになる場合がある。また、「日」の

 縦画を最後に「ゝ(点)」をつける場合がある。

 (15-4)「手鎖(てじょう・てぐさり)」・・「手鎖」は、罪人の手に施す刑具。鉄製瓢箪型で、両手にはめて錠をかけ、手が使えないようにするもの。てがね。

 ①江戸時代の刑罰の一つ。手鎖をかけるところから起こった名で、庶民の軽罪に科せられ、三〇日、五〇日、一〇〇日の別があり、前二者は五日目ごとに、後者は隔日に封印を改める。御咎手錠。

 ②江戸時代、未決囚を拘留する方法。手鎖をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

 ここでは、②か。

(15-45)「旅人宿(りょじんやど)」・・江戸時代、訴訟・裁判のため地方から出府したものが泊まった公事宿(くじやど)の一つ。

(15-6)「四月九日」の「九日」・・「ここのか」か、「ここぬか」か。

 *「九(ここのつ)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

 (1)ココラ、またはココタ(許多)の転音か〔東方言語史叢考=新村出〕。

(2)陽数で、一の子は三、三の子は九とするところからコノコ(子子)の義〔志不可起〕。

(3)ココ(此処)でトヲ(十)に迫ったとの意か〔大言海〕。

(4)ココノツ(凝々箇・凝津)の義〔十数伝・紫門和語類集〕。

(5)八方の中央という意から凝の義。また、イヤツ(八)よりココダ(多数)の意か〔和訓栞〕。

(6)コタツ(甲立)の転〔名語記〕。

(7)爰ぞよく熟する時の意からココトス(爰)の転〔名言通〕。

(8)古韓語コ(大)の畳語。本来は多大の義であるが、ヤ(八)を最大数とした時代があったので、更にその上に一つ加えた数九をココと称えるようになったか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(15-8)「雁(がん・かり)の御吸物」・・雁、鴻、鶴、白鳥、などの吸物は、普段は、藩主などが食した。

 *<漢字の話>

①「雁」の部首は「厂(がんだれ)」ではない。

②「雁」の部首は「隹(ふるとり)」

③「隹」を「ふるとり」というのは、「舊(きゅう・ふるい)」(新字体は「旧」)

 に用いられているので、「鳥」「酉(ひよみのとり)」と区別する。

(16-1)「四月十日」の「十日」・・「とお」か「とう」か。

遠く大きな氷の上を多くほおずきくわえて、づつ通った。」

 *「十(とお)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

 (1)トはタル(足)の反ツの転。オはヨコ(横)の反ヨの転。算の位において、十に満ちるとその後は横の算になるところから〔名語記〕。

(2)一から十まで通っているところから、トホル(通)の略トホの転〔本朝辞源=宇田甘冥〕。

(3)トはト(止)の意〔百草露・大言海・日本語源=賀茂百樹〕。上の五と下の五とが合い止まる数であるところからトは止の義。ヲは、陽の一数を含み鎮める意で陽の義〔紫門和語類集〕。

(4)数は九で極まるところからトは外の意〔日本釈名・紫門和語類集〕。十は位の一つであるところから数のト(外)の義〔志不可起〕。

(5)一から数えて遠くにあるところから、トホ(遠)の義〔和句解〕。

(6)トヲ(止尾)の義で、数の終わりの意〔国語の語根とその分類=大島正健〕。

(7)一ツから九ツまでの終わりであるところから、ツヲ(津尾・筒尾)の転〔和訓栞・紫門和語類集・言葉の根しらべ=鈴江潔子・大言海〕。

(8)テヲ(手終)の義〔言元梯〕。

(9)筒尾の義という〔日本語源=賀茂百樹〕。

(10)トヲ(瓊尾)の義〔十数伝〕。

(16-2)「腹痛」の「腹」・・「服」と似ている。

 (16-5)「三関勝蔵」の「関」・・門構えは、「ワ」の形になることが多い。中には「一」になる場合もある。

(17-1)「小書院(こじょいん)」・・一般には、母屋(もや)に続けて建てのばした部屋。小さな書院。松前城での位置は不明。『嘉永癸丑年御役人諸向勤姓名帳』に、「御小書院御次詰」という職務がある。

(17-3)「立石野(たていしの)」・・松前城下の西端、けわい坂を上り、折戸坂を下るまでの間の野原をさす。武四郎は「海岸に大なる自然の弐丈ばかりなる岩石有。立石野の名も是より起るか」(『再航蝦夷日誌』)とする。

(17-3)「ツクシナイ」・・和名は尽内、津久志内。松前城下西方の海浜をさす。折戸の次の集落。『蝦夷日誌』(二編)では、東から西に進んで「小ツクシ川と云、尺一刎也。清水にして甚冷し。越て」として大ツクシ川をあげる。

(17-4)「手限(てぎり)」・・上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(17-4)「市在(しざい)」・・「在」はいなか。松前市中と、近郊。城下には、東在、西在があった。

(17-7)「忠兵衛」の「忠」・・「中」の縦画が、「心」の1画目の点へ繋げるため、「ノ」のように右払いになる場合がある。

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