森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2016年09月

魯夷始末書10月分学習注記


49-2)「年礼(ねんれい)」・・年賀の礼。年始。藩では、松前藩では、元旦に藩主が八幡宮に参り、家臣が登城し年賀礼が行われた。

49-3)「村役人」・・江戸時代、村方三役の名主、組頭、百姓代(東国の称。西国では、庄屋、年寄、百姓代)の総称。

49-3)「麻上下(あさかみしも)」・・麻裃とも。近世の武家の礼服。麻布で製した裃で、肩衣(かたぎぬ)と袴を同質、同色の布で作り、裏をつけない。近世後期は、絹との交織もあった。小紋が多く、無地、子持筋(こもちすぢ)もある。紋所は、肩衣に三か所、袴に一か所つく。継上下がややくだけた体であるのに対し、麻上下は、本格的な正式の服である。式日その他威儀を正す折に用いられた。町人の葬式の折にも用いられる。

49-6)「ナイホ」・・「ナイボ」、「チイカエナイボ」とも。日本語表記地名「内保」。樺太西海岸のうち。『大日本地名辞書』に、「ウッス岬南隣の漁場にして、野田寒の北六里、今此處に駅逓の設あり」とある。

49-6)「トルマイ」・・トルマエとも。日本語表記地名「鳥舞」。樺太西海岸のうち。

49-6)「サイカクシ」・・人名。安政六年(1859)、北蝦夷地西浦、富内詰の足軽倉内忠右衛門が、島内を見廻りした際の随従者の一人として、「平土人サイカクシ」の名が見える。*「富内」・・樺太西海岸のうち。西富内、真岡とも。アイヌ語地名エンルコマフ、エンルモコマフとも。箱館奉行所の御用所があった。

49-8)「アサナイ」・・「アサンナイ」とも。日本語表記地名「麻内」。樺太西海岸のうち。

49-10)「掻送(かきおくり)」・・櫂(かい)で水を掻いて舟を進める。

4910)「時節後(じせつおくれ)」・・適当な時期に遅れること。季節にはずれること。

50-1)「不束(ふつつか)」・・「ふとつか」の転。「つか」は、接尾語。①太くたくましいさま。②ぶかっこう。不細工。③②から転じて、物事の整っていないさま。礼儀を知らないさま。無粋なさま。

江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合に、「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

50-4)「心底(しんそこ、しんてい)」・・心の奥底。本心。

50-5)「帰服(きふく、きぶく)」・・心を寄せてつき従うこと。なお、「きふく」と「きぶく」には、使い分けがあったらしい。「きふく」は、抵抗をやめて服従すること。支配下に入ること。降参。「きぶく」は、仏語で、神仏、高僧などをあがめて、心から信頼をよせること。心服。帰依におなじ。

50-6)「共与篤与」の「与(と)」・・古文書で、日本語の助詞「と」に「与」を当てる場合がある。「与」は、変体仮名ではなく、漢文に起源する文字。漢文の助辞(助字)で、漢文訓読の際、「と」と訓じることから、「与」を日本語の助詞「と」とした。

     「AB」(AとBと)

     *「富与貴、是人之所欲也」(『論語 里仁』)

      (フウとキとは、是人の欲する所なり)

       富と尊い身分とは、どんな人でも望むものである。

50-7)「賞誉(しょうよ)」・・称誉とも。ほめたたえること。ほめること。称賛。

50-6)「奇特(きとく)」・・古くは「きどく」。心がけや行ないが普通よりもすぐれていて、ほめるべきさま。負担がかかるようなことを、すすんで行なってほめるべきであるさまにもいう。殊勝。感心。

50-8)「リヤトマリ」・・「リヤコタン」とも。日本語表記地名「利家泊」、「利家古丹」。樺太南海岸のうち。

50-8)「クリウヱントマリ」・・不詳。

50-9)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「八虎泊」、「母子泊」、「函泊」とも。樺太南海岸のうち。

50-9)「ヲハヱタイ」・・「ヲフユトマリ」か。日本語表記地名「雄吠泊」、「小冬泊」か。樺太南海岸のうち。

5010)「シヽユヤ」・・「ヒシユヤ」、「スヾヤ」とも。日本語表記地名「鈴谷」。樺太南海岸のうち。

5010)「ホロアントマリ」・・「ポロアントマリ」とも。日本語表記地名「大泊」。樺太南海岸のうち。

5010)「チイトモ」・・「ナイトモ」、「ナエトモ」か。日本語表記地名「内友」。

51-1)「チナヱホ」・・「チナイボ」とも。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、日本語表記地名「三之澤」地区の説明の中に「チナイボ」の記述があり、「チナイポ、此に清水平三郎の持小屋あり、」とある。

51-1)「コシフイ」・・不詳。

51-4)「海潮(かいちょう)」・・海水。海水の流れ。

51-4)「骨折(ほねおり)」・・連用形。精を出して一生懸命する。尽力する。

51-8)「清水平三郎」・・文化元年(1804)松前生まれ。安政元年(1854)春松前藩御徒士席、同年七月御目見得以上に抜擢。安政三年(1856)二月箱館奉行組同心御抱入、同年六月箱館奉行支配調役下役。

5110)「差働(さしはたらき)」・・「差(さ)し」は、接頭語。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

5110)「山靼(さんたん)」・・「山丹」、「山旦」とも。「山旦人」というのは、アムール河下流域住民の総称であるが、サハリン島に渡来したのはキジ湖周辺の「オルチャ(ウリチ)」人で、ギリヤーク人が彼らのことを「ジャタン」と呼び、それをサハリン・アイヌたちが、「サンタン」と訛ったものという(『東韃紀行』)。山旦人が中国の産物をサハリン島にもたらしたことから、「山旦貿易」として知られ、

     松前藩は、交易品のうち、蝦夷錦、山旦切、青玉(虫巣玉、樺太玉)などを松前名物として、千島経由のラッコ皮、鷲羽、熊胆などととともに「軽物」と称して売買を独占した。のちには、山旦人のシラヌシ渡来が普通になり、北海道からもサハリンに赴くアイヌが多くなり、その結果、宗谷アイヌの山旦人への多額の借財問題も生じた。なお、山旦品に対しては、毛皮類のほか、米、酒、煙草、古衣、鉄器、椀その他日本の家事用品が交易された。(秋月著『日露関係とサハリン島』から抜粋)

52-2)「壱人立(ひとりたち)」・・独立のこと。他からの援助を受けないで、自分だけの力でやっていくこと。行動をともにする仲間や味方のないこと。ひとりぼっち。

52-2)「国威(こくい)」・・国の威力。一国またはその国を治める威力や権威。

52-4)「附添候役人共」・・松前藩から、堀に付添った江戸留守居役田崎与兵衛らと村垣に付添った町奉行新井田玄番(嘉藤太)らを指すか。

52-5)「万端(ばんたん)」・・すべての事柄。万般。

52-5)「用弁(ようべん)」・・用事をすますこと。用の足りること。「用便」。

52-6)「差配(さはい)」・・とりさばくこと。とりしきること。

52-9)「林右衛門」・・伊達林右衛門。代々「林右衛門」を通称とする。栖原と並称せられる松前の富商。場所請負人。文化六年(1809)栖原屋と共に北蝦夷地場所を請負う。本文書時は、三代目。なお、安政元年(1854)、松前藩永世士席に列し、次いで勘定奉行となる。

52-9)「六右衛門」・・栖原六右衛門。場所請負人。栖原家(本家は代々「角兵衛」を通称とする。)は、松前店の支配人に代々、「栖原」の姓を名乗らせた。本文書時は、八代目で、本姓は、川村六右衛門。なお、安政元年(1854)、松前藩において、一代士席に班し、先手組格に列せられる。

 

10月学習町吟味役中日記 注記

                        

(24-1)格助詞「へ」・・「え」と発音する。現代かなづかい(昭和211116日、内閣訓令第八号、内閣告示第三三号で示された)は、部分的には、それまでの伝統的な表記意識や方言の語音などを考慮したため、歴史的仮名遣いを受けついでいたり、許容していたりするところがある。それらの例外や許容に助詞の「へ」がある。本則は、「へ」と書くが、「え」を許容する。その他、①助詞の「を」はもとのままとし、②助詞の「は」ももとのままに書くのを本則(「わ」を許容)とする。

(24-2)「預ケ」・・罪科のある人を他にあずけること。

 ()江戸時代、未決囚を預けること。吟味期間中、重罪人は入牢させたが、軽罪のものは公事宿(くじやど)、町村役人、親類などに預けられた。

()江戸時代の刑罰の一つ。罪人をある特定の者に預けて監禁するもの。武士、庶民共に科せられ、預かり主が誰であるかにより、大名預、頭(組頭、支配頭)預、町預、村預、所預、親類預などの区別がみられた。終身預けることを「永く御預け(永預)」という。

()江戸時代、遠島または追放の刑を申し渡された幼年者を、刑の執行される成年(一五歳)に達するまでの期間預けること。溜預と親類預があった。

(24-5)「揚屋入(あがりやいり)」・・揚屋に拘禁されること。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

  *「揚屋(あがりや)」・・江戸時代の牢屋の一つ。江戸小伝馬町の牢屋敷に置かれ、御目見(おめみえ)以下の御家人、陪臣(ばいしん)、僧侶、医師などの未決囚を収容した雑居房。西口の揚屋は女牢(おんなろう)といって、揚座敷(あがりざしき)に入れる者を除き、武家、町人の別なく、女囚を収容した。テキストにあるように、各藩でも牢屋を揚屋(あがりや)と呼んだ。

  *「揚屋」を「あげや」と呼ぶ場合・・近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。

(24-7)「牢舎(ろうしゃ)」・・牢舎人。牢屋に入れられている者。囚人。囚徒。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「牢舎」の補注に<和製漢語か。幽閉・禁獄の意味で用いられ、古くは「籠舎」「籠者」と表記された。「牢舎」「牢者」などの「牢」の字は、後に新しい語源解釈によって与えられたもの。>とある。

(24-8)「再応(さいおう)」・・同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(25-1)「御目録(おんもくろく)」・・進物の時、実物の代わりに、仮にその品目の名だけを記して贈るもの。

(25-4)「ヲタルナイ」・・漢字表記地名「小樽内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ヲタルナイ石カリの境目」であった(廻浦日記)。コタン名のほか、場所(領)や河川の名称としてもみえる。「おたる内」(「狄蜂起集書」・元禄郷帳・享保十二年所附)、「オタルナイ」(蝦夷志)、「おたるなへ」(寛政五年「松前地図」)、「ヲタルナイ」(武藤「蝦夷日記」)、「ヲクルナイ」(蝦夷拾遺)などとあり、「於多留奈井」(支配所持名前帳)、「尾樽内」(蝦夷商賈聞書)、「砂路沢」(蝦夷喧辞弁・行程記)、「小樽内」「小垂内」(観国録)などの漢字表記がみられる。

(25-4)「ユウブツ」・・漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか河川名としても記録されている。

  *「ユウブツ越」・・勇払から勇払川を舟でさかのぼり、ウトナイ湖、美々川を経て陸路で千歳に入り、さらに舟で千歳川を経て石狩川に達するルートで、「シコツ越え」とも称し、東西蝦夷地を結ぶ重要な道であった。

  *「アイヌの丸木舟」・・昭和41(1966)、沼ノ端の旧勇払川右岸から、5艘の丸木舟と櫂、棹などの船具が発掘された。舟の長さが7~9メートルの大きさで、材料はカツラやヤナギが使われており、昭和42(1967)年には北海道の指定文化財になっている。現在苫小牧市美術博物館に展示されている。

(25-7)「奉紙(ほうし)」・・奉書紙(ほうしょがみ)。楮(こうぞ)を原料とする厚手、純白の高級紙。室町時代から各地で漉(す)かれ、主に儀式用に用いられた。

(25-9~26-1)「大儀料(たいぎりょう)」・・骨折り賃。苦労してやったことに対する報酬。

(26-5)「越後笹口村」・・現新潟県胎内市笹口浜。西は日本海に面し、東南一帯は砂丘が広がる。東は高畑(たかばたけ)村、東南は山王(さんのう)村に接する。村上藩領に属し、宝永6年(1709)幕府領、翌七年村上藩領に復し、のち幕府領となる。

(26-7)「卯(う)」・・天保2(1831)

(26-7)「唐津内町(からつないまち)」・・近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(26-8)「𥿻(きぬ)」・・国字。絹に同じ。旁の「旨」に「うるわしい」の意味がある。

(26-8)「抱」・・「把(は)」か。綛(かせ)をたばねてくくったものを数える単位。生糸の捻り造りしたものを三〇綛ずつ木綿の括糸で三か所結束したものをいう。生糸一俵(約六〇キログラム)は把二八〜三〇個に相当する。

(26-9)「積り」・・みつもり。予算。また、計算

(26-10)「死罪にも被仰付候処、格別之以御憐愍」・・『松前町史』には、「復領期の松前藩においては、本来死刑に処すべき犯罪者であっても、これに死刑判決を下すことを極力忌避する法規範、換言すれば死刑を軽減することが法習慣となっている独自の刑罰体系が存在していたと見做してよかろう」とある。

(26-10)「憐愍(れんびん)」・・なさけをかけること。憐憫・憐閔とも書く。

(26-11)「墨入百擲(すみいれひゃくたたき)」・・江戸時代の刑罰の一つ。入れ墨の刑に付加して罪人の肩、背などを鞭打つもの。普通「擲」は「敲」と表記される場合が多い。

  *「入墨」・・腕、足、額などに墨汁をさし入れて犯罪人の目じるしとするもの。江戸時代には、追放、叩きなどの刑に付加して行なわれた。

  「幕府の遠国奉行の入墨はみな腕に施す。・・藩では・・額に彫るのが多い。・・入墨のあり所およびその形によって、どこで入墨されたかがすぐわかるようになっていた」

  (石井良助著『江戸の刑罰』中公文庫1964 次ページの図も)

 *<漢字の話>「擲」・・①漢音で「テキ」、「投擲競技」など。呉音で「ジャク」。「チャク」は慣用音(中国の原音によらない誤読から生じた日本での漢字音)。

②訓読みでは「うつ」「なげる」「なぐる」「たたく」「はねる」「ふるう」「なげうつ」「ほうる」などがある。

  「主人は此野郎と吾輩の襟がみを攫(つか)んでえいと計りに縁側へ擲(たた)きつけた」(漱石『吾輩は猫である』)

  ③「打擲(ちょうちゃく)」・・打ちたたくこと。なぐること。特に、御成敗式目では刑事犯罪の一つに数えられている。「打」を「チョウ」と発音するのは呉音。「シャク」は慣用音。「呉音」+「慣用音」の例。

(26-11)「渡海(とかい)」・・『松前町史』には、「死刑にかえて現実に下された判断、すなわち越山・遠島・渡海にも松前藩の刑罰体系の独自性を見出すことができる」とある。

  さらに、「越山・遠島が百姓もしくは無宿者に適用されるのに対し、渡海は旅人に適用される点であり、例外や不明例は少ない」としている。

(27-3)「同断(どうだん)」・・「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。また、そのさま。同然。同様。「理(ことわり)」(理由。わけ。よってきたるゆえん。また、理由などをあげてする弁明。)と同じ訓の「断(ことわり)」の音をあてた造語。

(27-3)「琴壱面」・・普通、「張 (ちょう) 」は琴を数える語。「調 (ちょう) 」の字をあてることもある。弦を張った楽器であるため「張り」でも数える。「面」は琴・太鼓・琵琶 (びわ) など、表面部分で演奏する日本古来の楽器を数える語。

(27-4)「迄(まで)」・・「迠」は「迄」の誤字(『漢語林』)。しかし、「ショウ」と読み、

「ゆく(行)」の意味がある漢語。古文書にある「迠」を翻刻する場合、「迄」の誤字と見て、

「迄」とする。

(27-4)「そして」・・影印は、連綿体(行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの)という。

(27-6)「最上(もがみ)」・・最上地方。最上郡。郡域は元和8年(1622)の最上氏改易と相前後して定まったもので、律令制下では当初陸奥国最上郡、のち出羽国最上郡の郡域に含まれ、仁和二年(八八六)出羽国最上郡から村山郡が分れて以降は(「三代実録」同年一月一一日条)、近世初期まで村山郡のうちとして推移した。

(27-6)「日和田村(ひわだむら)」・・現山形県寒河江市日和田。箕輪村の西、葉山の南東麓に位置し、西は慈恩寺の所在する醍醐に続く。中世には檜皮とも記し、慈恩寺領があり寒河江庄(北方)に属した。慈恩寺領は最上氏にも安堵された(慶長五年九月二一日「最上義光願文」工藤文書)。当地の新御堂(すみど)に市神が残り、慈恩寺門前の市が立っていたと思われる。最上氏改易後は高七九一石余(西村山郡史)の日和田村は上山藩領となり、寺領は残らなかった。文化12年(181)幕府領となって幕末に至る。

(27-7)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」・・現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(27-7)「当時」・・今では、過去のある時点を、あとからふり返っていう場合に使われるが、

  古文書の「当時」は、「ただいま。現在。現今。」という意味に使われることが多い。

(27-8)「馴合(なれあい)」・・なれ合い夫婦。正式の仲介によらないで、なれあっていっしょになった夫婦。出来合夫婦。

(27-10)「不埒(ふらち)」・・「埒」は馬場などの囲いの意。法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

(27-14)「無判(むはん・むばん)」・・無判者。松前藩の許可なく上陸した者。

(27-15)「不念(ぶねん)」・・江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(28-1) 「五〆文(ごかんもん)」・・「五貫文」。「〆」は、「貫」の略字。銭貨を数える単位。唐の開元通宝1枚の重さが1匁(もんめ)であったところから、わが国でもそのまま銭1枚を1文と呼称するようになったといわれ、銭1000文をもって1貫と称する。なお、「文」は、足袋(たび)底の長さを測るのに、一文銭を並べて数えたところから、足袋や靴、靴下などの履き物の大きさの単位ともなったが、この場合の1文は尺貫法の8分(ぶ)(約2.4センチメートル)に相当する。また、江戸初期から中期にかけての金1両(4000文)は10万円に相当するといわれ、1貫文は1000文だから、25000円に相当するが、ただ幕末にかけて激しいインフレに見舞われるので、1貫文は7000円程度まで下落するようだ。とすると、5貫文=5000文=3万5000円ほどか。

(28-1)「過料(かりょう)」・・江戸時代の刑罰の一種。銭貨を納めて罪科をつぐなわせたもの。軽過料、重過料、応分過料、村過料などの種別があった。

(28-2)「馬形町(まかどまち)」・・現松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、西は蔵町、南西は端立町。。「蝦夷日誌」(一編)に馬形町として「また山之上とも云。一段高きところにしてひろし。藩士また小商人、番人入接り。其山を名になし有」と記される。

(28-3)「悴(せがれ)」・・影印の「忰」は、「悴」の俗字。なお、自分のむすこを意味する「せがれ」は、「倅」が正しい。「悴」は、「倅」と似ていることから起こった誤用。(『新漢語林』)

(28-7)「構(かまえ・かまい)」・・江戸時代の一種の追放刑。特定地域から排除する場合と,特定団体・社会関係から排除する場合とがあった。日本国外追放を日本国構と称したことなどは前者の例であるが,後期幕府法においては,刑名はおもに追放,払(はらい)の語を用い,立入り,居住制限区域をとくに御構場所(おかまいばしよ)と呼んでいた。一方団体・社会関係からの排除として《公事方御定書》には,僧尼の閏刑で追院,退院より重い一宗構(所属宗旨からの追放),および一派構(宗旨中の所属宗派からの追放)の刑名がある。さらに武家が家中に科する刑罰的処分に奉公構があった。これは家臣が主従関係を離れる際,将来他家へ召し抱えられることを禁ずるもので,1635年(寛永12)の武家諸法度および諸士法度によって幕府法上も保障された。以後主家からの出奔は武士にとって容易なことではなくなった。近代に至って,追放刑の廃止,封建的身分制度の廃止により構の概念も消滅した。

  なお、処分しない、とがめがないことをいう「かまい 無し」の語源でもある。

(28-11)「留主(るす)」・・留守。元来は、天皇・皇帝・王などの行幸の時、その代理として都城にとどまり、執政すること。また、その人。令制では皇太子もしくは公卿がこれにあたること。「主」を「ス」と読むのは呉音。なお、「守」を「ス」と読むのは、日本での慣用音。

(28-11)「盗賊与者(とは)」・・「与者」が、上書きされている。

(28-13~14)「所払(ところばらい)」・・江戸時代の追放刑の一種。居住の町村から追放し、立入りを禁止する軽罰。ところがまえ。

(28-15)「仲町(なかまち)」・・中町。現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置し、南は大松前町、北は横町、東は袋町で町域は狭い。)。「蝦夷日誌」(一編)には「少しの町也。大松前のうしろに当る。小商人のミ也」とある。

 

古文書解読学習会のご案内

              札幌歴史懇話会主催
古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年103日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

魯夷始末書9月学習注記

45-2)「江戸表(えどおもて)」・・地方から江戸を敬っていう称。将軍在住の地による。朝廷の所在地京都をよぶに京都表という類。(『江戸語の辞典』)

45-2)「場所」・・この「場所」は、クシュンコタン(九春古丹)をさす。

45-4)「畢竟(ひっきょう)」・・「畢」も「竟」も終わる意。仏語。究極、至極、最終などの意。途中の曲折や事情があっても最終的に一つの事柄が成り立つことを表わす。つまるところ。ついには。つまり。結局。

45-6)「変事(へんじ)」・・異常な出来事。異変。

46-7・8)<欠字の体裁>欠字は、本来は、『大宝令』『養老令』など、公式令(くしきりょう)で定められた書式の一つ。文章の中に、帝王または高貴な人の称号などが出た時、敬意を表して、その上を一字分もしくは二字分ほどあけておくことをいう。

   7行目「不申候処」と「公儀」の間が空いている。

   8行目「相成候は」と「御威光」の間が空いている。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「欠字」の語誌に、

     <(1)「台頭」「平出」と共に唐の制度から学んで大宝令に取り入れたもの。台頭は上奏文などに用いるが、日本ではそれ以外あまり見られない。平出は令の規定以来公式に行なわれたが、闕字が最も一般的である。

     (2)闕字は台頭・平出より少し軽く、平安時代以降も永く用いられたが、その用法は必ずしも厳密ではない。しかし、天皇・院・三后などの皇族には中・近世に至るまで比較的本来の形で存続し、明治以降天皇制のもとで復活重用されるようになる。>とある。

4510)「寅」・・十二支のうちの寅年をさす。元号では、安政元年(或は嘉永七年)。西暦1854年にあたる。此の年の1127日に、御所炎上(46日)とペリーの浦賀再来航(116日)などを理由により、安政に改元。

46-5)「堀織部」・・堀利熙。織部は通称。

46-6)「村垣与三郎」・・村垣範正。与三郎は通称。

4678)「探索(たんさく)」・・(人の居場所などを)探し求めること。

46-9)「廻浦(かいほ)」・・内陸未開拓の時期の蝦夷地・北海道では、海岸沿いに諸役人などが巡回・視察すること。

47-2)「ベンカクレ」・・『村垣淡路守公務日記之二』六月十五日の条では、「ヘンクカレ」としている。

47-3)「ラムラニケ」・・前掲書では、「ラムランケ」。

47-4)「カミリ」・・前掲書では「アシリ」。

47-5)「アハユヱキ」・・前掲書では、記載がない。

47-6)「ナイトモ」・・前掲書では「ナヱトモ」。日本語表記地名「内友」、「内冨」。カラフト南海岸のうち。

47-7)「イツホニク」・・前掲書では「イツホンク」。

47-8)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「母子泊」、「函泊」。カラフト南海岸のうち。

47-8)「マラレアイ」・・前掲書では「マウレアヱノ」。

47-8)「土産取(みやげとり)」・・アイヌ集落での階層。和人からの下されもの(清

酒・玄米・炊飯・煙草が主)それらの下されものを無償でもらうことのできる階

層。

なお、アイヌ集落での階層は、地域によって異なるが、一般に、惣乙名・脇乙名・並乙名・小使・土産取・平夷人といわれる。

47-9)「ホロアントマリ」・・日本語表記地名「大泊」。クシュンコタンより二十丁許以南の地。カラフト南海岸のうち。

4710)「チヘシヤニ」・・日本語表記地名「池辺讃(チベサニ)」、「千辺沙荷」。大泊の東方7里の地(吉田東伍『大日本地名辞書』)。カラフト南海岸のうち。

48-1)「シヱマヲコタン」・・前掲書では「シユマヲコタン」としているが、不詳。

48-2)「トウラフツ」・・前掲書では「トウフツ」。「トウブツ」とも。日本語表記地名「遠淵(トウブチ)」。カラフト南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「ブッセ湖の海に通ずる處にして、古来漁場として夙に名あり。」、「寛政七年に至り、伊達、栖原二人、始めて漁場受負人として、撓淵(タウブチ)に至り、漁業を営みたり。之れ、本島に於ける民間漁業の濫觴なりと云ふ。撓淵は即ちトーブツなり。」とある。

48-2)「ヲカフ」・・前掲書では「ヲカワ」。

48-3)「右ヘンカクレ外三人シヨシコロ外六人」・・本書では、合わせて十一人の名前が列記されているが、前掲書では、十人(クシュンコタン平夷人アハユヱキが除かれている。)となっている。      

48-3)「稼方(かせぎかた)・・稼ぎ人たちのこと。働き手たちのこと。

48―4)「罷(ヽ在)居候(まかりおりそうろう)」・・「ヽ在」の「ヽ」の記号は、見せ消ち記号。「在」の左に「ヽ」で、「在」を打消し、右に「居」としている。「罷り在候」を「罷居候」と訂正している。

48-4)「去丑八月中旬魯西亜人共渡来」・・ロシア海軍大佐ネヴェリスコイらが陸戦隊73人を率い、クシュンコタンに来航したのは嘉永6丑年829日で、翌830日は上陸地点の調査、91日にクシュンコタンの北隣のハツコトマリへ上陸。したがって、本書では、「八月中旬」となっているが、厳密には、「八月下旬から九月上旬」。

48-8)「神妙(しんみょう)」・・古くは「しんびょう」とも。けなげなこと。感心なこと。また、そのさま。

48-8)「奇特(きどく、きとく)」・・おこないが感心なさま。けなげなさま。

4810)「手切(てきり、てぎり)」・・「手限」とも。自分の一存で決めること。江戸時代、奉行、諸役人・代官などが上部機構の裁断を仰がず、自己の責任で事件を処理し、あるいは判決を下すこと。

4810)「心得(こころえ)」・・心がまえ。心がけ。

4810)「役夷」・・役夷人。(惣)乙名、(惣)脇乙名、(惣)小使、土産取(みやげとり)の役職についたアイヌの人たち。ここでは、P47に列記されているクシュンコタン惣乙名、同脇乙名、ナイトモ惣小使、同小使、ハツコトマリ土産取。

48-10~49-1)「褒美之品(ほうびのしな)」・・前掲書では、十人のうち、役夷人のヘンクカレ、ラムランケ、アシリ、シヨシコロ、イツホンク、マウレアヱノの六人には、「紅板〆一切と舞扇一本」づつ、平夷人のシフランマ、ヲンクロ、ホマヲウ、ヲカワの四人には、「紅板〆一切と白平骨扇一本」づつ、「外に一同江米三表、酒一盃充、遣ス」旨記載されている。

     なお、「切」は織部(堀)が出し、「扇」は自分(村垣)が出したともある。

9月学習 町吟味役中日記 注記

                   

(18-1)「御免」・・「ご」は接頭語。ここでは、免官、または、免職することを、その動作主を敬っていう語。。「御免」は、もともと「許可」を意味する「免」に尊敬を表わす接頭語「御」のついた語で、鎌倉時代から使われている。その後、「御免」の下に命令形を伴って、軽いことわりや、詫びの意を表わす「ごめんあれ」「ごめんくだされ」「ごめんなされ」などの形が生じた。これが定着すると、省略形としての「ごめん」も近世中期頃から用いられるようになった。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(18-4)「江良村」・・現松前町字江良・字高野・字大津・字二越・字白坂。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。大正4年大島村の一部になる。なお大島村は昭和29年(1954)松前町の一部となる。現在、江良地域に、大島小学校がある。

(18-4)「米塩(べいえん・まいえん・こめしお)」・・人間の生活に欠くことのできない米と塩。食料一般をもいう。

 *「米塩の資(し・たすけ)」・・生計を立てるための費用。生活費。

 *「米塩の虫」・・食べていかなくてはならない者。生計をたてていかなくてはならない存在。

(18-5)「粒鯡(つぶにしん)」・・①荷出しする生の鰊。②数の子も白子も取り出した後の鰊。

(18-5)「空船(からぶね)」・・貨客を積んでいない船。とくに、江戸時代の御城米船では積込港まで貨客を積まないで航海させられた。

(18-6)「小砂子(ちいさご)村」・・現檜山郡上ノ国町字小砂子(ちいさご)。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子 夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。明治35(1902) 上ノ国村に合併。

(18-6)「落船(おちぶね・らくせん)」・・漂着船。津軽海峡横断の航路は津軽三厩から南または東の風に乗るのが最良とされ、途中風が南西に変わる場合は松前に着けず、押流されて吉岡付近の海上に漂着することが多く、これを落船とよんでいる。(『福島町史』)松前藩は沖之口おきのくち役所のある松前・江差・箱館の三湊以外での入国・通関は認めなかったが、航海が繁多になってくるにしたがい落船が増加したため、寛政年間には一部の落船を認める措置をとった

(18-7)「沖ノ口」・・江良に沖ノ口奉行配下の番所があった。武四郎の。『廻浦日記』では「廻船懸る由なればとて沖の口出張所有て下役一人出張す。」とある。

(18-7)「出役(でやく・しゅつやく)」・・①江戸時代、本役を持つものが、そのままで、臨時に他の職務に服すること。また、その役人。しゅつやく。広く、本業以外の公的な役回り、役職などのことをもいう。②職務上の出張。出張勤務。また、その役人。

(18-7)「船改(ふねあらため・ふなあらため)」・・港に出入する船舶の積荷・乗組・便船人などを船番所の役人が検査すること。また、その役人。江戸時代では、江戸に出入する廻船を下田または浦賀で改め、禁制の品や人間の流入・流出を防止したのが代表的な例。

(18-9)「沖口下代」・・沖ノ口奉行配下の役職。

(20-7)「挨拶(あいさつ)」・・応答。受け答え。

(21-2)「印紙(いんし)」・・署名捺印した書付。

(21-3)「売渡(うりわたし)」・・影印の「賣」は、「売」の旧字体。

 <漢字の話>「賣」・・①部首は「貝」で、「貝」部は、金銭・財貨や、それらにかかわる行為・状態などに関する文字でできている。「貢」「財」「貨」「貧「販」「貴」「賤」など。

 ②「貝」は、古代中国では貨幣とされ、財産のシンボルとして珍重された。しかし、近くにある川や池でたやすく手に入る貝ではなく、財産とされた貝は、黄河中流域に位置した殷王朝が、はるか遠方の東南沿海地方から運ばれてきた子安貝だった。

 ③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。                              

③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。

④「買(かう)」と「賣(うる)」・・「売」の旧字体「賣」の解字は、「出」+「買」。「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、「賣」の省略形の俗字による。なお、「買」の解字は「网」+「貝」で、「网」は「あみ」の意味、「貝」は「財貨」の意味。あみをかぶせて財貨をとりいれる、かうの意味をあらわす。

 ⑤また、「賣」は、平成16年に人名漢字になった。「賣野(うりの)」「木賣(きうり)」「賣豆紀(めずき)」など。

(21-3)「筈」・・①矢の上端で、弓の弦をかける部分。矢筈(やはず)。②弓の両端。弓の弦を受けるところ。弓弭(ゆはず)。③矢筈と弦とはよく合うところから、物事が当然そうなること。道理。理屈。筋道。転じて、予定・てはず・約束などの意にもいう。

 なお、棒の先に股のある、掛け物を掛ける道具も「矢筈」という。

 <漢字の話>「筈」・・解字は、「竹」+「舌」。音符の「舌」は、「会」に通じ「あう」の意味。弓のつると矢とが会する部分。

(21-5)「大留(おおどめ)村」・・現檜山郡上ノ国町字大留。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村の北、天ノ川の下流域北側に位置する。明治35年上ノ国村に合併。

(21-6)「年寄(としより)」・・近世では町役人・村役人・宿役人などの称ともなった。村役人としては、名主または庄屋に次ぐ地位の者をいうことが多い。大留村では、次に「百姓代」とあるので、「年寄」は、村の長を年寄と称していたか。

(21-1022-1)「碁盤坂」・・現松前郡福島町字千軒附近。なお、昭和13(1938)1021日国有鉄道福山線渡島知内駅 - 当駅間開通に伴い、碁盤坂駅として開業。昭和47(1972)15日に千軒駅に改称。

(22-1)「倒死(たおれじに・とうし)」・・路上などでたおれて死ぬこと。ゆきだおれ。

(23-5)「碇町」・・檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。武四郎の『再航蝦夷日誌』に「寺小屋町の上也。漁者、水主、小商人等也」とある。

(22-7)「通書(つうしょ)」・・手紙。

(22-7)「山之上町」・・武四郎の『再航蝦夷日誌』に「薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。

(22-9)「幸便(こうびん)」・・つごうがよいこと。よいついで。また、そのような時に人に手紙を託することが多かったので、手紙の書き出しの文句や添え書きのことばとしても用いる。

(23-1)「被仰出(おおせいだされ)」・・ご命令されて。「仰せいだす」は、「命じ出だす」「言い出だす」の尊敬語。命令を発せられる。お言いつけになる。お言葉を口に出される。

 なお、「被仰出(おおせいだされ)」は、「おおせいださる」の連用形の名詞化で、名詞として、「おいいつけ。御命令。おおせいで」の意味になることがある。「被仰出書(おおせいだされがき)」(ご命令書)

(23-1)「供(ども)」・・人を表す言葉について複数を表す接尾語。複数の意味がうすれた「子供」以外は、多く「共」と書く。

 *「子供」・・(1)元来は「子」の複数を表わす語であり、中古でも現代のような単数を意味する例は確認し得ない。ただ、複数を表わすところから若年層の人々全般を指す用法を生じ、それが単数を表わす意味変化の契機となった。

(2)院政末期には「こども達」という語形が見出され、中世、近世には「こども衆」という語を生じるなど、「大人に対する小児」の用法がいちだんと一般化し、同時に単数を表わすと思われる例が増える。

(3)漢字表記を当てる場合、基本的には上代から室町末期まで「子等」であるが、院政期頃より「子共」を用いることも多くなる。近世に入り、「子供」の表記を生じた。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌)

(23-2)「辰之刻」・・午前8時。

(23-8)「差添(さしぞい・さしぞえ)」・・他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。また、その人。

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