(35-3)「無念(ぶねん)」・・不念(ぶねん)に同じ。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。
(35-7)「馬形東新町(まかどひがししんまち)」・・現松前郡松前町字豊岡豊岡。近世は松前城下の一町。東片(ひがしかた)町、馬形新町とも称された。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の東部の南側に位置し、西は東上町。文化頃の松前分間絵図には「東新町又片町トモ申」と記され、松前大膳邸などがある。
(35-12)<変体仮名>「もの」の「も」・・字母は、「毛」。「毛」の横画は3画ある。現在のひらがなの横は2画だが、古文書のくずし字は横3画の名残を書くことがママある。
(35-14)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世は松前城下の一町。単に端立町ともいい、羽立はたて町とも称した。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の西側にあり、西方は袋町。当町を含む海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(一四四四―五二)頃造立され、のち法華ほつけ寺西隣に移転したという。
(36-3) 「ヲコシリ島」・・奥尻島。菅江真澄は「於胡斯離」を当てている。、「蝦夷日誌」(二編)は「此処へ松前地の咎人は流罪に被仰付候由也。当時は十二、三人計居りけるよし」と流人の居住者があったことが記されている。武田信広がついたとされる地には字初松前(はつまつまえ)の地名が残る。
(36-3)「遠島(えんとう)」・・松前藩の流刑奥尻島遠島について、『松前町史』は、「越山と異なり復興期以降にしか明証を得ることができない」とし、その理由について「藩政初期から越山という松前藩独自の流刑が存在した」とある。遠島者は、「煎海鼠(なまこ)、白星鮑、昆布等の長崎御用俵物生産の労働を課せられていたこともほとんど疑いない」と述べている。なお、奥尻島遠島と類似している「奥尻場所請負人への身柄預け」という奥尻島への追放もあったことが記載されている。
(36-4)「中河原町(なかかわらまち)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中川原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。「蝦夷日誌」(一編)に「川原町のうしろ也。少しの町にして此処は妓楼と妓楼の小宿のミ也。(中略)妓楼ニ到らんもの此処に到りて案内を致させ、または此処ニ妓を呼巫山の夢を結ぶも有。(中略)他商売のもの絶てなし」と記される。これより少し前の天保14年(1843)の藩政改革に際して、茶屋渡世は蔵町と当町の二時刻が定められている。明治33年(1900)福山町の一部となる。
(36-5)「大松前町(おおまつまえちょう)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川の下流左岸に位置し、西は同川を挟んで小松前町、東は枝ヶ崎町。両町や唐津内町とともに城下の有力商人が店を構える町であった。大松前川河口は松前湊のうちでも最も澗口の広い船入澗で、おそらく福山館築城以前から重要な地域であったとみられる。松浦武四郎は町名について「法華寺の坂ニ松の有しより起るや」と記し、「昔しは此地海湾に而有りしが、当時は城下第一の繁華の地となりたり。請負人岡田等此所ニ住す。北は横町町会所に到る。南法華寺坂、枝ケ崎ニかゝり、西小松前川(町)ニ境ふ也」と続けている(「蝦夷日誌」一編)。明治33年(1900)福山町の一部となる。
(36-13)「金子(きんす)」・・「す」は「子」の唐宋音。金子は金貨幣、銀子は銀貨幣のことで、江戸時代一般に広く用いられた語句であるが、金銀貨幣がようやく一部に流通され出した中世末期から始まるものである。しかし、のちには金子は金貨幣のことを示すのみでなく広く貨幣(おかね)全般のことに拡大されるに至った。なお銀子の語は江戸時代に銀貨幣が中心に動いていた関西で主として使われたものである。
(37-2)「座料(ざりょう)」・・座敷などを貸す料金。席料。
(37-10)「検使(けんし)」・・江戸時代に、一般的には現場の臨検ないしそれを行う役人の称呼。たとえば、刑罰としての武士の切腹や敲刑の執行などに立ち会う者を検使と呼んでいるが、狭義では変死・傷害・出水などに出張する検使をいう。
(38-2)「奥村栄晋(おくむらえいしん)」・・奥村英晋とも。松前藩医。御雇医師。
(38-6)「大塚伴□并藻寄恒齊」・・『蝦夷地醫家人字彙』には、「大塚伴博」「藻寄恒齊」の名がある。ふたりとも、天保3年(1832)、江差に旅人医師として居住しているとしている。
(39-3)「工藤茂五郎」・・『松前藩士名前控』に、「中之間御中小姓」として「工藤茂五郎」の名がある。
(39-5)「羽州温海(うしゅうあつみ)」・・「羽州」は出羽国。「温海」は、現山形県鶴岡市温海。温海岳の西方、日本海沿岸に位置し、地内の南を温海川が西流する。村名は川の中に湧出する温泉で海も温かくなったことに由来するという(温海郷土誌)。浜街道が
通り、その宿駅であった。
(39-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。
(39-8)「光善寺」・・現松前郡松前町字松城。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると法幢ほうとう寺の南、龍雲りゆううん院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2二年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1603)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化5年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求ごんぐ院を合併(寺院沿革誌)。同六年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行しようぎよう寺とともに一揆勢の結集の場となった。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。
(39-8)「江指観音寺」・・現檜山郡江差町字泊町。字泊町にある真言宗寺院。山号白性山、本尊千手観音。嘉吉元年(1441)京都仁和寺真光院僧正の徒弟旭威が泊村に創建したと伝える(夏原家文書)。一時廃寺となったが、永正6年(1509)蠣崎光広の次男高広(剃髪し永快)が中興し、松前阿吽あうん寺の末になったという(江差町史)。しかし「福山秘府」では泊村観音寺は元和元年(1615)の草創、阿吽寺末とある。「蝦夷日誌」(二編)によると、当寺は蝦夷地太田山おおたさん(現大成町太田神社)の別当寺で、太田山に参詣する者は当寺でお札を受けたという。安政年間(一八五四―六〇)伽藍を焼失、その後再建された。円空仏と木食仏が安置されている。
(39-9)「答書(とうしょ)」・・問い合わせに対する返答の書状。こたえの書状。返事。