森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2016年12月

12月学習 町吟味役中日記 注記

(35-3)「無念(ぶねん)」・・不念(ぶねん)に同じ。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(35-7)「馬形東新町(まかどひがししんまち)」・・現松前郡松前町字豊岡豊岡。近世は松前城下の一町。東片(ひがしかた)町、馬形新町とも称された。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の東部の南側に位置し、西は東上町。文化頃の松前分間絵図には「東新町又片町トモ申」と記され、松前大膳邸などがある。

(35-12)<変体仮名>「もの」の「も」・・字母は、「毛」。「毛」の横画は3画ある。現在のひらがなの横は2画だが、古文書のくずし字は横3画の名残を書くことがママある。

(35-14)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世は松前城下の一町。単に端立町ともいい、羽立はたて町とも称した。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の西側にあり、西方は袋町。当町を含む海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(一四四四―五二)頃造立され、のち法華ほつけ寺西隣に移転したという。

(36-3) 「ヲコシリ島」・・奥尻島。菅江真澄は「於胡斯離」を当てている。、「蝦夷日誌」(二編)は「此処へ松前地の咎人は流罪に被仰付候由也。当時は十二、三人計居りけるよし」と流人の居住者があったことが記されている。武田信広がついたとされる地には字初松前(はつまつまえ)の地名が残る。

(36-3)「遠島(えんとう)」・・松前藩の流刑奥尻島遠島について、『松前町史』は、「越山と異なり復興期以降にしか明証を得ることができない」とし、その理由について「藩政初期から越山という松前藩独自の流刑が存在した」とある。遠島者は、「煎海鼠(なまこ)、白星鮑、昆布等の長崎御用俵物生産の労働を課せられていたこともほとんど疑いない」と述べている。なお、奥尻島遠島と類似している「奥尻場所請負人への身柄預け」という奥尻島への追放もあったことが記載されている。

(36-4)「中河原町(なかかわらまち)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中川原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。「蝦夷日誌」(一編)に「川原町のうしろ也。少しの町にして此処は妓楼と妓楼の小宿のミ也。(中略)妓楼ニ到らんもの此処に到りて案内を致させ、または此処ニ妓を呼巫山の夢を結ぶも有。(中略)他商売のもの絶てなし」と記される。これより少し前の天保14年(1843)の藩政改革に際して、茶屋渡世は蔵町と当町の二時刻が定められている。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-5)「大松前町(おおまつまえちょう)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川の下流左岸に位置し、西は同川を挟んで小松前町、東は枝ヶ崎町。両町や唐津内町とともに城下の有力商人が店を構える町であった。大松前川河口は松前湊のうちでも最も澗口の広い船入澗で、おそらく福山館築城以前から重要な地域であったとみられる。松浦武四郎は町名について「法華寺の坂ニ松の有しより起るや」と記し、「昔しは此地海湾に而有りしが、当時は城下第一の繁華の地となりたり。請負人岡田等此所ニ住す。北は横町町会所に到る。南法華寺坂、枝ケ崎ニかゝり、西小松前川(町)ニ境ふ也」と続けている(「蝦夷日誌」一編)。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-13)「金子(きんす)」・・「す」は「子」の唐宋音。金子は金貨幣、銀子は銀貨幣のことで、江戸時代一般に広く用いられた語句であるが、金銀貨幣がようやく一部に流通され出した中世末期から始まるものである。しかし、のちには金子は金貨幣のことを示すのみでなく広く貨幣(おかね)全般のことに拡大されるに至った。なお銀子の語は江戸時代に銀貨幣が中心に動いていた関西で主として使われたものである。

(37-2)「座料(ざりょう)」・・座敷などを貸す料金。席料。

(37-10)「検使(けんし)」・・江戸時代に、一般的には現場の臨検ないしそれを行う役人の称呼。たとえば、刑罰としての武士の切腹や敲刑の執行などに立ち会う者を検使と呼んでいるが、狭義では変死・傷害・出水などに出張する検使をいう。

(38-2)「奥村栄晋(おくむらえいしん)」・・奥村英晋とも。松前藩医。御雇医師。

(38-6)「大塚伴□并藻寄恒齊」・・『蝦夷地醫家人字彙』には、「大塚伴博」「藻寄恒齊」の名がある。ふたりとも、天保3年(1832)、江差に旅人医師として居住しているとしている。

(39-3)「工藤茂五郎」・・『松前藩士名前控』に、「中之間御中小姓」として「工藤茂五郎」の名がある。

(39-5)「羽州温海(うしゅうあつみ)」・・「羽州」は出羽国。「温海」は、現山形県鶴岡市温海。温海岳の西方、日本海沿岸に位置し、地内の南を温海川が西流する。村名は川の中に湧出する温泉で海も温かくなったことに由来するという(温海郷土誌)。浜街道が

通り、その宿駅であった。

(39-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(39-8)「光善寺」・・現松前郡松前町字松城。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると法幢ほうとう寺の南、龍雲りゆううん院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2二年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1603)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化5年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求ごんぐ院を合併(寺院沿革誌)。同六年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行しようぎよう寺とともに一揆勢の結集の場となった。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。

(39-8)「江指観音寺」・・現檜山郡江差町字泊町。字泊町にある真言宗寺院。山号白性山、本尊千手観音。嘉吉元年(1441)京都仁和寺真光院僧正の徒弟旭威が泊村に創建したと伝える(夏原家文書)。一時廃寺となったが、永正6年(1509)蠣崎光広の次男高広(剃髪し永快)が中興し、松前阿吽あうん寺の末になったという(江差町史)。しかし「福山秘府」では泊村観音寺は元和元年(1615)の草創、阿吽寺末とある。「蝦夷日誌」(二編)によると、当寺は蝦夷地太田山おおたさん(現大成町太田神社)の別当寺で、太田山に参詣する者は当寺でお札を受けたという。安政年間(一八五四―六〇)伽藍を焼失、その後再建された。円空仏と木食仏が安置されている。

(39-9)「答書(とうしょ)」・・問い合わせに対する返答の書状。こたえの書状。返事。

 

 

魯夷始末書12月学習注記

56-6)「番人之程」・・P55-8「番人之詮」との比較から、「詮(かい)」と書くところを「程」としたか。「詮(かい)」は、「甲斐」で、価値、値打。

56-6)「不埒(ふらち)」・・道理にはずれていて非難されるべきこと。法にはずれていること。けしからぬこと。「不束」に同じ。用例文として「是者、御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認」。

     なお「埒」は馬場などの囲いの意で、「不埒」は、埒のあかないことから転じて、事が解決しないこと。決着のつかないこともいう。

     また、古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は、競馬場など、内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

56-7右)「ナイヨロ」・・「ナヨロ」とも。日本語表記地名「名寄」。樺太西海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、安政元年(1854)(堀付添の)鈴木尚太郎(重尚。号茶渓。後箱館奉行支配組頭)著『唐太日記』を引用し、「九(久)春内より浜伝ひ二里餘にて、ナヨロに着し、当所乙名シトクランケの家に泊す。此シトクランケは、楊忠貞といへる者の曾孫なるよし」と記述している。

56-8)「丈夫(じょうぶ、じょうふ)」・・身に少しの病患、損傷もなく、元気があるさま。勇気ある立派なさま。昔、中国の周の制で、八寸を一尺とし、十尺を一丈とし、一丈を男子の身長としたところからいう。

56-8)「力量(りきりょう)」・・物事をなす力の程度。能力、腕前、器量。

56-8)「生来(しゅらい・せいらい)」・・生まれたときからの性質や能力。また、生まれつき。

568/9)「奸智(かんち)」・・奸知、姦智とも。わるがしこい才知。悪知恵。

56-9)「弁舌(べんぜつ)」・・ものを言うこと。特に、すらすらと上手にいうさま。

56-9)「威服(いふく)」・・権力や威力をもって服従させること。異本は「感伏(かんぷく)」とする。感心して心から従うこと。ひどく感心すること。文脈から「感伏」の方が、合っているか。

5610)「ヲロノフ」・・ロシアの陸軍中尉。ネヴェリスコイのクシュンコタン上陸に先立って、6人の部下とともに、樺太の状況を偵察するため、樺太西海岸北緯51度付近に上陸し、クシュンコタンに向けて南下の途中、ナヨロのシトクランケのところに立ち寄った。

5610)「山韃船(さんたんぶね)」・・『北夷談 三』(松田伝十郎著)によれば、「舟は、五葉の松を以って製造し、舟の敷は、丸木を彫(ほる)なり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は、乗り難し。図左のごとし。」とある。

57-1)「承引(しょういん・うけひき)」・・承知して引き受けること。承知すること。承諾すること。聞き入れること。

57-1)「承引(しょういん)」・・聞き入れること。引き受けること。承諾。

57-2)「外三人」・・シトクランの息子の数は、分かち書き(P57-9)では、惣領、、次男、三男の三名となっているが、外三人とすると、合わせて四人となり、数に不都合が生ずる。「三人」は、「二人」が正しいか。

57-2)「クシユンナイ」・・日本語表記地名「久春内」。「楠内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「東海岸なる真縫(マアヌイ)に至る横断路の基点にして、川に沿ひて上り、スメチヤノを経て、トドロキを越え、真縫川の谷に通ず。~此の間は一の地峡を成し、幅僅に七里となる。~南方トマリオロに至る七里半、北方ライチシカに至る十四里半。鰊漁業の一中心地。」とある。

57-2)「マカヌイ」・・「マアヌイ」、「マアヌエ」とも。日本語表記地名「真縫」。樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「本島(樺太)の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホツク海に濱す。」、「此地方は、古来名高き漁場なるのみならず、真縫は西海岸に越ゆる岐路として名高く、間宮(林蔵)氏は、此より地頸を横断して久春内に出でたり」とある。

57-2~3)「クシュンナイより山越致し、東浦マカヌイ江出」・・西海岸のクシュンナイ(久春内)~東海岸マカヌイ(真縫)は、サハリン島の最狭部

57-3)「搔送船(かきおくりぶね)」・・櫂(かい)で水を搔いて進める舟。ここでは、アイヌの板綴舟か。一方、搔送船に対比される舟として「押送船(櫓を押して進む船)~和船」がある。

57-3)「水先案内」・・船舶が港湾に入るとき、また、内海や運河などの水域を通航するとき、その船に乗り込み、また、水先船で正しい水路を案内すること。

57-4)「甚助」・・異本は「忠助」。

57-4)「無謂(いわれなく)」・・物事をなすのに、正当な根拠、理由がないこと。間違っていること。
57-5)「無制(むせい)」・・掟のないこと。定がないこと。法度がないこと。

57-6)「無訖度(きっとなく)」・・「訖」は、「屹」の誤用か。厳しくないこと。やさしいこと。

576.7)「廻浦之節~案内仕」・・シトクランが案内したのは、支配勘定上川傳一郎、同下役長谷川就作、御普請役代り津田十一郎、同福岡金吾、松前藩士今井八九郎。

     このうち、上川らの幕吏は「ホロコタン」まで、今井八九郎は更に北の「ナツコ」まで探索。

*「ホロコタン」・・日本語表記地名「鰭尾(ビレヲ)」で、『大日本地名辞書』には、「北緯五十度なる国境を距る、北方約二里の海岸」、また、今井八九郎の『北地里数取調書』では、「ホロコタン 此所夷家一軒、シメレンクル(スメルンクル)家五軒、~(略)~此所よりロモーまで山越ニ道有よし」とある。

57-9)「惣領(そうりょう)」・・ここでは、家を継ぐ子。嗣子。特に長男または長女。

57-10)「生成(うまれなり)」・・「成(なり)」は、動詞「なる(成)」の連用形の名詞化で、「生(な)ること。」、「生(お)出でること。」の意。「生成」の意は、生まれた時から。生れ付き。なお、異本は「生来」につくる。

57-10)「生質(せいしつ)」・・生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり

58-1)「曾祖父(そうそふ)」・・祖父または祖母の父。シトクランの直系尊属の系図は、曾祖父(ヨーチテアイノ=ヤウチウテイ=揚忠貞)―祖父(サヱンケアイノサン)―父(シロトマアイノ)―本人(シトクラン)―子(惣領サヱンケアイノ、次男アヱブ子、三男カンチユマンテ)。

58-2)「官人(かんにん、かんじん)」・・官吏。役人。日本の官制では、①諸司の主典(さかん)以上の役人。②近衛将監以下および院司の庁官などの総称。③検非違使庁の「佐」と「尉」の役人。

58-2)「副都統(ふくととう)」・・中国(清)の官名。清代の八旗制下の各旗の長官(満州語ではグーサ・イ・エジュン)である「都統(漢字)」の下に、都統を補佐するために二人置かれたのが「副都統(満州語メイレン・イ・エジュン)。いわゆる「副長官」。なお、「都統」は、主として兵馬のことをつかさどった。清初の1714年(康煕53年)三姓協領衙門の設置が上奏され、1731年(雍正9年)には三姓地方副都統の設置が上奏され、翌年には副都統が設置され、黒竜江下流、松花江中流域及び沿海州などを統括した。

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