森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2017年01月

1月学習 町吟味役中日記 注記 

(41-4)「引合(ひきあい)」・・かかわり合い。共犯者。

(41-4)「御仕置(おしおき)」・・処罰。処分。この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(1804)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(170411)までに成っていたとみられる。

(41-7)「及部(およべ)村」・・現松前郡松前町字朝日・字東山・字上川。近世の一時期存在した松前城下東在の村。松前湾に注ぐ河川のなかで最大の及部川の河口部と流域に位置する。同川は城下に最も近い鮭漁ができる川である。

   天明元年(1781)の松前広長「松前志」には及部村として「旧記及を覃につくれり、二村あり」とみえ、天明期までには二村に分離されたようである。なおこれ以降も下及部村を及部村と称することがあった。

(41-7)「初鱒(はつます)」・・「鱒」は、サケ目サケ科の魚類のうち「マス」と名のつく種類のものの俗称。多くはサクラマスをいうが、ベニマスとその陸封型のヒメマス、マスノスケ、ビワマス、カワマスなどの略称としても用いられる。

サケは秋に川を遡るが、サクラマスやサツキマスはその名が示す通り春~初夏に川を遡る。この遡上時期の差が本来のサケとマスの区別点となる。 サケもマスも産卵期は秋だが、春に遡上するマスは川で餌をとりながらゆっくりと上流に向うので、川で餌をとらないサケと違って身に脂がのって美味い。サクラマスやサツキマスが遡上する川では、初夏の御馳走として喜ばれる。

(41-7)「在方掛(ざいかたかか)り」・・松前藩町奉行配下の役職。

(41-8)「杦田留平」・・「杦」の字について、『新漢語林』は「国字」とし、「杉の旁の彡を書写体に従って久に改めたもの」とある。

   なお、板橋正樹著「幕末松前藩の警察下僚組織について(1)」(『松前藩と松前―松前町史研究紀要―20号』松前町史編集室刊 1958 所収)には、「杉田留兵衛」とある。

(42-1)「当賀(とうが)」・・松前藩では、表御殿での領主への拝謁が、毎月1日、15日に行われた。

(42-2)「御祝儀(ごしゅうぎ)」・・お祝いの挨拶。「しゅう」は「祝」の漢音。なお、「しゅく」は唐音。

(42-3)「野口屋又蔵」・・場所請負人。白老などを請負った。場所請負人。初代又蔵は、天明元年(1781)陸奥国北郡大畑村に生まれる。寛政年間、家兄に従い福山に来る。栖原角兵衛の店員となり、のち独立。文政10年(1827)、白老場所請負人となる。代々又蔵の名を継ぎ、屋号を(まるまた)と称し、4代まで白老の請負を継続した。なお野口屋は天保12(1841)以降シラヲイ場所の請負人を勤め、漁場経営のほか下宿所・人馬継立・書状継立・異変通報・備米管理・アイヌ介抱などの任にもあたり、明治2(1869)の場所請負制廃止や陸奥一関藩の分領支配を経たのちの同5(1873)以降も一時期白老郡漁場持となっている。

(42-4)<くずし字。「畢而(おわりて)」・・テキスト影印は「畢」の異体字。

(42-6)「蛯子七左衛門」・・箱館の町年寄。

(42-7)「伊藤清三郎」・・町年寄末席並名主締方(箱館詰)

(42-8)「和賀屋宇右衛門」・・箱館在住の場所請負人。有珠、三石、根室など

を請負った。

(43-2)「小林屋重吉」・・文政8(1825)1月箱館に生れる。幼名を庄五郎と言った。5代の祖庄兵衛は陸奥国北郡大畑村の人で、寛政年間松前に渡り、その子半次郎の時箱館に転住した。半次郎の子寅五郎は、文政年間東蝦夷地三石場所請負人となった。安政年間今の大野町に新田20町歩を開発し、また赤川にあすなろや杉を植林した。文久2(1862)私費をもって願乗寺川に鳥見橋を架け、後架け換えの時用材23石を寄附した。明治元年町年寄を命じられ、また箱館戦争で旧幕府脱走軍が港内に敷設した鋼索を自己所有の船を使用して排除した。更に箱館山裏の寒川から新政府軍を誘導して奇襲を成功させ、勝利の一端を担った。これによって後々まで官の信用を得た。またこの年、蛯子友輔が函館山の上より水道を開掘したが、資金が尽きて中止したのを自費1,600円を投じて工事を遂行し、汐見町、元町、会所町に清水を供給した。

    重吉はまた漁具、漁網改良を試み、三石郡姨布村に刻み昆布の製造所を設立し、清国(中国)への昆布輸出の基礎をつくり三石昆布として全国的に有名になった。明治14(1881)9月東川町に移転し、益々その業を盛んにした。その他学校、病院の設立、橋梁の架設、窮民の救済等枚挙にいとまがなかった。明治3643078歳で歿した。

(43-3)「林七郎兵衛」・・箱館の商人。松前藩の御雇船主。

(43-8)「若殿様、御水痘(すいとう)」・・「若殿様」は、8歳の良広(のち松前藩10代藩主)良広は、文政9(1826)523日生まれ。松前見広(ちかひろ。9代章広の次男)の子。「若殿様」とあるが、この時期、良広の父・見広はすでに他界し、祖父章広の嫡孫(承祖者)だった。祖父章広ののあと,天保5(1834)12月、9歳で松前藩主10代となる。病弱のため、同族の旗本松前広茂(ひろしげ)が藩政を担当。天保10(1839)824日死去。享年14

   「水痘」は、水痘ウイルスによって起こる感染症。みずぼうそう。

*松前藩10代松前良広を中心にして、時系列に、松前藩の系譜を見る。

章広(あきひろ)、9代藩主襲封。寛政4(1792)10月就任。

 ・寛政10(1798)、長男慶之助(よしのすけ)を嫡子とする。

  ・享和3(1803)長男慶之助、死亡。10歳。

  ・同年、次男誠之介(のち見広=ちかひろ=)を嫡子とする。

  ・文政6(1823)5月、見広に長男隆之介(のち10代良広=よしひろ=)生まれる。

  ・文政10(1827)7月、見広、死去。23歳。

  ・文政10(1827)8月、見広の次男準次郎(のち11代昌広=まさひろ=)生まれる。

  ・同年、良広、祖父章広(9代藩主)の嫡孫(承祖者)を許可される。

 ○天保3(1832)4月、テキスト・奥平勝馬の「町吟味役中日記」

    「若殿様(良広=9代章広の孫)、御水痘ニ被為在」

  ・天保4(1833)7月、9代章広死去59歳。死去の公表は、翌5(1834)9月。

  ・松前藩、対応策に奔走、同族の旗本松前広茂を藩主名代とし、許可される。

 ○良広、9歳で、10代藩主襲封。天保5(1834)12月。

  ・良広、病弱(『松前町史』には、精神病説も記載)で、将軍への家督御礼の拝謁もできなかった。藩では、新たな善後策を講じる必要を迫られ、名代広茂の在国延長を再三願い出る。

  ・天保10(1839)7月、準次郎(のち、11代昌広)、兄10代藩主良広(14)の嗣子となる。松前藩、領主権の危機を脱する。

  ・天保10(1839)8月、良広死去。14歳。

 ○昌広、13歳で、11代藩主となる。天保10(1839)10

*テキストの天保3(1832)は、松前藩にとって、嫡子(章広の長男・慶之助、次男・見

広の早逝、藩主章広の高齢化、嫡孫良広の病弱という中で、前途に暗雲が立ち込めてい

た時期であった。

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魯夷始末書1月学習注記


(60-1)<くずし字>「申ニも」の「申」
・・くずしは、「中」のように見える。どちらかという 
     と、「P」に近い。

60-1)「間鋪(まじく)」・・「まじく」は、強い打消し推量の助動詞「まじ」の連用形。漢字で表記される場合、「間敷」の「敷」と混用され、「間鋪」が頻出する。「鋪」を使った用例として、「屋鋪」、「厳鋪」などがある。

60-2)「祖父」・・異本は「父祖」。「祖父」は、「父母の父」、「父祖」は、先祖、祖先の意が強い。「父祖」の方が文意に適合しているか。

60-2)「利欲(りよく)」・・利益を得ようとする欲望。

60-2)「当節(とうせつ)」・・この時節。現今。今。

60-3)「用立(ようだち)」・・「用立(ようだ)つ」の連用形。役に立つ。用いることができる。

60-3)「仁恵(じんけい)」・・なさけ。めぐみ。慈悲。

60-4)「御懐ケ被遊候(おなつけあそばされそうろう)」・・「懐(なつ・なづ)ケ」は、「懐(なつ・なづ)ける」の連用形。なつくようにする。てなずけて従わせる。「遊ばされ」は、補助動詞「遊ばす」の連用形。多く動作性の語に付いて、その動作をする人に対する尊敬の意を表わす。動詞の連用形につく場合は、多く、尊敬の接頭語「お」を伴う。本文の例は、「お(御)」+「懐(なつ・なづ)け」(動詞の連用形)+「被遊(あそばされ)」+「候(そうろう)」

     「遊ばす」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<意味は徐々に「あそぶ」意から広がったが、長く芸能・技芸の範囲にとどまっていた。中世の「平家物語」(覚一本)でも、書く意、演奏する意、読経する意、詠ずる意、射る意であり、一般的なする意の用例は、中世末期から近世初期を待たねばならない。近世には補助動詞用法も生じた。敬意は高いが、戦後は衰勢にあり、文部省の『これからの敬語』(1952)でも、「お…あそばす」を「おいおいにすたれる形であろう」としている>とある。

60-4)<くずし字>「被遊候ハバ」・・「被」も、「遊」も決まり字。「遊」は、旁の「方」が偏のようになり、シンニョウは、旁のに続けて「を」のようになる。

60-4)「帰服(きふく・きぶく)」・・つき従うこと。支配下にはいること。服従。帰順。降伏。降参。

60-4)「一助(いちじょ)」・・ちょっとした助け。何かのたし。

60-4)「却而(かえって)」・・副詞。〔「かえりて」の転〕。反対に。逆に。

60-6)<見せ消ち>「カンチユコンテ」・・先に書かれたのは「カンチヱマンラ」。「ヱ」「マ」「ラ」の左にある点(ヽ)は、訂正したことを示す見せ消ち記号。それぞれの右に、「ヱ」を「ユ」、「マ」を「コ」、「ラ」を「テ」と訂正している。異本は「カンチユマンテ」。

60-6)「シラリヲハマ」・・「シララヲロ」とも。日本語表記名「白浦(シラヲロ)」。ここでは樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「元東白漘(ヒガシシラオロ)といへり。白浦村に駅逓あり、南は十里にしてアイ驛に至り、北は二里にして真縫驛に接す。」とある。

60-6)「ウヱケシナ」・・異本は「ウエケシユ」とする。アイヌの人名。

60-6)「ロレイ」・・日本語表記地名「魯礼」「露礼」。樺太東海岸のうち。

『大日本地名辞書』には、「(栄浜の)近地に、シユマヤ、サツサジ、ロレイなどの名あり。」とし、「ロレイ」の名が見える。

60-7)「コタン」・・異本は「コンタ」とする。アイヌの人名。

60-7)「ヲソヱンコ」・・「ヲソエコニ」とも。日本ご表記地名「押江」。樺太東海岸のうち。

6010)「ヱノシマナイ」・・「ヱヌシコマナイ」、「ヱヌシコマナイホ」、「イヌシコマナイ」とも。日本語表記地名「犬駒内」、「犬主駒」、「江主高麗内」とも。樺太南海岸のうち。『大日本辞書』には、「於布伊泊(ヲフユトマリ)の隣村とす、イヌシコマ川(ナイ)といふ。釜泊はさらに犬主駒の東に在り。」、「楠渓(クシユンコタン)より、四里にしてヲフイトマリ番屋一軒、土人家五軒許、六里にしてイヌシコマナイ、土人家十軒許。」とある。

6010)「ハイロ」・・異本は「ロクヽシ厄介 ハイロ」とする。

61-1)「ヲマヘツ」・・「ヲマンベツ」とも。日本語表記地名「小満別」。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』に「満別」として「遠淵の南方六里の孤村にし、大、小の二部に分かる。」とあり、「大」が「弥満別(ヤワンベツ)」、「小」が「小満別(ヲマンベツ)」か。

61-3)「恐敷(おそろしく)」・・「恐」は、旁のくずし様によって判読の困難さは増す(『古文書くずし字200選 柏書房』)とされている。

61-4)「普請(ふしん)」・・家屋を建て、また修理すること。建築または土木工事。

61-4)「懇意(こんい)」・・親しくしていること。遠慮のいらない間柄であること。

61-5)「首長(しゅちょう)・・上に立って集団や団体を支配、統率する人。かしら。ここでは、クシュンコタンに建てられた「ムラヴィヨフ哨󠄀所」の隊長ニコライ・ブッセ(本書ではフースセ)を指す。

61-5)「迠(まで)」・・「迄」の誤用。(『新漢語林』)。なお、「迄」と、「迠」は別字で、

     読みも「迄」は、「キツ(漢音)」「コチ(呉音)」、「迠」は、「ショウ」。

61-6)「俄(にわか)に」・・形容動詞「俄(にわか)なり」の連用形。物事が急に起こるさま。また、事態が急変するさま。急激で荒々しいさま。だしぬけ。突然。

61-6)「咎(とが、とがめ)」・・罪、罰。

61-6)「只管(ひたすら)」・・もっぱらそのことに集中するさま、その状態に終始するさまを表わす語。いちずに。ただただ。なお、「只管」は、元来は漢語・仏教用語で、「シカン」と読み、「ただ、ひたすら、一途に、余念をまじえないで」といった意。「只管打坐(しかんたざ)」は、余念をまじえず、ただひたすらに坐禅を行うこと。坐禅に意義や条件をもとめず、無所得の立場に立って坐禅を実践するもので、道元が強調した禅。

61-7)「同船(どうせん)」・・同じ船に乗ること。乗り合わせること。

61-7)「領主役人」・・松前藩士の三輪持、氏家丹右衛門ら。

61-7)「召連(めしつれ)」・・下二動詞「召連(めしつ)る」の連用形。貴人が従者などを従えていく。

61-8)「国法(こくほう)」・・徳川幕府の定めた禁令、法度などの法令のこと。ここでは、いわゆる「鎖国令」としての「海外渡航の禁止」のことを指す。。松前奉行や箱館奉行が任地に赴く時の将軍黒印状に「海外渡航の禁止」のことが触れられている。

*<文化五年(1808)正月七日付松前奉行(荒尾但馬守)宛徳川家斉黒印状>

「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不及申、雖蝦夷人、異国江令渡海儀、堅可停止」(『蝦夷地御用内密留』~阿部家文書/道立文書館保管)

*<嘉永七年(1854)閏七月十五日付箱館奉行(竹内下野守)宛徳川家定黒印状>

「日本人異国江不可遣之、若異国住宅之日本人於帰朝者、宗門其外念入相糺可注進之」(国立公文書館内閣文庫所蔵)

*<安政三年(1856)二月十五日付箱館奉行(村垣淡路守)宛徳川家定黒印状>

「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不及申、雖蝦夷人、異国江令渡海儀、堅停止之」(国立公文書館内閣文庫所蔵)

6110)「何方江歟(いづかたえか)」・・「歟(か)」は、係助詞で、種々の語、語句に付いて不確かな気持ちを表す。

62-1)「行衛(ゆくえ)」・・「行方」と同義。行くべき方向。行った方向。

62-2)「理解(りかい)」・・ここは、道理を説いて聞かせること。

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