(41-4)「引合(ひきあい)」・・かかわり合い。共犯者。
(41-4)「御仕置(おしおき)」・・処罰。処分。この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(1804)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(1704~11)までに成っていたとみられる。
(41-7)「及部(およべ)村」・・現松前郡松前町字朝日・字東山・字上川。近世の一時期存在した松前城下東在の村。松前湾に注ぐ河川のなかで最大の及部川の河口部と流域に位置する。同川は城下に最も近い鮭漁ができる川である。
天明元年(1781)の松前広長「松前志」には及部村として「旧記及を覃につくれり、二村あり」とみえ、天明期までには二村に分離されたようである。なおこれ以降も下及部村を及部村と称することがあった。
(41-7)「初鱒(はつます)」・・「鱒」は、サケ目サケ科の魚類のうち「マス」と名のつく種類のものの俗称。多くはサクラマスをいうが、ベニマスとその陸封型のヒメマス、マスノスケ、ビワマス、カワマスなどの略称としても用いられる。
サケは秋に川を遡るが、サクラマスやサツキマスはその名が示す通り春~初夏に川を遡る。この遡上時期の差が本来のサケとマスの区別点となる。 サケもマスも産卵期は秋だが、春に遡上するマスは川で餌をとりながらゆっくりと上流に向うので、川で餌をとらないサケと違って身に脂がのって美味い。サクラマスやサツキマスが遡上する川では、初夏の御馳走として喜ばれる。
(41-7)「在方掛(ざいかたかか)り」・・松前藩町奉行配下の役職。
(41-8)「杦田留平」・・「杦」の字について、『新漢語林』は「国字」とし、「杉の旁の彡を書写体に従って久に改めたもの」とある。
なお、板橋正樹著「幕末松前藩の警察下僚組織について(1)」(『松前藩と松前―松前町史研究紀要―20号』松前町史編集室刊 1958 所収)には、「杉田留兵衛」とある。
(42-1)「当賀(とうが)」・・松前藩では、表御殿での領主への拝謁が、毎月1日、15日に行われた。
(42-2)「御祝儀(ごしゅうぎ)」・・お祝いの挨拶。「しゅう」は「祝」の漢音。なお、「しゅく」は唐音。
(42-3)「野口屋又蔵」・・場所請負人。白老などを請負った。場所請負人。初代又蔵は、天明元年(1781)陸奥国北郡大畑村に生まれる。寛政年間、家兄に従い福山に来る。栖原角兵衛の店員となり、のち独立。文政10年(1827)、白老場所請負人となる。代々又蔵の名を継ぎ、屋号を又(まるまた)と称し、4代まで白老の請負を継続した。なお野口屋は天保12年(1841)以降シラヲイ場所の請負人を勤め、漁場経営のほか下宿所・人馬継立・書状継立・異変通報・備米管理・アイヌ介抱などの任にもあたり、明治2年(1869)の場所請負制廃止や陸奥一関藩の分領支配を経たのちの同5年(1873)以降も一時期白老郡漁場持となっている。
(42-4)<くずし字。「畢而(おわりて)」・・テキスト影印は「畢」の異体字。
(42-6)「蛯子七左衛門」・・箱館の町年寄。
(42-7)「伊藤清三郎」・・町年寄末席並名主締方(箱館詰)
(42-8)「和賀屋宇右衛門」・・箱館在住の場所請負人。有珠、三石、根室など
を請負った。
(43-2)「小林屋重吉」・・文政8年(1825)1月箱館に生れる。幼名を庄五郎と言った。5代の祖庄兵衛は陸奥国北郡大畑村の人で、寛政年間松前に渡り、その子半次郎の時箱館に転住した。半次郎の子寅五郎は、文政年間東蝦夷地三石場所請負人となった。安政年間今の大野町に新田20町歩を開発し、また赤川にあすなろや杉を植林した。文久2年(1862)私費をもって願乗寺川に鳥見橋を架け、後架け換えの時用材23石を寄附した。明治元年町年寄を命じられ、また箱館戦争で旧幕府脱走軍が港内に敷設した鋼索を自己所有の船を使用して排除した。更に箱館山裏の寒川から新政府軍を誘導して奇襲を成功させ、勝利の一端を担った。これによって後々まで官の信用を得た。またこの年、蛯子友輔が函館山の上より水道を開掘したが、資金が尽きて中止したのを自費1,600円を投じて工事を遂行し、汐見町、元町、会所町に清水を供給した。
重吉はまた漁具、漁網改良を試み、三石郡姨布村に刻み昆布の製造所を設立し、清国(中国)への昆布輸出の基礎をつくり三石昆布として全国的に有名になった。明治14年(1881)9月東川町に移転し、益々その業を盛んにした。その他学校、病院の設立、橋梁の架設、窮民の救済等枚挙にいとまがなかった。明治36年4月30日78歳で歿した。
(43-3)「林七郎兵衛」・・箱館の商人。松前藩の御雇船主。
(43-8)「若殿様、御水痘(すいとう)」・・「若殿様」は、8歳の良広(のち松前藩10代藩主)良広は、文政9年(1826)5月23日生まれ。松前見広(ちかひろ。9代章広の次男)の子。「若殿様」とあるが、この時期、良広の父・見広はすでに他界し、祖父章広の嫡孫(承祖者)だった。祖父章広ののあと,天保5年(1834)12月、9歳で松前藩主10代となる。病弱のため、同族の旗本松前広茂(ひろしげ)が藩政を担当。天保10年(1839)8月24日死去。享年14。
「水痘」は、水痘ウイルスによって起こる感染症。みずぼうそう。
*松前藩10代松前良広を中心にして、時系列に、松前藩の系譜を見る。
○章広(あきひろ)、9代藩主襲封。寛政4年(1792)10月就任。
・寛政10年(1798)、長男慶之助(よしのすけ)を嫡子とする。
・享和3年(1803)長男慶之助、死亡。10歳。
・同年、次男誠之介(のち見広=ちかひろ=)を嫡子とする。
・文政6年(1823)5月、見広に長男隆之介(のち10代良広=よしひろ=)生まれる。
・文政10年(1827)7月、見広、死去。23歳。
・文政10年(1827)8月、見広の次男準次郎(のち11代昌広=まさひろ=)生まれる。
・同年、良広、祖父章広(9代藩主)の嫡孫(承祖者)を許可される。
○天保3年(1832)4月、テキスト・奥平勝馬の「町吟味役中日記」
「若殿様(良広=9代章広の孫)、御水痘ニ被為在」
・天保4年(1833)7月、9代章広死去59歳。死去の公表は、翌5年(1834)9月。
・松前藩、対応策に奔走、同族の旗本松前広茂を藩主名代とし、許可される。
○良広、9歳で、10代藩主襲封。天保5年(1834)12月。
・良広、病弱(『松前町史』には、精神病説も記載)で、将軍への家督御礼の拝謁もできなかった。藩では、新たな善後策を講じる必要を迫られ、名代広茂の在国延長を再三願い出る。
・天保10年(1839)7月、準次郎(のち、11代昌広)、兄10代藩主良広(14歳)の嗣子となる。松前藩、領主権の危機を脱する。
・天保10年(1839)8月、良広死去。14歳。
○昌広、13歳で、11代藩主となる。天保10年(1839)10月
*テキストの天保3年(1832)は、松前藩にとって、嫡子(章広の長男・慶之助、次男・見
広の早逝、藩主章広の高齢化、嫡孫良広の病弱という中で、前途に暗雲が立ち込めてい
た時期であった。
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