(59-1)「莚(むしろ)」・・藺(い)・竹・藁(わら)・蒲(がま)などで編んで作った敷物の総称。平安・鎌倉期は屋内用であったが、畳の普及後は屋外用となった。今はもっぱら藁筵(わらむしろ)をいう。
*「莚」・・草で作ったむしろ。
「筵」・・竹製のむしろ。
「蓆」・・草でつくったむしろ。
「席」・・むしろ。「筵」は下に敷くもの。「席」は、その上に敷くもの。
(59-1)「埋(うづむ・うづむる)」・・下2段「うづむ」の連体形。物の一部、または全部を土や灰の中などに入れ込んで外から見えなくする。また、埋葬する。いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。
*<文法>・・平安期は、4段活用「うづむ」の連体形「うづむ」だが、室町期以降は下2段活用の連体形「うづむる」の用例が出てくる。
*「うずむ・うずめる」の基本的な意味は、「物の上に土など盛り上げて覆う」ことであり、これに対し、「うむ・うめる」のほうは「くぼみなどに物をつめてふさぐ、また、物を土などの中に入れ込む」ことである。中にある物は、「うずむ」「うむ」どちらの場合でも隠れて見えなくなるところから、同じような意味に用いられるようになったと思われる。「うずむ」・・・いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。
「うずめる」・・人や物で、ある場所をいっぱいにする。いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。
「うめる」・・あたたかさや濃さを適度にするために、他の物をまぜ入れる。損失や不足などを補う。「欠員をうめる」「赤字をうめる」
(59-2)「訴出(うったえいで」・・事情を述べ伝える。また、要求や不平、うらみなどを人に告げる。申し出る。「出(いで)」は、下2動詞「出(い)づ」の連用形。
(59-3)「勝見米三郎」・・文政期の『松前藩士名簿控』には、足軽並に勝見米三郎の名前が見える。
(59-4)「相立(あいたち)」・・「相」は接頭語。「立(たち)」は、「たつ」の連用形。時が過ぎる。現在では、「経つ」を用いることが多い。
(59-4)「着類(きるい)」・・着るもの。衣類。衣服。また、そのたぐい。「着類(きるい)」と読むのは湯桶読み。
*湯桶読み・・(「ゆ」は「湯」を訓読みしたもの、「とう」は「桶」を音読みしたものであるところから)上の字を訓で、下の字を音で読むこと。テキストの場合、「着(き)」は訓読み、「類(るい)」は音読み。ほかに、「手本(てほん)」「身分(みぶん)」「野宿(のじゅく)」「下絵(したえ)」「夕刊(ゆうかん)」など。
*「咄家(はなしか)と云ては湯桶訓(ユトウヨミ)だ。咄は訓なり、家は漢音だ」(滑稽本・浮世床〔1813〜23〕)
*ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、
<「書言字考節用集」が初出とされるが、それに先行して、「文明本節用集」(室町中)には「湯桶文章」、「かた言‐五」(一六五〇)には「湯桶言葉」といった表現が見られる。元来は音訓の順番を問わず混読語の総称として用いられていた。明治時代でも大槻文彦の「言海」(一八八九)では「重箱読み」との区別がされていないが、山田美妙の「日本大辞書」(一八九二〜九三)では区別している。使い分けが定着したのは、第二次世界大戦後か。>とある。
(59-6)「吉岡村(よしおかむら)」・・現松前郡福島町字吉岡・字館崎(たてさき)・字豊浜・字美山。近世から明治39年(1906)まで存続した村。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置し、北方は宮歌(みやのうた)村、東は津軽海峡。明治39年(1906)吉岡・宮歌・礼髭(れいひげ)の三村が合併、二級町村吉岡村を経て、。昭和30年(1955)福島町に合併。
(59-6~7)「廣念庵(こうねんあん)」・・光念庵(のち海福寺)。元禄6年(1693)高庵により造営。浄土宗。松前正行寺末。
(59-7)「回向(えこう)」・・読経や念仏など、善根の功徳を死者に手向けること。死者の冥福(めいふく)を祈って読経をしたり、念仏を唱えたり、供えをしたりすること。供養。たむけ。
*「回」を「え」と読むのは、唐音の「ウイ」から転じたと思われるが、慣用音とする辞書もあり、湯桶読みともいえる。
(59-8)「正行寺(しょうぎょうじ)」・・現松前町字豊岡にある浄土宗の寺院。近世の松前城下に所在。文化(1804~18)頃の松前分間絵図によると武家屋敷地に隣接しており、南西方に法華寺がある。護念山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)とも伝える。元禄14年(1701)京都知恩院の末寺となった。寛政9年(1797)10月大松前町からの出火で馬形宮・法華寺などとともに類焼。文政10年(1827)12月2日には当寺から出火して全焼した。明治6年(1873)福山・檜山漁民騒動といわれる減税要求の漁民一揆が江差・松前地域に起きた際、浄土宗の光善こうぜん寺とともにその結集の場となった。
(59-8)「被下候もの」・・下され物。頂戴物。拝領品。たまわりもの。くだされ。
(59-9)「取調子(とりじょうし)」・・取調べ書。
(60-枠外上)「捨札(すてふだ)」・・近世、重罪人の処刑前後、その氏名・年齢および科書といわれる罪状を板に記し、広く民衆への見せしめのため、三十日間街頭に掲げた高札の一種。鋸挽・火焙・磔・獄門などの執行時は必ず建てられた。『御定書百箇条』に「磔(中略)科書之捨札建之」とある。江戸での火焙には捨札が日本橋・筋違橋・赤坂御門・両国橋・四谷御門の五ヵ所に建てられ、これを五ヵ所引廻と呼び、引廻の際、先頭を歩む非人が捨札をかかげ持った。罪状公示の外にも、通達文書が書かれた場合もある。
*1行1文字の縦書き・・日本語は漢文に倣い、文字を上から下へ、また行を右から左へと進めて表記を行うものである。漢字と仮名は縦書きを前提とした筆順。扁額や石碑の題字などは一見すると右横書きのように見えるが、これらは「1行1文字の縦書き」、つまり縦書きの規範で書かれたものであって右横書きではない。日本で出版物に左横書きが現れるのは、18世紀後半に蘭学が紹介されてからのこと。
◎「昔は右横書き、戦後左書き」という説明は正確ではない。
◎戦後、GHQによるローマ字採用勧告や漢字の廃止運動など、西欧の記法に倣う左横書きが革新的、「1行1文字の縦書き」は保守的、というイメージは決定的なものとなり、「1行1文字の縦書き」は衰退の一途をたどることとなった。
◎戦前は1行1文字右縦書きだったが、戦後左横書きになった。
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