森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2017年04月

  4月 町吟味役中日記注記                                              

(59-1)「莚(むしろ)」・・藺(い)・竹・藁(わら)・蒲(がま)などで編んで作った敷物の総称。平安・鎌倉期は屋内用であったが、畳の普及後は屋外用となった。今はもっぱら藁筵(わらむしろ)をいう。

 *「莚」・・草で作ったむしろ。

  「筵」・・竹製のむしろ。

  「蓆」・・草でつくったむしろ。

  「席」・・むしろ。「筵」は下に敷くもの。「席」は、その上に敷くもの。

(59-1)「埋(うづむ・うづむる)」・・下2段「うづむ」の連体形。物の一部、または全部を土や灰の中などに入れ込んで外から見えなくする。また、埋葬する。いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

 *<文法>・・平安期は、4段活用「うづむ」の連体形「うづむ」だが、室町期以降は下2段活用の連体形「うづむる」の用例が出てくる。

*「うずむ・うずめる」の基本的な意味は、「物の上に土など盛り上げて覆う」ことであり、これに対し、「うむ・うめる」のほうは「くぼみなどに物をつめてふさぐ、また、物を土などの中に入れ込む」ことである。中にある物は、「うずむ」「うむ」どちらの場合でも隠れて見えなくなるところから、同じような意味に用いられるようになったと思われる。「うずむ」・・・いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

「うずめる」・・人や物で、ある場所をいっぱいにする。いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

「うめる」・・あたたかさや濃さを適度にするために、他の物をまぜ入れる。損失や不足などを補う。「欠員をうめる」「赤字をうめる」

(59-2)「訴出(うったえいで」・・事情を述べ伝える。また、要求や不平、うらみなどを人に告げる。申し出る。「出(いで)」は、下2動詞「出(い)づ」の連用形。

(59-3)「勝見米三郎」・・文政期の『松前藩士名簿控』には、足軽並に勝見米三郎の名前が見える。

(59-4)「相立(あいたち)」・・「相」は接頭語。「立(たち)」は、「たつ」の連用形。時が過ぎる。現在では、「経つ」を用いることが多い。

(59-4)「着類(きるい)」・・着るもの。衣類。衣服。また、そのたぐい。「着類(きるい)」と読むのは湯桶読み。

  *湯桶読み・・(「ゆ」は「湯」を訓読みしたもの、「とう」は「桶」を音読みしたものであるところから)上の字を訓で、下の字を音で読むこと。テキストの場合、「着(き)」は訓読み、「類(るい)」は音読み。ほかに、「手本(てほん)」「身分(みぶん)」「野宿(のじゅく)」「下絵(したえ)」「夕刊(ゆうかん)」など。

  *「咄家(はなしか)と云ては湯桶訓(ユトウヨミ)だ。咄は訓なり、家は漢音だ」(滑稽本・浮世床〔1813〜23〕)

  *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

<「書言字考節用集」が初出とされるが、それに先行して、「文明本節用集」(室町中)には「湯桶文章」、「かた言‐五」(一六五〇)には「湯桶言葉」といった表現が見られる。元来は音訓の順番を問わず混読語の総称として用いられていた。明治時代でも大槻文彦の「言海」(一八八九)では「重箱読み」との区別がされていないが、山田美妙の「日本大辞書」(一八九二〜九三)では区別している。使い分けが定着したのは、第二次世界大戦後か。>とある。

(59-6)「吉岡村(よしおかむら)」・・現松前郡福島町字吉岡・字館崎(たてさき)・字豊浜・字美山。近世から明治39年(1906)まで存続した村。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置し、北方は宮歌(みやのうた)村、東は津軽海峡。明治39年(1906)吉岡・宮歌・礼髭(れいひげ)の三村が合併、二級町村吉岡村を経て、。昭和30(1955)福島町に合併。

(59-67)「廣念庵(こうねんあん)」・・光念庵(のち海福寺)。元禄6(1693)高庵により造営。浄土宗。松前正行寺末。

(59-7)「回向(えこう)」・・読経や念仏など、善根の功徳を死者に手向けること。死者の冥福(めいふく)を祈って読経をしたり、念仏を唱えたり、供えをしたりすること。供養。たむけ。

  *「回」を「え」と読むのは、唐音の「ウイ」から転じたと思われるが、慣用音とする辞書もあり、湯桶読みともいえる。

(59-8)「正行寺(しょうぎょうじ)」・・現松前町字豊岡にある浄土宗の寺院。近世の松前城下に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると武家屋敷地に隣接しており、南西方に法華寺がある。護念山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)とも伝える。元禄14年(1701)京都知恩院の末寺となった。寛政9年(179710月大松前町からの出火で馬形宮・法華寺などとともに類焼。文政10年(1827122日には当寺から出火して全焼した。明治6年(1873)福山・檜山漁民騒動といわれる減税要求の漁民一揆が江差・松前地域に起きた際、浄土宗の光善こうぜん寺とともにその結集の場となった。

(59-8)「被下候もの」・・下され物。頂戴物。拝領品。たまわりもの。くだされ。

(59-9)「取調子(とりじょうし)」・・取調べ書。

(60-枠外上)「捨札(すてふだ)」・・近世、重罪人の処刑前後、その氏名・年齢および科書といわれる罪状を板に記し、広く民衆への見せしめのため、三十日間街頭に掲げた高札の一種。鋸挽・火焙・磔・獄門などの執行時は必ず建てられた。『御定書百箇条』に「磔(中略)科書之捨札建之」とある。江戸での火焙には捨札が日本橋・筋違橋・赤坂御門・両国橋・四谷御門の五ヵ所に建てられ、これを五ヵ所引廻と呼び、引廻の際、先頭を歩む非人が捨札をかかげ持った。罪状公示の外にも、通達文書が書かれた場合もある。

 11文字の縦書き・・日本語は漢文に倣い、文字を上から下へ、また行を右から左へと進めて表記を行うものである。漢字と仮名は縦書きを前提とした筆順。扁額や石碑の題字などは一見すると右横書きのように見えるが、これらは「11文字の縦書き」、つまり縦書きの規範で書かれたものであって右横書きではない。日本で出版物に左横書きが現れるのは、18世紀後半に蘭学が紹介されてからのこと。

  ◎「昔は右横書き、戦後左書き」という説明は正確ではない。

◎戦後、GHQによるローマ字採用勧告や漢字の廃止運動など、西欧の記法に倣う左横書きが革新的、「11文字の縦書き」は保守的、というイメージは決定的なものとなり、「11文字の縦書き」は衰退の一途をたどることとなった。

◎戦前は11文字右縦書きだったが、戦後左横書きになった

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【2017.4月学習 注記】

0―1)「箱館奉行」・・享和2(1802223日、蝦夷地奉行として新設されたが、同  

   年510日(『柳営補任』では33日、『通航一覧』付録は5117)、箱館奉行と改称、以後、文化4(1807)101024日、奉行所が、箱館から福山(松前)に移転し、松前奉行と改称した。

0-1)「支配組頭」・・支配吟味役。支配吟味役は、300俵高、御役金百両。定員3人。

0-1)「高橋三平」・・高橋守重賢(たかはししげかた)。幕臣。生没:宝暦8(1758)~天保4(1833)。寛政11(1799)蝦夷地御用を命じられる。享和2(1802)1018日箱館奉行支配吟味役となる。文化10(1813)のロシア人艦長ゴロウニンの釈放交渉では応接掛を務めた。のち、文政3(1820)38日、松前奉行となる。

0-2・4)「被□仰付」・・「被」と「仰付」の間が空いているが、「仰」などの文字の前を空けることがある。これは古文書特有の尊敬の体裁で、「欠字」という。

0-4)「卯」・・文化4丁卯年(1807)

0-5)「御目付(おめつけ)」・・江戸幕府・諸藩の職名。定員は、初め十数名~20名程に及んだが、享保17(1732)10名に定まった。若年寄に属し、旗本・御家人の監察、諸役人の勤方の査検を任とし、日常は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成の供奉列の監察、評定所出座などを分掌。享保8(1723)に役高千石とされた。     退任後は、長崎奉行、佐渡奉行などの遠国奉行、小普請奉行などへ進む者が多かった。

0-5)「遠山金四郎」・・遠山景晋(かげみち。かげくにとも。)。幕臣。生没:宝暦2(1752)~天保8(1837)。通称、金四郎。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。この時、金四郎は左衛門と改名。箱館着は712日。寛政6(1794)学問吟味甲科筆頭で合格。目付(享和2(1802)3.13~文化9(1812)2.17)、その後、長崎奉行、同13(1816)作事奉行。数度、蝦夷地に渡り、踏査・交渉にあたった。子の景元は、名奉行と称された「遠山の金さん」。

0-6)「御使番(おつかいばん)」・・江戸幕府の職名。若年寄支配の役料500俵、役高は千石。島原の乱後は、軍事的な職務は必要なくなり、全国統治上の視察、監察を主要な役職とした。また、目付とともに、火事場の視察、報告、指揮、大名火消、定火消役の監察、考査などにあたった。定員は、元和3(1617)28名と定められたが、文化年間(1804~18)以降は、560名程度。慶応年間は110余人の人員がみられる。

0-6)「小菅猪右衛門(こすげいえもん)」・・小菅正容(まさかた)。幕臣。高1500石。使番の在任期間:寛政9(1797)正.11~文化510.24。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。箱館着は726日。

(1-1)「村上大学」・・村上義雄(よしかつ)。幕臣。高1065石。使番在任期間:享和2(1802)正.11~文化7(1810)7.8.目付へ。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。箱館着は711日。この時、大学は監物と改名。

(1-3)「彼地へ被指遣(さしつかわされ)」・・「被指遣」。「指遣」は、普通は「差遣」。派遣される。「へ」は、「ヽ」と右側のみになる場合が多い。「被」は、小さく、ひらがなの「ら」のように書く場合がある。

(1-5)「発足(はっそく・ほっそく)」・・旅立つこと。出立すること

(1-8)「大名三手江壱人宛」・・「大名三手」とあるが、箱館奉行羽太正養が派兵を要請したのは、南部藩・津軽藩・秋田藩・庄内藩の4藩。南部・津軽・秋田・庄内藩では変報到来とともに出兵の準備をなし、6月中には4藩の兵3000人余が箱館に到着、箱館(南部勢342、秋田勢591人)・サハラ(南部勢30人)・ウラカワ(南部勢100人)・アッケシ(南部勢130人)・ネムロ(南部勢130人)・クナシリ(南部勢380人)・松前(南部勢130人、津軽勢330人。    

庄内勢318人)・江差(津軽勢300人)・ソウヤ(津軽勢230人)・シャリ(津軽勢100人)に分遣される。

(1-8)「差添(さしぞい)」・・付き添うこと。かかわり合うこと。他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。小菅、村上らは、諸藩の兵を監督した。

(1-9)「南部大膳大夫(なんぶだいぜんのだいぶ・だいぜんのかみ)」・・大名。陸奥国盛岡藩の10代藩主南部利敬(としたか)。受領名、大膳大夫。藩主在任期間:天明4(1784)7.17~文政3(1820)6.15

(2-1)「津軽越中守」・・大名。陸奥国弘前藩(津軽藩とも)の9代藩主、津軽寧親(やすちか)。受領名、出羽守、越中守。藩主在任期間は寛政3(1791)8.28~文政8(1825)4.10)。

(2-2)「発駕(はつが・ほつが)」・・駕籠で出立すること。貴人の出立をいう。

(2-5)「松平政千代」・・大名。陸奥国仙台藩9代藩主伊達周宗(ちかむね)。通称、政千代。受領名、なし(歴代藩主で唯一人「陸奥守」の受領名がない)。寛政8(1796)、父斉村(なりむら)の死により、伯父堀田正敬の補佐のもと、10歳で襲封。藩主在任期間は寛政8(1796)9.29~文化9(1812)2.7。文化9(1812)424日卒、17歳。なお、「松平」姓は、慶長13(1608)に、初代藩主政宗が賜り、陸奥守に転任していることから、以後の藩主も、「松平」の姓を名乗ることがある。

(2-6)「千勢」・・「千」は、「手」で、手勢か。手勢は、その人が直接ひきいている軍勢。

(2-7)「佐竹右京大夫(さたけうきょうのだいぶ・うきょうのかみ)」・・大名。出羽国秋田藩(別称久保田藩)9代藩主佐竹義和(よしまさ)。受領名、右京大夫。藩主在任期間は、天明5(1785)726日~文化12(1815)78日。

(2-9)「物頭(ものがしら)」・・弓組、槍組、鉄砲組などの足軽の頭。足軽大将。 

(3-3)「若年寄(わかどしより)」・・江戸幕府で老中に次ぐ要職。将軍に直属し、老中支配以外の諸役人及び旗本を統轄した。定員は、3~5人。ほかに、将軍世子付の西丸若年寄、前将軍付きの大御所付若年寄があった。6万石以下(主に1万石~3万石)の譜代大名で、奏者番、奏者番兼寺社奉行、側衆、大番頭などからの登用が多かった。

(3-3)「堀田摂津守(ほったせっつのかみ)」・・大名。近江国堅田藩主堀田正敬(まさあつ)。受領名、摂津守。仙台藩9代藩主伊達宗村の8男で、近江国堅田藩主堀田正富の養子となる。若年寄(在任期間:寛政2(1790)~天保3(1832))として財政事務を担当し、老中松平定信を補佐するとともに、『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務めた。のち、文政3(1820)、下野国佐野へ転封。

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『蝦夷錦』4月学習注記(1)

【書誌】

  本書の影印は、昭和8(1933)127日、北海道帝国大学附属図書館(現北海道大学附属図書館)の所蔵になった『蝦夷錦』である。成立年は文化4(1807)

内容説明 文化丁卯事件の際の公私文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の     狼狽振りがよくあらわれている。

【文化露寇事件まで】(『新北海道史年表』参照)

<寛政4年(1792)

9.5 ロシアの遣日使節ラックスマン、大黒屋幸太夫をともないネムロに入津。修好要望の書簡を持参。

<寛政5(1793)

6.27 ラックスマン、幕臣石川忠房より長崎に至るべき信牌の交付をうける。

<寛政11(1799)

1.16 幕府、書院番頭松平信濃守忠明・勘定奉行石川左近将監忠房・目付羽太庄左衛門正養(まさやす)ら、東蝦夷地仮上知に付、この件の担当老中戸田采女正氏教より、蝦夷地取締御用を命じられる。

1.16 幕府、異国境取締のため、東蝦夷地を当分の間、試みに上知する旨松前藩に通達(上知の範囲を東蝦夷地浦川より知床および東奥島までとし、期間を7か年。『松前家記』によれば211日に松前藩に通達。)

6.- 松前藩、東蝦夷地の仮上知にともない幕吏の松前藩領往来繁雑にて困難の筋もあるにつき、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知を内願(同じ頃仮上知の代地も内願)。

8.12 幕府、内願のとおり5000石の代地(武蔵国埼玉郡の12か村)を下付し、追上知を認める旨、松前章広に達す。

11.2 幕府、箱館表の警固を罷め、サハラならびにクスリ辺に勤番所を取建て、御用地年限中、重役の者2~3人、足軽1000人程を駐留させるべき旨、南部大膳太夫・津軽越中守に命じる。毎年、双方より、500人ずつ足軽を派遣、津軽藩は、サハラよりウラカワまで、南部藩は、ウラカワ以東を固め、南部・津軽藩は、箱館にそれぞれ本陣を置き、以後、津軽藩は、サハラ・エトロフに、南部藩は、ネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を補理する。

<寛政12(1800)

2.16 幕府小納戸頭取格戸川藤十郎安諭(やすのり)・小納戸大河内善十郎政良、蝦夷地巡見を命じられる。3月江戸出発、東蝦夷地クナシリ島まで巡見、9月帰府。

<享和元年(1801)

4.1 松平忠明・羽太正養・石川忠房、箱館に到着。忠明は4.22箱館出発、勇払よりシコツ川を通り西蝦夷地を巡見、7.7箱館帰着、7.10帰帆。正養は4.22箱館出発、東蝦夷地をクナシリ島まで巡見、9.5箱館帰着、福山見分、9.16出帆。忠房は4.21箱館出発、東蝦夷地をシレトコ崎まで巡見、7.10箱館帰着、出帆。

5.30 幕府普請役中村小市郎・小人目付高橋次太夫、カラフト島見分の命を受け、東海岸を小市郎が担当してナイブツまで、西海岸を次太夫が担当してショウヤ崎まで検分、8月山丹交易事情や松前藩の樺太の取扱い等を復命。

6.27 幕府支配勘定格富山元十郎・仲間目付深山宇平太、ウルップ島見回り御用にて、エトロフ島シベトロを出船、ウルップ島オカイワタラの岡に「天長地久大日本属島」の標柱を建て、ラッコ猟のためトウボ滞在中のロシア人に遇い、その状況をさぐり、7.7シベトロに帰着。

<享和2年(1802)

2.23 幕府、蝦夷地奉行を新設。戸川筑前守安諭・目付羽太庄左衛門正養(12.16安芸守に任ぜられる。)をこれに任命。

5.10 幕府、蝦夷奉行を箱館奉行と改称。

7.24 幕府、東蝦夷地の仮上知を改め、永上知とする旨松前藩に申渡す。永上知の代価として年々3500両ずつ下付し、武州久喜の所務および東蝦夷地収納よりの下渡金を廃止。

12.14 幕府、戸川安諭、羽太正養に1年毎交代にて箱館在勤を下命。

<享和3癸亥年(1803)

1.18 幕府、箱館奉行支配調役6人・同調役並5人、同調役下役10人を任命、箱館奉行所の体制を整える。2.2321人のうち14人在勤、7人を江戸掛と決定。

<文化元年(1804)

4.21 箱館奉行羽太正養、江戸出発、箱館に到り、戸川安諭と交代。

8.2 幕府、南部・津軽藩の蝦夷地勤番を寛政11年より7か年間の期限付きから永々勤番に改める。

9.6 ロシアの遣日全権使節レザノフ、クルーゼンシテルンの率いる世界周航の探検隊と共に、ナデジダ号に搭乗し、仙台の漂流民津太夫ら4人を伴い長崎に来航。通商をもとめる。レザノフは、上陸中も幽囚同様の扱いを受けた。レザノフは、寛政4(1793)に松前で幕府がラックスマンに交付した信牌を携えた正式な使節であった。

<文化2年(1805)

3.7 ロシア使節レザノフ、長崎奉行所にて、奉行肥田豊後守、幕府派遣の目付遠山金四郎出席のもと、通商要求を拒絶される。

3.18 ナデジダ号、レザノフをのせて長崎出航。日本海を北上してカムチャッカに向かう。レザノフは、帰国後、ロシア皇帝に樺太の領有を具申し、かつ部下のスヴォストフとダヴィドフに報復処置を示唆するという。

7.16 幕府、目付遠山金四郎・勘定吟味役村垣左太夫定行に、西蝦夷地派遣につき準備を命じる(西蝦夷地を収公するための調査と考えられている。)。遠山金四郎は、勘定・徒目付などを伴い閏8.13江戸出発、冬(10.3)福山に到着。村垣左太夫は病気のため途中引き返し、翌年春福山着。

 

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