森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2017年05月

5月 町吟味役中日記注記 

        

(65-1)「参府(さんぷ)」・・①江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。②また、一般に江戸へ出ること。出府。ここでは松前藩9代章広が出府を命じられたことをいう。

  章広は、この年、天保3(1833)1012日開帆、118日に江戸到着。

(65-1)「被仰出候(おおせいだされそうろう)」・・命令を発せられなさった。「命じ出だす」「言い出だす」の尊敬語。

(65-2)「継肩衣(つぎかたぎぬ)」・・継上下(つぎがみしも)。肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)をそれぞれ別の生地で仕立てた江戸時代の武士の略儀の公服。元文(173641)末頃から平日の登城にも着用した。

*肩衣(かたぎぬ)・・室町末期から素襖(すおう)の略装として用いた武士の公服。素襖の袖を取り除いたもので、小袖の上から着る。袴(はかま)と合わせて用い、上下が同地質同色の場合は裃(かみしも)といい、江戸時代には礼装とされ、相違するときは継ぎ裃とよんで略儀とした。

 *<漢字の話>「衣(きぬ)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<上代では日常の普段着。旅行着や外出着は「ころも」といった。そのため「きぬ」は歌ことばとはならなかったようで、複合して「ぬれぎぬ」以外は三代集以降姿を消す。院政期以降は衣服の総称でなくなり、「絹」の意の例が見えはじめ、軍記物語では上層階級や女性の着衣の意味で用いられている。語源上は、材質の「絹」とかかわるか。下層階級の衣服は「いしゃう」であった>とある。

 *「歯に衣着せぬ」・・思ったとおりをずけずけと言うこと。「衣」を「ころも」と発音するのは誤り。また、「𥿻着せぬ」も誤り。

 *<漢字の話>「裃(かみしも・はかま)」・・「衣偏」+「上下」で、国字。

(65-4)「御留守居(おるすい)」・・①江戸時代、諸大名家の職名。江戸に在勤し、藩主に代わり、幕府をはじめ諸藩との交渉、連絡にあたった者。幕府法令が諸藩に達せられるときなど、江戸城に出頭し、これを受領した。

 ②また、大名の他行(出府)に際し、藩にとどまり、その留守を預かった者。

 ここでは、②

(65-6)「被申聞候(もうしきかせ・られ・そうろう)」・・告げ知せられました。「申聞」を「申し聞く」と読めば、「申す」(話す)と、「聞く」という正反対の所作を一緒にすることになり、訳がわからなくなる。「申聞」は、「もうしきかせる」で、<申しあげてお聞かせする。告げ知らせ申しあげる。また、「言い聞かせる」を重々しく言う>(『日本国語大辞典』)

  したがって、組成は、下一段「申し聞かせる」の未然形「申し聞かせ」+尊敬の助動詞「被(ら)る」の連用形「被(ら)れ」+候。

(65-2)「恐悦(きょうえつ)」・・「恐悦」は、相手の過分な好意やもてなしに対して喜びの気持ちを表す言葉。「もったいない」、「恐れ多い」というニュアンスが含まれている。

(65-4)「蠣崎次郎」・・文政10(1827)4月、蝦夷地回島御用をつとめ、福山を出立した。

(65-5)「蠣崎三七」・・文政9年(1826118日、家老格となる。

(65-9)「尋(たずね・ただし・ききだたし)」・・「尋ねる」は、ここでは、「問いただす」の意味。尋問。

(65-8)「常右衛門」の「常」・・脚部の「巾」が、「ヽ(点)」か、「一」になる場合がある。

(65-9)「帰郷」の「郷」・・「郷」のくずし字は、きまり字で、形で覚えるしかない。

(67-2)「和佐五郎」・・松前重広の幼名。松前9代藩主松前章広の5男。「和佐・五郎」ではなく、名の「和佐五郎」。9代藩主章広の長男慶之助、次男見広(ちかひろ)、三男久之助が相次いで早世し、更に、この日(天保3428日)5男和佐五郎(重広)を失ったことになる。

 (66-2)「退役(たいやく)」・・役職を退くこと。役をやめること。

(67-2)「長病(ながやみ)」・・長い間、病気であること。また、その病気。ながわずらい。ながやまい。実際は、和佐五郎は、早世した。

(67-23)「不叶」・・叶うことがおできにならなくて。

   「かなひ(い)なされず」・・組成は動詞「叶う」の連用形「叶ひ(い)+動詞「為(な)す」の未然形「為(な)さ」+尊敬の助動詞「被(る)」の未然形「被(れ)」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」。

   「かなは(わ)せられず」・・租税は、動詞「叶う」の未然形「叶はわ」+尊敬の助動詞「為(す)」の未然形「為(せ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の未然形「被(られ)」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」。

(67-6)「伺御機嫌(ごきげんうかがい)」・・①相手のきげんを見てうまくとりいろうとすること。②目上の人を訪問して、その人や家族の安否をたずねること。ここでは②。

(67-5)「殿様」・・松前藩9代藩主章広。章広は前年の天保2(1832)49日、松前に帰国し、天保3(1833)1012日開帆、118日に江戸到着。テキストの天保3428日は、松前で執務していた。

(67-5)「若様」・・昌広の孫・良広。昌広の嫡男の相次ぐ死亡で、文政10(1827)113日、良広を嫡孫(継承者)に決め、幕府に願書を提出、同月16日許可された。

(67-7)「鳴物高声(なりものたかごえ)」・・藩主やその家族などの死去や法事に際して、「鳴物高声停止」(音楽など娯楽をつつしむ)などの服忌令(ぶっきりょう)が出された。

江戸時代、大葬・国葬などの際、国中あるいは江戸・京都に令を発して、一定期間、一般人民に、営繕・音曲を禁止した。

(67-8)「御家中(ごかちゅう)」・・江戸時代大名家の内の総称として用いられ、したがって家臣団全体を総称する場合が多かった。

 (67-8)「町(まち)、在(ざい)」・・町と在。「在」は「在郷(ざいごう)」の略。いなか。在所。特に、都会から少し離れた所をいうことが多い。ここでは、松前城下と、東西の在郷。

(67-9)「普請不苦(ふしんくるしからず)」・・普請は行ってもよい。服忌令(ぶっきりょう)の内容に、「普請停止」もあるが、ここでは、普請を服忌の対象にしていない。

(68-1)「定式(ていしき・じょうしき)」・・さだまった形式。一定の方式。一定の儀式。

(68-1)「忌服(いみぶく・きぶく)」・・「きぶく(忌服)」の湯桶読み。また「きぶく」とも。一定の期間、喪に服して家にひきこもること。「忌(き)」は穢(けがれ)を忌(い)むこと。「服」は喪服(そうふく)の意。服忌(ぶっき)。

 *「服忌令(ぶっきりょう)」・・近親者が死没した際、喪に服する期間を定めた江戸幕府の法令。服は喪服、忌は紀で、年・節と同じく期間を意味する。ほかに、産穢・死穢など触穢に関する規定も付されていることが多い。文治政治を推進した五代将軍徳川綱吉は、儒者林鳳岡に同木下順庵・神道方吉川惟足らを協力させて服忌制度を整備させ、貞享元年(16842月日、服忌令を公布した。同年四月には、幕府の許可を得ずに服忌令を板行した者が処罰されているから、この令が発令後ただちに民間にも流布したことが察しられる。服忌令は、その後、細部について数回の改正があり、八代将軍吉宗のとき、元文元年(1736915日の改訂令で最終的に確定した。この改訂令は、親族の服忌を尊卑・親疎の程度によって六段階に分け、ここに規定された範囲の親族が原則的に親類とされて、種々の法的義務を課された。幕府の服忌令は武士および庶民に適用されるもので、諸藩においてもおおむねこれが準用されている。

 *以下は、溝渕利博著「讃岐高松藩における死の政治学と幕藩制的社会秩序の維持強化(上) =服忌令等葬送儀礼関連法令の政治文化史的役割を問うなかでー」(『高松大学・高松短期大学研究紀要第6061合併号』所収 2014)に見る高松藩の服忌の例

 (1)将軍の場合・・普請・鳴物・高声等停止、郷中諸殺生・魚鳥売買停止、川普請相止・諸事相慎、(宝暦11年=1761=の九代将軍徳川家重薧御の際)

(2)将軍夫人の場合・・七日間の普請・鳴物・高声等停止、弥火元入念(明和8=1771=の十代将軍家治の正室倫子薧去の際)

(3)天皇の場合・・七日間の普請・鳴物等惣而高声等停止、諸事相慎、火元入念、郷中井川普請穏便、三日間の仕掛之普請相止(安永8年=1779=の後桃園天皇崩御の

際)

 (4)藩主の場合・・①(領内全域へ)諸殺生禁止、津留、火之元等入念、諸事穏便、

②(町方へ)魚商売・諸殺生・鍛冶屋槌音・檜物屋槌音・綿打槌音・普請鳴物高声の停止、遊山の禁止、他所からの出入りの禁止、町年寄の昼夜見廻り励行、出口番所の監視、町中木戸・路地の〆切りなど三十三項目

③(浦方へ)家業之殺生・魚鳥商売の停止など三項目

④(郷中へ)家普請鳴物等の停止、川普請の停止、山分猟師及び諸殺生の停止、塩屋方手代の諸事静・相慎、昼夜火之廻り、鍛冶・鋳物師・木綿打・桶師等の停止など九項目、合計四十五項目にわたる細々とした服忌規制が出されている。(享保20年=1735=の高松藩三代藩主松平頼豊逝去の際)

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『蝦夷錦』5月学習注記

(5-1)「候之義」・・普通は、「候義」で助詞「之」はないのが一般的だが、「之」が挿入されている文書もある。組成はハ行四段活用動詞「候」の連体形「候」+格助詞「の」+形式名詞「義」。ほかに「候之間」「候之処」「候之時」「候之条」「候之由」「候之旨」「候之様」など。

     *「候」の活用:は(未然)・ひ(連用)・ふ(終止)・ふ(連体)・へ(已然)・へ(命令)。終止形と連体形が同じ「さふらふ」(現代仮名遣いでは「そうろう」)

     *格助詞「の」の接続:「の」は、体言と活用語の連体形に接続する。

     *形式名詞:国文法で、名詞の下位分類の一つ。松下大三郎の用語。それ自体には実質的意義が薄く連体修飾語を受けて名詞句を作る。和語では「こと・もの・あいだ・うち・とおり・とき・せい・はず・かた・ほど・よし・ふし・ところ・ゆえ」など、漢語では「件・儀(義)・体(てい)・方(ほう)・点・段・分」などがある。「事(こと)重大である」「そんなことをいうと為(ため)にならぬぞ」など、単独に用いられる場合は特に「実質名詞」として区別される。

**「形式名詞は形式的意義ばかりで実質的意義を欠く名詞である」(松下大三郎『標準日本口語法』〔1930〕)

     *連体形+「の」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

     <中世中頃、漢文訓読の場から、「あざむかざるの記」と書くような用法が成立する。連体形は連体格表示機能を有するから、その下にさらに連体格助詞「の」を用いることは本来あり得ないが、漢文の字面を離れても置字のあることがわかるようにとの配慮から、朱子新注学を奉ずる人々が従来不読の置字であった助字「之」を読んだところから生じたもの(小林芳規「『花を見るの記』の言い方の成立考」〔文学論藻‐一四〕)。>とある。

(5-5)「伯父(おじ)」・・父または母の兄弟。また、父または母の姉妹の夫。若年寄堀田摂津守正敬と仙台藩9代藩主松平政千代との関係は、正敬は、政千代の父(仙台藩8代藩主斉村)の弟にあたり、政千代にとって中国の序列に従えば、「叔父」になる。

*中国では、兄弟の序列は、「伯・仲・叔・李」の順。

**「伯仲(はくちゆう)」・・伯・仲・叔・季のうちの伯仲。一番上の兄と次の兄の間にある差という意味で、ほとんど変わらないこと。優劣がつけにくいこと両者匹敵する状態をいう。

傅毅之於班固、伯仲之閒耳。[傅毅(ふき)の班固(はんこ)に於ける、伯仲の閒なるのみ。]

〔(後漢の章帝のときに宮廷に仕えていた)傳毅と班固においては、(その才に)優劣はありませんでした。]

*<くずし字>「伯父」の「伯」の旁の「白」・・極端に崩れると、左右の縦画が「ヽ(点)」になる場合がある。

(5-5)「合力(ごうりき)」・・力を貸して助けること。金銭や物品を恵み与えること。

(6-1)「調役下役(しらべやくしたやく)・・奉行所の役職名。303人扶持。役扶持3人扶持。役金30両。なお、当時の松前奉行所の体制は、奉行→吟味役→吟味役格→調役→調役並→調役下役元締→調役下役→同心。

(6-1)「庵原直市」・・「直一」とも。(『休明光記附録別巻三』)。また、慶応三年の『履歴明細短冊』でも、箱館奉行支配向調役下役(定役)庵原勇三郎の祖父として、「庵原直一」の名前がある。

     *「庵原」の読み(『人名漢字辞典』)

テキスト ボックス: 姓	読み方
庵原	     あいはら
庵原	あまはら
庵原	あんばら
庵原	いおはら
庵原	いおばら
庵原	いおりはら
庵原	いはら
庵原	いばら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(6-3)「寺西十次郎(てらにしじゅうじろう)」・・「重次郎」とも。寺西重次郎封元(たかもと)。幕臣。禄高705人扶持。徒組頭から陸奥国代官に昇進(『江戸幕府旗本人名辞典』)。寛政4(1792)塙代官として赴任。人口増のため、妊産婦登録制、乳幼児の保護と指導、衣服の簡素化、農村振興策、商工業振興策など多岐にわたる業績を上げた(『角川日本地名辞典』)。また、『国史大辞典』では、寺西封元を寛政の改革から文化期にかけての名代官の一人に挙げている。

(6-3)「花輪」・・「塙(はなわ)」か。陸奥国白川郡のうち。現福島県東白川郡塙町。享保14((1729)から幕府領として塙代官所が支配。塙代官所が所管役所(出張陣屋)を置いたのは、竹貫、小名浜、浅川。

(6-5)「郡中(ぐんちゅう)」・・小名浜は、陸奥国磐前(いわさき)郡に属しており、磐前郡を含めた小名浜陣屋の管轄地をさすか。

(6-4)「男名濱(おなはま)」・・「小名浜(おなはま)」か。陸奥国盤前(いわさき)郡のうち。現福島県いわき市小名浜。米野村、中島村、中町村、西町村の4か村の総称。寛文10((1670)河村瑞賢によって東廻り海運が創始されると、小名浜港は重要な寄港地となる。

(6-8)「御殿(ごてん)」・・代官は、勘定奉行の支配下にあることから、勘定奉行、若年寄、老中らの幕閣が勤務する江戸城さすか。

(6-8)「実音」・・「実音也」は朱書きとなっており、7頁の朱書きに続いている。

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