(P71)「小五月」・・天保3年5月も「小の月」で29日までしかない。
*旧暦は、朔望(月の満ち欠け)を基準としている。朔(新月)を迎えた日を月はじめの1日(朔日)するなので、「小の月(29日)」「大の月30(日)」は、朔の日を計算すれば、大小は自動的に決まる。
ところで、朔望の周期は、平均29.53日だが、月の運動は不規則で、前後6.5時間ほど変動する。したがって、月の配列は、必ずしも大・小・大・小というわけにはいかない。
庶民にとって、例えば掛け売りの支払い、借金の返済などで、大の月か、小の月かが問題になる。そこで、商店などでは、「大小板」を掲げて知らせた。
*大小暦・・古くは大小または絵暦と呼び、江戸時代にその年の月の大小の順を知らせるために作られた略暦の一種である。当時行用の太陰太陽暦では毎年月の大小の配列が相違していたため、その年の大小の順や閏月の位置を覚えるための和歌・俳句・漢詩等の短文などが作られた。これらの短文や大の月・小の月の数字を組み合わせて文字や絵にしたもの、あるいは図案の内に散らしたり隠したりした小型の摺物が作られるようになり、好事家の間で年頭に贈答された。大小暦は万治・寛文年間(1658~73)ごろからあらわれるが、明和2年(1765)に大流行した際、鈴木春信がはじめて錦絵のものを版行してから、華麗なものが作られるようになった。大小暦は江戸を中心に各地で機智に富んだものが案出され、また浮世絵師の多くが手を染めたので、江戸時代の文化の特色を示す好史料となる。
*天保3年(1832)の大小は、次のような配列だった。
大の月・・正(1).3.7.9.11.閏11.12
小の月・・2.4.5.6.8.10.
(72-2)「御用番(ごようばん)」・・江戸時代、幕府役人のうち、月番に当たっている者。老中はじめ、寺社・町・勘定奉行などの勤務は、いずれも月番制で、毎月それぞれ一人が事務を主宰し、他はこれを補佐する制度がとられ、その月の事務を主宰している老中などをいう。松前藩でも、家老などの勤務に同様の制度が執られた。
(72-2)「下国斎宮(しもくに・いつきのみや・さいぐう)」・・松前藩家老・下国季鄰(しもくに・すえちか)。斎宮は、季鄰の官名。(小字=しょうめい。幼時の呼び名)は、清治。また小四郎、環と称した。10代章広、11第良広に仕えた。始め蠣崎広年(波響)の養嗣子になったが、のち、実家に戻った。文化11年(1814)家督を継ぐ。文政6年(1823)家老職に就く。天保7年(1836)10月14日、50歳で没した。
*「下国氏」・・下国氏の祖は、奥州蝦夷管領安東氏(のち秋田氏)で、末裔が蝦夷地に渡って一族重臣を道南の十二館に配置し支配体制を固めた。十二館は茂別館(現北斗市字矢不来)中心の「下の国」、大館中心の「松前」、花沢館中心の「上の国」の三守護地域に分けられ、下の国守護職の政季が「下国」を名乗った。下の国守護の下国氏はのちに蠣崎(松前)氏の家臣となる。茂別の下国氏は蠣崎氏の家臣となったものの、寄合席に列し蠣崎・松前氏以外では唯一家老となることのできる家柄として松前藩政に大きな影響を与えた。松前藩主家とは婚姻関係を通じて深いつながりを持ち、藩閥形成の上で家格も最上位にあって、重要な地位を保ち、代々家老職を出して藩政に参与した。
*「斎宮(さいぐう・いつきのみや)」・・斎宮(伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王)の居住するところ。斎王の御所。斎宮寮の内院。
(72-4)「小書院(こじょいん)」・・母屋(もや)に続けて建てのばした部屋。
(72-5)「若殿様(わかとのさま)」・・主君の世継ぎとなる子をいう。ここでは、藩主章広の孫・良広。文政10年(1827年)11月16日、父見広(ちかひろ)の死去により、祖父章広の嫡孫となる。
(72-5)「御七歳」・・良広は文政9年(1826)5月23日生まれだから、この時7歳(数え)だった。服忌令(ぶっきりょう)が適用されるのは8歳以上の者。
(72-5)「被為在(あら・せ・られ)」・・~になっておられ。組成はラ変動詞「在(あ)り」の未然形「在(あ)ら」+尊敬の助動詞「為(す)」の未然形「為(せ)」+尊敬の助動詞「被(ら)る」の連用形「被(ら)れ」。
(72-6)「忌服(いみぶく・きぶく)」・・一定の期間、喪に服して家にひきこもること。服忌(ぶっき)。
(72-6)「不レ被レ為レ受(うけ・なさ・れ・ず)」・・組成は、下2動詞「受(う)く」の連用形「受(うけ)」+補助動詞「為(な)す」の未然形「為(な)さ」+受身の助動詞「被(る)」の未然形「被(れ)」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」。
(73-5~6)<漢文訓読の話>「未吟味不二相済一(いまだぎんみあいすまざる)」
①「未」は、漢文では再読文字で、「いまだ~(せ)ず」と「未」を「いまだ」と「(せ)ず」の二度読む。
*知其一、未知其二 其の一を知るも、未だ其の二を知らず (『史記』高祖本紀)
その体で行くと、テキストの「不」は必要がなく、「未吟味相済」だけで、「いまだぎんみあいすまざる」と読める。しかし、和文が漢文訓読を正確に取り入れない場合も、あり、テキストのように、一見、二重否定にも見えるような書き方もある。
*「不」を「ざり」と読むことに関して・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(「ざり」は)未然形、連用形は他の助動詞への連接の場合に用いられ、命令形の命令法とともに、「ず」の用法を補っている。終止形「ざり」は普通用いられない。連体形「ざる」と已然形「ざれ」とは、普通漢文訓読系統のものに用いられ、和文系統の連体形「ぬ」、命令形「ね」に対応している。連用形「ざり」は、「き」「けり」につづくほか、中世には「て」「た」にも連なるようになり、「り」が促音化した「ざっし」「ざった」なども生じた。
*「ざる」・・《文語の打消しの助動詞「ず」の連体形》動詞および一部の助動詞の未然形に付く。打消しの意を表す。文章語的表現や慣用的表現に用いられる。「準備不足と言わざるを得ない」「たゆまざる努力」
(74-4)「法幢寺(ほうとうじ)」・・松前町字松城にある曹洞宗の寺院。大洞山と号し、本尊釈迦如来。延徳2年(1490)大館に開創され、永正10年(1513)蠣崎義広が祖先追福のため若狭出身の宗源を開山に寺宇を建立(寺院沿革誌)。天文15年(1546)蠣崎季広がアイヌの襲撃により破壊されていた当寺を再建して以降蠣崎氏の菩提寺となったという(「松前町史」など)。天保6年(1835)10月焼失し、翌年から再建されることになった(「湯浅此治日記」同六年一二月条)。同5年に再建された御霊屋には位牌壇と礼拝堂があり、位牌壇には代々の藩主や夫人および一族の位牌が七〇基余安置されている。天井には蠣崎波響筆の花鳥図がはめ込まれている。
(74-6)「重廣院(じゅうこういん)」・・和佐太郎の法名。
(74-7)「熨斗目(のしめ)」・・本来は経に生糸、緯に半練糸を用いて、細い経糸をやや粗く、緯を密に織り込んだ平織の段または縞、あるいは
<漢字の話>「熨斗」・・「のし」と訓じるのは当て字。音読みは「ウット」で、火のし(炭火を中にいれるアイロン)は、漢代にすでにあったという。一方、日本でも「ひのし」といって、布のしわをのばすための道具があった(柄のついた底の平らな容器で中に炭火を入れるもの)。
(75-3)「御埋(おうめ)」・・埋葬する。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の五氏には、「うずめる」と「うめる」の違いについて、<「うずむ・うずめる」の基本的な意味は、「物の上に土など盛り上げて覆う」ことであり、これに対し、「うむ・うめる」のほうは「くぼみなどに物をつめてふさぐ、また、物を土などの中に入れ込む」ことである。中にある物は、「うずむ」「うむ」どちらの場合でも隠れて見えなくなるところから、同じような意味に用いられるようになったと思われる。>とある。
(75-3)「申上(もうしあげ)」・・①(「言う」の謙譲語)目上の人に向かって、うやうやしくいう。言上(ごんじょう)する。上申する。元来は、公的に身分格差が大きい場合などに用いられた。現在では「申す」が、「言う」などの丁重な表現に多用されるようになったため、言う対象を敬う気持を強く表わすのに用いられる。②上の人のために、ある行為をしてさしあげる。多く、「お」や「御」の付いた自分の行為を表わす体言の下に付けて、その行為の対象を敬う。
ここでは②。
(75-7)「等澍院(とうじゅいん)」・・北海道日高支庁様似郡様似町にある天台宗の寺。帰嚮山厚沢寺等澍院と号す。文化元年(1804)、江戸幕府により蝦夷三官寺の一つとして、民心の安定を目的に幕府により創建された。檀家のない寺院なので、幕府から年間米100俵のほか扶持米、手当金が支給された。初代住職の秀暁以来12代徳弁まで存続したが,明治18年(1885)年に廃寺,再興された。洪水,熊の害,国道改修などにより数度の移転をへて今日に至っている。
(75-7)「役僧(やくそう)」・・住職の下にあって、寺院の事務などを行う僧侶。当時の等澍院住職は5世慈潭。『等澍院文書』に慈潭代のものは欠如している。
*復領期の松前藩と蝦夷三官寺・・幕府の直轄領だった松前蝦夷地一円は文政4年(1821)、松前家へ還された。蝦夷三官寺の管理も松前家に移ることになる。『等澍院文書』には、等澍院と松前家が、待遇などについて再三やり取りしている記述が見える。
(76-1)「町方構(まちかたかまえ)」・・町奉行所配下の町方役人の勤務する役所。「構」は、邸宅。家屋敷の意味。
(76-2)「昨年アツケシ江差出候御人数」・・天保2年(1830)2月18日、アッケシのウラヤコタン(現浜中町羨古丹)へイギリスの捕鯨船「レディロウエナ号」(323トン、ラッセル船長)が来航、2月22日アッケシ勤番所出張人数がウラヤコタンを警固、2月24日より戦闘になったが、26日夜、アッケシ勤番人数は利あらずして同所を引き払い、アッケシ勤番所の警固にまわる。異国船は、ウラヤコタン、キリタップの漁小屋を焼き払い、3月4日ウラヤコタンを出帆。この間、松前藩は1番手・2番手人数を派遣した。
この事件に関して田端宏著「松前藩、捕鯨船に敗れるー天保2年ウラヤコタンの銃撃戦―」(北海道史研究協議会『会報第69号』所収 2001)を、田畑先生の許可を得て別添する。
なお、「御人数(ごにんずう)」・・正式の整備隊というほどの意味。(田畑宏氏の前掲論文)
(76-2)「牧田七郎右衛門」・・牧田はこのとき、1番手の隊長。アッケシからの帰路、絵鞆に滞在していた時、噴火湾でまたまた異国船に遭遇、戦闘があった。天保4年(1833)9月15日、松前藩の箱館奉行になった。
(76-5)「小平沢町(こへいざわまち)」・・現江差町字陣屋町など。近世から明治33年(一1900)まで存続した町。寺小屋町・碇町の北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた。。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。「蝦夷日誌」(二編)によれば、茂尻(中茂尻か)より沢(小川)の南にあって、町の上は皆畑で広い。「人家二十二軒といへども五十軒計も有。(中略)津軽陣屋跡といへるもの有」とある。弘化3年(1846)夏に出た温泉があり、薬湯として用いられ、傍らに薬師堂が建てられていた。
(76-6)「清部村(きよべむら)」・・現松前町字清部・字小浜・字高野。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、茂草もぐさ村の北方にあり、西は海。寛保元年(1741)の大津波でほとんど全滅となったが(函館支庁管内町村誌)、本テキスト時の文化4年(1807)には「家数廿軒程不宜」(「西蝦夷地日記」同年八月一七日条)となった。
(77-2)「御仕置(おしおき)」・・江戸時代、刑罰、特に死刑をいう。
(77-2)「伺書(うかがいがき・うかがいしょ)」・・上司などの意見または指令を請うために差し出す文書。
(77-3)「口書(くちがき)」・・)江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。
(77-4)「又候(またぞろ)」・・(副詞「また」に「そうろう」がついた「またぞうろう」の変化したもの)同じようなことがもう一度繰り返されるさま。あきれた気持ちや一種のおかしみを込めていう。またしても。またもや。
(77-6)「随身(ずいじん・ずいしん)」・・寺に身を寄せて寺務や住職の身のまわりの世話をすること。また、その者。