森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2017年07月

7月 町吟味役中日記注記 

( 78-2)「詰木石町(つみきいしちょう)」・・現江差町字愛宕町。近世から明治33年(1900)まで存続した町。緒木石(しみきいし)町(罕有日記)とも記される。海岸沿いの道に沿う縦街十町の一(「蝦夷日誌」二編)。もと詰木石村であったが、町場が形成されて改称された。九艘川町・豊部内町の北、豊部内川の河口部の北岸に位置する。東に川原新町・中新町・北新町がある。江戸後期から明治初期の鍛冶町・浜町は当町に含まれるという。

(78-3)「引合(ひきあい)」・・訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など。

(78-3) 「山之上町(やまのうえまち)」・・江差は、桧材、続いて元禄年間(16881703)以降鰊荷物が主な積出し荷物となる。港としての機能が高まるとともに沿岸部の津花、姥神、中歌、九艘川、詰木石で町場化が進み、慶安年間(16481651)には法華寺の前身妙翁寺が創建されも寺町の様相を呈した。市中の発展により後背段丘は「山の上町」として町場化が進んだ。

 海岸沿いの市街地(下町)と段丘上(山の上町)は、それぞれ断崖を掘削して、阿弥陀寺坂・法華坂・馬坂などの坂道や石段を造築して参道とした。

 松浦武四郎『再航蝦夷日記』には、「縦町十町」と並んで「横巷十九町」を挙げ、その中に、「山の上町」が見える。さらに「山の上町 薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿(こやど)、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。松前口説に「国は サァーエー 松前 江差の郡(こおり) 江差 山の上 げんだい町の 音に聞こえし こばやし茶屋に 抱えおなごは 三十二人」と唄われた花街であった。

(78-7)「正覚院(しょうがくいん)」・・曹洞宗寺院。山号嶽浄山、本尊釈迦如来。「福山秘府」に寛永8年(1631)建立、元禄2年(1689)江差村に移転とある。もと江良町村(現松前町)にあった泉龍寺境内に造立されていたが、松前法幢寺三世の良天が寛永八年江差中歌町に移し、頭陀山正覚院と称したという。元禄2年明石文左衛門が周辺の山谷を開いて伽藍を建立し、翌3年嶽浄山正覚院と公称した。

(78-9)「且者(かつは)」・・その上に。加えて。

(79-1)「都合(つごう)」・・〔副詞〕 「都」はすべての意。 すべて合わせて。ひっくるめて。全部で。合計で。

(79-6)「突合(つきあわせ)」・・突合吟味。原告と被告とを対席させて吟味すること。

(79-7)「明(あくる)」・・動詞「あく(明)」の連体形。「夜、年などが明けてから」の意。連体詞としても用いる。次の。翌。次にくる日、月、年などについていう

 *連体詞・・日本語の品詞の一つ。もっぱら連体修飾語として用いられる自立語。主語・述語・被修飾語あるいは独立語とはならない。口語では「この・その・あの・かの・どの・わが・あらゆる・いわゆる・ある・さる・とある・いろんな・ほんの・大した・とんだ」など、文語では「ある・あらゆる・いはゆる・さしたる・させる・さんぬる・いんじ・然(さ)る・来(きた)る・あらぬ・明くる」などがこれにあたる。ただし、学者によってはこの品詞を立てず、また、所属の語に若干の異同がある。

(79-8)「寔元(ここもと)」・・自分の方。わたくしの方。「是」に通用する。

(79-9)「賄手馬(まかないでま)」・・「手馬」は「手間」の当て字か。食費を含み旅費をさすか。

(79-9)「印鑑(いんかん)」・・江戸時代、照合用として、あらかじめ関所、番所などに届け出ておく特定の印影の見本。判鑑(はんかがみ)。いんかがみ。

(80-1)<くずし字>「問合」の「問」・・門構えが「ワ」、また「一」のようになっている場合がある。

(80-5)「追咎(ツイキュウ・おいとがめ)」・・事が済んだあとで、とがめだてをすること。

(80-8)「一七日(いちしちにち・ひとなぬか)」・・人の死後の七日間。または、七日目にあたる日。初七日(しょなのか)。

(81-2)「香奠(こうでん)」・・香奠は今日では見舞い・悔みという性格がつよいが、以前は米などをおくって実質的な葬儀への協力が行われた。

 *<漢字の話>「奠(漢音でテン、呉音でデン)」・・解字は「一」+「酉」。「一」は台を示す。神に酒をそなえてまつるの意味をあらわす。現代表記では「典」に書き換えることがある。

(81-2.3)「拾五挺」・・蠟燭の数え方は、形状によって数え方が異なる。

1.細長いものは「本」、

2.燭台 (しょくだい) に載せて手に持って使うものは「挺(丁)」

3.立方体や太く短い円柱などの、細長くはない形状のろうそくは「個」。

*取引単位はろうそく100本で「1 (いっそく) 」。

(81-3)「備(そなう・そなゆ)る」・・神仏や貴人に、物を整えてさしあげる。現在では「供える」と使用する。なお、室町時代頃からヤ行(備ゆ)にも活用した。

(81-4,5)「席」・・席次。

(81-5)<くずし字>「如何」・・「如」は、「め」のように見える。   

(82-1)「当節句」・・祝いの行事があり、特別の食物を食べる風習

があった。節日(せちにち)。五節句は、

人日(じんじつ=一月七日)

上巳(じょうし=三月三日)

端午(たんご=五月五日)

七夕(たなばた=七月七日)

重陽(ちょうよう=九月九日)

(82-1)「馬士(ばし)」・・江戸時代、宿駅や農村において駄馬を牽いて渡世する者。馬子・馬口取・馬追・馬方ともいう。宿駅では、伝馬役は馬役・歩行役両屋敷地の者が負担したが、特に馬の飼養は馬役の者の義務であった。しかし、直接の労役は宿内外の馬子を雇って代替させてもよく、当時はそれが一般的であった。もっとも、馬子の中には、自分の馬で駄賃取を営業とする者もいたが、多くは零細農民が馬役の者の田地を小作したり、給金を得て伝馬役に従事し、江戸時代後期には次第に博徒化して雲助に接近する傾向もみられた。

(82-1)「町端(まちはな)」・・ここから町になるというあたり。

(82-1)「馬乗(うまのり)」・・競馬。松前では、端午の節句に競馬が行われた。(『松前町史 通説編第1巻下』P1054)                      

(82-2)<くずし字>「今日」の「日」・・縦画を最後に書く場合がある。   

(82-2)<古文書の体裁・欠字>「今日者 殿様」・・「者」と「殿」間に空白があるが、古文書独特の尊敬の体裁で「欠字」という。

 (83-1,2) <古文書の体裁・平出>「江戸表江」で改行している。次の行の「御用物」を尊敬する古文書の体裁で「平出」という。「平出」は、「平頭抄出」の意と釈し、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。

(83-2)「御用物(ごようもの)」・・宮中や官府などの用に供するもの。

   

 『蝦夷錦』7月学習分注記

15-1)「遠見番所(とおみばんしょ)」・・江戸時代、異国船を見張るため沿岸各地に設けられた番所。北郡には、寛政5(1793)、黒岩に遠見番所が設けられたほか、泊ノ崎、尻屋崎、牛滝にも設置された。

15-2)「境伍(けいご)」・・警固の当て字か。「境」を「ケイ」と読むのは漢音。「境内(ケイダイ)」など。

15-5)「有之哉(これあるや)」・・係助詞「や」は、①文末に用いる場合、活用語には終止形につく。②文中に用いられる場合、係り結びの法則により、それを受けて終止する活用語は連体形となる。テキストは文中にあるので、②.ラ変動詞「あり」の連体形は「ある」なので、ここは、「あるや」となる。

     『蝦夷紀聞』のこの部分は、「可有之哉(これあるべきや)」とある。助動詞「べし」の連体形は「べき」。

15-6)「火業師(ひわざし)」・・砲術師のこと。

156.7)「歩行武者(かちむしゃ)」・・「徒武者」とも。「徒」は、武士の身分の一つ。江戸時代、騎馬を許されぬ軽輩の武士。徒歩の兵士、歩卒。

     *「歩行」を「かち」と訓じる用法を熟字訓という。     

      **「熟字訓」:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

     *「歩行(かち)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』

      (1)クガチ(陸地)の略であるカチ(陸)の義。カチ(陸)より行くこと〔大言海〕。

(2)クガダチ(陸立)の反〔名語記〕。

(3)カチ(駈道)の義〔言元梯〕。

(4)蹴分けて行く義〔和訓集説〕。

(5)韓語カタ(行くの意)の転〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

15-9)「佐久井」・・「佐井」か。

15-9)「䑺通(はしりとおり)」・・「䑺」は、「舟」と「風」からなり、帆船が風のように速く走る意を表す。類似例として、馬が風のように速く走る意の「馬+風」がある。

16-1)「下風呂(しもふろ)」・・北郡田名部通風間浦のうち。盛岡藩領。現青森県下北郡風間浦村下風呂。下北半島の津軽海峡に面した本州最北部の地区。享和3(1803)、幕府から佐井が箱館への渡航地に指定されたことにより、文化元年((1804)、大畑大赤川から下風呂境滝まで新道開削し、人足伝馬の徴発が頻繁となる。古く、松前への出稼ぎも見られ、寛政元年(1789)のクナシリ事件(クナシリ・メナシ蝦夷乱)における和人犠牲者の71人中3人が当村出身者。

16-1)「申ノ刻(さるのこく)」・・午後4時から午後6時の間の2時間程。なお、江戸時代は、不定時法によって、昼・夜それぞれを六等分した一区切りを、一刻あるいは一時などと称したが、その長さは、一時間60分ではなく、季節によって、長さが異なり、夏の日中の一刻は長く、反対に、冬は短くしていた。

     時刻の表示は、以下のとおり(形式上、一刻:2時間として表示)。

     ・子刻(九つ):0時~ ・丑刻(八つ):2時~ ・寅刻(七つ):4時~

     ・卯刻(明六つ):6時~ ・辰刻(五つ):8時~ ・巳刻(四つ):10時~

     ・午刻(九つ):12時~ ・未刻(八つ):14時~ ・申刻(七つ):16時~

     ・酉刻(暮六つ):18時~ ・戌刻(五つ):20時~ ・亥刻(四つ):22時~

16-2)「赤川(あかがわ)」・・北郡田名部通大畑町のうち。盛岡藩領。現青森県むつ市大畑町のうち。享和3(1803)の「仮名付帳」の町場の名前の一つに「赤川」の名が見え、また、『原始謾筆風土年表』に、「赤川に硫黄山があった。」と記されている(『青森県の地名』)。

16-4)「漕戻し(こぎもどし)」・・漕いで、もとへもどる。漕ぎ返る。

16-5)「従在所(ざいしょより)」・・「従(より)」は、格助詞。ここでは、動作、作用の時間的、空間的起点をあらわす。したがって、「従在所」と返読。起点を示す同訓としては、「自」がある(P14-4)。

16-7)「津軽越中守」・・本届書の内容は、盛岡藩領内の北郡田名部通の状況を記述していることから、差出人の名義は、弘前藩主の「津軽越中守」は、盛岡藩主の「南部大膳大夫」か。『蝦夷紀聞』は「南部大膳大夫」としている。

     *青森県の変遷

     1.江戸時代、西には弘前藩および黒石藩が、東には盛岡藩の支配地と八戸藩とがあった。

2.明治元年(1868)盛岡藩の一部北郡・三戸郡・二戸郡が弘前藩主の支配を、続いて大関美作守の支配を受け三戸県と称された。

3.同3年、南部信順・同信方、津軽承昭・同承叙がそれぞれ八戸・七戸・弘前・黒石藩知事となった。

4.その後若干の変遷を経て同35月、松平容大が斗南藩知事となった。

5.同年7月廃藩置県により、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸・館の諸県が併存した。

6.同年9月諸県を弘前県に合併、ついで青森県と改称。

7.同年11月改めて青森県を新置した。同五年館県を開拓使に移した。

8.同9年二戸郡を岩手県に移して現在の行政区域に落ち着いた。

17-1)「飛脚(ひきゃく)」・・①鎌倉時代から江戸時代まで、文書、金銭、小貨物などを送達する使いや人夫。②他人の急用の使いをする者。

      「飛脚」の源流は、古代の駅馬に発し、鎌倉時代には、京・鎌倉間に早馬を用い、7日間で通信の速達にあたり、鎌倉飛脚、六波羅飛脚、関東飛脚といった。

     その後、駅伝の法が衰退したが、戦国末期に復活、江戸幕府が通信機関として採用し、その整備に努めた。幕府公用のための「継飛脚」、諸大名が前者にならって設けた「大名飛脚」、民間の営業にかかる「町飛脚」に大別される。

17-3)「川支(かわづかえ)」・・「川止、川留」とも。川の水量が増して、人の渡ることが禁止されたり、できなくなったりすること。

17-3)「日間取(ひまどり)」・・日数がかかること。手間取ること。

17-4)「演舌(えんぜつ)」・・(1)文書でなく、音声によって説明すること。(2)多くの人の前で自分の主義、主張や意見を述べること。テキスト場面では(1)

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

     <(1)中国の古典語であるが、日本でも平安時代から幕末・明治初期まで(1)の意味で用いていた。

(2)江戸中期以降、蘭学者の間で、オランダ語 redevoering の訳語として用いられ、さらに明治時代になってから英語 speech の訳語にも当てられるようになった。なお、当時の表記としては「演説」の他に「演舌」なども見られるが、後に次第に「演説」に統一されていった。>とある。

17-5)「大兵船(だいへいせん)」・・戦用の大型船。

17-6)「取懸り(とりかかり)」・・着手する。相手に打ってかかる。

17-7)<くずし字>「南部」の「部」・・影印は「部」の旁の草書化。さらにくずして、現在のひたがなの「へ」になった。

17-7)「往来(おうらい)」・・行ったり来たりすること。人の行き来。つきあい。

17-7)「断切(たちきり)」・・行動などをさえぎりとめること。

17-8)「両諸喉」・・「喉」は「侯」か。「諸侯」は諸大名のこと。

17-8)「無勢(ぶぜい)」・・古くは「ぶせい」。人数が少ないこと。

18-1)「早舟(はやぶね、はやふね)」・・江戸時代、大坂はじめ瀬戸内海諸港を連絡した速力の早い貨客船。漕ぎ手を多くのせ、高速で走る船。

18-1)「国元(くにもと)」・・弘前藩津軽家の居城地と盛岡藩南部家の居城地。

18-1)「早打(はやうち)」・・馬を走らせて急用を伝えること、また、その使者。

18-2)「鷹野(たかの)」・・「鷹狩(たかがり)」に同じ。飼いならした鷹や隼を放して鳥獣をとらえる狩猟。古代から貴族や武家の間で行われていた。

18-3)「人数配(にんじゅくばり・にんずくばり)」・・いくつかの箇所へ人員を配置すること。

18-5)「将又(はたまた)」・・接続詞。それともまた。あるいは。

18-5.6)「被仰渡(おおせわたされ)」・・ご命令。「被仰渡(おおせわさる)」の連用形「被仰渡(おおせわたされ)」が名詞になったもの。「連用形転成名詞」という。「被仰出書(おおせいだされしょ)」など。

     *連用形転成名詞・・「流れ(流る)」「遊び(遊ぶ)」「もみぢ(もみつ)」「心得(こころう)」「浮き(浮く)」「斎(いつき・斎く)」「暮(暮る)」「など。現代用語では、「一気飲み」「かばん持ち」「仁王立ち」「立ち読み」「読み書き」「左打ち」「普段着」「模様替え」「子育て」など。

18-8)「右国元(みぎくにもと)」・・秋田藩(久保田藩)佐竹家の居城の地(現秋田県秋田市)。

18-8)「五月晦日出立」・・秋田藩では、箱館奉行からの援兵要請を、524日受け取り、翌25日に369人、26日に222人が秋田を出発している(『新国史大年表』)。

18-9)「未だ不相知(いまだあいしらず)」・・「未」は漢文訓読の再読文字で、本来は、「不」がなくても、「いまだ~ず」と読むが、テキストでは、「未(いま)だ」を再読文字にしていない。日本流(亜流)の漢文訓読といえる。

19-3)「近々(ちかぢか、きんきん)」・・しばしば。頻繁に。

19-7)「地方(じかた)」・・江戸時代、町方に対して、村方のこと。農村。

19-7)「問屋(といや、とんや)」・・「問屋場(といやば)」、「伝馬(てんま)」とも。江戸時代、宿駅で人馬の継立などをする事務所。宿の中央に一か所ある場合や、上下に一か所ずつ、あるいは、上、中、下と三か所あるなど、各宿によって異なる。ここを主宰するのは、問屋役で、年寄役がこれを補佐し、その下に、帳付、馬指、人足指、小指などがあった。

19-7)「町屋(まちや)」・・町の中にある家。町人の家。商人の家。

19-8)「雑物(ざつぶつ)」・・雑多なもの。こまごましたもの。

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