森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2017年08月

8月 町吟味役中日記注記  

            

(84-2)「惣御役人中」の「中(じゅう)」・・集団の成員のすべて。「親戚中」「生徒中」

   *テキストタイトルの「町吟味役中」の「中(じゅう)」・・物事を行なっているあいだの時。

(84-2)「御七日(おなぬか・おなのか・ごしょしち)」・・人が死んでから七日目に当たる日。

   *「なぬか」と「なのか」・・現代東京語では「なのか」が優勢だが、「なぬか」の例は奈良・平安・鎌倉時代に多数見られ、現代でも関西で多用される。「なのか」の確例に乏しいのは、これが東日本で生まれた新しい形だからか。江戸の人であった滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」には「なのか」の例が多い。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(84-23)「御伺機嫌(ごきげんうかがい)」・・(1)目上の人を訪問して、その人や家族の安否をたずねること。(2)相手のきげんを見てうまくとりいろうとすること。

   ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「機嫌」の項には、

<①(譏嫌)そしりきらうこと。世人の嫌悪すること。②事を行なうしおどき。③その時々の様子や形勢。事情。④表情、言葉、態度にあらわれている、その人の気分のよしあし。⑤(形動)気分のよいこと。心持の愉快なさま。ごきげん。>とある。

   *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

   <①「譏嫌」が本来の用字と思われる。「随筆・安斎随筆‐一六」に「言偏の譏の字を用いて譏嫌と書たるは〈略〉人に譏られ嫌らはるると云事なり。木偏の機字を用ひたるとは別の事なり」とあって、「譏嫌」と「機嫌」を別語としているが、疑問。①を考慮するところから②の意が生じ、②を見はからうために③の意が生じることになったと見られる。

②③の挙例「色葉字類抄」で「気験」を当てるのは早くから④の意味のニュアンスが生じていたからと思われる。さらに転じて、⑤の意になり、現代語ではもっぱらこれを「ごきげん」の語形で用いている。>とある。

*ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「機嫌」の項には、

<「本来は仏教語で「譏嫌」と書き、譏(そし)り嫌うの意で、世間の人々が嫌うことをさしたが、のち意義が多様に分かれ、それとともに「機嫌」とも書くようになった。「嫌」の字を「げん」と読むのは呉音(ごおん)による。譏り嫌うことに気を配る必要があるところから、ことばや態度、物腰などに表れた他人の意向や思惑(おもわく)を意味するようになり、さらに転じて、ようすや形勢、あるいは気分や気持ちの意となり、他方では事のおこる時機や機会を意味するようにもなった。今日では一般的に感情や気分をいい、「御」の字を冠して、愉快な心持ち、晴れやかな気分をいうことも多い。>とある。

(84-3)「継肩衣(つぎかたぎぬ)」・・継上下(つぎがみしも)。肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)をそれぞれ別の生地で仕立てた江戸時代の武士の略儀の公服。元文(173641)末頃から平日の登城にも着用した。

*肩衣(かたぎぬ)・・室町末期から素襖(すおう)の略装として用いた武士の公服。素襖の袖を取り除いたもので、小袖の上から着る。袴(はかま)と合わせて用い、上下が同地質同色の場合は裃(かみしも)といい、江戸時代には礼装とされ、相違するときは継ぎ裃とよんで略儀とした。

(84-4)「罷出得共」・・「罷出」のあとに「候」欠で、「罷出候得共」か。

(84-4)「羽織袴(はおり・はかま)」・・羽織と袴。羽織と袴を着用した、正式の服装。

(84-6)「田村達右衛門」・・『松前藩士名前控』に「新組足軽」として「田村辰右衛門」の名

がある。

(84-6)「去年中(きょねんじゅう)」の「中(じゅう)」・・ある期間のなかのあるとき。

(84-8)「塩屋惣左衛門与申者」の「与(と)」・・1.「与」は漢文の助字で、漢文訓読の場合、①接続詞「と」、②前置詞「ともに」などに使われる。テキストの場合、日本語の格助詞「と」に「与」を当てているが、漢文訓読の場合の「与(よ)」の流用といえる。

   2.変体仮名「与」は「よ」で、「と」と読む場合は、変体仮名ではなく、「漢文訓読」の「与(よ)」の流用。

(85-3)「粗(あらあら・あらら)」・・詳細、丁寧にではなく物事を行なうさまを表わす語。おおよそ。ざっと。概略。通常は「粗粗」とするが、「粗」一字でも「あらあら」と読む場合がある。

(85-4)「私ニおゐて」・・~に関しては。…にあっては。「おゐ(い)て」は、おきて」の変化した語。漢文訓読において用いられ始めた。「…において」の形で、格助詞的に用いられる。

   ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

   <格助詞「に」をともなう「において」の形は「於」を訓読した「ニオキテ」の音便形。「於」は平安時代から「ニオイテ」の他、「ニシテ」とも読まれ(その際、平安初期では、「於」は不読とされ、「ニシテ」は読み添えられる場合が多い)、「ニシテ」が主として具体的な場所を指すのに対し、「ニオキテ(ニオイテ)」は論理的・抽象的な関係を示していた。院政期頃まではこのような使い分けがなされていたようであるが、それがやがて場所・時間を表わす場合にも「ニオキテ(ニオイテ)」が用いられるようになった。平安時代の和文では、「宇津保物語」「源氏物語」「浜松中納言物語」の男性の会話または手紙の中に用いられている。>とある。

(85-4)「奉存候」の「存」・・「存」の中の「子」が、大きく書くことがある。

(86-187-5)「何連より」の「連」・・翻刻の際、①「何連」を「いずれ」と読む熟字訓とし、「何連」とするか。②「連」を変体仮名と見て「何れ」とするか。

(86-2)「近藤吉左衛門」・・『松前藩士名前控』に「勘定奉行吟味役」として「近藤吉左衛門」の名がある。

(86-3)「参府(さんぷ)」・・江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。また、一般に江戸へ出ること。出府。

(86-4)「払方(はらいかた)」・・金銭を支払う人。会計方。

   *江戸幕府の金奉行の中に、収納をつかさどる「元方(もとかた)」と、支払いを担当する「払方」があった。それぞれ「元方同心」「払方同心」と呼んだ。

   *金奉行(かねぶぎょう)」・・江戸幕府の職名。定員は四~七人。職掌は、幕府の金庫の管理・出納をつかさどるものであり、元方・払方の二局に分かれ、おのおの収納・支払いを担当した。文政三年(一八二〇)七月、元方・払方の分掌は廃止となり、一局に統合される。

 (86-9)「油川(あぶらかわ)」・・現青森市油川。東は陸奥湾に面し、東南は新田村、西は羽白村・岡町村、西北は十三森村に接する。油川を含む外ヶ浜上磯地域は鎌倉時代から戦国期にかけて、日本海航路の終点の港として栄え、近江や北陸出身の商人たちが移住した。なかでも津軽平野を後背地にもつ油川は、陸奥湾の中心港として大浜の名で知られ、多くの寺社も勧請された。

(87-1)「御用部屋」・・町奉行所で奉行が執務した部屋。

(87-2)「差図被致候方」の「方」・・ここでは、指図されたこと。「方」は、その内容。動詞の連用形、また動作性の漢語名詞に付いて、それをする意を表わす。「打ちかたやめ」「事件の調査かたを頼む」など。

(87-4)紙(きりがみ)」・・切紙。折り紙を折り目から二つに切ったもの。また、それに書きつけた書簡や文書。なお、「剪紙(せんし)」は、一般には中国の民芸品の切り絵細工をいう。

   *「剪」は「ととのえて切断する」の意。

   *「剪髪易書(かみをきりショをかう)」・・元の陳祐(ちんゆう)の母が、髪を切って書を買い、子供に読ませた故事。

(87-4)「然者(しかれば、されば)」・・行の事柄を一応おさめて、話題を転じるのに用いる。そうして。さて。ところで。「しかれば」は、<動詞「しかり」の已然形「しかれ」+接続助詞「ば」>、「されば」は<さあれば>の変化した形。

   *「然者」を「しからば」と読めば、 順接の仮定条件を表す。そうであるならば。そうしたら。

(87-7)「官吾殿」・・『松前藩士名前控』に「御用人御留主居兼」として「藤倉官吾」の名がある。

(87-8)「幸(さいわ)ひ」・・「さきわひ」のイ音便。

   *イ音便・・音便の一つ。発音の便宜のために、おもに活用語末などの、「き」「ぎ」「し」の子音k・g・sが脱落して、「イ」の音になる現象。「書きて」が「書いて」に、「次ぎて」が「次いで」に、「熱き」が「熱い」に、平安時代初期に発生し、以後多くなった。現代語の形容詞「─い」は文語の形容詞の連体形「─き」のイ音便がもと。また、サ行四段の動詞の連用形は現代の共通語ではイ音便にならない。

   *「幸」の解字・・吉であって凶から免れる。「屰(=逆らう)」と「夭(=若死)」から構成される。「夭」は死ぬこと。したがって「死」は「不幸」ともいう。

(88-1)「貴公様(きこうさま)」・・「さま」は接尾語。武家が目上の男性を敬って用いる。「貴公」より敬意が高く、多く書簡文に用いた。

(88-3)「貴所様(きしょさま)」・・「さま」は接尾語。身分の高い人の居所や、また、そこにいる人を敬っていう語。

(88-789-1)「披露(ひろう・ひろ)」・・文書などを披(ひら)き露(あらわ)す意。報告すること。上申すること。意見を申し上げること。

   *<くずし字>「披露」の「露」・・「雨」冠と脚部の「路」大きく縦長に書かれ、二文字あるように見える。また、脚の「路」が冠の「雨」より大きく書かれる場合がよくある。一般に、冠と脚で構成される漢字は、縦長に書かれる場合がある。

(88-9)「被為入(いらせられ)」・・「入る」は、敬語とともに用いられて、 「行く」「来る」「居る」の意を表す。いらっしゃる。組成は、4段動詞「入る」の未然形「入(い)ら」+サ変動詞「す」の未然形「せ」+尊敬の助動詞「被(ら)る」の連用形「被(ら)れ」。

   *サ変動詞「す」は、活用語の未然形に接続する。

   *尊敬の助動詞「被(ら)る」は、未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に節読する。

   *なお、「いらっしゃる」(おいでになるの意)は、この「いらせらる」が変化して、四段化したもの。

(88-9)「忌明(いみあき・いみあけ・きあけ)」・・喪に服する期間が終わること。

(89-7)<カタカナの話>「趣ヲ以」の「ヲ」・・ひらがな「を」の字形は「遠」の草体から出たもの、「ヲ」の字形は「乎」の変形。従って、「ヲ」は、「二」+「ノ」と三画で書く。

(89-9)<くずし字の話>「加筆」の「筆」・・楷書や活字では最終画の縦棒は、真っすぐだが、くずし字には、右にはねる場合がある。  

 『蝦夷錦』8月学習分注記

20-1)<くずし字>「行方(ゆくえ)」・・「行」のくずし字は「り」のようになる場合がある。

   *なお、「行方」のように、「方」を「え」と読むのは当て字。「行衛」ともあてる。

    ほかに、「方」の読みに、「何方(どちら)」、「彼方(かなた)」「貴方(あなた)」など、「ら」「た」などを当てる。

20-1)<くずし字>「仍之(これによりて・これによって・これにより)」・・「仍」はきまり字。

     *<雑学>「仍(ジョウ)」解字は、人+乃。音符の「乃」は胎児の象形で、人と胎児と世代が重なる様から、「かさなる」「よる」の意味を表す。

     *「仍孫(じょうそん)」・・自分から八世後の世代の呼び名。

       本人・子・孫・曽孫・玄孫・来孫(耳孫)・昆孫・仍孫・雲孫の順。

      **玄孫以下を「鶴の子」ともいい、千年の寿命を保つといわれる鶴のひなに托して長寿を祝い、期する気持で用いられる。

20-3)「後詰(ごづめ・うしろづめ)」・・先陣の交替補充のため、後ろに控えている軍勢。予備軍。援軍。

20-4)「軍船(ぐんせん・いくさぶね)」・・水上の戦に用いる船。戦争に使用する船。

20-5)「兵船(へいせん)」・・戦争に使用する船。兵艦。

20-6)「もつて」の「つ」・・①「つ」「ツ」の字形の起源は諸説があって定めがたい。その原字には、「川」「州」「津」「闘」などがあげられているが、古代朝鮮半島における用字を参考にした「州」の説が有力である。」(『ジャパンナレッジ版本国語大辞典』)②平仮名の「つ」および片仮名の「ツ」は「川」または「州」からできたものかと考えられるが、未詳。(『ジャパンナレッジ版日本百科全書(ニッポニカ』)

     *「川」は、漢音・呉音とも「セン」。訓では「かわ」。万葉仮名で「ツ」と音に用いられているが、漢・呉・唐のいづれの音にも属さない。「州」の呉音「ス」が「ツ」に近いか。

20-8)「天満舟(てんまぶね)」・・伝馬船。橋船。はしけ。本船に搭載し、岸との連絡や荷物の積み下ろしに使用する木造の小船。

20-9)「宛(ずつ)」・・「宛」を「あて」と読めば割当てること、「ずつ」と読めば一定量の割り当てを示す副助詞。本来の用字「充」の異体字が「宛」と似ているため、中世以降混用された。(『漢辞海』)

21-1)「飛道具(とびどうぐ)」・・遠くから飛ばして敵を撃つ武器。鉄砲、弓矢の類。

21-1)「石火矢(いしびや)」・・戦国末期に西洋から伝来した大砲の呼び名。

21-3)「人数働(にんじゅばたらき)」・・軍勢を人員を手配し、配置すること。

21-4)「かね」・・兼ね。「ね」は、変体仮名の「年」。「兼(か)ぬ」の連用形。補助動詞として用いられる場合、動詞の連用形について、「~し続けることができない」、「~しようとしてできない」と、否定の意をあらわす。

22-1)「戸田久大夫」・・戸田又太夫。本事件当時は、ヱトロフ島紗那会所詰めの箱館奉行支配調役下役元〆。八十俵三人扶持、役金拾両、在勤年数御手当金二十両、雑用金五十五両。なお、戸田又太夫に関しては、「ゑとろふ嶋へ魯西亜人渡来候節、会所を明退、自殺候に付、御宛行並屋敷上候」となり、「又太夫が悴、後に松前奉行所同心に御抱入ありけるよし聞へぬ。」と『休明光記』にある。

     また、『写真集 懐かしの千島』(写真集懐かしの千島編纂委員会編 国書刊行会 1981)には、「戸田亦太夫藤原常保の墓」なる写真が掲載されており、「戸田亦太夫の男亦五郎本島に来り石碑を建てしものなりという」と説明がある。

22―1)「縁類(えんるい)」・・縁者。姻戚。親類。

22-5)「ナイホ番所」・・ヱトロフ島のナイホに、場所請負人の番人らが、漁期に出張して住み込んだ番屋。

23-3)「両家」・・南部、津軽両藩のこと。『休明光記』には、「ヱトロフ掛りは、吟味役格菊池惣内、下役元〆戸田又太夫、下役關谷茂八郎、児玉嘉内、其外同心共、在住御家人并南部津軽勤番士足軽等詰合たり」とある。また、日置英剛編著の『新国史大年表』には、「盛岡藩南部家・弘前藩津軽家の藩士300人が、ヱトロフ島紗那の会所を守った」とある。

23-3)「相妨」・・「相防」の誤りか。

23-7)「ルベツ」・・日本語表記地名「留別」。留別村は、択捉島のほぼ中央部に位置し、西は振別村、東は紗那郡有萌村、北はオホーツク海に臨み、留別川の河口に留別港がある。南は太平洋に面し、単冠湾に年萌港がある。寛政10(1798)幕府蝦夷地調査の別働隊近藤重蔵一行が「ベレタルヘ」へ着き、タンネモイに「大日本恵登呂府」の標柱を建てた(木村「蝦夷日記」)。翌年エトロフ島が幕府直轄地となり、1800年にエトロフ場所が設定されると、ヲイトに会所が置かれた。会所は享和3(1803)までに現紗那村のシャナに移されたが、文化4(1807)にロシア船によりナイボの番屋とシャナ会所が襲撃され、老門湾のフウレベツに移された。

24-9)「自害(しがい)」・・自分自らを傷つけて死ぬこと。自殺。『休明光記』によると、戸田又太夫は、「五月朔日、アリムイ(有萌)とシベツとの間において、一同休居している間に、脇差で咽を突きたて、うつぶしになりはや事きれたり。」とある。

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