森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2017年09月

9月 町吟味役中日記注記  

                             

(90-2)「唐津内町(からつないまち)」:現松前町字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(90-3)「加留堂(かるた)」:カルタ。加留多・賀留多・歌留多・骨牌などの文字を宛て、近世南蛮人の来航に伴って伝来し流行をみるようになったカルタの名はポルトガル語のcartaによったもの。カルテ、カードと同源。博奕の弊害があって、はやくも慶長二年(一五九七)の『長宗我部元親百箇条』に「博奕カルタ諸勝負令 停止 」とみえる。カルタ札は四十八枚一組で、イス(剣)・コップ(盃)・オウル(貨幣)・ハウ(棒)の四種の紋標のそれぞれが一から九までの数の札と妃・騎士・王の絵の札と合わせて十二枚によって構成されている。伝来後まもなくそれをまねてわが国で版行するようになった。

 天明7年(1787)、老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、 カルタの流行に終止符が打たれる。 この改革の中で、教育系のかるた(歌カルタ・いろはカルタ等)以外の賭博用かるたが全面禁止された。

 そんな状況の中19世紀初頭、それら全面禁止された賭博カルタに代わって、幕府の弾圧を避けるために巧みに転換し生み出されたのが、「花かるた(後の花札)」である。賭博かるたに付きものであった数標を表に出さず、それを花鳥風月と12ヶ月に託したが、やがて花札も賭博の対象となった。

 明治元年(1868)、新政府は幕府に続いて、賭博用カルタ(花札も含む)販売を禁止した。

文明開化により西洋文化の流入。この時期「西洋かるた(トランプ)」が輸入され人気に。 西洋では、トランプは賭博に使用した場合は罰せられるが、遊戯用としてなら問題ない。

明治新政府はこれに倣い、花札も売買まで禁じることは不自然との考えから、 明治18(1885)末で「花札」の禁令を解除し、発売が公に許されることになる。この解禁を機に、「花札」は庶民の間に急速に広まり、爆発的な流行を見せ始める。

明治22年(1889)には、他の禁止されていたカルタの禁令も解除、販売が再開された。

*<変体仮名>「堂」:「堂(どう)」の歴史的仮名遣いの「だう」から。

(90-3)「八間田綱右衛門(やつまだあみえもん)」:『松前藩士名前控』の「古組御足軽中」に「八間田綱右衛門」の名がある。また、嘉永6(1853)の松前藩の「御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』所収)に「足軽頭取」として「八間田網右衛門」の名がある。テキスト4ページ2行目に「八ツ間縄右衛門」とある。

(90-5)「上在(かみざい)」:松前城下から西の集落。広域名称として松前城下から東海岸を「下ノ国」「下在」と称したのに対し、西海岸を「上ノ国」「上在」と称していた。

(90-6)「町代(ちょうだい・まちだい)」:町内のことをとりしきる者。特に江戸時代、個別の町(ちょう)の名主や年寄などを補佐した。松前城下では、町年寄―町下代―町小使―名主―町代―組合頭―五人組という系列であった。

 (90-6)「五人組」:江戸時代における最末端の治安・行政単位。地域ごとに五戸前後を組み合わせ、年貢納入・治安維持の連帯責任単位とした。

 江戸幕府の五人組の起源は、慶長二年(一五九七)三月の豊臣秀吉の「御掟」とするのが有力である。この「御掟」は、辻斬り・すり・盗賊・悪逆人などの相互検察を目的として、侍は五人組、下人は十人組を組織させたものである。これは武士を対象としたもので、農民や町人にかかわるものではなかったが、やがて、五人組や十人組による相互検察・連帯責任制が農民・町人の間に及ぼされていった。

 この五人組制度が全国的規模で幕領・譜代大名領などで実施されたのは寛永10年(1633)代である。

 兵農分離による武士階級の城下町集住化に伴う近世農村の治安対策に、年貢納入・耕作労働の連帯責任制の確立、また小農民の土地緊縛などを実現するところに、五人組制度を強力に推進した幕府のねらいがあったとする。五人組の編成方法は、町では家持(地主)と家主(家持の代理人)とをもって構成し、村では本百姓または高持百姓をその構成員とした。組合せ方は、家並に最寄り次第五人ずつ組み合わせるのが普通であったが、また百姓の持高の大小を考えて平均するように組んだところもあり、また仲のよい者や親類ばかりを組み合わせてはならないと限定したところもある。人数は五人あるいは、六人・七人にしたところもあり、十数名を一組にしたのも稀にはある。組の中から重立った者を五人組頭とした。それは組員で選んだこともあり、庄屋などが選定したこともある。この五人組頭は、五人頭・判頭(はんがしら)・組親・組持・つりがしらなどともいっている。松前藩では「組合頭」という。五人組としての責務は、組中に徒(いたずら)者・悪者があれば申告すること、キリシタン関係の者は隠しておかないこと、欠落人のないように注意すること、もしあれば組中にて尋ね出すこと、組中に病人などがあって耕作のできかねる時はお互いに助け合って、年貢そのほかを不納することのないように努めること、もし未進者があれば組中で弁済することなどであって、相互検察・連帯責任制を明確にしている。

(90-8)<くずし字>「六月初旬」の「月」:連綿体のように極端にくずれている。

 *<漢字の話>「旬」:ぐるりとめぐる。十日を旬とする。解字は、「勹(つつむ)」+「日」。「徧(あまね)くするなり。十日を旬と爲す。勹日に從ふ」(『説文解字』)

(91-2)「内吟味役(うちぎんみやく)」:目付配下の役職。松前藩では、目付―内吟味役―徒士目付―足軽目付の系列であった。

(91-2)三村周太(みむらしゅうた)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「三村周太」の名がある。

(91-3)「祐筆」:武家社会に多く見られる職務。文書・記録の執筆・作成 にあたる常置の職。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)の右筆、江戸幕府の奥右筆・表右筆など。武将の家などにも見られる。松前藩では、奥用人の配下に、側頭―御近習頭―御納戸番―祐筆の系列がある。

(91-3)「新井田五郎左衛門(にいだごろうざえもん)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「新井田五郎左衛門」の名がある。

(91-3) 「同断(どうだん)」:「同じ断(ことわり)」を音読みにした語。 「断(ことわり)」は、理由。わけ。よってきたるゆえん。

(91-4)「工藤小伝治(くどうこでんじ)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「工藤小伝次」の名がある。

(91-5)「御勘定吟味役」:勘定奉行の補佐役。

(91-5)「藤林重治(ふじばやししげじ)」:『松前藩士名前控』の「御勘定吟味役」に「藤林重次」の名がある。

(91-6)「御前(ごぜん)」:近世、大名、旗本などをその家臣が敬って呼ぶ語。また、明治以後、高位高官の人を敬って呼ぶ語。

(91-7)「工藤茂五郎」:松前藩士。天保5(1834)には町奉行吟 味役に就任した。安政2(1855)、幕府の蝦夷地再直轄に際し、幕吏へ事務引継を行った。町奉行吟味役時、「工藤長栄」の名で、吟味役日記である「工藤長栄日記」を著わしている。

 (91-9)「御厩頭取(みまやとうどり)」:御用人配下の職。厩(うまや)のことを担当する責任者。「御厩(みまや)」は、「みうまや」の変化した形。「み」は接頭語。「うまや(馬屋・厩)」の敬称。

(91-9)今泉新八(いまいずみしんぱち)」:『松前藩士名前控』 の「中之間御中小姓」に「今泉新八」の名がある。

*<くずし字>「今泉新八」の「今」:楷書は4画だが、かなの「て」のように一気に書く場合がある。

(92-1)「山下達次郎(やましたたつじろう)」:『松前藩士名前控』 の「士席御先手組」に「山下辰次郎」の名がある。

(92-2)「石塚官蔵(いしづかかんぞう)」:『松前藩士名前控』 の「士席御先手組」に「石塚官蔵」の名がある。

(92-4)「東蝦夷地一番手牧田七郎右衛門」:天保2(1831)2月、イギリス船「レディロウエナ」号が厚岸のウライネコタン沖に来航、日本側と戦闘になった。松前藩は、1番手・2番手人数を派遣した。牧田は、1番手の隊長。

(92-4)「牧田七郎右衛門(まきたしちろうえもん)」:牧田はウライネコタン事件のとき、1番手の隊長。アッケシからの帰路、このとし6月、絵鞆に滞在していた時、噴火湾でまたまた異国船に遭遇、戦闘があった。天保4(1833)915日、松前藩の箱館奉行になった。

(92-5)「侍中(さむらいじゅう)」:侍ども。侍のものども。侍の連中。侍衆。

(92-6)「出役(しゅつやく)」:江戸時代、本役のほかに、臨時に他の職務を兼ねること。また、その役人。

(93-7)「薄暑(はくしょ・うすしょ)」:夏の初めの、やや暑さを覚える時分。

(93-8)「御堅固(ごけんご)」:無事息災であること。健康であること。また、そのさま。達者。書簡のあいさつ文に使用される。

(93-8)「珍重(ちんちょう)」:書簡などに用いて、相手に自重自愛をすすめる語。

(93-9)「然者(しかれば)」:先行の事柄を一応おさめて、話題を転じるのに用いる。そうして。さて。ところで。

(94-3)「繁用(はんよう)」:用事の多いこと。多忙なこと。

(94-4)「段々(だんだん)」:事柄の一つ一つ。

(94-4)<くずし字>「奉存候」:連綿体様になっている。「存」のくずしが極端。

(94-5)「御状(ごじょう)」:他人を敬って、その書状をいう語。お手紙。御書。

(94-6)「手掛(てがかり)」:手をつけるいとぐち。調べたりするためのいとぐちとなるもの。

(94-7)「可得貴意(きいをうべき)」:多く、手紙の慣用語。お聞きしたい。「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

(94-7)「被仰越(おおせこされ)」:「仰越」は、言っておよこしになること。

(94-8)<くずし字>「青」「森」:「青」は、冠が「木」、脚が「て」のようになる。「森」の脚は、「成」のように書く場合がある。

(94-8)「駅(えき)」:令制で、官道に設置された宿場。官人のために駅家(えきか)が人馬を継ぎ立て、宿舎、食料を供した。鎌倉以降衰え、代わって宿(しゅく)が発生した。

 明治のはじめには、「ステーション(ステンショ)」「停車場(ていしゃば・ていしゃじょう)」が旧来の駅と区別して使われたが、しだいに音節数の少ない「駅」が一般的になる。「ステーション」は、早くに用いられなくなる。

(95-1)「難渋之者」:経済的に困窮している者。貧困な者。難渋人。ここの「難渋」は、暮らし向きが悪くて苦しむこと。また、貧困であること。

(95-2)「元質取主(もとしちとりぬし)」:「質取主」は、質権を有する人。質権者。「元質取主」は規模の大きい質屋。 

『蝦夷錦』9月学習分注記

             
25-1)「関谷茂八郎(せきやもはちろう)」・・箱館(後松前)奉行支配調役下役。ヱトロフ島シヤナ会所詰め。『休明光記』では、関谷茂八郎は、児玉嘉内と共に、「其方ども儀、ゑとろふ嶋へ魯西亜人渡来之節、会所を明退候段、未練之始末、不届之至に候。依之重追放申付之」として、重追放の処分を受けている。

         *関連資料(『北辺紀聞』北海道立文書館蔵より

25-1)「御府」・・「御雇」か。『藤岡屋日記第一巻』(近世庶民生活史料 三一書     房発行)所収の「五月十九日付けの鈴木甚内書状」には、「御雇医師久保田見達」

とある。

*<漢字の話>

 ①「府」の部首は「广」(まだれ=麻垂)。「府」は、国家が文書や財物を収納する建物。転じて官庁・屋敷。また、「庫」は兵車や武器を収納するものを指した。「倉」は、穀物を入れておく建物。「蔵」は仏語では経典をおさめる所。

 ②「雇」の部首は、「戸」でなく、「隹」(ふるとり。「𦾔」の字に用いられているのでいう。「鳥」「酉(ひよみのとり)」と区別する。『説文解字』に「九雇。農桑の候鳥なり。」とある。9種類の雇(ウズラ)は、農業や養蚕における時期を知らせる渡り鳥で、農民に農時を誤らせないものである。「隹(とり)」から構成され、「戸」が音。(『漢辞海』)

25-1.2)「久保田見達(くぼたけんだち)」・・本事件当時、箱館奉行支配のヱトロフ島(シヤナ会所)詰御雇医師。備前の人。初め後藤十郎と称し、備中松山藩士。性来武を好み、軍学を修めたが、藩を退去。後、幕府の医師となり、長崎に赴いた。文化四年の露寇に際し、御雇医師として実地を見分し、その詳細を箱館に注進。『北地日記』(『蝦夷筆記』、『見達筆記』とも)を著す。

25-2・3)<くずし字>「申越」・・「申」は「P」のように見える。「越」の旁の「戉」は「月」のようになる場合がある。

25-2)「早飛脚(はやびきゃく)」・・特別に急いで書状を運んだ飛脚。依頼のあり次第出立することも、昼夜兼行で運搬にあたることもあった。早便。

25-4)「如何計(いかばかり)」・・程度についての疑問の意を表す。 どれくらい。どれほど。どんなに。

    *<くずし字>「如何」の「如」・・ひらがなの「め」または、「女」のようになる。

    *<くずし字>「如何計」の「計(ばかり)」・・「計」と「斗」は似ているが文意が「ばかり」であれば、「計」とする。

     *「ばかり」の語誌・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

     <語源については、名詞の「はかり(計)」から転じたものと考えられる。上代では副詞的な要素に下接した「かくばかり」「いかばかり」の形が過半を占め、語源である名詞「はかり」の意そのままに「おおよそ…ぐらい」の意を表わしており、多く疑問・推量・仮定などの不確実な意味の表現において用いられているが、中古には確定的な意の表現と共存する例が多くなる。

     次第に限定の「ばかり」が勢力を増し、「ばかり」より語史的には古い「のみ」を侵していく。しかし、中世では副助詞「ほど」に、近世では「ほど」「ぐらい」に程度の用法を侵され、また、近世以後「だけ」「きり」に限定の用法を侵されることになる。>とある。

25-4)「愁傷(しゅうしょう)」・・人に死なれて嘆き悲しむこと。気の毒なこと。

25-6)「御帰府(ごきふ)」・・江戸府内に帰ること。

     箱館奉行(後松前奉行)は二人体制で、一人は在府、一人は箱館在勤だった。再直轄後の箱館奉行三人体制では、それぞれ、在府、在勤、蝦夷地巡検と分担した。

(参考)箱館奉行(蝦夷地奉行、松前奉行)の任免と在府・箱館在勤について

享和2年から文化5年の動きを中心に一覧表を作成(「新北海道史年表」など参照)

ことがら

戸川安論

羽太正養

寛政12

(1799)

 

2.16小納戸頭取格・戸川藤十郎安論(やすのぶ)、蝦夷地巡見を命じられる。

3.-江戸出発、東蝦夷地クナシリに至り9月帰府。

12.-筑前守(従5位下)に叙任。

 

享和2

1802

2.23蝦夷地奉行新設

5.10箱館奉行と改称

12.14戸川、羽太、一年毎交代で箱館在勤を下命

2.23蝦夷地奉行に任命。禄百石を増賜され五百石となる。

目付・羽太庄左衛門正養(まさよし)、蝦夷地奉行に任命。

 

12.-、安藝守(従5位下)に叙任

享和3

(1803

 

3.27江戸出発。

在府

享和4

(1804)

2.1「文化」に改元

夏、帰府

4.21江戸出発、箱館で戸川と交代

文化2

(1805)

 

箱館在勤

在府

文化3

(1806)

 

在府

箱館在勤

文化4

(1807)

3.22松前西蝦夷地一円上地

4.6前年のロシア人のカラフト襲撃の報、福山に到来

5.18ロシア人、エトロフ島シャナ会所襲撃の報、箱館に到来。

10.24奉行所を福山に移し、松前奉行と改称。河尻春之、村垣定行、松前奉行に任命

12.22荒尾成章、松前奉行に任命

 

5.10江戸出発

赴任の途中、事件の報に接し、江戸に注進

6.12箱館到着

89.蝦夷地巡見、福山に至る。

 

 

5.18羽太は、南部・津軽藩に増兵を促し、秋田・庄内藩に臨時人数催促の書簡を送る。

10.-帰府

11.18罷免される

文化5

(1808)

2.28村垣、福山到着、戸川と交代

3.29河尻、福山着、西蝦夷地を宗谷まで見分

9.22河尻、福山出帆10.19河尻、江戸着

3.8福山出帆

 

4.3江戸へ帰る

4.6罷免される

 

25-7)「品々(しなじな)」・・いろいろな品物やさまざまな物事があること。さまざまな種類があること。また、そのさま。くさぐさ。いろいろ。

25-7)「相含(あいふくみ)」・・「相含む」の連用形。「相」は接頭語として、動詞に付いて、語調を整え、また意味を強める。「含む」は、「事情を理解して考慮に入れる」の意。

25-8)「扶助(ふじょ)」・・たすけること。力をそえること。

26-2)「鈴木甚内」・・『休明光記』では、「御勘定所勘定吟味役方改役」から「箱館奉行支配調役」に補任。後、イシカリ詰の「箱館奉行支配吟味役」を務めている。

26-3)「御目見以上(おめみえいじょう)」・・江戸幕府の場合、将軍にお目通りできる格のものを「御目見」という。だいたい、家禄が二百石(俵)以上か、御番方、または異例もあるが役高二百石(俵)以上の者。御目見以上を俗に「旗本」といっている。(『江戸幕府役職集成 増補版』)

26-5)「大嶋米次郎」・・『休明光記』では、「御勘定奉行支配御勘定役」から「箱館奉行支配調役」に補任、後、江差詰の「箱館奉行支配吟味役格」を務めている。

26-8)「ヲロシヤ人拾八人召捕」・・文化四年(1807)、ヱトロフ島において魯西亜人を召し捕った事件はない。『休明光記』によれば、「奥州北郡牛瀧村(南部藩領)百姓源右衛門の持船「慶祥丸」が、享和三年(1803)、難風のため破船、ロシアへ漂着。その後、船頭継右衛門ら六人が、文化三年(1806)七月、ヱトロフ島シベトロへ帰着。翌四年(1807)四月、菊池惣内が、彼らを引連れて箱館へでかけていたため、本事件当時、シヤナを不在にしていた。」としている。

2610)「菊池惣内」・・箱館奉行支配調役。ヱトロフ島シヤナ会所の責任者。後、松前奉行支配吟味役格。本件に関し、「其方儀、ゑとろふ嶋之儀、引請罷在候上者、御要害第一心懸可申処、御備向等閑にいたし置、去夏魯西亜人及乱妨候節も、於箱館相違之儀を申立候始末、旁不埒之至に候。依之役儀召放。」と、役儀召放の処分を受けた。

27-2)「三拾弐才」・・『藤岡屋日記』では、戸田又太夫の年齢は、「三十六」としている。

27-3)「児玉嘉内」・・箱館(松前)奉行支配調役下役。ヱトロフ島シヤナ会所詰め。本事件に関し、調役下役の関谷茂八郎と同じく、重追放の処分を受けている。

27-6)「別段(べつだん)」・・特に異なること。常と異なること。特別なこと。

27-7)「賊舟(ぞくぶね)」・・敵対する舟。文化三年に樺太のクシュンコタンなどを襲ったのは露米商会のユナイ号。なお、翌年の文化四年にヱトロフ島のナイホ、シヤナを襲ったのはユナイ号とアヴォシ号の二艘。(『新北海道史年表』)

27-6)「さわり」・・「障り」か。妨げとなる。じゃまになる。

27-7)「出懸(でがけ)」・・「出懸(でか)く」の連用形。出て行く。でむく。

27-7)<くずし字>「申候」・・「申」が連綿体風のきまり字。

27-8)「東西」・・「東北」か。

28-4)「退(のき・しりぞき)」・・「退(の・しりぞ)く」の連用形。その位置、立場からははなれる。立ち去る。

28-4)「妖術(ようじゅつ)」・・人をまどわすあやしい術。奇怪なわざを見せる術。

28-6)「戸川筑前守(とがわちくぜんのかみ)」・・戸川安諭(やすのぶ)。本事件当時、箱館(松前)奉行(在任期間:享和2戌年(1802)223日~文化5辰年(1808)45日)。『柳営補任』では、「享和二戌年二月廿三日御小納戸頭取より、百石御加増五百石高被成下」、箱館奉行に補任。その後、「文化五辰四月五日、去年魯商人罷越候節、取締不宜候一件ニ付、御役被召放寄合之旨、堀田摂津守殿、於御宅被仰渡、且差扣被仰付」の処分となった。

29-1)<くずし字>「参(まい)り」

29-4)<くずし字>「船覆り」の「覆」・・テキスト影印は縦長で、冠の「西」と脚の「復」の大きさが違うので2文字のようにみえる。

    <漢字の話>「覆」・・部首は、「(かなめのかしら)」。「要」の旧字体       の冠部は「西」でなく、「襾」

28-8)「筈(はず)」・・①弓の両端の弦をかけるところ。弓筈(ゆはず)。②弓弦(ゆづる)からはずれないように、矢の末端につけるもの。③相撲で、押し相撲の手の型の一。親指を人差し指から離して広げ、相手の脇の下か腹にあてること。④(弦と筈がよく合うことから)道理。当然なこと。転じて、予定、見込みなどの意にもいう。ここでは、④の意味で、予定、見込みの意。

29-4)「折節(おりふし)」・・ちょうどその時節。ちゅどその時。折から。

29-8)「家門(かもん)」・・一家一門。一族。身分の重い家筋。

29-9)「手助(てだすけ)」・・手伝うこと。また、手伝いとして役に立つこと。

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