(102-1)「倅(せがれ)」:影印の「伜」は俗字。自分の息子をさしてへりくだっていう語。古くは男子・女子ともにさしていった。元来、「悴」を当てていたが、人を指すことを明示するために、立心偏を人偏に改めて、「倅」を当てたもの。なお「せがれ」は、室町以降の語で、「痩。せ枯れ」の意とされる。「悴」の字義から生じた訓。

(102-8)「勘定奉行」:金穀収支の業務にあたる。(別表参照)

(102-8)「蠣崎四郎左衛門」:後、松前藩家老(格)となる蠣崎吉包。影印の「蛎」は、「蠣」の俗字。「日本橋蛎殻町」は、俗字の「蛎」を使用。

 *<漢字の話1>①「右」と「左」の書き順・・「右」は払いを1画目、横棒を1画目に書く。「左」は、横棒を1画目、払いを2画目に書く。

 その理由・・「右」は、右手に神に捧げる祈りの文章を入れた器(口)を持っているところで、払いが手のひら、横棒が腕。

「左」は、左手に祈りのときに使う道具(工)を持っている姿で、横棒が手のひら、払いが腕。

 *手のひらを書いてから腕を書くから、「右」は、払いから、「左」は横棒から書く。

  (上記は、日本漢字能力検定協会のHPより)

 ②「筆順指導の手引き」(昭和33年・文部省)・・「本書に取り上げた筆順は、学習指導上の観点から、一つの文字については一つの形に統一されているが、このことは本書に掲げられた以外の筆順で、従来行われてきたものを誤りとするものではない。

(103-1)「寺社町奉行」:松前藩での設置は慶長年間といわれる。寛永16(1639)には、切支丹対策の一環として法制化されている。後松前藩時代、一時寺社奉行と町奉行を分離したこともあるが、ほとんどは両奉行を兼帯している。(別表参照)

(103-2)「触面(ふれめん)」:触書の文面。触書は、江戸時代、幕府や藩主などから一般の人々に公布した文書。特定の役人、または関係官庁などにのみ通達された御達(おたっし)に対する語。

(103-3)「村山傳兵衛」:町奉行配下の町下代。

(103-8~9)「武芸」:江戸時代中期になると、武芸は武士たる者の修むべき道として奨励され、儒書の勉学と並んで武士教育の教科となった。そして中世の弓馬に代わって剣術が表芸の第一とされるようになった。そのような状況から、正式の武芸を修行する武士の階層が広まり、したがって武芸師範を本職とする者も急増した。

 *<漢字の話>「芸」:旧字体は「藝」だが、別に「芸」という字があり、「目宿(ウマゴヤシ)」に似た草の名前。「藝」の解字は「芸」+「執」。園芸技術の意味から一般にわざの意味を表すようになった。

(104-6)「唐津内沢町」:現松前町字唐津・字西館・字愛宕など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。松浦武四郎は「小商人、番人、水主、船方等多く住す。此流れの向に新井田嘉藤太此処へ被下ニ相成屋敷有。水車有」と記しており(「蝦夷日誌」一編)、船乗りが多かったことがわかる。新井田邸跡は現在北海道唯一の孟宗竹林となっている。

(105-1)「青森赤石町」:現青森県西津軽郡鰺ヶ沢町のうち。日本海に面する漁村。

(105-3)「遣ひ者」:遣い物。贈り物。贈答の品。進物。

(105-9)「取障(とりさへ=え=)」:下2段「取障(とりさ)ふ(う)」の連用形。「取障(とりさう」は、争いの間にはいってなだめる。仲裁する。とりなす。

 *<文法の話>下2段動詞「取障(とりさ)ふ」の活用・・「とりさへ」(未然)・「とりさへ」(連用)・「とりさふ」(終止)・「とりさふる」(連体)・「とりさふれ」(已然)・「とりさへよ」(命令)

(106-23)「揚屋入(あがりやいり)」:揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

 「揚屋(あがりや)」は、牢屋。本来は、江戸時代、江戸小伝馬町(東京都中央区日本橋)の牢屋敷内にあった牢房の称。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

 *「揚屋」を「あげや」という場合は、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。「揚屋入(あげやいり)」は、遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。

(106-5)「日光海道」:日光街道。東京から宇都宮市を経て日光市に至る道路。江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの一七宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次良・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。日光道中。宇都宮までは奥州街道と共用。

(106-5)「海道」:①海上の航路。海路。船路(ふなじ)。②海沿いの道。海沿いの諸地方に通ずる道。また、その道に沿った地域。③街道に同じ。④特に、東海道をいう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古くは①を表わすには「海路」が多く使われ、「海道」は主として(2)の意だった。中世、「保元物語」などの軍記物語に頻出する「海道」は④である。

(2)中央から見てその区画の最遠方に至る路線上に海路が含まれる場合、その行政区画ばかりでなく、路線もまた「…海道」と呼ばれた。中世以降、鎌倉─京都の往還が最重要路線となったため、「海道」といえば東海道を指すようになった。④の挙例「平家物語」の「海道宿々の」はその意だが、次第に固有名詞という意識が薄くなり、人通りの多い〈主要道〉という一般名詞③が確立した。

(3)これに基づいて「日光海道」「甲州海道」などの名付けが行なわれたが、これらが海から遠いため、今度は「海」字が不適当と意識されるようになり、「街道」と書かれるようになった。

(4) 「海道」「街道」の表記については、「諺草」が「今俗に陸路を海道と云はあしし。街道といはんが然らん」と論じ、それを挙例の「俚言集覧」が論評していることや古辞書類に「街道」が見えないこと等から、漢籍からの借用というよりは、書き換えによって出現した表記とするのが妥当と思われる。

(5)近世に入ると「街道」の表記が目立つようになるが、次第に「海道」とは同音異(義)語として意識されるようになったものである。

(106-5)「房川(ぼうせん)」:日光道中栗橋宿と中田宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川の渡船場で、栗橋関所とともに日光道中のなかでも重視されていた交通の要衝であった。呼称の由来は栗橋宿の常薫寺が法華坊と称すことからその坊前の渡の意であるといい(風土記稿)、また中田宿の円光寺が玉泉坊といった頃、坊下の川を坊川とよんだという説、当時この辺りの流れが房状に膨らんでおり、房川(ふさがわ)渡が音読みされたという説もある。「郡村誌」は「ばうかはわたし」と読む。中田渡ともよぶ。

(107-2)「抱子(かかえこ・かかえっこ)」:置屋などでかかえている芸娼妓。

(107-2)「酌取奉公(しゃくとりぼうこう)」:宴席に出てお酌をする勤め。

(107-3)「受判(うけはん)」:請判。契約当事者の債務や身元を保証するために保証人が押す判。また、保証人となって判を押すこと。請けあいの判。

(107-4)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(107-6)<くずし字>「伺之節」の「節」:全体に、縦長になる場合があり、特に、脚部の「即」の最終画の縦棒が極端に伸びる場合がある。下は『くずし字辞典』(思文閣出版)

(107-7)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。訳柄。

(107-7)「口達(くたつ)」:書面でなく、口頭で法令や命令などを伝達すること。