森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2017年12月

12月 町吟味役中日記注記

        
(106-23)「揚屋入(あがりやいり)」:揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

 「揚屋(あがりや)」は、牢屋。本来は、江戸時代、江戸小伝馬町(東京都中央区日本橋)の牢屋敷内にあった牢房の称。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

 *「揚屋」を「あげや」という場合は、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。「揚屋入(あげやいり)」は、遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。

(106-5)「日光海道」:日光街道。東京から宇都宮市を経て日光市に至る道路。江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの一七宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次良・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。日光道中。宇都宮までは奥州街道と共用。

(106-5)「海道」:①海上の航路。海路。船路(ふなじ)。②海沿いの道。海沿いの諸地方に通ずる道。また、その道に沿った地域。③街道に同じ。④特に、東海道をいう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古くは①を表わすには「海路」が多く使われ、「海道」は主として(2)の意だった。中世、「保元物語」などの軍記物語に頻出する「海道」は④である。

(2)中央から見てその区画の最遠方に至る路線上に海路が含まれる場合、その行政区画ばかりでなく、路線もまた「…海道」と呼ばれた。中世以降、鎌倉─京都の往還が最重要路線となったため、「海道」といえば東海道を指すようになった。④の挙例「平家物語」の「海道宿々の」はその意だが、次第に固有名詞という意識が薄くなり、人通りの多い〈主要道〉という一般名詞③が確立した。

(3)これに基づいて「日光海道」「甲州海道」などの名付けが行なわれたが、これらが海から遠いため、今度は「海」字が不適当と意識されるようになり、「街道」と書かれるようになった。

(4) 「海道」「街道」の表記については、「諺草」が「今俗に陸路を海道と云はあしし。街道といはんが然らん」と論じ、それを挙例の「俚言集覧」が論評していることや古辞書類に「街道」が見えないこと等から、漢籍からの借用というよりは、書き換えによって出現した表記とするのが妥当と思われる。

(5)近世に入ると「街道」の表記が目立つようになるが、次第に「海道」とは同音異(義)語として意識されるようになったものである。

(106-5)「房川(ぼうせん)」:日光道中栗橋宿と中田宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川の渡船場で、栗橋関所とともに日光道中のなかでも重視されていた交通の要衝であった。呼称の由来は栗橋宿の常薫寺が法華坊と称すことからその坊前の渡の意であるといい(風土記稿)、また中田宿の円光寺が玉泉坊といった頃、坊下の川を坊川とよんだという説、当時この辺りの流れが房状に膨らんでおり、房川(ふさがわ)渡が音読みされたという説もある。「郡村誌」は「ばうかはわたし」と読む。中田渡ともよぶ。

(107-2)「抱子(かかえこ・かかえっこ)」:置屋などでかかえている芸娼妓。

(107-2)「酌取奉公(しゃくとりぼうこう)」:宴席に出てお酌をする勤め。

(107-3)「受判(うけはん)」:請判。契約当事者の債務や身元を保証するために保証人が押す判。また、保証人となって判を押すこと。請けあいの判。

(107-4)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(107-6)<くずし字>「伺之節」の「節」:全体に、縦長になる場合があり、特に、脚部の「即」の最終画の縦棒が極端に伸びる場合がある。

(107-7)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。訳柄。

(107-7)「口達(くたつ)」:書面でなく、口頭で法令や命令などを伝達すること。

(108-1)「加州」:加賀国(石川県南部)の別称。賀州とも。ただし、「伊賀」が「賀州」ということが多いので、「加賀」は、「加州」という場合が多い。影印の「州」は、異体字の省略体。

 *ほかに、旧字体「澁」の旁の草体(略体)「渋」は、常用漢字に「昇格」した。

(108-1)「橋立(はしたて)」:現石川県加賀市橋立町。江戸後期から明治中期にかけて活躍した北前船の船主や船頭が多く居住した集落。船主数は享和元年(1801)四六人、文化6年(1806)四九人、文政10年(1827)二七人。有力な船主には久保彦兵衛・西出孫左衛門・酒谷長兵衛らがあり、藩の財政改革にも積極的に協力した。現在、国指定の重要伝統的建造物群保存地区に指定されれいる。保存地区には往時の様子を伝える船主屋敷が起伏に富む地形に展開しており、敷石や石垣には淡緑青色の笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、集落に柔らかな質感を与えている。

(108-2)「入津(にゅうしん・にゅうつ)」:船が河海の津(港)にはいること。入港。

(108-3)「深浦(ふかうら)」:現青森県西津軽郡深浦町。県最西端にある日本海に臨む港町。中世には西浜と称され、安藤氏の支配下にあった。近世には弘前藩領。

(108-4)「小箪笥(こだんす)」:小さい箪笥。「箪笥」は、

 (1)中国では、竹または葦で作られた、飯食を盛るための器のことを「箪」「笥」といい、丸いものが「箪」、四角いものが「笥」であった。

(2)日本における「箪笥」の初期の形態がどのようなものであったか知ることはできないが、「書言字考節用集‐七」には「本朝俗謂書為箪笥」とあり、近世初期には書籍の収納に用いられていたようである。

(3)その後、材質も竹から木になり、「曲亭雑記」によれば、寛永頃から桐の木を用いた引き出しなどのある「箪笥」が現われ、衣類の収納にも用いられるようになり、一般に普及していったという。

(108-6)「錠前(じょうまえ)」:「錠」は「鎖(ジョウ)」の当て字。「ジョウマエ」は、重箱読み。戸などにとりつけて、開かないようにする金具。なお「前」は接尾語で、その属性、機能を強調していう。「腕前」「男前」など。

(108-6)「小松前」:現松前町字松城。松前城下の一町。小松前の地名について上原熊次郎は「夷語ポンマツナイなり。即、妾の沢又は小サき女の沢と訳す。ポンとは小イと申事。マツは婦人の事なり」「妾の事をポンマツと云ふ」と記し、続けて「則此沢に妾の住けるゆへに此名ありと云ふ」とする。福山城の南側、大松前川と小松前川に挟まれた海岸沿いの地域。沖之口役所があり、有力商人が軒を並べる城下の中心であった。

(108-8)「弐分金」:江戸時代の金貨の一種。二分判ともいう。四分で一両だから、二分金は一両の半分。文政元年(一八一八)にはじめて鋳造された。同十一年品位の異なる二分金が作られたが、貨幣の背に刻された紀年の「文」の字が、前者は楷書、後者は草書であったため、それぞれ、真文二分金(判)、草文二分金(判)とよばれた。その後も、安政三年(一八五六)、万延元年(一八六〇)、明治元年(一八六八)に鋳造されており、それらの通用期間・量目・品位・鋳造高は別表のとおりである。草文二分金以後のものが、当時の小判に比し、品位が低かったのは、一つには改鋳益金(出目(でめ))を得るためであったが、安政以降は、外国との通商が開けたために、不利な条件で金が海外に流出するのを防ぐ意味もあった。しかし幣制に統一を欠き、金銀比価が均衡を失していたために、その目的は達せられなかったが、国内では良貨が退蔵され、二分金が大量に流通した。さらに明治元年から二年までに、二百万両に近い劣悪な二分金が維新政府の手で鋳造された上に、多量の贋貨も市中に出廻ったため、明治初年には二分金が主要な通貨として用いられた。また明治七年に旧貨幣の価格を定めたとき、二分金二枚=一両の価値が算定の基準とされた。

(108-8)「浅黄木綿(あさぎもめん)」:木綿織物の一つ。経(たていと)、緯(よこいと)ともにあさぎ色に染めた糸を使って平織りにした無地の木綿。多くは裏地用に用いる。

(108-8)「肌附(はだつき)」:肌着(はだぎ)。

 *「肌付金(はだつけがね・はだつきがね)」:肌身はなさず持っている金銭。肌につけて大切にしている金。所持金。はだつきがね。

**浮世草子・好色五人女〔1686〕四・三「殊更見せまじき物は道中の肌付金(ハタツケカネ)」

(109-9)「壱朱金」:江戸時代の金貨幣。一両の十六分の一、一分の四分の一に相当する正方形の金貨。品位きわめて悪く、形も小さく、取り扱いが不便で、俗に「小二朱」とも呼んだ一朱の金貨としては、文政期改鋳の一環として、文政七年(一八二四)に発行した一種があるのみ。一個の重さは〇・三七五匁(一・四一グラム)という軽量である上に、規定の品位は三百六十五匁、江戸時代を通じて無類の悪弊であった。通用開始は七月二日と布告されているが、大坂では、七月二十一日から鴻池善右衛門・米屋平右衛門ら十五軒組合の両替屋たちが、二朱金一万五百両を預って引替えにあたった。しかし上方での評判はいたって悪く、主として古二朱銀と引き替えた高は、九月十六日現在で、ようやくにして二千両余。以後、大坂へ一朱金を差し登せることは御免ねがいたいと訴えるほどであった。それにしても、天保四年(一八三三)七月までの発行量は二百九十二万両に達した。

(108-11)「金高(かねだか・きんだか)」:金銭を合計した額。金額。

(109-1)「南鐐銀(なんりょうぎん)」:二朱銀の異称。八枚をもって金一両とする「金代り通用の銀」。つまり、二枚で一分、八枚で一両に当たる。南挺。江戸時代、安永元年(一七七二)以後鋳造された。「鐐」は白銀の美しいものの意。純分比百分の九十八という良質の銀(上銀)を素材としているので南鐐と呼ばれた。なお、幕府は、南鐐一朱銀(文政一朱銀)を鋳造、7月より通用開始した。

*P108・8行~P109・1行の計算

 ①「弐分金拾両」:4分で1両だから、「弐分金」は2枚で4分=1両。

   10両=2分金×10=20枚(2分金換算)

 ②「壱朱金三両」:1朱は、1両の16分の1。3両は16×3=48枚(1朱金換算)

 ③「南鐐銀二両」:(イ)「南鐐銀」は通常、2朱銀だから、2枚で1分。8枚で4分=1両。二両は16枚。(ロ)南鐐一朱銀の場合は、(イ)の2倍で32枚。

(109-3)「猿(さる)」:扉(とびら)や雨戸の戸締まりをするために、上下、あるいは横にすべらせ、周囲の材の穴に差し込む木、あるいは金物。戸の上部に差し込むものを上猿(あげざる)、下の框(かまち)に差し込むものを落猿(おとしざる)、横に差し込むものを横猿という。(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』』)

 *以下、出村道昭氏(6班)のコメント

  「猿」は、一般的に雨戸の戸締り用に使用する。仕掛けについては、「上げ猿」「落し猿」「横猿」があり、それを固定するための「寄せ猿(または、送り猿とも)」がセットになっている。

 『吟味役中日記』の「表入口戸猿外より錐にて明」の読み方だが、

   「表入口戸、猿、外より錐にて明」と読んでも

    「表入口、戸猿、外より錐にて明」と読んでも意味には違いがない。

  しかし、①の「猿」のみの単独表現では、ぎこちない言葉遣いではないか。「猿」は、雨戸に使用するのが一般的であり、「上げ猿」「落し猿」「横猿」の仕掛の総称の呼び方として「戸猿」(雨戸の猿の意)という方が素直な呼び方ではないか。

(110-4)<くずし字>「其旨共」の「共」:脚部の「八」の左払いが省略される場合が多い。

(110-7)「不包(つつまず)」:かくさず。「包む」は、表面にあらわさないで心の中にかくす。心にひめる。涙をこらえることにもいう。

(112-5)「内証(ないしょう)」:影印の「証」は旧字体の「證」。人に知らせないこと。あら

 わにしないこと。

(112-6)「取〆り(とりしまり)」:「〆」は、国字。「封」の草体の極端な省略とする。ここでは「締」の略として使われている。

 『蝦夷錦』12月学習分注記

34-1)「大迷惑(おおめいわく)」・・「大」は、接頭語で、名詞につき、程度のはなはだしい 
     ことを表し、「迷惑」は、どうしてよいか迷うこと。途方にくれること。困惑したり不快 
     に感じたるさま。

34-2)「御城附衆(おしろづきしゅう)」・・お城務めの者。お城詰の者。

34-3)「絵図(えず)」・・19世紀(明治前期)以前の日本での普通の地図に対する呼称。そもそもは条里制施行時代,農地の状態を表した図に〈田図〉があったが、条里名称などを注記した方格のみの〈田図〉を〈白図〉と呼び,方格のほか山川、湖海、道路、家屋など地形・地物を記入した〈田図〉を、〈白図〉と区別して〈絵図〉と呼んだ。

     江戸時代を通じて地図一般を指す呼称として〈絵図〉が主流ではあったが、〈地図〉もまたときにその同義語として使用されていた。

     〈絵図〉という語が影をひそめるのは、明治政府が学校教育に〈地図〉という呼称を持ちこんでからであり、明治中期以降地図一般を〈絵図〉と称することはほとんどなくなった。現在では〈絵地図〉という語があって、古来使用されてきた〈絵図〉を〈絵地図〉と解するむきもあるが、誤り。

     *<漢字の話>「絵」を「エ」と読むのは、国訓ではなく、呉音。漢音は「カイ」。なお、「図」も「ズ」は呉音で、漢音は「ト」。したがって「絵図」を「エズ」と読むのは、呉音読み。

     *「江戸絵図の川という筋」・・江戸の絵図には川筋が青く塗ってあったことから、額の青筋をしゃれていう語。

     洒落本・辰巳婦言〔1798〕四つ明の部「あいつが懸河(けんが)の弁をふるっちゃア、どんなやつでもひたいへ江戸絵図の川といふ筋を出して、一ばんひねって見るのサ」

34-6)「御右筆衆(ごゆうひつしゅう)」・・「右筆」は、「祐筆」とも。江戸城には、御表御祐筆(営中の書記を掌り、日記方、分限方、家督方、吟味方などの分掌を担当)30名位と御奥御祐筆(営中の記録係で、老中の文案を悉く記録し、古例に徴して事の当否を議する役で、機密の事を担当)13名位がおり、御表御祐筆より、御奥御祐筆の方がより重い役であった。

34-4)<くずし字>「等」・・くずし字では、「ホ」の形になる場合が多い。

         ・なぜ「ホ」の形になるかについて、<脚部の「寸」が独立したもの。「す(寸)」と区別するため、肩に「ヽ」つけたもの>(茨木正子偏『これでわかる仮名の成り立ち』友月書房)

     ・<「等」の草体からできた字である。但し、そういうせんさくは一切抜きにして、直ちに古文書の「等」これなりと覚えてください>(笹目蔵之助著『古文書解読入門』新人物往来社)

(34-9)「堀田摂津守(ほったせっつのかみ)」・・江戸時代後期の大名、若年寄。近江国堅田(かたた)藩主、下野国佐野藩主。藤八郎・村由。水月と号す。陸奥仙台藩主伊達宗村の八男。寛政2年(1790)、若年寄に進み、勝手掛となり、寛政の改革の財政を担当。文化3年(1806)勝手掛出精につき三千石加増。翌4年蝦夷地にロシア船来航につき松前へ派遣される。天保3年(1832)七十五歳で致仕するまで四十三年にわたり若年寄の職にあった。同年六月十七日死去。若年寄在任中、『寛政重修諸家譜』編纂を総裁した。

(35-2)「南部大膳大夫(なんぶだいぜんのだいぶ)」・・令制の中宮職・春宮坊・左右京職・大膳職・摂津職の長官。令外の皇后宮(皇太后宮・太皇太后宮)職および修理職の長官も大夫と称した。『貞丈雑記』には、「大夫をすみて云と、にごりて云に差別あり」とし、左京大夫・修理大夫などは濁っていい、「たいふ」と澄んでいうときは五位の事であると説いている。また長官を「だいぶ」と読むのは、八省の次官の大輔を「たいふ」というのと区別するためであるとする説もある。

     *「大膳職(だいぜんしき)」・・令制宮内省所管の官司。「おおかしわでのつかさ」と訓む。内膳司が供御の調製、供進を担当したのに対し、大膳職は主として朝廷の饗膳の調進を職掌とした。職員令によれば、その職員は大夫(だいぶ)一人、亮(すけ)一人、大進(だいじょう)一人、少進(しょうじょう)二人、大属(だいさかん)一人、少属(しょうさかん)二人、ほかに、史生(ししょう)、主醤(ひしおのちかさ)、主菓餅(くだもののつかさ)、膳部(かしわでべ)、使部(しぶ)、直丁(じきちょう)、駈使丁(くしちょう)などから成り、そのほかに雑供戸(鵜飼・江人・網引・未醤戸など)が付属していた。主醤は醤・未醤など調味料の製造を掌り、主菓餅は菓子(木の実)のことおよび雑餅の製造を掌った。

     *「大夫・太夫(だゆう)」・・鎌倉時代末ごろ、大和猿楽座の棟梁が従五位下の位を得て大夫と称してから、芸能の世界でも大夫が棟梁の地位を示す称となり、「たゆう」とよむのを例としたが、江戸時代には遊女の最上級者の呼称にもなった。

(35-3)「大番組(おおばんぐみ)」・・江戸幕府の職名。老中支配で、三河の譜代家臣を母体として、今川氏や武田氏、後北条氏の遺臣を組み込んで編成され、戦時は、先鋒となり、平時は、要地を守衛。後年、江戸城及び江戸市中の警備にあたるほか、毎年、二組ずつ順次交替して、二条城と大阪城に在番した。寛永11(1634)には12組に増設され、以後幕末まで固定した。各組は、大番頭(5000石)1人、組頭(600石)4人、番士(200俵高)50人、与力10騎、同心20人で構成。

35-5~6)<古文書の体裁>「平出」「欠字」・・5行目に「右之通於」で改行しているが、尊敬の体裁で「平出」という。また、6行目「御前被」と「仰付」の間が1字分空いているが、「欠字」という。

35-6)「御前(ごぜん)」・・ここでは、「将軍」を指す。本書時(文化4年)の将軍は、第11代の家斉(いえなり)。

35-7)「榊原式部大輔(さかきばらしきぶのたいふ)」・・越後高田藩(10万石)の藩主榊原政敦(まさあつ)。受領名式部大輔。藩主在任期間(寛政元年(1789)~文化7(1810))。

     *式部省・・令制で、太政官八府の一つ。朝廷の礼式、文官の選課、選叙、賜禄などを司り、大学寮、散位寮を所管した。また、式部省の位階は、卿、大・少輔、大・少丞、大・少録などの順となっている。

35-8)「城請取」・・『松前町史』(別添)によると、松前藩居所受取の幕吏は、男谷平蔵(おだにへいぞう)と守屋権之丞で、榊原政敦の名はない。

36-1)「籏本(はたもと)」・・旗本。影印は、竹冠の「籏」になっている。なお、「旛」は国字。「旗本」は、江戸幕府直属の家臣で、将軍に御目通りできる格の御目見以上で、家禄がおおざっぱにいってだいたい二百石以上の武家。十八世紀半頃の調べでは、5200余家あった。(『江戸幕府役職集成増補版』)

36-3)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。思考。

36-3)「了簡(りょうけん)」・・考え。気持ち。思案。「料簡」とも。

36-4)「しかし」・・「し」は、変体かなの「志」。

36-6)「御詫言(おわびごと)」・・あやまりの言葉。

36-8)「かうゑき」・・「交易=こうえき」で、互いに物品の交換や売買をすること。

37-1)「一昨年」・・本書の成立は、文化4年(1807)であることから、「一昨年」は、文化2年(1805)となる。

37-1)「星の貫キ」・・不吉の前兆としてその出現が恐れられている「彗星(別名ほうき星)」、あるいは「流星」を指すか。『近世日本天文史料』(大崎政次編著 原書房)には、文化2年(1805)に、彗星や大規模な流星が出現したとする記録が記載されていない。ただ、ヨーロッパでは、後年に「エンケ彗星」と名付けられた「太陽の周りを周期3.3年で公転する彗星」が1805年に出現している。(『平凡社大百科事典』)

3712)「水戸の国」・・水戸徳川藩の領地で、国名では、常陸の国。

37-2)「月影(つきかげ)」・・月の形の意で、天文現象としての「月食」を指すか。『近世日本天文史料』には、「文化二年(1805)六月十六日戊辰、月帯食。とらの四刻上と左の間よりかけはしめ、とらの八刻八分はかりかけながら入。食分東国にてハ浅く、西国にてハ深かるへし」、「六月十七日己巳、晴 今暁月蝕也」、「六月十六日、夜寅ノ刻月蝕八分」の記録があり、水戸でも、早朝4時~5時頃に、部分月食が出現したと思われる。

37-4)「仙台(せんだい)」・・仙台伊達藩をさす。

37-4)「佐竹(さたけ)」・・秋田(別称久保田)佐竹藩をさす。

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