森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年01月

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2018212日(月・祝日)13時~16時   

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年、幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏の記録。

  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

1月 町吟味役中日記注記

(113-3)「下男供」の「供(ども)」:名詞・代名詞に付いて、そのものを含めて、同類の物事が数多くあることを示すが、必ずしも多数とは限らないで、同類のものの一、二をさしてもいう。人を表わす場合は「たち」に比べて敬意が低く、目下、または軽蔑すべき者たちの意を含めて用いる。現代では、複数の人を表わすのに用いられることが多い。名詞に付いて複数を表す。人を表す名詞に付いた場合は、「たち」よりも敬意が低い。

*「共」と同語源。一般には、「共」が多いが、「供」は、現在、「子供(こども)」などに残っている。

(113-4)「親ニ代り」の「代」:「代」に左払いの「ノ」があり、「伐」に見えるが、筆運びの勢いの「ノ」。

(113-6)「篤与(とくと)」の「与」:「与」は変体かなではなく、漢文訓読の助辞の「与」

の訓読みであり、日本語の古文や古文書に援用されたもの。

 *「富貴、是人之所欲也」(『論語』)

(フウは、これひとのほっするところなり)

  [富と尊い身分とは、どんな人でも望むものである。]

 *漢文の語が、わが国の古文書で読まれるとき(訓読)、助詞として援用される語

  ・「与」・・「と」

  ・「之」・・「の」

  ・「自・従」・・「より」

  ・「者」・・「は」「ば」

  ・「而」・・「して」

  ・「也・乎・耶・歟」・・「や」「か」

  ・「耳・爾・而已」・・「のみ」

  ・「許・可」・・「ばかり」

  ・「哉・夫・矣」・・「かな」

  ・「也」・・「や」(呼びかけ)

  ・「乎」・・「よ」(呼びかけ)

(113-6)「御認メ(おしたため)」の「御」:極端に崩され「ワ」「ツ」「ソ」のようになる場合がある。      

(113-7)「岡田團右衛門」の「岡」:構の「冂」が、極端に省略される場合がある。

(113-7)「岡田團右衛門」の「團」:「囗」(くにがまえ)は最後に書く場合がある。さらに、

「囗」(くにがまえ)の横棒は省略され、縦棒も「ヽ(点)」で書く場合がある。

(113-7)「某供(それがし)」の「某」:①〔代名詞〕 《人称代名詞。自称》 男性があらたまった気持ちで謙譲的にいう語。わたくし。拙者(せっしゃ)。小生(しょうせい)。

 ②人名や地名、事物などが不明の時、または具体的なことを省略する時に用いる語。だれそれ。どこそこ。何とかいう。

 ➂人名、地名、事柄など、一般によく知られているためにかえってぼかしていう時に用いる語。

 ここでは、①。

(113-7)「某供(それがしども)」の「供(ども)」:自称の代名詞、または自分の身内の者を表わす名詞に付けて、単数・複数にかかわらず、謙遜した表現として用いる。「私ども」「親ども」など。

(114-1)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」:現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前こまつまえ川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(114-2)「唐津内町(からつないまち)」:松前町字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(114-6)「目操札(めくりふだ)」: 捲(めくり)札。カルタ札の一種。日本で初めてのカルタである天正カルタの図柄が後に極端に崩れ、一枚ずつめくり、手札としたものの組合せなどにより点数を競う競技に使用されるようになって以後の呼称。また、それを用いて行なう競技や賭博(とばく)。めくりカルタ。

 *「紙をめくる」など、「はがす」の意味の「めくる」は、「捲(めく)る」と「捲」を当てる。影印の「繰」は、「あやつる」の意味で、「目操」は「めくり」と読むのだろうが、当て字としては「目捲」が適当か。

(114-9)「畢而(おわりて)」の「畢」:「畢」は、あみの形。鳥獣などを捕るあみで、下部に長い柄がある。上のまるい形が小網の部分。〔説文〕四下に「田罔(でんまう)なり。田に從ひ、(はん)に從ふ。象形。或いは曰く、田(でん)聲」(段注本)とするが、字の全体が象形である。原の初文である(げん)は、狩猟のはじめに祈る儀礼を示し、犠牲の獣の上に畢をおいて、成功を祈る。田は畢(あみ)の形。夂(ち)は神霊の降下する形。畢で一網打尽にとり尽くすので「畢(おわ)る」意となり、「畢(ことごと)く」という副詞に用いる。

 *テキスト影印の「畢」は、異体字。

(114-6)「店売(たなうり)」:暖簾(のれん)をかかげた商店で品物を売ること。店を構えて商売すること。みせあきない。

(114-67)「吟味詰口書(ぎんみつまりのくちがき)」:江戸時代の刑事訴訟文書の一種。奉行所吟味役人が被疑者を吟味した結果、有罪判決を下すのに十分な供述が得られた場合に作成する文書。被疑者が罪を白状した形式になっていて、被疑者の爪印(武士の場合は書き判)が必要とされ、奉行所ではこれをもとにして刑罰を決定した。

 *「吟味詰(ぎんみづめ)」:江戸時代の刑事訴訟で、吟味筋の裁判を終結させること。被疑者はもはや異議を申し立てることはできず、判決を待つばかりだった。

(115-1)「始メお目見得(はじめおめみえ)」:御目見以上の家に生まれた者が、はじめて将軍に謁見することを特に「初御目見(はつおめみえ)」といった。ここでは、松前藩主へ初めて謁見することをいう。

(115-6)「両浜(りょうはま)」:両浜組。近世初期から北海道に進出して活躍した近江商人の仲間組織。おもに近江国愛智郡薩摩村・柳川村両村(彦根藩領)と蒲生郡八幡町(幕領→尾張藩領→幕領)出身の商人で組織され、両浜組に属する商人を両浜商人または近江店などと称した。両浜の語源については、薩摩・柳川両村にちなんだとするものと、薩摩・柳川両村は互いに隣村であることから両村を一浜とみ八幡を加えて両浜としたとする二説がある。

(115-6)「問屋(といや・とんや)」:近世における商業組織では仲買とともにその中心をなし、荷主から委託された物資を仲買人に売りさばいた。江戸では「とんや」ともいう。

(115-6)「都合(つごう)」:「都」はすべての意。 みんな合わせて。ひっくるめて。全部で。

(115-7)「表座敷(おもてざしき)」:家の表の方にある座敷。客間とする。「座敷」は、表居間昔の部屋の床は板張りのままで、畳・しとね・円座などを敷いて座ったことからできた語。室町時代、書院造りが発達し、畳が敷きつめられるようになってから、よく用いられるようになる。

(115-8)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからというその時。おり。場面。雨だれを受けるために軒下に石を敷いた所。転じて、庭。

 *「砌」:〔説文新附〕に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。(『ジャパンナレッジ版字通』)

  **「玉砌(ぎょくせい)」:玉の石だたみ。

(116-2)「同断(どうだん)」:「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。

(116-7)「参府(さんぷ)」:江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。また、一般に江戸へ出ること。出府。

 *「府」:国家が文書または財物を収蔵する場所。くら。「秘府(ひふ)=宮中の書庫」、「内府(だいふ)=宮中の金庫」。

  **「府」は、文書や財物を収蔵し、「倉」「庫」は、兵車や武器を収蔵、「蔵」は、穀物を収蔵するところ。

(116-8)「一統(いっとう)」:総体。一同。

(117-2)「ウス場所(ばしょ)」:現在の有珠うす湾を中心に開かれた近世の場所(持場)名。

一六一三年慶長18(1613)に松前藩主松前慶広がウス善光寺を再建したといわれ(新

羅之記録)、その頃には開設されていたという(伊達町史)。往古の境界は、西側はウコソ

ンコウシ(現在の北有珠町付近)をもってアブタ場所に、東側はヘケレヲタ川(現室蘭市

陣屋町付近)をもってヱトモ場所に接していたが、一八〇〇―一八一〇年代にモロラン

会所(現室蘭市崎守町)が新設されてから、チマイヘツ川(現在の伊達市・室蘭市境のチ

マイベツ川)をもってモロラン場所に接していた(場所境調書)。

「ウス場所」は新井田浅次郎の給地で、運上金七〇両、場所請負人は箱館の浜屋兵右衛門

であった。当時の運上屋は一戸(蝦夷拾遺)。九一年(寛政三年)の「東蝦夷地道中記」

によれば、ウス場所は細見磯右衛門の給地で、請負人は箱館の覚左衛門、ウスに運上屋が

あり、ヲサルベツ、ツバイベツの家数は二軒ほどであった。

寛政11(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、場所請負制を廃止して直捌としたため、

運上屋は会所と改められた。

(117-3)「下乗(げしょう)」:寺社の境内や城内などに車馬を乗り入れることを禁じること。

(117-5)「ウス牧場(まきば)」:文化2(1805)、箱館奉行は蝦夷地初の牧場経営を行ない、アブタ・ウスに牧場を開設した。戸川は、種馬三頭の下付を受けて、南部藩からの献上された馬で、牝馬四頭、購入牝馬五頭とともに放牧、順次繁殖などで増やした。文政5(1822)の記録では、2553頭に達した。なお、この年の有珠山噴火で多くの馬が斃死(へいし)した。

(117-7)「六ヶ場所(ろっかばしょ)」:『北海道史附録年表』(河野常吉編)には、

<享和元年(1801年)「是歳(このとし)幕府、六箇場所『小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追』の地、和人の居住するもの多きを以て村並となし、山越内を華夷(かい)の境界となす」と記述されており、地名も漢字で表記されている。これらの記録から『箱館六ケ場所の村並化は1800年、寛政12年に決定し、翌年、1801年、享和元年に、いわゆる公布・施行』されたものと推定される。>とある。

(117-8)「御構(おかまえ)」:立ち入ることを禁じること。重い追放ほどその範囲は広くなった。御構場。御構場所。

(117-8)「永々之御暇(ながながのおいとま)」:主従などの関係を絶ちきって去らせること。

(118-4)「当時(とうじ)」:現在。現今。

(118-7)「改(あらため)」:調べただすこと。江戸時代、公儀の役人が罪科の有無、罪人・違反者の有無などを吟味し取り調べること。取り調べ。吟味。

(118-8)「法度(はっと)」:法として禁ずること。禁令。禁制。さしとめ。

 *「法度(はっと)」の読みは、「ほうと」の旧仮名遣い「はふと」の促音化した形。

(118-8)「触出(ふれだし)」:触れを出すこと。

(118-10)「手鎖(てじょう・てぐさり)」:江戸時代、刑具の一種、またこれを用いて庶民にのみ科した軽罪の一種。「てぐさり」ともいう。手鎖は鉄製瓢箪型の金具であって、両手を前に組ませてこれをはめ、小穴に錠をかけ紙で封印する。適用実例としては百姓・町人が筋違いの願事をなした場合、不届きとされ、そのお咎として申し付けられる場合が多く、時として不義密通の女や、博奕の自訴、山東京伝の洒落本、為永春水の『春色梅児誉美』などのごとく風俗紊乱の書物を著わしたお咎として科される場合にもみられる。手鎖は「過怠手鎖」と「吟味中手鎖」とに大別される。過怠手鎖はさらに、過料に代えて入牢させ、牢内で執行するものと、自宅・親族などの私宅・宿預・町預のうえ手鎖を付着、謹慎させるものとに区別される。いずれにせよ過怠手鎖は咎の軽重により一定期間(三十日・五十日・百日)手鎖が施されるもので、『公事方御定書』に、「其掛りニ而手鎖懸、封印付、五日目切ニ封印改、百日手鎖之分ハ隔日封印改」とあるように、三十日、五十日手鎖は五日ごとに「錠改め」と呼ぶ定期検査を行い、百日手鎖は一日置きに検査が繰り返された。牢内ではその掛が改め、町預など牢以外の所での手鎖は監視役の町奉行所配下同心・町役人・大家がこれを改めた。自宅での手鎖などは「せっちんでかかあどのやと手じょう呼び」との古川柳が物語るように、日常雑事・用便に至るまで手がかかり、無事期限がくれば、「両の手を出して大屋へ礼に来る」と、御礼参りも慣習的な作法の一つであった。

 *「てじょう」は、「手錠」だが、「手鎖」を「てじょう」と詠むのは当て字。

(118-11)「七日(なのか・なぬか)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』のほちゅうには、<現代東京語では「なのか」が優勢だが、「なぬか」の例は奈良・平安・鎌倉時代に多数見られ、現代でも関西で多用される。「なのか」の確例に乏しいのは、これが東日本で生まれた新しい形だからか。江戸の人であった滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」には「なのか」の例が多い。>とある。

(118-11119-1)「急度御叱(きっとおしかり)」:江戸幕府の刑罰。幕府法上最も軽いものが叱責の刑であって、それには急度叱と叱の重軽二種があった。庶民だけではなく、下級武士にも適用された。白洲で奉行ら裁判の責任者が判決にあたって罪状を述べたあと「急度叱」、あるいは「急度叱置(しかりおく)」と言い渡すだけである。このような刑罰でも、幕府が士庶の身分的挙動の適否を随時公示するために意味があったし、これを受けた者は居住地域の知人らに対し公然と面目を失うことに苦痛があり、むしろ名誉刑の機能をもった。

(119-1)「三貫文(さんかんもん)」:「貫」は、計銭の単位。銭一千文を一貫と称するが、その由来は一文銭千枚を一条の緡(さし)に貫いて一結としたことにあるという。また一貫を一〆と記すことが多いが、これも一結すなわち一しめ、からきたもののようである。

(119-1)「過料(かりょう)」:中世から近世に行われた財産刑の一種。主刑として経済的負担を課することは律令制の衰退以後に始まる。過怠と称して寺社の修理などを命じたり財物や銭貨を徴したが、ことに銭貨を徴することを過怠銭・過銭・過料などと称した。享保三年に過料刑の体系は整備された。『公事方御定書』は御仕置仕形之事に同年極として「過料、三貫文、五貫文、但、重キハ拾貫文又ハ弐拾両三拾両、其者之身上に随ひ、或村高に応し員数相定、三日之内為納候、尤至而軽キ身上ニ而過料差出かたきものハ手鎖」との箇条をおいている。これらの過料刑は広汎に適用され江戸幕府刑法では博奕その他軽罪に対する主要な刑罰であった。さらに御定書以降もある犯罪に対する従来の刑罰を過料刑に変えた例もかなりあり、過料刑が刑罰に占める位置はいよいよ大きくなった。

(119-4)「御役所限(おやくしょぎり)」:「限(きり・ぎり)」は、「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。体言またはそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。

「…かぎり」「…だけ」の意。

(119-5)「披露(ひろう)」:公表。

『蝦夷嶋巡行記』1月学習分注記    

◎本テキストの概要: 本書は、北海道大学附属図書館所蔵の『蝦夷嶋巡行記』(旧記040)の影印本であり、寛政8年(1796)と同9年(1797)の二度のイギリス船の来航により、松前藩の北方警備に危惧を抱いた江戸幕府は、寛政10年(1798)、大規模な蝦夷地調査隊を派遣したが、そのうちの西蝦夷地の調査に随行した筆者の公暇斎蔵(身分不詳)が、5月から8月にわたり、松前より宗谷まで、帰路は石狩川、ユウフツ経由で松前まで巡見し、翌寛政11年(17999月に『蝦夷嶋巡行記』として取りまとめた紀行記である。

【イギリス船の来航と幕府の蝦夷地調査】

【寛政8年-1回目の来航】

 寛政8年(17968月、一艘のイギリス船が、海図作成のため、東蝦夷地内浦湾のアブタ(虻田)沖に姿を現した。

 18世紀後半、新興のロシアや世界に先駆けて産業革命を成し遂げたイギリスなどの西洋列強、さらに1776年(安永5)に独立を果たしたアメリカによる太平洋海域への進出が盛んになる中、毛皮交易などのため重要な広東、上海、厦門とアラスカ、北アメリカ西海岸を結ぶ海路上に位置するカラフト(唐太)東海岸や蝦夷地周辺の海域は、これまで十分な測量がなされていない海図の空白区域となっていた。

 イギリスの海軍士官ジェームス・クック(キャプテン・クック)隊による第3次探検(1776(安永5)~1779(安永8)によって、ハワイ諸島、北アメリカ西海岸、アラスカ、ベーリング海域の調査はなされたが、千島列島と蝦夷地の沿岸海域については、風と濃霧のため十分な測量がなされず、また、天明7(1787)のフランスのラ・ペルーズ探検隊の調査によっても、対馬海峡から日本海(能登岬まで)を測量しながら北上し、さらに沿海州沿岸とカラフト西岸を測量(間宮海峡を発見できず)し、宗谷海峡(この時、ラ・ペルーズ海峡と命名)を通過してカムチャッカに至ったが、カラフト東岸や蝦夷地周辺の海域は、依然として空白のまま残された。

 このため、当時東南アジアで競合するオランダに第4次英蘭戦争(17801784)で勝利し、南太平洋の制海権を握ったイギリスは、1795年(寛政7)、海軍中佐ウイリアム・ロバート・ブロートンに、東シナ海沿いの琉球から日本列島、朝鮮半島を経て、未知の蝦夷地、サハリンに至る正確な海図の作製を命じた。

寛政8年(1796814日、東北地方を北上してきたブロートンの指揮するプロビデンス号(430トン、乗員150人)は、東蝦夷地内浦湾に入り、アブタ沖に停泊、その後、17日にヱトモ(絵鞆)に移動、停泊をした。

この時東蝦夷地巡見中の家老松前左膳広政からの急報を受けた松前藩は、寛政4年(1792)のロシア遣日使節アダム・ラックスマン一行の応接御用を務めた藩士工藤平右衛門、同米田右衛門及び医師加藤肩吾を通弁見届として、藩士高橋壮四郎を付添いとして派遣、825日に、プロビデンス号を訪れ船内の見分をするとともに、翌26日再び訪問し、松前藩の地図を贈り、その返礼としてブロートンからキャプテン・クックの航跡を図示した世界地図を贈られた。その後、プロビデンス号は、ヱトモ周辺を測量、内浦湾を噴火湾(Volcano-bay)と名付け、830日、死亡した水兵をオルドソン島と名付けた大黒島に埋葬し、出帆、千島列島を経て中国(厦門)へ向かった。

 この間、隠居松前道広(前8代藩主)が鷹狩と称して826日、藩兵280人を率いて亀田まで出兵し、引き返したほか、828日には、津軽藩が出兵準備を行っている。

 幕府は、9月、松前藩から報告を受け、109日、工藤平右衛門、加藤肩吾を、勘定奉行久世丹後守邸において尋問するとともに、老中太田備中守資愛、勘定奉行間宮筑前守信好、目付村上大学を松前御用掛に任じ(間もなく、太田備中守は戸田采女正氏教に、村上大学は新見長門守にそれぞれ交代)、さらに、勘定金子助三郎、普請役宮田左右吉、徒目付古屋平左衛門、小人目付田草川伝次郎、松永善之助を松前見分御用に任じて松前に派遣、5名は、翌寛政9年(17971月~3月にかけて、東蝦夷地を中心に、江差方面の調査をも行い、同5月、幕府に調査報告書を提出した。

【寛政9年―2回目の来航】

 寛政9年(17974月、ブロートンは、再び北方探検のため厦門を出発したが、420日、琉球宮古沖でプロビデンス号が座礁、沈没したため、スクーネル船(80トン、乗員34人)に乗り換え、日本の東海岸を北上、719日、ふたたびヱトモ沖に姿を現した。

 松前藩は、アブタ勤番の酒井栄からの急報により、前年と同様、工藤平右衛門と加藤肩吾を派遣、724日、ブロートンを訪問したが、二人の監視するような応接の態度を怪しんだブロートンは、閏72日、ヱトモを出帆、その後、恵山沖で水深を測り、7日箱館沖に現れ、白神岬をまわって、閏79日には福山城下に接近、その後、津軽海峡を日本海に出、西蝦夷地リイシリ(利尻)島、レブンシリ(礼文)島を経てカラフト西岸を北緯52度まで北上後、反転し、対馬を経て、南シナ海を探検し、厦門に帰っている。

 この間、松前藩は、下国武、新谷六左衛門ら藩兵300人をヱトモに差し向け、また、閏79日の福山接近に際しては、福山城下の守備を固めるなど戦々競々の日を送った。

 幕府は、928日、松前藩主松前若狭守章広の参勤交代による出府の中止を命じ、既に925日福山を開帆、仙台領水沢まで赴いていたのを引き返させ、代わって隠居松前道広の出府を命じ(幕府は、言動に疑惑のある道広の松前居住を好まなかったためともいわれている)、松前道広は、1127日に福山を開帆、江戸に赴いている。

 また、幕府は、922日、津軽藩に対し、近年松前に異国船が度々入来するにつき、番頭1組の箱館への派遣を命じ、津軽藩は、114日、番頭山田剛太郎、目付佐野吉郎兵衛以下550人を出発させ、翌寛政10年(1798)正月3日箱館着後、浄玄寺に本陣を置き、警備に当たらせた。

【寛政10年-幕府の蝦夷地調査と東蝦夷地の仮上知】

 幕府は、ロシア船やイギリス船の相次ぐ来航により、松前藩の北方警備に対し重大な危惧を抱き、寛政10年(1798314日、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿に、同17日には勘定吟味役三橋藤右衛門成方に、それぞれ松前表異国船見届御用を命じ、勘定組頭松山惣右衛門、勘定太田十右衛門、支配勘定近藤重蔵、勘定吟味方改役並水越源兵衛、大島栄次郎、その他御徒目付5、小人目付8、普請役7など総勢180余名で、415日江戸出立、516日福山城下に到着した。

 一行のうち、目付渡辺胤、勘定組頭松山惣右衛門は、福山城下に留まり事に当り、勘定吟味役三橋藤右衛門一行(上下27人)は、西蝦夷地視察した。使番大河内政寿一行の本隊は東蝦夷地シヤマニまで巡回し、別動隊の支配勘定近藤重蔵ら一行(最上徳内、下野源助(木村謙次)、秦檍丸(村上島之丞))は、さらに奥蝦夷地のエトロフ(択捉)島に渡り、727日、モイレマとタンネモイの間の丘に「大日本恵登呂府」の標柱を建立している。

本書の著者・公暇斎蔵は、西蝦夷地巡行の三橋藤右衛門の従者のひとり。一行は、525日、松前を出発し、西蝦夷地をソウヤまで、帰路は、石狩川、千歳経由で巡見した。松前帰着は822日で、86日間、556里の旅であった。

 帰府した渡辺、大河内、三橋の三人は、1115日、将軍(11代家斉)に拝謁、復命した。幕閣らは、この復命に基づいて評議を重ね、ついに、蝦夷地の経営を幕府みずから行うことを決した。

幕府は、翌寛政11年(1799116日に、異国境取締りのため東蝦夷地(範囲は浦川(後、知内)より知床および東奥島まで)を当分の間(期間は7か年)試みに上知する旨松前藩に通達するとともに、御書院番頭松平信濃守忠明、勘定奉行石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正養、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方に、蝦夷地御取締御用を命じた。

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