森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年02月

2月 町吟味役中日記注記

(120-1)「御用物(ごようもの)」:宮中や官府などの用に供するもの。

(120-3)「弥(いよいよ)」:副詞「いや(彌)」の変化した「いよ」を重ねて強調したもの。

(120-34)「三馬屋(みんまや)」:三厩。青森県津軽半島北西端に位置する村。竜飛(たっぴ)崎が突出している。江戸時代には寒村であったが、松前蝦夷地渡海の要津であった。松

 前藩主の参勤交代、幕府巡見使の渡航にも利用され、木材の積出し、松前から買入れる海産物の中継地としても重要で、湊役人が置かれ、幕末には海防の要地ともされた。

(121-2)「馬形後町(まかどうしろまち)」:馬形町は、北から南に馬形上町・馬形中町・馬形下町が並んでいる。文化4(1807)の松前市街図に「馬形裏町」がみえるが、「後町」との関係は不明。

(121-4)「中川原町(なかかわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中河原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。

(121-5)「川原町(かわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

(121-8)「四十弐」の「弐」:漢数字の一、二、三などのかわりに用いる壱、弐、参などの文字を大字(だいじ)という。数値について厳密を要する文脈では、令の公式令(くしきりょう)に大字(だいじ、壱・弐・参・肆・伍・陸・・捌・玖・拾など)を用いるべきことを定め、実用された。たとえば『古事記』の中の天皇の享年、『正倉院文書』における物資の数量の記載など。現代にもその遺風があって、漢数字を用いる金銭証票は大字を使用する。

 *「公式令(くしきりょう)」:律令制の中央集権的行政および官僚制的秩序の根幹にかかわる、以下のような広範な内容の条文を収める。公文書の様式、その作成および施行についての細則、公文書に用いる平出・闕字と用字および公印、公文書の保管などについての細則、駅馬・伝馬の利用と公的使者の発遣に関する細則、官人の秩序・執務についての細則、授位・任官の行事に関する諸規定、訴訟手続および意見陳上の手続など。

(122-1)「即夜(そくや)」:すぐその夜。当夜。多く副詞的に用いる。

(122-1)「博奕(ばくえき・ばくち)」:金品など財物を賭けて、囲碁・樗蒲(ちょぼ)・双六などの遊戯の中で勝負をすること。博とも書き、「はくち」「はくよう」とも読む。博戯・博打(ばくち)・賭博ともいい、また樗蒲とか樗蒲一(ちょぼいち)、「かりうち」(朝鮮語系統の語)ともいっている。樗も奕も賭博の意として賽を指す。後世になるともっぱら采・花札などを用いている。十七世紀前半にはウンスンカルタが流行した。そして遊女やその客の間でも遊ばれるようになっていた。また天正カルタという「めくりカルタ」が流行する。やがて十九世紀初めには花札も盛行した。このカルタが賭博用となった。賭銭二百文ともいわれ、カルタ賭博は娯楽とはいいがたいものであり、双六賭博も行われた。中世から近世にかけては、碁・将棋の勝負も賭物としたため、慶長2年(1597)には、『長宗我部元親百箇条』で禁止されている。また慶安2年(1649)二月にもかかる博奕の禁制があり、ついで承応元年(1652)の町触れでも碁・将棋・双六の勝負を賭けることを禁止している。その反面庶民風俗として盤上遊戯が普及し、風呂屋の二階に娯楽場がつくられている。江戸時代には楊弓・大黒・天狗頼母子・布袋屋骨牌・カブ・三枚加留多・ナヲ八・キンゴ打・三つぼ・四つぼ・冠付・独楽・源平・富突・大黒つき・三笠付などいろいろな種類の博奕が生まれている。明治3年(1870)十二月新律綱領には「およそ財物を賭け、博戯を為す者は、皆杖八十の刑に処す、賭場の財物は官が没収する、賭博宿を開帳する者は、賭博に加われないといえども同罪とする」と述べ、士族で盗賊や賭博の罪を犯したものは庶人とするとされた。また明治35年の刑法改正案には「六月以下の懲役又は三百円以下の罰金」という金刑の思想が入って来ている。

*「博奕」の「博」:古代中国のゲームの一種。六本の棒と十二の駒を用いる。なお、テキスト影印の偏は「忄」(リッシンベン)の「愽」で、「博」の俗字。

*「博奕」の「奕」:碁を打つこと。囲碁。なおテキスト影印の脚は「火」に見えるが「大」。

*「ばくち」は、普通「博打」を当てるが、「ばくち」は、「ばくうち」の変化した形。

(122-1)「蔵町(くらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。

(122-6)「今暁(こんぎょう)」:今日の夜明けがた。今朝。

(122-7)「自身番」:江戸時代に江戸・大坂・京都などで主として町内警衛のために設けられていた自警制度。町内の大通りの両端に木戸があり、木戸に接して番屋を設け、一方の番屋に木戸番、他の一方に自身番が詰めたので、転じてこの番所をも自身番と称した。自身番は大町には一町に一つ設けたが、二、三ヵ町共同で設置するものもあり、幕末の嘉永3年(1850)には江戸中で九百九十四ヵ所あった。自身番の名称は、はじめ町内の地主町人が自身で交替に勤めたところから生じたという。しかしのちには家主(やぬし)・店番(たなばん)・町内雇いの番人らが組んで昼夜に分かれて詰めた。江戸の天保年間(1830-44)の制度では、大町および二、三ヵ町合同の番所は家主二人・店番二人・番人一人の計五人、小町では家主・店番・番人各一人の計三人が詰め、非常時には増員することになっている。自身番の任務は、交替で町内を巡回し、不審者が町内に立ち廻れば捕えて番所にとどめ置き、奉行所に訴え出る。喧嘩口論をいましめ、夜は火の元を用心させる。また町廻りの奉行所同心などが犯罪容疑者を捕えたとき一時ここに留置して取調べを行うなどのこともあった。元禄11年(1698)の規定によると、自身番所では夜も戸障子を立ててはならず、寄合い咄しなどは禁止され、当番の者は食事も番所ではなく各自の家ですることになっており、勤務の規定も厳重なものであった。しかしのちには町内の寄合相談事などもここで行われ、また町の雇い職員である町代・書役などもここに勤務して町内の雑務を処理するようになった。このため家主らの勤務も名目的なものとなって、雇いの定番人を置いたり、その定番人が妻帯して番屋が住居同然となったりすることもあり、また町内の家主たちが寄合を名目に酒食の会を催すなどして綱紀の乱れを警告されることも多くなった。番所の建物にも規定があり、原則としては九尺二間の小屋であったが、文政12年(1829)には梁間九尺・桁行二間半・軒高一丈三尺と定められた。しかし前述のように番所が番人の住居化する状態ではこの規定は守られず、家の造作を一般家屋同様にしたり、あるいは二階づくりにしたりする者もあったため、町奉行所から増築を禁止し、規定以上の分は建直しのとき縮小するよう申渡しが行われたりしている。自身番屋の多くには、屋根に火の見を設けていた。火の見の構造は枠火の見で、建て梯子をかけ、半鐘をつるしてある。火の見の総高は二丈六尺五寸、枠高三尺五寸、幅三尺五寸四方、一丈五尺の建て梯子を枠内に建ててあった。自身番屋内には纒・鳶口・竜吐水・玄蕃桶などの火消用具が常備されており、半鐘が鳴らされると町役人・火消人足が自身番所にかけつけ、道具を持ち出し、勢揃いしてから火事場に赴いた。番人の賃金、建物の維持改修費、火消用具などの備品費など、自身番所の諸費用はすべて町入用をもって賄われた。

 *じしんばん‐しょうぎ【自身番将棋】:自身番の番屋で、つれづれにさす下手な将棋のこと。床屋将棋、縁台将棋の類。

(122-8)「一段」:(多く「と」を伴って用いる)ひときわ程度がはなはだしいさま。きわだ

っているさま。いっそう。格別に。

(123-1)「宿預(やどあずけ)」:江戸時代、未決囚拘禁の方法の一つ。出府した被疑者を、取調べ期間中公事宿(くじやど=江戸宿)に預けること。手鎖(てじょう)、過料、叱(しかり)など軽い罪にあたるものに用いられた方法で、重罪のものは入牢させた。

(123-2)「宜(よろしく)」:〔副〕形容詞「よろしい」の連用形から。漢文訓読で「宜」の字を「よろしく…べし」と読むところから、そうすることが当然であったり、必要であったりするさまを表わす語。すべからく。まさに。ぜひとも。必ず。

 *「宜は、漢文訓読の再読文字で、「宜」だけで、「よろしく~べし」と読む。テキスト影印は、「宜可有之」と「可(べき)」が重複するが、和製漢文といえる。

 **功宜為王 【功(こう)、宜(よろ)シク王(おう)為(た)ルベシ】(『史記』)

   [功績からすれば、王となるのがよろしい]

(123-7)「未召捕ニ不相成」:「未」は漢文訓読の再読文字で、「未」だけで、「いまだ~ず」だが、テキスト影印は、「不」があり、「ず」が重複するが、これも和製漢文。

(123-8)「詰木石町(づみきいしちよう・つみきいしちょう)」:江差町字愛宕町。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。地名の由来は、松浦武四郎『再航蝦夷日誌』によれば、沖合いに潮の満ちる時現われ、潮が引く時隠れるというウツメキ石があることによるという。緒木石(しみきいし)町(罕有日記)とも記される。海岸沿いの道に沿う縦街十町の一(「蝦夷日誌」二編)。もと詰木石村であったが、町場が形成されて改称された。九艘川(くそうがわ)町・豊部内(とよべない)町の北、豊部内川の河口部の北岸に位置する。東に川原新(かわらしん)町・中新(なかしん)町・北新(きたしん)町がある。江戸後期から明治初期の鍛冶町・浜町は当町に含まれるという。

(124-3)「落着(おちつき・らくちゃく)」:事件などが治まること。物事の解決。

(124-3)「又候(またぞろ)」:副詞「また」に「そうろう」がついた「またぞうろう」の変化したもの)。類似する状態が既にあるのに、他の同様の状態が新たに存在することを、一種のあきれた気持・滑稽感を含めて表わす語。なんともう一度。こりもせずにもう一度。

 *またぞろ‐かたきうち 【又候敵討】:敵討をしようとしながら返討(かえりうち)にあ

ったため、また敵討をすること。又候敵討の願は許可されなかった。

(124-5)「町代久右衛門」:P123には、「久左衛門」とある。

(124-9)「一統(いっとう)」:一つにまとめ合わせた全体。総体。一同。

(124-9)「向後(こうご・きょうこう)」:今から後。こののち。今後。もと漢語で、平安時代の漢文資料に多く見られるが、鎌倉時代以降国語化が進み、口頭語・記録語の中に定着した。時代を問わず漢音で「きゃうこう」と読まれたが、江戸時代には「かう(呉音)+ご(慣用音)」という読み方もされた。

(125-4)「風邪(かぜ・ふうじゃ)」:鼻、のど、気管などの上気道のカタル性炎症。「医心方‐三・風病証候・第一」に「黄帝大素経云風者百病之長也」とあるように、万病のもととされた。感冒。ふうじゃ。かぜのやまい。

 *「風邪」:「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。

(125-6)「西館稲荷(にしだていなり)」:「西舘」は、現松前町字西館・字唐津・字愛宕。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松

前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。当地は上級家

臣の屋敷地とされ、シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に西館町とみえる。享

2年(1717)の「松前蝦夷記」には当町域とみられるなかに西立(にしだて)町・端立(

たて)町・端立中町・今(いま)町・西立寺(にしだててら)町が載り、宝暦11年(1761)の

「御巡見使応答申合書」では西館町・端立町・今館町・端立中町・西立寺町がみえ、文化

4年(1807)の松前市街図には西館町・今町・西端立町が描かれる。しかしこれ以降の史

料には西館町以外の町名はみえず、西館町として統一されたようである。文化頃の松前

分間絵図では台地南東部に蠣崎時松・松前勇馬・蠣崎将監(広年・波響)の屋敷がある。

家の北に稲荷社がある。稲荷社は慶長17(1612)年蠣崎右衛門が西館に造営した。寛文7

(1667)蠣崎蔵人が造営、元禄14年(1701)同家が修理している(福山秘府)。明治38

(1905)徳山大神宮に合祀された。

(126-1)「飯鉢(いいばち・めしびつ・めじばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。めしばち。

(126-4)「申口(もうしぐち・もうしくち)」:言い分。申し立て。特に、官府や上位の人などに申し立てることば。

(126-7)「正行寺(しようぎようじ)」:松前町字豊岡にある寺院。近世の松前城下に所在。文化(1804-18)頃の松前分間絵図によると武家屋敷地に隣接しており、南西方に法華ほつけ寺がある。浄土宗、護念山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)とも伝える。

『蝦夷嶋巡行記』2月学習分注記                

(7-1)「雨垂石村(あまだれいし・むら)」・・『渡島日記』には、「雨垂石村、従赤神村十丁四十間、人家十五軒、~村内に雨垂石と云大岩有。是に注連を張たり。頗る神威よし。」とある。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、赤神村の北方、茂草と赤神川に挟まれた地域にあり、西は日本海に面する。地名は当地にある雨垂石という岩に由来するという.

(7-2)「ふだん水のたるゝ事」・・「ふ」は「婦」、「た」はいずれも「多」。「ゝ」は前の単語を繰り返す踊り字。

(7-2)「点蹢(てんてき)」・・「蹢」は「滴」か。「点滴」は、しずく、雨だれ。雨垂石を「点滴石」ともいう。

(7-3)「名とせし」・・影印の「勢」変体仮名。「せ」の字源。

(7-3)「茂草村(もぐさ・むら)」・・現松前町茂草。『渡島日記』には、人家に十七軒。大島を戌(西北西)の初針)、小島を未(南西)の正中に見る。浜は砂原、上は平野にして畑地によろし。土人、好て蕪、馬鈴芋を作りて常食に当り。」とある。一行は、ここで、休憩をした。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、雨垂石村の北方にあり、日本海に注ぐ茂草川河口域に位置する。

(7-4)「清部村(きよべ・むら)」・・現松前町清部。町の北西部。『渡島日記』には、「人家五十二軒。従茂草三十二丁四十間。村の上に穴居跡多し。漁者にして畑もの大根、蕪、馬齢芋、栗、稗を作る。海中に二ツ石と云奇岩有。」とある。

(7-4)「けはしき坂」・・影印の「希」は「け」、「者」は「は」、「幾」は「き」。『渡島日記』には、「カド岩岬の上を越る。八丁十間、境目、茂草境三十一丁三十五間。此処海岸絶壁有て通り難し。」とある。

(7-6)「越て」・・影印の「帝」は「て」。

(7-6)「江市町村」・・影印の「市」は、「良」か。「江良町(えらまち)村」。現松前町江良。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。『渡島日記』には、「人家八十四軒、文化度三十七軒有しと。旅籠屋、荒物屋等有。~弁才十二艘を繋ぎ沖ノ口出張所有。」とある。

     一行は、ここで宿泊。

(8-1)「往還(おうかん)」・・人の行き来する道。

(8-3)「下れば」・・影印の「連」は「れ」、「ハ」は「は」。

(8-4)「此処に()て」・・影印の「尓」は「に」。「に」の下の「」は、「て」の挿入記号。

(8-6)「じやばみ沢」・・松前町字白坂。享保十二年所附にみえる地名。江良町村の北方、現二越川を越えた辺りをいう。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「ちやばん 家三軒」とみえるのが早く、ゑら町まちの次に記される。前掲所附でも江良町村、「せそこ内」「ふたこゑ」に続いてあげられる。史料には坂名・川名としてみえることが多く、菅江真澄は「蝦夷喧辞弁」で「蛇喰」の文字を当て、「蛇喰坂を下れば」と記す。「蝦夷日誌」(二編)には「シヤハミ小沢」もみえ、「少しの沢也」と記す。現在はジャヌケとよんでいる。(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

 *奥未川から二越川までの間には次のような主な地名がある。

・ノタトマリ大波のことをノタという。大波がでても舟が着けられる場所という意味。

・ゴロタ(転太)大きな丸い石の意味。こうした石がゴロゴロしているところ。

・ソマルへ(ソマヘ・ソマルベ)意味不明。

菅江真澄の「えみしのさえき」によれば、男根のかたちをした岩が磯辺に立っ

ているので、是をあからさまに言わず、地元の人々は是を物語の名で読んで いると説明している。笠石とも呼んでいる。

     ・ミズナシ岩の岬

・ジャバミ(蛇喰・蛇抜(じゃぬけ))石山さんの牛舎のある沢(一本木の沢)付近の北側。土砂が地滑りを起こして大きくえぐれていた。新国道の工事の時には、この地滑りに気が付かずにずいぶん難工事だった。付近は蛇が多く、地滑りでえぐれた地形を見て、昔の人はこの名前をつけたらしい。現在でも名前の通りマムシは非常に多い。(ウェブ『北海道松前観光奉行』より)

      *松前町白坂の「蛇喰」は興味深い例で、享保12年(1727 の古文書や寛政元年(1789)の菅江真澄の紀行「えみしのさへき」などに「蛇喰」 と記されているのだが、現在は「ジャヌケ」と呼ぶという。(齊藤純『蛇抜けと法螺抜け ─天変地異を起こす怪物』より)

      *影印の「志“」は「じ」、「者”」は「ば」、「ミ」は「み」。「み」と「沢」の間の横線-は、「み」と「沢」をつなぐ矢印線。

(8-6)「歩行(かち)」・・乗り物を使わず、自分の足であるくこと。徒歩のこと。

(9-1)「おこしうぬ河」・・漢字表記地名「奥末川」か。『渡島日記』には、「ヲクスエ海岸小石浜。川有巾十間計り洪水の時十七八間に成。歩行わたり。雪解の時、時々怪我人有。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヲクスエサワ」とある。

(9-2)「原口村(はらぐち・むら)」・・松前郡松前町字原口・字神山。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、江良町村の北方にあたり、西は海に面する。地名の由来について「地名考并里程記」に「夷語バラコツなり。則、広き渓間と訳す。扨、バラとは広き又ハ打開けたる所をいふ。コツは水なき渓間亦は窪むと申事にて」と記される。一五世紀中葉に道南十二館の一つ原口館があったという(新羅之記録)。当村に続けて五枚間・おつこの木坂・かきかけ坂・五郎左衛門坂・堂の坂、「彦四郎沢 合三十六丁一里」、とちの木き沢が載り、小砂子村(現上ノ国町)に至る。「此間断崖絶壁景気尤も妙也」であった。「行程記」は「大難所あり。此辺冬は雪にて道を失ふことあり船をよしとす」と記す。

(9-3)「おんこの木沢」・・『渡島日記』には、「三ノウタ沢〔小流、三丁四十間〕、ヲンコノ木沢〔二丁三十間〕、カギカケ沢〔小沢〕此処村境(原口・小砂子)なり」とある。又、『罕有日記』には、此辺の地形について、「蓑歌沢、ヲンコノ木沢、願掛沢、彦四郎沢、橡の木沢、相泊沢渉降ともに険はし、中に就て願掛、彦四郎の二沢険悪にして深し」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヲンコノキ」とある。

(9-4)「小砂子村(ちいさご・むら)」・・現上ノ国町字小砂子など。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。北の石崎村との間に「堺川」「めのこしわしり」「もつ立石」「はちかみ沢」「泉沢」「大滝」「矢立石」「あふみ沢」「らしたつへ」が記される。「めのこしわしり」はメノコシ岬、「はちかみ沢」は初神沢はじかみさわ、「あふみ沢」は鐙沢、「らしたつへ」はラスタッペ岬などと、海岸沿いの現在地名に比定される。

102.3)「石崎村」・・現上ノ国町石崎。町の南部。南境を石崎川が西流し、西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「人家七十五軒(文化度三十七軒)。浜形申八分向。人家川の北岸に立並び、」、「往古は松前内蔵の領分なりしと。」とある。

10-3)「はねさし村」・・現上ノ国町羽根差。町の中央部。長内川下流右岸に位置し、西は日本海に面す。長内川右岸は小さく突き出た岬状を呈し、この岬北側の海岸にはかって集落が形成されたが、現在人家はない。『渡島日誌』には、「羽根差村人家十五軒汐吹村分也。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「羽子サシ」とある。

10-3)「塩吹村(しおふき・むら)」・・現上ノ国町字汐吹・字扇石。町の中央部。西は日本海に面す。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「此日塩吹村泊り。家数四拾三軒、人数百三拾六人。木古村昼休。蠣崎将監知行所なり。一ケ年収納豊年には五六百両もあり。鯡漁、図合船一艘にて凡金百両余の渡世になる。諸入用は弐拾両程の費なり。此十四五年鯡漁なく、凶年にて甚だ困窮といへり。」とある。地名の由来は、沖合の汐吹岩が、西風の強い時に鯨の潮吹きのように汐を吹き上げるkとに由来するという。

10-4)「方(ほう)」・・四角形。方形。その形であるさま。正方形の一辺。

10-5)「しほふき石」・・「志」は「し」、「本」は「ほ」、「婦」は「ふ」、「幾」は「き」。「汐吹石」は、汐吹岩は別名大文字岩と呼ばれ、現在は汐吹港防波堤の一部となっている。『渡島日誌』には、「汐吹石とて汐の打込時数丈烟霧を噴上る石有。是を牛坂の半腹より見る時は頗る奇也。」とある。また、『罕有日記』では、「径り三十尋許の隆然たる巨巌なり、其色灰に似て其形稜角あり、~、巌下窟をなし西風には潮水窟に入って上部へ吹出す体なり。昨夜より東風強きが故に潮水洞窟を漬かず、塩吹の空し、不見は遺憾多し。」としている。     

10-6)「扇石村(おうぎいし・むら)」・・現上ノ国町扇石。町の中央部。東は山林、西は日本海に面す。『渡島日誌』には、「人家十五六軒。汐吹村の出郷なり」とある。

10-6)「木の子村(きのこ・むら)」・・現上ノ国町木ノ子。町の中央部。西は日本海に面す。北部を小安在川が西流する。地名の由来は、木の切り株からキノコを産したことによるとの説がある。『渡島日誌』には、「人家四十九軒、文化頃も同じ。此辺に至るや馬大に少きよし也。此村畑作多し。此村には商人多し。」ともある。

11-1)「あんさい沢」、「小あんさい沢」・・『渡島日誌』に、「小アンサイ、大アンサイ共に小川 両岸広地流屈曲して深し。」とある。

11-2)「虎之沢」・・『渡島日誌』に、「トラ川 小川、夏分は此処より野に上り、上の国八幡の傍に下るによろし。秋過より冬春は通り難し」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「トラノサワ」とある。

11-2)「初秋」・・旧暦では七月。旧暦の季節区分は、春は正月、二月、三月。夏は四月、五月、六月。秋は七月、八月、九月。冬は十月、十一月、十二月。なお、閏月は前の月(例:閏七月は七月)に付く。

11-3)「よしや沢」・・「蝦夷巡覧筆記」には、大アンサイにはトラノ沢・ヨシカ沢などの沢があり、沢中に畑地がある。シネコ(洲根子)岬を経ずに上ノ国村に至る山道がある。『渡島日誌』には、「ヨシ沢、小沢。従レ是野道十余丁を過て、医王山より九折を下り坂下に出る。ヨシ沢、是上の国村境なり、汐吹村境より一里三十四丁、従レ是海岸は大岩立重、歩行道なし。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヨシカサワ」とある。

11-4)「しねか崎」・・和名「洲根子」を当てる。『渡島日誌』では「戻子(ス子コ)岬」、『罕有日記』では「シコロ子崎」につくる。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ス子コサキ」とある。

11-4)「上之国村」・・現上ノ国町。北海道の南西部。桧山地方の南端に位置し、北は江差町、厚沢部町、東は木古内町、南は知内町、福島町、松前町に接し、西は日本海に接する。『北海道市町村行政区画便覧(昭和307月、北海道自治協会)』によれば、その開基と沿革は、「村名上の国の由来は、応永年間に安東氏の一族が湊家を起し、津軽大光寺西浜上三郡を領し、上の国と称したことによる(他の一族は津軽下三郡を領し、下の国と称した。)。上の国は七百年の歴史を有する本道最古の村である。昔源頼朝の奥羽征伐によって、敗残の将士の多くが、蝦夷にのがれ、その一派が上の国に来て館を築いた。それが花沢館である。後、松前藩祖武田信広が若狭より渡って、花沢館に遊客中、折から乱を起こしたアイヌの酋長コシャマインを斬って勇武を顕し、以後勝山城を築いて全道に号令するに至った。」とある。

11-5)「高き坂」・・『罕有日記』には、「緩やかな昇り二町余りにて上之国嶺上に至る。下り臨めば江差港より上之国喜多村の村落掌を指すが如し。」とある。

11-6)「北村(きた・むら)」・・現上ノ国町字北村・字内郷。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村・大留村の北、天ノ川の河口北側に位置する。北は椴川を挟んで五勝手村(現江差町)、西は日本海に面する。元禄郷帳・享保十二年所附に喜多村、天保郷帳には北村とみえる。『渡島日誌』には、「北村 人家八十六軒、文化度七十軒。人家多く、畑作り、山稼、鯡の稼等也。」とある。

11-6)「御勝手村(ごかってむら)」・・現江差町南浜町付近。町の南部。上の国との境。『渡島日誌』には、「五勝手村、人家百三十七軒。浜形酉五六分。海岸砂地なり。入口柏森大明神、下に地蔵堂、金毘羅堂、恵比寿堂。」とある。近世から明治33年(1900)まで存続した村。南は椴川を境にして北村(現上ノ国町)と接し、北は武士ぶし川を境にして江差寺小屋町と接する。東は山地、西は日本海。

11-6)「江差村(えさし・むら)」・・現江差町。北海道南西部、檜山地方の南部に位置。北は乙部町、東は厚沢部町、南は上ノ国町に接し、西は日本海に面する。『市町村行政区画便覧』による開基及び沿革には、「文治五年源頼朝が奥州を征めた時、南部津軽の人達が本道にのがれ現在の松前、江差付近に占居したのが開拓の初めである。延宝六年に松前氏が檜山を開くに当たって、江差に奉行を置き、檜の伐採と補植を行い、あわせて、一般民政を掌らしめたのが、管内における置庁の始まりである。」とある。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「江差村泊、家数八百八拾九軒、人数三千五百十二人」、「当所は、松前、箱館同様繁昌の湊にて、浜辺には小屋懸けの内にガノズ 売女の事也 幾人ともなく並び居、三味線を引、松阪節をうたふ。」とある。『渡島日誌』には、江差の繁栄について、「人家三千余軒、四月より五六七月の間の盛なる事、是を未央還(みおうかん~未だ半ばに至らずかえる)と号て、北地より帰る処の船々、岸に纜(ともづな)を繋ぎ、実にめざましき事なり。」としている。一方、『罕有日記』には、「戸数凡二千許り。松前、箱館、此地を以て三港と称す。船懸りは中等なるべし。繁栄はニ港に劣る事遥かなり。」としている。『角川日本地名大辞典』には、「元禄年間(1688~1704)に入って魚肥の需要が高まると、藩の生産主体が鯡漁業へと移行し、享保~寛延年間(1716~51)にかけ、場所請負制が成立し、藩の生産構造が確立した。この推移の中で江差港は、西蝦夷地鯡漁業の基地、生産物の集荷地、交易港として急速に発展した。」、また、「江差港は、慶長15(1610)近江商人の福島屋田付新助を先達に、寛永7年頃から近江商人が続々進出して出店を設置、彼らの商取引ルートの中で、商港としての基盤が確立した。その中で、近江商人の手代や舟子、杣夫・漁夫が、主として北陸から渡来、定住するようになり、彼らの中から独立して地場商人(江差商人)に成長するものが出てきた。寛政年間(1789~1801)に入ると、自由商取引の気運が高まり、西廻海運の安全性確認もあって、近江商人の蝦夷地取引独占の荷所船に対抗して、瀬戸内、北陸商人の買積船(北前舩)が雄飛するようになると、江差商人も彼らと取引し、北前舩の経営に乗出す者が出てきた。近江商人は、場所請負制の確立もあって、資本家にとて有利な場所請負人となり、生産面の経営にあたり、江差の出店を閉鎖した。天明~寛政年間(1781~1801)頃には、江差港の商権は、地場商人(江差在郷商人)の手に移り、北前舩商取引時代に入り、江差港は繁栄期を迎え、北前舩の終焉する明治30年代まで続いた。」とある。

11-6)「はげ山」・・夷王山(標高159メートル)。夷王山は、松前氏の祖武田信広や蠣崎氏一族の居館・勝山館の「詰めの丸」といわれ、山頂に、武田信広を祀る夷王神社がある。

11-6)「松前氏の先祖」・・松前藩の藩祖は、蠣崎季繁の娘と客将武田信広との子の「松前慶広」であるが、当初「蠣崎慶広」と称していたが、文禄2年(1598)秀吉より本領松前を安堵、蝦夷一円の支配が認められ、慶長4年(1599)、「蠣崎」の姓を「松前」と改称。同9(1604)家康よりも蝦夷地の支配権を保証されたことにより、徳川幕藩体制の下における松前藩が成立している。(『新編物語藩史』 新人物往来社)。なお、『罕有日記』には、「寛永の系図に、松前の元祖若狭守信広、上之国の城主蛎崎修理太夫の家督を継ぐと記したり。」ともある。

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