森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年03月

3月 町吟味役中日記注記

◎2月学習のうち、「旅人」について

例会後、参加者からご意見が寄せられましたので、コメントします。

<意見>罪人の肩書の「旅人」は、「たびびと」でなく「たびにん」と読むべきでないか。

<森のコメント>

・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、

1.「旅人(たびびと)」:旅行をしている人。旅路にある人。たびゅうど。たびうど。たびと。旅行者。旅客。「たびにん(旅人)」は別意。

2.「旅人(たびにん)」旅から旅へと渡り歩く人。各地をわたり歩いている博徒・てきやの類。わたりどり。テキストの罪人の肩書はこの「たびにん」が適当か。

  *なお、「旅人」を「たび・にん」と読むのは湯桶(ゆとう)読み(訓読み+音読み)

   逆は重箱読み(音読み+訓読み)

3.「旅人(たびじん)」:他国の人。

4.「旅人(りょじん)」:中国周代の官名。官位のある平民で料理をつかさどる。

*「旅」:解字は「軍旗の象形。多くの人が軍旗をおしたてて行くの意味から。軍隊・たびの意味を表す。

*「旅(りょ)」は、中国周の時代に、兵士五百人を一団とした軍隊。五旅を一師、五師を一軍とした。つまり、

  「1旅」・・500人 (旧日本陸軍・・2~4連隊で1旅団)

  「1師」=5旅・・2500人 (旧日本陸軍・・2~4旅団で1師団)

  「1軍」=5師・・12,500人

 

(127-1)「処」:影印は、旧字体の「處」。『説文解字』では「処」が本字、「處」は別体であるが、後世、「處」の俗字とみなされた。我国では、昭和21年当用漢字表制定当初に、俗字であった「処」が「處」の新字体として選ばれた。

  *「処」は、「本字」→「俗字」→「当用漢字」(現常用漢字)と変遷の道をたどる。

  *「説文解字(せつもんかいじ)」:中国の漢字字書。略して『説文』ともいう。「文字」の「説解」の意。許慎著。序一、本文十四の全十五巻。のちに、各巻は上下に分けられて三十巻となった。後漢の100121年に成立。字形の分析にもとづき、漢字を偏や旁(つくり)などの構成要素に分け、その相違によって、9353字を五百四十部に類別した。なお重文(じゅうぶん、異体字)も1163字入れてある。部首別字書として、また、形音義を説明したものとしては最古。これ以前の字書は、識字用が普通。六書(りくしょ)説による字形の説明は、漢字成立の根本にまで及んでいて、高い評価を受けている。古来、重視され研究が重ねられているが、特に、南唐の徐(じょかい)が注を加えた『説文解字繋伝』(小徐本)四十巻、その兄、北宋の徐鉉(じょげん)が986年に校訂刊行したもの(大徐本)三十巻(以後の標準的テキスト)、また、清の段玉裁が1807年に作った訓詁の書『説文解字注』などが有名。小徐本は華文書房、大徐本は世界書局(ともに台湾)などが刊。原本は現存しない。

(127-2)「入牢(じゅろう・にゅうろう)」:牢屋にはいること。牢屋に入れられること。

  *「入」を「ジュ」と読むのは慣用音(日本での漢字の音。和製漢語音)

   例として「入内(じゅだい・中宮・女御などが内裏に参入すること)」、「入水(じゅすい・人が死ぬために、水中に身を投げること)」、「入御(じゅぎょ・天皇・皇后・皇太后が内におはいりになること)」「入院(じゅいん・じゅえん・寺に入ること、または、新任の住持がはじめて寺に入り住持となること)」「入輿(じゅよ・身分の高い人が嫁入りすること)」など。

  **「慣用音」呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」、「情緒」の「緒(しょ)」を「ちょ」と読むなど。このほか、「喫」は正しくは「ケキ・キヤク」であるのを「キツ」に転じ、「劇」は正しくは「ケキ・ギヤク」であるのを「ゲキ」に転じ、「石」は「セキ・シヤク」であるのを「斛」と混じて「コク」とするような例もある。

(127-5)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸
(127-5)
「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(127-5/6)「旅人宿(りょじんやど)」:旅人を宿。旅籠(はたご)。旅籠屋。やどや。

(128-1)「平内(ひらない)」:陸奥湾に突き出た夏泊半島と南部の山地からなる。平内とい

う地名はアイヌ語の「ピラナイ」(山と山の間に川がある土地の意)からきたといわれ

る。鎌倉~南北朝時代までは南部氏の支配下にあったが、1585年(天正13)以降津軽

氏領となった。盛岡藩境の狩場沢(かりばさわ)には関所が置かれ、藩境塚(県の史跡)

が残る。

(128-3)「如何(いかが)」:「いかに」に助詞「か」の付いた「いかにか」が変化したもの。(心の中で疑い危ぶむ意を表わす)どう。どのように。どうして。どんなに。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

 <(1)「いかにか」から「いかが」という変化は、「に」の撥音化とそれに並行する「か」の濁音化、すなわち「イカンガ」を媒介にして成立したと考えられる。すなわち一〇世紀初頭の仮名資料に「いかか」が現われ始めるが、この時期はまだn撥音を無表記としており、例えば「土左‐承平五年二月四日」の「しし(こ)」が「死にし(子)」であり、「シンジ(コ)」と発音されていたと推測されるように、同じく「そもそもいかかよむたる」〔土左‐承平五年一月七日〕の「いかか」も「イカンガ」と発音されていたかもしれない。

(2)意味は上代の「いかにか」「いかに」とほぼ同じであり、呼び掛け的に使われたり、状態や様子が甚だしいことを表わしたりする点も同様である。

(3)平安期以降ほぼ状態や様子に限定されながら、鎌倉期には「その様子が望ましくない、困ったものだ」という意味を派生する(中世後半から近世になると「いかがし」「いかがはし」を派生する)のに対して、「いかに」は状態・様子以外に理由・原因を問う用法が発達する。>とある。

*「如何」を「いかが」「いかん」「いかんセン」と読むのは漢文訓読の熟字訓。

「取妻如何(つまヲめとルコトいかん)」[妻を娶(めと)るのには、どのようにすればよいか](詩経・伐柯=ばっか=)

**なお「何如」は、「いずレゾ」と訓じる。

(128-8)「丹地八五郎」:P15に「丹地屋八五郎」がある。

(129-4)「小平沢町(こへえさわ町)」:現檜山郡

江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)で存続した町。寺小屋町・碇町の

北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷

地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。「蝦夷日誌」(二編)によれば、茂尻(中茂尻か)より沢(小川)の南にあって、町の上は皆畑で広い。「人家二十二軒といへども五十軒計も有。(中略)津軽陣屋跡といへるもの有」とある。弘化3年(1846)夏に出た温泉があり、薬湯として用いられ、傍らに薬師堂が建てられていた。「渡島日誌」には「小兵衛沢」と記され、「畑多く、近頃人家少し立たり」とある。

(130-1)「内済(ないさい)」:江戸時代、裁判上の和解のこと。江戸幕府は、民事裁判ではなるべく両当事者の和解による訴訟の終了を望んだが、ことに無担保利子付きの金銭債務に関する訴訟、すなわち金公事(かねくじ)においては、強力に内済を勧奨した。内済は訴訟両当事者連判の内済証文を奉行(ぶぎょう)所に提出して、その認可を受けることによって有効となったが、金公事の場合には片済口(かたすみくち)と称して原告が作成した内済証文だけで足りた。

(130-1)「熟談(じゅくだん)」:話合いで、ものごとや問題となっていることをおさめること。示談。和談。

  *「場所熟談」:江戸時代、用水、悪水、新田、新堤、川除(かわよけ)などの訴訟。これらの争いについて、奉行所では訴が提起されても直ちに受理せず、問題の地の代官や地頭の家来を呼びだして訴状を下げ渡し、現場で双方の納得のいくような話合を命じ、極力和解による問題の解決を図って、和解が成立しない場合に初めて訴が受理された。

(133-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

(133-3)「堅勝(けんしょう)」:からだに悪いところがなく健康なこと。また、そのさま。多く「御健勝」の形で相手の健康についていう。

(133-4.5)「其御許様(そこおもとさま)」:「そこもと」に敬意を表わす接尾語「さま」の付いたもので、更に「其許」の「許」に敬語の「御」がついたもの。

  *平出の体裁:4行目の「其」で改行して、「御許様」としているのは、尊敬の体裁で、「平出(へいしゅつ)」という。

  **「平出」:律令国家の公文書の記述中に,天皇・皇后・皇祖等を示す語があるとき,文章を改行してその語を行の先頭に置き,敬意を表す記述方法。律令国家の公文書(公式様文書)の様式等を制した公式令に定められている。同令には,平出のほか皇太子・中宮の称号あるいは天皇の行為を示す語について,その1~数字分上を空ける闕字(けつじ)の方法も定められている。中世では,この平出,闕字は,公式様文書ばかりでなく,書札様文書にも使用され,平出はもっぱら院宣・綸旨の院・天皇の仰せを表す〈院宣〉〈院〉〈御気色〉〈天気〉〈綸旨〉等にのみ用いられ,文書としての院宣・綸旨,その他〈奏聞〉〈天裁〉〈禁裏〉等の語,あるいは皇太子・親王・摂関を示す語には闕字が用いられている。将軍については,鎌倉時代には闕字・平出ともにみられない。室町時代以降〈公方〉が闕字扱いされ,近世には〈御公儀〉や公儀からの〈仰出〉に平出が用いられるようになる。また近世では,公儀のほか〈太守様〉や〈御役所様〉まで闕字あるいは平出で扱われ,さらに平出より敬意を表す擡頭も現れる。

(133-5)「茂良村」:現青森県平内町茂浦(もうら)。「茂良」は、「もうら」を詰まって「もら」と発音し、「良」の呉音「ら」から、「茂良」を当てたか。なお、ひらがなの「ら」は、「良」の草体からできた。

  茂浦村は、東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂村・滝村と境し、南は浪打山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。

(133-6)「悴(せがれ)」:影印は俗字の「忰」。自分の息子。「せがれ」は、室町以降の語で、語源説に、「痩(や)せ枯(か)れ」がある。なお、「忰」を「せがれ」と読むのは、「倅」の字と似ていることから起こった誤用説もある。(『新漢語林』)

  また、『くずし字用例辞典』には「悴」の項に<「忰」は「せがれの場合に用い>とあるが、「悴」も「せがれ」の意味に使われる。「忰」は、「悴」の俗字に過ぎない。

  *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<元来、「悴」を当てていたが、人を指すことを明示するために、立心偏を人偏に改めて、「倅」を当てたもの。>とある。

  *語源説に、<自分の子を卑下していうヤセカレ(痩枯)の略。ヤセカレは屈原の「漁父辞」にある「顔色憔悴(やせ)、形容枯槁(かれ)」から>がある。

  **「顔色憔悴、形容枯槁。」<顔色憔悴し、形容枯槁(ここう) せり。>

     [顔はやつれて、その姿は痩せ衰えています]

『蝦夷嶋巡行記』3月学習分注記                

(12-1)「城跡(しろあと・じょうせき」・・勝山館。松前氏の祖である武田信広が15世紀後半に築いた山城で、16世紀後半まで、武田、蠣崎氏の日本海側での政治、軍事、交易の一大拠点。昭和52年国指定の史跡

  *「しろあと」には、「城址(じょうし)」「城趾(じょうし)」も当てる。

12-1)「八幡宮」・・上ノ国八幡宮。文明5年(1473)松前藩祖武田信広公が勝山館に守護神として創祀。上ノ国三社(現夷王山神社、砂館神社、上ノ国八幡宮)の一つ。祭神は、天照大御神ら六神。

12-1)「勧請(かんじょう)」・・神仏の来臨を請うこと。神仏の分霊を他の場所にうつし祀ること。もとは仏教語で、十方の諸仏に、身をとどめて久住し、恒に法輪を転じて衆生を救護せんことを請うをいう。しかしてこれを懺悔・随喜・回向などとともに、四悔・五悔の一つとし、菩薩行修の重要な項目ともしている。また、わが国では、その意を転じて、実の開山にあらざるものを開山とするときは、これを勧請開山と呼び、あるいは神仏、ことに八幡大菩薩・熊野権現などのごとき垂迹神の神託を請い奉ることを勧請と称し、さらにはそれより転じて、神仏の霊ないしはその形像を招請して奉安することをも勧請というに至った。つまり、神道でいえば、本祀の社の祭神の分霊を迎えて、新たに設けた分祀の社殿に鎮祭することをいうのである。したがって、その新たに鎮祭した神を勧請神ともいうのである。ないしはその時々に執り行う祭祀の場に神の降臨を請うことをも、勧請と称するのである。

12-1)「上国寺(じょうこくじ)」・・山号は華徳山。現在は浄土宗、光善寺の末寺。嘉吉3(1443)の創建時は、上ノ国館の鎮護寺として創立された真言宗の草庵。江戸中期十世徹和和尚の時浄土宗に改宗、十八世戒運和尚が福山の光善寺に転住し、光善寺の末寺となる。『渡島日誌』には、「花徳山上国寺、浄土宗、寛永二十巳年草創、順見使申上書」とある。本堂は18世紀半ばの建立とされ、国の重要文化財に指定されている。

12-2)「禅林(ぜんりん)」・・禅宗の寺院。また、一般に寺院。

12-2)「千念寺」・・「専念寺(せんねんじ)」のこと。天文2(1533)の開山。松前専念寺(浄土真宗本願寺派)により建てられた掛所道場の一つ。明治5(1872)清浄寺と称する。

12-2)「門徒寺(もんとでら)」・・「門徒」は、中世後期以降、もっぱら浄土真宗の信者一般に対する呼称となり、「門徒寺」は、門徒宗(浄土真宗)の寺院を指すようになった。

12-2)「上の国河」・・二級河川の「天ノ川」のこと。総延長28.6㎞。なお、「天ノ川」の由来は、元和4年(1618)、イエズス会の宣教師ジェロラモ・デ・アンジェリスがヨーロッパ人として最初の蝦夷地上陸を果たし、その三年後作成した地図の上陸地点に「ツガ」と表記されていたことから、上ノ国の古名の「ツガ(テガ)」の漢字表記「天河」にあるとされている。

12-3)「手繰船(てぐりぶね)」・・手繰り網をつかい、磯で漁をする小船。また、江戸時代、大坂・伏見間を往復していた早船を指す。

123.4)「とゝへ河」・・「とど川」か。江差町内に「椴川」。「椴川」の名を冠した「椴川町」の町名が残る。『渡島日誌』に、「トヾ川 川巾五六間。砂川也。此処境目(上ノ国・五勝手)なり。人家五六軒、北村分也」とある。「戸渡川」とも。 

12-4)「へりへつ(へりへ川)」・・「へりへつ」、または「へりへ川」か。元禄13(1700)の「松前島郷帳」に、「とど川村、ふるべち村、こかつて村」とあり、「ふるべち村」の名がみえるが、享保12(1727)の「松前西東在郷並蝦夷地所附」やその後の「天保郷帳」には、村としての名前がみえない。『渡島日誌』には、「ヒリフチ沢」とある。また、松浦武四郎『東西蝦夷山川取調図』には、「ヒリフチサワ」とある。『江差町史』には「古ヒツ川」(古川)とある。

  *「古櫃川」・・上ノ国町との境にある古櫃の浜は、右手にかもめ島、左手に上ノ国の町並みと夷王山の風車、渡島大島の島影を望むことができる絶好の夕日ポイント。

12―5)「船つき(ぎ)」・・船繋ぎ。港のこと。

12-5)「繁昌(かんじょう)」・・元来は、草木がさかんにしげること。日本語では町や店がにぎわい栄えること。

12-6)「仲秋(ちゅうしゅう)」・・秋の三か月を孟・仲・季と分け、その真中をいう。陰暦八月の異称。

13-1)「初秋(しょしゅう)」・・影印の「穐」は、「秋」の俗字。旧暦では「七月」、新暦では「八月」を指す。

  *「龝」の解字・・もとは、「禾」+「火」+「龜」。古代の占いは亀の甲に火を近づけて行われた。その亀は秋季に捕獲され、また秋季には穀物の収穫もあるため、「禾(いね)」を付し、「あき」の意味を表す。(『新漢語林』)

  *「あき(秋)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「秋」の補注に

  <「万葉集」には、五行説の影響から「金」字を秋にあてているものがみられる。「金(あきのの)の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し思ほゆ〈額田王〉」、「金風(あきかぜ)に山吹の瀬の鳴るなへに天雲翔る雁にあへるかも〈人麻呂歌集〉」 など。>とある。

(13-1)「繁花」・・「繁華」。「花」は「華」の当て字。①花が咲きほこる。②にぎわう。➂若く美しい。ここでは②。

  *天津橋下陽春水、天津橋上繁華子(劉希夷 『公子行』)

  <天津橋下 陽春の水、天津橋上 繁華の子(し)>

  [洛陽の都の天津橋の下を流れる、暖かな春の時節の水。洛陽の都の天津橋の上を行き交う、今を盛りと栄えている貴公子たち]

   **繁華子=綺麗に着飾った青年子女。

13-2)「常夜灯」・・『渡島日誌』には、「常夜灯、此処津鼻の上に突出してよく見ゆる場所なれば、置レ之」とある。

  *影印の「燈」は、「灯」の旧字体。もと「燈(トウ)」と「灯(テイ)」は別字だが混用されることも多かった。常用漢字表(昭和56年)で「燈」の新字体として「灯」が選ばれたため、両者の字形の区別がなくなった。なお、「燈」は平成16年に人名漢字に追加された。

13-4)「沖の口番所」・・松前藩が、江差湊に入港する船舶、人、荷物などを取締まるため設けた番所。ここで徴収する運上金は重要な財源となった。『渡島日誌』には、「津鼻の上に有。常夜灯を置、目鏡を架て、出入の船を改むる。是を以て出入船の運上を取立る処なり。」とある。

13―4)「姥神と言神社(うばがみというじんじゃ)」・・「陸奥国松前・一の宮姥神大神宮・北海開祖神」あるいは「陸奥国松前・勅宣正一位姥神大神宮・北海開祖神」と称する蝦夷島(北海道)において最古といわれる神社。現所在地は、江差町姥神町。  

     社号 勅宣正一位姥神大神宮

     祭神 天照大御神(あまてらすおおかみ)、春日大明神(天児屋根命(あめのこやねのみこと))、住吉大明神(底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命、表筒男命の三柱)。

創立 年暦不詳(建保四年(1216)とも、文安四年(1447)とも。)

        社地往古より津花町浜手(現折居井戸の聖地)に鎮座していたが、正保元年(1644)岩崎の麓に遷座、それによって姥神町と名付けられた。後、社地手狭となり、安永三年(1774)令宮所(拝殿)を社地替えして現在に至る。鰊漁業の祈願所として御領主松前公より永久祈祷仰付けられ、領主巡国の折には、祈願遊ばされ、例祭には御代参(江差奉行)を派遣された。文化十三年(1816)神階の儀に付願上御公儀御聞済の上、文化十四年(1817)七月吉田家出奏、正一位姥神大神宮の額面を拝載する。

     祭礼 当社姥神宮、弁天両社祭礼  

        八月十四日 神輿洗   八月十五、十六日 神輿渡御

*十五日 御領主様御代参

     摂社(本社に付属し、本社に縁故の深い神を祀った神社の称号)に折居社と厳島神社がある。(『江差町史』)

     この外、姥神大神宮の縁起として、北海道神社庁誌によると、「江差の津花に天変地異を予知し住民に知らせ、神のように敬われていた折居様という老婆が草庵を結び住んでおり、ある日鴎島の巌上に現れた翁から小瓶を授かり、その中の水を海に注ぐと鰊が群来するとの啓示を受け、水を海に注いだところ鰊が群来した。その後老婆は、忽然と姿を消し、草庵に残されていた老婆の祀る五体の御神像を人々が小祠を建立し姥神としてお祀りし、後に老婆も祀った」とある。

13-5)「銅瓦(どうが)」・・銅製のかわら。銅製の屋根板のこと。江戸時代初期に檜皮に代わって、寺院の本殿や城の天守閣などの屋根葺き材に使われはじめた。

13-5)「奇麗(きれい)」・・美しくはなやかなさま。きらびやかなさま。うるわしいさま。普通、「綺麗」と書く。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

  <(1)キレイとビレイ(美麗)とは類義語であるが、日本では、ビレイは一般化せず、室町時代には、キレイが優勢となり、その語義も拡大する。建物・衣裳・容姿の美しさの外に、新たに心・自然・事物の清潔なこと、純粋なことを表わすようになる。江戸時代には、更に語義が分化した。

(2)キレイがもつ清潔、純粋等の意は、日本で生じたものであり、ウルハシ・クハシ・キヨシ・キラキラシ・イサギヨシ等の和語の意を吸収しつつ勢力を拡大し、ついにウツクシイと相並ぶようになった。>とある。

13-5)「神明(しんめい)」・・祭神としての「天照御大神」のこと。

13-6)「春日(かすが)」・・春日大明神。春日神社の祭神のうちの一柱である「天児屋根命」のこと。

13-6)「相殿(あいでん、あいどの)」・・同じ社殿に、二柱以上の神を合祀すること。また、その社殿。姥神大神宮は、三社を合祀っている。

13-6)「折居明神(おりいみょうじん))」・・「おりえみょうじん」とも。 姥神大神宮の摂社である「折居社」の祭神折居神霊(往古鰊漁を教えた老婆の神霊、折居(於隣))のこと。折居社は、津花町浜手に鎮座していたが、天明二年(1782)岩崎の地(姥神大神宮の境内)に遷座。祭礼は三月十六日。(『江差町史』)

14-1)「すぎわひ」・・「春」は、「す」、「記」は「き、ぎ」、「王」は「わ」、「飛」は「ひ」。「生業(すぎわい)」で、生計を立てるための職業。なりわい。「生業(すぎわい)」の語源説に「世を過グルナリハヒの業の義」などがある。

  *慣用句「生業(すぎわい)は草の種」・・生計を立てる道は、草の種のように多く、いたる所にある。

14-3)「祭礼(さいれい)」・・神社などの祭り。祭典。祭儀。

14-4)「日蓮宗」・・日蓮が開いた仏教の一宗派。法華宗とも。「日蓮宗」の寺は、成翁山法華寺をさす。

14-4)「禅宗」・・大乗仏教の宗派の一つ。日本では臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の総称。「禅宗」の寺は、曹洞宗の嶽浄山正覚院をさす。

14-5)「浅利甚之丞(あさり・じんのじょう)」・・「寛政十年家中及扶持人列席調」(『松前町史』)の長爐列の席に、浅利甚之丞の名がみえる。

14-5)「持口(もちくち)」・・持ち場。受け持っている方面。

14-6)「浮島」・・「嶋」、「山+鳥」は、俗字。「鴎島」のこと。鴎島は、町の中央部。津花岬の西方350メートルの日本海に浮かぶ周囲2.6㎞の小島。『渡島日誌』には、「鴎島、従中歌八丁。津花より五丁位。此間湾深く船懸りよろし。長サ六丁、巾一丁の島なり。周囲絶壁、西面に千畳敷と云平磯有。北に廻りて義経巻物かくしの石、蹄石。土人、義経の三馬屋にて繋ぎて渡海なし玉ひしが、其馬竜と化して来り上りし処也と云。蛭子(えびす)社、テツカヘシ大岩岬也。弁天社など有。此二社共に順見使の廻り場所なり。」とある。

15-1)「弁財天(べんざいてん)の社」・・「弁財天」は、元来インドの河神で、音楽、知恵、財物の神として、吉祥天とともに広く信仰された女神。仏教にも取り入れられたが、吉祥天と同一視されるようになった。弁天。「べざいてん」とも。

15-1)「姥子神の社」・・「蛭子(ゑびす)社」あるいは「恵比須社」の誤りか。鴎島に、「弁財天の社」と「恵比須社」が鎮座するとする記録はあるが、「姥子神の社」の記録はない。「恵比須社」は、姥神大神宮の付属社で、祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ。恵比須・蛭子)で、年暦不詳。鴎島に鎮座、その下浜を恵比寿浜と称す(『松前町史』)。なお、「ゑびす」は、七福神の一つで、商売繁盛、福の神として広く信仰され、特に、古くは、豊漁の神として漁民に信仰され、漁業との関係が深い。『松前町史』には、「漁師の恵比須信仰は鰊網の中央の大浮子をエビスアバと称し恵比寿の加護を信じ、又大漁のあった時網に引き上げられた石を「エビス石」と称して神性視し、御神体として祀るなど漁業は恵比須信仰に支えられていた。」とある。

15-2)「神石」・・「瓶子岩」のことか。

15-2)「天神石」・・「天神石」と称する言伝えはない。「天神(菅原道真の神号)」様と「石」との信仰上の関係性は薄く、むしろ漁業を介した「えびす」様と「石」・「岩」との信仰上の関係が強い。

15-3)「累々(るいるい)」・・「累々」+「たり」の場合は、形容動詞。あたり一面に重なり合って、たくさんあるさま。

15-4)「一むら」・・一叢。「武」は「む」。「一叢、一群」で、集まっている一団。ひとかたまり。

15-4.5)「蝦夷たてと言観音の堂」・・『渡島日誌』には、「えぞたて」として「夷塞、此処桧山弾正の古塞と思はる。礎掘溝のあと今に有り。樹木陰森として、如何にも殺気撲レ面て怨鬼の在るかと思はるの地なり。此中に観音堂小堂有。」、また、「村内鎮守八幡、蝦夷塞観音堂。是も往古酋長の塞也。土器、雷斧、矢根石等多く出る。祭礼七月十七日」とある。このことから、「たて」は、「館(たて・たち)」で、防備を施した武将、豪族の邸宅。小規模の城の意。

15-6)「放(はなれ)」・・「離れ」の意か。

15-6)「泊村」・・現江差町泊町(とまりちょう)。町の中央部。東は厚沢部町に接し、西は日本海に面する。泊川が西流して日本海に注ぎ河岸平地を形成。『渡島日誌』には、「泊村、人家二百二十軒。漁者、畑作、船持、商人計也。文化度六十八軒也と。」、「村内鎮守八幡、蝦夷塞観音堂、地蔵堂・戎合殿、また村の上に白性山観音寺、松前阿吽寺末寺。」とある。

(16-1)「小山村(おやま・むら)」・・現江差町尾山町。町の北部。西は日本海に面する。北を田沢川が流れる。泊川と田沢川の海浜と、その後背段丘及び山陵地域からなる。『松前島郷帳』には「おやま村」、『天保郷帳』には、「尾山村」として、その名がみえる。『渡島日誌』には、泊村と田沢村の境に、「此辺り家つゞきにして尾山村、泊村分村也。尾山の権現、祭礼七月二十九日、何神を祭る哉、甲冑を帯せし像なり。」とある。

16-2)「此川」・・『渡島日誌』には、「ホンヘツ、小川。此処村境也。」とある。

16-3)「田沢村(たざわむら)」・・現江差町田沢町。町の北部。北・東は厚沢部町に接する。田沢川河口の海浜から続く荒磯の海岸と、田沢川流域、後背の山陵地帯からなる。『元禄郷帳』、『天保郷帳』のいずれにも「田沢村」の名が見える。『渡島日誌』には、「田沢、人家四十一軒。文化度廿八軒。海産泊り村に同じ。川有、此筋稗田多き故号くと。」ある。

16-4)「行場(ぎょうば)」・・「行」は、仏語で、「住・坐・臥・行」の四威儀の一つで、「歩くこと」、「巡ること」の意があり、ここでは、「観音巡り」のために西国三十三カ所の観音霊場が設けられているように、津軽から松前地にかけて設けられた巡礼を行う観音霊場のことか。

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