森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年04月

4月 町吟味役中日記注記 2018.4.9

(134-1)「鯡(にしん)」:国訓では「ニシン」。漢語では「ヒ」と読み、魚の卵のこと。なお、中国では「鯖」が「ニシン」を表す。

(134-3)「家内(かない・いえうち)」:家中の者。家の者全部。

    ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

    <(1)「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

(2)現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(13-4)「荒増(あらまし)」:事件などのだいたいの次第。概略。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

    <「粗(あら)まし」という語源を考える説もある。また、「まし」は「はし(端)」の転で、有り始めの意からともいう。>とある。

(135-3)「呼越(よびこし)」:「呼び越す」は、呼んで来させる。招き寄せる。

(135-6)「幸ひ」:「幸」の脚部の「干」が円(まる)になる場合がある。

 (136-3)「別心(べつしん)」:相手を裏切るような心。そむこうとする気持。ふたごころ。異心。

(136-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(136-4)「相当(そうとう)」:ふさわしいこと。また、そのさま。相応。6

(136-4)「申付度(もうしつけたく)」の「度(たく)」:願望の助動詞「たし」の連用形で、訓読み。漢音を和語に利用した。

    *「忖度」の「度(タク)」は漢音。(「度」は呉音)

    *鎌倉時代ころから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」「目出度」と表記した   例が見られる。のち、願望の助動詞「たし」の各活用の表記に用いられた。(『漢辞海』)

(136-5)「無急度(きっとなく)」:急度と同じ。かならず。

(136-5)「利解(りかい)」:理解。道理。わけ。また、わけを話して聞かせること。説得すること。

(136-6)「兎角(とかく)」:副詞「と」と副詞「かく」を合わせたもの。「兎角」は、当て字。

あれこれ。あれやこれや。何やかや。さまざま。いろいろ。とかくに。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

(1)対照的な内容をもつ副詞「と」と「かく」を複合して用いるもので、中古以降現代まで使われている。古語においては、「かく」のクがウ音便化して「とかう」となることもある。

(2)「と」「かく」にそれぞれ付加的要素をつけて、「とにかくに」「とにもかくにも」「ともかくも」「とやかくや」「とてもかくても」「とてやかくてや」、また「とあるもかくあるも」「と言ふともかく言ふと」「とやせんかくやあらまし」など、「と」「かく」それぞれが単独で副詞本来の用法を果たすものである。名詞が結びついて、「戸様各様」の用に用いられることもある。>とある。

(136-6)「得心(とくしん)」:心から承知すること。納得(なっとく)。

(137-2)<尊敬の体裁・平出>:2行目の行末「吟味」のあと、空白があり改行されている。この体裁を「平出」といい、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。テキストでは、「公辺」に敬意を表している。

(137-2)「公辺(こうへん)」:公儀。将軍家。幕府。政府。お上(かみ)。また、それにつながるもの。役所。

(137-3)「差出」の「差」:冠部と脚部が離れており二字見えるが「差」一字。

(137-3)「左候節(さそうろうせつ)」:然(さ)候節。そのような折。「左」は本来は、縦書きの文章では、次のことが左側にあるところから、次に述べるような、文章や事項をいうが、テキストでは、「然(さ=そうような)」の当て字。

(137-4)「遠国(おんごく・えんごく)」:①遠くはなれた国。都から遠くはなれた辺鄙(へんぴ)な土地.②律令制の行政区画である国を、都からの距離によって、近・中・遠の三等に分けた一つ。延喜式によると、遠国には、関東以北、越後以北、安芸石見以南および土佐国が含まれた。テキストでは①。「オン」は呉音、「エン」は漢音。

(137-5)「手数(てかず・てすう)」:それに施すべき手段・手法・技(わざ)などの数。「てすう」と読むと湯桶読み。

(137-6)「腹蔵(ふくぞう)」:心の内にひめ隠すこと。心に思っていることをつつみ隠して外に現わさないこと。

(137-6)「被仰合(おおせあわせられ)」:「仰せ合す」は、多く、助動詞「らる」を付けて用いる。「言い合わす」の尊敬語。御相談になる。

(137-6)「被仰合」の「仰」のくずし字:旁が極端に省略されている。

(138-4)「乍去(さりながら)」:そうではあるが。しかしながら。「さり」は、本来「然り」で、「去」は当て字。

(138-5)「被仰聞(おおせきけられ)」:下一段活用他動詞。「聞ける」は「聞かせる」の意。

    「いいきかせる(言聞)」の尊敬語。言ってお聞かせになる。聞かせて下さる。また、上の命令などをお言い聞かせになる。

     *「聞ける」の活用:れ(未然)・れ(連用)・ける(終止)・ける(連体)・けれ(已然)・けよ(命令)。

     *「被仰聞(おおせきけられ)」の組成:「仰聞(おおせきける)の未然形「おおせきけ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

      **助動詞「らる」の接続:未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続する。「おおせきく」の未然形は「おおせきけ」で「け(ke)」で「e」。

(138-6)「可得貴意(きいをうべく)」:「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

    *組成:「貴意」+下2段動詞「得(う)」の終止形「う」+推定の助動詞「べし」の連用形「べく」

      **助動詞「べし」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続する。

(139-1)「恐惶謹言」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。「惶」はおそれかしこむ。書き止めという。テキスト影印はわりとしっかりかかれているが、崩した連綿体も多い。

    *「書き止め」:書状など文書の末尾に書く文言。書止め文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。

    代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。

実際の文書では「謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。

(139-3)「蛎崎四郎左衛門」:当時、松前藩の勘定奉行で、町奉行も兼ていた。のち家老格となった。

(139-6)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(140-1)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(140-3)「津軽左近将監」:弘前藩11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)。在位期間天保10年(1839)~安政5(1859)。寛政12(1800)113日生まれ。三河吉田藩主松平信明(のぶあきら)3男。津軽親足(ちかたり)の養子となり、文政8(1825)陸奥黒石藩藩主津軽家2代。ついで宗家津軽信順(のぶゆき)の養子となり、天保10

(1839)陸奥弘前藩藩主津軽家11代。倹約,開墾により藩財政を再建,また洋式兵学をとりいれた。元治2(1864)25日死去。66歳。

   *「左近将監」:官位名。「左近」は、左近衛府。右近衛府禁中の警固、行幸の警備などに当たった律令国家の軍事組か。「将監」はその近衛府の第三等官(ジョウ)。なお、第一等官(カミ)は、大将、第二等官(スケ)は、衛門左、第三等官(ジョウ)が将監、第四等官(サカン)は、将曹(しょうそう)。

(139-46及び140-2)<花押・華押(かおう)>:花字(かじ)の押字の意。 文書で、署名の下に書く自筆の書き判。多くは、実名の文字をくずして図案化したものを用いた。

   *花押:自署の代りに書く記号。押字ともいい、その形が花模様の如くであるところ

から花押とよばれた。また判・判形ともよばれ、印判と区別して書判(かきはん)と

もいう。花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、他人の模倣・偽作を

防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされた。

   花押は中国唐代の文書からみえるが、我が国では十世紀の頃から次第に用いられる

ようになった。はじめ自署は楷書で書くのが例であったが、行書から草書へと変わ

り、特に実名の下の文字を極端に簡略化し、次第に二字の区別がつかなくなって図

様化した。これを草名(そうみょう)という。

   花押には、その人の趣向や時代の流行により、各種の作り方があった。江戸時代の有

職家、伊勢貞丈(一七一七―八四)の『押字考』は、草名体・二合体・一字体・別用

体・明朝体の五種を挙げている。草名体は、上記の如く花押の発生期に現われたもの

であるが、鎌倉時代以降も書札様文書に多く用いられた。藤原行成・吉田定房・一条

兼良(覚恵)などの花押がそれである。二合体は、実名の二字の一部を組み合わせて

草体にしたもので、藤原佐理・藤原頼長・源頼朝などの花押にみられる。一字体は、

名の一字だけをとって作るもので、平忠盛・北条義時・足利義満などの花押がその例

である。別用体は、文字と関係のない図形を用いたもので、三好政康・真木島昭光・

伊達政宗・徳川光圀などの花押がそれにあたり、いずれも鳥の姿を図形化したもの

である。明朝体は、中国明朝の頃に流行した様式であるためにこの名があり、天地の

二本の横線の間に書くことを特徴とする。徳川家康・加藤清正など、その例は多い。

花押の類型は、以上に尽きるわけではなく、前述の複合型もあり、戦国・織豊時代から文字を倒置したり、裏返したものが現われ、苗字・実名・通称などの 組み合わせによるものなど、新様式が発生し、その様相は一段と複雑になった。また一字体の変種とみることもできるが、足利義持・義政の「慈」、織田信長の「麟」、豊臣秀吉の「悉」のように、実名と関係のない文字を選んで花押とすることも行われた。禅僧様の花押も一種独特の類型に属するもので、文字よりは符号に近く、抽象的表現の中に禅宗風の寓意がこめられたものと思われる。さらに平安時代よりみられる略押も花押の一種で、画指に代り身分の低い者や無筆の者が用いる、簡略な符号であった。

 同一人でも、草名体と他の形式の花押を持つ例があり、義満以降の足利将軍のように、尊氏に始まる武家様(特に足利様ともいう)の花押と公家様の花押の両種を使用する例もあった。また一生の間には花押の変遷があり、若年期と老年期では書風の変化がみられるが、意識的に花押を改変することも多かった。改名、出家、政治的地位の変化等を転機とするものであるが、偽造を防ぐために頻繁に変えたり、数種の花押を用途によって使い分けることもあった。

   花押は時代によりその様相が変遷する。平安時代は草名体・二合体が主流であり、中

世に至って二合体・一字体がそれに代わり、さらに前述の如き新様式が現われ、江戸

時代には明朝体が一世を風靡した。また特に武家社会では、同族や主従の間に類似

の花押が用いられる傾向が強く、足利様や徳川判の流行のような現象もみられた。

 花押は自署の代りとして発生したが、平安末期より実名の下に花押が書かれるよう

になり、後には自署と花押を連記する風が生じた。一字体の出現以降は、実名と花押

との関係が薄れ、名と関係のない文字で理想や願望を表わしたりするようになると、

印章と変わるところがなくなった。版刻の花押は鎌倉時代中期から現われるが、近

世になると花押を籠字に彫って、これを押した上に填墨する方法、花押を印章の中

に組み入れたものが現われるなど、花押の印章化が進み、花押と印章は文書の上で

その地位を交代した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

『蝦夷嶋巡行記』4月学習分注記

3月学習分の補足>

○P12―1行「上の國河」・・注記で「天ノ川のこと」としたが、「天の川とは別に、上の国川がある」との意見があったが、テキストでいう「上の國河」は「天ノ川」のこととする。
①天ノ川の河口に近い処に、北から入ってくる支流に目名川があり、「上ノ国目名川」があるが、「上ノ国」を冠したのは、目名川が、南部の石崎川、北の厚沢部川にもあることからと思われる。(山田秀三著『北海道の地名』)

  ②次の行に「幅凡八拾五間計」とある。150メートルを超えるから、支流の「上ノ国目名川」では広過ぎるので、本流の「天ノ川」を指すと思われる。

○P12―4~5行「三間四面」・・堂の規模を表し、三間四面は桁行三間の母屋(もや:中心部の柱の高いところ)に四面の庇(ひさし:母屋の外側にある柱の低いところ)が付く構造。

17-1)「老賤(ろうせん)」・・身分の卑しい老人、年寄。

17-1)「聞(きく)」・・「聞」のくずし字。

17-1)「物語(ものがたり)」・・話。談話。あるまとまった内容のことを話すこと。

17-3)「真菰(まこも)」・・「真薦」とも。「ま」は美称の接頭語。イネ科の大形多年草。各地の水辺に生える。高さ1~2㍍。地下茎は太く、横にはう。葉は線形で長さ0.51㍍。秋、茎頂に円錐形の大きな花穂を伸ばし、上部に淡緑色で、芒(のぎ)のある雌小穂を、下部に赤紫色で披針の雄小穂をつける。黒穂病にかかった幼苗を「こもづの」といい、食用にし、また、油を加えて眉墨をつくる。葉で、「むしろ」を編み、「ちまき」を巻く。

17―4)「語(かたる)」・・話してきかせる。ある事柄をよく説明する。

17-5)「甚(はなはだ)」・・「甚」のくずし字。

17-5)「うとき」・・「疎い」(形容詞)の連体形。よく知らないこと。事情に暗いこと。

17-6)「蒔様(まきさま・まきよう)」・・種子の蒔く方法、やり方。

17-6)「宛(ずつ)」・・「ずつ」の本来の用字「充」の異体字が「宛」と似ているため、中世以降混用された。「宛行扶持(あてがいぶち)」など。

     *「宛」の音読み・・「エン」。熟語に「宛転(エンテン=ゆるやかにめぐる。女の眉の美しいさま)」など。

     **宛転蛾眉能幾時  宛転たる蛾眉(がび)、能(よ)く幾時(いくとき)ぞ、

須臾鶴髪乱如絲  須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)、乱れて糸の如し。

[すらりとした美しい眉の美人も、いつまでそのままでいられようか。たちまちにして白髪が糸のように乱れたおばあさんになってしまうだろう。]

       ***「年年歳歳花相似」(年年歳歳 花相似たり)の名句がある唐の詩人・劉希夷(りゅうきい)の「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わって)より。

P18―P16と重複)

19-1)「抜透(ぬきすか)す」・・①すき間なくつまっているものから間が透くように抜き取る。まびく。うろぬく。おろぬく。②刀を、鞘(さや)から抜きはずす。また刀を鞘から、ちょっと抜く。

     テキストでは、①

19-1)「ぬき搤(と)る」・・引き抜いて取ること。間引きすること。

19-1)「鍬(くわ・すき)」・・「鍬」の国訓は「くわ」で、土を掘り起こす農具をさす。一方、「鋤(すき)」は、田を耕し除草する農具をさす。また、国訓の「鍬(くわ)」は、「田畑を耕すのに使う農具で、長い柄の先に土を掘り起こす刃の部分を取り付けた物」をさし、「鋤(すき)」は、「幅の広い刃に柄を付けた櫂状の農具(スコップ・シャベルの形状)で、手と足で土を掘り起こすのに用いるもの」とする辞書もある。

19-2)「たすけもかけす」・・「多」は「た」、「須」は「す」、「希」は「け」、「可」は「か」、「春」は「す」。『日本国語大辞典』によると、「たすけ」には、「畑の肥料、緑肥」の意があることから、ここでは、「たすけもかけす」は、「畑に肥料を施さない」意か。

19-4)「は」・・変体仮名「盤」。

19-5)「土橋村(つちはし・むら)」・・現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「蝦夷日誌」(二編)には土橋村が二村記され、泊村(現江差町)支郷の「土橋村」は目名村の南、広い沢地に人家が一三軒ばかりあり、「土橋ハ皆支郷の惣名にして、惣而此名何村の土橋、何村の土橋と書て有也。土産、鮭、其外畑物多し」とし、目名村支郷の土橋村については「人家四十軒計。畑多し」とある。

19-5)「どば村」・・「土場村」。現江差町柳崎(やなぎざき)町。『天保郷帳』には、伏木戸村の枝村として「土場」の名が見え、安政六年(1859)に、「柳崎村」に改称されている。江差町の北部、厚沢部川の下流域に位置し、東の一部は、厚沢部町に接し、西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「追分有、右厚沢部、左土場道、凡半里計にして土場村、人家十二三軒小商人有、是安野呂村の分也。」とある。『罕有日記』には、「田沢村より山路に入て平坦畳の如し。半里にて土場七八軒の家立あり、近村より耕作のため家作りいたす。数村の寄集りなりと。」とある。

    近世から明治初年まで存続した村。伏木戸村の北に位置し、南東から東にかけては目名村・厚沢部村(現厚沢部町)、北東は鰔川(うぐいかわ)村。西は日本海に面する。「つちば」とも訓じる(行程記)。厚沢部川河口に位置する当村は、江戸時代に上流で伐採された木材の貯木場(土場)として集落が形成されたところと推定され、現在土場・川袋という小字地名が残る。

19-6)「厚沢部川(あっさぶがわ)」・・二級河川。流路延長43.5㎞。支流には、目名川・安野呂川・鶉川など11の河川を持つ。また、厚沢部川は、重臣松前蔵人の給地として、江差商人が最初50両、後100両と生鮭100尾の運上で請け負って鮭漁にあたった場所。『渡島日誌』には、厚沢部川と安野呂(あんのろ)川について、「大川端に出る。此処二股也。右本川、厚沢部川と云、此方少し大きし。左を安野呂川と云。両川とも巾十余間、遅流にして深し。~。此処操船にて越る。」とある。『罕有日記』には、「アツサブ川五拾間の川幅にて、繰船にて渡る。馬も同断。」とある。

    なお、松浦図には、本流を「アンヌル川」としている。

20-1)「溝川(みぞがわ)」・・水を流すために地面を細長く掘ったような川。どぶ川。

20-2)「つまの湯」・・江差町五厘沢町に所在する「五厘沢温泉」。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「乙部村分郷に五輪沢村という有。此処ツマノ湯という温泉あり、諸病によろし。」とある。『渡島日誌』には、「温泉場、小流右の方に入り、一丁。湯守一軒、上に薬師堂あり。是を乙部の湯と云へども、境はまだ先なり。此湯を見附しもの乙部の者なれば如レ此号しか。開きしは松前家々臣蠣崎蔵人先祖なりと伝ふ。」 

     とあり、武四郎は、「つまの湯」を「乙部の湯」としている。『罕有日記』には、「路の傍らに、つまの湯とて温泉あり、浴室四五軒あり」とある。

20-2)「痰症(たんしょう)」・・漢方で体液の異常分泌および水分代謝障害一般をさすが、狭義では胃内停水をいう。痰飲。痰病。

20-3)「印(しるし)」・・ここは、「印」と同源の「験・徴」の意で、御利益。ききめ。効能。

20-4)「分郷(ぶんごう)」・・村内の一つの集落を指す。「郷」は、昔の行政区画の名で、「郡」の下の名称であるが、郷飲酒などを行う一つの単位である村落も「郷」というようになった。(『角川漢和中辞典』)

20―5)「こりん沢」・・現江差町五厘沢町。町の北端。北は、乙部町に接し、西は日本海に面する。五厘沢川下流北岸段丘に温泉(五厘沢温泉)が湧出している。

20-6)「せもない村」・・『罕有日記』には、「瀬茂内」とある。『渡島日誌』には、「シモナイ、人家三四軒など有」と、「シモナイ」に作る。

20-6)「在家(ざいか)」・・いなかの家。「ざいけ」と読めば、普通は、出家しない、在俗のままで仏の教えに帰依すること。また、その人や家をさす。

21-1)「乙部村(おとべ・むら)」・・現乙部町。北海道南西部、桧山地方の中央部に位置し、北は熊石町、北東は八雲町、東は厚沢部町、南は江差町に接し、西は日本海に面する。近世、はじめ松前藩領、次いで幕府領、松前藩領という変遷を繰り返し、明治2(1869)まで、松前藩領西在江差付村々に属した。また、当町域として、元禄13(1700)の『松前島郷帳』には、「乙部村、小茂内、大もない村、とつふ村、みつ屋村、かはじら村」が、『天保郷帳』には、「乙部村、小茂内村、大茂内村、突符村、三ツ谷村、蚊柱村」の名がみえる。

     『渡島日誌』には、「乙部村、人家三百四軒、文化度百九十軒。一条町にて漁有、畑作又船持等有。~中略~、此村往昔松前家臣下国図書の給地なりと。」とある。

21-1)「羆(ひぐま)」・・大型のクマ。北海道には、ヒグマの一亜種エゾヒグマが生息する。

21-2)「巡見(じゅんけん)」・・警戒、監督などのため、ある場所を見て回ること。江戸幕府が特使を派遣して御料(幕府領)、私領の施政や民情を査察させること。諸藩にも同様の施策があり、巡見と称した。

21-2)「行懸(いきかか・ゆきかか)り」・・移動する際に、ある場所を過ぎようとすること。さしかかること。

212.3)「追退(おい・しりぞけ)たり」・・追い払ってしまうこと。撃退してしまうこと。

21-3)「あやうき」・・「阿」は「あ」、「也」は「や」、「宇」は「う」、「幾」は「き」。形容詞「危うい」の連体形。

21-3)「船橋(ふなはし・ふなばし)」・・船をつなぎ並べ、上に板を渡して橋としたもの。浮き橋。

21-5)「小茂内(こもない・むら)」・・現爾志郡乙部町字鳥山・字富岡。近世から明治三五年(一九〇二)までの村。乙部村・相泊村の北、西流して日本海に注ぐ小茂内川流域に位置する。北は突符(とつぷ)村。『渡島日誌』には、「小茂内村、人家五十四軒。文化度三十七軒。従レ乙部村二十九丁。産物乙部に同じ。」とある。

21-6)「百性(ひゃくしょう)」・・柏書房の『古文書くずし字500選』には、「性」は、「百姓」の「姓」と混用されたもので、古文書では、「百性」が頻出するとある。

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