<4月学習テキストP140~3行の「左近将監」の注記について>
◎参加者から<近衛府と衛門府とでは次官(スケ)の呼び方(表記の仕方)が異なる。すなわち、近衛府の次官は『中将または少将(左や佐ではなくて)』だから、『右近衛中将(うこんえのちゆうじょう』『左近衛少将(さこんえのしょうしょう』という呼び方になる。、吉良上野介は『左近衛少将』>とのご意見をいただきました。
◎「近衛府」と「衛門府」の官名を混同していましたので訂正します。
・近衛府の4等官名・・1位(かみ):大将、2位(すけ):中将、少将、3位(じょう):将監(しょうげん)、4位(さかん):将曹(しょうそう)
・衛門府の4等官名・・1位(かみ):衛門督(えもんのかみ)、2位(すけ):衛門佐(えもんのすけ)、3位(じょう):衛門大尉(えもんのだいじょう)、衛門少尉(えもんのしょうじょう)二人、4位(さかん):衛門大志(えもんのだいさかん)、衛門少志(えもんのしょうさかん)
<5月学習分>
(141-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く
書簡文に用いる。
(141-4)「其(それ)」:文の初めに用いて、事柄を説き起こすことを示す。
(141-4)「領分(りょうぶん)」:江戸幕府の制。目見(めみえ)以上の領地を知行、目見以下の領地を給知といったのに対し、一万石以上の大名の領地の称。
(141-4)「平内茂良(ひらないもら)村」:現青森県東津軽郡平内町茂浦。東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂(しらすな)村・滝村と境し、南は浪打(なみうち)山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。茂浦から北方の夏泊崎まではリアス海岸で、漁業に適し、藩政時代海浜は製塩地として重視され、平内地方の総生産は月一千俵とみられた。塩は青森の塩しお町の業者に移出し、飯米と交換していた。
当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。前述の「一人旅に宿貸すな」もその一つで、若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜しおがま神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。身を切るような冬の夜、水浴して心身を清めるのは、海に生きる若者たちへの試練であろう。
(141-5)「五ヶ年」の「ヶ」:「ヶ」は、もともと「箇(か)」の略体「个」から出たもので、かたかなとは起源を異にする。いわば記号といえる。「三ケ日(さんがにち)」「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように、読みに、連体助詞の「が」にあてることがある。これは「ケ」の転用である。
(141-5)「已前(いぜん)」:「已」は、「以」と通用する。「已」も「以」も漢文訓読用法では
助詞「から」「より」で、「已前」は、「前より」と返読する。テキストの「已前よ
り」は、「前よりより」となり、「より」が重複することになる。
(141-6)「去卯(さるう)」:去年の卯年。天保2年(1831)辛卯(シンボウ・かのとう)。
*「天保」の読み方:「保」は、「ホ」(呉音)でなく、漢音「ホウ(ボウ・ポウ)と読む。年号の「保」は、漢音で読む。「享保(きょうほう)」「保元(ほうげん)」「神田神保町(かんだじんぼうちょう)」など。
(142-2)「鯡(にしん)」:<近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。ニシンは和名を「かど」、「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字をあてていたが、近世において特に「鯡 」の俗字が用いられていた。蝦夷地では米が穫れず、ニシンが肥料として本州へ移出され、米となって還元されて来るので、米に代わる魚として「鯡 」という字が造られたといわれている。それほど、ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であった>(『福島町史』)
*「鯡」は、「金肥」といわれ、「魚に非(あら)ず」と書いて「ニシン」と読んだことから、国字とする向きもあるが、「はららご」(産卵前の魚類の卵塊)を意味する漢字である。音は「ヒ」。国訓で「にしん」だが、近世、中国に逆輸出され、現在、中国でも「鯡」を「にしん」の意味で使う。もともと、中国で「にしん」には「鯖」を当てた。
(142-3)「さも無之(これなく)」:「さ(然)もなし」は、たいしたこともない。どうということもない。影印は「左茂無之」とあるが、「左」も「茂」も変体仮名。翻刻は「さも無之」とする。
(142-3)「酒狂(シュキョウ・さかぐるい)」:酒に酔って狂い乱れること。また、酒におぼれること。酒乱。
(142-4)「不法之儀等」の「等」:カタカナの「ホ」に近いくずしになる場合がある。この形になることについて、茨木正子著『これでわかる仮名の成り立ち』(友月書房)は「脚部の寸が独立したものと思われる。『す』と区別するため、肩に「ヽ」がついたものか」とある。
(142-4)「手向(てむかい・たむかい・てむかえ・たむかえ)」:てむかうこと。はむかい。抵抗。反抗。てむかえ。
(142-5)「異見(いけん)」:いさめること。忠告。説教。訓戒。
*ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に
<(1)表記は、「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。
(2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。
(3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。
(142-6)「差加(さしくわ)へ」:「差し」は接頭語。動詞「さす(差)」の連用形から転じたもの。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。
*「差」など、冠と脚で構成される漢字のくずしは、2字分あると思うほど縦長になる場合がある。
(143-4)「腰縄(こしなわ)」:江戸幕府の被疑者・犯罪者戒護の一方法で、捕縄を用いた縛り方。被疑者・犯罪者の逮捕や護送などにあたり、捕縛に本縄と腰縄の別があった。腰縄は軽い罪の場合に用いられ、腰に縄を巻き、併せて両腕が伸びないように羽がいじめに縛り、羽織着用の場合はそのうえから縄をかけた。上級武士には本縄はかけず、腰縄だけであった。遠隔地からの庶民の護送は、軽い場合には手鎖腰縄つき、または腰縄だけで歩かせ、重い場合には唐丸駕籠(とうまるかご)に入れた。
(143-4)「酔醒(よいざめ・よいざまし)」:酒の酔いがさめること。また、その時。
*「酔」:「酉」+「卒」。「酉」は酒つぼの象形で、酒の意、「卒」は、「まっとうする」で、「酒の量をまっとうする」→「よ(酔)う」の意を表す。
*「醒」:「星」は「澄みきったほし」の意味。酒の酔いがさめて気分がすっきりするの意味を表す。
*「酔」は、常用漢字になっている。旁は「卒」の俗字「卆」。旧字体は「醉」で、旁は「卒」。「酔」の構成部分(旁)に、俗字が採用された例。
*常用漢字になって構成部分が俗字の「卆」が使用された例:「粋」(旧字体は「粹」)
*常用漢字でないので、構成部分が「卒」のままの例:「悴(せがれ)」、膵臓の「膵」、翡翠の「翠」
(143-4)「酔醒候迄」の「迄」:決まり字。
(144-2)「一体(いったい)」:もともと。
(144-2)「不快(ふかい)」:病気などのために気分がよくないさま。また、病気。
(144-4)「合利(こうり)」:行李。携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。
(144-6)「手合利」:手行李。旅人たちの振分荷物を入れるもの。
(145-3)「朋輩(ほうばい)」:「朋」はあて字。同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。同役。同門。転じて、仲間。友達。