森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2018年05月

5月 町吟味役中日記注記

                                       

4月学習テキストP1403行の「左近将監」の注記について>

◎参加者から<近衛府と衛門府とでは次官(スケ)の呼び方(表記の仕方)が異なる。すなわち、近衛府の次官は『中将または少将(左や佐ではなくて)』だから、『右近衛中将(うこんえのちゆうじょう』『左近衛少将(さこんえのしょうしょう』という呼び方になる。、吉良上野介は『左近衛少将』>とのご意見をいただきました。

◎「近衛府」と「衛門府」の官名を混同していましたので訂正します。

・近衛府の4等官名・1位(かみ):大将、2位(すけ):中将、少将、3位(じょう):将監(しょうげん)、4位(さかん):将曹(しょうそう)

・衛門府の4等官名・・1位(かみ):衛門督(えもんのかみ)、2位(すけ):衛門佐(えもんのすけ)、3位(じょう):衛門大尉(えもんのだいじょう)、衛門少尉(えもんのしょうじょう)二人、4位(さかん):衛門大志(えもんのだいさかん)、衛門少志(えもんのしょうさかん)

 

5月学習分>

(141-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く

書簡文に用いる。

(141-4)「其(それ)」:文の初めに用いて、事柄を説き起こすことを示す。

(141-4)「領分(りょうぶん)」:江戸幕府の制。目見(めみえ)以上の領地を知行、目見以下の領地を給知といったのに対し、一万石以上の大名の領地の称。

(141-4)「平内茂良(ひらないもら)村」:現青森県東津軽郡平内町茂浦。東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂(しらすな)村・滝村と境し、南は浪打(なみうち)山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。茂浦から北方の夏泊崎まではリアス海岸で、漁業に適し、藩政時代海浜は製塩地として重視され、平内地方の総生産は月一千俵とみられた。塩は青森の塩しお町の業者に移出し、飯米と交換していた。

当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。前述の「一人旅に宿貸すな」もその一つで、若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜しおがま神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。身を切るような冬の夜、水浴して心身を清めるのは、海に生きる若者たちへの試練であろう。

(141-5)「五ヶ年」の「ヶ」:「ヶ」は、もともと「箇(か)」の略体「个」から出たもので、かたかなとは起源を異にする。いわば記号といえる。「三ケ日(さんがにち)」「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように、読みに、連体助詞の「が」にあてることがある。これは「ケ」の転用である。

(141-5)已前(いぜん)」:「已」は、「以」と通用する。「已」も「以」も漢文訓読用法では

助詞「から」「より」で、「已前」は、「前より」と返読する。テキストの「已前よ

り」は、「前よりより」となり、「より」が重複することになる。

(141-6)「去卯(さるう)」:去年の卯年。天保2(1831)辛卯(シンボウ・かのとう)。

    *「天保」の読み方:「保」は、「ホ」(呉音)でなく、漢音「ホウ(ボウ・ポウ)と読む。年号の「保」は、漢音で読む。「享保(きょうほう)」「保元(ほうげん)」「神田神保町(かんだじんぼうちょう)」など。

(142-2)「鯡(にしん)」:<近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。ニシンは和名を「かど」、「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字をあてていたが、近世において特に「鯡 」の俗字が用いられていた。蝦夷地では米が穫れず、ニシンが肥料として本州へ移出され、米となって還元されて来るので、米に代わる魚として「鯡 」という字が造られたといわれている。それほど、ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であった>(『福島町史』)

*「鯡」は、「金肥」といわれ、「魚に非(あら)ず」と書いて「ニシン」と読んだことから、国字とする向きもあるが、「はららご」(産卵前の魚類の卵塊)を意味する漢字である。音は「ヒ」。国訓で「にしん」だが、近世、中国に逆輸出され、現在、中国でも「鯡」を「にしん」の意味で使う。もともと、中国で「にしん」には「鯖」を当てた。

(142-3)「さも無之(これなく)」:「さ(然)もなし」は、たいしたこともない。どうということもない。影印は「左茂無之」とあるが、「左」も「茂」も変体仮名。翻刻は「さも無之」とする。

(142-3)「酒狂(シュキョウ・さかぐるい)」:酒に酔って狂い乱れること。また、酒におぼれること。酒乱。

(142-4)「不法之儀等」の「等」:カタカナの「ホ」に近いくずしになる場合がある。この形になることについて、茨木正子著『これでわかる仮名の成り立ち』(友月書房)は「脚部の寸が独立したものと思われる。『す』と区別するため、肩に「ヽ」がついたものか」とある。

(142-4)「手向(てむかい・たむかい・てむかえ・たむかえ)」:てむかうこと。はむかい。抵抗。反抗。てむかえ。

(142-5)「異見(いけん)」:いさめること。忠告。説教。訓戒。

    *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

     <(1)表記は、「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

(2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

(3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

(142-6)「差加(さしくわ)へ」:「差し」は接頭語。動詞「さす(差)」の連用形から転じたもの。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

    *「差」など、冠と脚で構成される漢字のくずしは、2字分あると思うほど縦長になる場合がある。

(143-4)「腰縄(こしなわ)」:江戸幕府の被疑者・犯罪者戒護の一方法で、捕縄を用いた縛り方。被疑者・犯罪者の逮捕や護送などにあたり、捕縛に本縄と腰縄の別があった。腰縄は軽い罪の場合に用いられ、腰に縄を巻き、併せて両腕が伸びないように羽がいじめに縛り、羽織着用の場合はそのうえから縄をかけた。上級武士には本縄はかけず、腰縄だけであった。遠隔地からの庶民の護送は、軽い場合には手鎖腰縄つき、または腰縄だけで歩かせ、重い場合には唐丸駕籠(とうまるかご)に入れた。

(143-4)「酔醒(よいざめ・よいざまし)」:酒の酔いがさめること。また、その時。

    *「酔」:「酉」+「卒」。「酉」は酒つぼの象形で、酒の意、「卒」は、「まっとうする」で、「酒の量をまっとうする」→「よ(酔)う」の意を表す。

    *「醒」:「星」は「澄みきったほし」の意味。酒の酔いがさめて気分がすっきりするの意味を表す。

    *「酔」は、常用漢字になっている。旁は「卒」の俗字「卆」。旧字体は「醉」で、旁は「卒」。「酔」の構成部分(旁)に、俗字が採用された例。

    *常用漢字になって構成部分が俗字の「卆」が使用された例:「粋」(旧字体は「粹」)

    *常用漢字でないので、構成部分が「卒」のままの例:「悴(せがれ)」、膵臓の「膵」、翡翠の「翠」

(143-4)「酔醒候迄」の「迄」:決まり字。

(144-2)「一体(いったい)」:もともと。

(144-2)「不快(ふかい)」:病気などのために気分がよくないさま。また、病気。

(144-4)「合利(こうり)」:行李。携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。

(144-6)「手合利」:手行李。旅人たちの振分荷物を入れるもの。

(145-3)「朋輩(ほうばい)」:「朋」はあて字。同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。同役。同門。転じて、仲間。友達。

『蝦夷嶋巡行記』5月学習分注記  

     

4月例会での意見について>

P142.3行「折居神は、姥の娘」か、「姥の始」か。

・影印は、「娘」とする。

・姥神大神宮の由来については諸説あり、「於隣(おりん)」なる姥のお告げで、ニシンが群来して人々を飢えと寒さから救い、以来、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀ったと云われている説、老夫婦説もある。「娘」説は見当たらない。「姥の始」も、「姥が始」とすれば、意味が通じなくもない。しかし、影印は「娘」として、ここは「姥の娘」と見る。

 

<5月学習分> 

22-1)「語者有」の「語」・・旁の「吾」の脚部の「口」が「ニ」のようになる。

22-1)「彼か(が)家」・・彼の家。「が」は、格助詞。

22-2)「さも」・・「佐」は「さ」。「さも」は、副詞「然(さ)」に助詞「も」が付いた連語。いかにも。まことに。

22-3)「忍びかね」・・「ひ(び)」は「飛」、「か」は「可」、「ね」は「年」。

     *変体仮名「年(ね)」・・最終画を上に円を描くように跳ね上げる。

      4行目「去年」の「年」、6行目「年々」の「年」など。

22-3)「持合居たる」の「た」・・字源は「多」。上部の「夕」が小さく、下部の「夕」が大きく、「両」のくずしのようになる。極端にくずすと「こ」になる。

223.4)「三右衛門トも」・・「トも」は「共」の意か。

22-4)「門送(かどおくり)」・・人を門口まで見送ること。葬式の時、死者の家へ行かず、自分の家の門に立って棺を見送ること。

22-4)「駒(こま)」・・子馬、小さい馬。牡馬をさしていうこともある。転じて、馬の総称。

22-4)「別而(べっして)」・・副詞。格別であるさま。特に。とりわけ。

     *「別方(べっしてかた)」・・特別に親しくしている人。別懇の方。

     *「別者(べっしてもの)」・・特別に親しくしている者。特に懇意な者。

22-5)「所々(しょしょ・ところどころ)」・・あちこと。ここかしこ。

22-6)「ふせぎ」・・「婦」は「ふ」、「世」は「せ」、「幾“」は「ぎ」。

23-1)「船橋(ふなばし・ふねはし)」:多数の船を横に並べて綱または鎖でつなぎ、その上に板を渡して橋としたもの。橋梁のかけにくい河川に恒久的に設けるものと、橋梁のない河川で臨時に設けるものがある。浮橋。

     *「船橋」のランキング・・江戸時代後期における日本の橋の長さを並べた番付表『日本大橋尽』にある船橋では、「越中船橋」(65艘・現富山市・神通川)が65艘、ついで南部船橋(48艘・現盛岡市・北上川)、3位は「越前船橋」(48艘・現福井市・九頭竜川)が上位にある。

     *千葉県船橋市・・船橋の地名の起源については諸説あるが、伝説では日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされている。市内を流れる海老川に船を並べ、その上に板を渡し、橋を造った。そのような船で造られた橋のことを「船橋」ということから船橋となった、というのが最も有力な説である。

     *越前船橋・・九頭竜川に架かる越前船橋について、ジャパンナレッジ版『国史大辞典』に、

     <「越藩拾遺録」は「凡此川幅百五間余、橋ノ長サ百二十間、鎖五百二十尋、舟四十八艘、浦々ヨリ出スニ、イロハノ印ヲナシテ今ニ至リテ毎年修理ヲ加フ」と記し、次のようにある。

所謂いノ印二艘泥原新保浦、ろ一艘和布浦、は一艘蓑浦・松蔭浦、に一艘長橋浦、ほ一艘菅生浦・鮎川浦、へ二艘大丹生浦・小丹生浦、と一艘大味浦、ち三艘蒲生浦・茱崎浦、り一艘居倉浦、ぬ半艘左右浦、る一艘半玉川浦、を三艘海浦、わ二艘宿浦、か二艘新保浦、よ一艘小樟浦、た一艘大樟浦、れ二艘道口浦、そ一艘厨浦・茂原浦、つ一艘高佐浦、ね一艘米浦、な一艘糠浦、ら一艘甲楽城浦、む一艘今泉浦、う一艘河野浦、ゐ一艘池ノ平浦、の二艘大谷浦、お三艘三国浦・宿浦、く一艘米ケ脇浦、や一艘安島浦、ま一艘崎浦、け一艘梶浦、ふ一艘浜地浦、こ一艘波松浦、え二艘北方浦、て一艘半浜坂浦、あ一艘半吉崎浦、以上四十八艘、藤縄ハ国中在々ヨリ出シ丸岡領ハ代物ニテ出ス。鋪板百十組、行桁八十六間、長板三十六間但長三間、亘一尺五寸、厚四寸福井領ヨリ出ス。大水ニテ橋流レタル時、他領ニテ留レバ舟一艘ニ鳥目二百文、鋪板一組ニ百文、行桁一本ニ五十文ヅツ、福井領ハ舟一艘ニ人足二人、鋪板一組ニ人足一人、行桁一本ニ人足半人ヅツ下サルル定ナリ>とある。

23-1)「大茂内村(おもない・むら)」・・現乙部町のうち。近世から明治初年の村。小茂内(こもない)村の北、突符(とつぷ)川流域に位置する。『松前島郷帳』には「大もないむら」、『天保郷帳』には「大茂内村」とある。『渡島日誌』には、「大茂内村、突符村分、八十八軒。文化度四十五軒。従小茂内三丁五間。産物同前。鎮守熊野社並て天満宮、傍に清順庵と云道場有」とある。「松前随商録」には「ヲウモナイ」として「運上場、小名トツフ・ヲカシナイ・ミツヤ・川シラ」とあり、突符(とつぷ)村・三谷(みつや)村・蚊柱(かばしら)村などをも含んでいたようである。旗本領であったため、天明年間(1781~89)に松前藩領の小茂内村と村境相論が発生。文化5年(1808)には本村の宮歌村の定住者と当村への出稼者との間で税負担をめぐり争論が起きている。

23-3)「桑林」・・影印の「桒」は「桑」の異体字(俗字)。

23-4)「往来は船に而往来せしか(が)」・・最初の「往来」は、「往古」で、「往古は船に而往来せしか(が)」か。

23-5)「如斯(かくのごとく)」・・「如斯」と返読する。「如」のくずしは「め」「そ」「ち」のように、極端にくずれる場合がある。下は『くずし字辞典』より

24-1)「三谷村(みつや・むら)」・・現乙部町三ツ谷(みつや)。町の北部。西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「清水川越て三ツ谷村、人家六十二軒。文化度は三十五軒也と。産物鯡、鱈、烏賊、鮑、海参、昆布、海苔、雑漁多しと。浜形酉向、西に宮歌岬。左りヲカシナイ岬、其間一湾をなしたり。」とある。

24-2)「瓦崎」・・影印は「瓦」に近い。「シビノウタ」か。『渡島日誌』には、「シビノウタ、小川、人家有、従是本道は九折を上りて野に出る。此処に境目、岡道有。傍にスボの社、所祭諏訪社也。是諏訪の訛かと思はる。」とある。また、『罕有日記』には、「シビ崎、スワ崎ともいう。」としている。

24-2)「ゑワ崎」・・武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』に「イワサキ」が見える。

24-4)「蚊野村」・・「蚊柱村(かばしら・むら)」か。現乙部町のうち。『松前島郷帳』には「かはじら村」、『天保郷帳』には「蚊柱村」とある。『渡島日誌』には、「蚊柱村、人家八十一軒。文化度五十四軒。従三谷村三十一丁廿間。浜形戌向。上は崖、浜には磯多く、其間に小船懸るに宜し。産物前に同じ。」とある。

24-5.6)「相沼内(あいぬまない)」・・現八雲町熊石相沼町。町の南部。南境を相沼内川が流れ、南西は日本海に面する。『天保郷帳』には「相沼内村」とある。『渡島日誌』には、「相沼内村、人家百六十二軒。文化度百八軒。従蚊柱村一里三丁。~中略~。名義は蕁麻多沢(アイウシナイ)との儀なり。*蕁麻=いらくさ・からむし」、「浜形酉向、左ヲリト岬、右黒岩岬の間一湾となりて砂利場。処々暗礁有て小船懸り宜し。土産蚊柱に同じ。」とある。

25-3)「泊り川村(とまりかわ・むら)」・・現八雲町熊石泊川町。『松前島郷帳』、『天保郷帳』ともに、「泊川村」とある。旧熊石町の南部。北東は旧八雲町に接し、南西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「泊川村、人家二百六軒。文化度八十六軒。従相沼内七丁五十六間。浜形相沼内に同じく、土産も同じ。」とある。

25-3)「境権現(さかいごんげん)」・・『渡島日誌』には、「是立岩権現とも、また境権現とも云」とある。

25-4)「水かれて」・・「可」は「か」、「連」は「れ」。「水涸れて」の意。

25-5)「うかち」・・「宇」は「う」、「可」は「か」、「知」は「ち」。「穿(うが)つ」の連用形。

261.2)「幅四十間の河」・・見市川(けんにちがわ)。「渡島日誌」には、「見日川、川巾二十余間、急流、石川なり。雪融頃は時々怪我人有。此辺りえは渡し船を備置度事也」とある。

26-2)「熊野村」・・「熊石村」か。現八雲町熊石。昭和387月版の『北海道市町村行政区画便覧』の熊石町の「開基及び沿革」にいると、「アイヌ語「クマウシ」(魚乾竿のある所)より転訛したものである。遠く宝徳年間(1449~1452)より和人が居住していたが、寛保元年(1741)の大海嘯のため全村が全滅し、延享元年(1744)に佐野権次郎江差より移住してより再び移住者を見るようになった。享禄2(1529)本村を雲石と称したが、元禄5(1692)5月熊石村と改称された。」とある。『蝦夷日記』には、「熊石村泊、松前より三十二里、家数五十七軒、人数二百拾六人。当所は蝦夷地の境なり。クドウ場所迄海上五、六里。風待にて二日逗留。」とある。

      『渡島日誌』には、「熊石村役所、従泊り川村二里十丁五十間。従江指御役所下川々除き九里二十七丁二十三間。従松前沖ノ口役所二十六里二十丁四十間。人家三百二十六軒、文化度百九十一軒。元はクマウシと云し也。訳して鯡棚多し(クマウシ)の儀。鯡棚一面に架れば如此号し也。」とある。

      また、『角川日本地名大辞典』によれば、「江戸期の熊石村の町域には、元禄13年の『松前島郷帳』には、あいの間内村、泊川村、見日村、くま石村、ほろむい村。『天保郷帳』には、相沼内村、泊川村、熊石村がみえる。文化年間(1804~18)の記録によると、地内には相沼内、泊川村、見日村、熊石村、関内村の5集落がある。」としている。

      この外、熊石地内から、縄文期の大洞式の注口土器とともに、頭、手、胸、下腹部に白色メノウ(瑪瑙)5個を挿入した土偶が出土しており、国内では例がなく「メノウ入り土偶」と呼ばれ、東京国立博物館に所蔵されている。

26-5)「突兀(とっこつ・とつこつ)」・・山や岩などの険しくそびえているさま。

26-6)「そひへたる」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「多」は「た」。「聳えたる」

26-6)「雲石」・・『渡島日誌』には、「雲石、沖中二丁に有。と云石有。」と「石」にしている。なお、奇岩「雲石」は、現八雲町熊石雲石(うんせき)町内に所在する。

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

drecom_moriyuzi

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ